第1コリント第8章
分類
6 偶像に関する諸問題
8:1 - 11:1
6-1 智識と愛
8:1 - 8:13
註解: 当時の世界一般、従てコリントも勿論、偶像崇拝が其の社会の主要の行事であつた。市民は犠牲を神殿に献げ、其の献物の一部は祭司の有に帰し、他の一部は市民に返された。其の市民は之を家に持帰り神殿に献げし肉として殊に之を貴び親戚
故旧 を招きて宴を開いた。貧しき市民は其の肉の一部を市場に売り、祭司も亦其の有に帰せる肉を市場に払下げた、従つて市場にも偶像に献げられし肉が売られていた。かかる社会の中に生活する基督者は或は招かれてかかる肉の饗応に与る事もあり、又は市場に於てかかる肉を買う事もあつた。従て基督者の中にはかかる饗応に与る事の可否、又はかかる肉を食う事の可否に就て種々の意見を生ずるに至つた。パウロは之に対し福音の根本精神に立ちて之に解決を与えたのである。
8章1節
口語訳 | 偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。 |
塚本訳 | また、(あなた達が書いている)偶像に供えた肉(を食べることの善し悪し)については、(なるほど)「わたし達は皆知識を持っている」ことを、わたし達は知っている。(しかし)知識は(人を)得意にするが、愛は(人を)高める。 |
前田訳 | 偶像への供え物については、「われらがみな知識をもっている」ことを知っています。しかし知識は誇らせ、愛は建設します。 |
新共同 | 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 |
NIV | Now about food sacrificed to idols: We know that we all possess knowledge. Knowledge puffs up, but love builds up. |
註解: (▲口語訳「答えると」は適訳。)パウロ及びソステネ、のみならず此の書簡の読者なるコリントの信徒も皆知識を持つている筈である。其の知識の内容は4、5、6節に示す如くである。パウロは茲に愛なき知識の戒むべきものなる事を感じ、殊に知識に誇れるコリント人に次の二節余を挿入して訓戒し、此の問題に対する大前提を示している。
8章2節 もし
口語訳 | もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。 |
塚本訳 | もしある人が(愛がなくて)何か知っていると思うならば、彼は知らねばならぬようにはまだ知っていないのである。 |
前田訳 | もし人が何かを知ると思うなら、知るべきことをもまだ知っていません。 |
新共同 | 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 |
NIV | The man who thinks he knows something does not yet know as he ought to know. |
註解: たとい知識があつても愛無き場合に於ては此の知識は有害である。何となれば之は其人に誇を持たしむるに過ぎずして他人に益を与えないからである。故に自ら此の問題に関して知識ありと自任して満足している者は、知らなければならない最も重要な事柄(即ち愛が無ければならぬ事)を知らない者である。故にある意味に於て最大の無智者である。
辞解
[徳を建つ] 原語は家を建て上げる意味であつて、霊的進歩を与える事。
8章3節 されど
口語訳 | しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。 |
塚本訳 | しかしもしある人が(愛があって)神を愛するならば、その人は(神を知っているのである。いや、)神に知られ(、選ばれ)ているのである。(まことの知識は神を愛する者に神から与えられる。) |
前田訳 | しかし、もし人が神を愛するなら、神に知られています。 |
新共同 | しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。 |
NIV | But the man who loves God is known by God. |
註解: 「人もし神を愛せばその人神を知るなり」と言うべきに「神に知られたるなり」と云える点にパウロの深き慮 がある。蓋し神は己を愛するものを特に知り給い、その知り給う者、即ち己を愛する者に御自身を示し、其の奥義をも啓示し給う。故に当然の結果其人は神を知るに至り、且つ神の御旨の深き処をも示されるに至るのである。故に偶像の供物についても人もし神を愛し、又人を愛するならば神は我らに取るべき道を示し、真の智慧を与え給う(ガラ4:9も同様である)。故に神を愛する事は信仰生活の要諦 である。
8章4節
口語訳 | さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。 |
塚本訳 | それで、偶像に供えた肉を食べること(の善し悪し)については、(問題は明らかである。)「世にいかなる偶像もなく、また、ただ一人のほかにいかなる神もない」ことを、わたし達は知っている。 |
前田訳 | それで、偶像への供え物を食べることについては、われらは偶像が世の中に存在しないものであり、唯一の神のほかに神はないことを知っています。 |
新共同 | そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 |
NIV | So then, about eating food sacrificed to idols: We know that an idol is nothing at all in the world and that there is no God but one. |
註解: 世人の信ずる如き性質を持てる偶像は存在しない、彼らは唯木片、石片に過ぎない事を基督者は知つている(イザ44章参照)。故にその供物も普通の肉たる性質を変じない。是が即ち信者の知識である。
辞解
[偶像の世になき者なる事] 又「世にありて偶像は何物にもあらざる事」とも訳する事が出来る。事実として偶像が存在する以上、後者を以つて一層の適訳とすべきであろう。但し意味には変化は無い。
8章5節
口語訳 | というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、 |
塚本訳 | なぜなら、たとい天にも地にもいわゆる神々があるとしても、──そして実際多くの神と多くの主とがあるけれども── |
前田訳 | それは、たとえ天にであれ地にであれ、神々といわれるものがあっても、そして実際多くの神々や多くの主があっても、 |
新共同 | 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、 |
NIV | For even if there are so-called gods, whether in heaven or on earth (as indeed there are many "gods" and many "lords"), |
註解: ギリシア人は日本人と同じく天地、山川林野に夫々神々のある事を信じていた。
8章6節
口語訳 | わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。 |
塚本訳 | 少なくともわたし達(信ずる者)には、ただ一人の父なる神があり、一切のものはこのお方から出て、わたし達もこのお方に帰する。またただ一人の主イエス・キリストがあり、一切のものはこの方によってでき、わたし達もこの方によるのである。(従ってまことの神でない偶像に供えた肉はただの肉で、これを食べることは信仰と無関係である。) |
前田訳 | われらには父なる唯一の神がいまし、彼からすべてが出、われらは彼のためにあり、また唯一の主イエス・キリストがいまし、すべてが彼によって存在し、われらも彼によって存在します。 |
新共同 | わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。 |
NIV | yet for us there is but one God, the Father, from whom all things came and for whom we live; and there is but one Lord, Jesus Christ, through whom all things came and through whom we live. |
註解: 基督者の信仰によれば万物は「神より出で」(創1:1)「キリストに由りて」創造 られ(ヨハ1:3。コロ1:16) 「我ら」はキリストに由りて「新生を獲得したもの」であり、「我ら」即ちキリストの教会も其の終局は「神に献げらるべきもの」である(黙21:26)。故に我らには宇宙万物の創造主なる神とキリストより外に神は一つも存在しないと云うのが我らの有つている知識である。
8章7節 されど
口語訳 | しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。 |
塚本訳 | しかしながら、(キリストを信ずる)すべての人にこの知識があるのではない。中には(異教から信仰に入り、)偶像に対する今までの習慣によって、偶像に供えた肉としてこれを食べるので、弱い良心が汚される人たちがある。 |
前田訳 | しかしすべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今までの偶像の習慣によって偶像への供え物としてそれを食べ、彼らの弱い良心が汚されます。 |
新共同 | しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。 |
NIV | But not everyone knows this. Some people are still so accustomed to idols that when they eat such food they think of it as having been sacrificed to an idol, and since their conscience is weak, it is defiled. |
註解: 6節までの事は明瞭である様ではあるが中には此の点を充分に知つて居ない基督者もあつたらしい。故に或人は偶像にささげし食物に何等か特別の霊力が附加されるかの如くに思い、良心に恥ぢつつも之を食するの習慣を脱する事が出来なかつた。故に其の人の良心に偶像を拝したる如き意識生じて汚を受ける事となる。
8章8節
口語訳 | 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。 |
塚本訳 | 食べ物はわたし達を神に近づけるものではない。食べずとも損はなく、食べても得はない。 |
前田訳 | 食物はわれらを神に近づけません。われらは食べなくてもおくれをとらず、食べてもすぐれるのではありません。 |
新共同 | わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。 |
NIV | But food does not bring us near to God; we are no worse if we do not eat, and no better if we do. |
註解: 神の前に立ち得る資格を与えるものは食物の如何では無い、食するも食せざるも同様である。
辞解
[食するも益なく云々] 之を文字通りに解すれば、食する事に反対なる立場の人々を弁護し、食する事の自由を唱うる人々を非難するが如くに解せられ従て次節の「然れど」を「然れば」と訳する必要を生じ、又実際かく解し、かく訳する人がある。併し此の句はかく解すべきではなく、寧ろ「食するも食せざるも同じ事である」との意味即ち「食するも益なく食せざるも益なし」と同義に取るべきである。かくして基督者は此の点に関し完全なる自由を有つ事を示している。
8章9節 されど
口語訳 | しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。 |
塚本訳 | しかし気をつけよ、(強い)あなた達のその自由が、弱い人たちにつまずきにでもなることがないように。 |
前田訳 | あなた方の特権が弱い人々の落とし穴にならないよう気をつけてください。 |
新共同 | ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 |
NIV | Be careful, however, that the exercise of your freedom does not become a stumbling block to the weak. |
註解: 「愛は徳を全うするなり」(コロ3:14)。自由すら愛なしには罪を犯すに至らしむる事がある(ガラ5:13。Tペテ2:16)。弱き者を躓かする如きは罪の最も深きものである(マタ18:6)。
8章10節
口語訳 | なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。 |
塚本訳 | なぜなら、あなたが知識を持っているため、偶像のお宮で食事の席について(供え物の肉を食べて)いるのを、(知識を持たない)ある人が見たとすると、その人は弱いのに、その良心が(はたしてあなた達がいうように「強め」られるであろうか。いや全く)「強め」られて、偶像に供えた肉を(御利益でもあるように思って)食べる、ということにならないであろうか。 |
前田訳 | もしだれかが、知識のあるあなたが偶像の宮で食卓についているのを見ると、その弱い人の良心が強められて偶像への供え物を食べないでしょうか。 |
新共同 | 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。 |
NIV | For if anyone with a weak conscience sees you who have this knowledge eating in an idol's temple, won't he be emboldened to eat what has been sacrificed to idols? |
註解: 強き者は愛を以て弱き者の徳を建つべきである。然るに汝等の中強き者が偶像の無きものなるを知りて偶像の宮に於て普通の場所に於て食すると同一の心を以て食事する場合に、弱き人は之を見て彼すら偶像の献物を食する以上自分も之を食しても差支が無いであろうと考うる事は有り得るのであつて、此の後者偶像を有るものと認めつつ之を食するが故に神を離れて偶像崇拝に陥つたのである。
辞解
[そそのかされ] 訳せられし原語は1節の「徳を建つ」と同語であつて、茲には稍 皮肉に用いられ「愛を以て徳を建つべき処を、知識を以て飛んでもない徳を建つることになるではないか」との語気を含んでいる。
8章11節 さらばキリストの
口語訳 | するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。 |
塚本訳 | そんなことになると、弱い人、一人の兄弟があなたの知識に禍されて滅びるのである。キリストはその人のためにも死なれたのである。 |
前田訳 | その弱い人はあなたの知識によって滅びます。それは兄弟で、キリストはその人のために死にたもうたのです。 |
新共同 | そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。 |
NIV | So this weak brother, for whom Christ died, is destroyed by your knowledge. |
註解: 信者は如何に弱き者と雖も、否弱き者であればある程、キリストが彼のために十字架上に死に彼を贖つて神の子たらしめ給うたのである。一人として神の御心に貴重なる宝でないものはない。「汝らは元来之を一人の弱き兄弟として之を助け之を安全ならしめる責任があるではないか、然るに汝の知識のためにかかる者の心に偶像を拝する心を起させ、かれとキリストとの間に障害を置き遂に彼を亡びに至らしむる事は大なる罪である」と。
8章12節
口語訳 | このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。 |
塚本訳 | このようにあなた達が兄弟に対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、(取りも直さず)キリストに対して罪を犯すのである。 |
前田訳 | このようにあなた方は兄弟たちに罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけて、キリストに罪を犯しています。 |
新共同 | このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 |
NIV | When you sin against your brothers in this way and wound their weak conscience, you sin against Christ. |
註解: 「汝らは自らは知識に従つて行動しているのであるけれども此の行動を以て弱き者の良心を傷める事は、同時にキリストの御心を傷めまつる事であつて、其人に対する罪たるのみならずキリストに対する罪、即ち最も重い罪である」。愛なき信仰が恐るべき罪に陥るのは是が為である。
8章13節 この
口語訳 | だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。 |
塚本訳 | それゆえに、食べ物がわたしの兄弟を罪にいざなうなら、わたしは兄弟を罪にいざなわないために、永遠に断じて肉を食べない。 |
前田訳 | それゆえ、もし食物がわが兄弟をつまずかせるならば、わたしはこれから永遠に肉を食べません。それはわが兄弟をつまずかせないためです。 |
新共同 | それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。 |
NIV | Therefore, if what I eat causes my brother to fall into sin, I will never eat meat again, so that I will not cause him to fall. |
註解: パウロの心を常に支配しているものは愛であつて神学的知識では無かつた。彼は知識に於て人に優れていたにも関わらず、愛なしに之を用いる事をしなかつたのみならず、愛のためには知識に従つて行動する事即ち偶像にささげし肉を食う事さへも之を控えた。理論に叶つている事、神学的組織に一致している事のみが必ずしも善ではない、否愛なしには是等は罪となるのである。故にパウロは基督教神学の組織者と称せられる程迄に知識に富んで居り乍ら尚おTコリ13章の愛の讃美の言を発し、又自ら此の愛を実行したのである。茲に「我は何時迄も肉を食わじ」と云いて「汝ら肉を食う事勿れ」と云わなかつた事に注意しなければならぬ。愛は外部より強制せられ得べき律法ではない。
要義 [パウロの偶像問題に対する態度]本章に於てはパウロは唯序論として知識は愛なしに罪に陥る事、弱き兄弟を躓かせる事が最大の罪であり殊にキリストに対する罪である事を論じ、次章に於て自己の行動を実例として愛による犠牲の如何を示し、第10章に偶像に関する注意の詳細を論じている、尚ロマ14章をも参照することが必要である。要するに此の章に表われしパウロの態度は、啻 に此の問題のみならず、其の他の多くの実際問題の信仰的解決の指針となるのであって、殊に信者と未信者とが相混じ、信者の中に知識ある強き信者と然らざるものらが相混じている場合に於ては、愛を以て其の解決の中心とするパウロの態度は最も貴い態度である事を思うのである。若しもかかる場合に於て単に一定の規律を与え(例えば羅馬教が日本の神社に対する態度の如く)信徒をして律法的に之に従わしめる場合に於ては、信者のあるものの良心が之によりて傷けられる場合が必ず起るのである。若しパウロも此の場合に於て、偶像に献げし肉は之を「食うべし」若しくは「食うべからず」なる外部的律法を与うるに過ぎなかったならば、一見明瞭なる帰着点を示し信者に取って従い易きが如くであるけれども、かくする事によって最も尊き愛の行為は失せ去って、唯冷き律法のみが残るのである、若しかくの如き状態に至るならぼ、キリストの福音は亡びてしまうであろう。故に本章に於けるパウロの解決は不得要領なるが如くにして、而も最も要領を得たる解決であり、我らは此の解決を他の凡ての問題にも応用することが出来、又応用しなければならない。此の一章が初代基督教に起った問題であるにも関わらず今日尚新鮮さを失わない所以は茲にあるのである。
第1コリント第9章
6-2 パウロの実例
9:1 - 9:27
6-2-イ 使徒としてのパウロの自由
9:1 - 9:7
註解: 強き信者、知識ある信者の有つ自由は責重な賜物である、併し愛なしに之を用いる事は罪である事を前章に論じた。其の論鋒が益々進んでパウロは
暫 く偶像の問題を離れて、彼自身その自由を如何に使用せしかを例示してコリント信者を戒めているのが本章である。
9章1節
口語訳 | わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。 |
塚本訳 | わたしは(すべての律法から釈放されて)自由ではないか。わたしは(とくに神に選ばれた)使徒ではないか。(このことを疑う者があるようだが、)わたしはわたし達の主、(復活の)イエスにお目にかかったではないか。あなた達は主におけるわたしの作品ではないか。 |
前田訳 | わたしは自由人ではありませんか。わたしは使徒ではありませんか。われらの主イエスを見たではありませんか。あなた方は主にあるわがわざではありませんか。 |
新共同 | わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。 |
NIV | Am I not free? Am I not an apostle? Have I not seen Jesus our Lord? Are you not the result of my work in the Lord? |
註解: パウロは主に在る愛の為めに自己の資格と其の功績とに比して如何程自己の自由を犠牲にしているかを考えんが為に茲に熱情を以て四つの点より先づ自己の立場と権利とをコリント人に示している。
辞解
[自主の者] 「自由の身」であつて奴隷に対立している。但し此の場合は基督者としてユダヤの律法、偶像に献げし肉等によつて何等の束縛をも受けず、それらのもの以上に立つている事。
[使徒] 基督者であるのみならず、更にキリストに遣わされし使徒である。
[主イエスを見しにあらずや] ダマスコ途上に於ける彼の実験であつて、彼は彼の使徒たる事を否定せんとする者に対し(Uコリ12:11-18)此の経験を以て使徒職の証拠とした。
[主に在りて我が業] 以上の証明の外にパウロは其の教会建設の事業を指して自己の使徒たる事の証とした、而も「主にある」業であつて、若し使徒でなかつたならば主はかく彼の業を恵み給わなかつたであろう。
9章2節 われ
口語訳 | わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。 |
塚本訳 | ほかの人たちには使徒でなくても、少なくともあなた達にはそうである。なぜなら、あなた達は主にあってわたしの使徒職を証明する印鑑であるから。 |
前田訳 | たとえ他の人々には使徒でなくても、あなた方にはそうです。あなた方は主にあって、わが使徒性の太鼓判です。 |
新共同 | 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。 |
NIV | Even though I may not be an apostle to others, surely I am to you! For you are the seal of my apostleship in the Lord. |
9章3節 われを
口語訳 | わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。 |
塚本訳 | ──これが、わたしを批判する人たちに対するわたしの答弁である。 |
前田訳 | わたしを裁く人々へのわが弁明は次のようです。 |
新共同 | わたしを批判する人たちには、こう弁明します。 |
NIV | This is my defense to those who sit in judgment on me. |
註解: コリントの信者中に彼の使徒たる事を否定せんとする者あるに対し、パウロはコリント教会がパウロの伝道の結果、主に在りて存在している事実を捉え「少くとも汝らには使徒たるの証拠である」として弁明している。
辞解
[斯 のごとし] 第2節に関連し、第4節は更に第1節の議論の細目に入つている。
口語訳 | わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。 |
塚本訳 | わたし達には(集会の費用で)食べたり飲んだりする権利がないというのか。 |
前田訳 | われらには食べまた飲む権利がないのですか。 |
新共同 | わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。 |
NIV | Don't we have the right to food and drink? |
9章5節
口語訳 | わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。 |
塚本訳 | わたし達には他の使徒たちや、主の御兄弟たちやケパのように、姉妹を妻として連れてまわる権利がないというのか。 |
前田訳 | わたしには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、姉妹である妻を連れ歩く権利がないのですか。 |
新共同 | わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。 |
NIV | Don't we have the right to take a believing wife along with us, as do the other apostles and the Lord's brothers and Cephas ? |
9章6節 ただ
口語訳 | それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。 |
塚本訳 | それとも、わたしとバルナバとだけには、(生活のための)仕事をしない権利はないのか。 |
前田訳 | わたしとバルナバとだけに、働かないでいる権利がないのですか。 |
新共同 | あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。 |
NIV | Or is it only I and Barnabas who must work for a living? |
註解: 使徒である以上、教会の費用を以て生活し、妻を伴い、又自分の得た労働の賃銀を以て生活せず教会をして自己を養わしむる権がある。
辞解
[我ら] パウロ、ソステネ、バルナバ等。
[飲食する権] 教会の費用によりて衣食する事。前章又はロマ14章の飲食の自由について云うのでは無い。
[主の兄弟] マリヤの終生童貞説を唱うる旧教教会の主張に反対の根拠となる。
[姉妹たる妻] 信者としては姉妹に当る。
9章7節
口語訳 | いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。 |
塚本訳 | いったい手弁当で軍務に服する者があるのか。葡萄畑をつくっておいてその実を食べない者があるのか。また、群れを養っておいてその群れの乳を飲まない者があるのか。 |
前田訳 | だれが自分の費用で兵士になりますか。だれがぶどう園を作ってその実を食べないでしょうか。また、だれが羊の群れを飼ってその群れの乳をとらないでしょうか。 |
新共同 | そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 |
NIV | Who serves as a soldier at his own expense? Who plants a vineyard and does not eat of its grapes? Who tends a flock and does not drink of the milk? |
註解: 軍隊、畑、牧群は屡々 神の民イスラエルの例として用いられるのみならず、是等は何人も目撃している日常の社会現象であつた。パウロは是等を巧に利用して使徒職の権利を説明している。即ち兵卒、農夫、牧者に比すべき使徒は、自己の財によらずして生活するの権がある。
9章8節
口語訳 | わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。 |
塚本訳 | わたしは(ただ)人間的にこれを主張するのであろうか。それとも、律法も同じことを言ってはいないのか。 |
前田訳 | わたしがこういうのは、人間的なのでしょうか。律法も同じことをいうではありませんか。 |
新共同 | わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。 |
NIV | Do I say this merely from a human point of view? Doesn't the Law say the same thing? |
註解: 旧約聖書の律法を引用して更に其の論を支持している。聖書は常に最上の権威である。
9章9節 モーセの
口語訳 | すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。 |
塚本訳 | モーセ律法に“脱穀する牛に口篭をはめてはならない”と書いてあるではないか。これは神が牛のためを考えられるのであろうか。 |
前田訳 | まさしくモーセの律法に、「穀物を砕く牛にくつこをかけるな」と書かれています。神は牛のことをご心配ですか。 |
新共同 | モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。 |
NIV | For it is written in the Law of Moses: "Do not muzzle an ox while it is treading out the grain." Is it about oxen that God is concerned? |
9章10節 また
口語訳 | それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。 |
塚本訳 | それとも、あくまでわたし達のために言われるのか。そうだたしかにわたし達のために、耕す者は(収穫を得る)望みがあって耕し、脱穀する者はそれにあずかる望みがあって脱穀するのでなければならない、と書いてあるのだ。 |
前田訳 | それとも、ひたすらわれらのためにこう仰せですか。たしかにわれらのためにこう書かれているのです。それは、耕すものは望みをもって耕し、穀物を砕くものは分け前への望みをもつべきだからです。 |
新共同 | それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。 |
NIV | Surely he says this for us, doesn't he? Yes, this was written for us, because when the plowman plows and the thresher threshes, they ought to do so in the hope of sharing in the harvest. |
註解: 申25:4の此の聖句は神が牛の飼主に如何に牛を取扱うべきかを教え給うたのであつて、一見牛のために慮 り給えるが如くに見えるけれども、牛は単に型に過ぎずして我ら即ち使徒、教師等のために録されているのである(一般の人のためではない)。即ち使徒、教師等によりて福音の財を与えられるものは、その果を使徒、教師等に献ぐべき事は当然であることを教え給うたのである。勿論神は牛を顧み給わないと云うのでは無い、神は造物主として一匹の牛をも疎 かにし給わない。唯此の律法の目的は使徒等の当然の権利を示さんが為めであつたのである。▲申25:4をパウロは此の様に理解したのであった。
それ
註解: 耕す者、穀物をこなす者と同様に、使徒、教師等も、彼らの働きの結果として之に伴う当然の報酬を受ける事を望むが至当である。
9章11節 もし
口語訳 | もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。 |
塚本訳 | わたし達が霊的なものをあなた達にまいた以上、あなた達から物質的なものを刈り取ったところで、大したことではないか。 |
前田訳 | われらがあなた方に霊のものをまいた以上、あなた方から肉のものを刈り取っても大ごとではないでしょう。 |
新共同 | わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。 |
NIV | If we have sown spiritual seed among you, is it too much if we reap a material harvest from you? |
註解: パウロ、シルバノ、テモテ等はコリントに霊の種を蒔いたのであるから、播かれた霊の物に比して劣つている肉の物を信者から刈り取ることは大事(過分の意味)では無い、当然の事である。故に之を反対の方面より見ればコリントの信者は之をパウロ等に献ぐるが当然である。
9章12節 もし
口語訳 | もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。 |
塚本訳 | (なんの関係もない)ほかの人たちがあなた達を支配する権利にあずかっている以上、(生みの親である)わたし達はなおさらではないのか。しかしわたし達はこの権利を用いず、救世主の福音に少しの妨げも与えることのないようにと、すべてのことを我慢している。 |
前田訳 | もし他の人たちがあなた方に対するこの権利にあずかるならば、われらはなおさらではありませんか。しかるにわれらはこの権利を用いず、かえってすべてを忍んでいます。それはキリストの福音に少しも妨げを与えないためです。 |
新共同 | 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。 |
NIV | If others have this right of support from you, shouldn't we have it all the more? But we did not use this right. On the contrary, we put up with anything rather than hinder the gospel of Christ. |
註解: パウロの後にコリントに来た教師は此の権を用いた、他の人と云うは必ずしもUコリ11:20等の如き偽教師をのみ指したのではない。
註解: 茲にパウロが自己の使命を如何に重じていたか、そして如何にもして弱き信者を躓かせない様にしようかと苦心したかが顕われている。彼らは是がためには其の当然の権利をすら放棄し、種々の困難(Uコリ11:23以下)の上に更に自ら労働して生活するの苦労をも忍んでいた。是れ当時のギリシヤの哲学者、雄弁家の如くに自己の衣食や貪欲のために、福音を伝えているのであると誤解せられて、之が福音伝播の妨げとなる事を憂えたのである。
9章13節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。 |
塚本訳 | お宮で聖なる務めを行なう者はお宮のものを食べ、祭壇に奉仕する者は祭壇のものの分け前をいただくことを、あなた達は知らないのか。 |
前田訳 | ご存じありませんか、宮仕えするものは宮のものを食べ、祭壇に仕えるものは祭壇のものの分け前にあずかることを。 |
新共同 | あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。 |
NIV | Don't you know that those who work in the temple get their food from the temple, and those who serve at the altar share in what is offered on the altar? |
註解: 旧約の律法によりレビ及び其の一族は宮のものによりて生活し、祭司は祭壇にささげられしものを以て生活した。
辞解
[▲聖なる事] 「宮の事」で口語訳の「宮仕えをする者」は適当な意訳である。
9章14節
口語訳 | それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。 |
塚本訳 | そのように主も、福音を伝える者は福音で生活するようにと定められたのである。 |
前田訳 | そのように、主も福音をのべ伝えるものは福音によって生活すべきことをお命じでした。 |
新共同 | 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。 |
NIV | In the same way, the Lord has commanded that those who preach the gospel should receive their living from the gospel. |
註解: パウロは茲に更に主イエスの御言を引用して、その権のいよいよ確実なるものである事を保証している(マタ10:10。ルカ10:7等をパウロは使徒より言ひ伝えられて知つていた)。之によつて見ればキリストがその教会の中に福音宣伝を専門の職務とする人の存する事を認め、かかる人に対して信者は之を養う義務ある事を定め給うたのである。かかる人は福音のために活きている故に福音によりて其の生活を支えるのが当然である。「然るに今日多くの人々は福音によりて生活しながら福音の為に生活しないのは悲しむべきである」(G1)
9章15節 されど
口語訳 | しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。 |
塚本訳 | しかしこのわたしは、それら(の特権)を何一つ用いたことがない。わたしがこのことを書いたのは、自分がそうしてもらいたいからではない。なぜなら、むしろわたしは死んだ方がよっぽど仕合わせだ、もし‥‥(いや)この、わたしの誇り、(びた一文厄介をかけずに福音を伝えるというこの誇り)を、だれも無にしてくれるな! |
前田訳 | しかしわたしはそれらの権利のひとつも用いませんでした。わたしがお書きするのはそうしてもらいたいからではありません。わたしはそれよりも死んた方がましです。だれもわが誇りを無にしないでください。 |
新共同 | しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。 |
NIV | But I have not used any of these rights. And I am not writing this in the hope that you will do such things for me. I would rather die than have anyone deprive me of this boast. |
註解: 茲にパウロは「我ら」より「我」に転じて彼の一個の確信と態度とを示している。彼は以上に述べし如き伝道者としての権利を全く放棄した、此の点に於て自己の知識のために弱き信者の躓くをも顧みずその自由を放棄しなかつたコリント信者は恥づべきである。又かく書き送る目的は心の中にコリント信者より生活を支えられん事を希望するからではない。否、寧ろパウロは此の誇を自己の生命を以て守らんとした。何となれば値なしに福音を宜伝えていると云う誇のみが彼に取つて生命よりも尊き報であつたからである。パウロは此の自己犠牲を如何に満足に思つていたかはUコリ11:7-12。Uテサ3:8、9等より之を窺い知る事が出来る。斯の如く我らの犠牲、権利放棄も苦しい義務ではなく最も喜ばしき奉仕でなければならない
9章16節 われ
口語訳 | わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。 |
塚本訳 | なぜなら、たとい福音を伝えたところで、わたしの誇りにはならない。なぜなら、(神に)強要されているのだから。なぜなら、もし福音を伝えないならわたしは禍だからである。 |
前田訳 | なぜならば、たとえわたしが福音をのべ伝えても、それは誇りではありません。それはわたしに迫る必要です。福音をのべ伝えねばわたしはわざわいです。 |
新共同 | もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 |
NIV | Yet when I preach the gospel, I cannot boast, for I am compelled to preach. Woe to me if I do not preach the gospel! |
註解: パウロが福音を宣伝えているのは己の希望によるのでもなく、己の撰択によるのでもなく、又勿論己の道楽でもなかつた。ダマスコの途上、彼は主イエスに捕えられ、強てキリストの使徒とせられたのである(使9:1-9)。故に恰 も戦争の際に捕虜は止むを得ずに強て敵国の労役に服せしめられる如き意味に於てパウロは福音の宣伝者となつているのである、夫故にもし此の神の命に従わずして彼が福音を宣伝えないならば、禍なる哉神の審判は彼の上に下るであろう(使9:5)。
9章17節
口語訳 | 進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。 |
塚本訳 | なぜなら、わたしが自分から進んでこれをしているというのなら褒美もいただこうが、否応なしであってみれば、この職を(神に)託されているに過ぎないからである。 |
前田訳 | もしそれを進んでするなら報いがあります。しかし進んででなくても、わたしは務めをゆだねられています。 |
新共同 | 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 |
NIV | If I preach voluntarily, I have a reward; if not voluntarily, I am simply discharging the trust committed to me. |
註解: パウロは恰 も此の時代の家司(Tコリ4:2)の如く奴隷として其の職を遂行する義務があつた。之を喜んで行えば之に対して天国の報償があるけれども、たとい之を為す事を欲せずとも家司は其の務を行う義務があつた。
辞解
[務を委ねられたり] 原語「家司に任ぜられたり」
9章18節
口語訳 | それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。 |
塚本訳 | では、わたしの褒美とはいったい何であるか。それは、わたしが福音を伝えるとき、無報酬で福音を提供し、福音にあってもつわたしの権利を利用しないことである。 |
前田訳 | それならば、わが報いとは何ですか。それは福音を伝えるとき福音を無料で与え、福音についてのわが権利を用いないことです。 |
新共同 | では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。 |
NIV | What then is my reward? Just this: that in preaching the gospel I may offer it free of charge, and so not make use of my rights in preaching it. |
註解: パウロは福音の宣伝によりて何等報を受くるの望は有たない。彼は強いられて之を行つているからである。併し乍ら自分にも既にうけつつある報はある。それは神より与えられし当然の権を愛の故に放棄し、人々をして費 なしに福音に接せしむる事である。是が己の自由の意思より行つている唯一の奉仕であり、自分の心に満足を覚ゆる唯一の原因(報)である。かかる大切なる誇を如何で放棄する事が出来ようか。
要義 [パウロは此の権利放棄を功績と考えしや]パウロは茲に彼の自己放棄を以て恰 も一の功績なるが如くに誇っている様に見える、しかしながら彼は之を神の前に義とせられんが為めの功績として誇る心は更に無かった(ロマ4:2)。恰 もキリストが其の神の子に在し給ふ尊き資格を、愛のために放棄し給うたと同様にパウロも亦其の特権を愛のために放棄して之を用い尽さず、一人にても多く福音に入れんと労する処に彼の内心の満足があり、之が神の喜び給うことであるとの誇を有っていた(Uコリ1:13-14。ピリ2:16)のである。
9章19節 われ
口語訳 | わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 |
塚本訳 | それで、わたしはすべての人から(全く)自由であるが、(同時に、)自分をすべての人の奴隷にした。(キリストのために出来るだけ)多数の人を得るためである。 |
前田訳 | わたしはすべての人から自由ですが、自らをすべての人の奴隷にしました。多くの人をかちうるためにです。 |
新共同 | わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 |
NIV | Though I am free and belong to no man, I make myself a slave to everyone, to win as many as possible. |
註解: 前節のパウロの有てる権を用い尽さぬ事の実例である。即ちかく行わない場合よりも更に多くの人をキリストと神の国に入れんが為めに(得んために)彼は凡ての人の束縛の下に己を置き其の自由をすてた。
9章20節
口語訳 | ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 |
塚本訳 | ユダヤ人たちにはユダヤ人のようになった。ユダヤ人たちを得るためである。わたし自身は(モーセ)律法の下にいないのではあるが、律法の下にいる者たちには、律法の下にいる者のようになった。律法の下にいる者たちを得るためである。 |
前田訳 | そしてユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人をかちうるためです。律法の下にいる人々には、自らは律法の下にいませんが、律法の下にいる人のようになりました。律法の下にいる人々をかちうるためです。 |
新共同 | ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 |
NIV | To the Jews I became like a Jew, to win the Jews. To those under the law I became like one under the law (though I myself am not under the law), so as to win those under the law. |
註解: 「ユダヤ人」と「律法の下にある者」とは共にユダヤ人を意味しているけれども、パウロは前者を以て風俗習慣の方面を指し後者を以て律法の方面を指したのであろう。パウロはある意味に於て世界人であつたにも関わらずユダヤ人にはユダヤ人となり其の風俗習慣を守つていて、又彼は福音によりて律法より解き放たれていて、律法の行によりて義とせられんと望む者には激烈に反対していながら(ガラ5:2-4)自らは或はテモテに割礼を施し(使16:3)、ケンクレアに於て誓願の為めに剃髪し(使18:18)、又ヤコブらのすすめに従いエルサレムにて誓願ある四人の者にユダヤの律法の要求する潔めと剃髪の式を行いパウロに対するユダヤ人の誤解を解かんとした(使21:17-29)。是れ迫害を恐れるからでは無くユダヤ人を一人にても多く得んためである。
9章21節
口語訳 | 律法のない人には—わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが—律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 |
塚本訳 | わたしは神の律法を知らないのではなく、むしろキリストの律法に縛られているのではあるが、律法を知らない者たちには律法を知らない者のようになった。律法を知らない者たちを得るためである。 |
前田訳 | 律法のない人々には、わたしは神の律法がないのではなく、キリストの律法の中にいるのですが、律法のない人のようになりました。律法のない人々をかちうるためです。 |
新共同 | また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 |
NIV | To those not having the law I became like one not having the law (though I am not free from God's law but am under Christ's law), so as to win those not having the law. |
註解: 「律法なき者」は「異邦人」であつて彼らに対してはユダヤ人の律法を守る必要なき事を教え、又彼らを汚れし者とせずして自由に彼らと交わり、彼らの一人の如くになつた、勿論外部より強制する律法には束縛せられぬ者なれど心の中にキリストの律法(即ち霊の新しき律法(ロマ7:6。ロマ8:2)である、尚ヨハ13:34を見よ)が宿つていて、之に従つている点に於て異邦人と異り又ユダヤ人より非難される筈が無いとパウロは断つている。
辞解
[律法なき者] アノモス Anomos は神より律法を与えられない者との意であるけれども、時には不道徳、放蕩の生活を送つているものを称する。故に不道徳を認容する主義をアノミズムと称した。唯茲にパウロがアノモスの如くなれりと云つたのは不道徳になつたと云う意味でないこと勿論である。
9章22節
口語訳 | 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 |
塚本訳 | (信仰の)弱い者たちには弱くなった。弱い者たちを得るためである。わたしはこれらみんなのために、どんなものにでもなった。せめて幾人かだけでも救うためである。 |
前田訳 | 弱い人々には弱くなりました。弱い人々をかちうるためです。わたしはすべての人に、すべてのものになりました。いかにもして何人かを救うためです。 |
新共同 | 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 |
NIV | To the weak I became weak, to win the weak. I have become all things to all men so that by all possible means I might save some. |
註解: 「弱き者」は弱き基督者を意味している。パウロが前章に於てコリント人に教えんとする問題はかかる弱き者に就てであつた。以上によりユダヤ人、異邦人、基督者の三種を以て人類の凡てを表わし、最後に「凡ての人」と云いて此の全体を要約し19節に立帰つている。
9章23節 われ
口語訳 | 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 |
塚本訳 | わたしは福音のためには、どんなことでもする。福音(の恩恵)を共有する者になるためである。 |
前田訳 | わたしはすべてのことを福音のゆえにします。わたしも福音にあずかるものになるためです。 |
新共同 | 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 |
NIV | I do all this for the sake of the gospel, that I may share in its blessings. |
註解: パウロは福音の約束に凡ての信徒と共に与るがため唯福音を信ずるのみにても足らず、又福音を宣伝うるのみにても足らず、福音のためにあらゆる犠牲を忍ぶ事が必要であると考えた。然らざれば其の工 の神の褒賞を受けざらん事を恐れたのである。
要義 [パウロの犠性的行動]パウロの如き激越なる性格を有ち、ペテロの前にすら自己の主張を曲げなかった人が(ガラ2:5)ユダヤ人、異邦人、弱き基督者に各々それに相応せる態度を取った事は、非常なる智慧と愛心の結果であった。而してかかる態度を取る上に於てもパウロには自ら動かす事の出来ない原則があった、即ち(1)目的は一人にても多く福音に導きて之を救わんがため、又キリストの代りて死に給いし弱き信者を躓かせない為であり(2)動機は愛であってキリストの愛を以て凡ての人類を愛する心より来り(3)手段は自己の自由や権利を放棄して凡ての事を為す事であった。「ユダヤ人にはユダヤ人の如く異邦人には異邦人の如くになる」事は往々にして無節操なる妥協的精神の如くに解せられ、又かかる場合に利用せられるけれども、此の両者の間には極端の差異がある。後者の場合に於ては(1)目的は自己の利益又は安全を得んがためであり(2)動機は自我の愛であり(3)手段に於てのみ前者に類似しているに過ぎない。パウロは深き信仰の立場に基礎をおきキリストを礎石としていた結果、如何なる場合に自己の権利自由を放棄し如何なる場合に之を主張すべきかを明かに区別する事を知っていた、是信仰より来る真の知識であり知るべき事を知った人の態度である。此の自由と奴隷、厳格なる節操と臨機応変の行動、剛と柔、高き信仰と卑 き謙遜の巧なる調和を我らはパウロの偉大なる信仰に見る事が出来るのであって、我らも亦かかる生涯を送りたきものであると思う。
9章24節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。 |
塚本訳 | (だからあなた達も、競技場の闘士のように自制しなければならない。)競技場で走る者は皆走るけれども、たった一人が賞をもらうことを、あなた達は知らないのか。あなた達も、それを勝ち取るように走らなければならない。 |
前田訳 | ご存じありませんか、競技場で走る人々は、皆が走っても、賞を受けるのはひとりであることを。あなた方も賞を受けるよう走ってください。 |
新共同 | あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 |
NIV | Do you not know that in a race all the runners run, but only one gets the prize? Run in such a way as to get the prize. |
註解: 当時オリムピツクと同様の競技が二年毎にコリント市郊外に行われ、幅飛、円盤投、競走、拳闘、相撲の競技があり、全ギリシヤを熱狂せしめた。パウロも恐らく之を目撃したのであろう。巧に之を例として福音の競争に於ける勝利をすすめている。唯一人より外に褒美を得ないので彼らは非常に熱心に走る。我らも此の熱心に劣らざる熱心を以て走らなければならぬ。
辞解
[一人] とあるも勿論多くの信者の中に一人だけが救われると云うのでは無く、その熱心を例示したのである。
9章25節 すべて
口語訳 | しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。 |
塚本訳 | しかし競技する者は皆、何事にも自制する。ただ、あの人たちは朽ちはてる冠をもらうためであるが、わたし達は朽ちぬ冠のためである。 |
前田訳 | 競技をするものは皆すべてに自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにですが、われらは朽ちぬ冠のためにです。 |
新共同 | 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 |
NIV | Everyone who competes in the games goes into strict training. They do it to get a crown that will not last; but we do it to get a crown that will last forever. |
註解: 競技の十ヶ月前より選手は特別に克己 して競走に有害なるべき凡ての事を遠ざけた、我らも未来の朽ちぬ栄冠を得んが為めに現在の自由と権利とを自制して用いない事が必要である。此の点に於て此の世の競技者に劣つてはならない。
9章26節
口語訳 | そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。 |
塚本訳 | わたしはそれゆえに、目標があいまいでないように走る。空を打たないように拳闘をする。 |
前田訳 | それゆえ、わたしはあてどないような走りかたをしません。空を打つような拳闘をしません。 |
新共同 | だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 |
NIV | Therefore I do not run like a man running aimlessly; I do not fight like a man beating the air. |
9章27節 わが
口語訳 | すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。 |
塚本訳 | いや、自分の体を打ちたたいて征服する。人には(福音を)説きながら、自分では失格するようなことのないためである。 |
前田訳 | むしろわたしは体を打ちたたいて従わせます。それは他の人々にのべ伝えながら自ら不適格にならないためです。 |
新共同 | むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 |
NIV | No, I beat my body and make it my slave so that after I have preached to others, I myself will not be disqualified for the prize. |
註解: 目標なき競走、空を打つ拳闘、何れも拙 い仕方であつて到底勝つ見込がない。我らはたしかな目標を持ち、敵即ち自己の身体を打ちて之を奴隷の如くに自由に引き廻さなければならない、然らざれば自分が却て神の試験に合格せず褒賞に与る事が出来ない様な事になるであろう。
辞解
[目標なき] 不確実、不明瞭等の意を有つ語で茲では「フラフラで走る」形である。
[体を打つ] 茲に「肉を打つ」と云わなかつた理由は、肉は之を殺すべきもの体は之を聖霊の力に従わしむべきものであるから。
[打擲 き] ヒュポーピァゾー hupopiazo は打撃によりて斑点を生ぜしむる事。
[服従せしむ] ドウラゴーゴー doulagogo は奴隷となして引き廻す事、競技の敗者は勝者に従つて引廻された。
[棄てらる] アドキモス adokimos はドキモス(試験を通過する事、是とされる事、Uコリ13:5註。Tコリ11:19。Uコリ10:18。Uコリ13:7。等)の反対で試されて合格せず賞品に与る事が出来ない事を意味する。茲では信仰によりて救われる事の問題では無く、救われしものの報賞の問題(Tコリ3:14。Tコリ9:23)である。
要義 [基督者の努力修養に就て]基督者は信仰によりて義とせられ、律法の行為によらないとの思想を唯自己の安佚 にのみ利用せんとし、基督者には修養努力の必要が無いと思う人があるが、是ほど大きい誤は無い。勿論我らの救われるのは(天国に入れられるのは)修養努力によるのでは無く、唯信仰によるのである。併し乍ら救われし者の此の世に於ける工(わざ)は皆価値が異っているのであって、神の国に於て確実に褒賞に与る事が出来る処のものは、努力修養なしに之を為す事が出来ない。而して其の努力修養は定めなき途にさまよっている未信者の修養、空を打つが如き黙想家の努力等とは其の趣を異にし、神を目標として真直に馳せ、自己の身体を打ちて之を鍛錬し服従せしむるに在る。故に基督者は肉の欲する処を為す事を得ないのみならず(ガラ5:17)、自己の智識や自由や権利をも之を其のままに用うる事が出来ない。故に自己の身体を完全に御霊に服従せしむる修養努力が必要であって、茲に神の愛が注がれる事により勝利の栄冠を得べき行為を為す事を得るに至るのである。競技に於ける選手の例は此の意味に於てよく基督者の地上の歩みを示すものであって、パウロも其の晩年に自己の一生の努力を顧みて、此の事をテモテに書き送っている(Uテモ4:6-8)。