ヨハネ伝第9章
分類
3 イエスとユダヤ主義との争闘
5:1 - 11:57
3-3 假廬(かりいほ[お])祭に於けるイエスの御業
7:2 - 10:21
3-3-7 イエス盲人の目を開き給う
9:1 - 9:41
3-3-7-イ 奇蹟と其の意義
9:1 - 9:12
註解: この奇蹟は全体に霊的意義を包含しているのであって、盲人開目の奇蹟は歴史的事実であるけれども、その裏面に先天的に霊的の盲人として生れし全人類の霊眼が、イエスによって開かれることの意義が示されていることを眼中に置きて読むことが必要である(39−41節を見よ)。
口語訳 | イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 |
塚本訳 | イエスは通りがかりに、生まれつきの盲人を見られた。 |
前田訳 | 道すがらイエスは生まれつきの目しいを見られた。 |
新共同 | さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 |
NIV | As he went along, he saw a man blind from birth. |
註解: 宮の中を逃れ出でて途を歩み給う時(M0)であろう。イエスの心は常に静である。
註解: 憐れむべき盲人であった。彼は自然の色も形も、愛する肉親の顔貌 をも知らない。我ら人類はこの盲人のごとく凡てアダムの罪による生れながらの霊的盲人である。天国の光景は全くこれを知らず、またこの盲目はいかなる人力をもってもこれを癒すことができない。
9章2節
口語訳 | 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 |
塚本訳 | 弟子たちが尋ねた、「先生、この人が盲で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか、両親ですか。」 |
前田訳 | 弟子たちがたずねた、「先生(ラビ)、目しいに生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか、この人ですか、両親ですか」と。 |
新共同 | 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 |
NIV | His disciples asked him, "Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?" |
註解: 原文の順序に直訳すれば「ラビ、誰が罪を犯ししぞ、己か、その親達か、この人盲目に生れんとは」となり語気やや異なる。疾病(その他の不幸も)はイスラエル人にとっては常にその人の罪に対する神の刑罰と見られていた。これ多くの場合に適切な解釈である。しかしこの盲人の場合にはこの解釈では充分に弟子たちを満足せしめ得なかった。何となればこの盲人は先天的盲目であるから、彼がなお母の胎内にありし時罪を犯したと考えること(創25:22をユダヤ人のラビはかく解していたとはいえ、S2)は、あまりに不合理であり、また後に犯すべき罪を予見して罰せられしものとすればあまりにも残酷であり、またさらばとて両親の罪によりしものとすればあまりに可哀そうだからである。これが弟子の質問となった理由であった。
9章3節 イエス
口語訳 | イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「この人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。ただ神の御業がこの人に現われるためである。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「この人が罪を犯したのでも両親がでもない。神のわざがこの人に現われるためである。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 |
NIV | "Neither this man nor his parents sinned," said Jesus, "but this happened so that the work of God might be displayed in his life. |
註解: イエスは本人もその親もこの盲目の原因たるべき罪を犯したのではないことを教え、かえってこの不幸の真の原因はこの人力をもって如何ともすべからざる先天的疾患が神の力によりて癒され、かくして神の御業とその栄光とが顕われんためであることを示し給うた。人力の極まる処に神の力があらわれる。我らの生来 の罪の上にもかくして神の御業が顕われたのである。人間的に見て全く絶望より外になき人も神の目より見ては絶望ではなく、かえってその上に神はその栄光を顕わし給う。
辞解
原文には「この人もその両親も罪を犯さず」とあれどももちろん全く罪なき人であるという意味ではなく、この盲目の原因たるべき罪を犯さないとの意味。
9章4節
口語訳 | わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 |
塚本訳 | わたし達はわたしを遣わされた方の御業を昼の間にせねばならない。(すぐ)夜が来る。するとだれも働けなくなる。 |
前田訳 | わたしをつかわされた方のわざをわれらは日のあるうちにせねばならぬ。夜が来る。するとだれも働けない。 |
新共同 | わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 |
NIV | As long as it is day, we must do the work of him who sent me. Night is coming, when no one can work. |
口語訳 | わたしは、この世にいる間は、世の光である」。 |
塚本訳 | 世におる間、わたしは世の光である。」 |
前田訳 | 世にある間わたしは世の光である」と。 |
新共同 | わたしは、世にいる間、世の光である。」 |
NIV | While I am in the world, I am the light of the world." |
註解: キリストは世の光に在し給う。ゆえに彼この世にい給う間はこの世は昼である。ゆえにイエスも弟子たちも如何なる危険が迫ろうとも、イエスの御在世中に急いで神の命じ給う仕事を為し遂げなければならない。イエスこの世を去り給えばそこに夜来りて誰も何事も為すことができない。かく言い給いてイエスその死の近きために、寸暇だにこれを空費せずに救いの御業を為さざるべからざることを実例をもって示し給う。霊的盲人の救いもキリストその御在世中にこれを成就し給うた。而して聖霊を宿せる我らも今日このイエスと同じ心をもって、聖霊我らを動かす場合には一刻をも空費することなく神の御業を力めなければならない。
9章6節 かく
口語訳 | イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 |
塚本訳 | こう言って地に唾をはき、唾で泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って、 |
前田訳 | こういって地に睡し、睡で練粉を作り、それを目しいの両目の上にぬって、彼にいわれた、 |
新共同 | こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 |
NIV | Having said this, he spit on the ground, made some mud with the saliva, and put it on the man's eyes. |
註解: イエスが治癒に際して用い給いし手段は常に同様ではなかった(マタ20:34。マコ10:46。マコ7:33、マコ8:23参照)。この場合、唾を用いて盲人にぬり給いしは、彼自身が病者に触れてその力を彼の上に働かしむることをさとらしめんがためであり、泥を用い給いしはこれを洗わしめてシロアムの意義をさとらしめんがためであったろう。この盲人がキリストをして自由に彼の上に、御業を為し給うにまかせしところに盲人の信仰的態度がある。
9章7節 『ゆきてシロアム(
口語訳 | 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。 |
塚本訳 | 言われた、「行って、シロアム池で洗いなさい。」(シロアムは訳すると「遣わされた者」。)そこで盲人は行って、洗って、見えるようになって、かえって行った。 |
前田訳 | 「シロアム(訳せば、つかわされたもの)の池へ洗いに行きなさい」と。彼は行って洗い、見えるようになって帰って来た。 |
新共同 | そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 |
NIV | "Go," he told him, "wash in the Pool of Siloam" (this word means Sent). So the man went and washed, and came home seeing. |
註解: 特にシロアムの池を選びしことは、一は仮庵の祭の中にはヨハ7:37の註に示せしごとく、毎日祭司がシロアムの池より水を汲みて祭壇に注ぎ、イスラエルの荒野の旅路におけるキリストの救いの型(Tコリ10:4)を示せると、一はシロアムなる語が「遣わされる者」すなわちキリストを指すに適せる名称だからであろう。ここにイエスは霊の眼を開くこともまたイエスの御業なることを暗示し給うたのである。ヨハネがギリシャ人らのために特にこの字義を翻訳したのもこのことを示さんがためである。
註解: 盲人の態度は絶対の服従そのものであった。彼の心中何らの遅疑 することなく、直ちにイエスの御言に従いこれを行った。これイエス・キリストを信ずる者の取るべき真実の態度である。かかる者の上に神の御業は顕われる。彼は眼を開いて始めて世界を見た。いかに美わしく、また新奇であったことであろう。霊の眼が開かれし者の心持もこれに等しい。
9章8節 ここに
口語訳 | 近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。 |
塚本訳 | 近所の人や、彼が乞食であったのを前に見ていた人たちは、「これは坐って乞食をしていた男ではないか」と言った。 |
前田訳 | 近所の人々や前に物乞いであったのを見ていた人々はいった、「この人はすわって物乞いしていたではないか」と。 |
新共同 | 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 |
NIV | His neighbors and those who had formerly seen him begging asked, "Isn't this the same man who used to sit and beg?" |
註解: 霊の眼が開かれし者においてもこれに比すべき大変化が起るのであって、隣人知人すらも驚きの眼をもって見るに至るのである。
9章9節
口語訳 | ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。 |
塚本訳 | 「あの男だ」と言う者もあれば、「いや、似ているだけだ」と言う者もあった。本人は「たしかにわたしです」と言った。 |
前田訳 | ある人は「その人だ」といい、ある人は「否、似ているだけだ」といった。しかし本人は「わたしです」といった。 |
新共同 | 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 |
NIV | Some claimed that he was. Others said, "No, he only looks like him." But he himself insisted, "I am the man." |
註解: 信じて正直に事実を告白する者は幸福である。また中には不信の心をもって明らかなる奇跡をすらこれを否定せんがために種々の口実を工夫し(18節。マタ12:24。使2:13)、かくして自己の上に神の審判を積重ねていた者もあり、また事実あまり変化が大なりしため彼の同一人なることを認め得なかった人もあろう。
かの
註解: 簡単にして力強き証である(ヨハ8:24、25)。「我はキリストの十字架によりて罪を贖われし罪人なり」との証は人をキリストに導くがための最上の証であると同様である。
9章10節
口語訳 | そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。 |
塚本訳 | すると人々がたずねた、「では、どうして目があいたのか。」 |
前田訳 | そこで彼らはいった、「それならどうして目があいたのか」と。 |
新共同 | そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 |
NIV | "How then were your eyes opened?" they demanded. |
註解: 何人もきかんとすることはこの方法である。殊に霊の眼は凡ての人が先天的に盲人である以上、何人もその開目の秘訣を知らんと欲すべきである。然るに多くはその盲目を知らずにいるは(41節)悲しむべきことである。
9章11節
口語訳 | 彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。 |
塚本訳 | 答えた、「あのイエスという方が、泥をつくってわたしの目に塗りつけ、『シロアムに行って洗いなさい』と言われた。そこで行って洗うと、見えるようになったのです。」 |
前田訳 | 彼は答えた、「イエスという人が練粉を作ってわたしの両目にぬり、『シロアムヘ行って洗いなさい』といいました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」と。 |
新共同 | 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 |
NIV | He replied, "The man they call Jesus made some mud and put it on my eyes. He told me to go to Siloam and wash. So I went and washed, and then I could see." |
註解: 彼が証し得ることは事実そのままであった。すなわちイエスの御名とその御業とその御言のみであった。これを信じてそのままに服従しただけで彼の目は開いた。今日霊の眼の開かれんがためにもこれより以外に方法はない。
辞解
[イエスといふ人] イエスの風評を聞いていたのであろう。唯そのメシヤなりや否やを知らなかった。
[物見ることを得たり] 原語「視力を恢復せり」、本来具有していて、生れてより用いたことがなかった視力を恢復せること。
9章12節
口語訳 | 人々は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。彼は「知りません」と答えた。 |
塚本訳 | 人々が「その人はどこにおるか」とたずねた。「知りません」と言う。 |
前田訳 | 彼らは「その人はどこにいるか」とたずねたが、「知りません」と彼はいう。 |
新共同 | 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。 |
NIV | "Where is this man?" they asked him. "I don't know," he said. |
註解: ある者はかかることを行い給えるイエスを見んため、またある者は安息日にこれを行い給いしことにつきて彼を捕らえんがためにこの問いを発し給うたのであろう。
要義1 [霊眼の開かれるには]人は自己の霊の眼が生れながらにして盲であることを知らない。しかしながら「人あらたに生れずば、神の国を見ること能はず」(ヨハ3:3)「性来 のままなる人は神の御霊のことを受けず・・・・・・またこれを悟ること能はず」(Tコリ2:14)とあるがごとく、神の御霊のことは凡ての人間の天性の霊眼をもってこれを悟ることができない。アダム以来人間は神を離れて罪の奴隷となり、その性情は腐敗して神のことを知り得ざる状態に立ち至っている。ゆえに如何なる努力修養も、沈思瞑想も、人をして神を知らしむることができない。唯イエスの御業なる十字架の死を我が身に受け、彼の霊の生命に与ることによってのみ我らの霊眼は開かれ、我ら生れ来てより見ることを得ざりし世界を見ることができる。これ霊の新生であって、その歓喜はあたかもこの生れながらの盲人の開目の際における歓喜に等しい。万物みな新たなる光景を呈する。
要義2 [疾病不幸の原因]疾病、不幸、困難等には種々の原因がある。(1)罪の結果として来るものは勿論その重なるものであって(マタ9:2等。ヨハ5:14)、我らまずこれを顧みてその罪を除くことが必要である。(2)また場合によってはキリスト者をして将来益々罪より遠ざかり、肉の生活を離れしめんがためにこれを与え給う場合がある(Tペテ4:1−3。ヘブ12:10)。かかる疾病不幸はこれを感謝をもって受くべきである。(3)その他神はキリスト者の信仰の従順を試さんがためにこれを与うる場合もある。ヨブの諸々の不幸のごときはそれであった。(4)またこの盲人の場合のごとく神が特にある目的をもって疾病不幸を与え給う場合がある。かかる場合は始めにその苦痛に耐え得ないけれど、ついには神の御業がその上にあらわれて大なる感謝となるのである。人は疾病その他の不幸に際しては深く顧みて、神の御旨のいずれにあるかを覚らなければならぬ。而して(1)の場合には恐懼し、(2)の場合には感謝し、(3)の場合には信頼し、(4)の場合には讃美すべきである。
要義3 [神の御業の顕われんため]人間の能力をもってしては絶対に取除くことのできない困難なる場合に立到る時、人は唯絶望に陥るのであるけれども、もしかかる境遇すら、その上に神の御業が顕われんためであることを思う時、我らの失望は希望に替るのである。人間はその性質の欠陥、境遇の不幸、その他先天的に多くの弱点をもって生れて来る。もしこれが、打ち勝ち難き弱点として一生その人に附着して離れないものであるならば、実に大なる不幸と言わなければならない。しかしながらかかる事情の上にこそ神の御業が顕われるのであって、たとい疾病は治癒せず境遇は変化せずとも、そのまま神の恩恵の下に全く一変せる意義を有つに至るのである。かく考え来る時如何なる弱点も如何なる境遇も、絶望的なるものはない。
9章13節
口語訳 | 人々は、もと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った。 |
塚本訳 | 人々がもと盲のその男を、(最高法院の)パリサイ人たちの所につれてゆく。 |
前田訳 | 人々はかつての目しいをパリサイ人のところへ連れて行った。 |
新共同 | 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 |
NIV | They brought to the Pharisees the man who had been blind. |
註解: 盲人開目の奇蹟を見し人々は歓喜を希望とに充たされてイエスの御許に来るべきであるのに、彼らはその心に毒をいだきイエスに対してさらにその迫害の手を伸べんとしている。この「人々」は8節の人々である。彼らは宗教上の問題(この場合は安息日問題)については自己に何らの確信なく、唯当局者なるパリサイ人らに問うべきであると考うるごとき平凡なる人々であったろう。この世の制度の下にある人(法王、監督等)をキリストの上に置くほど誤れる愚なることはない。
9章14節 イエスの
口語訳 | イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。 |
塚本訳 | イエスが泥をつくって目をあけられた日は安息日(で、モーセ律法違反)だったのである。 |
前田訳 | イエスが練粉を作って彼の目を開かれた日は安息日であった。 |
新共同 | イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 |
NIV | Now the day on which Jesus had made the mud and opened the man's eyes was a Sabbath. |
註解: ヨハ5:10の場合と共にこの場合も安息日であった。あたかもイエスは特に安息日を択びてかかる御業をなし給うかのごとくにも見える。固陋 なる迷妄を破るがために時にはかく為し給うことが必要であったろう。
9章15節 パリサイ
口語訳 | パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。 |
塚本訳 | パリサイ人もふたたび、どうして見えるようになったかと尋ねた。彼がこたえた、「あの方が目に泥を塗ってくださったので、洗ったところ、こんなに見えるのです。」 |
前田訳 | パリサイ人もふたたび、どうして見えるようになったかをたずねた。彼はいった、「あの人が練粉をわたしの目にぬりました。洗ったところ、こんなに見えています」と。 |
新共同 | そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 |
NIV | Therefore the Pharisees also asked him how he had received his sight. "He put mud on my eyes," the man replied, "and I washed, and now I see." |
註解: イエスの御業と盲人の服従がこの奇蹟の要素であった。盲人はその体験せる事実を何人に向っても告白することを躊躇しなかった。事実は最大の力である。
9章16節 パリサイ
口語訳 | そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。 |
塚本訳 | するとパリサイ人の間に、「あれは神のところから来た人ではない、安息日を守らないから」と言う者と、「(いや、神からだ。)罪の人間に、どうしてこんな徴[奇跡]をすることが出来よう」と言う者があって、意見が分れた。 |
前田訳 | パリサイ人のあるものがいった、「あれは神のところからの人ではない、安息日を守らないから」と。しかしほかのものはいった、「罪ある人ならどうしてこんな徴をなしうるか」と。そこで彼らに分裂がおこった。 |
新共同 | ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 |
NIV | Some of the Pharisees said, "This man is not from God, for he does not keep the Sabbath." But others asked, "How can a sinner do such miraculous signs?" So they were divided. |
註解: キリストを観察するのに、彼らの守り来れる律法を守るや否やをもって標準とすることは誤りである。キリストは律法以上のものを有ち給う神の子に在し給う。今日もキリスト者を判断するのに、従来の伝統に従うや否や、また従来の教会制度に服従するや否やをもってする者が多い。これ彼らはキリスト者に、別にそれ以上に優れる生命があること発見することができないからである。
註解: パリサイ人らのいわゆる「罪ある人」とは、彼らのごとき厳格なる律法遵守の民にあらざる者、すなわち奔放不覊 の生活を送っている人々のこと。イエスが安息日を守らず、また自由なる生活を為し給える故に、彼をも罪人の一人とした。然るに一方イエスの為し給えるこの徴を見て、ある者は彼を罪ある人と断言することの不合理を力説している。イエスにつきては人々の意見は常に必ず二つに分れる。
9章17節 ここにまた
口語訳 | そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。 |
塚本訳 | そこで、また盲人に言う、「君はいったいあの人を何と考える、君の目をあけたのだが。」「預言者です」と彼が言った。 |
前田訳 | 彼らはまた目しいにいった、「あなたは彼について何というか、あなたの目をあけた人を」と。「預言者です」といった。 |
新共同 | そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 |
NIV | Finally they turned again to the blind man, "What have you to say about him? It was your eyes he opened." The man replied, "He is a prophet." |
註解: パリサイ人らが盲目なりし人に問いしは、彼の判断に従わんためではなく、彼が彼らを恐れて彼らの欲する答を与うるならんかと希望したからである。
註解: 然るに彼はパリサイ人らの期待を裏切って勇敢にその信ずる処を告白した。霊の盲目を開かれし我らは彼よりもさらに大なる勇気と大胆とをもって、我らの信仰を告白しなければならぬ。
9章18節 ユダヤ
口語訳 | ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、 |
塚本訳 | ユダヤ人は、彼が盲であったのに、見えるようになったことをまだ信ぜず、ついに、見えるようになった男の両親を呼んで |
前田訳 | さて、ユダヤ人は彼が目しいであったのに見えるようになったことを信ぜず、ついに、見えるようになった人の両親を呼んで、 |
新共同 | それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 |
NIV | The Jews still did not believe that he had been blind and had received his sight until they sent for the man's parents. |
註解: かかる明白なる事実そのものをも疑ったのは、彼らの心中の悪念が故意に彼らをしてその心を閉じしめたからである(Uコリ4:3、4)。今日も多くの人はその心の邪 なるがため、その心が故意にイエス・キリストに向って閉じられている。
9章19節
口語訳 | 尋ねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。 |
塚本訳 | 尋ねた、「これは確かにあなた達の息子で、あなた達が言うように盲で生まれたのか。それなら、どうしていま見えるのか。」 |
前田訳 | たずねた、「これはあなた方の息子で、目しいに生まれついたとあなた方がいう人か。それなら、どうして今見えるのか」と。 |
新共同 | 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 |
NIV | "Is this your son?" they asked. "Is this the one you say was born blind? How is it that now he can see?" |
註解: 盲人に対する質問に失敗して、ユダヤ人らは転じてその両親に種々の質問を浴びせかけた。彼らはその宗教的特権の侵害者ともいうべき人が顕われしことに対して極端に鋭敏にその神経を刺激し、一人にても多く己の味方を造らんとしつつある有様が見える。
9章20節
口語訳 | 両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。 |
塚本訳 | 両親が答えて言った、「これがわたし達の息子で、盲で生まれたことは知っているが、 |
前田訳 | 両親は答えた、「これがわたしたちの息子で、目しいに生まれついたことは知っていますが、 |
新共同 | 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 |
NIV | "We know he is our son," the parents answered, "and we know he was born blind. |
9章21節 されど
口語訳 | しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。 |
塚本訳 | どうして今見えるのか、わかりません。また、だれが目をあけたのかも、わたし達は知りません。あれに聞いてください。もう大人だから、自分のことは自分で話すでしょう。」 |
前田訳 | どうして今見えるのかは知りません。だれが目をあけたかもわたしたちは知りません。あれにたずねてください。あれはもう大人ですから自分のことは自分で話すでしょう」と。 |
新共同 | しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 |
NIV | But how he can see now, or who opened his eyes, we don't know. Ask him. He is of age; he will speak for himself." |
註解: 前節の三つの質問に対し第一第二に対して肯定し、第三に対してこれを二つに区別し、いずれもこれを知らずとしてその回答を避け、これをその子に譲った。ここにこの両親の卑怯と狡智 とを見ることができる。彼らはその子よりイエスがいかにして彼を醫し給いしかを聞き知って感謝に充たされていたに相違ない。唯彼らはこれを告白すること、すなわちイエスを言い表わすことによりて破門されることを恐れたのである。もし破門を恐れなかったなら彼らもイエスを信じ、その信仰を告白したであろう。今日もかかる態度に出づる人は多い。ただし両親の答はかく不徹底であったにもかかわらず、大部分その目的を達した。何となればユダヤ人は盲目開目の事実を承認せざるを得ざるに立至ったからである。
9章22節
口語訳 | 両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。 |
塚本訳 | 両親がこう言ったのは、ユダヤ人を恐れたのである。ユダヤ人は、イエスを公然救世主と認める者があれば、礼拝堂追放にすることを、すでに決議していたからである。 |
前田訳 | 両親がこういったのはユダヤ人をおそれたからである。前からユダヤ人は、イエスをキリストと告白するものは会堂から追放することに決めていたのである。 |
新共同 | 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 |
NIV | His parents said this because they were afraid of the Jews, for already the Jews had decided that anyone who acknowledged that Jesus was the Christ would be put out of the synagogue. |
9章23節
口語訳 | 彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。 |
塚本訳 | 両親が、「もう大人だから、あれに聞いてください」と言ったのは、このためである。 |
前田訳 | 両親が「大人だからあれにたずねてください」といったのはこのためである。 |
新共同 | 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。 |
NIV | That was why his parents said, "He is of age; ask him." |
註解: この両親はこの危険を懼れて唯その子一人をこの危険に晒されるままに放置し自らはこれを避けんとした。浮薄なる人情の発露である。
辞解
[除名] aposunagogos にすることはユダヤ人の集会より除斥されることで、ユダヤ人の民籍を除かれることを意味し、ユダヤ民族の最大の恥辱である。
9章24節 かれら
口語訳 | そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。 |
塚本訳 | そこでユダヤ人は、盲であった男をもう一度呼んで言った、「本当のことを言うように!あの人が罪人であることは、われわれにはよくわかっている(のだから。)」 |
前田訳 | そこで彼らは目しいであった人をふたたび呼んでいった、「神に栄光を帰して真実をいえ。あの人が罪びとのことはわれらにわかっているから」と。 |
新共同 | さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 |
NIV | A second time they summoned the man who had been blind. "Give glory to God, " they said. "We know this man is a sinner." |
註解: ユダヤ人らは盲人がイエスに栄光を帰さんとするを見てこれを忍ぶことができず、唯神にのみ栄光を帰し、開目の奇蹟も唯神の力なることを告白せしめイエスを否ましめんとした。神のみに栄光を帰し、神のみをあがむることは何人も為さざるべからざる当然の立場である。この点においてその盲人に対するユダヤ人らの要求は正当であった。けれども彼らはイエスを神とせず罪人となせし点において誤っていたので(彼らがイエスを罪人とせし理由は安息日を守らなかったからである)、彼らの正当なる要求そのものも誤謬となってしまうのである。彼らはキリストよりその栄光を奪いてこれを己のものとせんとしたのである。例えばカトリック教会において他の点に正しき信仰をもっていても、法王無謬権のごとき主要の点が誤っている結果全体が誤ると同様である。
辞解
[我らは知る] 彼らの宗教上の権威を楯にして無智の盲人を威圧せんとする語。
9章25節
口語訳 | すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。 |
塚本訳 | 彼が答えた、「罪人かどうか知りません。ただ、(もと)盲であったわたしが、いまは見えるという、この一つのことだけ知っています。」 |
前田訳 | 彼は答えた、「罪びとかどうかは知りません。ただひとつのことを知っています。目しいであったわたしが今は見えることです」と。 |
新共同 | 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 |
NIV | He replied, "Whether he is a sinner or not, I don't know. One thing I do know. I was blind but now I see!" |
註解: 盲人の答は立派であった。彼は先にイエスを預言者と信じた。唯彼はイエスが安息日を破ったために罪人と称せらるべきや否やのごとき神学的の問題は「我知らず」として、これに対するユダヤ人の威圧を受け流し、唯彼の上に行われし明瞭なる事実を掲示してこれを証し、堂々として彼らの要求を退けたのである。事実を否定し得べき神学も哲学もなく、また事実を圧迫することができる教権もない。我らの心の中にイエスがこの大なる変化を与え給う時、我らはこの盲人と同じく「さきに盲目たりしが、今見ることを得」るの事実はこれを握っているのであって、これを万人に掲示することを得、またこれ以外の神学論、教権論はこれを無視することができる。
9章26節
口語訳 | そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。 |
塚本訳 | そこでユダヤ人が言った、「あの人は君に何をしたのか。どんなにして君の目をあけたのか。」 |
前田訳 | そこで彼らはいった、「あの人はあなたに何をしたのか。どうして目をあけたか」と。 |
新共同 | すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 |
NIV | Then they asked him, "What did he do to you? How did he open your eyes?" |
註解: 15節の反復、ただし15節は盲人に対してその見ゆるに至れる経路を問い、本節はイエスの行為の順序を問うている。ここに彼らの当惑の状況を認めることができる。彼らはなおもこの事実を疑い、詳細なる報道を得てその中に欠点を捕うることを得んと望んだのである。
9章27節
口語訳 | 彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。 |
塚本訳 | 彼らに答えた、「もう言いました。それを聞かずにおいて、何をもう一度聞こうとされるのです。あなた達もあの方の弟子になりたいのですか。」 |
前田訳 | 彼らに答えた、「もういいましたが、あなた方は聞きませんでした。なぜもう一度聞きたいのですか。あなた方もあの人の弟子になりたいのですか」と。 |
新共同 | 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 |
NIV | He answered, "I have told you already and you did not listen. Why do you want to hear it again? Do you want to become his disciples, too?" |
註解: 勝ち誇れる盲人は益々勇気を得、パリサイ人らを愚弄するかのごとき態度に出ている。キリストに在る無智者はキリストを知らざる学者よりも多くを知っている。なおTコリ1:20のパウロの態度を見よ。
辞解
[聴かざりき] また「聴かざりしか」とも読むことができる(M0)。
9章28節 かれら
口語訳 | そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。 |
塚本訳 | すると彼を罵って言った、「君はあれの弟子、われわれはモーセの弟子だ。 |
前田訳 | 彼らはののしっていった、「そちらはあの人の弟子、われらはモーセの弟子だ。 |
新共同 | そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 |
NIV | Then they hurled insults at him and said, "You are this fellow's disciple! We are disciples of Moses! |
9章29節 モーセに
口語訳 | モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。 |
塚本訳 | 神がモーセと話をされたことは知っているが、あれはどこの馬の骨だか知らない。」 |
前田訳 | われらはモーセに神が語られたことを知るが、あの人がどこの出かは知らない」と。 |
新共同 | 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 |
NIV | We know that God spoke to Moses, but as for this fellow, we don't even know where he comes from." |
註解: 果然彼らはその冷静の態度を失いてこの盲人を罵った。本来彼らの眼中になかりし盲人も今や彼らの目に偉大なる敵となりし所以は、彼がイエスに在る者となったからである。ここにユダヤ人らは自らはイエスを軽蔑するつもりに過ぎなかったけれども、これにより結局モーセ対イエスなる根本問題をここに論ぜしごとき結果となったのであって、この問題は律法と福音の岐 れる処、ユダヤ教とキリスト教の分かれる処である。もし彼らが真にモーセを信じたならばキリストをも信じたであろう(ヨハ5:46)。彼らがキリストの天より来り給えることを信じたならば(ヨハ8:23)、モーセとキリストとの真の関係(マタ5:17、ロマ10:4)をも理解したであろう。
9章30節
口語訳 | そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。 |
塚本訳 | その男が答えて言った、「どこの馬の骨だか知らないとは、こいつは不思議だ。(現に)このわたしの目をあけてくださったのに! |
前田訳 | 彼は答えた、「不思議なことです、どこの出かあなた方が知らない人がわたしの目をあけてくれたとは。 |
新共同 | 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 |
NIV | The man answered, "Now that is remarkable! You don't know where he comes from, yet he opened my eyes. |
註解: 盲人は益々勇気を得て攻勢に転じた。ユダヤ人の信じおりし理論によりて彼らを攻めたのである。すなわち「奇蹟は祈りに対する応答であり神は罪ある者の祈りに聴き給わないとのこと」である(次節引照参照)。それ故に「我が開目の奇蹟を聞きながらイエスの神より出でしことを認めないのは怪しからん」と言いて彼らを責めているのである。
9章31節
口語訳 | わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。 |
塚本訳 | 神は罪人の言うことはお聞きにならないが、信心深くて御心を行う者の言うことなら、(なんでも)聞いてくださることをわたし達は(皆)知っているではないですか。 |
前田訳 | 神は罪びとらを聞き入れられないが、神をおそれ、そのみ心を行なう人は聞き入れられることをわれらは知っています。 |
新共同 | 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 |
NIV | We know that God does not listen to sinners. He listens to the godly man who does his will. |
註解: 盲人は「我らは」と言いて、この知識は凡てのイスラエル人に通有なることを明らかにしている。信仰なく御意を行わずして徒 に祈っても神はこれを聴き給わない。
9章32節
口語訳 | 生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。 |
塚本訳 | 開闢以来、(ただの)人間で、盲で生まれた者の目をあけたなどと、聞いたことがない。 |
前田訳 | 世のはじめから生まれつきの目しいの目をあけた人のことは聞いたことがありません。 |
新共同 | 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 |
NIV | Nobody has ever heard of opening the eyes of a man born blind. |
9章33節 かの
口語訳 | もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。 |
塚本訳 | もしあの方が神のところから来たのでなかったら、なんにも出来なかったはずです。」 |
前田訳 | もしあの人が神からの出でなかったら、何もできなかったはずです」と。 |
新共同 | あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 |
NIV | If this man were not from God, he could do nothing." |
註解: 盲人はその開目の事実が人類歴史上に未曾有のことであるのを理由として、イエスの神より出でし人なることの証拠とした。これ全く正しき論法である。この論鋒の前にユダヤ人らは沈黙せざるを得なかった。我らもイエスの乙女マリヤより生れ給えること、その復活、その昇天等につき何事も知らずとも、またこれを証明することを得ずとも、我らの霊の眼がイエスによりて開かれし事実だけにても彼が神の子に在し給うことを信ずることができる。
9章34節 かれら
口語訳 | これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。 |
塚本訳 | 彼らも負けずに言った、「罪だらけで生まれたお前が、このわれわれを教えるのか。」そして彼を(礼拝堂)追放にした。 |
前田訳 | 彼らは答えた、「全く罪の中に生まれながら、このわれらを教えるのか」と。そして彼を追放した。 |
新共同 | 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。 |
NIV | To this they replied, "You were steeped in sin at birth; how dare you lecture us!" And they threw him out. |
註解: ユダヤ人らより見れば正しき者は彼らのみで、他はイエスもこの盲人もみな罪人であった。ユダヤ人らはこの人の盲目に生れし事実を捕えてこれを罪のうちに神の詛いの下に生れしものと解し、これをもって彼らパリサイ人祭司らの先天的優越の理由となし、もって彼の正しき論鋒を避けんとしているのである。しかしながらこれかえって自殺論法であった。何となればかかる者の上にイエスの御業が顕われし上は、イエスが神より出でしことを否定することができないからである。「彼を追出した」のは、破門の意味ではなく、彼らのおりし部屋より逐い出したことである。誤れる信仰は常に正しき信仰を邪魔もの扱いにする。
要義1 [事実と理論]この奇蹟に対するユダヤ人と盲人の態度の差に注意しなければならぬ。ユダヤ人はその神学説(安息日の聖守の問題、罪と盲目との関係等)とその教権(パリサイ人祭司らの保持せるもの)とその伝統(パリサイ人に属すること)をもってその立場となし、盲人はその開目の奇蹟の事実をもってその寄り処とした。而して事実は最上の理論であって、如何に長き伝統も、如何に強き教権も、如何に深き学識もこの事実を破ることができず、否ユダヤ人らはこれらの学識、教権、伝統を保持するが故にかえって大なる誤謬に陥り、イエスおよび彼を信ずる者を排斥したのである。今日のキリスト者もその霊的新生の事実の上にのみ立つべきであって、学識も伝統も教権もみなこの事実の前に屈服し、この事実の従僕となるべきである。
要義2 [無学者の信仰]全く無学なりし一盲人が多くの博学なるユダヤ人らと相対して、その論議に勝ちを制せし所以は何であったかというに、彼のイエスに対する信仰であった。十歳にも足らざる一少年の信仰が博学なるその父を動かすごとき場合もこの世に多く見ることを得る一例であって、信仰により人はこの世の人の有たざる智慧と力とを与えられ、その見ざる世界を見、その知らざる知識を持つことができる。実に信仰は愚者を賢にし、無智者を智者にし、弱者を強くし、貧者を富ましめ、賎しき者を高くすることができる。
要義3 [モーセ対イエス]第29節にユダヤ人はこの点を論点として提出せることは深き意義あることであって、ユダヤ人はモーセを信じこれに従うものと自ら誇りつつ、実はモーセに叛き彼を殺しているのである。何となればモーセの真の意義はキリストを証し、人をキリストに導くにあり、キリストはモーセの完成者であって、もしモーセの律法がなかったならば人々はその罪を知ることができず、もし人々真にその罪を知ったならば、キリストに来たりてその血潮による贖いを受けなければならないからである。釈迦、孔子のごとくもある意味においてこのモーセの役目を演じているのである。ゆえにユダヤ人がモーセをこの意味において知ることができなかったことは、彼らの霊的眼光の先天的盲目なりしことを証明することであって、凡ての伝統も教権も学識もこれを死守する場合に我らは最大の真理なるイエスを見失うのである。而してイエスは伝統にあらず、教権にあらず、学識にあらず、またモーセにあらず、神の子活ける生命である。
9章35節 イエスその
口語訳 | イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。 |
塚本訳 | イエスは彼が追放されたと聞いて、出合ったときに言われた、「あなたは人の子を信ずるか。」 |
前田訳 | イエスは彼が追放されたと聞き、彼に出会ったときいわれた、「あなたは人の子を信ずるか」と。 |
新共同 | イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 |
NIV | Jesus heard that they had thrown him out, and when he found him, he said, "Do you believe in the Son of Man?" |
註解: イエスはユダヤ人らより追い出されし彼こそ、かえってイエスに対する真の信仰を有ち得る立場に在ることを知りて彼に近付きこの質問を発し給うた。盲人は始めイエスに対する充分な知識がなかったけれども(11、12節)次第に追求せられて彼を「預言者なり」と告白し(17節)、ついに彼を「神より出でし人」と信ずるまでに至ったけれども(33節)未だかれを「メシヤ」として信じなかった。イエスはこの信仰を彼に与えんとし給うたのである。イエスに関する知識とイエスに対する信仰とは同一ではない。
辞解
[人の子] マタ8:20辞解参照。異本に「神の子」とあり。
9章36節
口語訳 | 彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。 |
塚本訳 | 彼が答えた、「主よ、人の子とはだれのことですか。(教えてください。)信じたいのです。」 |
前田訳 | 彼は答えた、「それはだれですか、主よ、わたしはその人を信じたいのです」と。 |
新共同 | 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 |
NIV | "Who is he, sir?" the man asked. "Tell me so that I may believe in him." |
註解: 盲人はイエスに人の子を示されんことを要求した。そして彼の目を開きし人をイエスが彼に示すならんと期待した。ただしイエスがその人であることを知らなかった。
9章37節 イエス
口語訳 | イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。 |
塚本訳 | イエスが言われた、「あなたはもうその人に会った。いや、あなたと話しているのが、その人だ。」 |
前田訳 | イエスはいわれた、「あなたは彼を見た。あなたと話している人がそれだ」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 |
NIV | Jesus said, "You have now seen him; in fact, he is the one speaking with you." |
註解: ここにおいてイエスは「我こそ汝の目を開ける人の子である」として彼を示し給うたのである。すなわち「汝は今すでに人の子を見ている」との意。
9章38節 ここに
口語訳 | すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。 |
塚本訳 | すると「主よ、信じます」と言って、イエスをおがんだ。 |
前田訳 | 彼はいった、「わたしは信じます、主よ」と。そして彼にひれ伏した。 |
新共同 | 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 |
NIV | Then the man said, "Lord, I believe," and he worshiped him. |
註解: 盲人はイエスに対して神に対する態度をもって礼拝した。これがイエスに対して万民の取るべき真の態度である。
辞解
[拝せり] ヨハネは常にこれを神に対する場合にのみ用いる。ヨハ4:20−24、ヨハ12:20。
9章39節 イエス
口語訳 | そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。・・盲が目明きに、目明きが盲になるために!」 |
前田訳 | イエスはいわれた、「わたしは裁きのためにこの世に来た。見えぬものが見え、見えるものが目しいになるために」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 |
NIV | Jesus said, "For judgment I have come into this world, so that the blind will see and those who see will become blind." |
註解: イエスは盲人が霊的の眼力をも与えられしを見て、喜びに溢れて彼のこの世に来り給える使命を宣告し給う。その使命は、自己の霊的盲目を知りて悩む者をば、その眼を開き、反対にこれを知らずして自ら見ゆるごとくに自信して誇る(パリサイ人のごとき)人をばかえって益々盲目とならしめんためである。(イエスを見ざる時よりも、彼の栄光を見てもなお信じ得ざる時の方が彼らの目は一層盲目となったわけである。)▲「審判の為に」は強意的に文章の始めに置かれている。
辞解
[審判] krima はkrisis と異なり、むしろ自然に審判が行わること、または受動的審判を意味する。すなわち「我が来ることによりて人類はこの二種に分たれる」との意味。
9章40節 パリサイ
口語訳 | そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。 |
塚本訳 | イエスと一しょにいたパリサイ人たちがこれを聞いて、彼に言った、「まさか、このわれわれも盲だというのではあるまい。」 |
前田訳 | 彼とともにいたパリサイ人のあるものがこれを聞いて、彼にいった、「われらも目しいですか」と。 |
新共同 | イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 |
NIV | Some Pharisees who were with him heard him say this and asked, "What? Are we blind too?" |
註解: パリサイ人らは先天的に霊的眼光を具備していると信じていた。ゆえに嘲弄的にこの質問を発し、「我らもまた汝の言う盲者の中に入るのであるか、まさかかかることはあるまい」と揶揄したのである。
9章41節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。 |
塚本訳 | イエスが言われた、「盲だったら、罪はなかった。たが今、『見える』と言うから、あなた達の罪はいつまでもなくならない。(光に来ようとしないのだから。) |
前田訳 | イエスは彼らにいわれた、「目しいであったならあなた方に罪はなかったろう。しかし今も『われらは見える』というから、あなた方の罪は消えない」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」 |
NIV | Jesus said, "If you were blind, you would not be guilty of sin; but now that you claim you can see, your guilt remains. |
註解: イエスは彼らの誇りに対し断然たる審判を与え給う。曰く「もし汝ら自己の盲目を悟って卑下 るならば、その罪は赦されて罪なきものとされるであろう。然るに事実霊界のことに対して盲目でありながら自ら見ゆと誇り、イエスに来りてその癒されんことを求めない点に汝らの罪は除かれずに残っているのである」と。ただしこの節は次のごとくにも解することができる。「もし汝ら事実盲目でイエスの神の子たることを知らなかったならば罪がないけれども、知っていながら故意に見ゆと言いてイエスを迫害する故その罪は残っている」(ルートハルト、G1)。前解釈の方が適当である(B1、M0、C1)。
要義1 [イエスに関する知識とイエスに対する信仰]この二者は同一ではない。この盲人は17、33節等にイエスに関する知識を示したけれども、未だこれをもって彼に対する信仰と称することができなかった。38節に「主よ我は信ず」と言いて拝するに及んで、始めて彼の中に信仰が湧き出たのである。信仰はキリストに対する人格関係であり、礼拝の態度である。
要義2 [宗教的知識の誇り]パリサイ人らが宗教的に多くの知識を有することを誇っていることは、イエスの眼には最も罪深きものであった。キリストに対する信仰は人がその霊的盲目を自覚することから始まるのであって、いかに宗教的智識を多く所有すとも、この盲目を自覚せざるものは真の霊眼が開かれることができない。この意味においていわゆる道徳家、宗教家の中にキリストを知らざる盲目者が最も多いことはいずれの時代においても事実である。
ヨハネ伝第10章
3-3-8 真の牧羊者の比喩
10:1 - 10:21
3-3-8-イ 牧者の真偽の別
10:1 - 10:6
註解: 本章1−18節の御言はこれを前章末尾(35節以下)の継続と見るべきであって、イエスはここに比喩を用いて醫されし盲人に対するパリサイ人らの態度を責め、パリサイ人らが神の国の強盗であり、イエスが真の牧羊者であることを示し給うた。1−6節は牧者の真偽の別、7−10節は羊の門の比喩、11−18節は善き牧者の比喩である。
10章1節 『まことに
口語訳 | よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、あなた達に言う、羊の檻に入るのに、門を通らず、ほかの所を乗り越えてくる者は、泥坊である、強盗である。 |
前田訳 | 「本当にいう、門を通らずにほかのところを乗りこえて羊のおりに入るものは盗びとであり強盗である。 |
新共同 | 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 |
NIV | "I tell you the truth, the man who does not enter the sheep pen by the gate, but climbs in by some other way, is a thief and a robber. |
註解: ユダヤ地方の羊は夜の間は羊の檻の中に入れて保護せられていた。この檻は垣根または壁をもって区画せられ、牧羊者らは(数人共同に)その羊をこの檻の中に追い込み門番一人を残して家に帰り、翌朝再び来りて羊を野に引出すのである。イエスはまず己を羊の門に譬え給い、牧者も(1−5)羊も(9、10)みなこの門より出入せざるべからざることを教え、キリストを拒む者、すなわち門より入らずして障壁を踰越 する者は羊の牧者ではなく盗人または強盗であって羊を自己の餌食とせんとする者であることを示し給う。而してイエスはこの場合、前章のごとくにユダヤ人らがイエスを受けず、イエスを信ぜんとする癒されし盲人を逐出だししを見給い、かかる者はこの盗人、強盗に外ならず、決して神の羊の牧者にあらざることを示し給うたのである。
辞解
[まことにまことに] 議論の頭初にある場合は絶対にない。前からの議論の継続中特に注意を要する場合に用いる。
口語訳 | 門からはいる者は、羊の羊飼である。 |
塚本訳 | 門を通って入る者が、(ほんとうの)羊飼である。 |
前田訳 | 門を通って入るものは羊飼いである。 |
新共同 | 門から入る者が羊飼いである。 |
NIV | The man who enters by the gate is the shepherd of his sheep. |
註解: ユダヤ人すなわち祭司パリサイ人らはキリストの門より入らんとせず、他より越えんとする。然らば門より入る牧者は誰なるやにつき、多くの註解家はこれを真の正しき牧師を意味すると解しているけれども、ここにキリストは御自身を「羊の門」(7節)および「善き牧者」(16節)としての二重の資格において考え給うたのを見れば、この場合「門より入る者」と言いて同じく御自身を指し給えるのを見るべきである。すなわち2節−5節は大体羊と牧者の関係の一般的事実を例示したのであって、その通用は7節以下である。
10章3節
口語訳 | 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。 |
塚本訳 | 羊飼には門番が(門を)あけてやり、羊はその声を聞き分ける。羊飼は一匹一匹、自分の羊の名を呼んで(檻から)つれだし、 |
前田訳 | 番人が彼に門を開く。羊は彼の声を聞き、彼はおのが羊を名ざして呼んで連れ出す。 |
新共同 | 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 |
NIV | The watchman opens the gate for him, and the sheep listen to his voice. He calls his own sheep by name and leads them out. |
註解: 真の牧者であれば門守はその顔を知って彼のために門を開く。而して真の牧者と羊との愛の関係の密なることは日本においてはこれを目撃することができないのでほとんど想像ができないほどであり、羊は誤らずにその牧者の声を聞き分け牧者は一々その羊に命名し、その名を呼んでこれを率き出すのである。キリストと信者との関係を牧者と羊との関係に譬えられてあるのは(11−18節)寔 に故あることである。
辞解
[門守] 多くはこれを神と解する(使14:27。コロ4:3。黙3:7。B1、C1、T0)。その外或は聖霊、キリスト、モーセ、バプテスマのヨハネ、或は全く指示すべき特別の人物なしと解する学者もあるけれども、一々これを比喩的に解することはかえって真の意味を見失う恐れがあるであろう。
[名を呼びて] 原語は一つ一つその名を呼ぶ意味を有つ。
10章4節
口語訳 | 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。 |
塚本訳 | 自分の羊を皆出すと、その先に立って歩く。羊はその声を知っているので、あとについて行く。 |
前田訳 | おのが羊を皆出すと、彼は先立って歩く。羊はその声を知るゆえに彼に従う。 |
新共同 | 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 |
NIV | When he has brought out all his own, he goes on ahead of them, and his sheep follow him because they know his voice. |
註解: イエス・キリストがその選び別ち給える民に先立ちてこれを導き給い、その民は平和の心をもって彼に従い行く。イエスに属する羊は彼の声を聞き分けることができるからである。癒されし盲人の彼に従ったのも彼の声を知ったからである。
10章5節
口語訳 | ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。 |
塚本訳 | しかしほかの人には決してついて行かない、かえって逃げる。ほかの人たちの声を知らないからである。」 |
前田訳 | 羊はほかの人たちには決して従わないで逃げる、ほかの人たちの声を知らないから」。 |
新共同 | しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 |
NIV | But they will never follow a stranger; in fact, they will run away from him because they do not recognize a stranger's voice." |
註解: 神の羊はイエスの声以外の声を知らずこれを聞きて逃げる。盲人がユダヤ人の声に従わなかったと同様である。以上の御言をもってイエスは神の羊の真の牧者と、然らざる者との区別を明らかにし、ユダヤ人をしてその意義を覚らしめんとしたのである。
10章6節 イエスこの
口語訳 | イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。 |
塚本訳 | イエスはこの譬をパリサイ人に話されたが、彼らは何を話されているのかわからなかった。 |
前田訳 | イエスはこの譬えを彼らに話された。しかし彼らは何を話されているかわからなかった。 |
新共同 | イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。 |
NIV | Jesus used this figure of speech, but they did not understand what he was telling them. |
註解: 見ても見ず聞けども聞かざる類。彼らはそれほど盲目であって、しかも己の盲目を覚らなかった(ヨハ9:41)。
10章7節 この
口語訳 | そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。 |
塚本訳 | そこでイエスはまた話された、「アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが羊への門である。(羊飼はわたしを通らずに、羊に近づくことはできない。) |
前田訳 | そこでふたたびイエスはいわれた、「本当にいう、わたしは羊の門である。 |
新共同 | イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 |
NIV | Therefore Jesus said again, "I tell you the truth, I am the gate for the sheep. |
註解: 1−5節の比喩をパリサイ人らが悟らなかったので、イエスはここにその意義を明示し給う。これにより前数節の「門」はキリストを指すことがわかる。イエスは常に「我は」と言いて御自身を指し給う (ヨハ6:35、ヨハ8:12、ヨハ11:25、ヨハ14:6、ヨハ15:1) 。また「我は牧者の門」なりと宣わずして「羊の門」なりと言い給い、羊が主要の目的なることを示す。
10章8節 すべて
口語訳 | わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。 |
塚本訳 | (わたしより)前に来た者は皆(羊飼でなく、)泥坊であり、強盗である。羊は彼らの言うことを聞かなかった。 |
前田訳 | わたしよりも前に来たものは皆盗びとであり強盗である。羊は彼らに聞こうとしなかった。 |
新共同 | わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 |
NIV | All who ever came before me were thieves and robbers, but the sheep did not listen to them. |
註解: パリサイ人祭司らユダヤの教権階級を指してかく言い給うたのである。彼らはキリストよりも前に来ってあたかも真の牧者なるがごとき態度を取っていた。しかも真の羊ともいうべきこの盲人は、彼らの声に耳を傾けなかった。▲真の牧羊者と強盗との二極に分たれたことに注意すべし。自己のために牧する者は後者に属し、羊のために牧する者は前者に属す。
辞解
[すべて我より前に来りし者] 難解の文字であって、単に文字の上のみより解すればアブラハムもモーセも預言者もみなこの中に入ることとなる。(従って多くの解釈あり、また異本も少なくない。)しかしこの語がかかる意味に用いられていないことは明らかであって(ヨハ7:19、ヨハ5:45)、キリスト以前に自ら牧者なりとして僭越なる態度を取れる者を指す。この比喩は一々機械的正確さをもっていない。例えば「門」と「盗人」とを対照するごとき、また「羊」と言いて「我が羊」と言わないがごときもこの類である。
10章9節
口語訳 | わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。 |
塚本訳 | (また、)わたしが(羊の出入りするための)門である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこの門を)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。 |
前田訳 | わたしは門である。わたしを通って入るものは救われ、出入りして牧草を得よう。 |
新共同 | わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 |
NIV | I am the gate; whoever enters through me will be saved. He will come in and go out, and find pasture. |
註解: キリストは羊の門に在し給う。盗人、強盗は羊を喰わんがために他より入り来るのであって、従って羊を自由に檻より出さない。ゆえに羊は檻より出入りして草を食うことができず、檻の中に束縛せられる。これは律法主義と、形式主義と、教権主義に束縛せられているパリサイ人およびその主義の犠牲となっている信者を意味する。その反対にキリストの門より入る者、すなわち信仰によりてキリストに頼る者は、これによりて救われて義とせられ、而して彼との間の親密なる霊的交通に生くることができ(「出入し」とはこの状態をいう。使1:21)、従って形式、制度、教権に束縛せられず、また霊の糧(草)を豊かに喰うことができる。すなわちイエスの門よりてのみ羊は真の生命を得ることができる。
10章10節
口語訳 | 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。 |
塚本訳 | 泥棒が来るのは、ただ(羊を)盗み、殺し、滅ぼすだけのためである。わたしは(羊に)命を持たせるため、あり余るほど(の命を)持たせるために来たのである。 |
前田訳 | 盗びとが来るのは、盗み、殺し、滅ぼすためにほかならない。わたしが来たのは、いのちを得させ、いのちにあり余らせるためである。 |
新共同 | 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 |
NIV | The thief comes only to steal and kill and destroy; I have come that they may have life, and have it to the full. |
註解: パリサイ人らは羊を「盗み」てこれを自己の慾望の犠牲となし、これを「殺し」て霊的生命なき死せる形骸たらしめ、これを「亡 し」て永遠の滅亡の中に入らしめる。世にかかる宗教のいかに多きかを見よ。
わが
註解: パリサイ人らと全く反対の目的をもって来り給えるはキリストであった。すなわち盗みて自己の慾望の犠牲とする代りに自らを羊のための犠牲となし(11節)、殺し亡 す代りに生命をしかも豊富に与えた給う。キリストを信ずる者はこの事実を経験することができる。イエスは「わが来れるは」と言いて門の比喩より善き牧者の比喩に移り行くの第一歩を踏み給うた。▲それ故に人間の為すべき務めは人をキリストに導くことである。自己または自己の宗派に導こうとする者は強盗の一種である。
10章11節
口語訳 | わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。 |
塚本訳 | わたしが良い羊飼である。良い羊飼は羊のために命を捨てる。 |
前田訳 | わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。 |
新共同 | わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 |
NIV | "I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep. |
註解: イエスはこれより進んで善き牧者と雇人なる牧者との差異を示して、自己の利益を中心とする雇人とキリストとがいかに異なるかを示し給う。すなわち善き牧者の特色は愛であって、羊のためにその生命を捨ててこれを犠牲にし、羊を生かさんがために己の生命をすてて贖罪の死を遂げ給う点にある。「今日は俸給を得て一町一村の羊を牧する者を牧師と呼んでいるけれども、本節において牧者なる名称の意義は遙かに崇高である」(B1)。
辞解
[牧者] 神とその民との関係を牧者と羊とに譬えた場合は旧約聖書に多い。引照参照。
10章12節
口語訳 | 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。 |
塚本訳 | (本当の)羊飼でない雇人(である羊飼)は、羊が自分のものでないので、狼が来るのを見ると、羊をすてて逃げる。・・すると狼は羊を奪い、また追い散らすのである。・・ |
前田訳 | 羊飼いでない雇人は、羊が自分のものでないので、狼が来るのを見ると、羊を捨てて逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。 |
新共同 | 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― |
NIV | The hired hand is not the shepherd who owns the sheep. So when he sees the wolf coming, he abandons the sheep and runs away. Then the wolf attacks the flock and scatters it. |
註解: 真の牧者は己が羊を愛するが故に、また神よりの命を受けしが故にその生命を捨ててまでも羊を牧 うのであるが、「雇人 」はその生活のため、または自己の利益のために羊を牧う者である。(▲▲俸給制度による牧師の弊は大きい。)豺狼 は前数節の強盗と同じくパリサイ主義の人々およびその他一般に神の国を迫害するもの(A1)を意味する。パリサイ主義はいずれの世においても豺狼 のごとくに跳梁 を恣 にしており、またキリストの羊はどこにても迫害に遭うものであって、真に羊を愛せざる雇人的牧者は彼らと戦うことができず、羊を彼らの蹂躙 にまかせ、これによりて自己の安全を図る。その結果豺狼 のために羊は奪われ、また散らされてる。
辞解
[雇人 、豺狼 ] これらが何を指すかについては学者により区々 の推測を行っており、必ずしも一定していない。前記のごとく解することにより(C1)1−3節に、強盗盗人としてのパリサイ人(1節)、真の牧者としてのキリスト(2、11節)、羊の門としてのキリスト(7節)、羊(8−10節)、雇人 (11−13節)等教会に関連する凡てのものを網羅することができる。▲これを現代的に解するならば軍国主義、共産主義、資本主義、享楽主義等いずれも有力な豺狼 である。
口語訳 | 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。 |
塚本訳 | 雇人であって、羊のことなどどうでもよいからである。 |
前田訳 | 彼は雇人で、羊を心にかけないからである。 |
新共同 | 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 |
NIV | The man runs away because he is a hired hand and cares nothing for the sheep. |
註解: 自己の安全を求むる心と、羊を愛せずこれを顧みない心とがこの結果を来たらす。ゆえに雇人根性の牧者はパリサイ主義の攻撃やその他の迫害に対しては無力である。
10章14節
口語訳 | わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 |
塚本訳 | わたしが良い羊飼である。わたしはわたしの羊を知っており、わたしの羊もわたしを知っている。 |
前田訳 | わたしはよい羊飼いである。わたしはわが羊を知り、わが羊はわたしを知る。 |
新共同 | わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 |
NIV | "I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me-- |
口語訳 | それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。 |
塚本訳 | 父上がわたしを知っておられ、わたしが父上を知っているのと同じである。そしてわたしは羊のために命を捨てる。 |
前田訳 | それは、父がわたしを知り、わたしが父を知るごとくである。そしてわたしは羊のためにいのちを捨てる。 |
新共同 | それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 |
NIV | just as the Father knows me and I know the Father--and I lay down my life for the sheep. |
註解: 善き牧者の特徴は羊と彼との間に、愛による親密な霊の交わりより来る相互の理解があることである。愛する者は最もよく相手方の心を知り、また己の心を相手方に示す。この善き牧者と羊との間の相互理解の内容は、神とキリストとの間に存する相互の知識、理解と同性質のものであって、最も高く潔く深き霊的交通の状態を指す。
辞解
[如し] kathôs は単なる比較、hôsper にあらずして性質の同一なることを示す。
註解: 善き牧者の態度は12節の雇人とは正反対に、羊が豺狼 に襲われる時、羊を生かさんがために自己の生命を犠牲にする。この御言の中にはキリストの贖罪の死を示すのみならず、また一般的に犠牲の行為を意味する。この一句はあたかも折返しのごとくに繰返され(11、17、18)、贖罪の死が善き牧者の特徴なることを示す。
10章16節
口語訳 | わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。 |
塚本訳 | ・・なおわたしには、この檻のものでない、ほかの羊がある。(彼らはまだ野山をさまよっている。)わたしはそれをも導いてやらねばならない。彼らはわたしの声を聞きわけ、かくて群一つ、羊飼一人となるであろう。・・ |
前田訳 | しかしわたしにはこのおりでないほかの羊がある。彼らをもわたしは導かねばならぬ。彼らはわが声を聞き知り、群れはひとつ、羊飼いはひとりとなろう。 |
新共同 | わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 |
NIV | I have other sheep that are not of this sheep pen. I must bring them also. They too will listen to my voice, and there shall be one flock and one shepherd. |
註解: イエスが羊のために贖罪の死を遂げ給うことは「この檻」すなわちイスラエルの羊のみならず、「他の羊」すなわち異邦人の中の信ずる者をも導く必要があるからである。かくしてイエスの死は世界万民の救いとなった。復活昇天し給えるイエスは聖霊として弟子たちに宿りこの御業を完成し給うた。
註解: 使28:28参照。神の選び給える羊であれば、ユダヤ人と異邦人との間の差別なくみなイエスの御声を聞き分ける。
註解: このことはユダヤ人の予想しない処であった。世界の万民が神の前に一つの牧場の羊となり、ユダヤ人と異邦人との間の隔 の中籬 は取り去られた。これキリストの贖罪の死の目的であり、また結果であった(エペ2:11−19)。
辞解
[一つの群] ヴルガタおよび英国欽定訳が「一つの檻」と訳したのは誤訳である。
10章17節
口語訳 | 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。 |
塚本訳 | だから父上はわたしを愛してくださる。(羊のために)命を捨てるからである。しかしわたしが捨てるのは、(まことの命として)ふたたび取るためである。 |
前田訳 | それゆえ父はわたしを愛される。わたしがいのちを捨てるからである。しかしそれはいのちをまた得るためである。 |
新共同 | わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 |
NIV | The reason my Father loves me is that I lay down my life--only to take it up again. |
註解: 「之によりて」すなわち父の命に従って羊のために生命を捨てて万国の羊を一つの群れとなすがゆえに父はイエスを愛し給う。すなわちこの理由を詳述すれば、イエスが人を救うことを己の生命よりも重んじ給いてその生命を捨て、しかもその救える人々を孤児となさずしてこれを牧せんがために「再び生命を得る」故であって、単にその生命を捨て給うだけではなく復活の希望と確信とをもち、この復活のキリストが異邦人をも一つの群れとなさんとし給うからである。イエスの眼中には十字架の贖罪の死と共に、常に復活してその羊群の牧者となり給うことの確信があった。而してかくみな父の御意に従い給うが故に父は彼を愛し給うたのである。
辞解
[之によりて・・・・・・それは云々] dia touto,hoti は前を受けてさらに後にその理由を詳述する場合のヨハネの慣用句である(ヨハ5:18、ヨハ8:47、ヨハ12:18、ヨハ12:39。Tヨハ3:1)。
口語訳 | だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。 |
塚本訳 | だれもわたしから(力ずくで)命を取り上げることはできない。わたしが自分で(自由に)捨てるのである。わたしにはこれを捨てる権利があり、ふたたびこれを取る権利がある。(命を捨て、また取る)この命令を、わたしは父上から受けた。」 |
前田訳 | 何びともわたしからいのちを奪わない。わたしが自分でそれを捨てる。わたしにはそれを捨てる権威があり、ふたたびそれを受ける権威がある。わたしはこのいいつけを父から受けた」と。 |
新共同 | だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 |
NIV | No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down and authority to take it up again. This command I received from my Father." |
註解: イエスが十字架に釘 きて死に給えるは、ユダヤ人らに打勝つ力がなかったからではない(マタ26:52、53)。また自己の罪によるのでもない。自己の自由の意思よりこれを捨て給うたのである。イエスの死をもって彼の意思に反する失敗の死とする者はこの御言を解せざるものである。▲神がイエスを処罰したのではなく、イエス自ら我らの受くべき処罰に相当する死を選び給うたことに注意すべし。
註解: 神はキリストを我らに賜い(ヨハ3:16)、彼を立て彼を十字架につけて我らの罪のために宥 の供物となし給い(Tヨハ4:10。ロマ3:25)、また彼を死人の中より甦らしめ給うた(使2:24。ロマ6:4)。この意味においては父なる神がキリストを十字架に釘 け、また彼を甦らせ給うたのである。しかしながらこのことはキリストにその生命を捨て、またこれを得るの権なきことを意味しない。キリストはこの神の命に従い、神より与えられ給える権をもって自らその生命を捨て、また自らこれを得給うたのである。キリストは完全に神の御旨に従うことによりて、完全に自主の権を有ち給うた。完全なる服従は完全なる自主権のある場合にのみ可能である。神はこの完全なる自主権をキリストに与え給い、キリストはこの完全なる自主権を用いて完全に神の命に従い、その死と復活とを全うし給うた。▲▲「権」 exsousia を「力」 dynamis と同一の語で訳すのは混同され易い。権あるものは力を伴うけれども力は必ずしも権を伴うとは言えない。
要義 [善き牧者なるキリスト]牧羊の行われない我が国においてこの比喩の美わしさを想像するのは困難であるけれども、多くの詩人によって歌われ(詩23篇参照)、多くの書家によりて描かれしこの関係は我らもほぼこれを想像することができる。牧者が羊に対する深き愛とこれに対する羊の強き信頼、各の羊に対する牧者の知識と牧者の声を聞き分くる羊の智慧、折に叶える牧者の命令と牧者に対する羊群の服従、これらは凡てキリストとその弟子との間の関係、花婿たるキリストとその花嫁たる教会の関係を最も美わしく表顕しているものである。而してこの善き牧者の反対は盗人、強盗、雇人であって、羊を自己の宗派に引入れ、自宗派の勢力、反映の材料とせんとするもの、または自己の生活や利益の目的をもって羊を牧する者は、キリストなる唯一の善き牧者の敵である。我らはキリストに従い、キリストの御意を心とすることによりてのみキリストの羊を牧することができる(ヨハ21:15−17)。
10章19節 これらの
口語訳 | これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。 |
塚本訳 | (イエスの)これらの言葉によって、ユダヤ人の間にまたもや意見が分れた。 |
前田訳 | イエスのこれらのことばによって、ユダヤ人の間がふたたび分裂した。 |
新共同 | この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。 |
NIV | At these words the Jews were again divided. |
註解: 神の言によりて人類は常に二分される。一はこれを信じ他はこれを拒む (ヨハ7:12、ヨハ7:30、31、ヨハ7:40、41。ヨハ9:8、9、ヨハ9:16) 。
10章20節 その
口語訳 | そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。 |
塚本訳 | そのうち多くの者は、「あの人は悪鬼につかれて、気が狂っている。どうしてあなた達はあんな人の話を聞くのか」と言い、 |
前田訳 | 彼らの多くが「彼は悪霊につかれて、気が狂っている。なぜ彼のいうことを聞くのか」といい、 |
新共同 | 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」 |
NIV | Many of them said, "He is demon-possessed and raving mad. Why listen to him?" |
註解: 何れの時代においてもキリストに反対する者は大多数である。「悪鬼」についてはマタ8:16辞解参照。もしキリストが神の子にあらずば、確かに悪魔に憑かれし人に相違ない。然らざればかかる誇大なる言をなすことができないであろう。我らもイエスをもって神の子か悪鬼に憑かれし者かの二者中の一として認めなければならぬ。その中間を許さない。▲「悪鬼」 daimonion = demon は悪しき霊的存在で、単なる霊にあらず個体的に存在するものと考えられていた。口語訳の「悪霊」は訳語としては不完全なり。
10章21節
口語訳 | 他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。 |
塚本訳 | またこう言う者もあった、「悪鬼につかれた者にあんな話はできない。悪鬼に盲人の目をあけることが出来ようか。」 |
前田訳 | ほかのものは「悪霊につかれたものにあんなことはいえない。悪霊に目しいの目は開けない」といった。 |
新共同 | ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」 |
NIV | But others said, "These are not the sayings of a man possessed by a demon. Can a demon open the eyes of the blind?" |
註解: イエスを拒まざる者はここに二つの理由を挙げている。その一はイエスの言が権威あるもののごとくであって、悪鬼に憑かれし者のごとくに無意味の囈語 にあらざること、その二はイエスが盲人の目を開き給えることであった。イエスの御言と御業とが明らかに彼の神の子に在し給うことを証している。
10章22節 その
口語訳 | そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。 |
塚本訳 | そのあと・・(仮庵の祭の二か月後)・・エルサレムに宮清めの祭があった。時は冬であった。 |
前田訳 | そののちエルサレムに宮清めの祭りがあった。冬のころであった。 |
新共同 | そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 |
NIV | Then came the Feast of Dedication at Jerusalem. It was winter, |
註解: この祭は紀元前165年ユダス、マカベウスの創始する処であって、アンチヲクス、エピフハネスによりて宮が穢されしを新たに潔めし記念に行われ、十二月半ばより一週間の間行われ、全市に燈火を点じてこれを祝した。仮庵の祭(ヨハ7:2)よりこの時まで約二ヶ月の間イエスがどこにい給いしやは明らかでない。
10章23節 イエス
口語訳 | イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。 |
塚本訳 | イエスが宮でソロモンの回廊を歩いておられると、 |
前田訳 | イエスは宮の中でソロモンの廊を歩いておられた。 |
新共同 | イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 |
NIV | and Jesus was in the temple area walking in Solomon's Colonnade. |
註解: 冬であったので廊の中を歩み給うたのであろう。ソロモンの廊は宮の東方にあり、東廊ともいう。
10章24節 ユダヤ
口語訳 | するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。 |
塚本訳 | ユダヤ人が彼を取り囲んで言った、「いつまで気をもませるのです。救世主なら(救世主だと、)はっきり言ってください。」 |
前田訳 | するとユダヤ人が彼を囲んでいった、「いつまでわれらに気をもませるのですか。あなたがキリストなら公においいなさい」と。 |
新共同 | すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 |
NIV | The Jews gathered around him, saying, "How long will you keep us in suspense? If you are the Christ, tell us plainly." |
註解: 取囲めるはイエスをして答えしむるまでは逃さじとの態度を示したのである。その答の如何によりてユダヤ人らはイエスを殺さんと企てていた。しかしたといキリストこれを明示し給うとも、彼らは彼を信じなかったであろう。
10章25節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「言ったが、信じないではないか。父上の言いつけでわたしがしているその業が、わたしのことを証明している。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「わたしはいったがあなた方は信じない。わたしが父の名によってするわざこそわたしについて証している。 |
新共同 | イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 |
NIV | Jesus answered, "I did tell you, but you do not believe. The miracles I do in my Father's name speak for me, |
10章26節 されど
口語訳 | あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。 |
塚本訳 | だが、あなた達は信じない。わたしの羊でないからだ。 |
前田訳 | しかしあなた方は信じない、わが羊でないから。 |
新共同 | しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 |
NIV | but you do not believe because you are not my sheep. |
註解: イエスはすでにしばしば御言をもってこれを告げ(引照参照)、また御業をもってこれを証し給うた。然るに彼らはこれを解せず彼を信じなかった。これキリストの羊でないからである。もしユダヤ人らが真にキリストの羊であったならば、キリストの声をききてこれを解し(ヨハ8:47)その御業を見て彼を信じたであろう(ヨハ9:30−33、ヨハ10:21)。かくのごとくイエスが遠回しに答え給える理由は、もし直接に「我キリストなり」と言わばユダヤ人は彼らの想像するごときキリストと解する懼れあり、もし「キリストに非ず」と言えば事実と否定することとなるからである。
10章27節 わが
口語訳 | わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。 |
塚本訳 | わたしの羊はわたしの声を聞きわける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。 |
前田訳 | わが羊はわが声を聞きわける。わたしは彼らを知り、彼らはわたしに従う。 |
新共同 | わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 |
NIV | My sheep listen to my voice; I know them, and they follow me. |
10章28節
口語訳 | わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。 |
塚本訳 | するとわたしが永遠の命を与え、彼らは永遠に滅びない。また彼らをわたしの手から奪い取る者はない。 |
前田訳 | わたしは彼らに永遠のいのちを与え、彼らは永遠に滅びない。何びともわが手から彼らを奪わない。 |
新共同 | わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 |
NIV | I give them eternal life, and they shall never perish; no one can snatch them out of my hand. |
註解: キリストの羊はユダヤ人とは正反対にキリストの声を聞きて彼に従い、キリストは彼らを知りてこの間に愛の密なる関係が成立し、而してイエスは彼らに永遠に亡ぶことなき生命を与え、かつ愛をもって彼らを護り給えば、何物もこれをイエスより奪うことができない。イエスの言を信ぜずその御業の証を信ぜざるユダヤ人らはイエスに従わず永遠の生命を受くること能わず、悪魔来りて彼らを奪い去るのである。イエスをキリストと信ずる者とこれを信ぜざる者との間にかかる大なる運命の差が生ずるのである。
10章29節
口語訳 | わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。 |
塚本訳 | (というのは、彼らを)わたしに下さった父上はすべての者より強いので、(彼らを)父上の手から奪い取ることの出来る者はだれもなく、 |
前田訳 | わたしに(彼らを)与えられた父はすべてのものより偉大で、何びとも父の手から彼らを奪いえない。 |
新共同 | わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 |
NIV | My Father, who has given them to me, is greater than all ; no one can snatch them out of my Father's hand. |
註解: 前節にキリストは「我が手」をもってその羊を護り給うこと、本節においてそれは同時に「父の御手」にあること、したがってキリストは父とは一心同体であり、これによりて護られる「キリストの羊の絶対安全の状態」を示し給うた。蓋し父なる神は何者(男性)よりも大に在し給うが故である。この御言はその反面において、ユダヤ人らがいかに神の羊(目を開けられし盲人のごとき)を奪わんとしてもそれは不可能なることを包含し、また信ぜざるユダヤ人らの滅亡が明らかに預言せられ、イエスのキリストに在し給うことが鮮やかに示されている。▲本節原文に混乱あり、文語訳と口語訳との差は原文の差異に由る。
口語訳 | わたしと父とは一つである」。 |
塚本訳 | しかもわたしと父上とは一つである(からだ)。」 |
前田訳 | わたしと父とはひとつである」と。 |
新共同 | わたしと父とは一つである。」 |
NIV | I and the Father are one." |
註解: 前節にほぼ含蓄せられ、また曩 にも(ヨハ5:18)ほぼ暗示せられし事柄をイエスはここに明言し給うた。かくしてイエスは24節の問いに答え給うと同時にユダヤ人の不信を責め給うた。ユダヤ人が怒ったのも同然である。
辞解
[一つなり] 本質が同一であって従ってその働きも同一であることを意味する(A1)。
10章31節 ユダヤ
口語訳 | そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。 |
塚本訳 | これを聞くと、またもやユダヤ人は、イエスを石で打ち殺そうとして(外から)石を持ってきた。 |
前田訳 | またもユダヤ人はイエスを石打ちしようと石を運んで来た。 |
新共同 | ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。 |
NIV | Again the Jews picked up stones to stone him, |
註解: ヨハ8:59にに比し一層切迫していた。「取り上げて」はその切迫せる貌を示す。
10章32節 イエス
口語訳 | するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。 |
塚本訳 | するとイエスは言われた、「わたしは父上の(命令による)善い業を沢山あなた達にして見せたが、そのうちのどの業のために、わたしを石で打ち殺すのか。」 |
前田訳 | そこでイエスはいわれた、「わたしは父のよいわざを示したが、そのどのわざのゆえにわたしを石打ちするのか」と。 |
新共同 | すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」 |
NIV | but Jesus said to them, "I have shown you many great miracles from the Father. For which of these do you stone me?" |
註解: イエスは御言をもって彼らの行動を止め給うた。イエスの質問は彼らの心を知らずして為し給うのではなく、彼らがイエスに対する反対を心に懐ける所以がイエスの奇蹟にあったので、イエスは彼らに対する憤激の情よりこの皮肉の言をもって、我らの心の奥底にその鋭き一撃を与え給うたのである。
辞解
[父によりて] 「父により出でし」の意味でイエスの為し給える凡ての善き業は己より出でしにあらず父の御旨によって為された。
10章33節 ユダヤ
口語訳 | ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。 |
塚本訳 | ユダヤ人が答えた、「善い業のために石で打ち殺すのではない、冒涜のためだ。君が人間の分際で、神様気取りでいるからだ。」 |
前田訳 | ユダヤ人が答えた、「われらが石打ちするのはよいわざのゆえではなく、涜神(とくしん)のゆえである。人間のくせに自分を神とするからである」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 |
NIV | "We are not stoning you for any of these," replied the Jews, "but for blasphemy, because you, a mere man, claim to be God." |
註解: イエスの善き業を彼らは非難することができないにもかかわらず、これによりて多くの人がイエスに従うを見て彼らは嫉妬にたえなかった。而してイエスを神の子と信ずることができなかった彼らにとって、イエスの御言葉は涜神の言と聞こえ、まことによき口実を得たので、これを理由としてイエスを排斥せんとしたのである。伝統や教権に囚われしユダヤ人らは明瞭なる事実(キリストの御業)に対して盲目であった。恐るべきことである。
10章34節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 |
塚本訳 | イエスが答えられた、「あなた達の律法[聖書]に、〃あなた達は神だ、とわたしは言った〃と書いてあるではないか。 |
前田訳 | イエスが答えられた、「あなた方の律法に『あなた方は神であるとわたしはいった』と書かれているではないか。 |
新共同 | そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。 |
NIV | Jesus answered them, "Is it not written in your Law, `I have said you are gods' ? |
10章35節 かく
口語訳 | 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない) |
塚本訳 | 神はこの言葉をたまわった人たち(すなわち御自分に代って裁判をする者)を、神と言われたのであるから・・聖書がすたれることはあり得ないので・・ |
前田訳 | 神のことばを与えられた人々が神といわれたのならば−−聖書はすたれえないので−− |
新共同 | 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。 |
NIV | If he called them `gods,' to whom the word of God came--and the Scripture cannot be broken-- |
註解: 「律法」は旧約聖書全体を意味している。この引用は(詩82:6)イスラエルの司や審判人たちを指し、その司や審判人らは神より委任を受け神の代表者として政治を行う意味において、神(複数)または神の子(複数)と呼ばれている。イエスはこの事実を捉えて、ユダヤ人の迫害の理由を論駁 し給うた。聖書の廃るべからざることを特に強調していることに注意せよ。▲▲「神の言葉を賜りし人々」は原文直訳「その人に対して神の言が成った人」で、神の意志により重要な地位に任命された人。
10章36節 [
口語訳 | 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。 |
塚本訳 | (まして)父上が聖別して世に遣わされた者(であるわたし)が、『わたしは神の子だ』と言ったからとて、どうしてあなた達はそれを『冒涜だ』と言うのか。 |
前田訳 | 父が聖めて世に送られたものが、『われは神の子』といったのを、あなた方は涜神というのか。 |
新共同 | それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。 |
NIV | what about the one whom the Father set apart as his very own and sent into the world? Why then do you accuse me of blasphemy because I said, `I am God's Son'? |
註解: 35節以下私訳「もし神の言を賜りし人々を神々と云わば、聖書は廃るべきにあらねば父も潔め別ちて云々」前節のごときユダヤ人の司ら審判人をすらかく神が呼び給いし以上、父の特別なる御意により聖別せられて世に遣わされしキリストが、神の子と自称しても聖書に叶っているではないかとの意である。勿論イエスは彼らと同じものまたは程度の差に過ぎないものであることを言い給うたのではない。仮にイエスが彼らと同じ程度のものまたはやや優れるに過ぎないにしても、神の子と呼び給うことが涜言でないならば、いわんや事実神の子に在し給うならばなおさらのことであって、この論法は弱きがごとくにして非常なる強さを有っている。
辞解
[潔め別つ] hagiazô はむしろ「聖別する」と訳すべきであって、この「聖」は罪汚れを潔める意味が主ではなく、自然の状態であるものと対立して、特にその中より区別せられて神のために用いられることを言う。 出29:1、出29:36。出40:13。レビ22:2、3。マタ23:17。 ゆえに本来は形式的儀礼的の意味であった。新約においてはこれをもって抽象的意味に解し全心を神にささぐることをいう。罪を洗い潔めることすなわち不潔の反対は katharizô を用いる(ヨハ17:17、ヨハ17:19)。
10章37節
口語訳 | もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。 |
塚本訳 | もしわたしが父上の業をしていないなら、わたしを信ぜずともよろしい。 |
前田訳 | もしわが父のわざをわたしがしないならば、わたしを信ずるな。 |
新共同 | もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 |
NIV | Do not believe me unless I do what my Father does. |
註解: キリストが父より聖別され世に遣わされこと(前節)の証拠は父の業を行い給うことであった(マタ11:5、6。なおヨハ5:36註参照)。この業を見ても信ぜざる者は言逃れる術がないであろう。
10章38節 もし
口語訳 | しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。 |
塚本訳 | しかしもし、しているなら、わたし(の言葉)を信ぜずとも、その業(が父上の業であること)を信ぜよ。そうすれば(父上とわたしとが一つで、)父上がわたしの中に、わたしが父上の中におることを、知りまた知るであろう。」 |
前田訳 | もししているならば、わたしを信ぜずとも、わざを信ぜよ。それは、父がわたしに、わたしが父にあることを知りまた悟るためである」と。 |
新共同 | しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」 |
NIV | But if I do it, even though you do not believe me, believe the miracles, that you may know and understand that the Father is in me, and I in the Father." |
註解: 「業を信ずる」ことはキリストを信ずることに比して低き程度の信仰であって、イエスはここにユダヤ人らに対して一歩を譲り給うた。ただしこの譲歩は敗北のための譲歩ではなく充分の勝算を有せる譲歩であって、イエスの御業を信ずる者は結局彼を信ずるに至るであろう。
さらば
註解: 30節と同意義であって、イエスの為し給える御業を信ずるならば、父とイエスの間に霊的一致の関係なしにかかる御業のでき得べからざることを知覚するに至るであろう。
辞解
[父の我にをり] 父なる神の御心がキリストを全く占領すること、ガラ2:20と同義。
[我の父にをること] 全信頼を父にささげその懐にいだかれること、ロマ8:1と同義。
[知りて悟る] 単純なる信仰と異なり、知識を基礎としてついにそれを確認するに至ること。
10章39節 かれら
口語訳 | そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。 |
塚本訳 | そこで彼らはまたイエスを捕えようとしたが、その手から抜け出された。 |
前田訳 | そこで彼らはまたもイエスを捕えようとしたが、彼らの手からぬけ出られた。 |
新共同 | そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。 |
NIV | Again they tried to seize him, but he escaped their grasp. |
註解: 石にて打殺さんとする心を捨てたのは、彼を捕えて (ヨハ7:30、ヨハ7:32、ヨハ7:34) 祭司長らの許に引き行かんとしたのであろう。
10章40節 かくてイエス
口語訳 | さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた。 |
塚本訳 | またヨルダン川の向こうの、最初ヨハネが洗礼を授けていた場所に行って、しばらくそこにおられた。 |
前田訳 | そしてイエスはまたヨルダンの向こうの、ヨハネが前に洗礼していた所へ行って、しばらくそこにとどまられた。 |
新共同 | イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。 |
NIV | Then Jesus went back across the Jordan to the place where John had been baptizing in the early days. Here he stayed |
註解: すなわちべレアの地方、マタ19:1以下。マコ10:1以下の記事はこの後の出来事であろうとする学者がある(G1)。
10章41節
口語訳 | 多くの人々がイエスのところにきて、互に言った、「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」。 |
塚本訳 | 大勢の人があつまって来て、「ヨハネは何一つ徴[奇蹟]を行わなかったが、この方についてヨハネの言ったことは全部本当だった」と言った。 |
前田訳 | すると多くの人が彼のところへ来ていった、「ヨハネは何の徴も行なわなかったが、ヨハネがこの方についていったことはみな本当であった」と。 |
新共同 | 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」 |
NIV | and many people came to him. They said, "Though John never performed a miraculous sign, all that John said about this man was true." |
註解: エルサレムのユダヤ人に拒まれ給いしイエスは、かえってこの片田舎に知己を得給うた。彼らはヨハネの証を信じてイエスの徴を信じた。これらはエルサレムの人々の拒んだところのものであった。
10章42節
口語訳 | そして、そこで多くの者がイエスを信じた。 |
塚本訳 | そこで大勢の人がイエスを信じた。 |
前田訳 | そして、そこで多くの人が彼を信じた。 |
新共同 | そこでは、多くの人がイエスを信じた。 |
NIV | And in that place many believed in Jesus. |
註解: 福音は常に思わざる処に伝わるものである。