黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第23章

分類
9 イエスの受難問題 21:1 - 27:26
9-3 イエス、パリサイ主義を痛撃し給う 23:1 - 23:39

註解: パリサイ人、サドカイ人、祭司長、学者等の反対に対してイエスがいかなる態度を取り給うたかは前章の問題であった。本章においては、イエスがいかにパリサイ人学者等の偽善を(にく)み、これに痛撃を与え給いしかを示している。

23章1節 ここにイエス群衆(ぐんじゅう)弟子(でし)たちとに(かた)りて()(たま)ふ、[引照]

口語訳そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、
塚本訳それからイエスは群衆と弟子たちとにむかって語られた、
前田訳そこでイエスは群衆と弟子たちに語られた、
新共同それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
NIVThen Jesus said to the crowds and to his disciples:
註解: パリサイ人らが退いたので群衆や弟子たちがイエスに近寄って来たのであろう。ここにマタイによりて一ヶ所に集められしパリサイ人らに対するイエスの攻撃は、ルカ20:45−47、マコ12:38−40にわずかにその片影が記されているに過ぎない。ただルカ11:39以下に他の機会に語り給へるものとして、パリサイ人に対する同様の攻撃が記されている。イエスは度々この種の攻撃をパリサイ人らに対して向けられたのであろうけれども、マタイはその記述法に従い(緒言参照)、これを一章に集め、最も適当なる個所としてここに挿入したのであろう。

9-3-イ 教権主義を排す 23:2 - 23:12
(マコ12:38-39) (ルカ20:45-46)  

23章2節 學者(がくしゃ)とパリサイ(びと)とはモーセの()()む。[引照]

口語訳「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
塚本訳「聖書学者とパリサイ人はいまモーセの(後継ぎとしてその)椅子に坐っている。(彼らにはモーセの権威がある。)
前田訳「学者とパリサイ人らはモーセの座を占めている。
新共同「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
NIV"The teachers of the law and the Pharisees sit in Moses' seat.
註解: 彼らは立法者として又民の判官としてモーセの後継者たる地位を占め、自ら宗教上の権威をもって任じ民の崇敬の対象であった。今日の法王、監督、神学博士のごとし。

23章3節 されば(すべ)てその()(ところ)(まも)りて(おこな)へ、されどその所作(しわざ)には(なら)ふな、(かれ)らは()ふのみにて(おこな)はぬなり。[引照]

口語訳だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。
塚本訳だからなんでも彼らがあなた達に言うことを行い、また守れ。しかし、そのすることを真似てはならない。あの人たちは言うだけで行わないのだから。
前田訳それゆえ彼らがあなた方にいうことはすべて行ない、また守れ。しかし彼らのわざにはならうな。彼らは言って行なわぬから。
新共同だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
NIVSo you must obey them and do everything they tell you. But do not do what they do, for they do not practice what they preach.
註解: パリサイ人らの教権主義に対する非難の第一は、その言行の不一致であった。彼らはその教権を握ることをもって満足していた。ゆえにモーセの律法を口にしていたけれどもこれを実行せず、たとい形式的に実行するがごとくに見えても、それを真の意味において実行しなかった。ゆえに彼らに(なら)いて我らも偽善者とならざるを得ない。

23章4節 また(おも)()(くく)りて(ひと)(かた)にのせ、(おのれ)(ゆび)にて(これ)(うご)かさんともせず。[引照]

口語訳また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。
塚本訳すなわち重い荷をたばねて人の肩にのせながら、自分では(担ってやるどころか、)指一本でこれを動かしてやろうともしない。
前田訳彼らは重荷をからげて人々の肩に置き、自らはそれを指一本で動かそうともしない。
新共同彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
NIVThey tie up heavy loads and put them on men's shoulders, but they themselves are not willing to lift a finger to move them.
註解: 多くの律法を課しその重荷を負わせて人をしてその重さに耐うることを得ざらしめ、しかも己はこれを指にて動かさんともせず、いわんや肩に負うことをしない。これ彼らの言うのみにて行わざる一例である。然るにイエスは「凡て労する者、重荷を負ふものわれに来たれ」と(のたま)い自ら我らの重荷を頒ち給う(マタ11:28、29)。

23章5節 (すべ)てその所作(しわざ)(ひと)()られん(ため)にするなり。[引照]

口語訳そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、
塚本訳そのすること為すことがことごとく、人に見せびらかすためである。たとえば、(人の目につくように)経箱の幅を広くしたり、上着の総を大きくしたりする。
前田訳彼らのするわざはすべて人に見られるためである。彼らは経札(きょうふだ)を幅広くし上着の総(ふさ)を大きくする。
新共同そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
NIV"Everything they do is done for men to see: They make their phylacteries wide and the tassels on their garments long;
註解: マタ6:1−18とは反対にすべての所作(しわざ)は神の前に為されずして、人の前に人よりの(ほまれ)を得んがために虚栄心に支配されてこれを行う。ゆえに心のいかんはこれを問わずして唯外形のみ敬虔を装っているのである。

(すなは)ちその經札(きゃうふだ)(はば)ひろくし、(ころも)(ふさ)(おほき)くし、

註解: 「経札」は羊皮紙のリボンのごときものであって、その上に申11:13−32。申6:4−10。出13:11−17等の聖句を記しこれを小さき箱に入れ、出13:9出13:16申6:8申11:18の規定に従い祈祷の時これを肩間又は左の腕に帯ぶるを常としていた。この幅を広くするは、特にその敬虔の態度を目立たしむるがためである。「衣の(ふさ)」(マタ9:20辞解)はユダヤ人らが律法に従いエホバの(もろもろ)誡命(いましめ)を記憶してこれを行うために付けているものであった。ゆえにこれを大きくすることはその律法に対する熱心を示さんがためであった。これらは心の問題を形式に変化してしまったのであって、信仰が形式に化するや否や、必ずこれを人に示さんとの希望が起り、又反対に人に見られんとの希望が心に発芽するや否や信仰は形式に化してしまうのであって恐るべきことである。

23章6節 饗宴(ふるまひ)上席(じゃうせき)會堂(くわいだう)上座(じゃうざ)[引照]

口語訳また、宴会の上座、会堂の上席を好み、
塚本訳また宴会の上座や礼拝堂の上席、
前田訳彼らが好むのは食事での上座、会堂での上席、
新共同宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
NIVthey love the place of honor at banquets and the most important seats in the synagogues;

23章7節 市場(いちば)にての敬禮(けいれい)、また(ひと)にラビと()ばるることを(この)む。[引照]

口語訳広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。
塚本訳市場で挨拶されることや人から先生と呼ばれることを喜ぶ。
前田訳広場であいさつされること、人々から先生(ラビ)と呼ばれることである。
新共同また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
NIVthey love to be greeted in the marketplaces and to have men call them `Rabbi.'
註解: いずれも衆人の中にて目立つ事柄である。すなわち彼らは教会の有力者、地方の名望家、多くの子弟の先生等の地位にいることを好み、反対に人に目立たず、崇められずいわゆる割の悪き地位にいることを好まない、これパリサイ人の精神であって我らの肉の心も自らこれを()っているのである。
辞解
[ラビ] ヘブル語で「先生」「夫子」等の意味。

23章8節 されど(なんぢ)らはラビの(となへ)()くな、(なんぢ)らの()一人(ひとり)にして、(なんぢ)()はみな兄弟(きゃうだい)なり。[引照]

口語訳しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
塚本訳しかしあなた達は『先生』と呼ばれてはならない。あなた達の先生はただ一人(救世主だけで)、あとは皆兄弟であるから。
前田訳あなた方は先生と呼ばれるな。あなた方の先生はひとりであなた方は皆兄弟である。
新共同だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
NIV"But you are not to be called `Rabbi,' for you have only one Master and you are all brothers.
註解: イエスはその弟子たちと信徒との間に宗教上の階級が発生することを禁じ給うた。そしてかかる階級が生ずる原因は主として弟子自身の虚栄心にあることゆえ、特にこれを戒め給うた。パリサイ人らの間にはラビと呼ばるべき人々と然らざるものとの間に厳然たる階級ができ、これによりて宗教の堕落を(きた)したのであって、これを防がんためにイエスは祭司階級の発生を禁じ給い、ラビは唯一人すなわち神のみなることを教え給うた(ヨハ6:45)。この教訓がキリスト教界に無視せられてローマ法王およびその宗教制度が生じ、長老、監督等の階級が発生するに至ったのである。ただしイエスの言を文字のまま形式的に守ることはイエスの望み給いしことと正反対である。この精神を実現しなければならぬ。

23章9節 ()にある(もの)(ちち)()ぶな、(なんぢ)らの(ちち)一人(ひとり)、すなはち(てん)(いま)(もの)なり。[引照]

口語訳また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
塚本訳また地上の者を『父』と呼んではならない。あなた達の父はただ一人、天の父上(だけ)であるから。
前田訳地上のものを父と呼ぶな。あなた方の天の父はひとりにいます。
新共同また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
NIVAnd do not call anyone on earth `father,' for you have one Father, and he is in heaven.
註解: ユダヤにおいて宗教上の管長階級の人を「父」と呼びて非常なる尊敬を示していた。イエスはかかる尊敬は唯一人すなわち天に在す者にのみ払わるべきであることを教え給うた。カトリック教会は名称においても事実においてもこの教訓に違反している。

23章10節 また導師(だうし)(となへ)()くな、(なんぢ)らの導師(だうし)はひとり、(すなは)ちキリストなり。[引照]

口語訳また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
塚本訳『師』と呼ばれてもいけない。あなた達の師はただ一人、救世主である。
前田訳導師と呼ばれるな。あなた方の導師はキリストひとりである。
新共同『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
NIVNor are you to be called `teacher,' for you have one Teacher, the Christ.
註解: 「導師」kathêgêtêsは或は「ラボニ」(マコ10:51ヨハ20:16)のことならんと解し(Z0)、或はギリシャの哲学者に対する弟子たちの称呼であると解する(M0)。いずれとも決定することはできないけれどもイエスの教えんとし給える意味は明瞭であって、ユダヤ人殊にパリサイの徒の間に行われる宗教的特権階級となってはならないことを弟子たちに戒め給うたのである。

23章11節 (なんぢ)()のうち(おほい)なる(もの)は、(なんぢ)らの役者(えきしゃ)と[ならん](なるべし)。[引照]

口語訳そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
塚本訳あなた達のうちで一番えらい者が召使になれ。
前田訳あなた方の最大のものは僕であれ。
新共同あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
NIVThe greatest among you will be your servant.
註解: 「大ならんと思う者」(マタ20:26)ではなく事実「大なる者」であって、イエスは弟子たち相互の間、及び弟子と群衆との間にその信仰において、またその能力において大小の差異あることを無視し給わない。しかしこれらの大なる者が、ラビ、父、導師の称を受くることを許し給わず、又人がかく呼ぶことを禁じ、大なる者は役者(えきしゃ)となるべきことを命じ給うた。
辞解
[役者とならん] マタ20:26、27と同じく「役者となるべし」と訳し命令的未来と見る方が適当であろう。

23章12節 (おほよ)そおのれを(たか)うする(もの)(ひく)うせられ、(おのれ)(ひく)うする(もの)(たか)うせらるるなり。[引照]

口語訳だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
塚本訳だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
前田訳自らを高めるものは低められ、自らを低めるものは高められよう。
新共同だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
NIVFor whoever exalts himself will be humbled, and whoever humbles himself will be exalted.
註解: ヨブ22:29箴29:23エゼ17:24Tペテ5:5ヤコ4:6ヤコ4:10
要義 [宗教上の階級について]ここにイエスがラビ、父、導師と呼ばれるべからずと命じ給える目的は、使徒、預言者、教師(Tコリ12:29)等の特種の職務及びこれに相当せる名称を有つことを禁じ給うたのではない。又我が国にて先生と呼ぶ習慣を廃する必要もない、父を父と呼ぶことは勿論差支えがない。ただかかる名称の結果としてそこに信者相互の関係が単に兄弟姉妹の関係ではないようになり、そこに祭司階級のごとき特種なる一権力階級ができることを戒め給うたのである。(けだ)しかかる階級の出現は当然の結果としてかく尊敬されるものの堕落を来し宗教の職業化となり、遂に福音を枯死せしむるに至るからである。

9-3-ロ 彼らは天国と没交渉なり 23:13 - 23:15
(ルカ11:52)   

23章13節 禍害(わざはひ)なるかな、僞善(ぎぜん)なる學者(がくしゃ)、パリサイ(びと)よ、なんぢらは(ひと)(まへ)天國(てんこく)(とざ)して(みづか)()らず、()らんとする(ひと)()るをも(ゆる)さぬなり。[引照]

口語訳偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
塚本訳ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは人々を天の国から締め出して、自分が入らないばかりか、入ろうとする者をも入らせないからだ。
前田訳わざわいなのはあなた方、偽善の学者とパリサイ人。天国を人々の前に閉ざしてあなた方も入らず、入ろうとする人々も入らせない。
新共同律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
NIV"Woe to you, teachers of the law and Pharisees, you hypocrites! You shut the kingdom of heaven in men's faces. You yourselves do not enter, nor will you let those enter who are trying to.
註解: これよりイエスは直接に学者パリサイ人らの偽善に対し、聖憤に燃え彼らに対して攻撃の弾雨を注ぎ給う。この章に七度「禍なるかな」を繰返して、山上の垂訓における七つの福なるかなと対応せしめ、天国の民の幸福と偽善者の禍とを明示し給う。第一の禍は彼ら自ら天国の何たるかを知らず、宗教上の制度、組織、伝統をそのまま天国と考うるの誤謬(ごびゅう)(いだ)き(今日のキリスト者殊にその指導者たちがキリスト教会に対して()つのと同じ誤謬(ごびゅう)である)、従って自らこの制度、組織、伝統の下に安住して天国の門をばこれを閉じて自ら入らず、従って又入らんとする者をも入らしめない。何となれば彼らは真の天国に入る人を見て、そのどこに行くかを知らないからである。▲「天国」即ち「神の国」は神の霊によって支配される心の中にある。
辞解
[偽善] マタ6:4要義を見よ。

23章14節 [なし][引照]

口語訳〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕
塚本訳〔無し〕
前田訳〔わざわいなのはあなた方、偽善の学者とパリサイ人。やもめの家々を食いつくし、うわべで多くを祈る。受ける裁きは大きかろう〕。
新共同(†底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
NIV
註解: マコ12:40ルカ20:47

23章15節 禍害(わざはひ)なるかな、僞善(ぎぜん)なる學者(がくしゃ)、パリサイ(びと)よ、(なんぢ)らは一人(ひとり)改宗者(かいしゅうしゃ)()んために(うみ)(をか)()めぐり、(すで)()れば、(これ)(おのれ)(ばい)したるゲヘナの()となすなり。[引照]

口語訳偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。
塚本訳ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちはたった一人の改宗者を作るために海と陸とを飛びまわり、そして(改宗者が)できると、自分たちより倍も悪い地獄の子にするからだ。
前田訳わざわいなのはあなた方、偽善の学者とパリサイ人。海や陸をめぐってひとりの改宗者を得ようとし、得ればそれをあなた方に倍する地獄の子にする。
新共同律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
NIV"Woe to you, teachers of the law and Pharisees, you hypocrites! You travel over land and sea to win a single convert, and when he becomes one, you make him twice as much a son of hell as you are.
註解: 「汝らの伝道は極めて熱心である。しかしながらその結果他国人をユダヤ宗に改宗せしめて、結局これらの人々を汝らよりも以上に天国に相応(ふさわ)しからぬものと為してしまう」そのゆえは学者パリサイ人等の偽善に(なら)いてこの世に属する制度、組織、神学、伝統等をもって天国と同一視し、改宗者をこの中に閉じ込めるからである。
辞解
[ゲヘナ] マタ5:22参照
要義 [教会の堕落]イエスが先ず第一に偽善なる学者パリサイ人を非難し給える点は、彼らが天国を閉じて自ら入らず人をも入らしめず、自己の宗派に人を引き入れて彼らを地獄の子たらしむる点にあった。勿論学者やパリサイ人らは彼らこそ最もよく聖書を学び、最も厳格に律法を遵守し、彼らの宗派に入るものは救われ、然らざるものは地獄の子であると思っていたであろう。今日のカトリック教会は絶対的にこれを主張し、新教各教派も皆多少の度においてかかる思想をいだいている。これに対してイエスは革命的宣言を発し、彼らは天国とは関わりなきものであることを宣言し給うた。もしイエスが今日この世に来り給うならば今日の教会に向ってこの言を発し給うであろう。何となればパリサイ人らは教理、形式、制度、組織、伝統をもって彼らの信仰の要素と思惟し、神の御旨に従い神を愛し人を愛することを忘れていたからである。これが教会の堕落であってイエスはパリサイ人らの死守せんとするこの塁壁を破壊して、彼らを信仰の本体に立ち帰らしめんとし給うたのである。これゆえにパリサイ人らがイエスに反対することは当然であり、今日の教会も同様にイエスに反対するであろう(多くの註解家がこの13−15節の意味を解するに苦しみ種々の解を加えているのは、彼らが既に堕落せる教会制度の病の中にいるからであろう。マイヤー等参照)。

9-3-ハ 盲目なるパリサイ人 23:16 - 23:22  

23章16節 禍害(わざはひ)なるかな、盲目(めしひ)なる手引(てびき)よ、なんぢらは()ふ「(ひと)もし(みや)()して(ちか)はば(こと)なし、(みや)黄金(わうごん)()して(ちか)はば(はた)さざるベからず」と。[引照]

口語訳盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。
塚本訳ああ禍だ、君たち目の見えない案内人!君たちは言う、『お宮にかけて誓う者はなんでもないが、お宮の黄金(の器や飾り)にかけて誓う者は、(その誓いを果す)義務がある』と。
前田訳わざわいなのはあなた方、目しいの指導者。あなた方はいう、『宮にかけて誓うものは問題ないが、宮の黄金にかけて誓うものは義務を負う』と。
新共同ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
NIV"Woe to you, blind guides! You say, `If anyone swears by the temple, it means nothing; but if anyone swears by the gold of the temple, he is bound by his oath.'
註解: イエスはパリサイ人、学者らを偽善のみならず、又盲目のゆえをもって非難し給うた(17、19、24、26)。彼らは神に対して盲目なる結果神を恐れず、人民を欺きて宮に献ぐる黄金を宮よりも重んぜしめんとした。(けだ)しこの手段により人民を欺き自己の利慾を充すことができたからである。

23章17節 (おろか)にして盲目(めしひ)なる(もの)よ、黄金(わうごん)黄金(わうごん)(せい)ならしむる(みや)とは(いづれ)(たふと)き。[引照]

口語訳愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。
塚本訳愚かな人たちよ、目の見えない人たちよ、黄金と黄金を清くするお宮と、いったいどちらが尊いのか。
前田訳愚かものよ、目しいよ、黄金と黄金を聖める宮とどちらが大切か。
新共同愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。
NIVYou blind fools! Which is greater: the gold, or the temple that makes the gold sacred?
註解: 黄金が宮より貴いのではない、宮が黄金より貴きがためにこれに献げられし黄金は聖められて貴きものとなる。然るに宮よりも黄金を貴きものとして人民を欺くものは、利慾のために見る明りを失いし盲人である。かかる者に手引きされる人民は禍である。

23章18節 なんぢら(また)いふ「(ひと)もし祭壇(さいだん)()して(ちか)はば(こと)なし、()(うへ)供物(そなへもの)()して(ちか)はば(はた)さざるベからず」と。[引照]

口語訳また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。
塚本訳また(君たちは言う)、『祭壇にかけて誓う者はなんでもないが、その上の供え物にかけて誓う者は、(その誓いを果す)義務がある』と。
前田訳またいう、『祭壇によって誓うものは問題ないが、その上のささげものによって誓うものは義務を負う』と。
新共同また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
NIVYou also say, `If anyone swears by the altar, it means nothing; but if anyone swears by the gift on it, he is bound by his oath.'
註解: 前と同様に無意味な主張であって祭壇を指して誓う場合にはその誓を果すに及ばず供物を指して誓う場合には、これを果さなければならぬとの言伝えを作り出しているのである。かくして無智の民衆を欺き彼らをして供物を重んぜしめようとしているのである。

23章19節 盲目(めしひ)なる(もの)よ、供物(そなへもの)供物(そなへもの)(せい)ならしむる祭壇(さいだん)とは(いづれ)(たふと)き。[引照]

口語訳盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。
塚本訳目の見えない人たちよ、供え物と供え物を清くする祭壇と、いったいどちらが尊いのか。(お宮は黄金に、祭壇は供え物にまさってはいないのか。)
前田訳目しいよ、ささげものとささげものを聖める祭壇とどちらが大切か。
新共同ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。
NIVYou blind men! Which is greater: the gift, or the altar that makes the gift sacred?
註解: 祭壇に献げられることによってその供物が聖となるのであって、供物よりも祭壇の方が貴いこと勿論である。

23章20節 されば祭壇(さいだん)()して(ちか)(もの)は、祭壇(さいだん)とその(うへ)(すべ)ての(もの)とを()して(ちか)ふなり。[引照]

口語訳祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。
塚本訳だから、祭壇にかけて誓う者は、祭壇と、その上の物一切にかけて誓うのである。
前田訳ゆえに、祭壇によって誓うものは、祭壇とその上のものすべてによって誓う。
新共同祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
NIVTherefore, he who swears by the altar swears by it and by everything on it.
註解: ゆえにもし供物を指して誓うことが有効であるならば祭壇を指しても無効なはずがない。

23章21節 (みや)()して(ちか)(もの)は、(みや)とその(うち)()みたまふ(もの)とを()して(ちか)ふなり。[引照]

口語訳神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。
塚本訳またお宮にかけて誓う者は、お宮と、そこにお住みになっている方とにかけて誓い、
前田訳宮によって誓うものは宮とそこに住みたもうものによって誓う。
新共同神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
NIVAnd he who swears by the temple swears by it and by the one who dwells in it.
註解: 宮を指して誓う者は結局神を指して誓うものであって、その誓いは果さなければならない。

23章22節 また(てん)()して(ちか)(もの)は、(かみ)御座(みくら)とその(うへ)()したまふ(もの)とを()して(ちか)ふなり。[引照]

口語訳また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。
塚本訳天にかけて誓う者は、神の御座と、その上にお坐りになっている方とにかけて誓うのである。
前田訳天によって誓うものは神のみ座とその上に座したもうものによって誓う。
新共同天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
NIVAnd he who swears by heaven swears by God's throne and by the one who sits on it.
註解: (▲最も大切なことは、黄金、供物、祭壇、神の宮等に心を奪われることなく、常に神の前に在る信仰生活に入ることである。すべて目に見えるものを超越して直接に神との交わりに入るべきである。)それゆえにすべての誓いは結局神に対する誓であって皆(はた)すべきものであり、この間に全く差異があるはずがない。
要義 [宗教的形式の過重]洗礼の形式について浸礼と滴礼との効力の差を論ずるがごとき、又晩餐の形式において種なしパンの必要の有無を論ずるがごとき、又晩餐洗礼を授くる資格のある者は一定の方法により試験せられてその資格を得たる者に限ると論ずるがごときは、すべてこの形式の末に拘泥して相争うパリサイ主義に比すべきものであろう。イエスはかかる形式上の差別を無視し給い、結局すべての形式はそれが神に中心を置くものであるならば同一の意味に帰することを示し給い、この結論をさらに進めていくならばマタ5:34におけるがごとく「誓う勿れ」「ただ然り然り否否と云え」なる教訓に帰着するのである。パリサイ人らに対してはこの最後の境地に彼らを導く前に先ず彼らの愚なる拘泥そのものを除くことが必要であった。

9-3-ニ 彼らは事の大小を混同す 23:23 - 23:24
(ルカ11:42)   

23章23節 禍害(わざはひ)なるかな、僞善(ぎぜん)なる學者(がくしゃ)、パリサイ(びと)よ、(なんぢ)らは薄荷(はくか)蒔蘿(いのんど)・クミンの十分(じふぶん)(いち)(をさ)めて、律法(おきて)(うち)にて(もっと)(おも)公平(こうへい)憐憫(あはれみ)忠信(ちゅうしん)とを等閑(なほざり)にす。[引照]

口語訳偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。
塚本訳ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは薄荷や蒔蘿やクミンの(収穫の)一割税は(神妙に)納めるが、律法の中でもっと大切な正義と憐れみと忠実とをすてて顧みないからだ。しかしこれこそ行うべきである。だがあれもすててはならない。
前田訳わざわいなのはあなた方、偽善の学者とパリサイ人。薄荷(はっか)、いのんど、ういきょうの十分の一は納めて、掟の、より重要なものである公平とあわれみと真実を無視する。これこそ行なうべきもの、しかしあれも無視すべきでない。
新共同律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
NIV"Woe to you, teachers of the law and Pharisees, you hypocrites! You give a tenth of your spices--mint, dill and cummin. But you have neglected the more important matters of the law--justice, mercy and faithfulness. You should have practiced the latter, without neglecting the former.
註解: レビ27:30民18:21申14:22−27によりその生産物の十分の一を祭司に納める習慣があった。パリサイ人らはこの義務を一層厳格に守らんがために薄荷(はくか)蒔蘿(いのんど)、クミン等の普通看過(かんか)される小植物にまでもこれの十分の一税を及ぼしていた。そのくせ他方に最も重要なる公平、憐憫(あわれみ)、忠信等律法の中心たるべきものをばこれを等閑(なおざり)に付していた。すなわち彼らは律法の末節に関して熱心であって、律法の中心問題については盲目であった。

されど(これ)(おこな)ふべきものなり、(しか)して、(かれ)もまた等閑(なほざり)にすべきものならず。

註解: イエスはパリサイ人らが十分の一税を厳格に守ることをば否定し給わず、ユダヤ人としての義務はこれを等閑(なおざり)にすべからざることを教え給うと共に、最も必要なる律法の中心真理はこれを行うべきものであることを彼らに教え給うた。この中心の真理を行ってのみ末葉(まつよう)は完全にこれを行うことができる。

23章24節 盲目(めしひ)なる手引(てびき)よ、(なんぢ)らは(ぶよ)()()して駱駝(らくだ)()むなり。[引照]

口語訳盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
塚本訳目の見えない案内人よ、君たちは(律法を守るために、酒の中に落ちた)一匹の蚋をこし出しながら、駱駝を飲みこんでいる。
前田訳目しいの指導者よ、あなた方はぶよをこし出しながららくだをのみ込む。
新共同ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
NIVYou blind guides! You strain out a gnat but swallow a camel.
註解: (ぶよ)は葡萄酒の中にまじる虫である。ユダヤ人は葡萄酒を飲む際にこれを()していかに小さき虫にてもこれを呑まないようにしていた。すなわち小さいことにも厳密に注意していることの比喩である。パリサイ人らはこの点に極めて厳格であることは(よみ)すべきことであるにしても、一方大切なる道徳を無視して駱駝(らくだ)のごとき大きな動物をも呑むごとき重大なる過誤(かご)を演じている以上小事に厳格であることも無意味になってしまう。
要義 [信仰による行為の大小について] キリスト者として満たさなければならない義務には自然大小の差別がある。小事に極めて厳格なる者は、一見最も忠実なる信徒のごとくに見えるけれども、これらの人々は往々にしてキリスト教の最も重要なる真理を忘却し去る場合がないではない。パリサイ人らはその最もよき一例であった。而してその大小はその行為の外面的の大小ではない、又形式的に律法に叶っているからではない、その内面において愛と真理と公平とに叶っているや否やにある。大規模なる慈善事業であっても、必ずしも大なる行為ではない、キリストの御名のために小さき信徒に水一杯を与うる行為にかえって大なる行為があり得るのである。厳格に禁酒禁煙を守っていてもその人にして、もし正義と公平と愛とにおいて欠けているならば、その人は(ぶよ)を漉して駱駝を呑むものである。要するにこの場合においても律法の文字と形式とに囚われるものは、必ずこの大小を顚倒(てんとう)するの過誤に陥るのであって、これもまたパリサイ主義の最も著しき欠点であることをイエスは指摘し給うたのである。▲愛を欠いた律法主義ほどイエスの心に反する存在はない。

9-3-ホ 彼らは内醜外麗なり 23:25 - 23:28
(ルカ11:39-44)   

23章25節 禍害(わざはひ)なるかな、僞善(ぎぜん)なる學者(がくしゃ)、パリサイ(びと)よ、(なんぢ)らは酒杯(さかづき)(さら)との(そと)(きよ)くす、されど(うち)貪慾(どんよく)放縱(ほしいまま)とにて滿()つるなり。[引照]

口語訳偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。
塚本訳ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは杯や皿の外側は清潔にするが、内側は掠め取った物と不節制とでいっぱいだからだ。
前田訳わざわいなのはあなた方、偽善の学者とパリサイ人。あなた方は杯や皿の外は清めるが、内は盗みとわがままでみちている。
新共同律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
NIV"Woe to you, teachers of the law and Pharisees, you hypocrites! You clean the outside of the cup and dish, but inside they are full of greed and self-indulgence.
註解: この食物の例はパリサイ人らより他人に対する場合、27節の白く塗りたる墓は他人よりパリサイ人らを見る場合として考うべきであろう。偽善なる学者パリサイ人らは他人との交渉が起る場合に、あたかも甘き葡萄酒を盛れるごとくに思わしむる美わしき潔き酒杯(しゅはい)と、山海の珍味を盛れるがごとき立派な皿とをもってその人の前に提供する。すなわち彼ら自身をいかにも正しき潔き者なるがごとくに装いつつ人に対する。しかしながらその心中には貪慾と放縦(ほうじゅう)とが充満しているのである。

23章26節 盲目(めしひ)なるパリサイ(びと)よ、[引照]

口語訳盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
塚本訳目の見えないパリサイ人よ、まず杯の内(の物)を清潔にせよ。そうすれば外も(おのずと)清潔になるであろう。
前田訳目しいのパリサイ人よ、まず杯の内を清めよ、すれば外も清くなろう。
新共同ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
NIVBlind Pharisee! First clean the inside of the cup and dish, and then the outside also will be clean.
註解: 彼らは盲目である、何となればかかる偽善によりて他人を欺き得るものと愚にも考うるがゆえである。

(なんぢ)まづ酒杯(さかづき)(うち)(きよ)めよ、さらば(そと)(きよ)くなるべし。

註解: 心の中に貪慾、放縦(ほうじゅう)の心がない場合には、外面を飾るの必要は全くない、外面は自然に潔くなって行くのである。木立ちて道生ず、キリスト者の行くべき道は、この根本内心を潔むることである。人は欺かんとしてかえって欺くことができない。「(おお)われたるものにあらわれぬはなし」(マタ10:26)。

23章27節 禍害(わざはひ)なるかな、僞善(ぎぜん)なる學者(がくしゃ)、パリサイ(びと)よ、(なんぢ)らは(しろ)()りたる(はか)()たり、(そと)(うるわ)しく()ゆれども、(うち)死人(しにん)(ほね)とさまざまの(けがれ)とにて滿()つ。[引照]

口語訳偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
塚本訳ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは白く塗った墓に似ているからだ。外側はりっぱに見えるが、内側は死人の骨とあらゆる汚れとでいっぱいである。
前田訳わざわいなのはあなた方、偽善の学者とパリサイ人。あなた方は白くぬった墓に似る。それは外は美しく見えるが内は死人の骨やあらゆるけがれで満ちている。
新共同律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
NIV"Woe to you, teachers of the law and Pharisees, you hypocrites! You are like whitewashed tombs, which look beautiful on the outside but on the inside are full of dead men's bones and everything unclean.
註解: ユダヤ人の墓は毎年アダルの月の十五日にその墓を石灰をもって白く塗る習慣があった。これ人が知らずして墳墓(ふんぼ)に触れることによりて己を穢すことなからんためであった。この白く塗りたる墓がパリサイ人らの姿に似ているのであって、外観の美わしさをもって内面の著しき汚穢(けがれ)掩隠(おおいかく)しているのが彼らの有様である。

23章28節 かくのごとく(なんぢ)らも(そと)(ひと)(ただ)しく()ゆれども、(うち)僞善(ぎぜん)()(はう)とにて滿()つるなり。[引照]

口語訳このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
塚本訳そのように君たちも、外側はいかにも信心深そうに人に見えるが、内側は偽善と不法とで一ぱいである。
前田訳そのようにあなた方も外は人に正しく見えるが、内は偽善や不法に満ちている。
新共同このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
NIVIn the same way, on the outside you appear to people as righteous but on the inside you are full of hypocrisy and wickedness.
註解: 内心を見透すことにおいて最も鋭敏に在ししイエスの前には、彼らの内面がさながらに顕われて最早隠すことができない。▲人のみを相手にして神を無視する者は、外面の白さをもって満足する。
要義 [心の内と外]心の内の汚穢を潔むることなしに唯外面のみを潔からしめんとすることは、パリサイ人らの主義であったのみならず、ほとんどすべての道徳の陥る弊害であった。ゆえに美しき酒杯、白く塗りたる墓の比喩を読む場合においては、何人もこの語が我らすべてにそのまま適中していることを感ずるであろう。何人もこの数節を読んでその心を刺されないものはないであろう。この意味においてキリストにより新に生れないもの、すなわち心の内より潔められない者は皆パリサイ人であることを知るのである、我らはこのパリサイ主義より脱して神の力により心の内より潔められなければならない。

9-3-ヘ 彼らは預言者と迫害す 23:29 - 23:36
(ルカ2:47-51)   

23章29節 禍害(わざはひ)なるかな、僞善(ぎぜん)なる學者(がくしゃ)、パリサイ(びと)よ、(なんぢ)らは預言者(よげんしゃ)(はか)をたて、義人(ぎじん)()(かざ)りて()ふ、[引照]

口語訳偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、
塚本訳ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは(先祖が殺した)預言者の墓を建てたり、義人の記念碑を飾ったりして
前田訳わざわいなのはあなた方、偽善の学者とパリサイ人。預言者の墓を建て、義人の碑を飾っていう、
新共同律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
NIV"Woe to you, teachers of the law and Pharisees, you hypocrites! You build tombs for the prophets and decorate the graves of the righteous.

23章30節 (われ)らもし先祖(せんぞ)(とき)にありしならば、預言者(よげんしゃ)()(なが)すことに(くみ)せざりしものを」と。[引照]

口語訳『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。
塚本訳こう言うからだ。──『わたし達は先祖の時代にいても、預言者の血を流す仲間にはならなかっただろう』と。
前田訳『もしわれらが先祖の時に生きていても、預言者の血を流す仲間にはならなかったろう』と。
新共同そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
NIVAnd you say, `If we had lived in the days of our forefathers, we would not have taken part with them in shedding the blood of the prophets.'
註解: 29−36節を読む場合に、学者パリサイ人らのイエスに対する猛烈な反対を背景としてこれを味うことが殊に必要である。キリストの精神は預言者の精神であった。祭司主義、伝統主義、形式主義、外面主義に陥っていたユダヤ民族を、かかる堕落より救い出して真の神に立帰らしめんとするのが預言者の精神であると共に又イエスの精神であった。然るに人はこれに耐えることができない、ゆえにかえってかかる預言者を迫害する。ユダヤ人の先祖が預言者を迫害した精神は又パリサイ人らがイエスを迫害する精神と同一であった。然るにイエスを迫害する学者パリサイ人らはこの預言者らの言に従わず、その行いに(なら)わずして唯預言者の墓をたて義人の碑を飾っている。「偽善者はその生時には忍び得ざりし預言者らを死後に敬うことを常としている」「(けだ)し死者の灰は最早厳しき叱責によりて彼らを困らせないからである」(C1)。これ非常なる偽善であり矛盾である。しかも自らこの矛盾に気が付かないのは彼らがいかに悪魔の捕囚となっているかを証明している。今日のキリスト教会に対する適切なる教訓である。

23章31節 かく(なんぢ)らは預言者(よげんしゃ)(ころ)しし(もの)()たるを(みづか)(あかし)す。[引照]

口語訳このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
塚本訳だから君たちは、預言者殺しの子孫であることを自分で証明している。
前田訳それこそあなた方は預言者を殺した人の子孫であることを自ら証している。
新共同こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
NIVSo you testify against yourselves that you are the descendants of those who murdered the prophets.
註解: 前2節のごとく表面立派なる行為を為し、正しきことを言っていながらイエスを迫害する汝らは、全く汝らの祖先が預言者らを迫害したのと同一の態度であって、「彼らの子」と称えられるに適していることを自ら証明している。

23章32節 なんぢら(も(また))(おの)先祖(せんぞ)桝目(ますめ)(みた)せ。[引照]

口語訳あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。
塚本訳では君たちも(ひと奮発して預言者の中の預言者を殺し、まだ一ぱいになっていない)先祖たちの(罪の)枡を一ぱいにしたらどうだ。
前田訳あなた方も先祖の枡を満たすであろう。
新共同先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
NIVFill up, then, the measure of the sin of your forefathers!
註解: 「もし我らを殺さんとするならば殺せ」との意味が言外に溢れている、而して彼らは果して先祖の枡目を(みた)してイエスを十字架に()け奉った。
辞解
[枡目を充す] 先祖の罪を量る枡一杯に罪を盛ること。

23章33節 (へび)よ、(まむし)(すゑ)よ、なんぢら(いか)でゲヘナの刑罰(けいばつ)()()んや。[引照]

口語訳へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。
塚本訳蛇!蝮の末!どうして君たちは地獄の刑罰を免れることができようか。
前田訳蛇よ、まむしの末よ、どうしてあなた方は地獄の裁きをのがれえよう。
新共同蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
NIV"You snakes! You brood of vipers! How will you escape being condemned to hell?
註解: 蛇、(まむし)は悪意と狡計(こうけい)とに充ちている者の意味であって、パリサイ人らの祖先はこの(まむし)のごときものであった。かかるものの子孫は到底地獄の刑罰を免かれることができない。彼ら自ら義なりと思うことは神の前にはことごとく粉砕されてしまうであろう。

23章34節 この(ゆゑ)()よ、(われ)なんぢらに預言者(よげんしゃ)智者(ちしゃ)學者(がくしゃ)らを(つかは)さんに、()(うち)(ある)(もの)(ころ)し、十字架(じふじか)につけ、(ある)(もの)(なんぢ)らの會堂(くわいだう)にて(むち)うち、(まち)より(まち)()(くる)しめん。[引照]

口語訳それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。
塚本訳だから、わたしが預言者や知者や聖書学者を派遣すると、君たちはそのある者を殺し、また十字架につけ、ある者を礼拝堂で鞭打ち、また町から町へと(追いまわして)迫害するであろう。
前田訳それゆえ、見よ、わたしはあなた方に預言者と知者と学者をつかわす。そのあるものをあなた方は殺し、十字架につけよう。あるものをあなた方は会堂で鞭打ち、町から町へと迫害しよう。
新共同だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
NIVTherefore I am sending you prophets and wise men and teachers. Some of them you will kill and crucify; others you will flog in your synagogues and pursue from town to town.
註解: 「この故に」すなわちパリサイ人らが先祖の枡目を充たす(やから)であるから、イエスの遣わし給う預言者、智者、学者らをあらゆる方法をもって迫害するであろう。
辞解
[智者、学者] 預言者に次で智恵又は知識を与えられた人々。
[殺し] 使徒ヤコブは殺された。
[十字架につけ] ペテロ、アンデレ等は十字架につけられたと言伝えられている。
[会堂にて鞭ち] 使徒たちは時々この運命に逢った(引照4参照)。
[町より町に逐ひ苦しめん] パウロは到る処この種の迫害に逢った(引照5参照)。

23章35節 (これ)によりて義人(ぎじん)アベルの()より、聖所(せいじょ)祭壇(さいだん)との(あひだ)にて(なんぢ)らが(ころ)ししバラキヤの()ザカリヤの()(いた)るまで、地上(ちじゃう)にて(なが)したる(ただ)しき()は、(みな)なんぢらに(むく)(きた)らん。[引照]

口語訳こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。
塚本訳これは、(こうして君たちが迫害する預言者の血だけでなく、最初の殺人であった)義人アベルの血から、聖所と祭壇との間で君たち(の先祖)が殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、(今までに)地上で流されたすべての正義の血(に対する罰)が、君たちに負わされるためである。
前田訳かくて、あなた方にこそ地で流された義の血がすべてかかろう、義人アベルの血から、あなた方が宮と祭壇の間で殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで。
新共同こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
NIVAnd so upon you will come all the righteous blood that has been shed on earth, from the blood of righteous Abel to the blood of Zechariah son of Berekiah, whom you murdered between the temple and the altar.
註解: (▲それらの血の報いが皆今の代に集って来る。すなわちイエスを殺すことによってすべての過去の罪の総計が今の世において報復される。)聖書の最初に出ているアダムの子アベルが、兄カインに殺されしその血を始めとして、聖書の最後の虐殺事件なるザカリヤの血に至るまで、ユダヤ人の歴史を通して多くの義人の血が流されたのであるが、これらの罪の責任は人民の代表ともいうべき学者やパリサイ人等の頭上に負わされるであろう。
辞解
[バラキヤの子ザカリヤ] おそらくU歴24:22にあるエホヤダの子ザカリヤのことであろう。U歴はその当時の聖書の最後に位していた。そえゆえに創とU歴との例をもって聖書全体の例を網羅したのである。なぜにエホヤダをバラキヤと呼んだかは不明である(二つの名称を持っていたのであると解する人、預言者ザカリヤの父パラキヤと取りちがえて筆写した人があったのであると説明する人等がある。ルカ11:51参照、その他ヨセフスの歴史にあるバルクの子ザカリヤ又はバプテスマの父ザカリヤのことであると解する人もあるけれども信じ難い)。

23章36節 まことに(なんぢ)らに()ぐ、これらの(こと)はみな(いま)()(むく)(きた)るべし。[引照]

口語訳よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。
塚本訳アーメン、わたしは言う、これら(に対する罰)は、ことごとくこの時代(の君たち)に臨むであろう。
前田訳本当にいう、これらすべてはこの世代にのぞもう。
新共同はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
NIVI tell you the truth, all this will come upon this generation.
註解: 今の代の人はエルサレムの陥落により、又遂にはキリストの再臨によりて、これらのすべての罪の報いをその身に受けるであろう。何となれば今の代の人は昔から多くの実例をもって祖先の過誤(かご)を知らされているからである。
要義1 [預言者を迫害する心]預言者は直接に神の言に接し、直接に神の声を聴く、そしてそれが現代の人の心を傷つけるや否やを顧みず、人の面を恐れることなしにこの神の言を人々の前に述べる。然るに神の言は罪ある人の耳には常に耐え難いのであって、パリサイ主義に陥れる人々にとっては神の言はあまりに乱暴に聞え、あたかも彼らの最も重要視している宗教制度や、その教理を破壊するもののごとくに考え、神に対する反逆のごとくに信ずるに至るのである。キリスト及び使徒たちを迫害せるユダヤ人らは、皆信仰に熱心なものであった。しかしながらこの熱心は神の声を直接に聴きてこれに従うの熱心ではなく、彼らの宗教組織、宗教思想擁護の熱心であった。而して宗教は神と人との直接の関係なるがゆえにこの関係を離れて信仰が形式化し、制度化し、教理化する時、その信仰は神の御旨に反し、従って神の声を直接に語る預言者の言に反するに至るのである。ここにおいて彼らの熱心は誤れる熱心となって神の僕を迫害する。而してこの現象は今日にも及んでいるのであって、教会が形式化し、制度化し、教理化する時、そこに神の言を宣ぶる預言者を迫害せんとする精神が起っているのである。
要義2 [パリサイ主義の内容]この一章は極めて明確にパリサイ主義の何たるかを示している。これによればパリサイ主義は必ずしも誤れる教訓を与えているというのではない(3節)、又信仰に不熱心であるというのではない、否かえって極めて熱心であって律法の細則までもこれを守らんとし(23節)、その信仰の伝道のためには海陸を経廻り(15節)、その信仰に反するものはこれを迫害する(34節)、これらの意味においてパリサイ人らは一見極めて立派なる宗教的団体であるというべきである。然るにイエスがこの主義とこれらの人々に対して口を極めてこれを非難し給える所以は、第一に彼らがその人に教うる教訓を自ら実行せず、人を愛するの愛に欠けていること(3、4節)、第二に彼らが宗教上の特権階級を造り宗教を一の職業化せんとしたること(5−12節)、第三に信仰の本質の何たるかを弁えず、唯その保持する形式をもって天国なるかのごとくに思惟すること(13−15節)、第四に些末なる形式と律法の小節に拘泥して信仰の対象なる神と、神の御心である正義と愛と忠信とを忘却し去っていること(16−24節)、第五に外面のみ美わしくして内心は汚穢に充ちていること(26−28節)、而して第六にかかる堕落の結果神の御旨に遠ざかっており、従って神の言をそのまま彼らに伝うる預言者をもって、或は神の教会の破壊者と誤認し、又は過激なる扇動者と見做(みな)してこれを迫害することである(29−36節)。今日のキリスト教会がこのパリサイ主義に陥っているならば禍なるかなである。

9-3-ト エルサレムに関する預言 23:37 - 23:39
(ルカ13:34-39)   

23章37節 ああエルサレム、エルサレム、預言者(よげんしゃ)たちを(ころ)し、(つかは)されたる人々(ひとびと)(いし)にて()(もの)よ、[引照]

口語訳ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
塚本訳ああエルサレム、エルサレム、預言者を殺し、(神から)遣わされた者を石で打ち殺して(ばかり)いる者よ、雌鳥がその雛を翼の下に集めるように、何度わたしはお前の子供たちを(わたしの所に)集めようとしたことか。だがお前たち(エルサレムの者)はそれを好まなかった。
前田訳ああ、エルサレム、エルサレム。預言者を殺し、つかわされたものを石打ちした町よ。なんじの子らを何度わたしは集めようとしたことか、めんどりがひなを翼の下に集めるように。しかしあなた方は欲しなかった。
新共同「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
NIV"O Jerusalem, Jerusalem, you who kill the prophets and stone those sent to you, how often I have longed to gather your children together, as a hen gathers her chicks under her wings, but you were not willing.
註解: イエスはユダヤ人の中心なるエルサレムの市に向ってその愛の労苦の叫びを発し給うた。而してエルサレムの民は不幸にも「預言者や神に遣わされし者に対する迫害の民」なる名称をもって呼ばれなければならなかった、神の都がサタンの占領する処となっていたからである。

牝鷄(めんどり)のその(ひな)(つばさ)(した)(あつ)むるごとく、(われ)なんぢの()どもを(あつ)めんとせしこと幾度(いくたび)ぞや、されど(なんぢ)らは(この)まざりき。

註解: 暴風雨が襲来する時、又は敵来りてその雛を襲わんとする時親鶏は雛をその翼の下に集めてこれを保護する。今エルサレムは悪魔の襲う処となり、悪魔は学者、パリサイ人らを用いてエルサレムの民を餌食とせんとするに対し、イエスはメシヤとしてその民を保護せんとし給うのである。然れど彼らはメシヤなるイエスの御翼の下に来ることを(がえ)んじなかった。
辞解
[幾度ぞ] マタイはイエスが唯一回エルサレムに来たりしことを記しているに過ぎないけれども、ヨハネは数回のエルサレム入りを記している。

23章38節 ()よ、(なんぢ)らの(いへ)()てられて(なんぢ)らに(のこ)らん。[引照]

口語訳見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。
塚本訳そら、“お前たちの町は(宮もろとも神に)見捨てられ(て荒れ果て)るのだ。”
前田訳見よ、あなた方の家は捨てられる。
新共同見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
NIVLook, your house is left to you desolate.
註解: (▲erêmos[荒廃れて]なる語のある写本に由ったものであろう。)エルサレムの破壊に対する預言である。紀元70年ローマ軍はエルサレムを占領しその民の家と宮とを破壊した。これメシヤを拒み、預言者を拒んだ刑罰である。

23章39節 われ(なんぢ)らに()ぐ「()むべきかな、(しゅ)()によりて(きた)(もの)」と、(なんぢ)()のいふ(とき)(いた)るまでは、(いま)より(われ)()ざるベし』[引照]

口語訳わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。
塚本訳お前たちに言っておく、お前たちが(わたしを迎えて)、“主の御名にて来られる方に祝福あれ。”と言う時まで、わたしを見ることは今後決してないであろう。」
前田訳わたしはいう、『祝福あれ、主のみ名によって来たるもの』とあなた方がいうまで今後わたしを見まい」。
新共同言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
NIVFor I tell you, you will not see me again until you say, `Blessed is he who comes in the name of the Lord.' "
註解: 「汝エルサレムよ、汝は我を受けざるゆえ我は間もなく十字架にかかって汝を棄て去らなければならぬ、而して我が再来の日に汝が我をメシヤとして迎うるまで(マタ21:9)、再び我を見ないであろう」。イエスはその愛するエルサレムに対し心も裂けんばかりの愛の叫びを発し、その愛子が彼に叛くの苦痛を吐露し給うた。而してイエスがエルサレムを離れなければならないことは、エルサレムにとっての審判であったにもかかわらず、エルサレムはこのことに心付からざるもののごとくであった。もしイエスの叫びによりて悔改めたならば、彼らは滅亡を免れたであろう。
要義1 [イエスの愛国心]イエスは人としてはユダヤ人として生れ給うた。それゆえにユダヤ人として特にその民を愛し給うことは他のユダヤ人らにも優っていた。彼は神の子として万人を愛し給い、人の子としてユダヤ人を特に愛し給うことにおいて何らの矛盾もなかった。我らも人間であって神の子とせられしものである。神の子として四海同胞主義を信じつつも、人の子として各々その国を愛しその同国民を思うことは当然である。イエスの愛国心のいかに強きかを見るならば、キリスト者に愛国心なしとの非難の当らないことを知ることができよう。唯キリストの愛は正義に即していたと同じく、我らの愛国心もまた正義に一致するを要する。それゆえに愛国心とは国家国民の不義と私欲とを助長、黙認することではない。これと闘うて己を十字架につけることである。この意味においてイエスこそ真の愛国者であるということができる。
要義2 [イスラエルの救い]エルサレムをもってユダヤ国民全体を示すものと解し、このイエスの御言を神がイエスを通して語り給い、世の創よりイエスの時まで幾度もイスラエルを神の翼の下に呼集めんとし給えることを意味するものと解し、キリスト再臨の日に全イスラエルは救われて「讃むべきかな主の名によりて来るもの」と叫びてイエスを迎うるであろうと解することもできる。

マタイ伝第24章
9-4 キリストの再臨に関する預言 24:1 - 24:51
9-4-イ 世の終以前に起こるべき出来事 24:1 - 24:14
(マコ13:1-13) (ルカ21:5-19)  

24章1節 イエス(みや)()でてゆき(たま)ふとき、弟子(でし)たち(みや)建造物(たてもの)(しめ)さんとて御許(みもと)(きた)りしに、[引照]

口語訳イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
塚本訳イエスが宮を出て(オリブ山の方へ)歩いておられると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに宮の(堂々たる)建築を指差した。(この宮が荒れ果てるなどとは考えられなかったのである。)
前田訳イエスが宮を出て歩いておられると、弟子たちが近よって宮の建物を指さした。
新共同イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
NIVJesus left the temple and was walking away when his disciples came up to him to call his attention to its buildings.
註解: 当時エルサレムの神殿は建築中であって未完成の時であった、ヨハ2:20。しかもその荘厳なること無比であった。マタ23:38の御言をきける弟子たちはこの宮こそは廃墟となるごときことはないであろうと考えたのであろう。イエスに示さんとしたのはそのためであった。

24章2節 (こた)へて()(たま)ふ『なんぢら()一切(すべて)(もの)()ぬか。(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、此處(ここ)(ひと)つの(いし)(くづ)されずしては(いし)(うへ)(のこ)らじ』[引照]

口語訳そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
塚本訳彼らに答えられた、「あれをすべてよく見ておけ。アーメン、わたしは言う、ここでそのまま重なっている石が一つもなくなるほど、くずれてしまうであろう。」
前田訳彼が答えていわれた、「これらすべてが見えるか。本当にいう、ひとつの石も他の石の上に残るまい。皆こわれよう」と。
新共同そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
NIV"Do you see all these things?" he asked. "I tell you the truth, not one stone here will be left on another; every one will be thrown down."
註解: イエスは弟子たちの心を読みこれに対して答え給うた「なんぢらこの一切の物を見ないのか、この一切のものの外形を見るのみでは真にこれを見たのではない。この外観の壮麗の裏にやがて神の審判が下るべき淋しみが見えているではないか、我は汝らに向って断言する、この宮の石は皆ことごとく崩されてしまうであろう」と。

24章3節 オリブ(やま)()(たま)ひしとき、弟子(でし)たち(ひそか)御許(みもと)(きた)りて()ふ『われらに()(たま)へ、これらの(こと)何時(いつ)あるか、(また)なんぢの(きた)(たま)ふと()(をはり)とには、(なに)(しるし)あるか』[引照]

口語訳またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
塚本訳オリブ山に坐っておられると、弟子たちだけでそばに来て言った、「(宮がくずれると言われますが、)そのことはいつ起るか、また、あなたの来臨と世の終りとには、どんな前兆があるか、話してください。」
前田訳オリブ山ですわっておられると、弟子たちが近よって内輪に話した、「おっしゃってください。いつこのことはおこりましょうか。あなたの来臨と世の終わりの徴は何でしょうか」と。
新共同イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
NIVAs Jesus was sitting on the Mount of Olives, the disciples came to him privately. "Tell us," they said, "when will this happen, and what will be the sign of your coming and of the end of the age?"
註解: マコ13:3>によればこの質問を発したのはペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレの四人の弟子たちであった。質問の内容は第一はエルサレムと神殿の破滅(「これらの事」)がいつ起るかとの質問であり、第二はキリストの再臨と世の終の兆は何であるかとの質問である。而して弟子たちの心の中にはイエスの再臨が極めて近いことを信じていたので、この二者が同一事柄と思われたのであり、唯第一問はむしろ時期に関し、第二問はその兆に関するものであった(Z0)。これに対してイエスは次の全章をもってこれに答え給うたのである。元来預言は神が預言者の心に一の幻象として示し給う処のものをそのままに表すのであって、この画像の中にはあたかも遠近の山々が一平面に描かれると同じく、時の差異をばこれを明示することなしに未来に起るべき多くの事件を相交らしめてこれを一平面に示しているのである。イエスの場合においてもこれと同じく、次に示されし預言の中にはエルサレムの陥落と、世の終末におけるキリスト再臨の光景とが相錯綜して画かれているのであって、これを判然と区別することができない。唯イエスはエルサレムの陥落や、キリスト再臨の際における光景についての好奇心的探索に満足を与えんとし給わず、実際その大事件に処していかに振舞うべきかについて愛をもって注意を与え給うたのであることに注意して本章を読むことが必要である。然らざれば本章の主意を解することができない。
辞解
[世] aiônでキリスト再臨の時までの時期をいう、世界の意味ではない、再臨以後は又新なる「世」となる。▲「世」aiônはむしろ「世代」と訳すべきである。

24章4節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『なんぢら(ひと)(まどは)されぬやうに(こころ)せよ。[引照]

口語訳そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
塚本訳そこでイエスが答えてこう話された。──「人に迷わされないように気をつけよ。
前田訳イエスは答えていわれた、「だれにも迷わされぬよう注意なさい。
新共同イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
NIVJesus answered: "Watch out that no one deceives you.
註解: 神の国の現われることは弟子たちの切に待望する処であった。この焦慮に乗じてサタンの誘うことなからんためにイエスは人に惑わされぬように戒め給うたのである。イエスはその再臨につきての神学的説明を与え給わず、唯その愛する弟子たちをサタンの攻撃より保護せんとし給う。

24章5節 (おほ)くの(もの)わが()(をか)(きた)り「(われ)はキリストなり」と()ひて(おほ)くの(ひと)(まどは)さん。[引照]

口語訳多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
塚本訳いまに多くの人があらわれて、『救世主はわたしだ』と言ってわたしの名を騙り、多くの人を迷わすにちがいないから。
前田訳多くのものがわが名をかたって来て『わたしはキリスト』といい、多くのものを迷わそう。
新共同わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
NIVFor many will come in my name, claiming, `I am the Christ, ' and will deceive many.
註解: 世の終末より以前に起り、世の終末と混じやすき事実の第一は「我はキリストなり」と言いて来る人の多く起ることである。これをもってキリストの再臨であると誤認してはならない。世が終末に近付き霊界が混沌状態に陥れば、メシヤの再臨を期待する心が益々強くなり、これに乗じて「偽キリスト」が多く顕われる。弟子たちはこれを警戒しなければならない(Tヨハ2:18)。

24章6節 (また)なんぢら戰爭(いくさ)戰爭(いくさ)(うはさ)とを()かん、(つつし)みて(おそ)るな。かかる(こと)はあるべきなり、されど(いま)(つひ)にはあらず。[引照]

口語訳また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
塚本訳戦争(を目のあたりに見たり、)また戦争の噂を聞くであろうが、あわてないように注意せよ。“それはおこらねばならないことである”が、しかしまだ最後ではない。
前田訳あなた方は間もなく戦いの響きや戦いのうわさを聞こう。おどろかぬよう注意なさい。それは必ずおこる。しかしそれはまだ終わりではない。
新共同戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
NIVYou will hear of wars and rumors of wars, but see to it that you are not alarmed. Such things must happen, but the end is still to come.
註解: この世が戦乱のちまたと化し去る時、人々は極度の不安に襲われて、世の終が来たことを感ずるけれども、未だ終そのものが来たのではない。世の終が来る前にはこの種の出来事は必ず起らなければならないけれども、世の終においては一層大なる苦痛がこの世に臨むのである。

24章7節 (すなは)ち「(たみ)(たみ)に、(くに)(くに)(さから)ひて()たん」[引照]

口語訳民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
塚本訳(世の終りが来る前に)“民族は民族に、国は国に向かって(敵となって)立ち上がり、”またここかしこに飢饉や地震があるのだから。
前田訳民は民と、王国は王国と戦おう。飢饉と地震が各地におころう。
新共同民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
NIVNation will rise against nation, and kingdom against kingdom. There will be famines and earthquakes in various places.
註解: 人種間の戦争、国家間の大戦争が、キリストの来り給う前に必ず起る。

また處々(ところどころ)饑饉(ききん)地震(ぢしん)とあらん、

註解: 戦争は人間の活動と関係があり、飢饉、地震は直接自然界の活動である。人間の作り出せる不幸に加うるに自然界もまたその激怒をもって人間を襲う、世の終が近付き来ることをこれらのことによりて知ることができる。

24章8節 (これ)()はみな(うみ)苦難(くるしみ)(はじめ)なり。[引照]

口語訳しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
塚本訳しかしこれは皆(まだ、新しい世界が生まれるための)陣痛の始めである。
前田訳これらすべては陣痛のはじめである。
新共同しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
NIVAll these are the beginning of birth pains.
註解: 新世界が生れ出づる前に産の苦難がある。而して最後に大なる苦痛が臨む前に間歇(かんけつ)的に陣痛が襲って来ると同様に、以上のごとき出来事が時を隔てて世界に臨むのである。

24章9節 そのとき人々(ひとびと)なんぢらを患難(なやみ)(わた)し、また(ころ)さん、(なんぢ)()わが()(ため)に、もろもろの國人(くにびと)(にく)まれん。[引照]

口語訳そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
塚本訳その時あなた達は苦しめられ、殺される。またわたしの弟子であるために、すべての国の人から憎まれる。
前田訳そのときあなた方は苦しめられ、殺されよう。そしてわが名のゆえにすべての民に憎まれよう。
新共同そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
NIV"Then you will be handed over to be persecuted and put to death, and you will be hated by all nations because of me.
註解: 人類一般の苦難(戦争)自然の災害(飢饉、地震)の外にキリストの弟子に特別の苦難がある。すなわちキリスト者はキリストの名のために迫害に遭い、殺されかつ万国人に憎まれる。「キリスト教は奇異なことには、他のあらゆる宗教をば容認するこの腐敗せる世から憎まれる」(B1)。

24章10節 その(とき)おほくの(ひと)つまづき、(かつ)たがひに(わた)し、(たがひ)(にく)まん。[引照]

口語訳そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
塚本訳するとその時、“多くの人が信仰から離れて、”互に裏切り、互に憎むであろう。
前田訳そのとき多くのものがつまずき、互いに裏切り互いに憎もう。
新共同そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
NIVAt that time many will turn away from the faith and will betray and hate each other,
註解: 他よりの迫害よりも一層耐え難き苦痛は、信者がその信仰を失いて互に敵に付し合い又憎み合うことである。信者相互の争は悲劇中の悲劇である。

24章11節 (おほ)くの(にせ)預言者(よげんしゃ)おこりて、(おほ)くの(ひと)(まどは)さん。[引照]

口語訳また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
塚本訳また多くの偽預言者があらわれて、多くの人を迷わすにちがいない。
前田訳多くの偽預言者がおこって多くの人々を迷わそう。
新共同偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
NIVand many false prophets will appear and deceive many people.
註解: 以上2節に生ぜる教会の混沌状態に乗じてさらにこれを撹乱(かくらん)せしむる偽預言者が生じ、キリスト信徒社会の状態は一層悪化する。

24章12節 また()(はう)()すによりて、(おほ)くの(ひと)(あい)ひややかにならん。[引照]

口語訳また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
塚本訳また(兄弟たちの間に)不法がふえるので、多くの人の愛が冷える。
前田訳不法が満ちるので多くの人の愛が冷えよう。
新共同不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
NIVBecause of the increase of wickedness, the love of most will grow cold,
註解: 迫害、信仰の冷却、偽預言者の出現の結果、キリスト者の中の多数の間に、不道徳、律法違反(Tヨハ3:4)が甚だしくなり、教会は次第に腐敗し、キリスト者の魂なる愛が冷却してしまう。これが「多くの人」すなわちキリスト者の多数の状態であって「真のキリスト者が極めて少数となるであろう」(Z0)。以上5−12節において世の状態が世の終末の前には非常に悪化することをイエスは預言し給う。イエスは決してこの世の文明に望みをおく楽観論者ではなかった。

24章13節 されど(をはり)まで()へしのぶ(もの)(すく)はるべし。[引照]

口語訳しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
塚本訳しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
前田訳しかし終わりまで忍ぶ人こそ救われよう。
新共同しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
NIVbut he who stands firm to the end will be saved.
註解: 「終」は「世の終末」すなわちキリストの再臨の日を意味し、「忍ぶ」は5−12に示すごとき戦争、天災、地変、迫害、憎悪、腐敗の中に忍耐して正しき信仰と愛とを失わぬことを意味する。かかる者は救われるであろう。

24章14節 御國(みくに)のこの福音(ふくいん)は、もろもろの國人(くにびと)(あかし)をなさんため全世界(ぜんせかい)宣傅(のべつた)へられん、(しか)してのち(をはり)(いた)るべし。[引照]

口語訳そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
塚本訳すなわち、あらゆる国々の人に(わたしとわたしの業を)証しするために、(まず)この御国の福音が全世界に説かれ、それから最後(の裁きの日)が来るのである。
前田訳そしてこのみ国の福音が全世界にのべ伝えられて、すべての民への証となろう。そのときにこそ終わりが来よう。
新共同そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
NIVAnd this gospel of the kingdom will be preached in the whole world as a testimony to all nations, and then the end will come.
註解: 世の有様がかく悪化しつつも一方御国の福音は「もろもろの国人に対する証として(直訳)」全世界に宣伝えられ、全世界の人々がこの福音に接することができるようになり、世の終末はその後に来るのである。5−12節の状態は全世界に関するものでありユダヤのみの問題ではない。
要義1 [世の終末とキリストの再臨について]キリスト者の中にはキリストの再臨は、その当時のユダヤ思想に過ぎずとしてこれを否定せんとしている者があるけれど、もしそれだけで否定の理由となるならば、一神教をすら否定しなければならないであろう。又イエスがかくも真剣に荘厳にこれを述べ給うことを見れば、イエスは堅くその再来を信じ給えることは明らかである。又世界は経済的進歩、社会の法律制度の進化、慈善事業、救貧設備の増加、教育の発達、国際連盟等により而して又世界のキリスト教化によりて次第に理想的状態に近付いて来るものと考えているキリスト者があるけれども、それはこの聖書の預言に反する思想であって、イエスはかかる浅薄なる楽観主義の空想家ではなかった、キリスト再臨の前には世界には事実24:5−11に記されしごとき状態が臨むであろう。
要義2 [24:3−14の解釈について]第二十四章全体の難解なると共に、この諸節も学者によりて種々に解釈せられている。中にも多くの学者は、これを主としてエルサレムの陥落以前の出来事と解し「偽キリスト」とは或はバロクバ、シモン・マグス(使8:9)、チゥダ(使5:36)等ならんかといい、「戦争」とはローマ皇帝カリグラ、クラゥデウス、ネロ等がユダヤ人に対する開戦の威嚇、その他その当時の戦争、「飢饉」は使11:28、ヨセフスの歴史等に所載のもの、「地震」は紀元46−60年にクレタ、ローマ、フリギヤのアパメア、ラオデキヤ、カムパニヤ等に起れるもの、「迫害」「殺戮」はヘロデが大ヤコブを殺し、ネロがペテロを殺せる等のこと、等一々これをエルサレムの陥落以前の出来事に応用する解釈があるけれども、むしろこの預言は主として世の終末、キリストの再臨以前の出来事と解し、ただこの預言が完全に実現する前の一つ予兆のごときものとして、エルサレムの陥落とその前後の出来事が起りたるものと見るべきであろう。又この預言をイスラエルのみに関しキリスト者とは関係なきものと解する人もあるけれども、これはキリスト者は「大なる患難の日」(マタ24:21)以前に空中に携えられ (Tテサ4:17Tテサ5:4黙4:1) 、この患難に遭遇せず、ただユダヤ人のみこの「大なる患難の日」に遭うべしとの預言的解釈を取るより生ずる結論であって、聖書の文字を機械的に解釈する人々の説である。この解釈は ヨハ16:33マタ24:9黙2:22黙7:14 等の解釈に差支えを生ずるのみならず、「選民」 (マタ24:22マタ24:24マタ24:31ロマ8:33ロマ16:13コロ3:12Tペテ1:2) なる語の新約聖書全体の解釈と矛盾を生ずる等多くの困難を伴う。それゆえに24:3註に示せるごとくキリストの再臨及びその予兆として起り得べき遠近の事実が一画幅のごとく、一平面に展開せるものであって、キリスト者、ユダヤ人及び全世界に関係せる預言であると見るべきであろう。

9-4-ロ 最後の大患難に対する注意 24:15 - 24:28
(マコ13:14-23) (ルカ21:20-24)  

24章15節 なんぢら預言者(よげんしゃ)ダニエルによりて()はれたる「(あら)(にく)むべき(もの)」の(せい)なる(ところ)()つを()ば(()(もの)さとれ)[引照]

口語訳預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
塚本訳それで、預言者ダニエルをもって言われた“(聖なる所を)荒らす忌わしいものが聖なる所に”立つのを見たら[読者は(ここに隠された意味を)よく考えるがよい]、
前田訳預言者ダニエルのいう『荒廃のおそれ』が聖所に立つのをあなた方が見るとき(読者は悟れ)、
新共同「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
NIV"So when you see standing in the holy place `the abomination that causes desolation,' spoken of through the prophet Daniel--let the reader understand--
註解: 旧約の預言者らがその当時の出来事につき、又は自己の思想につき語れることがイエス・キリストに関する預言であった場合が多くあると同様に (ホセ11:1マタ2:15イザ6:9マタ13:14詩78:2マタ13:35ゼカ13:7マタ26:31詩41:9ヨハ13:18等々) 、イエスはまさに起らんとするエルサレムの神殿冒涜(而してこれは実際紀元70年にローマ軍がエルサレムを陥れて、ユダヤの大祭司の外入るを得ざるその神殿の聖所を荒したことによって実現した)すなわち神とその祭司以外のものがその聖所に立ちて神殿を荒廃せしむることを預言し給うことにより、同時に世の終末に起るべき出来事を示してこれに処すべき途を弟子たちに教え給うた。而してこの教訓は単に未来の出来事を想像して、弟子たちの頭脳の中にキリスト再臨の光景を描かしめんとするのではなく、最後の瞬間が来た場合(すなわち神殿冒涜、又は偽キリストがキリストの座を占むること)における弟子たちの取るべき途につきて教え給うたのである。「読む者さとれ」とは「荒す悪むべき者の聖所に立つ」とは何の意味であるかをさとるべしとのことであって、エルサレムの信徒は紀元70年ローマの将軍テトスによるエルサレムの陥落の際にこの意味をさとったことであろうと共に我らにもまたかかることが起る時があるのであろう。

24章16節 その(とき)ユダヤに()(もの)どもは(やま)(のが)れよ。[引照]

口語訳そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
塚本訳その時ユダヤ(の平地)におる者は(急いで)山に逃げよ。
前田訳ユダヤにいるものは山々にのがれよ。
新共同そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
NIVthen let those who are in Judea flee to the mountains.
註解: 「ユダヤに居る者ども」はユダヤの田舎に住み居る者。この厄難が世界全般にわたるものであるが、その中でもユダヤに居る弟子たちの運命につき代表的に示し給うたのである。

24章17節 ()(うへ)()(もの)はその(いへ)(もの)()()さんとして(くだ)るな。[引照]

口語訳屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。
塚本訳屋根の上におる者は、下におりて家にある物を取りだそうとするな。
前田訳屋上にいるものは家にあるものを取りに下におりるな。
新共同屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
NIVLet no one on the roof of his house go down to take anything out of the house.
註解: ユダヤ地方の家の屋根は水平でその上にいることができる(使10:9)。かかる場合に遭遇せる者はとるものも取りあえず非常に急いで逃げ出さなければならない。

24章18節 (はた)にをる(もの)上衣(うはぎ)()らんとて(かへ)るな。[引照]

口語訳畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
塚本訳畑におる者は上着を取りに“(家に)もどる”な。
前田訳畑にいるものは上着を取りに帰るな。
新共同畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
NIVLet no one in the field go back to get his cloak.
註解: この患難はそれほど大きくかつ急である。

24章19節 その()には(みごも)りたる(もの)(ちち)()まする(もの)とは禍害(わざはひ)なるかな。[引照]

口語訳その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
塚本訳それらの日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、ああかわいそうだ!
前田訳身重の女や乳のみ子のある女は気の毒だ。
新共同それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
NIVHow dreadful it will be in those days for pregnant women and nursing mothers!
註解: この災難を避けるに最も困難な者はかかる婦人たちであってイエスはその日のことを思いて彼らに対する憐みの心に充され給うた。

24章20節 (なんぢ)らの()ぐることの(ふゆ)または安息(あんそく)(にち)(おこ)らぬように(いの)れ。[引照]

口語訳あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
塚本訳逃げるのが冬や安息日にならないように祈れ。
前田訳あなた方が逃げるのが冬や安息日でないよう祈れ。
新共同逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
NIVPray that your flight will not take place in winter or on the Sabbath.
註解: 冬はその天候のため、安息日は二千ヤード以上を歩行すべからざる規律があるため、いずれも逃亡に不便である。かかる日にそのことが起らぬように祈らなければならない。
辞解
[安息日] ユダヤ人のキリスト者は従来と同じく安息日を守ることを予知し給うたのである。

24章21節 そのとき(おほい)なる患難(なやみ)あらん、()(はじめ)より(いま)(いた)るまでかかる患難(なやみ)はなく、また(のち)にも()からん。[引照]

口語訳その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
塚本訳その時、“世の始めから今日までになかった、”また(これからも)決してない“ような、”大きな“苦難が”臨むのだから。
前田訳そのときのなやみは大きかろう。世のはじめから今までになく、これからも決しておきないほどであろう。
新共同そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
NIVFor then there will be great distress, unequaled from the beginning of the world until now--and never to be equaled again.
註解: キリストの再臨の前には大なる患難がある。聖書の教うる処によればキリストに()る聖徒は空中に携え挙げられ(Tテサ4:17)、その後に大なる患難の時代が地上に臨むものとして記されているけれども、彼らが携え挙げられる前にもキリスト者は大なる患難に遭わなければならない(使14:22〔▲使14:22の引照1を参照〕。ヨハ16:33ピリ1:29。等々)。キリスト再臨の前の患難はその大きさと強さにおいて空前絶後である。

24章22節 その()もし(すくな)くせられずば、一人(ひとり)だに(すく)はるる(もの)なからん、[引照]

口語訳もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
塚本訳もしそれらの(苦難の)日が短くされなかったら、だれ一人助かる者はあるまい。しかし選ばれた人々のために、それらの日が短くされるであろう。
前田訳もしその日々が短くされねばだれも救われまい。しかし選ばれたもののためにその日々は短くされよう。
新共同神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
NIVIf those days had not been cut short, no one would survive, but for the sake of the elect those days will be shortened.
註解: その患難の程度の極めて大なることを示す、これが永続するならば、生き残り得る人はないほどの大なる患難である。エルサレムの陥落の預言と共に世の終におけるキリスト再臨前の光景の預言である。
辞解
[一人だに] 原語は「すべての肉は」とあり、すなわち救はこの肉体の生存を意味する。

されど選民(せんみん)(ため)にその()(すくな)くせらるべし。

註解: その時に生存しているキリスト者を救わんがために、この患難の日数が短縮されること、すなわち今一息で全人類が滅亡するであろうと思われるとき、神の御手が加わりてこの患難の日は去ってしまう、而して残存者はすなわち終まで忍んでいた選ばれし者(キリスト者)である。

24章23節 その(とき)あるひは「()よ、キリスト此處(ここ)にあり」(あるひ)は「此處(ここ)にあり」と()(もの)ありとも(しん)ずな。[引照]

口語訳そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
塚本訳その時『そら、ここに救世主が』とか、『ここに』とか言う者があっても、信ずるな。
前田訳そのとき、もしだれかがあなた方に『見よ、ここにキリストが』、また、『あそこに』といっても信ずるな。
新共同そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
NIVAt that time if anyone says to you, `Look, here is the Christ!' or, `There he is!' do not believe it.

24章24節 (にせ)キリスト・(にせ)預言者(よげんしゃ)おこりて、(おほい)なる(しるし)不思議(ふしぎ)とを(あらは)し、()()べくば選民(せんみん)をも(まどは)さんとするなり。[引照]

口語訳にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
塚本訳偽救世主たち、“偽預言者たちが”あらわれて、大がかりな“奇蹟や不思議なことをして、”あわよくば、選ばれた人々までも迷わそうとするのだから。
前田訳偽キリストや偽預言者がおこって大きな徴や奇跡を行ない、できることならと、選ばれた人たちをも惑わそう。
新共同偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
NIVFor false Christs and false prophets will appear and perform great signs and miracles to deceive even the elect--if that were possible.
註解: 非常なる災禍と混乱に際しては根拠なき風説すら容易に信ぜられ、さらにその混乱を増すものである。いわんや「大なる不思議と徴」とを行い得るごとき者が自らをキリスト又は預言者と主張する場合には、人はこれに惑わされ、選民なるキリスト者さえこれに惑わされることが()り得るのであって、イエスは特にこのことを憂慮し給い、その選べる者を失わざらんがために、かかる場合に対する訓戒を与え給うた。(▲平静な時代にすら、キリストの名で徴と不思議を行う者に迷わされるキリスト者が多い。目をキリストに注ぎさえすれば迷わされることがない。)人々は堅くこの御言を握っていなければその場合に至って惑わされるであろう。キリストは27、29、30節のごとくにして来給う、その時までは見得べきではない。

24章25節 ()よ、あらかじめ(これ)(なんぢ)らに()げおくなり。[引照]

口語訳見よ、あなたがたに前もって言っておく。
塚本訳この通り、あなた達には前もって言っておく。
前田訳見よ、わたしが前もっていったことである。
新共同あなたがたには前もって言っておく。
NIVSee, I have told you ahead of time.

24章26節 されば(ひと)もし(なんぢ)らに「()よ、(かれ)荒野(あらの)にあり」といふとも()()くな「()よ、(かれ)部屋(へや)にあり」と()ふとも(しん)ずな。[引照]

口語訳だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
塚本訳だから、たとえ『そら、(救世主は)荒野にいる』と言う者があっても、出て行くな。『そら、奥の部屋に』と言っても、信ずるな。
前田訳もし彼らがあなた方に、『見よ、彼は荒野にいる』といっても出かけるな。『見よ、彼は奥の部屋に』といっても信ずるな。
新共同だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
NIV"So if anyone tells you, `There he is, out in the desert,' do not go out; or, `Here he is, in the inner rooms,' do not believe it.
註解: 23節をさらに詳述してこれを強めたのであり「荒野にあり」「部屋にあり」は形容的対句と見るべきであって、群衆を()って荒野に集むるごとき扇動家も、室内にあって瞑想に耽るがごとき神秘家も、その他いかなる人々をも信ずべからず、主の再臨は非常に明瞭にしてかつ顕著なる出来事であって万人に隠れることなく、又多くの自然界の激変がこれに伴うのである。

24章27節 電光(いなづま)(ひがし)より()でて西(にし)にまで(ひらめ)きわたる(ごと)く、(ひと)()(きた)るも(また)(しか)らん。[引照]

口語訳ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
塚本訳人の子(わたし)の来臨は、ちょうど稲妻が東から西に輝きわたるよう(に、はっきりわかるの)であるから。
前田訳いなずまが東から来て西にまで輝くように、人の子の来臨もそのようであろう。
新共同稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
NIVFor as lightning that comes from the east is visible even in the west, so will be the coming of the Son of Man.
註解: 「イエスの再臨はかくのごとくその栄光の耀きは六合にわたるであろう」(C1)。電光の比喩をもってその再臨が彼の初臨と異りその来ること突然にしてその耀きが全世界に及び、何人もこれを仰ぎ、而して又突然として消ゆることを示す。キリストの再臨の第一段階ともいうべき眠れる信者が復活して主の御許に集められ、地上に生き居る信者は化して主の御許に携え挙げられるその時のことを示したのである。

24章28節 それ死骸(しがい)のある(ところ)には(わし)あつまらん。[引照]

口語訳死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
塚本訳死骸のある所には、どこにでも鷲が集まる。
前田訳死体のあるところはどこでもはげたかが集まる。
新共同死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
NIVWherever there is a carcass, there the vultures will gather.
註解: 一方に選民なるキリスト者は、天のこの極よりかの極まで集められるがごとくに(31節)死骸すなわち罪に死せるもの(マタ8:22ルカ16:24)のある処には再臨のキリストによりて遣わされし天の使らすなわち鷲(複数)はその審判のために下って来るであろう(マタ13:41マタ24:41ルカ17:37参照)。この節には多数の異れる解釈があり難解の節の一である。例えば死骸は肉的ユダヤ主義、鷲は偽キリスト、偽預言者又はローマ軍であると解するごとき(B1)その他類似の解釈が多くあるけれども、上記のもの以外に中に、比較的適切と思われるものは一つは死骸(単数)はキリストであって鷲(複数)は選民すなわちキリスト者であり、キリストにより霊の糧を得んためにそこに集ると解するものと(C3、L1、C1)他の一つは単に機熟すれば、そこに再臨が行われ、世界が腐敗して審判を受くべき状態が熟すれば(死骸)主とその使来りて審判を行い給うと解する説である(Z0、I0、W1)。ただ前者は鷲が地上に下るのであってキリストが地上に下ることの形容として不適当であり、後者はルカ17:37の「何処(いずこ)ぞ」なる問に対する答えとして不適当である。▲▲「死骸のある処に集ると同様な状態で再臨のキリストの許に全世界から復活のキリスト者が集るであろう」31節及びTテサ4:14−17。

9-4-ハ キリスト再臨の兆 24:29 - 24:31
(マコ13:24-27) (ルカ21:25-28)  

24章29節 これらの()患難(なやみ)ののち(ただ)ちに()(くら)く、(つき)(ひかり)(はな)たず、(ほし)(そら)より()ち、(てん)萬象(ばんしゃう)ふるひ(うご)かん。[引照]

口語訳しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
塚本訳それらの苦難の日の後に、たちまち“日は暗く、月は光を放たず、”“星は”天から“落ち、もろもろの天体が”震われるであろう。
前田訳その日の苦しみの直後に日はかげり、月は光を放たず、星は天から落ち、天体はゆられよう。
新共同「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
NIV"Immediately after the distress of those days "`the sun will be darkened, and the moon will not give its light; the stars will fall from the sky, and the heavenly bodies will be shaken.'
註解: 「これらの日」は世の終における大なる患難の日(24:19−22)を指す、この患難の後直ちに天界にも激変が起るであろう。キリストの再臨が宇宙全体の復興である以上、そこに大なる動揺が伴うことは当然である。
辞解
[これらの日] エルサレム陥落の日と解する人は「直ちに」を時間の計算の「直ちに」にあらず観念上の「直ちに」であって事実エルサレムの陥落と世の終末とは非常に隔っていることの弁明としている、その他種々の解釈を用いてこの困難を除かんとしている。
[天の萬象] 原語「もろもろの力」である、もろもろの力とは或は「悪魔及び其の使達」(エペ2:2エペ6:12)とも解することを得べく、又天体の運行や、地上の万象を支配する力とも解することができる。いずれにしても偉大なる変動が天上に起ることを示す。

24章30節 そのとき(ひと)()(しるし)(てん)(あらは)れん。[引照]

口語訳そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
塚本訳するとその時、人の子(わたし)の徴が天に現われる。するとその時、“地上の民族はことごとく(これを見て)悲しむであろう。”そして“人の子(わたし)が”大いなる権力と栄光とをもって、“天の雲に乗って来るのを”見るであろう。
前田訳そのとき人の子の徴が天に現われよう。そのとき地のすべての民はなげき、人の子が大きな力と栄光をもって天の雲の上に乗って来るのを見よう。
新共同そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
NIV"At that time the sign of the Son of Man will appear in the sky, and all the nations of the earth will mourn. They will see the Son of Man coming on the clouds of the sky, with power and great glory.
註解: 第3節の質問に対する答に当る。ただしいかなる兆であるかにつきては示されていない、十字架であろうと想像する人が多いが別に根拠がある訳ではない。ダニ7:13によりイエスが常に自ら人の子と呼び給いし理由がこの節及び次節において最も明らかに顕われている。

そのとき地上(ちじゃう)諸族(しょぞく)みな(なげ)き、

註解: 人の子の兆が天にあらわれしを見て地上の(もろもろ)の国人はその不信を顧み、その審判を懼れ、万物改まりて新なる時代が実現することを思い、人類の愛着し来れるこの世の滅び行くのを知りて耐え難く嘆く、ダニ12:10黙1:7

かつ(ひと)()能力(ちから)(おほい)なる榮光(えいくわう)とをもて、(てん)(くも)()(きた)るを()ん。

註解: キリストの初臨はこれとは反対に「見るべき美はしき容なく」「屠所(ほふりば)()かれる羔羊(こひつじ)のごとく」にしてベツレヘムの馬槽(まぶね)の中に来り給い、ただ少数の人のみ彼を見ることができた、その再臨に際しては偉大なる能力と栄光とを帯び天の雲に乗りて来り給うであろう。

24章31節 また(かれ)使(つかひ)たちを(おほい)なるラッパの(こゑ)とともに(つかは)さん。使(つかひ)たちは(てん)()(きはみ)より(かれ)(きはみ)まで、四方(しはう)より選民(せんみん)(あつ)めん。[引照]

口語訳また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
塚本訳すると(その時、)人の子は“大いなるラッパの響きと共に”自分の使いたちをやって、“天のこの果てからかの果てまで”“四方から、”選ばれた人々を“集めさせるであろう。”
前田訳彼は大きなラッパで天使をつかわし、彼の選民を四方から、天のこの果てから、かの果てまで集めさせよう。
新共同人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
NIVAnd he will send his angels with a loud trumpet call, and they will gather his elect from the four winds, from one end of the heavens to the other.
註解: 世界の諸族が嘆きの中にあるときも、キリストに在る人々は安全である、彼らは「キリストの顕現を慕う者」(Uテモ4:8)である、何となればキリストの遣し給える天の使たちはキリストに在る民を地の隅々より(マコ13:27)残りなく集めて(死者は甦らせ生者をば化して)御許に携え行くからである。▲この意味で28節の脚注註のように解するのが適当であろう。勿論難点はあるけれども。Tコリ15:52Tテサ4:17
辞解
[「使」「ラッパ」] これらはキリストの再臨の時に必ず伴うものとして示されている(引照1、2)。
[天の極] 「地の極」に同じ、地の極から天が始まると考えられていたからである。

9-4-ニ 主の再臨の時期 24:32 - 24:36
(マコ13:18-31) (ルカ21:29-33)   

24章32節 無花果(いちぢく)()よりの(たとへ)をまなべ、その(えだ)すでに(やはら)かくなりて()()ぐめば、(なつ)(ちか)きを()る。[引照]

口語訳いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
塚本訳無花果の木で(この天の国の)譬を学ぶがよい。──枝がすでに柔らかになって葉が出ると、夏が近いと知るのである。
前田訳いちじくから譬えを学べ。はや若枝になって葉がのびると、夏が近いと知る。
新共同「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
NIV"Now learn this lesson from the fig tree: As soon as its twigs get tender and its leaves come out, you know that summer is near.

24章33節 かくのごとく(なんぢ)らも(これ)()のすべての(こと)()ば、[(ひと)()すでに](ちか)づきて門邊(かどべ)(いた)るを()れ。[引照]

口語訳そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
塚本訳そのようにあなた達も、これら一切のことを見たら、人の子(わたし)が門口近く来ていることを知れ。
前田訳そのようにあなた方もこれらすべてを見れば終わりが戸口に迫っていると知ろう。
新共同それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
NIVEven so, when you see all these things, you know that it is near, right at the door.
註解: 夏を知るには無花果の枝や葉を見れば分る。かくのごとくキリストの再臨の時期を知るには以上に述べし諸々の現象を見るべきである。本節は第3節に対する答の要約のごときものであって第3節の「これらの事」のみならず、4−31節に示されしその他の「凡てこれらの事」が起ればそれは「キリストの再臨と世の終末の兆」である。ただしその「時期」については何人もこれを知ることができない(36節)ことをもってイエスは第3節の答となし給うたのである。
辞解
[此等のすべての事] 人によりて4−14節に記されしことと解し(Z0)、または29−31節に記されしことと解する(M0)けれども、4−31節の全体を意味するものとして差支えがない。
[人の子すでに] 原文になし、原文には主格なきゆえ、これを補充しなければならない、或はルカ21:31により主格として「神の国」を補充し(C1)又は第三節により「世の終」を補充す(その他種々あり)ることもできる。事実において大差なき結果となるであろう。

24章34節 (まこと)(なんぢ)らに()ぐ、これらの(こと)ことごとく()るまで、(いま)()()()くまじ。[引照]

口語訳よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
塚本訳アーメン、わたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消え失せない。
前田訳本当にいう、これらすべてがおこる前にはこの世は過ぎ行くまい。
新共同はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
NIVI tell you the truth, this generation will certainly not pass away until all these things have happened.
註解: 今現に生存している人の一代の中に、これらの事件が皆ことごとく起るであろうとのことである、この一節はマタ10:23マタ16:28マタ23:39等と同じくキリストの再臨の切迫せることを示し、36節と矛盾せるがごときも、その解釈は第3節註に示せるごとく預言の性質上自ら生ずる矛盾であって、ここにはエルサレムの陥落につきて預言し給えるものと見るべきであろう。
辞解
[代] geneaは人の一生を言うのであって、これを「人類」「ユダヤ人」「キリスト教会」等の意味に解することはできない。

24章35節 (てん)()()ぎゆかん、されど()(ことば)()()くことなし。[引照]

口語訳天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
塚本訳天地は消え失せる、しかし(いま言った)わたしの言葉は決して消え失せない。
前田訳天と地は過ぎ行こうが、わがことばは過ぎ行くまい。
新共同天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
NIVHeaven and earth will pass away, but my words will never pass away.
註解: 今の世の人々はこのキリストの御言を信ぜず、かかることは有り得ずと否定している。天地すら滅失しない間にイエスの言は滅失せるもののごとくに取扱っている、(はなは)だしき不信ではないか。

24章36節 その()その(とき)()(もの)なし、(てん)使(つかひ)たちも()らず、()()らず、ただ(ちち)のみ()(たま)ふ。[引照]

口語訳その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
塚本訳ただし(人の子の来る)その日と時間とは、ただ父上のほかだれも知らない。天の使たちも知らない。
前田訳その日その時についてはだれも知らない。天使も人の子も知らず、父だけが知りたもう。
新共同「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
NIV"No one knows about that day or hour, not even the angels in heaven, nor the Son, but only the Father.
註解: 「その日」は再臨の日、審判の日であって、いずれの時に再臨があるかを知るのは唯神のみである。子イエス・キリストすらこれを知り給わない、その他は勿論である。いつかは知らないが汝らは汝らの一生の中にこれを経験するであろう(少なくともその型たるべき出来事をもって)。
辞解
[子も知らず] これをもってキリストが全知の神に在さざる証拠とせんとしている人がある、しかしキリストはこの完全なる服従のゆえをもって神の子に在し給うのであって、神の示しなきものを知り給わない点において真に神の子である。マタ20:23も同様の意味に解すべきである。

9-4-ホ 再臨の時の審判とノアの比喩 24:37 - 24:41
(ルカ17:26-27) (ルカ17:34-35)   

24章37節 ノアの(とき)のごとく(ひと)()(きた)るも(しか)あるべし。[引照]

口語訳人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
塚本訳人の子の来臨は、ちょうどノアの(洪水の)時のようであるから。
前田訳人の子の来臨はノアの日のごとくであろう。
新共同人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
NIVAs it was in the days of Noah, so it will be at the coming of the Son of Man.
註解: 洪水に関する予告がノア及びその一族のみに信ぜられ、彼らのみ方舟を造ってこれに備えしごとく、人類の審判に関する預言はキリスト者のみに信ぜられ、キリスト者はキリストの血によりて救われ審判を免れることができる。しかも審判の来るべき日と時とはノアも知らずキリスト者も知らず、而して方舟以外の人間は皆洪水によりて滅ぼされしごとく、キリストの中にいない者は皆その再臨の稜威(みいつ)によりて亡ぼされる。これらすべての点においてノアの洪水とキリストの再臨とは似寄っている。

24章38節 (かつ)洪水(こうずゐ)(まへ)ノア方舟(はこぶね)()()までは、人々(ひとびと)()(くら)ひ、(めと)(とつ)がせなどし、[引照]

口語訳すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
塚本訳すなわち洪水の前のあのころ、“ノアが箱船に入った”日まで、人々は飲んだり食ったり、嫁にやったり取ったりしていて、
前田訳洪水以前のころ、ノアが箱舟に入る日までは、人々は会い、飲み、めとり、とつぎしたが、
新共同洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
NIVFor in the days before the flood, people were eating and drinking, marrying and giving in marriage, up to the day Noah entered the ark;

24章39節 洪水(こうずゐ)(きた)りて(ことご)とく(ほろび)すまでは()らざりき、(ひと)()(きた)るも(しか)あるべし。[引照]

口語訳そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
塚本訳洪水が来て一人のこらずさらってゆくまで、それに気づかなかった。人の子の来臨もこのようである。
前田訳洪水が来て彼らすべてをさらうまで何も知らなかった。人の子の来臨もそのようであろう。
新共同そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
NIVand they knew nothing about what would happen until the flood came and took them all away. That is how it will be at the coming of the Son of Man.
註解: キリストの再臨は人々の不用意の間に突然起り、平常のごとく享楽的生活を行っている者が急に滅亡に帰してしまうこと、あたかもノアの洪水の時に異らない。ゆえに早くその準備をしなければならぬ。

24章40節 そのとき二人(ふたり)(をとこ)(はた)にをらんに、一人(ひとり)()られ一人(ひとり)(のこ)されん。[引照]

口語訳そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
塚本訳その時、二人の男が畑にいると、一人は(天に)連れてゆかれ、一人は(地上に)のこされる。
前田訳男がふたり畑にいれば、ひとりは天に連れられ、ひとりは残される。
新共同そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
NIVTwo men will be in the field; one will be taken and the other left.

24章41節 二人(ふたり)(をんな)(うす)ひき()らんに、一人(ひとり)()られ一人(ひとり)(のこ)されん。[引照]

口語訳ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
塚本訳二人の女が臼をひいていると、一人は連れてゆかれ、一人はのこされる。
前田訳女がふたり臼をひいていれば、ひとりは天に連れられ、ひとりは残される。
新共同二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
NIVTwo women will be grinding with a hand mill; one will be taken and the other left.
註解: 「取られ」はキリストの御許に集められ(31節)「遺されん」は審判を受くべく遺されるのである(マタ13:41)、この例はキリストが思いがけなき時に再臨し給うこと、及びいかに親密なる間柄でも選ばれしものと然らざるものとの間に非常なる運命の差が起って来ることを示している。主もし今再臨し給うならば我らの血族の間にもこの離別の悲を味わなければならないであろう。

9-4-へ 再臨を迎える態度 24:42 - 24:51
(ルカ12:39-40) (ルカ12:42-46)   

24章42節 されば()(さま)しをれ、(なんぢ)らの(しゅ)のきたるは、(いづ)れの()なるかを()らざればなり。[引照]

口語訳だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
塚本訳だから(たえず)目を覚ましておれ。あなた達は主がいつの日来られるか、知らないのだから。
前田訳目覚めていよ、あなた方の主がいつの日に来られるかわからぬゆえに。
新共同だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
NIV"Therefore keep watch, because you do not know on what day your Lord will come.
註解: 主の再臨は必ずあることは確実であるけれどもその期日が分らない。ゆえに弟子たちの任務は目を覚して主の来り給うのを待つことである。Tテサ5:6。イエスが世の終末に関し詳しく述べ給いしは皆この警戒を与えんがためであって、好奇心を満足せしめんがためではなかった。

24章43節 (なんぢ)()これを()れ、家主(いへあるじ)もし盜人(ぬすびと)いづれの(とき)きたるかを()らば、()をさまし()て、その(いへ)穿(うが)たすまじ。[引照]

口語訳このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
塚本訳あなた達はこのことを知っているはずだ。──夜の何時に泥坊が来るとわかっておれば、家の主人は目を覚ましていて、みすみす家に忍び込ませはしないであろう。
前田訳このことを知れ――家の主人は夜の何時に盗人が来るとわかれば、目覚めていて家にしのび込ませまい。
新共同このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
NIVBut understand this: If the owner of the house had known at what time of night the thief was coming, he would have kept watch and would not have let his house be broken into.
註解: しかるに実際盗賊に穿(うが)たれるのは、その時を知らないので目を覚していなかったからである。聖書においてキリストの再臨はしばしば盗人が夜来るのに比較されている(Tテサ5:2Tテサ5:4Uペテ3:10黙3:3黙16:15)。

24章44節 この(ゆゑ)(なんぢ)らも(そな)へをれ、(ひと)()(おも)はぬ(とき)(きた)ればなり。[引照]

口語訳だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
塚本訳だから、あなた達も用意していなさい。人の子(わたし)は思いがけない時に来るのだから。
前田訳それゆえあなた方も心を構えよ、人の子は思わぬときに来ようから。
新共同だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
NIVSo you also must be ready, because the Son of Man will come at an hour when you do not expect him.
註解: 備え整ってさえいるならばキリスト再び思わぬ時に来給うとも、我らは狼狽することはない。Tテサ5:4−6。而して備え整える有様は次に示されるごとき諸々の比喩によりてこれを知ることができる。

24章45節 主人(あるじ)(とき)(およ)びて食物(しょくもつ)(あた)へさする(ため)に、(いへ)(もの)のうへに()てたる忠實(ちゅうじつ)にして(さと)(しもべ)(たれ)なるか。[引照]

口語訳主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
塚本訳(旅行に出かける)主人が一人の僕を(えらんで)奉公人たちの上に立て、時間時間に食事を与えさせることにした場合に、いったいどんな僕が忠実で賢いのであろうか。
前田訳まめで賢い僕はだれであろう、時間どおりに食事を整えるよう主人が家政を託したときに。
新共同「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
NIV"Who then is the faithful and wise servant, whom the master has put in charge of the servants in his household to give them their food at the proper time?
註解: 45−51節は備えの必要を説明する比喩である。「家の者」は大家の多数の従僕を意味し、これらに給与する任務を与えられし牧者の長は、適当の時刻に彼らに食物を与えなければならぬ。もし彼が忠実でかつ慧くあるならばその義務を果すであろう。ここに僕の長と言える意味は使徒、預言者、牧者等教会における重要なる職務を与えられし人々をいうのである。

24章46節 主人(あるじ)のきたる(とき)、かく()()るを()らるる(しもべ)幸福(さいはひ)なり。[引照]

口語訳主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
塚本訳それは主人がかえって来たとき、言いつけられたとおりにしているところを見られる僕で、その僕こそ幸いである。
前田訳さいわいなのは帰って来た主人にそのようにしたのを見られるその僕!
新共同主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
NIVIt will be good for that servant whose master finds him doing so when he returns.
註解: 前節の義務を皆実行し、いつ主人が来るも差支えなき状態におる僕は、目を覚している僕であって幸福なる者である。

24章47節 まことに(なんぢ)らに()ぐ、主人(あるじ)すべての所有(もちもの)(かれ)(つかさ)どらすベし。[引照]

口語訳よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
塚本訳アーメン、わたしは言う、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
前田訳本当にいう、彼は主人の持ちものすべてを託されよう。
新共同はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
NIVI tell you the truth, he will put him in charge of all his possessions.
註解: この世における忠実にして慧き行為は、かの世においてこれに相応(そうおう)する報いを受ける原因となる。我ら果して主の命じ給える責務をこの意味において果しているであろうか。

24章48節 もしその(しもべ)()しくして、(こころ)のうちに主人(あるじ)(おそ)しと(おも)ひて、[引照]

口語訳もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、
塚本訳しかしそれが悪い僕で、主人はおそい、と心の中で考えて、
前田訳もし悪い僕で、主人はおそいと心に思い、
新共同しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
NIVBut suppose that servant is wicked and says to himself, `My master is staying away a long time,'

24章49節 その同輩(どうはい)(たた)きはじめ、酒徒(さけのみ)らと飮食(のみくひ)(とも)にせば、[引照]

口語訳その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、
塚本訳仲間をなぐり始め、酔っぱらいどもと一しょに飲んだり食ったりしていると、
前田訳仲間を打ち、酔っぱらいと飲み食いすれば、
新共同仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
NIVand he then begins to beat his fellow servants and to eat and drink with drunkards.
註解: 彼がその同輩なる他の僕どもを虐待し、酒徒(さけのみ)と共に飲食することはその不忠実にして愚昧(おろか)なることの証である。これ皆主人の帰りを待つ心が薄いからである。ここに主人を思う心に支配される僕と自己の性情と欲望とに支配される僕との間に非常なる差を生ずることを見ることができる。前者は主人の帰宅を待ちてその備えをなし、後者はこれを忘れて自己の欲望を(ほしいまま)にする。我らはこの前者のごとくに切に主の再臨を待つ者とならなければならぬ。

24章50節 その(しもべ)主人(あるじ)おもはぬ()しらぬ(とき)(きた)りて、[引照]

口語訳その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、
塚本訳予期せぬ日、思いもよらぬ時間に、その僕の主人がかえってきて、
前田訳その僕の主人は予期せぬ日、知らぬ時に帰って来て、
新共同もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、
NIVThe master of that servant will come on a day when he does not expect him and at an hour he is not aware of.

24章51節 (これ)(はげ)しく(むち)うち、その(むくい)僞善者(ぎぜんしゃ)(おな)じうせん。其處(そこ)にて哀哭(なげき)切齒(はがみ)することあらん。[引照]

口語訳彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
塚本訳僕を八つ裂きにし、偽善者と同じ目にあわせるにちがいない。そのとき彼はわめき、歯ぎしりするであろう。
前田訳彼を引き裂こう。そして彼は偽善者と同じ目にあい、そこではなげきと歯ぎしりがあろう。
新共同彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
NIVHe will cut him to pieces and assign him a place with the hypocrites, where there will be weeping and gnashing of teeth.
註解: キリスト予期せざる時に来り給う時キリストの再臨を待ちて備えざるものは名義上の信者といえども、この運命を免れないであろう。
辞解
[烈しく(むち)うち] 原語「両断し」。
[その報] 原語「その分」
要義 [再臨に対する備え]イエスの預言によればその再臨は遠きがごとく又近きがごとく、その弟子の一生涯に起るべくしてしかもいつ起るかにつきては唯父なる神のみ知り給うとのことである。もし我ら今日主イエスに向い我らの「代」すなわち一生涯に主は再臨し給うことなきやを問うならば、彼は同じく「これらの事ことごとく成るまで今の代は過ぎ往くまじ」と言い給うであろう。ゆえに今日もまたキリストの日と同じく我ら備えして彼の来り給う日を待たなければならぬ、而して主にありては千年も一日のごとく一日も千年のごとくであると同じく、我らも主を待つの心の切なる一日千秋の思いであると同時に、主を待つ心の変らざる千年一日のごとくでなければならない。かくして主の再臨は時間を超越して、唯我らの心において切に主を待つことが唯一重要なる事柄であることを知るのである。我らは再臨の年月日を数うるを要せず、ただ毎日彼を待つをもって足るのである。また再臨の状態を好奇心をもって探るを要せず、聖書に示されしごとき事実に面して、自ら警戒すれば足るのである。第二十四章は極めて難解の一章であるにも関わらず、この意味をもって読む時我らの心に大なる光を投げ与えるであろう。