黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第15章

分類
5 イエス逆境に陥りたまう 11:1 - 16:12
5-4 イエス退きて弟子を訓練し給う 14:1 - 16:12
5-4-ホ 伝統の墨守を戒め給う 15:1 - 15:20
(マコ7:1-23)   

15章1節 ここにパリサイ(びと)學者(がくしゃ)ら、エルサレムより(きた)りてイエスに()ふ、[引照]

口語訳ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、
塚本訳そのころパリサイ人と聖書学者たちがエルサレムからイエスの所に来て、
前田訳そのころパリサイ人や学者がエルサレムからイエスのところへ来ていう、
新共同そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
NIVThen some Pharisees and teachers of the law came to Jesus from Jerusalem and asked,
註解: これらの人は遠路イエスを訪うたのを見れば、定めし熱心にして権威ある人々であったろう(B1)。この頃よりイエスに対するパリサイ人らの反感が益々露骨になってきた。

15章2節 『なにゆゑ(なんぢ)弟子(でし)は、(いにし)への(ひと)言傳(いひつたへ)(をか)すか、食事(しょくじ)のときに()(あら)はぬなり』[引照]

口語訳「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。
塚本訳「あなたの弟子はなぜ先祖の言伝えをふみにじるのか。食事をする時に手を洗わないではないか」と言った。
前田訳「なぜあなたの弟子は先祖のいい伝えを破るのですか、パンを食べるとき手を洗わないとは」と。
新共同「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
NIV"Why do your disciples break the tradition of the elders? They don't wash their hands before they eat!"
註解: モーセの律法と共に、或は往々にしてそれ以上に古人の言伝えを重んずるのがパリサイ人らの主張であった。そしてこの言伝えに反することは彼らにとって非常に重大事であった。ラビ・アキバは牢獄の中において少量の水しか与えられなかった時、たとい渇きのために死すとも手を洗わずに食することを肯ぜずとの信念より、この少量の水にて手を洗ったとのことである。迷誤に基く熱信は往々にして非常に愚なることをも大問題と信じ、これを死守することを忠信なるかのごとくに思い易いものである。我が国にもかかる例は多い。マコ7:3、4には尚この種の言伝えを詳細に例示している。

15章3節 (こた)へて()(たま)ふ『なにゆゑ(なんぢ)らは、また(なんぢ)らの言傳(いひつたへ)によりて(かみ)誡命(いましめ)(をか)すか。[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。
塚本訳彼らに答えられた、「では(わたしも)一つ尋ねる、あなた達も自分の言伝えで神の掟をふみにじっているが、あれはどうしたのか。
前田訳彼は答えられた、「あなた方にしても、自分のいい伝えだからとて神の掟を破るのはなぜか。
新共同そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
NIVJesus replied, "And why do you break the command of God for the sake of your tradition?
註解: 第二節の質問と同じ文言を用い、殊に言伝えと神の誡命(いましめ)とを対比して反問し給うことにより、彼らの誤りを明かにし給うた。

15章4節 (すなは)(かみ)は「(ちち)(はは)(うやま)へ」と()ひ「(ちち)または(はは)(ののし)(もの)(かなら)(ころ)さるべし」と()ひたまへり。[引照]

口語訳神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
塚本訳神は、“父と母を敬え、”また“父または母を罵る者は必ず死に処せられる”と言われたのに、
前田訳神はいわれた、『父と母を敬え』と。また、『父または母をののしるものは死刑』と。
新共同神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
NIVFor God said, `Honor your father and mother' and `Anyone who curses his father or mother must be put to death.'
註解: 旧約聖書中(引照参照)に示すがごとく、聖書は強く孝を説いている。然るに彼らはこれを実行せず、かえって次のごとき遁辞(とんじ)を造り出していた。

15章5節 (しか)るに(なんぢ)らは「(たれ)にても(ちち)または(はは)(むか)ひて、()()(ところ)のものは供物(そなへもの)となりたりと()はば、[引照]

口語訳それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、
塚本訳あなた達はこう言うのだから。──『父または母にむかって、わたしがあなたに差し上げるはずのものは(神への)供え物にする、と言う者は、
前田訳しかしあなた方はいう、『父または母に、あなたがわたしから当てがわれているものは供え物です、というものは
新共同それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、
NIVBut you say that if a man says to his father or mother, `Whatever help you might otherwise have received from me is a gift devoted to God,'

15章6節 (ちち)または(はは)(うやま)ふに(およ)ばず」と()ふ。()くその言傳(いひつたへ)によりて(かみ)(ことば)(むな)しうす。[引照]

口語訳父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。
塚本訳父または母を敬わなくてよろしい(、扶養の義務をまぬかれる)』と。こうして、あなた達は自分の言伝えで神の言葉を反故にしている。
前田訳父または母を敬わなくてもよい』と。かくて、あなた方は自らのいい伝えのゆえに神のことばを無にする。
新共同父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
NIVhe is not to `honor his father ' with it. Thus you nullify the word of God for the sake of your tradition.
註解: 「我が負ふ所のものは供物となりたり」とは一つの誓約の形式をなしている語であって、その語の示す意味は父母を扶養すべき物資を宮に供物として捧げてしまうことを意味する。しかし実際は必ずしも事実これを捧ぐる必要があるのではなく、唯かかる誓いの語を発するだけで、神に誓える理由をもって父母を扶養する義務を免除されるというのである。かかる言伝えを楯として不孝の行為に出でても、彼らは形式的敬虔と、その結果なるこの誓約の効力とに重きを置きてかかる行為を許していた。イエスは神の言の精神をかかる形式をもって蹂躙(じゅうりん)することの極悪なることを示し給うたのである。このイエスの反駁(はんばく)がパリサイ人を沈黙せしめしを見れば、彼らといえどもこの種の不孝の行為を心より是認しなかったのであろう。唯形式や言伝えをあまりに重視する場合には、かかる誤りに陥ることあるは注意しなければならぬ。森有礼の暗殺されし原因もこの種の理由であった。
辞解
[我が負う所のものは供物となりたり] 「負う所のもの」とは父母が我らに要求し得るもの、すなわち父母を扶養すべき義務のこと、「供物」とは神殿に捧ぐる供物であってマコ7:11にはヘブル語の原語コルバンを用いている。このコルバンは神に捧ぐるの意味より転じて、神に誓ってあるものを断つ場合(レビ27章民30章)に用いるようになった。「我に肴は供物となれり」といえば、神に誓って肴を断つの意味となった。この意味が自己に断つことより転じて他人にも与えないことを意味するようになり、遂には父母に対してもこの誓いを用いることによりて、その扶養の義務を尽くす必要なしと解せざるを得ざる言伝えが生ずるに至ったのである。

15章7節 僞善者(ぎぜんしゃ)よ、(うべ)なる(かな)、イザヤは(なんぢ)らに()きて()預言(よげん)せり。(いは)く、[引照]

口語訳偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
塚本訳偽善者たち!イザヤはあなた達のことをこう言って預言しているが、うまいものである。──
前田訳偽善者よ、イザヤがあなた方について預言したのは当たっている、いわく、
新共同偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
NIVYou hypocrites! Isaiah was right when he prophesied about you:

15章8節 「この(たみ)口唇(くちびる)にて(われ)(うやま)ふ、されど()(こころ)(われ)(とほ)ざかる。[引照]

口語訳『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
塚本訳“この民は口先でわたし[神]を敬いながら、その心は遠くわたしから離れている。
前田訳『この民は口でわたしを敬うが、心はわたしから遠い。
新共同『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
NIV"`These people honor me with their lips, but their hearts are far from me.
註解: イエスは憤慨のあまり、彼らを面前において「偽善者よ」と叱責し給うた。イエスは今日のキリスト者らが考うるごとき、いわゆる上品な紳士ではなかった。イザヤの預言(引照参照)は(まこと)によくイスラエルの民の実情を穿(うが)っていた。心は神を離れておりながら口唇(くちびる)をもって「主よ、主よ」と呼び、教会の儀式礼典をもって敬虔を装うことは、イエスの最も忌み嫌い給いし偽善であった。

15章9節 ただ(いたづ)らに(われ)(をが)む。(ひと)訓誡(いましめ)(をしへ)とし(をし)へて」』[引照]

口語訳人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
塚本訳彼らは(熱心に)わたしを拝むが無駄である、彼らが教えとして教えているのは、人間の(作った)規則であるから。”」
前田訳彼らはわたしを拝んでもむなしい。彼らが教えとするのは人間の掟であるから』」と。
新共同人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」
NIVThey worship me in vain; their teachings are but rules taught by men.' "
註解: 心が神に近付きて始めて真の礼拝をささぐることができ、また神の誡命(いましめ)を守ることができる。心が神より遠ざかっている場合は内容の空なる礼拝であり、又神よりの直接の誡命(いましめ)に接することができない結果、人の言伝え等が過度に重んぜられるに至るのである。

15章10節 かくて群衆(ぐんじゅう)()()せて()ひたまふ『()きて(さと)れ。[引照]

口語訳それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。
塚本訳それから群衆を呼びよせて言われた、「聞いて悟れ。
前田訳群衆を呼んでいわれた、「聞いて悟れ、
新共同それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
NIVJesus called the crowd to him and said, "Listen and understand.

15章11節 (くち)()るものは(ひと)(けが)さず、されど(くち)より()づるものは、これ(ひと)(けが)すなり』[引照]

口語訳口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。
塚本訳口に入るものは人をけがさない。口から出るもの、これが人をけがす。」
前田訳口に入るものは人をけがさず、口から出るものこそ人をけがす」と。
新共同口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
NIVWhat goes into a man's mouth does not make him `unclean,' but what comes out of his mouth, that is what makes him `unclean.'"
註解: 伝説旧慣に囚われざる群衆は、パリサイ人らよりも遥かにこの真理を悟るに適した心を()っていたであろう。彼らはイエスとパリサイ人との間の論談中はこれを興味を覚えずしてその場を離れていたのであろう。ゆえにイエスは彼らを呼び寄せ、パリサイ人らの言説に惑わされぬようにこれを教え給うた、この御言の説明は十六節以下にある。

15章12節 ここに弟子(でし)たち御許(みもと)(きた)りていふ『御言(みことば)をききてパリサイ(びと)(つまづ)きたるを()(たま)ふか』[引照]

口語訳そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。
塚本訳あとで弟子たちが来てイエスに言う、「パリサイ人がお話を聞いて腹を立てたことを御存じですか。」
前田訳そこへ弟子たちが来ていう、「パリサイ人がおことばを聞いてつまずいたのをご存じですか」と。
新共同そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
NIVThen the disciples came to him and asked, "Do you know that the Pharisees were offended when they heard this?"
註解: パリサイ人らはイエスの真理の言に躓いた。旧き言伝えや死せる形式を墨守する者は常に真理に躓く者である。

15章13節 (こた)へて()(たま)ふ『わが(てん)(ちち)()(たま)はぬ[もの](植物(しょくぶつ))は、みな()かれん。[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。
塚本訳イエスは答えられた、「わたしの天の父上がお植えにならないものは皆、引き抜かれる。
前田訳彼は答えられた、「天のわが父がお植えでない作物は皆抜かれる。
新共同イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。
NIVHe replied, "Every plant that my heavenly Father has not planted will be pulled up by the roots.
註解: 選ばれて信仰に入ることは皆天の父の御業である(引照参照)。父に選ばれて救われし者より外は皆亡ぼされるであろう。

15章14節 (かれ)らを()ておけ、盲人(めしひ)手引(てびき)する盲人(めしひ)なり、盲人(めしひ)もし盲人(めしひ)手引(てびき)せば、二人(ふたり)とも(あな)()ちん』[引照]

口語訳彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。
塚本訳あの人たちを放っておけ。盲人の手引をする盲人だ。盲人が盲人の手引をすれば、二人とも穴に落ちよう。」
前田訳彼らにかまうな。彼らは目しいを案内する目しいである。目しいが目しいを案内すると両方とも穴に落ちよう」と。
新共同そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
NIVLeave them; they are blind guides. If a blind man leads a blind man, both will fall into a pit."
註解: 彼らは直ちに裁かるべき者であるけれども、悔改めに導かんとて(しばら)く彼らを、その為すがままに放任し給う(ロマ1:24ロマ2:3)。パリサイ人らは真理に対する盲人である(ヨハ9:40、41。ロマ2:19)。悔改めずば、彼らは「穴」すなわち地獄に陥るであろう。

15章15節 ペテロ(こた)へて()ふ『その(たとへ)(われ)らに()(たま)へ』[引照]

口語訳ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。
塚本訳ペテロが口を出して言った、「さっきの譬を説明してください。」
前田訳ペテロがいった、「譬えを説明してください」と。
新共同するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
NIVPeter said, "Explain the parable to us."

15章16節 イエス()(たま)ふ『なんぢらも(いま)なほ(さと)りなきか。[引照]

口語訳イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。
塚本訳イエスは言われた、「あなた達までがまだ悟らないのか。
前田訳彼はいわれた、「あなた方さえもまだわからないのか。
新共同イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
NIV"Are you still so dull?" Jesus asked them.
註解: 十一節の譬は弟子らにも難解であったと見える、彼らはその霊的意義を捕え兼ねたのであろう。

15章17節 (すべ)(くち)()るものは(はら)にゆき、(つい)(かはや)()てらるる(こと)(さと)らぬか。[引照]

口語訳口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。
塚本訳すべて口に入るものは、腹を通って便所に落ちる(から、人をけがさない)ことが解らないのか。
前田訳すべて口に入るものは、腹に入って厠に落とされることを知らないのか。
新共同すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
NIV"Don't you see that whatever enters the mouth goes into the stomach and then out of the body?
註解: ▲「かわやに棄てらる」を口語訳で「外に出て行く」と訳したのは、聖書に「かわや」などという語はけがらわしいとか、イエスがかかる下品な言葉を語るのは相応(ふさわ)しくないとの考えからかも知れないが、余計な心配である。イエスの天真爛漫さを冒涜した人間的虚飾の訳語である。

15章18節 されど(くち)より()づるものは(こころ)より()づ、これ(ひと)(けが)すものなり。[引照]

口語訳しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。
塚本訳しかし口から出るものは心から出るので、そちらは人をけがす。
前田訳口から発するものは心から出るので、それが人をけがす。
新共同しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
NIVBut the things that come out of the mouth come from the heart, and these make a man `unclean.'

15章19節 それ(こころ)より()しき(おもひ)いづ、すなはち殺人(ひとごろし)姦淫(かんいん)淫行(いんかう)竊盜(ぬすみ)僞證(ぎしょう)誹謗(そしり)[引照]

口語訳というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、
塚本訳心から悪い考えが出るからである。人殺し、姦淫、不品行、盗み、偽証、悪口(など)。
前田訳悪意、殺人、姦淫、不義、盗み、偽証、けがしごとは心から出る。
新共同悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
NIVFor out of the heart come evil thoughts, murder, adultery, sexual immorality, theft, false testimony, slander.

15章20節 これらは(ひと)(けが)すものなり、されど(あら)はぬ()にて(しょく)する(こと)(ひと)(けが)さず』[引照]

口語訳これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。
塚本訳人をけがすのこれで、洗わぬ手で食事をすることは人をけがさない。」
前田訳これらが人をけがすので、洗わぬ手で食べることは人をけがさない」と。
新共同これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
NIVThese are what make a man `unclean'; but eating with unwashed hands does not make him `unclean.'"
註解: ここにイエスは外部より人間の内に入り来るもの(すなわち飲食物)と内部より外部に表われて来るもの(すなわち言語、行為)とを区別し、前者は人を汚すことができないけれども、後者は心の中に悪念が充ちおりこれが外部に表顕するものであって、これがその人を汚すものであるから、先ずこの心を洗うことが必要であることを教え給うたのである。ここに列挙せられし罪過の詳細はマルコ伝を見よ。これらは「人より出づるもの」(マコ7:15)又は「心より出づるもの」と称すべきであって、すべてを「口より出づるもの」と名づけることは不適当である。唯「口より入るもの」との対立上「口より出づるもの」といい給うたのである。要するに人間の心が腐敗して悪の住む処であることをイエスはここに明言しているのであって、人間の原罪を承認し給うたものと見るべきである。
要義 [伝統は真理を排斥する]旧き歴史を有っている国家、社会、家庭等には殊に多くの伝統があってその人民、家族を束縛する場合が多い。かかる場合にもしそれが伝統なるがゆえに尊まれ、これを破るべからずものと信じられるならば、遂には真理を排斥し、旧来の陋習(ろうしゅう)を操守することをもって正義と信ずるような極めて愚なる結果となるのである。ゆえに伝統はそれが真理である場合にのみ尊まるべきであって、然らざる場合はいかに旧き言伝といえどもこれを棄てなければならない。然らざれば遂に真理そのものを棄てなければならない場合に立至るであろう。
キリスト者といえどもこの過誤に陥り得るのであって、旧来の伝統なるがゆえのみにこれを棄て兼ねて、遂に真理を排斥しキリストの教訓に違反している場合は非常に多い。彼らはこのパリサイ人のごとく盲人であって盲人の手引きを為しているのである。これ実に最大の危険である。

5-4-ヘ カナンの女を恵み給う 15:21 - 15:28
(マコ7:24-30)   

15章21節 イエスここを()りてツロとシドンとの地方(ちはう)()(たま)ふ。[引照]

口語訳さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。
塚本訳イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方に引っ込まれた。
前田訳イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
新共同イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
NIVLeaving that place, Jesus withdrew to the region of Tyre and Sidon.
註解: パリサイ人らの反対が益々高まりつつあったので彼らを離れてツロ、シドンのごときパレスチナの西海岸にあたる異邦人の地方に往き給うた、この時よりイエスの伝道に一期限が画せられ、主としてその弟子たちに向いてイエスの贖罪の死について語り給う。

15章22節 ()よ、カナンの(をんな)その(ほとり)より()できたり、(さけ)びて『(しゅ)よ、ダビデの()よ、(われ)(あはれ)(たま)へ、わが(むすめ)惡鬼(あくき)につかれて(いた)(くる)しむ』と()ふ。[引照]

口語訳すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
塚本訳すると、その地方生まれの一人のカナンの女が出てきて叫んだ、「主よ、ダビデのお子様よ、どうぞお慈悲を。娘がひどく悪鬼に苦しめられています。」
前田訳すると見よ、そのあたりの出のカナンの女が来て叫んだ、「あわれんでください、主よ、ダビデのみ子よ、娘が悪霊になやんでいます」と。
新共同すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
NIVA Canaanite woman from that vicinity came to him, crying out, "Lord, Son of David, have mercy on me! My daughter is suffering terribly from demon-possession."
註解: 「カナンの女」はイスラエルの民族に属せざる異邦人の女である。彼がイエスを「ダビデの子」と呼ぶのを見ても、イエスがメシヤたることの風評は当時既にこの地方に行われていたことが分る。この女の心にはすでにイエスに対する絶対信頼の態度があった。
辞解
[カナン人] 元パレスチナの住民であった、後北方に移住してフェニシヤ/フェニキヤ国民となった。

15章23節 されどイエス一言(ひとこと)(こた)(たま)はず。弟子(でし)たち(きた)()ひて()ふ『(をんな)()したまへ、(われ)らの(のち)より(さけ)ぶなり』[引照]

口語訳しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
塚本訳しかしイエスは一言も答えられなかった。弟子たちが来て、願って言った、「願いをかなえてやって、(早く)この女を追い払ってください。どなりながらついて来ますから。」
前田訳しかし彼からはひとこともお答えがなかった。弟子たちが来てお願いした、「この女をどけてください。叫んでつけて来ますから」と。
新共同しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
NIVJesus did not answer a word. So his disciples came to him and urged him, "Send her away, for she keeps crying out after us."
註解: あたかも己が子に棄てられて路頭に迷う老父が、他人の子より扶養を受くるごとき場合に、これを喜ぶと共にその悲しみいやまさると同じく、イエスは神の経綸に従い、先ずイスラエルを救い、これより救いを全世界に及ぼし給うべきであったのに、このイスラエルの人々の中に最も信仰的種族として誇っていたパリサイ人らは彼を拒み、彼は淋しく異邦の境に放浪を続け給いし際とて、このカナンの女の信仰はかえって深く彼の心を動かし奉ったものであろう。この女の信仰によりてイスラエルの不信は益々深くイエスの心に浮び来り、彼女に答えんとする気分が消えてしまった。イエスの答え給わなかったのは、彼女に対する愛がなかったからではなく、更に深くイスラエルを愛し給うたからである。これに対し弟子たちの「うるさいから早く癒して下さい」との要求は、平凡そのものであった。女の信仰をもイエスの悩みをも理解しなかったのである。

15章24節 (こた)へて()ひたまふ『(われ)はイスラエルの(いへ)()せたる(ひつじ)のほかに(つかは)されず』[引照]

口語訳するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
塚本訳イエスは答えられた、「わたしはイスラエルの家のいなくなった羊だけにしか、遣わされていない。」
前田訳彼は答えられた、「わたしがつかわされたのはイスラエルの家のうせた羊にだけである」と。
新共同イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
NIVHe answered, "I was sent only to the lost sheep of Israel."
註解: イスラエルの不信を悲しむ御心がこの女の信仰によりていよいよ高められしこの際、弟子たちが主の御心を少しも解しないのを見て、イエスはその御心に溢れるイスラエルに対する切愛を吐露し給うた。この御言の裏面には「然るにイスラエルの失せたる羊は我を受けないとは、何たる悲しきことであろう」との意味が含まれている。
辞解
[失せたる羊] 牧者を見失って迷い出ている羊。「エホバは我が牧者なり」又イエスは「羊の大牧者」(ヘブ13:20)に在し給う。彼を離れて我らは失せたる羊である。

15章25節 (をんな)きたり(はい)して()ふ『(しゅ)よ、(われ)(たす)けたまへ』[引照]

口語訳しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
塚本訳するとその女が来て、しきりに願って言った、「主よ、お助けください。」
前田訳彼女は来てイエスにひれ伏していう、「主よ、お助けを」と。
新共同しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
NIVThe woman came and knelt before him. "Lord, help me!" she said.

15章26節 (こた)へて()ひたまふ『子供(こども)のパンをとりて小狗(こいぬ)()(あた)ふるは()からず』[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
塚本訳イエスは答えられた、「子供たちのパンを取り上げて、(異教の)小犬どもに投げてやるのはよろしくない。」
前田訳彼はいわれた、「子のパンを取って犬に投げるのはよくない」と。
新共同イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
NIVHe replied, "It is not right to take the children's bread and toss it to their dogs."
註解: 女の熱心はイエスの無関心と、弟子たちの不親切とによりて少しもひるまなかった、叫ぶだけでは足らず遂にイエスを拝してその助けを求めた。これに対するイエスの御答えは一見甚だ冷淡にして愛なき御言のごとくに聞えていた。しかしそうではなく、イエスには小狗(こいぬ)なる異邦人を救う前に、子供なるイスラエルを救う熱望が止み難いのであった。ここにその悩める御心をそのまま吐露し給うたのである。

15章27節 (をんな)いふ『(しか)り、(しゅ)よ、小狗(こいぬ)主人(あるじ)食卓(しょくたく)よりおつる食屑(たべくず)(くら)ふなり』[引照]

口語訳すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
塚本訳しかし女は言った、「主よ、是非どうぞ!小犬どもも、御主人の食卓から落ちるパン屑をいただくのですから。」
前田訳彼女はいった、「主よ、ごもっともですが、犬も主人の食卓から落ちるくずを食べます」と。
新共同女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
NIV"Yes, Lord," she said, "but even the dogs eat the crumbs that fall from their masters' table."
註解: 女の心は謙遜と信頼とに満ちていた。彼女は主の恵みを当然の権利として要求せず無価値なる彼女に対する特別の恩恵としてこれを求めた、而してイエスが繰返しこれを拒み給うがごとく見えていても、尚イエスの愛を疑わずしてイエスに依り頼んだ。我らの信仰と祈りもまたかくのごとくに強く、又謙遜でかつ忍耐深くなければならない。

15章28節 ここにイエス(こた)へて()ひたまふ『をんなよ、(なんぢ)信仰(しんかう)(おほい)なるかな、(ねがひ)のごとく(なんぢ)になれ』(むすめ)この(とき)より()えたり。[引照]

口語訳そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
塚本訳そこでイエスは答えられた、「ああ、女の人、りっぱな信仰だ。願いどおりに成れ。」すると、ちょうどその時から、娘は直った。
前田訳そこでイエスは答えられた、「女の人、あなたの信仰は大きい。望みがかなえられるように」と。するとそのときから彼女の娘はなおった。
新共同そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
NIVThen Jesus answered, "Woman, you have great faith! Your request is granted." And her daughter was healed from that very hour.
註解: ここに始めてイエスの御心は、イスラエルに対する悩みより脱して女の信仰に向けられた、そしてその信仰を讃美賞嘆し給うたのである。信仰をもって祈る者に対してイエスは今も尚「願いのごとく汝になれ」と(のたま)う。
要義1 [神の恩恵異邦人に及ぶ]神の言は先ずイスラエルに宣伝えらるべきであった、然るに彼らこれを拒み、イエスを十字架に釘けたがために救いは異邦人に及んだのである (使13:46使28:28ロマ11:11) 。されどアブラハムに対する神の約束(創12:3)、その他のイスラエルに対する神の諸々の約束は空に帰したのではない。必ず充たされる時があるのである。この物語においてもパリサイ人らがイエスを拒んだことによりて、恩恵がカナンの一婦人に及んだのは、イエスの十字架のなやみとこれにより異邦人に救いが及ぶことが予表されていると見ることができる。
要義2 [イエスがカナンの婦人を救うことをなぜに拒み給いしか]この理由を予は前掲註解のごとくに解した。ただしこれは通説ではない。かかる篤信の婦人の求めにイエスが応じ給わないことは、いかにもイエスらしくないのでこの箇所は種々の解釈をもって説明されている。或はイエスは彼女の信仰を試さんがために、表面彼女の乞いを容れ給わないかのごとくに装ったのであると解し、又はイエスの目的は彼女の信仰を表顕する機会を与えんとするにあったと説明し、又は実際イエスはイスラエルを救うことを主要事と考え、彼女を救うことを欲し給わなかったのであると説明し、又はイエスはこれによりて、神と異邦人との間の関係を表徴的に示さんとし給えるものと解釈する等がこれである。果してこれらの解釈中のいずれがイエスの御心であったかはこれを決定することができない。各人その欲する解釈を取ることが自由である。唯この各々にそれぞれ欠点があることもまた免れることができないことを念頭に置くことが必要である。イエスの御心は我らの心によりて解釈し尽くすべくあまりに高くあまりに深い。
要義3 小狗(こいぬ)の如き信仰]自ら神の国のために大なる働きをなして、神の国の食卓に傲然として坐することができると考えるものは、神の御旨に叶えるものではない。自らは救わるべき価値なきにもかかわらず、神の恩恵によりて神の子とされることの光栄を心から感謝するもののみ、神の御旨に叶えるものである。自ら卑しとするものは天国において高しとされるものである。カナンの女のごときこの意味において最も大なる信仰を有っていたのである。

5-4-ト 群集の病気を癒し給う 15:29 - 15:31
(マコ7:31-37)   

15章29節 イエス此處(ここ)()り、ガリラヤの海邊(うみべ)にいたり、(しか)して(やま)(のぼ)り、そこに()(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に登ってそこにすわられた。
塚本訳それからイエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりにかえり、山に上ってそこに坐られた。
前田訳そこを去ってイエスはガリラヤ湖畔へ来て山に上ってそこにすわられた。
新共同イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
NIVJesus left there and went along the Sea of Galilee. Then he went up on a mountainside and sat down.
註解: ガリラヤ湖の東岸を経て来給うたのであった(マコ7:31)。カリラヤ湖畔の山上はイエスの好んで赴き給いし処であった(マタ5:1)。

15章30節 (おほい)なる群衆(ぐんじゅう)跛者(あしなへ)不具(ふぐ)盲人(めしひ)唖者(おふし)および(ほか)(おほ)くの(もの)()(きた)りて、イエスの足下(あしもと)()きたれば、(いや)(たま)へり。[引照]

口語訳すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。
塚本訳大勢の群衆が足なえ、片輪、盲人、唖、そのほか多くの者をつれてイエスの所に来て、足もとに置いたので、それをなおされた。
前田訳多くの群衆が足なえ、不具の人、目しい、唖者、そのほか多くの病人を連れてイエスのところへ来て、お足もとに置いたのでそれをいやされた。
新共同大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
NIVGreat crowds came to him, bringing the lame, the blind, the crippled, the mute and many others, and laid them at his feet; and he healed them.
註解: これらの癒されしものの中、果して幾何(いくばく)がイエスの真の弟子となりしかを思う時、世には自己の益を求めんがためにイエスに来る者の多きに反し、自己を捧げてイエスの弟子となるもの少なきを思わざるを得ない。唯イエスはかかる結果を眼中に置き給わなかった。彼ら憐れみてその来るがままにこれを癒し給うた。

15章31節 群衆(ぐんじゅう)は、唖者(おふし)(もの)いひ、不具(ふぐ)()え、跛者(あしなへ)(あゆ)み、盲人(めしひ)()えたるを()(これ)(あや)しみ、イスラエルの(かみ)(あが)めたり。[引照]

口語訳群衆は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。
塚本訳群衆は唖が物を言い、片輪が直り、足なえが歩きまわり、盲人が目が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を讃美した。
前田訳唖者が語り、不具の人がなおり、足なえが歩き、目しいが見るのを見て群衆はおどろき、イスラエルの神を讃美した。
新共同群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
NIVThe people were amazed when they saw the mute speaking, the crippled made well, the lame walking and the blind seeing. And they praised the God of Israel.
註解: 唯悲しむべきことには彼らはこれを見てもイエスのメシヤにして神の子に在し給うことを覚えるに至らなかった。

5-4-チ イエス四千人を養い給う 15:32 - 15:39
(マコ8:1-10)   

15章32節 イエス弟子(でし)たちを()して()(たま)ふ『われ()群衆(ぐんじゅう)をあはれむ、(すで)三日(みっか)われと(とも)にをりて(くら)ふべき(もの)なし。()ゑたるままにて(かへ)らしむるを(この)まず、(おそ)らくは(みち)にて(つか)()てん』[引照]

口語訳イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。
塚本訳イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしをはなれずにいるので、何も食べるものを持っていない。空腹のままで帰したくない。途中でへたばってしまうかも知れない。」
前田訳イエスは弟子たちを呼びよせていわれた、「群衆が気の毒だ。わたしのところに三日もいるのに、食べものがない。空腹のままでは帰したくない。途中で力つきるといけないから」。
新共同イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
NIVJesus called his disciples to him and said, "I have compassion for these people; they have already been with me three days and have nothing to eat. I do not want to send them away hungry, or they may collapse on the way."
註解: イエスを信頼して彼に従う者のためには、イエス自ら食うべきものを備え給うことは(まこと)に感謝すべき事柄である。ゆえに我ら安んじて先ず神の国と神の義を求めることができる。群衆がその飢えをも忘れて三日間彼に従えることは彼と共に在ることのいかに幸いであったかを示している。

15章33節 弟子(でし)たち()ふ『この(さび)しき()にて、()(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)()かしむべき(おほ)くのパンを、何處(いづこ)より()べき』[引照]

口語訳弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。
塚本訳弟子たちが言う、「この荒野で、いったいどこから、こんなに大勢の人を満腹させるほど沢山のパンを買って来ましょうか。」
前田訳弟子たちはいう、「こんなに大勢の群衆が満腹するほどのパンを、このさびしいところでどこから手に入れましょう」。
新共同弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
NIVHis disciples answered, "Where could we get enough bread in this remote place to feed such a crowd?"
註解: 「主よ彼らに必要のパンを与え給え」と祈ることが弟子たちの第一の務めであった。これを為さずしてどこにパンを得んかと、先ず事務的の事を考えることは我らの陥り易い過ちである。

15章34節 イエス()(たま)ふ『パン(いく)つあるか』(かれ)らいふ『(なな)つ、また(ちひさ)(うを)すこしあり』[引照]

口語訳イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。
塚本訳イエスが言われる、「手許にいくつパンがあるか。」「七つ、それと小魚が少しです」とこたえた。
前田訳イエスはいわれる、「そこにパンが幾つあるか」。彼らはいった、「七つ、それに小魚が少しです」と。
新共同イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
NIV"How many loaves do you have?" Jesus asked. "Seven," they replied, "and a few small fish."
註解: イエスは必要な場合には石を化してパンとなすことをも知り給う。ゆえに弟子の憂慮はイエスにとって無関係であった。

15章35節 イエス群衆(ぐんじゅう)(めい)じて()()せしめ、[引照]

口語訳そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、
塚本訳イエスは群衆に命じて地面にすわらせ、
前田訳彼は群衆に地面にすわるよう命じ、
新共同そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
NIVHe told the crowd to sit down on the ground.

15章36節 (なな)つのパンと(うを)とを()り、(しゃ)して(これ)をさき弟子(でし)たちに(あた)(たま)へば、弟子(でし)たちこれを群衆(ぐんじゅう)(あた)ふ。[引照]

口語訳七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。
塚本訳その七つのパンと魚とを(手に)取り、(神に)感謝して(パンを)裂き、弟子たちに渡されると、弟子たちは群衆に渡した。
前田訳七つのパンと魚を取り、感謝して裂き、弟子たちに与えられると、弟子たちは群衆に与えた。
新共同七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
NIVThen he took the seven loaves and the fish, and when he had given thanks, he broke them and gave them to the disciples, and they in turn to the people.
註解: イエスにとりては四千人を養うべき奇蹟を行い給うこの場合と、少数にて共に食事をする場合との間に、その態度に少しの差別もなかった。ここに彼の無限の力を見ることができる。この力の主に在し給う彼を信ずるものは平安である。彼は唯父なる神に感謝をささげ給うた。イエスにとってはすべてが感謝の源であった。

15章37節 (すべ)ての(ひと)くらひて()き、()きたる(あまり)(ひろ)ひしに、(なな)つの(かご)滿()ちたり。[引照]

口語訳一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。
塚本訳皆が食べて満腹した。そして余った(パンの)屑を拾うと、七つの篭に一ぱいあった。
前田訳皆が食べて満腹した。余りのくずを拾うと、七つの籠が満ちた。
新共同人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
NIVThey all ate and were satisfied. Afterward the disciples picked up seven basketfuls of broken pieces that were left over.
註解: マタ14:20註参照。▲本節の「(かご)」は spuris で14:20の「(かご)」は kophinos である。spuris((かご))の方は大形で人間が入れる位のもの、使9:25。口語訳でこの区別を無くしたのは遺憾である。

15章38節 (くら)ひし(もの)は、(をんな)子供(こども)とを(のぞ)きて四千(しせん)(にん)なりき。[引照]

口語訳食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。
塚本訳食べた者は、女、子供ぬきで、男四千人であった。
前田訳食べた人は女こどもは別として四千人であった。
新共同食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
NIVThe number of those who ate was four thousand, besides women and children.

15章39節 イエス群衆(ぐんじゅう)をかへし、(ふね)()りてマガダンの地方(ちはう)()(たま)へり。[引照]

口語訳そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。
塚本訳イエスは群衆を解散させたのち、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。
前田訳イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダンの地方へ行かれた。
新共同イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。
NIVAfter Jesus had sent the crowd away, he got into the boat and went to the vicinity of Magadan.
註解: マガダンは場所不詳の地である。マコ8:10にはダルマヌタとあり、マガダンは異本にマグダラとあり、マグダラはガリラヤ湖の西岸であってこの場合には適当していない。
附記 この第二の奇蹟は第十四章十六節以下の記事に類似し、かつマタイ伝とマルコ伝にのみに存するとの理由の下に同一の奇蹟に対する二つの記事であると解する学者が多い。しかし場所、人数、事情等すべて異なり、器物までも種類の異なるものであり、いなかる点より比較しても同一事件であることの証拠はない。学者がかかる空しき疑問を起すの根拠は、かかる奇蹟は二度行わることはなからんとの漠然たる推測と、33節の弟子たちの質問が、もし以前に五千人を養える奇蹟があったとすれば、不可解であるという極めて不充分なる理由からである。

マタイ伝第16章
5-4-リ 天よりの徴 16:1 - 16:4
(マコ8:11-13) (ルカ12:54-57)   

16章1節 パリサイ(びと)とサドカイ(びと)(きた)りてイエスを(こころ)み、(てん)よりの(しるし)(しめ)さんことを()ふ。[引照]

口語訳パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
塚本訳するとパリサイ人とサドカイ人とが来て、イエスを試そうとして、(神の子である証拠に)天からの(不思議な)徴を示すようにと頼んだ。
前田訳パリサイ人とサドカイ人が来て、イエスを試すために天からの徴を彼らに示すよう請うた。
新共同ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
NIVThe Pharisees and Sadducees came to Jesus and tested him by asking him to show them a sign from heaven.
註解: パリサイ人もサドカイ人もこれまでイエスの行い給える奇蹟のみをもっては、彼を救い主と信ずることができなかった。恐らく彼らはこれらの奇蹟をもって地のものと見做(みな)し、サタンもこれを行い得るものと考えたのであろう。ゆえに彼らはモーセやヨシュアやエリヤの場合のごとく、イエスのメシヤなることについての天よりの徴を示さんことを乞うた。これ取りもなおさずイエスのメシヤなりや否やに関する挑戦である。彼らはこの試みによりイエスを試験せんとした、あたかも荒野におけるサタンの役目を彼らは演じているのである。すべてのことにおいて相一致せざるパリサイ人とサドカイ人も、イエスに対する不信においては一致していた。
辞解
[天よりの徴] モーセが十戒を授けられる時の天変、天よりのマナ、ヨシュアに対する神の助け、エリヤがカルメル山上にエホバの火を祈ってこれを得しごとき徴を指す。

16章2節 (こた)へて()ひたまふ『(ゆふべ)には(なんぢ)ら「(そら)あかき(ゆゑ)(はれ)ならん」と()ひ、[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
塚本訳彼らに答えられた、「あなた達は夕方には『(明日は)天気だ、空が焼けているから』と言い、
前田訳彼は答えられた、「〔夕になるとあなた方はいう、『お天気だ、空が焼けているから』と。
新共同イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
NIVHe replied, "When evening comes, you say, `It will be fair weather, for the sky is red,'

16章3節 また(あした)には「そら(あか)くして(くも)(ゆゑ)に、今日(けふ)(かぜ)(あめ)ならん」と()ふ。なんぢら(くう)氣色(けはひ)見分(みわ)くることを()りて、(とき)(しるし)見分(みわ)くること(あた)はぬか。[引照]

口語訳また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。
塚本訳また朝早く、『きょうは荒れだ、空が曇って焼けているから』と言う。あなた達は空の模様を見分けることを知っていながら、時の(せまった)徴を見分けることが出来ないのか。
前田訳そして朝には、『きょうは嵐だ、空が曇って焼けているから』と。空の様子を見わけることを知って時の徴がわからないのか〕。
新共同朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
NIVand in the morning, `Today it will be stormy, for the sky is red and overcast.' You know how to interpret the appearance of the sky, but you cannot interpret the signs of the times.
註解: 夕焼けは好天、朝焼けは荒天の前兆であることは我が国においても知られている。この空の気色は万人に明らかなる徴であり、何人もこの徴によりて天候を予知することができる。イエスこの世に来り給い多くの能力ある業を行い給いしことは、この空の気色と同じく万人の前に行われ、何人にも明らかなる「恵みによる救いの時の徴」であった。これを見分くることができないはずはないとイエスは言い給う。而してこれを見分け得ないのは、徴がないからではなく「不信」の結果彼らが盲目になっているからである。今日キリストの福音が宣伝えられ罪の赦しが示されているのに人々これに与り得ないのは、彼らの不信の結果である。

16章4節 邪曲(よこしま)にして不義(ふぎ)なる()(しるし)(もと)む、されどヨナの(しるし)(ほか)(しるし)(あた)へられじ』かくて(かれ)らを(はな)れて()(たま)ひぬ。[引照]

口語訳邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
塚本訳この悪い、神を忘れた時代の人は、徴をほしがる。しかしこの人たちには、ヨナの徴以外の徴は与えられない。」イエスは彼らをすてて立ち去られた。
前田訳悪い背信の世代は徴を求めるが、ヨナの徴のほか徴は与えられまい」と。イエスは彼らから立ち去られた。
新共同よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
NIVA wicked and adulterous generation looks for a miraculous sign, but none will be given it except the sign of Jonah." Jesus then left them and went away.
註解: マタ12:39註参照。▲このパリサイ人やサドカイ人のごとき高慢な態度やイエスに対する批判的態度で福音に対する者は祝福を受けることができない。
要義 [不信仰は人をして盲目ならしむ]ヨハ9:1−41の盲人開目の奇跡の示すがごとく、パリサイ人らはその不信仰のゆえに盲目であった。盲目なる者にはいかなる徴も何の意味をもなさない、ゆえに彼らには徴が与えられないのである。然るにパリサイ人らは自己の不信をばこれを顧みずして、天よりの徴によりて信ぜしめられんことを求めている。しかしこれは無益である、ゆえにイエスは5−12節にこのパリサイのパン種を戒め、13−20節においてペテロが何らの徴によらず、信仰によりてイエスを神の子と告白することができた事実を示している。

5-4-ヌ パン種に対する警戒 16:5 - 16:12
(マコ8:14-21)   

16章5節 弟子(でし)たち彼方(かなた)(きし)(いた)りしに、パンを(たづさ)ふることを(わす)れたり。[引照]

口語訳弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
塚本訳向う岸に着いたとき、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れていた。
前田訳向こう岸に渡るとき弟子たちはパンを持って来るのを忘れていた。
新共同弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
NIVWhen they went across the lake, the disciples forgot to take bread.
註解: 弟子たちのみならずイエスも彼らと共に渡り給いしことは次節によりても明らかである。

16章6節 イエス()ひたまふ『(つつし)みてパリサイ(びと)とサドカイ(びと)とのパン(だね)(こころ)せよ』[引照]

口語訳そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
塚本訳するとイエスは弟子たちに、「パリサイ人(のパン種)とサドカイ人のパン種に注意し、警戒せよ」と言われた。
前田訳イエスは彼らにいわれた、「心がけて、パリサイ人とサドカイ人のパン種を警戒せよ」と。
新共同イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
NIV"Be careful," Jesus said to them. "Be on your guard against the yeast of the Pharisees and Sadducees."
註解: 弟子たちがパンのことを憂慮しつつある間に、イエスは彼らの心がパリサイ主義、サドカイ主義に浸潤(しんじゅん)せられんことを恐れて、かく誡め給うたのである。蓋し自ら信仰なしに、形式的律法の遵守をもって真の宗教なりとするパリサイ人、また自ら信仰なしに、理智的、哲学的、文化的態度をもって真の人生なりとし、この世に勢力あることを誇るサドカイ人(マコ8:15にはヘロデのパン種とあり、サドカイ人にはヘロデ党が多かった)らは共にイエスを拒む人々であって、人は律法主義、文化主義に陥ると同時にイエスを見失うことは今日も変りはない。イエスはこのパン種を警戒し給うたのである。▲今日でもキリスト教徒の中に、このパリサイ型とサドカイ型とがあり、いずれも真の信仰ではない。
辞解
[パン種] マタ13:33註参照。

16章7節 弟子(でし)たち(たがひ)に『(われ)らはパンを(たづさ)へざりき』と(かた)()ふ。[引照]

口語訳弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。
塚本訳弟子たちは(その意味がわからず、)「パンを持ってこなかったこと(を言われる)らしい」と言って、こそこそ評議をしていた。
前田訳彼ら同士いいはじめた、「われわれがパンを持って来なかったからだ」と。
新共同弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
NIVThey discussed this among themselves and said, "It is because we didn't bring any bread."
註解: かかる理解なき弟子たちであったので、イエスは特に警戒を与うるの必要を認め給うたのであろう。弟子たちはイエスの御言を解し兼ねて互いにヒソヒソ話をしたのである。

16章8節 イエス(これ)()りて()(たま)ふ『ああ信仰(しんかう)うすき(もの)よ、(なに)ぞパン()きことを(かた)()ふか。[引照]

口語訳イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。
塚本訳イエスはそれと知って言われた、「なぜパンのないことをこそこそ評議するのか。この信仰の小さい人たち!
前田訳気づいてイエスはいわれた、「なぜあなた方同士でパンのないことを話しあうか、小信もの、
新共同イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
NIVAware of their discussion, Jesus asked, "You of little faith, why are you talking among yourselves about having no bread?

16章9節 (いま)(さと)らぬか、(いつ)つのパンを()(せん)(にん)(わか)ちて、その(あまり)幾籃(いくかご)ひろひ、[引照]

口語訳まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
塚本訳まだ解らないのか、覚えていないのか、あの五千人の五つのパンのとき、いく篭ひろったか。
前田訳まだわからないのか、五千人のためのパン五つでいく籠拾ったか、覚えていないのか。
新共同まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
NIVDo you still not understand? Don't you remember the five loaves for the five thousand, and how many basketfuls you gathered?

16章10節 また(なな)つのパンを四千(しせん)(にん)(わか)ちて、その(あまり)幾籃(いくかご)ひろひしかを(おぼ)えぬか。[引照]

口語訳また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
塚本訳また、四千人の七つのパンのとき、いく篭ひろったか。
前田訳四千人のためのパン七つでいく籠拾ったか。
新共同また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
NIVOr the seven loaves for the four thousand, and how many basketfuls you gathered?
註解: イエスが弟子たちに要求し給うことは衣食の思い煩いを除きて、唯イエスをメシヤと信じ神の子と仰ぐことであった。もし弟子たちがイエスの二度までも為し給えるパンの奇蹟を心に留め、これによりてイエスの神の子に在し給うことを信じていたならば、パンを携えなかったことに心を奪われるようなことはないであろう。この信仰が弟子たちに欠けているのをいかに悲しく思い給うたことであろうか、イエスは幾度も入念にその奇蹟につきて弟子に質問を発し給うた(マコ8:17−21には一層強く「未だ悟らぬか」を繰返し給いしことが記されている)。かくのごとく弟子の「信仰うすき」がゆえに、イエスはパン種につきて一層(おごそ)かに警戒することを必要と感じ給うたのである。
辞解
[(かご)] (かご)はコフィノス kophinos であって旅行に携帯するバスケット様のもの、「(かご)」はスピュリス spuris でパウロは(かご)に入れて夜中石垣より吊り下ろされた(使9:25)のもこの種類であり、穀物貯蔵等のために用いられる大型の(かご)である。パンの奇蹟の第一回は(かご)であり、第二回が(かご)であったことは四福音書の記事が一致し、この物語の精確さを保証している。

16章11節 ()()ひしはパンの(こと)にあらぬを(なに)(さと)らざる。(ただ)パリサイ(びと)とサドカイ(びと)とのパンだねに(こころ)せよ』[引照]

口語訳わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
塚本訳パンのことを言ったのではないことが、どうして解らないのか。パリサイ人(のパン種)とサドカイ人のパン種を警戒せよ。」
前田訳あなた方にいったのはパンのことではないのがなぜわからないのか。パリサイ人とサドカイ人のパン種を警戒せよ」と。
新共同パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
NIVHow is it you don't understand that I was not talking to you about bread? But be on your guard against the yeast of the Pharisees and Sadducees."
註解: イエスは彼を拒まんとするパリサイ人やサドカイ人の思想の中に多くの害毒を認めこれに感染せざるよう、くれぐれも弟子たちを教え給うたのである。

16章12節 ここに弟子(でし)たちイエスの(こころ)せよと()(たま)ひしは、パンの(たね)にはあらで、パリサイ(びと)とサドカイ(びと)との(をしへ)なることを(さと)れり。[引照]

口語訳そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
塚本訳その時(やっと)弟子たちは、イエスがパン種でなく、パリサイ人とサドカイ人との教えを警戒せよ、と言われたことを悟った。
前田訳そこで、弟子たちは彼がパン種でなくてパリサイ人とサドカイ人の教えを警戒するよういわれたことがわかった。
新共同そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
NIVThen they understood that he was not telling them to guard against the yeast used in bread, but against the teaching of the Pharisees and Sadducees.
註解: 前節にイエスはパン種の何を意味せざるかを示し、何を意味するかを弟子の判断に任せ給うた。本節にはその弟子の判断を記している。この「教」の内容についてカルビンは「神の言に自己の考えを交え又神の言の中になきものを付加するごときこと」と解しているけれども、それよりもむしろ形式外見を重んじて内容なきいわゆるパリサイ主義、理智を重んじて信仰なきサドカイ主義と解する方が前後の関係に適している。
要義 [パン種に対する注意]「少しのパン種の粉の団塊をみな膨れしむることを知らぬか」(Tコリ5:6ガラ5:9)。イエスがここにパリサイとサドカイのパン種を除くべきことを教え給えるは、唯その当時の事情のみに適する教えではなく、今日も同様にこのパリサイとサドカイのパン種が多量に存しているのである。心がキリストより遠ざかっておりながら、口と手とをもって形式的に律法的にキリストに仕えんとする教会主義は、一種のパリサイのパン種である。又福音の中より奇跡を除き、イエスの神の子に在し給うこと、十字架によりて罪を贖い、復活して神の右に在し、やがて再び来りて審判を行い給うこと等を除きて、キリスト教を一種の文化運動、社会運動に化せしめんとするものは一種のサドカイ主義である。かくのごとく今日我らの世界においてもこの二主義が種々の形を為して存在しているのであって、我らはイエスを神の子と信ずる信仰によりてこのパン種を除くことをしなければならない。

分類
6 イエスその使命及び十字架を予告し給う 16:13 - 17:27
6-1 ペテロの告白 16:13 - 16:20
(マコ8:27-30)(ルカ9:18-22) 

16章13節 イエス、ピリポ・カイザリヤの地方(ちはう)にいたり、弟子(でし)たちに()ひて()ひたまふ『人々(ひとびと)(ひと)()(たれ)()ふか』[引照]

口語訳イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
塚本訳ピリポ・カイザリヤ地方に行かれたとき、イエスはこう言って弟子たちに尋ねられた、「世間の人は人の子(わたし)のことをなんと言っているか。」
前田訳イエスはピリポ・カイサリアの地方に来られたとき、弟子たちに問われた、「人々は人の子を何というか」と。
新共同イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
NIVWhen Jesus came to the region of Caesarea Philippi, he asked his disciples, "Who do people say the Son of Man is?"
註解: ピリポ・カイザリヤはパレスチナのカイザリヤと区別され、前者はレバノン山脈の麓にある一小市、後者は地中海岸の都市である。この質問を境界としてイエスの臨終が益々近付いて来、弟子たちにもそのことを示し給う。
辞解
[人の子] マタ8:20

16章14節 (かれ)()いふ『(ある)(ひと)はバプテスマのヨハネ、(ある)(ひと)はエリヤ、(ある)(ひと)はエレミヤ、また預言者(よげんしゃ)一人(ひとり)[引照]

口語訳彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
塚本訳彼らが言った、「あるいは洗礼者ヨハネ、あるいは預言者エリヤ、あるいはエレミヤとか(昔の)普通の預言者とか言う者があります。」
前田訳彼らはいった、「あるものは洗礼者ヨハネ、あるものはエリヤ、他のものはエレミヤとか預言者のひとりといいます」。
新共同弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
NIVThey replied, "Some say John the Baptist; others say Elijah; and still others, Jeremiah or one of the prophets."
註解: 世人のイエス評である。イエスを信ぜざる者もイエスの偉大を否定し得なかった。ゆえに或人はイエスを現代における最大の聖者ヨハネに比し、或人はメシアの先駆として来るべきエリヤに比し、或人は最大の預言者エレミヤに比した、その他イエスに対して種々の評を下していたことであろうけれども、要するに人類中の最も大なるものとして彼を見ていた。それにもかかわらず彼が神の独子に在し給うことを知ることができなかった。今日もイエスをもって世界の三聖または四聖の中に列せしむることを躊躇する人はあるまい、しかしながら彼を神の子と信ずるものは極めて少ない。

16章15節 (かれ)らに()ひたまふ『なんぢらは(われ)(たれ)()ふか』[引照]

口語訳そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
塚本訳彼らに言われる、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」
前田訳彼らにいわれる、「あなた方はわたしを何というか」と。
新共同イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
NIV"But what about you?" he asked. "Who do you say I am?"
註解: イエスは勿論世人の評価を多く期待しなかった。先ずこれについて質したのは、弟子たちが彼について何を考えているかを問うの前提に過ぎなかった。彼にとっては弟子の信仰が最大の関心事であったのである。彼の死期は近付きつつあった。もし弟子たちにして彼を解しなかったならば、彼の淋しさはいかばかりであったろうか。

16章16節 シモン・ペテロ(こた)へて()ふ『なんぢはキリスト、()ける(かみ)()なり』[引照]

口語訳シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
塚本訳シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主、生ける神の子であります!」
前田訳シモン・ペテロが答えた、「あなたはキリスト、生ける神の子です」と。
新共同シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
NIVSimon Peter answered, "You are the Christ, the Son of the living God."
註解: イエスは単なる偉人、宗教家、天才、預言者等の語をもって示すべくあまりに偉大である。彼は人間の中に列せらるべきものではなく、まことに、メシヤ、救い主、活ける神の子に在し給うた。ペテロは使徒たちの代弁者として(おごそ)かにこの信仰を告白したのである。このペテロの告白こそすべてのキリスト者の告白でなければならない。かくしてイエスをキリストと信じ、神の子として彼を拝するに至らなければならない。イエスを単に一人の偉人と考うるに過ぎないものは「世の人」であってキリスト者ではない。「イエスはキリスト活ける神の子なり」との告白は「キリスト教信仰箇条の総和である」(M0)。 マタ26:63ヨハ11:27ヨハ20:31ピリ2:11Tヨハ2:22 以下。彼らと同じ肉体をもって彼らの間に宿り給えるイエスを見て、この告白を為すことができたペテロの信仰こそは偉大なる信仰である。

16章17節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『バルヨナ・シモン、(なんぢ)幸福(さいはひ)なり、(なんぢ)(これ)を[(しめ)し]((あら)はし)たるは血肉(けつにく)にあらず、(てん)にいます()(ちち)なり。[引照]

口語訳すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
塚本訳するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。
前田訳イエスは答えられる、「ヨナの子シモン、あなたはさいわいだ、血肉でなく天のわが父がそれをあなたに示されたから。
新共同すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
NIVJesus replied, "Blessed are you, Simon son of Jonah, for this was not revealed to you by man, but by my Father in heaven.
註解: イエスはいたくこの信仰告白に満足し給うた。これによって彼は安心して来るべき彼の死をも弟子たちに顕わすことができるからである。イエスがペテロに向って語り給える御言の中にこの喜びが(みなぎ)っている。「幸いなるかなシモンよ、この信仰は生れながらの人には()つことができない。天の父がこれを顕わし給うにあらずば、いかなる学問も瞑想も体験もこの信仰を持ち来すことができない。汝がこの信仰を告白することができたのは、汝が天の父の特別の導きに与っている証拠である」。
辞解
[バルヨナ] 「ヨナの子」という意味。
[示し] 原語「顕わし」であって天よりの顕現、隠れたるものの表顕を意味す。
[血肉] 人間の生れながらに有っている肉体、感覚、思想等のすべてであってすなわちアダムによりて生れし古き人、自然人と同義である(Tコリ15:50)。

16章18節 (われ)はまた(なんぢ)()ぐ、(なんぢ)はペテロなり、(われ)この(いは)(うへ)()教會(けうくわい)()てん、黄泉(よみ)(もん)はこれに()たざるべし。[引照]

口語訳そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
塚本訳それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]、わたしはこの岩の上に、わたしの集会を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない。
前田訳わたしもあなたにいう。『あなたはペテロ(岩)で、わたしはこの岩の上にわが教会(エクレシア)を建てる。黄泉(よみ)の門もそれに打ち勝てない。
新共同わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
NIVAnd I tell you that you are Peter, and on this rock I will build my church, and the gates of Hades will not overcome it.
註解: ここにイエスは血肉としてのペテロにはあらずして、天の父に連なる新たなる人としてのペテロを眼中に置きてこの言を発し給うたのである(23節はその反対の場合)。イエスを神の子と信ずる信仰こそキリスト者たることの要素であって、この信仰を最初に告白せるペテロこそキリストの教会の礎石ともいうべきものである。このペテロ(すなわち信仰によりてイエスに連なるペテロ)を離れてキリストの教会はない。彼は事実上十二使徒の首位を占め (マタ10:2マコ1:36ルカ8:45ルカ9:32使1:15使2:14使4:8使15:7) 従って十二使徒の代表として多くの問答の場合において、その代弁者のごとき地位に立っていた (マタ14:28マタ17:4マタ18:21マタ19:27ルカ22:31以下。ヨハ6:68等) 。キリストの教会はこの告白をなせるペテロの上に建てられしものである。而してこの基礎の上に立っている教会は後に制度や信条や教権に堕落して、黄泉の門の中に呑まれてしまったけれども、もしかかるものに堕落せずして唯イエスを活ける神の子と信ずる磐の上に建てられたならば、黄泉の門は決してこれに勝つことはできないであろう。▲四福音書で「教会」(ekklêsia)なる語が用いられたのは、本節とマタ18:17(二回)だけである。この語は本来は「集会」を意味しており、かつイエスの当時には制度としての「教会」は全然存在しなかったからこれを「集会」と訳すことが正しい。
辞解
[ペテロ] 原語ペトロス Petros(男性名詞)で磐又は石を意味す。「この磐」原語ペトラ Petra(女性名詞)で磐の意味には普通後者を用いる。ヘブル語にては双方ともケファ(ケパ)であって区別はない。ペテロのごとき人を女性名詞にて呼ぶことは不相応なのでペトロスと呼んだのであろう。この男性名詞と女性名詞の区別を基礎として、人間としてのペテロと、そのペテロの信仰との区別を示すものであるとする説は有力ではない。
[黄泉の門] 地獄の門というがごとき意味で「滅亡」「死」等の意味に解すべきである。

16章19節 われ天國(てんこく)(かぎ)(なんぢ)(あた)へん、(おほよ)(なんぢ)()にて(つな)(ところ)(てん)にても(つな)ぎ、()にて()(ところ)(てん)にても()くなり』[引照]

口語訳わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
塚本訳わたしはあなたに天の国の鍵をあずける。(だから)あなたが地上で結ぶことは(そのまま)天でも結ばれ、地上で解くことは(そのまま)天でも解かれるであろう。」
前田訳わたしはあなたに天国の鍵を与える、あなたが地で縛ることは天でも縛られ、あなたが地でゆるすことは天でもゆるされよう』と」。
新共同わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
NIVI will give you the keys of the kingdom of heaven; whatever you bind on earth will be bound in heaven, and whatever you loose on earth will be loosed in heaven."
註解: (▲肉の人ペテロではなく、又十二使徒の筆頭としてのペテロでもなく、イエスを「キリスト活ける神の子」と告白したペテロが集会の基礎であって、これを動かしてはならず、これを取除いてはならない。この時始めてイエスはその弟子たちの集会の本質および基礎を信仰のペテロにおいて発見したのであった。)罪人の手枷、足枷を(つな)ぎ又は解くための鍵を意味するのであって罪の赦しの問題に関係している。すなわちペテロがこの地上において人の罪を赦せばすなわち天国においてその罪赦され、地上において罪を定むれば天国においてもその罪が定められることを意味する。この権は使徒全体および信者にも与えられ(マタ18:18ヨハ20:23)たのであって、ペテロは使徒の主席としてここに先ず第一にこれを与えられたのである。而してこの権はキリストに対する信仰により、霊においてキリストに連なっている場合にはすべての人がこれを()っているのであって、これを有形的に教会に伝えてローマ法王が専らこの鍵を握っていると解するカトリック教会の解釈は、前掲の聖言に叶わざるのみならず、すべての聖言よりその生命を奪ってこれを死せる文字とし、教会の僕たらしむる涜神的行為である。

16章20節 ここにイエス、(おの)がキリストなる(こと)(たれ)にも()ぐなと、弟子(でし)たちを(いまし)(たま)へり。[引照]

口語訳そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。
塚本訳それからイエスは、自分が救世主であることをだれにも言ってはならないと、弟子たちを戒められた。
前田訳それから弟子たちに彼がキリストであるとだれにもいわぬよういましめられた。
新共同それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
NIVThen he warned his disciples not to tell anyone that he was the Christ.
註解: 「無理解なるものに(みだ)りに奥義を語ることは双方に害を与えるからである」(B1)。
要義1 [教会の基礎について]キリストは教会について極めて稀に語り給えるのみであった。それゆえにこの箇所はキリストの教会観についての重要なる部分である。殊にカトリック教会はこの18、19節をもってその金科玉条となし、ローマ法王をもってペテロの正統なる後継者となし、地上におけるキリストの代表者として神の国の首長をもって自ら任じていた。而してその根拠をすべてこの二節においているのである。しかしながらこれ要するに後に至って、ローマカトリック教会が自己の地位と勢力とを弁護せんがために考案せる牽強付会(けんきょうふかい)の説に過ぎない。何となれば(1)ペテロは使徒等の主席として、教会の第一の礎石となったことは何人も否定し得ない事実であって、イエスはこの事実をこの時に予め示し給うたのであるけれども、この地位はペテロ独特の地位であって、他人がこれを継承すべきものでもなく、又継承することができるものでもない。一度第一に置かれし教会の礎石は永遠にそこに残っているのである。(2)又ペテロが教会の礎石であることの意味は、彼がこの信仰告白によりてイエスに連なっているものとしてのみに限られている。何となれば数瞬間後にこのペテロはサタンとして、イエスに拒まれたのみならず、教会の基はイエス・キリストであり(Tコリ3:11)、又キリスト・イエスを隅の首石として、使徒と預言者との基の上に教会は建てられるものであるからである(エペ2:20)。ゆえにペテロのみを教会の基礎と見ることが、既に誤っているのみならず、この基礎の後継者云々のごときことは存在することもできず、又存在するはずがない。あたかも一つの建築の礎石を他の礎石が継承することなきがごとく、ペテロの地位は他の使徒らの首長として、彼らと共にキリストに在りて永遠にキリスト教会の基礎を形成しているのである。▲而してこの「教会」は真のエクレシアを意味すると考えなければならない。イエスが今日の教会のごとき制度的、神学的、組織的なものを予想していたことは聖書の中には発見されない。
要義2 [汝はキリスト活ける神の子なり]この告白は実に重大なる意義を有っているのであって、ここにキリスト教の中心がある。何となればもしイエスが神の子に在し給わず、我らと同じ罪人、アダムの子に在し給うならば、その死は我らの罪を贖うに足らず、我らは尚罪の中にいなければならないからである。然るにイエスは神の子に在し給う、ゆえにその死は我らの罪の贖いであり、その奇蹟は神の力の自然の発露であり、その復活は神の子たるの証拠であり、今や当然に神の右に坐して我らのために執成し給い、やがて再び来り給うて我らを復活せしめ、新天新地を復興し給うのである。ゆえにペテロと共にこの告白を為し得る者は真のキリスト者であり、これに反しいかにキリストについて多くを知っていても、この告白を為し得ないものはキリスト者ではない。

6-2 イエス死を預言し給う 16:21 - 16:23
(マコ8:31-32)(ルカ9:22) 

16章21節 この(とき)よりイエス・キリスト、弟子(でし)たちに、(おのれ)のエルサレムに()きて、長老(ちゃうらう)祭司長(さいしちゃう)學者(がくしゃ)らより(おほ)くの苦難(くるしみ)()け、かつ(ころ)され、三日(みっか)めに(よみが)へるべき(こと)(しめ)(はじ)めたまふ。[引照]

口語訳この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
塚本訳この時から、イエスは自分が(神の計画どおり)エルサレムに行って、長老、大祭司連、聖書学者たちから多くの苦しみをうけ、殺され、そして三日目に復活せねばならないことを弟子たちに示し始められた。
前田訳それ以来イエス・キリストは、弟子たちに、エルサレムへ行って、長老、大祭司、学者から手痛く苦しめられ、殺されて、三日目に復活せねばならぬことを示しはじめられた。
新共同このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
NIVFrom that time on Jesus began to explain to his disciples that he must go to Jerusalem and suffer many things at the hands of the elders, chief priests and teachers of the law, and that he must be killed and on the third day be raised to life.
註解: この以前にもイエスはその死について暗示を与え給うた(マタ9:15マタ10:38マタ12:40)。この場合それが一層明かに示されたのであった。この後には更に細目に渡って示されている(マタ17:22、23。マタ20:17−19)。かく回を重ねてイエスの死が明示せられているに関わらず、弟子たちはこれを理解せず、イエスの死を見て失望し、復活を信じなかったことは、未だこれを理解する能力が彼らに与えられなかったからである。マイヤーは「イエスはこれほど明かに示し給うたのではないだろう」と想像しているけれども、これは当らない。ルカ9:45註及び要義参照。「この時」よりこれを示し始めたのは、これまででイエスのメシヤたることを明かにし終わったので、次にはこのメシヤが苦難に遭わなければならないことを示すの順序を取り給うたのである。▲エルサレムはユダヤ教の中心であり、神の民の首都であるから、神の子は当然そこで支配者の地位につかなければならない、しかしそこには祭司長、長老、学者等が支配権を振るっているゆえ、必ずイエスを迫害するであろうことをイエスは予知された。

16章22節 ペテロ、イエスを(かたへ)にひき(いまし)()でて()ふ『(しゅ)よ、(しか)あらざれ、()(こと)なんぢに(おこ)らざるべし』[引照]

口語訳すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
塚本訳するとペテロはイエスをわきへ引っ張っていって、「主よ、とんでもない。そんなことは絶対にいけません!」と言って忠告を始めた。(救世主が死ぬなどとは考えられなかったのである。)
前田訳ペテロは彼をかたわらに引いて、制止しはじめた、「主よ、とんでもない、決してそんなことはなりません」と。
新共同すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
NIVPeter took him aside and began to rebuke him. "Never, Lord!" he said. "This shall never happen to you!"
註解: ペテロにとってかくなることは、イエスのメシヤの職務に対する失敗のごとくに思われたのであろう。主を思う心の厚かった彼は、自分が奮って主を助けたならばかかることはないであろうと考えたのであろう。主を思う切なる心が強くこの語の中に顕われている。▲▲「起らざるべし」も、口語訳の「あるはずはございません」も、共に適訳ではない。「そんなことは()ってはなりません」の意。

16章23節 イエス振反(ふりかへ)りてペテロに()(たま)ふ『サタンよ、()(のち)退(しりぞ)け、(なんぢ)はわが躓物(つまづき)なり、(なんぢ)(かみ)のことを(おも)はず、(かへ)つて(ひと)のことを(おも)ふ』[引照]

口語訳イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
塚本訳イエスは振り返って、ペテロに言われた、「引っ込んでろ、悪魔、この邪魔者!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」
前田訳彼は振り返ってペテロにいわれた、「サタン、引きさがれ。おまえはわがつまずき。おまえは神のことをでなく、人間のことを考えている」と。
新共同イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
NIVJesus turned and said to Peter, "Get behind me, Satan! You are a stumbling block to me; you do not have in mind the things of God, but the things of men."
註解: さきにイエスが「教会の礎石」と呼び給いしペテロは、ここに「サタン」と呼ばれ、「躓物」といわれていることは驚くべき事実である。さきには父なる神の聖旨を受け、彼に連なれる信仰のペテロがあった。ここには父の聖旨を離れ、人間として血肉により師を思う心のみに支配せられているペテロがある。サタンは往々にして人間の道徳心、正義観等を利用して人を神の聖旨より引離さんとするのであって、かくして神を離れる場合にその人は直ちにサタンのものとなっているのである。イエスはかかるペテロの中にこのサタンの働きを認め給うた。それゆえにマタ4:10と同じ語をもって彼を叱責し給うた。イエスは人間としてのペテロの愛を無視し給うたのではない、この愛を深く感ぜられしだけそれだけ強きサタンの狡計(こうけい)をその中に認め給うたのである。
要義1 [サタンの狡計(こうけい)とこれを見破る方法]サタンは多くの場合において、鬼面をもって来るよりもむしろ羊のごとき姿において来るのを常としている。ペテロの主イエスに対する切なる愛を、サタンが利用せるごときその最も著しい例証である。ゆえにいかに高尚なる思想も道徳も行為も、もし神を離れて為される場合には悪魔の利用する処となるのである。故に悪魔に乗ぜられざらんがため、又自ら悪魔の道具とならざらんがためには、常に神の御旨を思い寸刻もこれより離れないことが必要である。イエスが深く師を思うペテロの中にサタンの姿を発見し給うたのは、イエスが深く神の御旨を思いて寸時もこれより離れ給わなかったからである。
要義2 [サタンに乗ぜられる危機]サタンは主として信仰の高所に達した者を付け狙うものである。信仰なきもの、又は信仰弱き者をば、サタンは自己の勢力範囲内のものとして安んじてこれを放置し、これを攻撃することをしない。反対にヨブや、ダビデやイエスやペテロのごとき人々を激しく攻撃する。殊にイエスがバプテスマを受けて聖霊彼に下った際、又ペテロがイエスをキリスト神の子なりと告白して、主より絶大なる讃辞を受けた際のごとき、最も好んでサタンの乗ずる機会である。而してイエスは堅く神の言を保持して悪魔を退け給うたけれども、ペテロは神の聖旨を思わず、人のことを思うたためにサタンに敗れたのである。我らも信仰が高まり神の恩恵が豊かに下れるごとき場合に、最も多くサタンに対する警戒を要する。

6-3 己が十字架を負え 16:24 - 16:28
(マコ8:34-9:1)(ルカ9:23-27) 

16章24節 ここにイエス弟子(でし)たちに()ひたまふ『(ひと)もし(われ)(したが)(きた)らんと(おも)はば、(おのれ)をすて、(おの)十字架(じふじか)()ひて、(われ)(したが)へ。[引照]

口語訳それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
塚本訳あとでイエスは弟子たちに言われた、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。
前田訳それからイエスは弟子たちにいわれた、「わたしにつこうと思うものは、おのれを捨てておのが十字架を負い、それからわたしに従え。
新共同それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
NIVThen Jesus said to his disciples, "If anyone would come after me, he must deny himself and take up his cross and follow me.
註解: キリストに従いその弟子とならんとする者は、彼と同じ道を行かなければならない。而してイエスはメシヤにいまし給いしにも関わらず、己の栄光、地位、慾望を棄て(ピリ2:6−8)、己が十字架を負いて(マタ10:38註)死に向って進み給うた。弟子たちもイエスと共に己の十字架を負いて死刑を宣告されしもののごとくに、この世のあらゆる希望や慾望や情愛に絶縁してしまわなければならぬ。もしペテロがこの十字架を負っていたならば、(▲彼はイエスの死の運命を理解したであろう。そして、)イエスの死を妨げんとはしなかったであろう。イエスに従う者はかかる態度でなければならない。

16章25節 (おの)生命(いのち)(すく)はんと(おも)(もの)は、これを(うしな)ひ、()がために(おの)生命(いのち)をうしなふ(もの)は、(これ)()べし。[引照]

口語訳自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
塚本訳(十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るのだから。
前田訳おのがいのちを救おうと思うものはそれを失い、わがゆえにおのがいのちを失おうと思うものはそれを得よう。
新共同自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
NIVFor whoever wants to save his life will lose it, but whoever loses his life for me will find it.
註解: 己のために生くる者は、その生命を救わんことを欲してかえってこれを失う。キリストのために生くる者は、己が十字架を負い死ぬる者として彼に従ってかえってその生命を見出すのである。この世の子らの行く道は皆前者であり、キリスト者は後者を取る。但し「我がために」すなわちキリストのために己が生命を失うことが必要である。キリストの御心に叶わざる途において己が生命を失っても、己が生命を得ることはできない。

16章26節 (ひと)全世界(ぜんせかい)(まう)くとも、(おの)生命(いのち)(そん)せば、(なに)(えき)あらん、(また)その生命(いのち)(かわり)(なに)(あた)へんや。[引照]

口語訳たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
塚本訳たとい全世界をもうけても、命を損するならば、その人は何を得するのだろう。それとも、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができるのだろうか。
前田訳全世界をかち得てもおのがいのちをとられれば何の役に立とう。おのがいのちの代価に何を与えようか。
新共同人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
NIVWhat good will it be for a man if he gains the whole world, yet forfeits his soul? Or what can a man give in exchange for his soul?
註解: 己の慾望のために生くる者といえども全世界を(もう)くること以上を望むことができない。これが人が考え得る成功の絶頂である。たといかかる絶頂に達した者でも終の審判の日においてその生命を失ってしまうならば、その()ち得たものは彼に何の役にも立たない。たとい全世界を提供してもその生命を買戻すことはできない。ゆえに一人の生命は全世界よりも重い。我らはこの永遠の生命を得ることを努めなければならない。▲イエスに在る新生命を有たない者は終の審判を待つまでもなく今(すで)に己の生命を失っていることは勿論であるが、今日は信仰により生命を得る途が残されている。

16章27節 (ひと)()(ちち)榮光(えいくわう)をもて、御使(みつかひ)たちと(とも)(きた)らん。その(とき)おのおのの行爲(おこなひ)(したが)ひて(むく)ゆべし。[引照]

口語訳人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
塚本訳(永遠の命のために働け。)人の子(わたし)は父上の栄光に包まれ、自分の使いたちを引き連れて(ふたたび地上に)来るが、その時、“ひとりびとりの行いに応じて褒美を与えるのである”から。
前田訳人の子が父の栄光を受けて天使とともに来るであろうとき、めいめいにその行ないによって報いよう。
新共同人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
NIVFor the Son of Man is going to come in his Father's glory with his angels, and then he will reward each person according to what he has done.
註解: キリストが父の栄光をもて再臨し給う時、この生命が与えられるや否やが定まるのである。而してその生命をもて報いられるや否やはその行為によるのであって、己をすてて己が十字架を負いてイエスに従う処の行為をなす者がこの報いを受けるのである。義とされる原因は信仰であり報いを受くる原因は行為である。Uコリ5:10註参照。

16章28節 まことに(なんぢ)らに()ぐ、ここに()(もの)のうちに、(ひと)()のその(くに)をもて(きた)るを()るまでは、()(あぢ)はぬ(もの)どもあり』[引照]

口語訳よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
塚本訳アーメン、わたしは言う、(その時はじきに来る。今)ここに立っている者のうちには、死なずにいて、人の子(わたし)がその国と共に来るのを見る者がある。」
前田訳本当にいう、ここに立つもののうち、人の子が彼の国に来るのを見るまで死を味わわぬものがある」と。
新共同はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
NIVI tell you the truth, some who are standing here will not taste death before they see the Son of Man coming in his kingdom."
註解: マタ10:23と同様に難解である、この場合にもエルサレムの陥落を予示しているのであると解する人、又は次章のイエスの変貌を指すと解する人、又は真の再臨を示したものと解する人等種々の解釈がある。ここでは第三の場合すなわちキリストの再臨を指しているのであって、ここに立つ者の中にキリストを信ずる信仰に入る人が生じ、それらの者は永遠の生命に入り、死を味わずして(ヨハ8:52)キリストの栄光の再臨を迎えることができる。キリスト者には死の味はない。▲▲この一節はむしろマコ9:1のごとく、次の変貌の山におけるイエスの栄光を見る者が汝らの中に()ることを言われたのであると見るのが適当であると思われる。27節の栄光の来臨の予表として、三人の弟子はイエスの変貌を見たのであった。Uペテ1:16−18。