黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マルコ伝

マルコ伝第1章

分類
1 準備時代 1:1 - 1:20

1章1節 (かみ)()イエス・キリストの福音(ふくいん)(はじめ)[引照]

口語訳神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
塚本訳イエス・キリストの福音はこうして始まった。──
前田訳イエス・キリストの福音のはじめはこうである。
新共同神の子イエス・キリストの福音の初め。
NIVThe beginning of the gospel about Jesus Christ, the Son of God.
註解: 本書の表題かつ書き出しの意。▲ネストレ編ギリシャ語聖書にはこの「神の子」を欄外に移している。塚本訳はこれに由る。
辞解
「イエス」「キリスト」の意義につきてはマタ1:16辞解参照。共観福音書には、イエスとキリストとを共に用いる場合は稀である、本書においてはこの一回だけである。
[福音] euangelion は嘉信の意味でイエスの来り給へる事実を指す、これが人類の救いの音信であるから。後に転じてイエス伝の意味に用いられるに至った。
[始] (1)バプテスマのヨハネを指す(B1)と解するよりもまた(2)本書全体を指すとするよりもむしろ(3)「書き初め」の意味すなわち「これよりイエス・キリストの福音を書き初める」との意(E0)と解すべきであろう。従って(イ)本節と次節とを動詞(ên なりき)を補充して結合せしむる説、または(ロ)2、3節を括弧にいれて4節の動詞をもって本節に連結せんとする説、または(ハ)1−3節全部を後代の編者の追加と見る説等あれど(L2)、かく見る必要なし。
[神の子] 重要なる写本にこれを欠く、マルコは原則として事実を有りのままに記載する故、かかる神学的形容詞を用いなかったらしく、この方がマルコ伝の性質に合致し真に近い。

1-1 バプテスマのヨハネの事 1:2 - 1:8
(マタ3:1-12) (ルカ3:1-18) (ヨハ4:1-3) 

1章2節 預言者(よげんしゃ)イザヤの(ふみ)に『()よ、(われ)なんぢの(かほ)(まへ)に、わが使(つかひ)(つかは)す、(かれ)なんぢの(みち)(まう)くべし。[引照]

口語訳預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
塚本訳預言書(マラキと)イザヤに、“(神は言われる、)「見よ、わたしは使をやって、あなたの先駆けをさせ、”あなたの“道を準備させる」”
前田訳イザヤの預言に書かれている−−「見よ、わたしはあなたに先駆ける使いを送る。彼はあなたの道を整えよう。
新共同預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
NIVIt is written in Isaiah the prophet: "I will send my messenger ahead of you, who will prepare your way" --
辞解
[▲▲顔] 口語訳との差異は異本の本文に由ったもの。

1章3節 荒野(あらの)(よば)はる(もの)(こゑ)す「(しゅ)(みち)(そな)へ、その(みち)すぢを(なほ)くせよ」』と(しる)されたる(ごと)く、[引照]

口語訳荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、
塚本訳“荒野に叫ぶ者の声はひびく、「主の道を用意し、”その“道筋をまっすぐにせよ」”と書いてあるとおりに、
前田訳荒野に呼ぶものの声がする、主の道をそなえ、彼の行く手を直くせよ」と。
新共同荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
NIV"a voice of one calling in the desert, `Prepare the way for the Lord, make straight paths for him.'"
註解: 本書にも他の福音書と同じく(マタ3:1−6。ルカ3:3−6)バプテスマのヨハネの出顕を、イエスの出顕の準備と見、しかもこれをもって神の定め給えることでありすでに聖書に預言せられていた事柄と見てここにマラ3:1イザ40:3を引用し、本来別の意味の語であったものをイエスに関する預言的の事柄として解した。すなわちあたかも地上の国王の行幸(みゆき)に際してその前駆が必要であるごとくに、神の国の王の来臨に際してもその前駆者があることが至当である。(注意)2節はマラ3:1よりの引用であってイザよりの引用ではない、これを(1)マルコの記憶の誤り(M0)、(2)欄外の附記が本文中に潜入せるもの(H0、L2)、(3)必ずしも凡てにおいて精確を期せざりしため(E0)と見るもの等あり、最後の説明を採る。

1章4節 バプテスマのヨハネ()で、荒野(あらの)にて(つみ)(ゆるし)()さする悔改(くいあらため)のバプテスマを宣傳(のべつた)ふ。[引照]

口語訳バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。
塚本訳洗礼者ヨハネが(主救世主の道を準備するため、ユダヤの)荒野にあらわれて、罪を赦されるための悔改めの洗礼を説いた。
前田訳洗礼者ヨハネが荒野に現われ、罪のゆるしへの悔い改めの洗礼をとなえた。
新共同洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
NIVAnd so John came, baptizing in the desert region and preaching a baptism of repentance for the forgiveness of sins.
註解: 2、3節のごとき預言に応じてバプテスマのヨハネが出顕した。その使命は人々をして罪を悔改めしめ、その徴としてバプテスマを受けしめ、これによりて罪の赦しを得るに至らしめんためであった。心よりの悔改めなしに罪の赦しはあり得ない。この罪の赦しはイエスによりて完成せられ、ヨハネは悔改めを唱うることによりてその前駆となった。従ってイエスもまた先ずこの悔改めを唱え給うた(15節)。
辞解
[荒野] ヨルダン川の両岸に広がっている荒野である。人里遠く人間社会の罪を深く感ずるに適した場所である。
[罪の赦を得さする] 「罪の赦にまでの」で「悔改のバプテスマ」を形容す。ヨハネのバプテスマが罪の赦しとなる意味ではなく、これに至らしむる前提である(マタ3:3−6にこの文字なし)。
[悔改] 心の転換である。従来の心を悪しとして新たなる心となること、マタ3:2辞解参照。

1章5節 ユダヤ全國(ぜんこく)またエルサレムの人々(ひとびと)、みな()(もと)()(きた)りて(つみ)()ひあらはし、ヨルダン(がは)にて((かれ)より)バプテスマを()けたり。[引照]

口語訳そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
塚本訳ユダヤ全国の人々、ことにエルサレムの人が皆ヨハネの所にでて来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
前田訳するとユダヤ全地とエルサレム人すべてが彼のところに出かけて来て、おのが罪を告白しつつ彼からヨルダン川で洗礼を受けた。
新共同ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
NIVThe whole Judean countryside and all the people of Jerusalem went out to him. Confessing their sins, they were baptized by him in the Jordan River.
註解: (▲本節については口語訳参照。この方が適訳。)ユダヤ人に対してヨハネの宣伝が大なる影響を与えたことを見る、メシヤなる救い主の来給うべき機が充分に熟していた。罪の告白は悔改めの証拠である、告白なき悔改めは虚偽となり易い。
辞解
[ユダヤ全国] 全パレスチナの意味にあらず、エルサレムの市を除けるユダヤを指す。
[みな] 「多数」というごとき意味。

1章6節 ヨハネは駱駝(らくだ)毛織(けおり)()(こし)(かは)(おび)して、(いなご)野蜜(のみつ)とを(くら)へり。[引照]

口語訳このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
塚本訳ヨハネは駱駝の毛(の外套)を着、腰のまわりに皮の腰衣をつけ、蝗と野蜜とを食べていた。
前田訳ヨハネはらくだの毛を着、腰に皮の小袴(こばかま)をし、いなごと野蜜(のみつ)を食とした。
新共同ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
NIVJohn wore clothing made of camel's hair, with a leather belt around his waist, and he ate locusts and wild honey.
註解: 「駱駝の毛織」は最も粗雑な織物、「皮の帯」は最も単純な帯、「蝗と野蜜」とは最も質素な自然生の食物、かかる生活は人をして預言者を偲ばしめた(U列1:8ゼカ13:4)。

1章7節 かれ宣傳(のべつた)へて()ふ『(われ)よりも(ちから)ある(もの)、わが(のち)(きた)る。(われ)(かが)みてその(くつ)(ひも)をとくにも()らず、[引照]

口語訳彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。
塚本訳彼は説いて言った、「わたしよりも力のある方が、わたしのあとから来られる。わたしは、かがんでその方の靴の紐をとく値打もない者である。
前田訳そしてのべ伝えた、「わたしより偉い方がのちに来られる。わたしはかがんでその靴のひもを解くにも値しない。
新共同彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
NIVAnd this was his message: "After me will come one more powerful than I, the thongs of whose sandals I am not worthy to stoop down and untie.
註解: ヨハネの宣教の中心は来るべき力ある者すなわちイエスを指すことであった。イエスを人に紹介することは人間の為し得る最大の事業である。而して全ユダヤの崇敬の中心となったヨハネもイエスに対してはその奴隷たるにも足らざることを告白した。鞋の紐を解くことは奴隷の仕事である。

1章8節 (われ)(みづ)にて(なんぢ)らにバプテスマを(ほどこ)せり。されど(かれ)(せい)(れい)にてバプテスマを(ほどこ)さん』[引照]

口語訳わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。
塚本訳わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
前田訳わたしはあなた方を水で洗礼したが、彼はあなた方を聖霊で洗礼しよう」と。
新共同わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
NIVI baptize you with water, but he will baptize you with the Holy Spirit."
註解: 水のバプテスマは人間の決意と悔改めとの表徴であり、聖霊のバプテスマは天より人間への働きかけである。イエスのバプテスマの意義は人間の中に生れ出づる新生命によりてのみこれを知ることができる(ヨハ3:8)。ゆえにキリスト者の場合の水のバプテスマはこの内面的事実を外面的に公示するに過ぎない。
要義1 [神の国の顕現とその準備]神の国の到来には二つの準備を必要とする。その一は神が使を遣してその準備をなさしむること、その二は人がこれに応じて各自これを迎うる備を為すことである。前者は来るべき神の国すなわちイエスを人類に紹介することであり、後者はこれに対して各人がその罪を告白してこれを悔改むることである。この二つの(いず)れか一つを欠いてもイエスを受けることができない。前者は伝道者の任務であり、後者は凡ての人類の責務である。
要義2 [バプテスマのヨハネの人物]ヨハネの偉大さは聖書には間接に録されているに過ぎないけれども、その厳格なる禁慾生活、その正義に立てる教訓(ルカ3:7−14)、その死をも恐れずしてヘロデ王の行為を非難せること(マタ14:1−12)、殊に自己の名声嘖々(さくさく)たる中においてその栄光をイエスに譲りたる大度量等より見て彼の人格の偉大さを知ることができる。イエスが極力彼を讃賞し給うたことは(マタ11:11、12)故あることである。
要義3 [バプテスマのヨハネの光栄]ヨハネは預言者中の最大の者であった(マタ11:11、12)。しかしながら彼の最大の光栄は彼が偉大であった点ではなく、彼がイエスの前駆となり、その宣伝者となされた点にあった。イエスの来臨を布告するの任務は、人類が地上において受けたる最大の光栄である。これは唯神によって召され遣されし者にのみ与えられる光栄である。
要義4 [バプテスマのヨハネの衣食]国王の巡幸の際の前駆を務むる者は、これに相応しき華麗なる服装をなすのが当然である。然るにヨハネの場合において、それがきわめて粗野なものであったことに多くの意義がある。すなわち霊界の王たるイエスは先ず微行(びこう)して来り給い、かつ苦しまんがために来り給うこと、従ってその先駆たるものはこれに相応しき服装を要すること、および肉の華麗は往々にして霊の偉大さを掩いかくするに至ることである。この意味においてイエスの来臨を布告する務めは祭司長、学者、パリサイ人等には与えられず、ヨハネに与えられたのであった。一般に霊界の美と肉の世界の美とは相反する。
要義5 [悔改めについて]マタ3:17要義二参照。

1-2 イエス、バプテスマを受け給う 1:9 - 1:11
(マタ3:13-17) (ルカ3:21-23) 

1章9節 その(ころ)イエス、ガリラヤのナザレより(きた)り、ヨルダンにてヨハネよりバプテスマを()(たま)ふ。[引照]

口語訳そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
塚本訳そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになった。
前田訳そのころ、イエスがガリラヤのナザレから来て、ヨルダンでヨハネから洗礼を受けられた。
新共同そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
NIVAt that time Jesus came from Nazareth in Galilee and was baptized by John in the Jordan.
註解: マルコの記載は直截(ちょくせつ)簡明である。イエスに告白すべき罪なく従って悔改めを必要とせざりしこと、罪の赦しのためにはバプテスマを受くる必要がなきこと等につきては言及しない。これらの点につきマタ3:14−17註および要義一参照。
辞解
[ヨルダンにて] eis ton Iordanên で水中に浸り給いしことを示す。

1章10節 (かく)(みづ)より(あが)るをりしも、(てん)さけゆき、御靈(みたま)鴿(はと)のごとく(おのれ)(くだ)るを()(たま)ふ。[引照]

口語訳そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
塚本訳水から上がられると、たちまち天が裂けて、御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのを御覧になった。
前田訳水からあがられるおりしも、天が開いて、霊が鳩のように彼の上に下るのをごらんになった。
新共同水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
NIVAs Jesus was coming up out of the water, he saw heaven being torn open and the Spirit descending on him like a dove.
註解: ヨハネよりバプテスマを受け給うたことが同時に聖霊を受け給う機会となり、イエスの使命の自覚を確保し給う原因となった。この時聖霊は鳩のごとき姿をもってイエスの上に降った。
辞解
[(かく)て] euthus で「直ちに」と訳さるべき文字、マルコ伝に四十一回用いらる(マタイ伝に十九回、ルカ伝に七回)。マルコの記載の如何に緊張しているかを示す。
[さけゆき] 単に「さけ」と訳して可なり、マタイ伝、ルカ伝の「ひらけ」に比して一層具体的の表顕である。
[鴿(はと)] 霊を鴿(はと)に比較することはユダヤの文献に散見する、なお鴿(はと)は社寺の霊鳥として異教国にも愛育せらる。
[己に] 直訳「己の中に」で聖霊がイエスの中に入りそこに留まり給えることを示す。

1章11節 かつ(てん)より(こゑ)()づ『なんぢは()(いつく)しむ()なり、(われ)なんぢを(よろこ)ぶ』[引照]

口語訳すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
塚本訳すると「あなたは(いま)わたしの“最愛の子、”“わたしの心にかなった”」という声が天からきこえてきた。
前田訳すると天から声がした、「あなたはわがいとし子、わがよみするもの」と。
新共同すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
NIVAnd a voice came from heaven: "You are my Son, whom I love; with you I am well pleased."
註解: イエスにはおそらく神の子たるの身分の自覚よりも、神の子としての止むに止まれぬ子心の自覚が有った。唯この天よりの聖霊降下と神の声とによりてこの内心の事実が証拠立てられ、この時より後はイエスは益々明かに神の子たる使命を自覚して立上がり給うた。
要義1 [イエスの神の子としての自覚]バプテスマに至るまでのイエスはナザレの村に大工の子として生活し給い、その兄弟や近隣の友人と共に普通の一青年として成長し給うた。何人も彼を「神の子」と呼ぶ者もなく、特別扱いを為す者もなかった。彼には普通の人間と同一の凡ての慾望も備わりおり、彼自身としても己を他の青年と区別すべき外的特徴を見出さなかった。唯一つ彼にありて絶対に他の人間と異なる処のものがあった。それは彼が徹頭徹尾父なる神の御旨に(したが)うより外に何もできなかったことであった。この意味において彼はその内心において全く父なる神の孝子であった。ルカ2:41−51の記事はこの御心を示す一つの例話であると見るべきであろう。以上のごとくであるとすればイエスの神の子たる自覚はその外部関係すなわち身分関係の自覚ではなく、内心の事実の自覚であった。換言すれば、イエスは本来神と自己との間に他の人間とは異なれる特別の関係すなわち父子の身分関係ありと自覚したのではなく、神を父と崇め、これに従う心すなわち子たる心以外の心が無かったのである。この止むにやまれぬ内心の事実はイエスを駆って(要義二参照)ヨハネのバプテスマを受くるに至らしめ、その際に聴ける天よりの声よりイエスの神の子たる内心の事実が外より保証せられたこととなったのである。これによりイエスは、彼の内心の状態が、神の子たる重大なる事実を具現したものであることを、真に自覚し給うようになった、と見るべきである。而して弟子たちも、漠然とこのことを感じ、時にはペテロのごとく(マタ16:17)これを告白する者もあったけれども、真にイエスを神の子と確信するに至ったのは、その復活によったのであった(ロマ1:4)。
要義2 [イエスのバプテスマの意義]マルコ伝は何故イエスがバプテスマを受け給いしやの理由を示さず(ルカ伝も同様である)。唯マタイ伝がこの不備を補足するもののごとくに「凡ての正しき事を為遂ぐる為」(マタ3:15)との説明を加えているけれども、この理由は一見甚だ薄弱のごとくである。すなわち罪無きイエスが何故罪の悔改めのバプテスマを受くる必要ありや、また如何にして罪の告白を為し得るや等の難問はこのマタイ伝の記事によって説明し尽くされていない。それ故に多くの学者はイエスは全人類に代りその罪を負いてヨハネよりバプテスマを受け給えりと説明する。
この説明は一方イエスの神性を傷つけずにそのバプテスマを説明し得る故に多く採用せられているけれども、これを単に一つの項式のごとくに解する時は、事実を誤解する(おそれ)ある故、これを一層深くイエスの心理的発展の相において観察することが必要である。すなわちイエスは父なる神に対する愛と従順の心に充され、父なる神の御心を心として、神と共に人類の罪を悲しみ、これを己の罪のごとくに悲しみ給うたに相違ない。かくして如何にかして人類をこの罪の桎梏(しっこく)より解放せんとの熱望に駆られ給い、それがためには「あらゆる正しき事を為し遂げん」との熱心を発揮してヨハネの許に来り給うたものと思われる。かく考うる時、理由として薄弱なるがごときマタイ伝の記事が真にイエスの御言らしきものとなり、また人類の罪を負いてバプテスマを受け給えりとの説明が生ける事実となる。マタ3:17要義一参照。
要義3 [バプテスマのヨハネとイエスの関係]マルコ伝およびルカ伝によれば、ヨハネがイエスを見て、それが彼の所謂「我が後に来る者」であることを知ったかどうかは不明である。ヨハネ伝のみはこのことを記して(ヨハ1:29−31)この記事の不備を補足しているのを見る。マタ3:14は漠然とヨハネの認識を想像し得るに過ぎない。これらの記事より推察するに、おそらくヨハネはイエスを一見して、その偉大さを直感し、これこそ我が待望の人ならんと感じたのであろう。ヨハネ伝はこの心持を記載したものと解し得ると思う。

1-3 荒野の試錬 1:12 - 1:13
(マタ4:1-11) (ルカ4:1-13) 

1章12節 (かく)御靈(みたま)ただちにイエスを荒野(あらの)()ひやる。[引照]

口語訳それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。
塚本訳やがて御霊はイエスを荒野に追いやった。
前田訳そののち霊が彼を荒野に導いた。
新共同それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
NIVAt once the Spirit sent him out into the desert,

1章13節 荒野(あらの)にて四十(しじふ)(にち)(あひだ)サタンに(こころ)みられ、(けもの)とともに居給(ゐたま)ふ、御使(みつかひ)たち(これ)(つか)へぬ。[引照]

口語訳イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。
塚本訳イエスは四十日のあいだ荒野にいて、悪魔の誘惑にあわれた。(そのあいだ)野獣の中におられたが、イエスには天使たちが仕えていた。
前田訳彼は荒野に四十日間いて悪魔の試みにあわれた。イエスは獣といっしょであったが天使たちが仕えていた。
新共同イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
NIVand he was in the desert forty days, being tempted by Satan. He was with the wild animals, and angels attended him.
註解: マタ4:1−11。ルカ4:1−13註参照。御霊はイエスを訓練せんために、彼を荒野に放り出し給うた。獅子がその子を千仭(せんじん)の穴に投ずるがごとくである。大なる使命を帯ぶる者は誘惑もまた大きい。なおこの記事を荒野の試誘(こころみ)の記事中最も古き無技工のものと見る説(E0)と、他の一層詳細なる記事よりの省略であるとする説(L2)とがある。後者を取る。「イエスの語録」に収められてある故マルコはこれを周知の事実として省略したのであろう。
辞解
[四十] ユダヤ人特愛の数、地に関する数「四」と、完全を表す「十」との相乗積である。申8:2、4。出34:28T列19:8等。
[()いやる] ekballô は単に「移す」というごとき弱き意味にも用いられるけれどもここでは強き意味に解すべきである。すなわち「放り出す」こと。
[獣と共に居たまふ] (1)荒野の淋しさと恐ろしさとを示し、(2)同時にパラダイスにおいてアダムが獣と共に楽しく暮せる光景の反対現象と解す。我らがこの世にあるはあたかも荒野にあって獣と共にいるがごとくである。
[(つか)へぬ] マタ4:11にはサタンが去りし後のこととなっている、おそらく然らん。なお悪魔の何たるか、イエスの試誘(こころみ)の意義、イエスのサタンとの戦の意義等につきてはマタ4:11要義参照。荒野につきてはガラ1:17要義四参照。
要義 [聖霊イエスを荒野に追いやる]イエスはバプテスマを受けて水より上り天よりの声をきき給える時、そのことの重大さにいたくおどろき給い、果してそれが事実なりや如何なることが起ってもこの使命を貫き得るやにつき明かにせんとの切なる要求に駆立てられ、止むに止まれぬ心をもって荒野にさまよい出で給うたものと思われる。すなわちサタンに決戦を挑み給うたのであった。聖霊が彼を()いやるというのは事実を適切に示している。

1-4 イエスの宣教の始 1:14 - 1:15
(マタ4:12-17) (ルカ4:14-15) 

1章14節 ヨハネの(とら)はれし(のち)、イエス、ガリラヤに(いた)り、(かみ)福音(ふくいん)宣傳(のべつた)へて()(たま)ふ。[引照]

口語訳ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
塚本訳(洗礼者)ヨハネが牢に入れられた後、イエスはガリラヤにかえり、神の福音を説いて
前田訳ヨハネが捕われてのち、イエスはガリラヤへ来て神の福音を説いていわれた、
新共同ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
NIVAfter John was put in prison, Jesus went into Galilee, proclaiming the good news of God.
註解: 14、15節は1:14−5:42のガリラヤ伝道の要約である。
辞解
[(とらわ)れ] 直訳「付され」で投獄の意を有す。ヨハネの投獄マコ6:17までイエスが何処に何を為し給いしや、またこの間の期間は幾何(いくばく)か不明。ただしマタ4:13註およびマタ4:25附記のごとくに見る説もある。ただしイエスがヨハネを引継げるごとき結果となったことは神の経綸から見て意義深いことである。ヨハネが囚れたことはイエスの身辺の危険を(かも)したのであろう。
[神の福音] 神がキリストによりて送り給える嘉き音信。

1章15節 (とき)滿()てり、(かみ)(くに)(ちか)づけり、(なんぢ)悔改(くいあらた)めて福音(ふくいん)(しん)ぜよ』[引照]

口語訳「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
塚本訳言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔改めて福音を信ぜよ」と。
前田訳「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。
新共同「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
NIV"The time has come," he said. "The kingdom of God is near. Repent and believe the good news!"
註解: 「時」は神の国の到達に至るまでの時期を指す、この時が満ちて次に来るものは神の国、神の支配である。この神の国に入るには二つの条件を要す。その一はヨハネの教えし悔改め、その二は福音を信ずることである。
辞解
[近づけり] 完了過去形、すでに到来したことに用う。終末観に関して多く用いらる。
[福音] この場合未だイエスの十字架および復活の福音はない。神の遣し給えるメシヤの来臨すなわち神の国の到来の福音である。
要義 [イエスと神の国]神の国は何時何処に、如何なる姿において近付いたかというに、それはイエスにおいて到来したのである。その故は神の国はすなわち神の支配であり、而して神に対するイエスの完全なる服従により、神はイエスにおいてその支配すなわち国を実現し給うたからである。ゆえに「神の国は見ゆべき状にて来たらず・・・・・神の国は汝らの中に在り」(ルカ17:20、21)、而してまずイエスにおいて神の国が来たと見るべきである。

1-5 イエス弟子を招き給う 1:16 - 1:20
(マタ4:18-22) (ルカ5:1-11) 

1章16節 イエス、ガリラヤの(うみ)にそひて(あゆ)みゆき、シモンと()兄弟(きゃうだい)アンデレとが、(うみ)網打(あみう)ちをるを()(たま)ふ。かれらは漁人(すなどりびと)なり。[引照]

口語訳さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
塚本訳ガリラヤ湖のほとりを通られるとき、シモンとシモンの兄弟のアンデレとが、湖で網を打っているのを見られた。彼らは漁師であった。
前田訳ガリラヤ湖畔を行かれると、シモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのが、お目にとまった。彼らは漁夫であった。
新共同イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
NIVAs Jesus walked beside the Sea of Galilee, he saw Simon and his brother Andrew casting a net into the lake, for they were fishermen.
註解: イエスの第一の御業は弟子を造りこれを教育することであった。而してその弟子として選び給えるものは祭司学者パリサイ人のごとき職業宗教家、又は知識階級の人々ではなく無学の凡人(使4:13)であった。

1章17節 イエス()(たま)ふ『われに(したが)ひきたれ、(なんぢ)()をして(ひと)(すなど)(もの)とならしめん』[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
塚本訳「さあ、ついて来なさい。人間の(漁をする)漁師にしてあげよう」とイエスが言われると、
前田訳イエスはいわれた、「さあ、ついて来なさい。あなた方を人間の漁夫にしてあげよう」と。
新共同イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
NIV"Come, follow me," Jesus said, "and I will make you fishers of men."
註解: イエスの人を牽付(ひきつ)ける力は偉大であった。イエスは彼らを伝道者たらしめんとし給う。
辞解
[從ひきたれ] ラビ(教師)は弟子を従うることを常とした(S2)。
[人を(すなど)る] エレ16:16にも顕われ、多く用いられる比喩である。

1章18節 (かれ)(ただ)ちに(あみ)をすてて(したが)へり。[引照]

口語訳すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
塚本訳すぐ網をすてて従った。
前田訳彼らはただちに網を捨てて従った。
新共同二人はすぐに網を捨てて従った。
NIVAt once they left their nets and followed him.

1章19節 (すこ)(すす)みゆきて、ゼベダイの()ヤコブとその兄弟(きゃうだい)ヨハネとを()(たま)ふ、(かれ)らも(ふね)にありて(あみ)(つくろ)ひゐたり。[引照]

口語訳また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。
塚本訳また少し進んでいって、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟のヨハネとが、これも舟で網を繕っているのを見られた。
前田訳少し進むとゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、これも舟で網を整えているのがお目にとまった。
新共同また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
NIVWhen he had gone a little farther, he saw James son of Zebedee and his brother John in a boat, preparing their nets.

1章20節 (ただ)ちに()(たま)へば、(ちち)ゼベダイを雇人(やとひびと)とともに(ふね)(のこ)して(したが)ひゆけり。[引照]

口語訳そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。
塚本訳すぐお呼びになると、父ゼベダイを雇人たちと共に舟にのこして、イエスのあとについて行った。
前田訳そこですぐお招きになると、父ゼベダイを雇人(やといにん)ごと舟に残して、彼らはイエスのあとについて行った。
新共同すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
NIVWithout delay he called them, and they left their father Zebedee in the boat with the hired men and followed him.
註解: 漁夫たちがその舟と網とをすて、またその父と雇人とを遺してイエスに従うことは経済的には冒険であり家庭的には悲劇であった。しかしながらこれはさらに大なる報償を得るための犠牲であり、彼らはたしかにより良き道を選んだのであった。而して彼らをしてここに至らしめたのはイエスの偉大なる精神力であった。
辞解
「雇人」を有したことより見てゼベダイは中産の漁夫であったことがわかる。なおルカ5:1−11には以上の四人がイエスの弟子となった理由としてイエスによりて示されしままに大漁となりしことを録している。(いず)れにしてもイエスの人格に異常なる輝きと力とを見出したのであった。

分類
2 ガリラヤにおけるイエスの活動 1:21 - 7:23
2-1 治癒と教訓 1:21 - 1:45
2-1-イ カペナウムの会堂におけるイエス 1:21 - 1:28
(マタ7:28-29) (ルカ4:31-37)   

1章21節 (かく)(かれ)らカペナウムに(いた)る、イエス(ただ)ちに安息(あんそく)(にち)會堂(くわいだう)にいりて(をし)(たま)ふ。[引照]

口語訳それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。
塚本訳彼らは(湖畔の町)カペナウムに着いた。イエスはさっそく(次の)安息日に礼拝堂に入って教えられた。
前田訳彼らはカペナウムに着いた。さっそくイエスは安息日に会堂に入ってお教えになった。
新共同一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
NIVThey went to Capernaum, and when the Sabbath came, Jesus went into the synagogue and began to teach.
註解: 会堂はユダヤ人の集会礼拝の場所でそこではラビは自由に聖書によりて教えを垂れることができた、イエスはまずユダヤ人を教えることにその全力を(つく)し給うた。
辞解
[カペナウム] ガリラヤ湖の西北岸にあり、プトレマイスよりダマスコに至る街道に当り、当時は殷賑(いんしん)なる市であった。今はテルフムの廃墟となっている(マタ4:13辞解)。
「直ちに」をここにも用いていることに注意すべし。マルコはイエスをして一直線に十字架に向って急がしめる。
[会堂] Synagôgê にはユダヤ人の集会礼拝あり、聖書朗読、讃美、説教、説話あり、諸種の役員があった。

1章22節 人々(ひとびと)その(をしへ)(をどろ)きあへり、それは學者(がくしゃ)(ごと)くならず、權威(けんゐ)ある(もの)のごとく(をし)(たま)ふゆゑなり。[引照]

口語訳人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
塚本訳人々はその教えに感心してしまった。聖書学者のようでなく、権威を持つ者のように教えられたからである。
前田訳人々は彼の教えにおどろいた。教えのさまが学者らのようでなく、権威あるもののようであったからである。
新共同人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
NIVThe people were amazed at his teaching, because he taught them as one who had authority, not as the teachers of the law.
註解: 学者の教えは多くは古き典拠に盲従し、文字の末節に拘泥するに過ぎざるに反しイエスの教えは人の心に強く響くの力と権威とを有っていた。なおマタイはこの語の前に、21節の敷衍として山上の垂訓(マタ5−7章)を置く、マルコが山上の垂訓を省略したのは所謂「イエスの語録」の存在を前提とし重複を避けたものと思われる。
辞解
[学者] ▲口語訳ではgrammateusとnomodidaskalosとを区別せず、共に「律法学者」と訳している。但しマタ13:52Tコリ1:20、のみ例外的に「学者」と訳されている。(使19:35は書記役)。

1章23節 (とき)にその會堂(くわいだう)(けが)れし(れい)()かれたる(ひと)あり、(さけ)びて()ふ、[引照]

口語訳ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、
塚本訳そのとき、その礼拝堂に汚れた霊につかれた一人の人がいたが、たちまち声をあげて叫んで
前田訳そのとき会堂の中にけがれた霊につかれた人がいて、叫んだ、
新共同そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
NIVJust then a man in their synagogue who was possessed by an evil spirit cried out,

1章24節 『ナザレのイエスよ(われ)らは(なんぢ)(なに)關係(かかはり)あらんや、(なんぢ)(われ)らを(ほろぼ)さんとて來給(きたま)ふ。われは(なんぢ)(たれ)なるを()る、(かみ)聖者(しゃうじゃ)なり』[引照]

口語訳「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。
塚本訳言った、「ナザレのイエス様、“放っておいてください。”わたしどもを滅ぼしに来られたにちがいない。あなたがだれだか、わたしにはわかっています。神の聖者(救世主)です。」
前田訳「ナザレのイエス、何のご用か。われらを滅ぼしにおいでか。わたしはあなたがだれか知っています。神の聖者です」と。
新共同「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
NIV"What do you want with us, Jesus of Nazareth? Have you come to destroy us? I know who you are--the Holy One of God!"
註解: 教えと共にイエスは病の治癒を行い給うた、言と実行とがイエスの生涯である。「穢れし霊」はまた「悪鬼」とも呼ばれ、これに憑かれし者は異常の精神状態となる。この穢れし霊は逸早くイエスのメシヤ(神の聖者)たることを認め、その使命の何たるかを知ってこれを恐れて彼をして叫ばしめた。悪霊は霊的の事柄についてはかえって常人よりも敏感である。
辞解
[我ら汝と何の関係あらんや] マタ8:29辞解。直訳は「我らと汝とに何か」。「我ら」と複数になっているのは悪霊が多数存在して一団を成していることを示す。「汝は我らを亡ぼさんとて来給ふ」以下は、彼の認識の告白で、イエスに対する阿諛(あゆ)ではない。
[神の聖者] 神の聖め別てる者、主としてメシヤ、時には王、預言者等を「神の人」と称することがある、(T列17:18)。

1章25節 イエス(いまし)めて()(たま)ふ『(もだ)せ、その(ひと)()でよ』[引照]

口語訳イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。
塚本訳イエスは「黙れ、その人から出てゆけ」と言って叱りつけられた。
前田訳イエスはいましめられた、「黙れ。その人から出よ」と。
新共同イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
NIV"Be quiet!" said Jesus sternly. "Come out of him!"

1章26節 (けが)れし(れい)、その(ひと)痙攣(ひきつ)けさせ、大聲(おほごゑ)をあげて()づ。[引照]

口語訳すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
塚本訳すると汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて出ていった。
前田訳するとけがれた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて出て行った。
新共同汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
NIVThe evil spirit shook the man violently and came out of him with a shriek.
註解: イエスの霊力が悪霊の力に打勝った。悪霊は最後の藻掻(もが)きを示してその人より離れた。一人の霊力が他人の精神を支配するの事実は今日もこれを見ることができる。その事実を本節のごとくにして説明することは今日の医学上より見て幼稚であるとしても、今日の科学はイエスのこの力を否定することはできない。

1章27節 人々(ひとびと)みな(をどろ)(あひ)()ひて()ふ『これ何事(なにごと)ぞ、權威(けんゐ)ある(あたら)しき(をしへ)なるかな、(けが)れし(れい)すら(めい)ずれば(したが)ふ』[引照]

口語訳人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。
塚本訳皆がびっくりして、評議して言った、「これはいったい何事だろう。権威のある新しい教えだ。この人が命令されると、汚れた霊までその言うことを聞くのだ。」
前田訳皆はおどろいて互いに問いあった、「これは何事か。新しい教えだ。権威がある。けがれた霊さえ、この人が命ずると従うとは」と。
新共同人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
NIVThe people were all so amazed that they asked each other, "What is this? A new teaching--and with authority! He even gives orders to evil spirits and they obey him."
註解: 人々はイエスの教えの力とその霊の力とに驚いた。人々をイエスに牽付(ひきつ)けたものは唯この力であった。もしその教えが神より出づるならば必ずそこに力があるはずである。
辞解
[相問ひ] ▲▲口語訳「論じ合う」は正しい。

1章28節 (ここ)にイエスの(うはさ)あまねくガリラヤの四方(しはう)(ひろま)りたり。[引照]

口語訳こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。
塚本訳イエスの評判がたちまち(カペナウムの)周囲の、全ガリラヤ到る所に広まった。
前田訳彼の評判はたちまち至るところ、ガリラヤ周辺一帯にひろまった。
新共同イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
NIVNews about him spread quickly over the whole region of Galilee.
註解: 求めずして得たる評判であった。
辞解
[ガリラヤの四方] 直訳「ガリラヤの周りの地方」でカペナウムを中心に周囲のガリラヤ地方を指したものと見るべきである。マタ4:24、25にはこれをシリヤおよびその他の地方と解したらしく、かく解することも不可能ではないけれども本節の場合不適当である。

2-1-ロ シモンの外姑を醫し給う 1:29 - 1:31
(マタ8:14-15) (ルカ4:38-39)   

1章29節 會堂(くわいだう)をいで、(ただ)ちにヤコブとヨハネとを(ともな)ひて、シモン(およ)びアンデレの(いへ)()(たま)ふ。[引照]

口語訳それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。
塚本訳イエスは礼拝堂を出ると、すぐヤコブとヨハネとをつれて、シモンとアンデレとの家に行かれた。
前田訳イエスは会堂を出るとすぐシモンとアンデレの家へ行かれた。ヤコブとヨハネがお伴した。
新共同すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
NIVAs soon as they left the synagogue, they went with James and John to the home of Simon and Andrew.
註解: (▲「直ちに」は原文は「直ちに会堂を出て」となっており、「そこで」というほどの意味。マルコ伝にはこの「直ちに」 euthus を多く用いている。)この四人はイエスの最初のしかも最も重要の地位を有する弟子であった。マタ8:14ルカ4:38にはペテロの名のみを掲ぐ、本書がペテロの口伝とすればここにもペテロの謙遜を見る。

1章30節 シモンの外姑(しうとめ)(ねつ)をやみて()しゐたれば、人々(ひとびと)ただちに(これ)をイエスに()ぐ。[引照]

口語訳ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた。
塚本訳シモンの姑が熱病で寝ていた。人々がすぐ彼女のことをイエスに言うと、
前田訳シモンの姑(しゅうとめ)が熱病で寝ていた。彼らはすぐイエスに彼女のことをいった。
新共同シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
NIVSimon's mother-in-law was in bed with a fever, and they told Jesus about her.
註解: 外姑(しゅうとめ)は妻の母。ペテロはすでに妻を持っていた、Tコリ9:5

1章31節 イエス()きて、その()をとり、(おこ)(たま)へば、(ねつ)さりて(をんな)かれらに(つか)ふ。[引照]

口語訳イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。
塚本訳進み寄り、手を取って起された。すると熱が取れ、彼女は彼らをもてなした。
前田訳彼は進みより、手を取って起こされた。すると熱は去って、彼女は彼らに給仕した。
新共同イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
NIVSo he went to her, took her hand and helped her up. The fever left her and she began to wait on them.
註解: 奇蹟的治癒は極めて迅速に行われた。大熱の後の疲労もなく、直ちに彼らに(つか)えこれを接待したことはイエスの治癒力の偉大さを証拠立てている。この治癒は安息日に行われた。

2-1-ハ 多くの病者を醫し給う 1:32 - 1:34
(マタ8:16-17) (ルカ4:40-41)   

1章32節 (ゆふべ)となり、()いりてのち人々(ひとびと)すべての(やまひ)ある(もの)惡鬼(あくき)()かれたる(もの)をイエスに()(きた)り、[引照]

口語訳夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。
塚本訳夕方になって日が沈むと(安息日が終ったので)、人々は病人や悪鬼につかれた者を皆イエスの所につれて来て、
前田訳夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊つきを皆彼のところへ連れて来た。
新共同夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
NIVThat evening after sunset the people brought to Jesus all the sick and demon-possessed.
註解: 特に「日入りて後」といえるは安息日の終了を明かにせんがためである。安息日が終ったので病人や悪鬼に憑かれし者を連れて来た。
辞解
[すべての] 多くのというほどの意。なおマタ8:16には「夕になりて」とあり、ルカ4:40には「日のいる時」とあり本節を基礎として各々異なれる部分を採用したものと解せらる。

1章33節 全町(ひとまち)こぞりて(もん)(あつま)る。[引照]

口語訳こうして、町中の者が戸口に集まった。
塚本訳町中(の人)が門口に集まった。
前田訳そして町じゅうが戸口に集まった。
新共同町中の人が、戸口に集まった。
NIVThe whole town gathered at the door,
註解: 「全町こぞりて」も誇張せる語法、門はペテロの外姑(しゅうとめ)の家ならん(E0)。イエスの家と解する説あり(M0)。

1章34節 イエスさまざまの(やまひ)(わづら)(おほ)くの(ひと)をいやし、(おほ)くの惡鬼(あくき)()ひいだし(これ)(もの)()ふことを(ゆる)(たま)はず、惡鬼(あくき)イエスを()るに()りてなり。[引照]

口語訳イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。
塚本訳イエスはさまざまな病気にかかっている大勢の病人をなおし、多くの悪鬼を追い出された。そして悪鬼どもがイエスを(救世主と)知っているので、口をきくことをお許しにならなかった。
前田訳彼はいろいろな病をわずらうものを大勢いやし、多くの悪霊を追い出された。そして、悪霊どもがイエスがだれかを知っていたので、ものいうことをおゆるしにならなかった。
新共同イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
NIVand Jesus healed many who had various diseases. He also drove out many demons, but he would not let the demons speak because they knew who he was.
註解: イエスは多くの場合その奇蹟的治癒がみだりに言伝えられることを欲し給わなかった。信仰の根本はかかる外部的の事実に基いてはならないからである(マタ8:4註参照)。悪鬼はイエスのキリストたることを知っていた故、その語ることを禁じ給えるのも同じ理由であった。
辞解
[イエスを知る] ルカ4:41のごとくイエスのキリストたることを知るとの意。

2-1-ニ イエスの巡回伝道 1:35 - 1:39
(マタ4:23-25) (ルカ4:42-44)   

1章35節 (あさ)まだき(くら)(ほど)に、イエス()()でて、(さび)しき(ところ)にゆき、其處(そこ)にて(いの)りゐたまふ。[引照]

口語訳朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
塚本訳朝早く、まだ真夜中にイエスは起きて、人のいない所に出て行き、そこで祈っておられた。
前田訳あくる朝、まだ真暗なうちにイエスは起きてお出かけになり、人のいないところへ行ってそこで祈っておられた。
新共同朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
NIVVery early in the morning, while it was still dark, Jesus got up, left the house and went off to a solitary place, where he prayed.
註解: 前日の雑閙(ざっとう)を再び繰返すことはイエスの望まぬ処であり、今日も群衆が集り来たらんかとの予感があったので、イエスは人の願いによらず唯父なる神にのみ従わんがために、その家を出て、寂しき処に出でて祈り給うた。弟子たちもこれに気付かなかった。

1章36節 シモン(およ)(これ)(とも)にをる(もの)ども、[引照]

口語訳すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。
塚本訳シモンとその仲間があとを追ってきて、
前田訳シモンとその仲間があとをつけて来て、
新共同シモンとその仲間はイエスの後を追い、
NIVSimon and his companions went to look for him,
註解: シモンが弟子たちの首位を占めたのは始めからであった。

その(あと)(した)ひゆき、

註解: 適訳にあらず katadiôkô は追いかけ行くこと。

1章37節 イエスに()ひて()ふ『(ひと)みな(なんぢ)(たづ)ぬ』[引照]

口語訳そしてイエスを見つけて、「みんなが、あなたを捜しています」と言った。
塚本訳見つけだして言う、「みんながあなたをさがしています。」
前田訳彼を見つけていう、「皆があなたをお探ししています」と。
新共同見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
NIVand when they found him, they exclaimed: "Everyone is looking for you!"
註解: この時人みなイエスに醫されんために集り来たって彼をさがし求めていた。

1章38節 イエス()(たま)ふ『いざ最寄(もより)村々(むらむら)()かん、われ彼處(かしこ)にも(をしへ)()ぶべし、[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。
塚本訳彼らに言われる、「さあ、どこかほかの近くの町々にも行って、そこで教えを説こうではないか。そのためにわたしは来たのだから。」
前田訳彼はいわれる、「ほかの隣の町々に移って、そこでも福音を説こう。そのためにわたしは出て来たのだから」と。
新共同イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
NIVJesus replied, "Let us go somewhere else--to the nearby villages--so I can preach there also. That is why I have come."
註解: イエスはカペナウムに帰ることを(がえ)んじ給わず(ルカ4:42)進んで周囲の村々にも教えを宣べんために往かんとの決心であった。イエスの使命は一町一村の病者を醫すことではなく、全世界に福音を宣伝うることであった。彼は人の希望によりて動かされず神の御旨に従って行動し給うた。ヨハ6:15も同一の心持である。

(われ)はこの(ため)()(きた)りしなり』

註解: 近代の学者は多くこの「出で来る」を己が家より出で来ることに解するけれども、むしろB1その他のごとく父の許より、または自己の職業生活より出で来る意味と見る方が適当である。ルカ4:43に「わが遣されしは之が為なり」と書き替えたのもそのためである。

1章39節 (つい)にゆきて、(あまね)くガリラヤの會堂(くわいだう)にて(をしへ)()べ、かつ惡鬼(あくき)()(いだ)(たま)へり。[引照]

口語訳そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教を宣べ伝え、また悪霊を追い出された。
塚本訳それからガリラヤ中にあるその礼拝堂で教えを説き、悪鬼を追い出しておられた。
前田訳そして彼は出かけて全ガリラヤの町々の会堂で福音を説き、悪霊を追い出された。
新共同そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
NIVSo he traveled throughout Galilee, preaching in their synagogues and driving out demons.
註解: ルカ4:44にはガリラヤをユダヤに代え一層広くイエスの活動の叙述す。イエスの宣伝と治癒とはカペナウムにおけると同様全ガリラヤに及んだ。

2-1-ホ イエス癩病人を醫し給う 1:40 - 1:45
(マタ8:1-4) (ルカ5:12-16)   

1章40節 一人(ひとり)癩病人(らいびゃうにん)、みもとに(きた)り、(ひざま)づき()ひて()ふ『御意(みこころ)ならば(われ)(きよ)くなし(たま)ふを()ん』[引照]

口語訳ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
塚本訳すると(ある日)一人の癩病人がイエスの所に来てひざまずき、「清めてください。お心さえあれば、お清めになれるのだから」と言って願った。
前田訳ひとりのらい者が彼のところに来てひざまずいて願った、「お心さえ向けばわたくしをお清めになれます」と。
新共同さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
NIVA man with leprosy came to him and begged him on his knees, "If you are willing, you can make me clean."
註解: 癩病人は謙遜なる心持をもって凡てをイエスの御意に任せ、イエスの奇蹟力につきては絶対の信頼を持っていた。この奇蹟の行われし場所は不明である。マタ8:1には山上の垂訓を終りて山より下りし時とあり、ルカ5:12には「或る町」とあり、確定することができない。レビ13:45、46によれば彼がイエスに近づくことがすでに律法違反であった。罪になやむ者にとりては唯罪より潔められんことより外に何をも顧みる(いとま)なきこともこの心持である。

1章41節 イエス(あはれ)みて、[引照]

口語訳イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。
塚本訳イエスは(そのあわれな姿を見て悪魔に対する)怒りに燃え、手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、
前田訳イエスはあわれんで手をのばし、彼にさわっていわれる、「よろしいとも。清くおなり」と。
新共同イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
NIVFilled with compassion, Jesus reached out his hand and touched the man. "I am willing," he said. "Be clean!"
註解: この一語よくイエスの人格を表示する。

()をのべ(かれ)につけて『わが(こころ)なり、(きよ)くなれ』と()(たま)へば、

1章42節 (ただ)ちに癩病(らいびゃう)さりて、その(ひと)きよまれり。[引照]

口語訳すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった。
塚本訳たちまち癩病が消えうせて、その人は清まった。
前田訳たちまちらいはとれて、彼は清まった。
新共同たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
NIVImmediately the leprosy left him and he was cured.
註解: 今日の医学よりかかる迅速なる治癒の事実を説明し得ざるより、これを一つの作話と解する学者もあるけれども(W2)、イエスに超自然的の能力を認める場合、別に信じ難いことではない。なお42節の前半はマタ8:3にこれを除き、後半はルカ5:13にこれを除く、同一事の重複と見得るなり、32節註参照。

1章43節 (やが)(かれ)()らしめんとて、(きび)しく(いまし)めて()(たま)[引照]

口語訳イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、
塚本訳イエスはいきり立ち、すぐその人を追い出して
前田訳イエスはきびしくいましめて彼をすぐ去らせていわれる、
新共同イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
NIVJesus sent him away at once with a strong warning:
註解: 私訳「威嚇して直ちに彼を()い出して言い給う」。何故に威嚇し何故に直ちに()い出し給うたかにつきては不明であるが、前後の関係より、醫されし癩病人が御側にいることはますます多く群衆が集り来る原因となるからであろう。この威嚇はなお次節の禁止命令にも関連する。
辞解
[厳しく戒め] 原語 embrimaomai は本来憤怒の心持を表す語、ここでは「威嚇」と訳して幾分原意に近い。ヨハ11:33辞解参照。
[去らしめ] ekballô で、ここでは強き意味に訳して差支えがない。

1章44節 『つつしみて(たれ)にも(かた)るな、[引照]

口語訳「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。
塚本訳言われる、「だれにも何も言わないように気をつけよ。ただ全快したことを世間に証明するため、(エルサレムの宮に)行って体を“祭司に見せ、”モーセが命じたものを清めのために捧げよ。」
前田訳「気をつけて、だれにも何もいわぬように。しかし行って体を祭司に見せ、モーセが命じたものをあなたの清めのためにささげよ、人々への証のために」と。
新共同言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
NIV"See that you don't tell this to anyone. But go, show yourself to the priest and offer the sacrifices that Moses commanded for your cleansing, as a testimony to them."
註解: イエスはその治病の奇蹟が言い広められることを非常に嫌い給うた(マタ8:4。引照1を見よ。)(▲この点が治病を主なる目的および宣伝材料とする諸宗教とキリストの福音との間の著しい差異である。)彼は利己的動機より彼の許に多くの人の来ることを好まなかったからである。イエスの弟子たるには己を棄て十字架を負うて彼に従うべきである。

(ただ)ゆきて(おのれ)祭司(さいし)()せ、モーセが(めい)じたる(もの)(なんぢ)(きよめ)のために(ささ)げて、人々(ひとびと)(あかし)せよ』

註解: イエスは律法の規定を遵守することにおいて忠実でありまたかくのごとく人にも教え給うた。(▲▲安息日に対するパリサイ人の態度に反対し給うたのは彼らの態度が安息日の目的に反したからであった。)レビ14:2−32の規定によりかくしてその潔められしことを一般に証することが習慣であった。

1章45節 されど(かれ)いでて()(こと)(おほい)()べつたへ、(あまね)(ひろ)(はじ)めたれば、[引照]

口語訳しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。
塚本訳しかしその人は出てゆくと、(宮には行かず、)しきりにこの出来事を言いふらし、ふれまわったので、イエスはもはや公然と町に入ることが出来ず、(町の)外の人のいない所におられた。人々が四方から、イエスの所にあつまって来た。
前田訳しかしその人は出て行くと、しきりに話して、このことをあからさまにしはじめたので、イエスはもはや公には町に入れず、町の外の人のいないところにおられた。しかし四方から彼のところに来る人が絶えなかった。
新共同しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
NIVInstead he went out and began to talk freely, spreading the news. As a result, Jesus could no longer enter a town openly but stayed outside in lonely places. Yet the people still came to him from everywhere.
註解: イエスの厳然たる禁止にもかかわらず彼は沈黙することができなかった。その驚駭(きょうがい)と歓喜とは絶頂に達したからである。

この(のち)イエスあらはに(まち)()りがたく、(そと)(さび)しき(ところ)(とどま)りたまふ。

註解: イエスは群衆に押し迫られる生活を好み給わず、静かに独り祈りの中に父と偕にいることを欲し給う。ルカ5:16にはイエスの祈り居給うことを附加している。

人々(ひとびと)四方(しはう)より御許(みもと)(きた)れり。

註解: 外の寂しき処すなわち荒野に退き居給いしにもかかわらず人々殊に心身に病ある者は「あるひは教を聴かんとし或は病を醫されんとして」(ルカ5:15)彼の許に集り来った。この当時のイエスは言わば全地方の人気を一身に集めしかのごとき観があった。しかしながらイエスはかかるものに心を許し給わなかった。
要義1 [イエスの教と治癒と祈]イエスはその教訓とその治病とにおいて著しき力を現し給うた。而してこの力により多くの群集は彼に引きつけられた。しかしながら彼の力の秘訣は、密かなる所における神との交わりに在った。彼は荒野のただ中に唯一人神に祈り給うことの多きがために、神より出づる力をその身に受け給うたのであった。イエスすらなお然り、いわんや我らは益々祈ることの必要を知るべきである。
要義2 [イエス群衆を退け給う]教えを聴かんとし病を醫されんとして来る群集を逐い出すことはイエスとしては似合しからざることのごとくに思われる。しかしながらこれはイエスにとって必要であった。その理由の一は、前掲要義一に示すごとく祈りの必要であり、その二は、イエスを利用して自己の益を図らんとする心をもってしては、結局イエスを知ることができないからであり、その三はイエスの外部的の力に眩惑される者はイエスの心の姿を見ることができないからである。かかるものを逐い払うことはイエスにとって必要であり彼らにとっては有益である。

マルコ伝第2章
2-2 イエスに対する反対の興起 2:1 - 3:12
2-2-イ 中風の者を醫し給う 2:1 - 2:12
(マタ9:1-8) (ルカ5:17-26)   

註解: 2:1−3:6はイエスに対し宗教家すなわち祭司、学者、パリサイ人等の反対が起り次第にその反対が高まって来る事情を叙す。

2章1節 數日(すにち)(のち)、またカペナウムに()(たま)ひしに、その(いへ)(いま)することを()きて、[引照]

口語訳幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
塚本訳数日の後、カペナウムにかえられると、家におられることがすぐ知れわたって、
前田訳数日後、カペナウムに帰られると、家においでと知れわたった。
新共同数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
NIVA few days later, when Jesus again entered Capernaum, the people heard that he had come home.
註解: イエスの隆々たる名声が四方に広まって若干の時日を経過して再びカペナウムに帰り、たぶんペテロの外姑(しゅうとめ)の家に入り給い、このこと(たちまち)にして人々に知れわたった。
辞解
「数日の後」を「その家に在すことを聞きて」に懸けることもできる(E0)。大体として福音書記者は日時について不精確である。「家」につきてはマコ1:33註解参照。

2章2節 (おほ)くの(ひと)あつまり(きた)り、門口(かどぐち)すら隙間(すきま)なき(ほど)なり。[引照]

口語訳多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。
塚本訳もはや門口にも場所がないほど、大勢の人が集まってきた。この人たちに御言葉を語っておられると、
前田訳あまり大勢が集まったので、もはや戸口にも場所がなかったが、イエスは彼らに教えをのべておられた。
新共同大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
NIVSo many gathered that there was no room left, not even outside the door, and he preached the word to them.
註解: イエスの居りし室内は一杯であり、その門口の前すら人が一杯であった。イエスの名声の嘖々(さくさく)たりしことを知ることができる。反対者が起るのは多くかかる時である。

イエス(かれ)らに御言(みことば)(かた)(たま)ふ。

註解: 神の国の福音がイエスの御言であった。

2章3節 ここに四人(よにん)(にな)はれたる中風(ちゅうぶ)(もの)人々(ひとびと)つれ(きた)る。[引照]

口語訳すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。
塚本訳人々が一人の中風の者を、四人にかつがせてつれて来る。
前田訳そこへ人々は四人にかつがせて中風やみをひとり連れて来た。
新共同四人の男が中風の人を運んで来た。
NIVSome men came, bringing to him a paralytic, carried by four of them.
註解: 床に臥さしめ四隅をもって運んだのであった。この四人は信仰ある彼の友人または家族であろう。

2章4節 群衆(ぐんじゅう)によりて御許(みもと)にゆくこと(あた)はざれば、[引照]

口語訳ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。
塚本訳群衆のためイエスのところにつれて行けないので、おいでになる所の(上の)屋根をはがして穴をあけ、中風の者を担架に寝かせたまま(イエスの前に)吊りおろす。
前田訳しかし群衆のためにイエスに近づけないので、彼のおられたところの屋根をはずして穴をあけ、中風やみの寝ている床をおろした。
新共同しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
NIVSince they could not get him to Jesus because of the crowd, they made an opening in the roof above Jesus and, after digging through it, lowered the mat the paralyzed man was lying on.
註解: イエスの周囲は立錐の余地もなき群衆に充ち、室の内外とも寸隙がなかった。

(いま)(ところ)屋根(やね)穿(うが)ちあけて、中風(ちゅうぶ)(もの)(とこ)のまま()(おろ)せり。

註解: 家の外側の階段より屋根の上に上り平面なる屋根に穴を穿(うが)った。この地方の家の構造よりかくすることが可能である。かくしてまでもイエスに接せんとする彼らの熱心を見よ。イエスに(まみ)えんがためには人は多くの障害を通過しなければならぬ(B1)。

2章5節 イエス(かれ)らの信仰(しんかう)()て、[引照]

口語訳イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
塚本訳イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われる、「子よ、いまあなたの罪は赦された。」
前田訳イエスは彼らの信仰を見て中風やみにいわれる、「わが子よ、あなたの罪はゆるされます」と。
新共同イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
NIVWhen Jesus saw their faith, he said to the paralytic, "Son, your sins are forgiven."
註解: 「彼ら」は病者を運び来れる人々で、彼らの信仰は彼を癒す原因となった。代祷の効果の実例である。

中風(ちゅうぶ)(もの)()ひたまふ『()よ、(なんぢ)(つみ)ゆるされたり』

註解: 疾病、不幸等は罪の結果であるとはユダヤ人の思想であった。イエスがかく言い給いし所以は一つは中風の者をまず霊的に更生せしめんがためと一つは群衆の中にありてイエスを(うかが)い居る学者たちに対し一矢を(むく)いんがためであった。イエスはその全き愛をもて罪を赦す権あることを確信し給うた。

2章6節 ある學者(がくしゃ)たち其處(そこ)()しゐたるが、(こころ)(うち)に、[引照]

口語訳ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、
塚本訳数人の聖書学者がそこに坐っていたが、心の中で考えた、
前田訳学者が何人かそこにすわっていて、心の中で考えた、
新共同ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
NIVNow some teachers of the law were sitting there, thinking to themselves,
註解: 彼らはイエスの非常なる風評を見て、嫉妬の念にたえずイエスを陥れる隙を(うかが)わんがために群衆と共に来り会したものである。ルカ5:17によればパレスチナの各地より来たりしパリサイ人教法学者であったとのこと。

2章7節 『この(ひと)なんぞ()()ふか、これは(かみ)(けが)すなり、(かみ)ひとりの(ほか)(たれ)(つみ)(ゆる)すことを()べき』と(ろん)ぜしかば、[引照]

口語訳「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。
塚本訳「この人はなぜあんなことを言うのだろう。冒涜だ。神お一人のほか、だれが罪を赦せよう。」
前田訳「この人はなぜこういうのか。けがしごとだ。神おひとりのほか、だれが罪をゆるせるか」と。
新共同「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
NIV"Why does this fellow talk like that? He's blaspheming! Who can forgive sins but God alone?"
註解: 神学者を神学論をもってイエスに対し、イエスは事実をもって彼らに答え給う。人は人の罪を赦し得ず罪は神に対するもの故神のみこれを為し得るはずである。ゆえにイエスの言は冒涜であると言うのである。

2章8節 イエス(ただ)ちに(かれ)()がかく(ろん)ずるを(こころ)(さと)りて()(たま)ふ『なにゆゑ(かか)ることを(こころ)(ろん)ずるか、[引照]

口語訳イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。
塚本訳イエスは彼らがひそかにこう考えているのを、すぐ霊で見抜いて、「なんで、そんなことを心の中で考えているのか。
前田訳イエスは彼らがひそかにこう考えているのにすぐ霊で気づいて、彼らにいわれる、「なぜそのようなことを心の中で考えているのか。
新共同イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
NIVImmediately Jesus knew in his spirit that this was what they were thinking in their hearts, and he said to them, "Why are you thinking these things?
註解: 学者らは口にはその心持を発表しなかったけれども、イエスはその霊の力によりてこれを感得し給うた。

2章9節 中風(ちゅうぶ)(もの)に「なんぢの(つみ)ゆるされたり」と()ふと「()きよ、(とこ)をとりて(あゆ)め」と()ふと、(いづれ)(やす)き。[引照]

口語訳中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
塚本訳この中風の者に、あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて担架をかついで歩け、と言うのと、どちらがたやすい(と思う)か。
前田訳中風やみに『あなたの罪はゆるされます』というのと、『起きて床を持ちあげて歩け』というのとどちらがやさしいか。
新共同中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
NIVWhich is easier: to say to the paralytic, `Your sins are forgiven,' or to say, `Get up, take your mat and walk'?
註解: 勿論前者が易い、その故は後者はその結果が人の目に見え、前者は見えないからである。それ故にもしイエスが後者のごとき命令を発して、中風の人がこれに従うならば、このイエスは勿論罪を赦す権があることを認めなければならぬ。

2章10節 (ひと)()()にて(つみ)(ゆる)權威(けんゐ)ある(こと)を、(なんぢ)らに()らせん(ため)に』――中風(ちゅうぶ)(もの)()(たま)ふ――[引照]

口語訳しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、
塚本訳では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と彼らに言いながら、中風の者に言われる、
前田訳しかし、人の子が地上で罪をゆるす権威を持つことをあなた方に知らせよう」と。そして中風やみにいわれる、
新共同人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
NIVBut that you may know that the Son of Man has authority on earth to forgive sins...." He said to the paralytic,
註解: イエスは御自身を「人の子」と呼び給うた。メシヤを意味す。マタ8:20辞解参照。イエスがこの権威を自覚し給うたのは神との合一意識によったものと見るべきである。ヨハ5:19ヨハ5:30等の思想はこのイエスの自覚の敷衍である。

2章11節 『なんぢに()ぐ、()きよ、(とこ)をとりて(いへ)(かへ)れ』[引照]

口語訳「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
塚本訳「あなたに命令する、起きて担架をかついで、家に帰りなさい。」
前田訳「あなたにいう、起きて床を持ちあげて家にお帰り」と。
新共同「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
NIV"I tell you, get up, take your mat and go home."

2章12節 (かれ)おきて(ただ)ちに(とこ)をとりあげ、人々(ひとびと)眼前(まのあたり)いで()けば、(みな)おどろき、かつ(かみ)(あが)めて()ふ『われら()くの(ごと)きことは()えて()ざりき』[引照]

口語訳すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
塚本訳すると彼は起き上がり、すぐ担架をかついで、皆の見ている前を出ていった。皆が呆気にとられ、「こんなことはかって見たことがない」と言って、神を讃美した。
前田訳彼は起きてすぐに床を持ちあげて皆の前を出て行った。皆はおどろき、「こんなことはかつて見たことがない」といって神をたたえた。
新共同その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
NIVHe got up, took his mat and walked out in full view of them all. This amazed everyone and they praised God, saying, "We have never seen anything like this!"
註解: イエスの一言によりて中風はたちどころに醫され、学者たちの内心の反対はイエスの示し給える事実によって粉砕された、かくて民衆は単純にイエスの御業におどろき神を崇めた。学者、パリサイ人らはこの場合敗北しついに一言も発し得なかったけれども、それだけ心の中に益々イエスを憎んだ。
要義 [権威の自覚]権威の自覚は絶対正義の立場より来り、絶対正義の意識は神の御旨に一致していることの意識より生ず、イエスの権威の自覚は神より来れるものであった。従ってその奇蹟力もこの自覚に伴って起って来た。

2-2-ロ レビの聖召と取税人との交歓 2:13 - 2:17
(マタ9:9-13) (ルカ5:27-32)   

2章13節 イエスまた海邊(うみべ)()でゆき(たま)ひしに、群衆(ぐんじゅう)みもとに(つど)(きた)りたれば、(これ)(をし)(たま)へり。[引照]

口語訳イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。
塚本訳また湖のほとりに出てゆかれた。群衆が皆あつまって来たので、教えられた。
前田訳ふたたび彼は湖畔に出て行かれた。群衆が皆彼のところに来たのでお教えになった。
新共同イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
NIVOnce again Jesus went out beside the lake. A large crowd came to him, and he began to teach them.
註解: 次節を起さんがための序文のごとき一節で、時、処等につき明確なる指摘を欠く、イエスの教室は山上でありまた海辺であった。

2章14節 (かく)()()くとき、アルパヨの()レビの、收税所(しうぜいしょ)()しをるを()て、[引照]

口語訳また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
塚本訳それから通りがかりに、アルパヨの子レビが税務所に坐っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われると、立って従った。
前田訳進んで行かれると、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのを見受けて、彼にいわれる、「わたしについて来なさい」と。すると立って従った。
新共同そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
NIVAs he walked along, he saw Levi son of Alphaeus sitting at the tax collector's booth. "Follow me," Jesus told him, and Levi got up and followed him.
註解: マタ9:9以下と対照してこのレビがマタイ(マコ3:18)であることは明かである。レビは取税人であった。
辞解
取税人はローマ政府の関税徴収事務の請負を為すユダヤ人で、ユダヤ人より搾取して私腹を肥やす者多きために一般にユダヤ人に憎悪と軽蔑の目をもって見られていた。
[アルパヨ] マコ3:18のヤコブの父とは別人である。

『われに(したが)へ』と()(たま)へば、()ちて(したが)へり。

註解: イエスの見る処は世の見る処と異なっていた。世人に義人と見ゆるパリサイ人よりも、世人より罪人と同視される取税人にかえって救わるべき素質があった。「我に従へ」は弟子としてイエスに(つか)えイエスと行動を共にすること。

2章15節 (しか)して()(いへ)にて食事(しょくじ)(せき)につき居給(ゐたま)ふとき、[引照]

口語訳それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。
塚本訳イエスが(レビの)家で食卓についておられたとき、大勢の税金取りや罪人も、イエスや弟子たちと同席していた。──(すでにこの時)多くの人がイエスに従っていたのである。──
前田訳イエスが彼の家で食卓につかれると、多くの取税人や罪びとも彼や弟子たちと同席した。彼に従うものは多かったのである。
新共同イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
NIVWhile Jesus was having dinner at Levi's house, many tax collectors and "sinners" were eating with him and his disciples, for there were many who followed him.
註解: レビの家にて袂別(べいべつ)の饗宴を催したのであろう。
辞解
[其の家] 「イエスの家」と解する説あれど前後の事情より不適当なり。

(おほ)くの取税人(しゅぜいにん)罪人(つみびと)ら、イエス(およ)弟子(でし)たちと(とも)(せき)(つらな)る、これらの(もの)おほく()て、イエスに(したが)へるなり。

註解: この一群は一般のユダヤ人の目には非常に穢わしく低級に見えた、祭司、学者、パリサイ人、サドカイ人等宗教的に尊敬される階級の人々は取税人・罪人らと食を共にすることを絶対に為さなかった。
▲イエスのこの態度は彼が人種、階級、職業等の差別を無視してすべての人を愛していたことと、誤った伝統によって人間の間に差別を設けることに対して抵抗的態度を取っていたことの証拠である。
辞解
[罪人] モーセの十誡をすら充分に守らない生活を為す人、取税人と並び称せらる。彼らはパリサイ人や学者、祭司らに嫌われまた彼らもこれらを嫌ったけれどもイエスには引付けられた。

2章16節 パリサイ(びと)學者(がくしゃ)ら、イエスの罪人(つみびと)取税人(しゅぜいにん)とともに(しょく)(たま)ふを()て、その弟子(でし)たちに()ふ『なにゆゑ取税人(しゅぜいにん)罪人(つみびと)とともに(しょく)するか』[引照]

口語訳パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
塚本訳パリサイ派の聖書学者たちは、イエスが罪人や税金取りと一しょに食事をされるのを見て、弟子たちに言った、「なぜあの人は税金取りや罪人と一しょに食事をするのか。」
前田訳すると、パリサイ人の学者は彼が罪びとや取税人と食を共にされるのを見て、弟子たちにいった、「彼は取税人や罪びとと食を共にするのか」と。
新共同ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
NIVWhen the teachers of the law who were Pharisees saw him eating with the "sinners" and tax collectors, they asked his disciples: "Why does he eat with tax collectors and `sinners'?"
註解: 2:6において学者たちはイエスに対し内心の不満を懐いた。本節に至って彼らはこの不満を間接にその弟子たちに洩らした。かくして彼らのイエスに対する反対は次第にその度を高めて来るのを見る。「なに故」と言いて穏やかに質問しているけれども、内心は「実に赦すべからざることである」との意を含むことは勿論である。

2章17節 イエス()きて()(たま)ふ『(すこや)かなる(もの)は、醫者(いしゃ)(えう)せず、ただ(やまひ)ある(もの)、これを(えう)す。(われ)(ただ)しき(もの)(まね)かんとにあらで、罪人(つみびと)(まね)かんとて(きた)れり』[引照]

口語訳イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
塚本訳イエスは聞いてその人たちに言われる、「丈夫な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招きに来たのである。」
前田訳イエスはそれを聞いて、彼らにいわれる、「医者を要するのは健康人ではなくて病人である。わたしが招きに来たのは、義人をではなく罪びとをである」と。
新共同イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
NIVOn hearing this, Jesus said to them, "It is not the healthy who need a doctor, but the sick. I have not come to call the righteous, but sinners."
註解: イエスの使命は病を醫し罪人を救うに在った。自ら無病と考うる者、自ら義人と信ずる者はイエスには用なき人々であった。しかしながら死に勝つほど健康な者が無いと同じく罪無きほど義しき者はない。ここにイエスが「義しき者」「罪人」と言い給いしは当時の一般人の用語と意味とに従い、半面において反語としてこれを用い給うたのである。ロマ3:10の考え方をここに適用することはできない。
要義 [イエスの行動の自由さ]イエスの生涯は一面において保守的であり他面において革命的であった。イエスは変更の必要なき習慣伝統において保守的であり、人間の本性の価値に関する問題において革命的であった。自ら義人として誇る宗教家よりも取税人・罪人として蔑視される人々の中にかえって救わるべき魂があることをイエスは重視し給い、これに反する習慣を破って、破天荒と思われる行動に出で給うたのであった。キリスト者は(いたずら)に新奇を(てら)うべきではない、けれども根本的の問題につきては断然旧来の陋習(ろうしゅう)を破るべきである。

2-2-ハ 新と旧との不一致 2:18 - 2:22
(マタ9:14-17) (ルカ5:33-39)  

2章18節 ヨハネの弟子(でし)とパリサイ(びと)と[は、]斷食(だんじき)しゐたり。[引照]

口語訳ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
塚本訳(ある断食日に洗礼者)ヨハネの弟子とパリサイ人が断食をしていると、人々が来てイエスに言う、「ヨハネの弟子とパリサイ人の弟子は断食をするのに、なぜあなたの弟子は断食をしないのか。」
前田訳ヨハネの弟子たちとパリサイ人が断食していると、人々が来てイエスにいう、「なぜヨハネの弟子とパリサイ人の弟子は断食するのに、あなたの弟子は断食しませんか」と。
新共同ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
NIVNow John's disciples and the Pharisees were fasting. Some people came and asked Jesus, "How is it that John's disciples and the disciples of the Pharisees are fasting, but yours are not?"
註解: この訳語によればヨハネの弟子とパリサイ人とは断食する習慣であったとの意味となる。「とは」を「と」とすれば「ある時断食を行っていた」こととなる(L2)。双方とも可能であるが、ここでは前者と見る方が適当である。

[人々(ひとびと)]イエスに(きた)りて()

註解: 「彼らイエスに来りて言う」とも訳することができる(E0、M0)。然る時は断食している人々よりの質問となる。現行訳のままにて可なり。

『なにゆゑヨハネの弟子(でし)とパリサイ(びと)弟子(でし)とは斷食(だんじき)して、(なんぢ)弟子(でし)斷食(だんじき)せぬか』

註解: イエスに対する反対は次第に高まり、ついにイエスに対して直接反対を表明するに至った(6節、16節参照)。なおイエスの弟子は断食を行わなかった(ただし絶対に断食しなかったかどうかは不明であるが少なくとも他の人々と同様に規定せられし時刻にはこれを行わなかった)。(▲宗教的行事は固定せる習慣となる場合、その意義と効力とを失う。イエスは精神を重んじて形式に拘泥しなかった。今日のキリスト教会にもこのパリサイ的精神が支配的となる危険なきか。)パリサイ人やヨハネの弟子らのごとき厳格なる人々にはこの態度がいかにも放埓(ほうらつ)で不信仰のごとくに見えた。

2章19節 イエス()(たま)ふ『新郎(はなむこ)(とも)だち、新郎(はなむこ)(とも)にをるうちは斷食(だんじき)()べきか、新郎(はなむこ)(とも)にをる(あひだ)は、斷食(だんじき)するを()ず。[引照]

口語訳するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。
塚本訳イエスは言われた、「婚礼の客は花婿がまだ一しょにいるうちに、断食(をして悲しむこと)が出来ようか。(もちろん)花婿と一しょにいる間に断食は出来ない。
前田訳イエスはいわれた、「花むこが共にいる間、婚礼の客が断食できるか。花むこが共にいる間、断食はできない。
新共同イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
NIVJesus answered, "How can the guests of the bridegroom fast while he is with them? They cannot, so long as they have him with them.
註解: 新郎の友だちは婚姻の席に招かれてその歓楽を共にし、その歓喜を共にすべき者故、その座で断食のごとき憂鬱なる態度を為すべきではない。
辞解
[新郎の友だち] 原語「新郎の子ら」であるが訳語のごとき意味に用う。▲口語訳「婚礼の客」は意訳。

2章20節 ()れど新郎(はなむこ)をとらるる()きたらん、その()には斷食(だんじき)せん。[引照]

口語訳しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。
塚本訳しかしいまに花婿を奪いとられる時が来る。その時、彼らは(いやでも)断食をするであろう。
前田訳しかし花むこが彼らから取られる日が来よう。そうすればその日に彼らは断食しよう」と。
新共同しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
NIVBut the time will come when the bridegroom will be taken from them, and on that day they will fast.
註解: イエスは御自身を新郎にたとえ、弟子たちを「新郎の子ら」にたとえ給うた。而してイエスはこの時すでにその受難を予感し給うたのである。イエスはその弟子たちが今は新郎イエスと偕にありて歓喜の絶頂にあること故断食せんとするごとき心持は起らないことを当然として弁解し、やがて彼の死に給う時至れば、弟子たちは悲しみのあまり自ら断食するに至るであろうことを告げ給うた。
辞解
「取られる日」の「日」は複数で「その日」の「日」は単数である。「その日には」なる単数名詞句を終末的に用いたためであろう。B1は「新郎の取り去られる日は一日で、その不在の日は多くに日に及ぶ」といっている。

註解: イエスは断食問題に関する弟子たちの態度をさらに他の例をもって説明し、一般的原則を示し給うた。

2章21節 (たれ)(あたら)しき(ぬの)(きれ)(ふる)(ころも)()ひつくることは()じ。もし(しか)せば、その(おぎな)ひたる(あたら)しきものは、(ふる)(もの)をやぶり、破綻(ほころび)さらに(はなは)だしからん。[引照]

口語訳だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。
塚本訳真新しい布切れで古い着物に継ぎをあてる者はない。そんなことをすれば、新しい当て切は古い着物をひきさき、裂け目はますますひどくなる。
前田訳「だれも織りたての布で古い衣につぎをあてない。あてると、新しいつぎが古い布からやぶけて、裂け目は前よりひどくなる。
新共同だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
NIV"No one sews a patch of unshrunk cloth on an old garment. If he does, the new piece will pull away from the old, making the tear worse.
註解: 旧きユダヤ教の律法主義を保存せんとして新しきキリスト教の布の(きれ)を用いても無駄である。新しき布は新しき途に用いらるべきものである。イエスの弟子を無理に古き習慣をもって束縛してその中に入れてはならない。

2章22節 (たれ)(あたら)しき葡萄酒(ぶだうしゅ)を、ふるき革嚢(かはぶくろ)()るることは()じ、もし(しか)せば、葡萄酒(ぶだうしゅ)(ふくろ)をはりさきて、葡萄酒(ぶだうしゅ)(ふくろ)(すた)らん。[引照]

口語訳まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。
塚本訳また新しい酒を古い皮袋に入れる者はない。そんなことをすれば、酒は皮袋を破って、酒も皮袋もだめになる。」
前田訳だれも新しい酒を古い皮袋には入れない。入れると、酒は皮袋を裂き、酒も皮袋もだめになる。新しい酒は新しい皮袋に!」。
新共同また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
NIVAnd no one pours new wine into old wineskins. If he does, the wine will burst the skins, and both the wine and the wineskins will be ruined. No, he pours new wine into new wineskins."
註解: 福音の新酒はユダヤ教の古袋の中に入れらるべきものではない。無理にこれを容れようとすれば双方とも破滅に帰するだけである。
辞解
[革嚢(かわぶくろ)] 羊の革をもって造れる水袋で肩に斜に負いて水を運ぶ。旧きものは弾力を失い、新しき酒の膨張力に堪えない。

(あたら)しき葡萄酒(ぶだうしゅ)(あたら)しき革嚢(かはぶくろ)に[()るるなり]』

註解: イエスの弟子たちの中に旺溢(おういつ)する新しき精神を旧き断食の形式の中に盛ることはできない。たとい断食することありとも新しき意味の断食でなければならぬ。
要義 [新なる福音]イエスの宣伝える福音は全く新なる生命の生れ出でたものであった。強き生命はそれ自身の途を歩み、それ自身に適せる形態を取る。旧き物の中よりも己に適せるものを取り適せざるものをばこれを排斥する。強き生命の特徴は旧き形式の中に固定し得ない点に存する。それ故に一見破壊的に見えるけれども実は建設的である。▲キリスト教の生命が古い形式の殻の中に窒息して死にかかる時には、古い殻を棄てて新しい生命に復活しなければならない。

2-2-ニ 安息日問題 2:23 - 2:28
(マタ12:1-8) (ルカ6:1-5)  

2章23節 イエス安息(あんそく)(にち)(むぎ)(ばたけ)をとほり(たま)ひしに、弟子(でし)たち(あゆ)みつつ()()(はじ)めたれば、[引照]

口語訳ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。
塚本訳ある安息日に麦畑の中を通られたときのこと、弟子たちが(空腹を覚えて)歩きながら穂を摘み始めた。
前田訳安息日に麦畑を通られたときのこと、弟子たちが道すがら穂を摘みはじめた。
新共同ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
NIVOne Sabbath Jesus was going through the grainfields, and as his disciples walked along, they began to pick some heads of grain.
註解: 安息日に禁止せられし三十九種の行為の一つに「収穫すること」が含まれており、穂を摘むことは収穫の一種と解釈されていた。すなわち弟子たちの行為は律法違反であることとなる。
辞解
[とほり] 原語傍らを通過すること。
[歩みつつ穂を摘み始め] 直訳「穂を摘みつつ歩み始め」となる。おな「歩む」を「道を開く」と訳すべしとの説あれど、この場合現行訳を可とす。また他人の麦畑にて穂を摘みて食することは平日において許されていた(申23:25)。この場合安息日なるが故に問題となった。またちょうど収穫時であり、大麦ならば過越の祭の前、小麦ならばその後となる故イエスの十字架が過越の祭の時とすればおそらくこれより一年または二年の後となる。

2章24節 パリサイ(びと)、イエスに()ふ『()よ、(かれ)らは(なに)ゆゑ安息(あんそく)(にち)()まじき(こと)をするか』[引照]

口語訳すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。
塚本訳パリサイ人がイエスに言った、「なぜあの人たちは、あんな、安息日にしてはならぬことをするのか。」
前田訳パリサイ人らが彼にいった、「あのように、彼らはなぜ安息日にすまじきことをしているのですか」と。
新共同ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
NIVThe Pharisees said to him, "Look, why are they doing what is unlawful on the Sabbath?"
註解: 陽に弟子たちを非難しつつ間接にその師たるイエスを非難している。律法主義者は他人の行為を審くことに熱心であり、自己の律法の尺度に照らして他人を審く。

2章25節 (こた)(たま)ふ『ダビデその(ともな)へる人々(ひとびと)(とも)(とぼ)しくして()ゑしとき()しし(こと)(いま)()まぬか。[引照]

口語訳そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。
塚本訳イエスが言われるには、「あなた達は、ダビデ(王)が自分も供の者も食べるものがなくて空腹の時に何をしたか、(まだ聖書で)読んだことがないのか。
前田訳彼はいわれる、「ダビデとお伴が何も持たなくて飢えたとき何をしたか、あなた方は読まなかったのか。
新共同イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
NIVHe answered, "Have you never read what David did when he and his companions were hungry and in need?
註解: ダビデの先例であればパリサイ人もこれを非難し得ず。イエスの反駁(はんばく)は彼の優れし智慧と、聖書に精通し給えることを示す。

2章26節 (すなは)(だい)祭司(さいし)アビアタルの(とき)、ダビデ(かみ)(いへ)()りて、祭司(さいし)のほかは(くら)ふまじき(そなへ)のパンを()りて(くら)ひ、おのれと(とも)なる(もの)にも(あた)へたり』[引照]

口語訳すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
塚本訳──彼が大祭司アビアタルの時、神の家に入って、祭司のほかだれも食べてはならない、“供えのパンを”食べ、供をしている者にもわけてやったことを。」
前田訳彼は大祭司アビヤタルのとき神の家に入って供えのパンを食べた。それを食べることは祭司たちだけにゆるされるのに、彼はそれをお伴にも与えた」と。
新共同アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
NIVIn the days of Abiathar the high priest, he entered the house of God and ate the consecrated bread, which is lawful only for priests to eat. And he also gave some to his companions."
註解: Tサム21:1−6の記事の引用で、平常ならば祭司以外に食うべからざる聖きパンを、特別非常の際とて大祭司はこれを飢えしダビデ一行に与えて食わしめた。重大なる場合には時に律法の外形に違反してその精神を実行するも差支えがない。飢えて食を必要とする時安息日の規定を破ることもこれと同一の場合である。
辞解
「アビアタル」はこの時の大祭司「アビメレク」の子(Tサム22:20)であった。これをアビアタルと録した理由は(1)マルコの記憶の誤りとする説、(2)この父子は双方ともアビアタルなる名を有っていたとする説、(3)アビアタルがアビメレクの補佐として働いたためとする説等あり、(1)を採る、「神の家」「供のパン」につきてはマタ12:4辞解参照。

2章27節 また()ひたまふ『安息(あんそく)(にち)(ひと)のために(まう)けられて(ひと)安息(あんそく)(にち)のために(まう)けられず。[引照]

口語訳また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
塚本訳また彼らに言われた、「安息日は人のためで、人が安息日のためにあるのではない。
前田訳さらにいわれた、「安息日は人のためにあり、人が安息日のためにあるのではない。
新共同そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
NIVThen he said to them, "The Sabbath was made for man, not man for the Sabbath.
註解: マルコ伝のみに録されている貴重の一節である。人間に信仰と幸福とを与えんがために規定せられし安息日の律法は、パリサイ人らの律法主義の結果、かえって人間の桎梏(しっこく)となり苦痛の原因となった。かくして人間は律法の奴隷となり、律法が人間の禍害の原因となった。イエスの炯眼(けいがん)この一言をもってよくこの大真理を喝破して、律法の奴隷たちに対する覚醒の警鐘となった。(原書欄外に「設けられて」について『▲▲口語訳「設けられてあるので」は適訳』とあるが、現存口語訳では単に『あるので』となっている:編集者加筆)

2章28節 ()れば(ひと)()安息(あんそく)(にち)にも(しゅ)たるなり』[引照]

口語訳それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
塚本訳だから人の子(わたし)はまた安息日の主人である。」
前田訳それゆえ、人の子は安息日の主でもある」と。
新共同だから、人の子は安息日の主でもある。」
NIVSo the Son of Man is Lord even of the Sabbath."
註解: 人の子たるメシヤは人類を支配すべきであり、従って人類のために設けられし安息日も当然人の子の支配の下にある。人の子に在し給うイエスは自由に安息日を処理し得給う。而してイエスに在りて御霊の自由に生くるキリスト者もまた安息日に律法的に束縛せらるべきではない。なおマタ12:8要義「安息日問題」参照。
要義1 [律法とイエス]イエスの安息日に対する態度はイエスの律法に対する態度の代表的なるものである。イエスは律法の形体に束縛せられず、常にその核心を生かし給うた。それ故に形式主義者より見る時、往々にして反律法主義者として見られ給うた。しかしながらイエスの霊は律法そのものに束縛せられ給わざるは勿論、これを完成して一致の高所に引き揚げ給うた。すなわち人間の生命を維持しまたはその病を醫すことのごときは、律法以上のことであり安息日の律法を無視してもこれを行い給うた。これすなわち律法の成就であってその破壊ではない(マタ5:17)。
要義2 [安息日と日曜安息]ユダヤの安息日は神の天地創造の六日を終えて第七日目に安息し給えることの記念であり土曜日であった。キリスト者の日曜安息はこれと異なり、イエスの復活の朝を記念する歓喜と希望の日である。それ故に日曜の安息は律法として我らを束縛すべきではなく、恩恵として感謝をもって受くべきであり、この恩恵の一日を特にイエスの日として記念することによりて、日曜安息日(主日 ─ 黙1:10)の目的が達せられるのである。日曜をあたかもユダヤ教の安息日と同視し、殊にこれをパリサイ主義者の安息日のごとき意味に守らんとすることは誤りでありまた土曜安息をキリスト者に要求するごときも、割礼を異邦のキリスト者に要求すると同様に誤りである(使15:1以下。ガラ2:1以下。コロ2:16)。