黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第11章

分類
5 イエス逆境に陥りたまう 11:1 - 16:12
5-1 不信の予兆 11:1 - 11:30

11章1節 イエス十二(じふに)弟子(でし)(めい)()へてのち、町々(まちまち)にて(をし)へ、かつ、宣傳(のべつた)へんとて、此處(ここ)()(たま)へり。[引照]

口語訳イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。
塚本訳イエスは十二人の弟子に指図を終えられると、町々で教えまた(福音を)説くために、そこを去られた。
前田訳イエスは十二弟子に指示し終えられると、そこを去って彼らの町々で教えかつ説かれた。
新共同イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
NIVAfter Jesus had finished instructing his twelve disciples, he went on from there to teach and preach in the towns of Galilee.
註解: 此處(ここ)」のどこであるかは確定することができない。

5-1-イ バプテスマのヨハネ 11:2 - 11:19
(ルカ7:18-35)   

11章2節 ヨハネ牢舍(らうや)にてキリストの御業(みわざ)をきき、弟子(でし)たちを(つかは)して、[引照]

口語訳さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
塚本訳さて(洗礼者)ヨハネは牢屋で、(イエスの)救世主としての働きを聞くと(心が動揺し、)弟子たちをやって、
前田訳ヨハネは牢でキリストのみわざを聞き、おのが弟子をつかわして彼にいった、
新共同ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
NIVWhen John heard in prison what Christ was doing, he sent his disciples

11章3節 イエスに()はしむ『(きた)るべき(もの)(なんぢ)なるか、(あるひ)は、(ほか)()つべきか』[引照]

口語訳イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
塚本訳「来るべき方(救世主)はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか」とたずねさせた。
前田訳「あなたこそ来たるべきものか、あるいはほかのものをわれらは侍つべきか」と。
新共同尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
NIVto ask him, "Are you the one who was to come, or should we expect someone else?"
註解: バプテスマのヨハネはヘロデのために牢舎につながれている間に(ルカ3:18−20)弟子たちを遣わして次の質問をイエスに発した。「来るべきもの」すなわちユダヤ人が来るべきメシヤとして期待しているものは「汝であるか、他の人であるか」と。かかる質問を発せる理由は、己はメシヤの先駆者であったのに牢舎に捕われ、イエスはキリストとして直ちに神の国を建つるならんと期待されていたのに、未だそのことがなかったためにヨハネの心に一抹の疑いが起ったのであろう。而してこの心の動揺を主の直接の御言によりて安定せしめんとしたのであろう。疑惑に際して主の御言に頼り得るものは幸いである。イエスが後にヨハネを賞揚し給える所以もこの信頼の態度についてであった。

11章4節 (こた)へて()ひたまふ『ゆきて、(なんぢ)らが()()する(ところ)をヨハネに()げよ。[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
塚本訳イエスは答えられた、「行って、(今ここで)聞いていること見ていることをヨハネに報告しなさい。
前田訳答えてイエスはいわれた、「行ってあなた方が見聞きすることをヨハネに告げなさい。
新共同イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
NIVJesus replied, "Go back and report to John what you hear and see:

11章5節 盲人(めしひ)()跛者(あしなへ)はあゆみ、癩病人(らいびゃうにん)(きよ)められ、聾者(おふし)はきき、死人(しにん)(よみが)へらせられ、(まづ)しき(もの)福音(ふくいん)()かせらる。[引照]

口語訳盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
塚本訳──“盲人は見えるようになり、”足なえは歩きまわり、癩病人は清まり、聾は聞き、死人は生きかえり、“貧しい人は福音を聞かされている”と。
前田訳目しいは見、足なえは歩み、らい者は清まり、耳しいは聞こえ、死人はよみがえり、貧者は福音に接する。
新共同目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
NIVThe blind receive sight, the lame walk, those who have leprosy are cured, the deaf hear, the dead are raised, and the good news is preached to the poor.

11章6節 おほよそ(われ)(つまづ)かぬ(もの)幸福(さいはひ)なり』[引照]

口語訳わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
塚本訳わたしにつまずかぬ者は幸いである。」
前田訳さいわいなのはわたしにつまずかぬ人!」と。
新共同わたしにつまずかない人は幸いである。」
NIVBlessed is the man who does not fall away on account of me."
註解: あたかもイザヤが各所においてキリストはかくあるべしと預言せるごとき(引照を見よ)事実が今イエスによりて眼前に行われているのを見、又人の噂を聞くことができる以上、このことをヨハネに告げさえすれば彼はイエスのキリストに在し給うことを知り得るはずであった。すなわち「貧しく」憐むべく、患み悲しむ者は恵みを受けて慰められ、又これに加えて福音を聞かせられ、その心は富み、かつ慰められている、しかも御自身は貧しく患み苦しみ給う。これを見てイエスのキリストに在し給うことを知り心を安んずるべきであった。ゆえにイエスが直ちに地上に神の国を建て給わずとて、その信仰を失い彼に躓く者は不孝である。イエスをもって単に地上の成功や幸福を与うる偶像と見做(みな)さんとするものは彼に躓くものである。

11章7節 (かれ)らの(かへ)りたるをり、ヨハネの(こと)群衆(ぐんじゅう)[()()で]((かた)(はじ)め)たまふ[引照]

口語訳彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。
塚本訳ヨハネの弟子たちがかえってゆくと、イエスは群衆にヨハネのことを話し出された。──「(さきごろ)あなた達は何を眺めようとして、荒野(のヨハネの所)に出かけたのか。風にそよぐ葦だったのか。(まさかそうではあるまい。)
前田訳使いが去ると、イエスは群衆にヨハネについて話しだされた、「何を見にあなた方は荒野に出たのか。風にそよぐ葦か。
新共同ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
NIVAs John's disciples were leaving, Jesus began to speak to the crowd about John: "What did you go out into the desert to see? A reed swayed by the wind?
註解: この世は人を面前に褒めて背後に非難し、神はその反対を行い給う(B1)

『なんぢら(なに)(なが)めんとて()()でし、(かぜ)にそよぐ(あし)なるか。

註解: 「汝らはヨハネを見んとてヨルダンに赴いたであろうが一体彼を何人と思っているのであるか、彼を順逆(じゅんぎゃく)の風のままに動く葦のごとく優柔不断の妥協的人物と思っているのであるか、決してそうではない」。

11章8節 さらば(なに)()んとて()でし、(やはら)かき(ころも)()たる(ひと)なるか。()よ、やはらかき(ころも)()たる(もの)は、(わう)(いへ)()り。[引照]

口語訳では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。
塚本訳それでは、何を見ようとして出かけたのか。柔らかいものを着ている人か。見よ、柔らかいものをまとった人ならば、王の御殿にいる。
前田訳そのほか何を見に出かけたのか。柔らかいものを着た人か。見よ、柔らかいものをまとった人なら王宮にいる。
新共同では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
NIVIf not, what did you go out to see? A man dressed in fine clothes? No, those who wear fine clothes are in kings' palaces.
註解: 「又或はメシヤは王として王宮に住むべく彼はメシヤの先駆者であるから同じく美衣を着ているだろうと思っているのであるか、かかる人を見んと欲せば野に出でずして王宮に行け」。いずれの時代にも栄華に酔いおる者の中にメシヤおよびその輩を見出すことができない。

11章9節 さらば(なに)のために()でし、預言者(よげんしゃ)()んとてか。(しか)り、(なんぢ)らに()ぐ、預言者(よげんしゃ)よりも(まさ)(もの)なり。[引照]

口語訳では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。
塚本訳それでは、何のために出かけたのか。預言者を見るためか。そうだ、わたしは言う、(預言者だ。)預言者以上の者(を見たの)だ。
前田訳そのほか何のために出かけたのか。預言者を見にか。しかり、わたしはいう、(あなた方が見たのは)預言者以上のものである。
新共同では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
NIVThen what did you go out to see? A prophet? Yes, I tell you, and more than a prophet.
註解: 来り給うべきキリストにつき預言せし預言者たちよりも、キリストの途を備えその先駆者となり、イエスをキリストなりと指示したヨハネは遥かに勝っているものであった。

11章10節 ()よ、わが使(つかひ)をなんぢの(かほ)(まへ)につかはす。(かれ)はなんぢの(まへ)に、なんぢの(みち)をそなへん」と(しる)されたるは()(ひと)なり。[引照]

口語訳『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。
塚本訳“(神は言われる、)『見よ、わたしは使いをやって、あなたの先駆けをさせ、”、あなたの“前に道を準備させる』”、と(聖書に)書いてあるのは、この人のことである。
前田訳彼について書かれてある、『見よ、わたしは使いをやってあなたに先駆けさせる。彼はあなたの前に道をそなえよう』と。
新共同『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
NIVThis is the one about whom it is written: "`I will send my messenger ahead of you, who will prepare your way before you.'
註解: これはエホバの御言であってマラ3:1には「視よ我わが使を遣さんかれ我面の前に道を備えん」とあり、エホバが御自身の来り給うことを示している。キリストはこれを御自身に適用し給い、あたかもエホバがイエスを指して「汝」と言い給えるものとしてこれを引用し給うた。これイエスが神の子に在し給うことを自証し給うたのであって、イエスの神の子に在し給うことの最も有力な証拠の一つである。キリストはヨハネがこの預言に従って生れしことを信じ給うた。

11章11節 (まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(をんな)()みたる(もの)のうち、バプテスマのヨハネより(おほい)なる(もの)(おこ)らざりき。されど天國(てんこく)にて(ちひさ)(もの)も、(かれ)よりは(おほい)なり。[引照]

口語訳あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
塚本訳アーメン、わたしは言う、女の産んだ者の中に、洗礼者ヨハネより大きい者はまだ出たことがない。しかし天の国で一番小さい者でも、彼より大きい。
前田訳本当にいう、女から生まれものの中で洗礼者ヨハネ以上のものは現われなかった。しかし天国で最小のものも彼以上である。
新共同はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
NIVI tell you the truth: Among those born of women there has not risen anyone greater than John the Baptist; yet he who is least in the kingdom of heaven is greater than he.
註解: ここにイエスはヨハネのことを述べ終りて、彼自身の価値につきヨハネと同じ疑問を懐くものもあるべきことを思い、これを群衆に示さんとし給うのが次の数節である。而してその第一歩としてヨハネと天国の民との価値を比較し、女の産みたるもの、すなわち「肉によりて生れしもの」(ヨハ3:6)、「第一の人」(Tコリ15:47)の中にて最も偉大なるヨハネといえども、「霊によりて生れしもの」「第二の人」に比較するならばこれに劣っているのであって、天国の民の価値のいかに高きかを示し、天国それ自身或は天国の王に在し給うイエス御自身のメシヤとしての価値のいかに高きかを暗示し給うた。ゆえに人は努めてこの天国に入らなければならない、而してこの天国の先駆者はこのヨハネである。

11章12節 バプテスマのヨハネの(とき)より(いま)(いた)るまで、天國(てんこく)(はげ)しく()めらる、(はげ)しく()むる(もの)はこれを(うば)ふ。[引照]

口語訳バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
塚本訳とにかく、洗礼者ヨハネの(現れた)時からいままで、天の国は暴力で攻め立てられ、暴力で攻めた者がそれを奪いとっている。
前田訳洗礼者ヨハネの時から今まで、天国は力ずくで攻め立てられ、力ずくのものがそれをかち得る。
新共同彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
NIVFrom the days of John the Baptist until now, the kingdom of heaven has been forcefully advancing, and forceful men lay hold of it.
註解: ヨハネが一度(ひとたび)天国が近付けることを宣伝えて以来、天国に入らんとして熱烈にこれを求むるもの(あたかも暴力をもって人より物を奪う場合のごとくに)ができた、而してかかる者がこの天国に入るのである。▲今の時代には、天国に入るためにかく全力をもってこれを攻める人は非常に少ない。教会は門戸を広く開いて入って来る人を歓迎し、入ろうとしない人をも強いて引き入れる。しかし人はかくして天国に入ることができない。

11章13節 (すべ)ての預言者(よげんしゃ)律法(おきて)との預言(よげん)したるは、ヨハネの(とき)までなり。[引照]

口語訳すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。
塚本訳すべての預言書と律法と[聖書]が預言しているのは、ヨハネ(の現われる時)まで(で、天の国はすでに来ているの)だから。
前田訳すべての預言者や律法が預言したのはヨハネまでである。
新共同すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
NIVFor all the Prophets and the Law prophesied until John.

11章14節 もし(なんぢ)()わが(ことば)をうけんことを(ねが)はば、(きた)るべきエリヤは()(ひと)なり、[引照]

口語訳そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。
塚本訳(今わたしが言ったことを)信ずる気があなた達にあるなら(わかることだが、)ヨハネこそ、(救世主の先駆けとして)来るべき(預言者)エリヤである。
前田訳あなた方が受け入れる気なら、彼こそ来たるべきエリヤである。
新共同あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
NIVAnd if you are willing to accept it, he is the Elijah who was to come.
註解: 「預言者と律法」すなわち旧約聖書の預言したのはヨハネの時までである。すなわちこのヨハネはマラ3:23(口語訳マラ4:5)に預言せられしエリヤであって、ヨハネが旧約と新約との橋渡しをなしているのである。ゆえに天国に入らんとする者はこのヨハネをエリヤとして受くべきであり、ヨハネをエリヤと信ずる者はイエスをキリストとして受くべきである。もし「我が言を受け」てこれを信ぜんと欲する者はかく思わなければならぬ。このイエスの表顕法は自己のメシヤなることを暗示せんがために、ヨハネを明示したのであって、最も巧みなる表顕法である。

11章15節 (みみ)ある(もの)()くべし。[引照]

口語訳耳のある者は聞くがよい。
塚本訳耳のある者は聞け。
前田訳耳あるものは聞け。
新共同耳のある者は聞きなさい。
NIVHe who has ears, let him hear.
註解: 重要なる教訓であって、言葉以外に多くの含蓄がある場合に主は常にこの用語により聴衆の注意を喚起し給うた。

11章16節 われ(いま)()(なに)(なずら)へん、童子(わらべ)市場(いちば)()し、(とも)()びて、[引照]

口語訳今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
塚本訳だが、(気ままな)この時代(の人)を何にたとえようか。子供たちが市場に坐って(嫁入りごっこや弔いごっこをしながら)、こう言って他の子供たちに呼びかけるのに似ている。──
前田訳この世代を何にたとえようか。子どもが広場にすわって互いに呼びあうのに似る。
新共同今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
NIV"To what can I compare this generation? They are like children sitting in the marketplaces and calling out to others:

11章17節 「われら(なんぢ)()のために(ふえ)()きたれど、(なんぢ)(をど)らず、(なげ)きたれど、(なんぢ)(むね)うたざりき」と()ふに()たり。[引照]

口語訳『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
塚本訳笛を吹いたのに、踊ってくれない。弔いの歌をうたったのに、悲しんでくれない。
前田訳われらが笛を吹いたのにあなた方は踊らず、哀歌をうたったのにあなた方はなげかなかった。
新共同『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
NIV"`We played the flute for you, and you did not dance; we sang a dirge, and you did not mourn.'
註解: この代はヨハネによりて予告せられつつイエスが来り給える最も幸なる代でありながら、一般の民衆はこれを冷眼をもって批評しているのは何事であるか。あたかも童子が市場(当時の都市の各処に広場あり市場として用いらる)にありて遊戯をなし喜悦(笛吹き)、悲哀(歎き)等の人生の出来事を演じている場合に、童子の他の者はこれに共鳴して共に踊り、又共に胸打ちて嘆くことをせず唯これを冷評しているがごとき有様である。

11章18節 それは、ヨハネ(きた)りて飮食(のみくひ)せざれば「惡鬼(あくき)()かれたる(もの)なり」といひ、[引照]

口語訳なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
塚本訳なぜならその人たちは、ヨハネが来て飲み食いしないと『悪鬼につかれている』と言い、
前田訳ヨハネが来て食べも飲みもしなかったので、彼は悪霊につかれている、と人々はいい、
新共同ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
NIVFor John came neither eating nor drinking, and they say, `He has a demon.'
註解: すなわちヨハネが禁欲生活を送り自ら正義に立ちて、この世の腐敗を嘆いている場合にこれをもって狂人のごとくに取扱い、全く彼に対する共鳴を持っていない。これは前節の「嘆き」の場合である。

11章19節 (ひと)()(きた)りて飮食(のみくひ)すれば、「()よ、(しょく)(むさぼ)(さけ)(この)(ひと)、また取税人(しゅぜいにん)罪人(つみびと)(とも)なり」と()ふなり。[引照]

口語訳また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
塚本訳人の子(わたし)が来て飲み食いすると、『そら、大飯食いだ、飲兵衛だ、税金取りと罪人の仲間だ』と言うのだから。しかし(神の)知恵の正しいことは、(ヨハネと人の子とによる)その業が証明した。」
前田訳人の子が来て食べ飲みすると、大食漢、酒飲み、取税人、罪びとの友と人々はいう。しかし知恵の正しさはそのわざによって示される」。
新共同人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
NIVThe Son of Man came eating and drinking, and they say, `Here is a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and "sinners."' But wisdom is proved right by her actions."
註解: キリストはヨハネのごとく禁欲主義ではなく、自由に宴会に列し(ヨハ2:2ルカ5:29)、かついわゆる道徳家のごとくに取税人、罪人を忌み嫌わずして彼らを救わんがために彼らと交わり給うた(マタ9:13)。これに対してこの代の人はキリストを非難して享楽主義の罪人の一人としたのである。あたかも童子笛吹けども彼らは踊らないと同じである。

されど智慧(ちゑ)(おの)(わざ)によりて(ただ)しとせらる』

註解: 「智慧」はヨハネ及びキリストの業の源である神の智慧であり「己が業」はその智慧の業で、従ってヨハネ及びキリストの為せる行為を意味するものであろう。すなわちこの世は彼らを理解せずしてこれを非難するとしても、彼らの行動それ自身が彼らの正義の証明者である(4節)。
辞解
[されど智慧は己が業によりて正しとせらる] この一節は難解であって多くの異れる解釈を有っている。尚多くの異本に「智慧は己が子によりて正しとせらる」とあり、この場合には「子」はヨハネ及びキリストを信ずる信仰の子らを意味し、この世の子らはヨハネ、キリストを理解せずこれを拒んでも智慧の子らを正しとすることを意味する。
要義 [キリスト者に対するこの世の不理解]キリストの為し給える御業を見聞せるその時代が既にキリストに対してかかる不理解を示していたとすれば、今日の世界がキリスト者に対して同様又はその以上の不理解を示すことは、むしろあまりに当然であると言わなければならぬ。ゆえに我らは自己の信仰を犠牲にして、この世の理解を求めてはならない。むしろこの世に理解せられずにいることが、我らの信仰のキリストの福音に叶うことを示しているものと見るベきであろう。しかしながら智慧は結局空しきに帰するものではなく、キリスト者の信仰は結局その業によりて心ある人々の認める処となるのである。「徳孤ならず必ず隣あり」ヨハネやキリストの受けし運命が、又我らの運命であることを思うべきである。

5-1-ロ 悔改めざる町の審判 11:20 - 11:24
(ルカ10:13-15)   

11章20節 (ここ)にイエス(おほ)くの能力(ちから)ある(わざ)(おこな)(たま)へる町々(まちまち)悔改(くいあらた)めぬによりて、(これ)()めはじめ(たま)ふ、[引照]

口語訳それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。
塚本訳それから、数多くの奇蹟を行っていただいた町々が悔改めなかったので、これを叱り始められた、
前田訳そのころのこと、彼の奇跡がもっとも多くなされた町々が悔い改めなかったのを責めはじめられた。
新共同それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
NIVThen Jesus began to denounce the cities in which most of his miracles had been performed, because they did not repent.
註解: キリストの御業を見たのみでヨハネすら尚疑惑をいだく位であったのを見れば、一般の町々の悔改めないのも当然である、ここにおいてイエスはこれを「責め始め」給うた。神に対する反逆を責めることができない者は怯懦(きょうだ)である。而してイエスのこの審判は最後の審判で完うせられるであろう。

11章21節 禍害(わざはひ)なる(かな)コラジンよ、禍害(わざはひ)なる(かな)ベツサイダよ、(なんぢ)らの(うち)にて(おこな)ひたる能力(ちから)ある(わざ)を、ツロとシドンとにて(おこな)ひしならば、(かれ)らは(はや)荒布(あらぬの)()(はひ)(うち)にて悔改(くいあらた)めしならん。[引照]

口語訳「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
塚本訳「ああ禍だ、お前コラジン!ああ禍だ、お前ベツサイダ!わたしがお前たちの所で行っただけの奇蹟をツロやシドンで行ったなら、(あの堕落町でも、)とうの昔に粗布を着、灰の中で悔改めたにちがいないのだから。
前田訳「呪われよ、コラジン、呪われよ、ベツサイダ。もしツロとシドンでおまえらのところでなされた奇跡がなされたなら、彼らはずっと前にぼろを着て灰の中で悔い改めたろう。
新共同「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
NIV"Woe to you, Korazin! Woe to you, Bethsaida! If the miracles that were performed in you had been performed in Tyre and Sidon, they would have repented long ago in sackcloth and ashes.

11章22節 されば(なんぢ)らに()ぐ、審判(さばき)()にはツロとシドンとのかた(なんぢ)()よりも()(やす)からん。[引照]

口語訳しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
塚本訳ところでお前たちに言うが、裁きの日には、ツロやシドンの方が、まだお前たちよりも罰が軽いであろう。
前田訳加えていうが、ツロとシドンのほうが裁きの日にはおまえらより罰が軽かろう。
新共同しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
NIVBut I tell you, it will be more bearable for Tyre and Sidon on the day of judgment than for you.
註解: コラジンとベツサイダはイエスの住み給いしカペナウムに近き町であった。イエスがここにて「能力ある業」すなわち奇蹟を行い給える記事は福音書にはないけれども事実はあったのであろう。ツロとシドンは異教の町で海港であり風俗の紊乱(びんらん)せることをもって有名なる場所であった。恩恵を受くることが多いのに悔改めないならその審判は重い。ゆえに悔改むべきはずであるコラジンやペツサイダが悔改めない以上その最後の審判の激しさはツロ、シドンのごとき最も腐敗せる都市にもまさっていることであろう。
辞解
[荒布を着] 荒布は山羊の毛にて造れる粗布で各国語ともこれをザックと称する。日本ではヅックという。ユダヤ人は悲しみ、悔改め等の際にこれを着、頭に「灰を被る」の習慣があった (T列21:27U列6:30ヨブ16:15イザ32:11ヨエ1:8ヨナ3:6) 。

11章23節 カペナウムよ、なんぢは(てん)にまで()げらるべきか、黄泉(よみ)にまで(くだ)らん。(なんぢ)のうちにて(おこな)ひたる能力(ちから)ある(わざ)を、ソドムにて(おこな)ひしならば、今日(けふ)までもかの(まち)(のこ)りしならん。[引照]

口語訳ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。
塚本訳それから、お前カペナウム、(わたしに特別に可愛がられたからとて、)まさか“天にまで挙げられる”などとは思っていないだろうね。(天に挙げられるどころか、)“お前は黄泉にまでたたき落されるであろう。”お前の所で行っただけの奇蹟をソドムで行ったなら、(あの堕落町でも、)きょうまで滅びずにいたにちがいないのだから。
前田訳おまえカペナウムよ、天にまであげられようか、否、地下にまで下されよう。もしソドムでおまえのところでなされた奇跡がなされたなら、それは今日まで残ったろう。
新共同また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
NIVAnd you, Capernaum, will you be lifted up to the skies? No, you will go down to the depths. If the miracles that were performed in you had been performed in Sodom, it would have remained to this day.

11章24節 されば(なんぢ)らに()ぐ、審判(さばき)()にはソドムの()のかた(なんぢ)よりも()(やす)からん』[引照]

口語訳しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。
塚本訳ところでお前たちに言うが、裁きの日には、ソドムの地の方が、まだお前よりも罰が軽いであろう。」
前田訳加えていうが、ソドムの地のほうが、裁きの日にはおまえより罰が軽かろう」。
新共同しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
NIVBut I tell you that it will be more bearable for Sodom on the day of judgment than for you."
註解: イエスの住居地とせられしことによりカペナウムは天的栄誉を得るであろうか、否その悔改めぬ罪より地獄に投込まれるであろう。これらの奇蹟をソドム(マタ10:15註)にて行ったならば、かの町は審判によって亡ぼされるごとき罪を犯さず今日まで残存したであろう、審判の日における汝の罰はソドムにも優りて重いであろう。
要義 [福音を聴きて信ぜざる者の審判]イエス・キリストの福音を聴いたことがないものは、イエスを信ずることができない。しかしながら一度(ひとたび)神の愛に接し、神の子イエスが我らの罪のために十字架に釘き給えることを聞きても、尚これを信ぜざる者の審判は重い。いわんやキリスト者なる名義をも有ちながらイエスの神の子たることを信じない者はなおさらである。しかしながらこれがためには福音が真の意味において宣伝えられなければならない。誤れる福音は福音というべきではないからである(ガラ1:7)。

5-1-ハ イエスの感話と招致 11:25 - 11:30
(ルカ10:21-22)   

11章25節 その(とき)イエス(こた)へて()ひたまふ[引照]

口語訳そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
塚本訳その時イエスは声をはげまして言われた、「天地の主なるお父様、(神の国の秘密に関する)これらのことを(この世の)賢い人、知恵者に隠して、幼児(のような人たち)にあらわされたことを、讃美いたします。
前田訳そのころイエスはいわれた、「感謝します、天と地の主にいます父上、これらのことを知者や賢者に隠して幼子にあらわされましたことを。
新共同そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
NIVAt that time Jesus said, "I praise you, Father, Lord of heaven and earth, because you have hidden these things from the wise and learned, and revealed them to little children.
註解: 「その時」とは一方にガリラヤの諸市の不信にも係わらず、他方に嬰児のごときものが信仰を与えられしを見給える時である。ただしルカ10:21には七十人の弟子の帰れる時を指す。「答える」とはこの神の御計画を示されし無声の言に答え給うたのである(マタ22:1ルカ13:14等)。

(てん)()(しゅ)なる(ちち)よ、われ感謝(かんしゃ)す、(これ)()のことを(かしこ)(もの)(さと)(もの)にかくして、嬰兒(みどりご)(あらは)(たま)へり。

註解: イエスは驚くべき神の御計画を讃頌(さんしょう)し給うた(「感謝す」は適訳ではない)。すなわち神の国の真理が学者やパリサイ人等のごとき、又は祭司や神学博士のごとき自己の智慧に誇っている人々に啓示さるべきもののごとくであるのに、そのことなくして、かえってこれをガリラヤの漁夫のごとき嬰児に顕わし給うたことである。
辞解
[(かしこ)き者] 学問見識の優れたる者
[(さと)き者] 処世上の智慧に富める者
[かくす] 主隠し給うならば、何人もこれを覚ることができず、主「あらわし」給えば嬰児もこれを覚ることができる。

11章26節 (ちち)よ、(しか)り、かくの(ごと)きは御意(みこころ)(かな)へるなり。[引照]

口語訳父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
塚本訳ほんとうに、お父様、そうなるのがあなたの御心でした。
前田訳しかり、父上、それはあなたのみ心でした――
新共同そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
NIVYes, Father, for this was your good pleasure.
註解: (かしこ)き者、(さと)き者が自己の学識智慧(ちえ)によりて神の国のことどもを知ることは、神の御心ではない、これ彼らが誇ること有らんことを憂え給うたのである。その反対に神は嬰児のごときものが信仰によりて神を知ることを欲し給うた(Tコリ1:21)。

11章27節 すべての(もの)(われ)わが(ちち)より(ゆだ)ねられたり。()()(もの)(ちち)(ほか)になく、(ちち)をしる(もの)()または()(ほっ)するままに(あらは)すところの(もの)(ほか)になし。[引照]

口語訳すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
塚本訳──(知恵も力も、その他)一切のものが父上からわたしに任せられた。父上のほかに、子(であるわたし)を知る者は一人もなく、また、子と、子が(父上を)あらわしてやる者とのほかに、父上を知る者は一人もない。
前田訳すべては父上からわたしにゆだねられている。父上のほか子を知るものはなく、子と、子が父上をあらわそうとするもののほか、父上を知るものはない。
新共同すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
NIV"All things have been committed to me by my Father. No one knows the Son except the Father, and no one knows the Father except the Son and those to whom the Son chooses to reveal him.
註解: 父なる神は天地の万物(勿論人間をも)をキリストに委ね給うた。ここに父と子とのみが働き給う世界があるのである。而して父のみがその子イエス・キリストを知り給い、又イエス・キリストのみが誠に父を知り給う。而してイエスがその御旨のままに父なる神を顕わし給う場合には、いかなる嬰児も父なる神を知ることができるのである。然らばイエスはいかなる者に父を示さんことを欲し給うであろうか、これ28−30節の招致である。▲「者の外」は「子及び子が之に顕さんと欲する者の外」と訳すべき語。

11章28節 (すべ)(らう)する(もの)重荷(おもに)()(もの)、われに(きた)れ、われ(なんぢ)らを(やす)ません。[引照]

口語訳すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
塚本訳さあ、疲れている者、重荷を負っている者はだれでも、わたしの所に来なさい、休ませてあげよう。
前田訳すべて疲れたもの、重荷を負うものは、わたしのところに来たれ。休ませてあげよう。
新共同疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
NIV"Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest.
註解: 人は皆罪の重荷を負うて労している。この世の不幸患難は皆この罪の結果である。我らもまたその一人であって皆この「凡て」の中に包含せられイエスの招致に預っている者である。かかる者に向ってイエスは教会に来れとか神学に来れとか聖書に来れとかは言い給わず、自らその愛の御手を伸べて「我」に来れと言い給う。而して彼に行く者に安息を約束し給うのである。イエスの愛は常にかかる者の上に注がれ、かかる者に父を顕わし給う。

11章29節 (われ)柔和(にうわ)にして(こころ)(ひく)ければ、()(くびき)()ひて(われ)(まな)べ、さらば靈魂(たましひ)休息(やすみ)()ん。[引照]

口語訳わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
塚本訳わたしは心がやさしく、高ぶらないから、わたしの軛を負ってわたしの弟子になりなさい、そうすれば“魂の休息が得られよう。”
前田訳わたしは柔和で高ぶらないから、わが軛(くびき)を取ってわたしに学びなさい。そうすれば心にいこいを得よう。
新共同わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
NIVTake my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and humble in heart, and you will find rest for your souls.
註解: キリストは我らと共に同じくびきを負うことを望み給う。彼は柔和と(ひく)き心をもて事実上我らの重荷を御自身に負い給い、我らに対しては我らの耐え得るだけの力を尽くさんことを命じ給うのである。我ら自らの罪の重荷を負う間は我らは到底これに耐え得ないことが明かであって、唯絶望より外にない。然るにキリスト我らの代りに我らの罪を荷い給う時、我らの心に始めて休息が与えられる。唯我らはキリストと相並びて同じくびきを負い、キリストの為し給うままにこれに学ぶ事をもって足るのである。これが信者の生活の本体である。
辞解
[くびき] パレスチナに用いられるくびきは十字形を為し、その下に二頭の牛馬を相並べて繋ぎ、共にこのくびきを負わしめるのである(Uコリ6:14)。この場合に極めて適切なる比喩である。而してキリストの力が強いために我らは唯彼に学ぶのみであって、力を用いる必要は少ないこととなるのである。唯我らの全力を尽くしさえするならば、キリストはその足らざる処をすべて補い給う、これにまされる心の休息はない。

11章30節 わが(くびき)(やす)く、わが()(かろ)ければなり』[引照]

口語訳わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
塚本訳わたしの軛は甘く、わたしの荷は軽い。」
前田訳わが軛はやさしく、わが荷は軽いから」と。
新共同わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
NIVFor my yoke is easy and my burden is light."
註解: キリストと共にくびきを負い荷を()く者はそのいかに易く軽いかを経験することができる。何となれば彼自ら我らの重きを負い給うのみならず、我らに力を与えて我らを強くし、これによりていかなるくびきも、いかなる重荷も苦痛なしにこれを負うことを得しめ給うからである。
要義 [イエスに来れ]ここに万民に対する大なる福音が示されたのである。すべて生をこの呪咀(のろ)われし地上に()けおる者にして一人だに労苦、煩悶がない者がない。而してこれを除く方法がもし或は学問智慧等の助けを借りるの必要があるとしたならば、大多数の人は遂にその重荷を卸すことができないであろう。しかるにイエスは唯その洪大無辺の愛をもて「重荷を負える者労する者我に来れ」と命じ給う、他に何らの条件を要しない。而して我ら彼に行く時、彼は柔和なる心と(へりくだ)りたる心とをもて、我らと相並びて軛を負い給うのである。彼は高座より我らに「罪を除けよ」と命じ給わない。我と共に我が罪の重荷を負い給う。而して彼は遂に我らの罪の重荷を負うて、十字架にまでつき給うた。我らは唯彼に学ぶことをもって足るのである。何たる休息であろうか。我ら彼の力と愛とにすべてを委ねて、全く不安なく絶望なき平和なる生活を送ることができるのである。イエスを離れて小なる患難も耐え難き重荷であり、イエスに在りて最大の患難も極めて軽き荷たるに過ぎない。

マタイ伝第12章
5-2 パリサイ派等イエスの反対す 12:1 - 12:50
5-2-イ 安息日について 12:1 - 12:8
(マコ2:23-28) (ルカ6:1-5)  

12章1節 その(ころ)イエス安息(あんそく)(にち)(むぎ)(はたけ)をとほり(たま)ひしに、弟子(でし)たち()ゑて()()み、(くら)(はじ)めたるを、[引照]

口語訳そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
塚本訳そのころ、ある安息日にイエスは麦畑の中を通られた。弟子たちは空腹を覚えたので、穂を摘んで食べ始めた。
前田訳そのころイエスは安息日に麦畑を通り抜けられた。弟子たちはひもじかったので麦穂を摘んで食べはじめた。
新共同そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
NIVAt that time Jesus went through the grainfields on the Sabbath. His disciples were hungry and began to pick some heads of grain and eat them.

12章2節 パリサイ(びと)()てイエスに()ふ『()よ、なんぢの弟子(でし)安息(あんそく)(にち)()まじき(こと)をなす』[引照]

口語訳パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
塚本訳パリサイ人が見てイエスに言った、「あなたの弟子は、あんな、安息日にしてはならぬことをしている。」
前田訳それを見てパリサイ人が彼にいった、「あのように、あなたの弟子たちは安息日にしてならぬことをしています」と。
新共同ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
NIVWhen the Pharisees saw this, they said to him, "Look! Your disciples are doing what is unlawful on the Sabbath."
註解: ユダヤ人は申23:25により平日に他人の麦畑にて穂を摘むことを許されていたけれども、出16:22の精神を敷衍し、その後タルムッド等に次第に詳細に規定せられし処によれば安息日には穂を摘むことを禁じられていた。イエスの弟子達は、これを無視するほど自由なる思想を有っていたけれども、伝統の墨守をもって何よりも重要なことと信じている盲目なるパリサイ人にとっては、これは非常なる冒涜の行為に見えた。従って早速彼らの咎むる処となったのである。▲伝統に盲従し、これを墨守することが往々にして信仰の主体であるごとくに考えられ易いものである。カトリック的信仰もこの種に属する。
辞解
[安息日に為すまじき事] 当時安息日に為すまじき事柄を三十九と定め、その各々が又六つの細目に区別せられ、これらを安息日に行うことを禁じていた(S1)。

12章3節 (かれ)らに()(たま)ふ『ダビデがその(ともな)へる人々(ひとびと)とともに()ゑしとき、()しし(こと)()まぬか。[引照]

口語訳そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
塚本訳イエスが言われた、「あなた達は、ダビデ(王)と供の者とが空腹の時に何をしたか、(聖書で)読んだことがないのか。
前田訳イエスはいわれた、「ダビデとお伴がひもじかったとき何をしたか読まなかったのか。
新共同そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
NIVHe answered, "Haven't you read what David did when he and his companions were hungry?

12章4節 (すなは)(かみ)(いへ)()りて、祭司(さいし)のほかは、(おのれ)もその(ともな)へる人々(ひとびと)(くら)ふまじき(そなへ)のパンを(くら)へり。[引照]

口語訳すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
塚本訳──彼が神の家に入って、ただ祭司のほかはだれも、自分も供の者も食べてはならない“供えのパンを”(彼らと)食べたことを。
前田訳どうして彼は神の家に入って供えのパンを食べたか、それは祭司だけは別として、ダビデにもお伴にもゆるされぬことであったのに。
新共同神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
NIVHe entered the house of God, and he and his companions ate the consecrated bread--which was not lawful for them to do, but only for the priests.
註解: イエスがいかに聖書に通じ給えるかの一つの証拠である。ユダヤ人はダビデを尊敬し、その行為を非難する者がなかった。ゆえにイエスはTサム21:4−7を引用して弟子の行為の正しきことを教え給うたのである。
辞解
[神の家] 宮が建てられる前で幕屋を指したものである。
[供のパン] 幕屋の金の案の上に二累に積上げし十二のパンであって安息日ごとに引換えられた(レビ24:5)。

12章5節 また安息(あんそく)(にち)祭司(さいし)らは(みや)(うち)にて安息(あんそく)(にち)(をか)せども、(つみ)なきことを律法(おきて)にて()まぬか。[引照]

口語訳また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
塚本訳また、祭司は安息日に宮で(いろいろな務めをして)安息日を犯しても罪にならぬことを、律法で読んだことがないのか。
前田訳律法で読まなかったか、祭司は宮で安息日を犯しても罪に問われないことを。
新共同安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
NIVOr haven't you read in the Law that on the Sabbath the priests in the temple desecrate the day and yet are innocent?

12章6節 われ(なんぢ)らに()ぐ、(みや)より(おほい)なる(もの)ここに()り。[引照]

口語訳あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
塚本訳わたしは言う、(ダビデ王よりも、祭司よりも、)宮よりも大きい者が(今)ここにいる。
前田訳わたしはいうが、宮以上のものがここにいる。
新共同言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
NIVI tell you that one greater than the temple is here.
註解: 民28:9、10によれば燔祭は安息日にもこれを行わなければならないこととなっており、すなわち神の宮の中にて神に仕うるため祭司らは、一見安息日に反するごときことを行っていたけれども罪がなかった。キリストは宮より大なるものであった(神は手にて造れる宮に住み給わないけれどもキリストの中に住み給い、民は宮において神に近付いたのであるが、キリスト者はキリストに在りて一層近く神に接することができる)。ゆえに彼の祭司たる弟子らはキリストに仕うるために外形上安息日を犯しても罪なきは当然である。

12章7節 「われ憐憫(あはれみ)(この)みて犧牲(いけにへ)(この)まず」とは、如何(いか)なる(こころ)かを(なんぢ)()りたらんには、(つみ)なき(もの)(つみ)せざりしならん。[引照]

口語訳『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
塚本訳もしあなた達に、“わたしは憐れみを好み、犠牲を好まない”という(神の言葉の)意味がわかっていたなら、罪もないこの人たちを(安息日違犯だと言って)咎め立てしなかったであろうに。
前田訳もしあなたが、わが欲するはあわれみでいけにえでない、が何のことか知っていたら、罪のないものを責めなかったろう。
新共同もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
NIVIf you had known what these words mean, `I desire mercy, not sacrifice,' you would not have condemned the innocent.
註解: 「この聖句、ホセ6:6の示すごとく神は形式的祭祀を好まず憐憫の心を好み給う。ゆえに汝らも罪なき弟子らをば愛と憐憫とをもって扱い、飢えたる彼らのために食を与うべきである。然らば彼らが形式的に律法に従わないとの理由のみで、彼らを罰することはしないであろう」(マタ9:13註)。

12章8節 それ(ひと)()安息(あんそく)(にち)(しゅ)たるなり』[引照]

口語訳人の子は安息日の主である」。
塚本訳(わたしの弟子たちに罪はない。)人の子(わたし)は安息日の主人であるから。」
前田訳人の子は安息日の主であるから」と。
新共同人の子は安息日の主なのである。」
NIVFor the Son of Man is Lord of the Sabbath."
註解: キリストはすべての律法の上に立ち給い、彼自身律法の主又安息日の主に在し給う、律法も安息日も彼の精神に従うことによりて完全にこれを守ることができる。ゆえに彼に従うことが律法に従う所以であって、彼を離れて律法に従うことができない。安息日の律法も彼によりて支配さるべきであって彼がこれに支配さるべきではない。ゆえに彼の許しによりて行える弟子らの行動は律法に叶っているのである。
要義 [安息日問題]イエスは弟子らが、安息日に関する律法の形式に違反することを許し給えるのみならず、またしばしば安息日に病める者を癒し給うた。マタ12:9以下の治癒を始め マコ1:21マコ1:29ルカ13:14ルカ14:1ヨハ5:9ヨハ9:14 等、ことさらに安息日を選んで病を癒し給えるがごとくに思われるほどである。而してパリサイ人らがその都度これに反対していたのであって、イエスは勿論この反対を予期しつつこれを為し給うたことは意味多き事柄である。蓋し当時のパリサイ人らは律法をもって愛以上に置いていた。憐憫を好まずして儀式を好んでいた。かくして律法の真の精神は蹂躙(じゅうりん)せられ、偽善が支配するに至ったのである。かかる場合においては彼らを教えんがためにことさらにこの形式を破壊することが必要であった。イエスはここにその身に及ぶ非難を冒して取税人、罪人らと共に食事し、今またその身を襲う危険を冒して安息日の形式を破り給うたのである。「我律法また預言者を毀つために来れりと思うな、毀たんとて来たらず、反って成就せん為なり」(マタ5:17)とはこの意味であって、一見律法破壊のごとく見えたイエスの行為がかえってこれを成就する所以であったのである。我らもまたこの意味において律法を成就しなければならぬ。

5-2-ロ イエス安息日に治癒し給う 12:9 - 12:14
(マコ3:1-6) (ルカ6:6-11)  

12章9節 イエス此處(ここ)()りて、(かれ)らの會堂(くわいだう)()(たま)ひしに、[引照]

口語訳イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。
塚本訳そこを去って、(ある安息日に)礼拝堂に入られた。
前田訳そこから移って彼らの会堂に入られた。
新共同イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
NIVGoing on from that place, he went into their synagogue,

12章10節 ()よ、片手(かたて)なえたる(ひと)あり。人々(ひとびと)イエスを(うった)へんと(おも)ひ、()ひていふ『安息(あんそく)(にち)(ひと)(いや)すことは()きか』[引照]

口語訳すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。
塚本訳するとそこに、片手のなえた人がいた。(パリサイ派の)人々がイエスに、「安息日に病気をなおすことは正しいだろうか」と尋ねた。イエスを訴え出る(口実を見つける)ためであった。
前田訳すると見よ、片手のなえた人がいた。彼らは問うた、「安息日にいやしがゆるされますか」と。彼を訴えるための問いであった。
新共同すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
NIVand a man with a shriveled hand was there. Looking for a reason to accuse Jesus, they asked him, "Is it lawful to heal on the Sabbath?"
註解: これは学者・パリサイ人らの質問であった(ルカ)。彼らはイエスを訴うることをもって律法の擁護と考えていた。愛なき者は正義を行うと信じて罪を犯している。伝統は、生命の危機に関せざるものを安息日に癒すことを禁じていた。◎注意 ルカには時期及び事柄の順序やや異なる。

12章11節 (かれ)らに、()ひたまふ『(なんぢ)()のうち一匹(いっぴき)(ひつじ)をもてる(もの)あらんに、もし安息(あんそく)(にち)(あな)(おちい)らば、(これ)()りあげぬか。[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。
塚本訳彼らにこたえられた、「あなた達のうちには羊を一匹持っていて、もしそれが安息日に穴に落ち込めば、引っぱり上げてやらない者がだれかあるだろうか。
前田訳彼はいわれた、「あなた方のだれかが羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちれば、それを捕えて引きあげないか。
新共同そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
NIVHe said to them, "If any of you has a sheep and it falls into a pit on the Sabbath, will you not take hold of it and lift it out?

12章12節 (ひと)(ひつじ)より(すぐ)るること如何(いか)ばかりぞ。さらば安息(あんそく)(にち)(ぜん)をなすは()し』[引照]

口語訳人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。
塚本訳ところで、人間は羊よりもどれだけ大切だか知れない。だから安息日に良いことをするのは正しい。」
前田訳人が羊にまさることはいかほどか。それゆえ安息日にいいことをして結構」と。
新共同人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
NIVHow much more valuable is a man than a sheep! Therefore it is lawful to do good on the Sabbath."
註解: 当時はこの羊のごとき場合に、これを穴より救い出すことを当然のことと思っていた。イエスはこの例をもって羊よりも遥かに優れる人間を癒すことは何の差支えもなく、善事を為すことを禁ずる律法はないことを示し給う。恐るべきものは律法主義の堕落である。これによりて人は自明の理すらこれを忘れるに至るのである。

12章13節 ここにかの(ひと)()(たま)ふ『なんぢの()()べよ』かれ()べたれば、(ほか)()のごとく()ゆ。[引照]

口語訳そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。
塚本訳それからその人に言われる、「手をのばせ。」のばすと直って、片方の手のようによくなった。
前田訳そこでその人にいわれる、「手をお伸ばし」と。彼は伸ばした。それはいま一方の手のようによくなった。
新共同そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
NIVThen he said to the man, "Stretch out your hand." So he stretched it out and it was completely restored, just as sound as the other.

12章14節 パリサイ(びと)いでていかにしてかイエスを(ほろぼ)さんと(はか)る。[引照]

口語訳パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
塚本訳パリサイ人たちは出ていって、イエスを殺すことを決議した。
前田訳パリサイ人は外へ出て、彼をなきものにする相談をした。
新共同ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
NIVBut the Pharisees went out and plotted how they might kill Jesus.
註解: イエスの偉大なる能力に対する嫉視(しっし)と律法に対する無益の熱心より、イエスに対する反対は次第にその勢いを加うるに至っている。

5-2-ハ 隠れたるイエス 12:15 - 12:21
(マコ3:7-12) (ルカ6:17-19)  

12章15節 イエス(これ)()りて此處(ここ)()りたまふ。(おほ)くの(ひと)したがひ(きた)りたれば、ことごとく(これ)(いや)し、[引照]

口語訳イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、
塚本訳イエスはそれと知って、そこを立ちのかれた。すると大勢の者がついて来たので、一人のこらずその病気をなおして、
前田訳イエスはそれを知って立ち去られた。彼に従った人々は多く、彼はそのすべてをいやされた。
新共同イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
NIVAware of this, Jesus withdrew from that place. Many followed him, and he healed all their sick,

12章16節 かつ(われ)(ひと)()らすなと(いまし)(たま)へり。[引照]

口語訳そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。
塚本訳自分のことを世間に知らせるなと戒められた。
前田訳そして彼のことを公にせぬよういましめられた。
新共同御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
NIVwarning them not to tell who he was.
註解: 時来るまではイエスは強いて迫害に身をさらし給わない、これマタ9:16に叶っている。又人に知らせることを望み給わなかった。神癒を吹聴して歩き回る伝道者らはこの主の行いに倣うべきである。

12章17節 これ預言者(よげんしゃ)イザヤによりて()はれたる(ことば)成就(じゃうじゅ)せんためなり。(いは)く、[引照]

口語訳これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
塚本訳預言者イザヤをもって言われた言葉が成就するためであった。──
前田訳これは預言者イザヤのことばが成就するためであった。いわく、
新共同それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
NIVThis was to fulfill what was spoken through the prophet Isaiah:

12章18節 ()よ、わが(えら)びたる()(しもべ)、わが(こころ)(よろこ)()(いつく)しむ(もの)(われ)わが(れい)(かれ)(あた)へん、(かれ)異邦人(いはうじん)正義(ただしき)()(しめ)さん。[引照]

口語訳「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
塚本訳“これがわたしの選んだ僕、心にかなったわたしの最愛の者。わたしは彼にわたしの霊を与え、彼は異教人に(わたしの)正義を告げる。
前田訳「見よ、わがえらびの僕、わが心よろこぶいとしのもの、わが霊を彼に置こう。彼は諸国民に裁きを告げよう。
新共同「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
NIV"Here is my servant whom I have chosen, the one I love, in whom I delight; I will put my Spirit on him, and he will proclaim justice to the nations.
註解: 「我が僕」なる語は「子」の意味もあり旧約聖書においては、モーセ又はメシヤを指す場合に用いられることがある(B1)。ここではキリストがエホバの選べる子であり、神の愛の目的であって神の霊が彼に注がれることマタ13:16、17に記されしごとくである。而して彼は罪悪を裁くことにより異邦人に正義を示すであろう(これはパウロによりて実現した)。
辞解
[正義] 原語クリシス krisis は「審判」の意味である。元訳には「審判」とありこの方が正しく、改訳は二三学者の解釈により意訳したものであろう。

12章19節 (かれ)(あらそ)はず、(さけ)ばず、その(こゑ)大路(おほじ)にて()(もの)なからん。[引照]

口語訳彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
塚本訳彼は争わず、叫ばず、大通りにその声を聞く者もあるまい。
前田訳彼は争いも叫びもせず、だれも通りで彼の声を聞くまい。
新共同彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
NIVHe will not quarrel or cry out; no one will hear his voice in the streets.

12章20節 [正義(ただしき)](審判(さばき))をして()()げしむるまでは、(そこな)へる(あし)()ることなく、(けむ)れる亞麻(あま)()すことなからん。[引照]

口語訳彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
塚本訳傷ついた葦を彼は折らず、くすぶる燈心を消さない、(わたしの)正義に勝利を得させるまでは。
前田訳そこなわれた葦を彼は折らず、くすぶる燈心を消しもすまい、裁きを勝利に導くまでは。
新共同正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
NIVA bruised reed he will not break, and a smoldering wick he will not snuff out, till he leads justice to victory.
註解: メシヤなるイエスの姿は柔和と謙遜そのものであった、大声叱咤、傲慢不遜は彼にはこれを見ることができなかった。(そこな)える葦のごとく心に患みを有ち捨てられるより外になき有様に陥っている者をも折り捨てずにこれを救い、又燃ゆべくして燃え兼ねつつその煙の暗黒の中に(くすぶ)っている心、すなわち良心の光が唯わずかに存するのみであって、何の力も熱もなき心をも絶望に陥らしめず、やがてはこれに熱を与えてこれを燃やし給うのである(マタ11:28、29)。キリストはかかる柔和なる態度をもって「審判が勝を制するまで」すなわち最後の審判において、正義が勝利を得るまで続け給うであろう。

12章21節 異邦人(いはうじん)(かれ)()(のぞみ)をおかん』[引照]

口語訳異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
塚本訳異教人は彼に望みをかけるであろう。”
前田訳諸国民は彼の名に望みをかけよう」と。
新共同異邦人は彼の名に望みをかける。」
NIVIn his name the nations will put their hope."
註解: ゆえにパリサイ人の反対にすら姿を隠し給える柔和なるイエスこそ異邦人の望みに在し、異邦人すら彼によりて救われるに至るのである。◎注意 イザ42:1−6よりの引用であるけれども記憶による引用であって逐語的に一致していない。聖霊の導きによる聖書の引用は逐語的たるを要しない。
要義 [苦難のキリスト]イザ53:1以下におけると同じく、この数節にキリストの真の姿の一面が明らかに示されている。旧約聖書の預言によればメシヤすなわちキリストには二つの姿があった。その一つは栄光のメシヤであって王として世界を支配すべき運命を預言せられ (マタ9:6、7。マタ11:1。エレエレ23:5等) 、他は苦難のメシヤ、卑賤のメシヤである(イザ53:1以下。41:1以下。創4:4ヘブ10:18及び四福音書)。而して世界の王として来り給うべきメシヤは、先ずイエスとして最も(ひく)き姿を取りて、この世に来り給い苦難の中にその生涯を終え給うた。彼の初臨においては世界の王たるべき姿はどこにもこれを見出し得なかった。ゆえに彼に関する旧約聖書の預言は唯その一半のみが実現したに過ぎない。而して他の一半は彼が再び来り給う時に実現するのである。彼の初臨は我らの罪を除かんがためであった。ゆえに罪人となる人類と同じ姿を取りて来り給い、裁くよりも救わんがために来り給うたのである(ヨハ3:17)。彼の再臨は世を支配せんがためである。ゆえに王たるダビデの姿を取って来り給いすべての人類を裁き給うであろう。

5-2-ニ 治癒の奇蹟とパリサイ人の讒侮 12:22 - 12:37
(マコ3:20-30) (ルカ2:14-23)  

12章22節 ここに惡鬼(あくき)()かれたる盲目(めしひ)唖者(おふし)御許(みもと)()(きた)りたれば、(これ)(いや)して、唖者(おふし)(もの)()()ゆるやうに()(たま)ひぬ。[引照]

口語訳そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。
塚本訳そこに、悪鬼につかれた盲の唖をつれて来られたので、それをなおされると、唖が物を言い、目が見えるようになった。
前田訳そのとき目しいで唖者の悪霊つきが連れられて来たので、それをなおされると、唖者が口をきき、目が見えた。
新共同そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
NIVThen they brought him a demon-possessed man who was blind and mute, and Jesus healed him, so that he could both talk and see.

12章23節 群衆(ぐんじゅう)みな(をどろ)きて()ふ『これはダビデの()にあらぬか』[引照]

口語訳すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
塚本訳群衆が皆呆気にとられて言った、「もしかしたらこの人は、ダビデの子ではなかろうか。」
前田訳群衆は皆おどろいていった、「これはダビデの子ではないか」と。
新共同群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
NIVAll the people were astonished and said, "Could this be the Son of David?"
註解: ダビデの子すなわち来るべきメシヤにあらずば、誰がかかる驚くべき業を為すことができようか。数理的高慢と教派的偏見なき未信者の本能的直感が往々最も正確である。今日キリスト教会内に行なわれる虚構の祈りや、虚飾の行為に対して最も敏感なものは未信者である。

12章24節 (しか)るにパリサイ(びと)ききて()ふ『この(ひと)惡鬼(あくき)(かしら)ベルゼブルによらでは、惡鬼(あくき)()(いだ)すことなし』[引照]

口語訳しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。
塚本訳しかしパリサイ人は聞いて、「悪鬼どもの頭ベルゼブル[悪魔]を使わなければ、この人に悪鬼を追い出せるわけがない」と言った。
前田訳しかし、パリサイ人はそれを聞いていった、「悪霊の頭ベルゼブルに頼らずにこの人が悪霊を追い出せるはずはない」と。
新共同しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
NIVBut when the Pharisees heard this, they said, "It is only by Beelzebub, the prince of demons, that this fellow drives out demons."
註解: パリサイ人は既に党派的偏見に捕われていたためにキリストを見誤った、そしてキリストの働きと悪鬼の働きとはかくも相似ているのである。

12章25節 イエス(かれ)らの(おもひ)()りて()(たま)ふ『すべて(わか)(あらそ)(くに)はほろび、(わか)(あらそ)(まち)また(いへ)はたたず。[引照]

口語訳イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。
塚本訳イエスは彼らの考えを知って言われた、「内輪割れをするいかなる国も荒れ果て、内輪割れをするいかなる町も家も立ってゆかない。
前田訳彼らの考えを見抜いていわれた、「内輪もめする王国はすべて滅び、内輪もめする町や家もすべて立たない。
新共同イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
NIVJesus knew their thoughts and said to them, "Every kingdom divided against itself will be ruined, and every city or household divided against itself will not stand.

12章26節 サタンもしサタンを()()さば、(みづか)(わか)(あらそ)ふなり。さらばその(くに)いかで()つべき。[引照]

口語訳もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。
塚本訳(同じように)悪魔が悪魔を追い出しているとすれば、それは(悪魔の国が)内輪で割れたのであるから、どうしてその国が立ってゆこう。(だからわたしが悪鬼どもの頭を使うわけはないではないか。)
前田訳もし悪魔が悪魔を追い出すなら、内輪もめしているから、どうしてその王国は立ちゆこう。
新共同サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
NIVIf Satan drives out Satan, he is divided against himself. How then can his kingdom stand?
註解: サタンの国は厳然として立ち、この世を支配する力を持ち、空中の諸権を握っている(マタ4:11要義参照)。もしその国に内部に分離があるならばかかる力がないであろう。これを見てもサタンを逐い出すものはサタン以上の力であることがわかる。

12章27節 (われ)もしベルゼブルによりて惡鬼(あくき)()()さば、(なんぢ)らの()(ら)は(たれ)によりて(これ)()(いだ)すか。この(ゆゑ)(かれ)らは(なんぢ)らの審判(さばき)(ひと)となるべし。[引照]

口語訳もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
塚本訳それから、(あなた達の言うように)わたしがベルゼブルを使って悪鬼を追い出すとすれば、(同じことをしている)あなた達の弟子は、いったい何を使って(悪鬼を)追い出しているのか。(まさかベルゼブルではあるまい。)だから(このことについては、)あなた達の弟子に裁判官になってもらったがよかろう。
前田訳もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すなら、あなた方の子らは何によって追い出すか。それゆえ彼らこそあなた方の裁き人になろう。
新共同わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
NIVAnd if I drive out demons by Beelzebub, by whom do your people drive them out? So then, they will be your judges.
註解: パリサイ人らの中にもこの当時尚悪魔払いの術が行われていた(マコ9:38)。パリサイ人はこれを神の力によるものと信じていた。ゆえにもしキリストがベルゼベルによりて悪鬼を逐い出すものというならば、彼らの子らをもかく呼ばなければならない。その子らは汝らの正しいか誤っているかを裁くであろう。

12章28節 されど(われ)もし(かみ)(れい)によりて惡鬼(あくき)()()さば、(かみ)(くに)(すで)(なんぢ)らに(いた)れるなり。[引照]

口語訳しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
塚本訳しかし、もし(そうでなく、)わたしが神の霊で悪鬼を追い出しているのであったら、それこそ神の国はもうあなた達のところに来ているのである。
前田訳もしわたしが神の霊によって悪霊を追い出す(という)なら、神の国はあなた方にのぞんでいる。
新共同しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
NIVBut if I drive out demons by the Spirit of God, then the kingdom of God has come upon you.
註解: 神の霊が悪鬼の国を占領し、神の国をそこに建てたのである。メシヤの在す処にそこに神の国がある。▲イエスの霊が支配(basileuô)する処、そこに神の「支配」(basileia)があり、すなわちそこが神の国(basileia)である。

12章29節 (ひと)まづ(つよ)(もの)(しば)らずば、いかで(つよ)(もの)(いへ)()りて、その家財(かざい)(うば)ふことを()ん、(しば)りて(のち)その(いへ)(うば)ふべし。[引照]

口語訳まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。
塚本訳また、まず強い者を縛りあげずに、どうして強い者の家に入って家財道具を掠め取ることが出来ようか。縛ったあとで、その家を掠めるのである。
前田訳強いものの家に入ってその持ちものを奪うにはまず強いものをしばらねばならない。しばってからその家をかすめる。
新共同また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
NIV"Or again, how can anyone enter a strong man's house and carry off his possessions unless he first ties up the strong man? Then he can rob his house.
註解: これと同じくキリストが悪鬼どもを逐い出し給えるは、先ずベルゼブルを縛った証拠ではないか。

12章30節 (われ)(とも)ならぬ(もの)(われ)にそむき、(われ)とともに(あつ)めぬ(もの)(ちら)すなり。[引照]

口語訳わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
塚本訳(だからわたしは言う、ベルゼブルはすでに縛られている。神と悪魔との戦いは始まっている。)わたしの側に立たない者は、わたしに反対する者、わたしと一しょに集めない者は、散らす者である。
前田訳わたしといっしょでないものはわたしに反対し、わたしとともに集めぬものは散らす。
新共同わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
NIV"He who is not with me is against me, and he who does not gather with me scatters.
註解: キリスト者はキリストと共におり、彼と共に収穫を集める任務を有っている。ゆえにこれを為さぬ者はキリスト者ではない。神の国には中立がない。

12章31節 この(ゆゑ)(なんぢ)らに()ぐ、(ひと)(すべ)ての(つみ)(けがし)とは(ゆる)されん、されど御靈(みたま)(けが)すことは(ゆる)されじ。[引照]

口語訳だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
塚本訳(あなた達はわたしをもって働く神の霊の働きをベルゼブルの働きと罵った。)だからわたしは言う、人の(犯す)いかなる罪も冒涜も赦していただけるが、御霊の冒涜は赦されない。
前田訳それゆえいうが、人の罪やけがしはすべてゆるされようが、霊をけがすのはゆるされない。
新共同だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
NIVAnd so I tell you, every sin and blasphemy will be forgiven men, but the blasphemy against the Spirit will not be forgiven.

12章32節 (たれ)にても(ことば)をもて(ひと)()(さから)(もの)(ゆる)されん、されど(ことば)をもて(せい)(れい)(さから)(もの)は、この()にても(しりへ)()にても(ゆる)されじ。[引照]

口語訳また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
塚本訳人の子(わたし)を冒涜する者ですら赦していただけるが、聖霊を冒涜する者は、この世でも来るべき世でも(決して)赦されない。
前田訳人の子にさからうことをいってもゆるされようが、聖霊にさからうことをいえばこの世でも来世でもゆるされない。
新共同人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
NIVAnyone who speaks a word against the Son of Man will be forgiven, but anyone who speaks against the Holy Spirit will not be forgiven, either in this age or in the age to come.
註解: ここにキリストは「聖霊を涜し」「聖霊に逆う」ことを神の御名を涜しキリストに逆うことより重き罪として示している。蓋しパリサイ人らは確かにイエスの治癒の神の霊によるものであることを聖霊によって示されているに関わらず、強いてこれをベルゼベルと呼び、また強いてイエスに逆っているのは、聖霊彼自身がパリサイ人らに働いているにも関わらず、知りつつ故意にこれを涜しこれに逆ったのであって、神を知らずにこれを涜し、キリストを知らずにこれに逆うことに比して非常に大なる罪であり、サタンと全く同質となるのであって永遠に赦される見込みなき罪である。神を涜しキリストに逆らう罪は悔改めることによりて赦される。しかしながら聖霊我らに働く時、これを知りつつも故意にこれを涜しこれに逆うことは最早悔改むる余地もなきサタンの性質であって、(まこと)に恐るべき堕落である。我らはかかる堕落に陥らないように心がけねばならない。

12章33節 (あるひ)()をも()しとし、()をも()しとせよ。(あるひ)()をも()しとし、()をも()しとせよ。()()によりて()らるるなり。[引照]

口語訳木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。
塚本訳木を良いとするなら、その実をも良いとせよ。また、木を悪いとするなら、その実をも悪いとせよ。木(の良し悪し)は実で知られるのである。
前田訳木がよければその実はよく、木が悪ければその実は悪い。木はその実でわかる。
新共同「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
NIV"Make a tree good and its fruit will be good, or make a tree bad and its fruit will be bad, for a tree is recognized by its fruit.
註解: パリサイ人らは聖霊を涜し、これに逆らう悪しき果を()ちながら自ら善き樹を以て任じ、而してキリストを以てその善き果にも関わらず、悪しき果とせんとしているけれどもかかることはあり得ない。

12章34節 (まむし)(すゑ)よ、なんぢら()しき(もの)なるに、(いか)()きことを()()んや。それ(こころ)滿()つるより(くち)()はるるなり。[引照]

口語訳まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
塚本訳蝮の末よ、あなた達(自身)が悪いのに、どうして善いことが言えよう。心にあふれて口に出るのだから。
前田訳まむしの末よ、悪いくせによいことがいえるか、心があふれて口に出るから。
新共同蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
NIVYou brood of vipers, how can you who are evil say anything good? For out of the overflow of the heart the mouth speaks.
註解: イエスはパリサイ人らの言(24節)を責めんがために、これを語ったのであって、悪しき言を出したことはすなわちその心の中に悪が満ちていることを示している。
辞解
[蝮の裔よ] マタ3:7

12章35節 ()(ひと)()(くら)より()(もの)をいだし、()しき(ひと)()しき(くら)より()しき(もの)をいだす。[引照]

口語訳善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
塚本訳善人は(心の)善い倉から善い物を取り出し、悪人は(心の)悪い倉から悪い物を取り出す。
前田訳よい人はよい倉からよいものを出し、悪い人は悪い倉から悪いものを出す。
新共同善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
NIVThe good man brings good things out of the good stored up in him, and the evil man brings evil things out of the evil stored up in him.
註解: 「人、倉、物」すなわち「人、心、言」の三者は常に一致する。

12章36節 われ(なんぢ)らに()ぐ、(ひと)(かた)(すべ)ての(むな)しき(ことば)は、審判(さばき)()(ただ)さるべし。[引照]

口語訳あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
塚本訳わたしは言う、人の話すいかなる無駄言も、(最後の)裁きの日にかならずそれについて責任を問われる。
前田訳わたしはいうが、人の話すむなしいことばはすべて裁きの日にその勘定を取られよう。
新共同言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
NIVBut I tell you that men will have to give account on the day of judgment for every careless word they have spoken.

12章37節 それは(なんぢ)(ことば)によりて()とせられ、(また)(なんぢ)(ことば)によりて(つみ)されるなり』[引照]

口語訳あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。
塚本訳なぜなら、あなたはあなたの言葉で義とされ、あなたの言葉で罪とされるのだから。」
前田訳あなたはみずからのことばで義とされ、みずからのことばで罪とされようから」と。
新共同あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
NIVFor by your words you will be acquitted, and by your words you will be condemned."
註解: 言のみではさほど罪が重くはないと思うのは大なる誤りである。言は心より出で心はその根本の人格と関係している。ゆえに人の語る無駄話は必ず終りの日に裁かれるのである、実に恐るべく謹むべきである。蓋し人の罪されるも義とされるもその言によるからである。かく言いてキリストはパリサイ人がキリストに与えし非難に対し(1)彼ら自身の矛盾より(25−30)、(2)聖霊に対する罪である点より(31−32)及び(3)言はその人の本質を示す点より(33−37)彼を駁撃(ばくげき)し給うた。
要義 [聖霊に対する罪]罪の中の最大なるものはこの罪である。聖霊が我らに明らかに一つの事柄の聖霊の働きであることを啓示し給う時、我らもし何らかの利害のためにこれを否定し、又はこれに逆らうならばこれ聖霊を涜すの罪である。同様にもし聖霊が一つの事柄の聖霊の働きにあらざることを明らかに示し給う時、尚これを固執しているのも明らかに聖霊を涜し、又これに逆らう罪である。今日キリスト教界の実際においてかかる事実があることは懼るべきことであって、この罪は到底赦されることができない。ゆえに我らはいかなる場合にもすべての点において聖霊の指示に従わなければならない。

5-2-ホ イエスを信ぜざるものの審判 12:38 - 12:45
(マコ2:29-32) (ルカ2:24-26)  

12章38節 ここに(ある)學者(がくしゃ)・パリサイ(びと)(こた)へて()ふ『()よ、われら(なんぢ)(しるし)()んことを(ねが)ふ』[引照]

口語訳そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。
塚本訳すると数人の聖書学者とパリサイ人が口を出して、イエスに言った、「先生、(では、神の子である証拠に)あなたの(不思議な)徴を見せてください。」
前田訳そこで何人かの学者とパリサイ人がいった、「先生、あなたの徴(しるし)を見せてください」と。
新共同すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
NIVThen some of the Pharisees and teachers of the law said to him, "Teacher, we want to see a miraculous sign from you."
註解: 「徴」は奇蹟的の能力の発現である。学者パリサイ人らは22節の徴をもって足れりとせず、さらに他の徴を見んことを願った。これ彼らは信仰を求めていたのではなく、イエスを陥れんとする機会を求めていたからである。

12章39節 (こた)へて()ひたまふ『邪曲(よこしま)にして不義(ふぎ)なる()(しるし)(もと)む、されど預言者(よげんしゃ)ヨナの(しるし)のほかに(しるし)(あた)へられじ。[引照]

口語訳すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
塚本訳彼らに答えられた、「この悪い、神を忘れた時代の人は、(信ずるのに)徴をほしがる。しかしこの人たちには、預言者ヨナの徴以外の徴は与えられない。
前田訳彼は答えられた。「悪と不信の世代は徴を求めるが、預言者ヨナの徴のほか徴はこの世代に与えられまい。
新共同イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
NIVHe answered, "A wicked and adulterous generation asks for a miraculous sign! But none will be given it except the sign of the prophet Jonah.
註解: 「不義」は普通「姦淫」と訳される文字で神に対する離反を意味している(ヤコ4:4)。悪念を懐き信仰を失える代は、イエスがこれまで行い給える徴を見ても尚信じない(マタ11:5)のであるから、彼らには最早ヨナの徴(イエスの復活)より外に与えられない、すなわちイエスの御在世中には最早彼ら信仰を得るの機会を失って、遂には異邦人に裁かれるに至るであろう。

12章40節 (すなは)ち「ヨナが三日(みっか)三夜(みよ)大魚(おほうを)(はら)(うち)()りし」ごとく、(ひと)()三日(みっか)三夜(みよ)()(なか)()るべきなり。[引照]

口語訳すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。
塚本訳すなわち“ヨナが三日三晩大きな魚の腹の中にいた”ように、人の子(わたし)も三日三晩地の中におるのである。
前田訳ヨナが三日三夜大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三夜地のふところにいよう。
新共同つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
NIVFor as Jonah was three days and three nights in the belly of a huge fish, so the Son of Man will be three days and three nights in the heart of the earth.
註解: ヨナが三日三夜大魚(海の怪物)の腹中に在りて後に陸に吐き出されしはイエスが三日三夜陰府に下りて後に復活し給えることの型であった、イエスは既にこの時よりその復活を預言し給うた。
辞解
[三日三夜] 精確に言えばイエスが墓にい給いしは一日二夜であった。唯ユダヤにおいては端数を全一日と数うる習慣があるので、金曜の夜より日曜の朝までを三日三夜と言ったのである。
[地の中] 「地の中心」で陰府を意味する。

12章41節 ニネベの(ひと)審判(さばき)のとき(いま)()[の(ひと)]とともに()ちて(これ)(つみ)(さだ)めん、(かれ)らはヨナの()ぶる(ことば)によりて悔改(くいあらた)めたり。()よ、ヨナよりも(まさ)るもの此處(ここ)()り。[引照]

口語訳ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。
塚本訳しかし人々は信じない。(だから)ニネベの人がこの時代の人と一しょに(最後の)裁き(の法廷)にあらわれて、この人たちの罪が決まるであろう。というのは、ニネベの人はヨナの説く言葉に従って悔改めたが、(この人たちは、)いまここにヨナよりも大きい者がいる(のに、その言葉に従わない)からである。
前田訳ニネベの人々は裁きの時にこの世代とともに立ちあがってそれを罪しよう。ヨナの宣教に人々は悔い改めたが、見よ、ヨナ以上のものがここにいる。
新共同ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
NIVThe men of Nineveh will stand up at the judgment with this generation and condemn it; for they repented at the preaching of Jonah, and now one greater than Jonah is here.
註解: 終末の審判に際しては、神の選民にあらざるニネベ人が神の選民たる今の代のユダヤ人を訴えてこれを罪に定めるであろう。何となれば彼らはヨナの宣告によりて悔改め、ユダヤ人はヨナよりも勝れるイエスの宣言と徴とによりて悔改めないからである。

12章42節 (みなみ)女王(にょわう)審判(さばき)のとき(いま)()[の(ひと)]とともに()きて(これ)(つみ)(さだ)めん、(かれ)はソロモンの智慧(ちゑ)()かんとて()(はて)より(きた)れり。()よ、ソロモンよりも(まさ)(もの)ここに()り。[引照]

口語訳南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。
塚本訳また、南の国(シバ)の女王がこの時代の人と一しょに(最後の)裁きの(法廷に)あらわれて、この人たちの罪が決まるであろう。というのは、彼女は地の果てからソロモン(王)の知恵を聞きに(エルサレムに)来たが、(この人たちは、)いまここにソロモンよりも大きい者がいる(のに、それに耳を傾けない)からである。
前田訳南の女王は裁きの時にこの世代とともに現われてそれを罪しよう。彼女は地の果てからソロモンの知恵を聞きに来たが、見よ、ソロモン以上のものがここにいる。
新共同また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
NIVThe Queen of the South will rise at the judgment with this generation and condemn it; for she came from the ends of the earth to listen to Solomon's wisdom, and now one greater than Solomon is here.
註解: 北のニネベの人のみならず南のシバの女王来りて、神の民なるユダヤ人の罪を定めるであろう。これソロモンよりも勝るイエスの無限の智慧を聴かんとせざるその頑迷と高慢とのためである。イエスは以上二つの例をもって、イエスの教えを聴き、その徴を見ても悔改めざるユダヤ人は罪に定められ、彼らが異邦人として(いやし)みつつある者が、この罪を訴うる地位に立つであろうことを示し給うたのである。キリストの名を持つことをもって誇りとするキリスト教国又はキリスト教会員はこれを聞きて自ら顧みなければならない。▲原子爆弾をもって人類を殺戮しようとするキリスト教国は、彼らの卑しむ異教国民によって罪を定められるであろう。

12章43節 (けが)れし(れい)(ひと)()づるときは、(みづ)なき(ところ)(めぐ)りて(やすみ)(もと)む、(しか)して()ず。[引照]

口語訳汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。
塚本訳汚れた霊が(追い出されて)人間から出てゆくと、砂漠をあるき回って休み場所をさがすが見つからない。
前田訳けがれた霊が人から出ると、水のない荒地を通って休み場を求めるが、見つからない。
新共同「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
NIV"When an evil spirit comes out of a man, it goes through arid places seeking rest and does not find it.

12章44節 (すなは)ち「わが()でし(いへ)(かへ)らん」といひ、(かへ)りて、その(いへ)()きて()(きよ)められ、(かざ)られたるを()[引照]

口語訳そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
塚本訳そこで『出てきた自分の家にもどろう』と言って、かえって見ると、空家になっていて、掃除ができて、飾り付けがしてあった。
前田訳そこでいう、『出て来たわが家にもどろう』と。もどると空家で、清め整えられていた。
新共同それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
NIVThen it says, `I will return to the house I left.' When it arrives, it finds the house unoccupied, swept clean and put in order.

12章45節 (つい)()きて(おのれ)より()しき(ほか)(なな)つの(れい)()れきたり、(とも)()りて此處(ここ)()む。されば()(ひと)(のち)(さま)(まへ)よりも()しくなるなり。邪曲(よこしま)なる()()もまた()くの(ごと)くならん』[引照]

口語訳そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。
塚本訳そこで行って、自分よりも悪い、ほかの七つの(汚れた)霊を一しょに連れてきて入りこみ、そこに住む。するとその人のあとの有様は、(追い出す前よりも)もっとひどくなるのである。この悪い時代の人も、それと同様であろう。」
前田訳そこで出かけて自分より悪いほかの七つの霊を連れて入り込んでそこに住む。その人ののちの様は前よりも悪くなる。この悪の世代もそのようになろう」と。
新共同そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
NIVThen it goes and takes with it seven other spirits more wicked than itself, and they go in and live there. And the final condition of that man is worse than the first. That is how it will be with this wicked generation."
註解: ここにイエスは偶像を離れて神に帰せるイスラエルを、穢れし悪魔がその住居であったイスラエルの人々の心より出でしことにたとえている。この悪魔は人の心をその住居とすることを好むのであって従って悪魔の住家である砂漠を巡り歩いても安息の場所がなく、再び己が出でし家に帰り来た、然るにエルサレムは偶像を離れて神に帰したとはいえ、今は神を忘れ、ただ律法と祭祀にのみ専念していた。ゆえにその家は清浄であり立派に飾られているけれども主人なき家であった。イスラエルは神の子イエスを迎えてその主人たらしむるべきであった。彼こそは律法の成就者に在し給うたのである。然るに彼らはイエスを迎うることをしない。ゆえに悪霊はさらに己よりも悪しき霊を引連れてイスラエルの人の心(この代)を支配するであろう。イエスを陥れんとする学者パリサイ人らのごときは、かかる悪霊の住家となった人々である。

5-2-ヘ 真の骨肉 12:46 - 12:50
(マコ3:31-35) (ルカ8:19-21)  

12章46節 イエスなほ群衆(ぐんじゅう)にかたり居給(ゐたま)ふとき、()よ、その(はは)兄弟(きゃうだい)たちと、(かれ)(もの)()はんとて(そと)()つ。[引照]

口語訳イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
塚本訳イエスがまだ群衆に話しておられると、そこにその母と兄弟たちがイエスに話しがあって、外に立っていた。
前田訳まだ彼が群衆に話しておられるとき、見よ、彼の母と兄弟が外に立っていて彼に話したがっていた。
新共同イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
NIVWhile Jesus was still talking to the crowd, his mother and brothers stood outside, wanting to speak to him.
註解: 彼は神のことを思いこれらは人のことを思う。

12章47節 (ある)(ひと)イエスに()ふ『()よ、なんぢの(はは)兄弟(きゃうだい)たちと、(なんぢ)(もの)()はんとて(そと)()てり』[引照]

口語訳それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
塚本訳〔無し〕
前田訳だれかがいった、「あなたの母上と兄弟方が外に立っていて話したがっています」と。
新共同そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
NIVSomeone told him, "Your mother and brothers are standing outside, wanting to speak to you."

12章48節 イエス()げし(もの)(こた)へて()ひたまふ『わが(はは)とは(たれ)ぞ、わが兄弟(きゃうだい)とは(たれ)ぞ』[引照]

口語訳イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。
塚本訳しかしイエスはそのことを知らせた者に、「わたしの母とはだれのことだ、わたしの兄弟とはだれのことだ」と答えて、
前田訳イエスはいわれた、「だれがわが母でだれがわが兄弟か」と。
新共同しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
NIVHe replied to him, "Who is my mother, and who are my brothers?"
註解: 人間としての肉親を軽蔑し給うたのではなく霊の父をさらに重んじ給うたことを示している。

12章49節 かくて()をのべ、弟子(でし)たちを()して()ひたまふ『()よ、これは()(はは)、わが兄弟(きゃうだい)なり。[引照]

口語訳そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
塚本訳弟子たちの上に手をのばして言われた、「ここにいるのが、わたしの母、わたしの兄弟だ。
前田訳そして弟子たちに手を向けていわれた、「これがわが母、わが兄弟。
新共同そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
NIVPointing to his disciples, he said, "Here are my mother and my brothers.

12章50節 (たれ)にても(てん)にいます()(ちち)御意(みこころ)をおこなふ(もの)は、(すなは)()兄弟(きゃうだい)、わが姉妹(しまい)、わが(はは)なり』[引照]

口語訳天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
塚本訳だれでもわたしの天の父上の御心を行う者、それがわたしの兄弟、姉妹、また母であるから。」
前田訳天にいますわが父のみ心を行なうものこそわが兄弟、姉妹また母である」と。
新共同だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
NIVFor whoever does the will of my Father in heaven is my brother and sister and mother."
註解: 霊によりて生れしものは霊によりて父と連なり、肉によりて生れしものは肉によりて父母に連なる。而して霊によりて天の父より生れしものは神の子であって父の御旨を行う者である。かかる者は皆互いに神より生れし霊の一家族である。キリスト者の間の微妙なる親しみは実にこの霊の一家族たることより生れてくるのである。而して真の霊の一家族は父の御言を只「聞く」だけではなく「信ずる者」でも「宣伝うる者」でも「解釈する者」でも又「味わう者」でもなく実にこれを「行う者」である。これが信者の最善の証拠である。
要義 [人間の不信]一時はその教えとその奇蹟とによりて衆望を集め給いしイエスは、学者・パリサイ人らの反対と、民衆の不信とによりて次第に困難の地位に立ち給い、世との反対が益々明らかにされるに至った。人々はイエスの心を解せず、唯少数の者のみ嬰児のごとき信頼を彼に捧ぐるに過ぎなかった。死せる律法を墨守する者はイエスの自由なる愛の律法を理解しなかった。唯父の御意を行わんとするイエスと、この世の思いに満されている人との間には、遂に共通なるあるものを見出すことができなかったのである。かくしてイエスの正義は益々光を発すると共に、彼は益々迫害の中に深入りするに至ったのである。かくして彼の伝道の失敗はこれより益々(はなは)だしきに至り、遂に彼は十字架にまで釘き給うた。しかしながらこの失敗は敗北ではなく勝利であった。これ人間の不信と彼の愛とを示すがためであった。第十三章以下はこの心持をもって読みてこれを了解することができる。