ヘブル書第10章
分類
1 教理の部 1:1 - 10:18
1-5 新約の大祭司の優越 8:1 - 10:18
1-5-ヘ キリストの犠牲は唯一たびにて足る 9:23 - 10:18
註解: 前章23節以下の継続としてキリストの犠牲とイスラエルの犠牲との区別を示し、前者は唯一度にて足り、後者は年々繰返すもなお完全に罪を潔め能わざることを示す。
10章1節 それ
口語訳 | いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。 |
塚本訳 | つまり(モーセ)律法には、(ただキリストがもたらす)来るべき幸福の影があるばかりで、その事の(まことの)姿それ自身がないのである。毎年たえず捧げる同じ(雄牛や雄山羊の)犠牲では、(神に)近づく者[祭司と一般の人](の罪)を(永久に清めて)完全にすることは、決して出来ないからである。 |
前田訳 | そもそも律法は来たるべきよいことの影を持つだけで、ことの像(すがた)自体を持ちません。それで、(律法によって)年ごとに絶えずささげるいけにえでは、み前に近づくものたちをけっして全うしえません。 |
新共同 | いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 |
NIV | The law is only a shadow of the good things that are coming--not the realities themselves. For this reason it can never, by the same sacrifices repeated endlessly year after year, make perfect those who draw near to worship. |
註解: 「来たらんとする善き事」につきてはヘブ9:11註参照。そうして律法は単にその影であって来たらんとする善きことの大体の輪郭を示すに過ぎず、かつ実物が来る時影は存在の必要を失う。「真の形」 eikôn tôn pragmatôn は「実物の像」と訳すべきで実物はすなわち来るべき善き事であり(Z0)、神と共に永遠に生きて神の嗣業を嗣ぐことである。像はその実物の生き写しであって鋳型に対する鋳物のごときものを言うのである。この場合はキリストを指しているのでキリストは「神の像」(コロ1:15)また凡ての善き事の具体化である(コロ1:27。コロ2:3、コロ2:9)。ゆえに律法とキリストとを対照する時、前者は実在性なく一時的でありその形もまた動揺するけれども後者は実在であり永久不変である。故に律法に従って大祭司は「毎年々々」年に一回づつ「たえず」人民の罪の為に犠牲を神に献げているけれどもこれをもっては「神に来る者」すなわち礼拝者を「何時までも」永遠に「全うし」て「神との正しき関係に立たしむること」(Z0)ができない。すなわち律法とこれによって行われし祭事犠牲の目的はキリストを予告するにあった。
10章2節 もし
口語訳 | もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。 |
塚本訳 | もしそうでなければ、捧げることをやめてしまったはずではないか、(犠牲を捧げて)礼拝する者は(それによって)ただ一度清められ、もはやいかなる罪の自覚も持たないわけだから。 |
前田訳 | もし全うしうるならば、礼拝するものは、一度清められて全く罪の意識がなくなりますから、いけにえをやめたはずではありませんか。 |
新共同 | もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。 |
NIV | If it could, would they not have stopped being offered? For the worshipers would have been cleansed once for all, and would no longer have felt guilty for their sins. |
註解: 律法に遵 って犠牲を献げることは罪の意識を消滅させるのに足りない、人が年々犠牲を献げることを止め得ないことはこれを証明する。キリストは全くこれと異なる(9、10節)。ここでは勿論個々の罪につき言っているのではなく全体として神との義 しからざる関係を言っている(Z0)。
辞解
[復 心に罪を憶 えねば] 私訳「もはや罪の意識を有せざれば」。
10章3節
口語訳 | しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。 |
塚本訳 | しかし(事実は反対で)、この犠牲によって(むしろ)毎年罪の記憶が呼びさまされるのである。 |
前田訳 | しかしこれらいけにえによってこそ年ごとに罪の記憶が生まれるのです。 |
新共同 | ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。 |
NIV | But those sacrifices are an annual reminder of sins, |
註解: 第一節と相対立しており、年ごとに献げる犠牲は罪を除き得ざるのみならず反対にかえって年々罪を憶 い起す原因となるのである。律法によりては罪は除かれず益々罪の罪たることを示されるに過ぎない。「憶 ゆる」は各人の心に憶 ゆること、記憶を呼び起すことであって、公けに民の罪を告示すること(B1)ではない。
10章4節 これ
口語訳 | なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。 |
塚本訳 | 雄牛や雄山羊の血は罪を取去ることが出来ないからである。 |
前田訳 | 牡牛や山羊の血は罪を除きえないからです。 |
新共同 | 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。 |
NIV | because it is impossible for the blood of bulls and goats to take away sins. |
註解: 山羊と牡牛との血は唯やがて来り給うキリストの十字架上の血の表徴に過ぎなかった。キリストの血こそは我らの罪を全く除くことができるのであって、これに比し動物の血は全く何らの力がない。ゆえに年々繰返される犠牲は唯罪を憶 えてこれを除くキリストを待望ましむる力たるにすぎない。
10章5節 この
口語訳 | それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。 |
塚本訳 | だからキリストは、(血肉の人として)この世に入ってきたときに言われる、“犠牲や捧げ物を、あなたは好まれず、ただ体をわたしのためにお備えになった。 |
前田訳 | それゆえ、彼はこの世に来られてこう仰せです、「なんじはいけにえとささげものを欲したまわず、体をばわがためにそなえたもうた。 |
新共同 | それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。 |
NIV | Therefore, when Christ came into the world, he said: "Sacrifice and offering you did not desire, but a body you prepared for me; |
註解: ヘブル書の著者は詩40:6その他を引用し、これをキリストの言として掲げたのである。すなわち神の求め給う処のものは犠牲と供物、すなわち儀式礼典ではない(詩50:7−15。イザ1:11−15。エレ6:20。エレ7:21−23。ホセ6:6。アモ5:21−24)、愛をもって己を犠牲とすることである。これがためにキリスト肉体を与えられてこの世に来り給うた。かくしてキリストの受肉は律法による犠牲の為し能わざることを成して(ロマ8:3)律法に対する革命を成就し給うた。
辞解
[世に来る時] (1)公生涯に入り給う時、(2)成年に達し給える時等の解釈があるけれども、(3)キリスト肉体を取ってこの世に来り給える時と見るを可とする。
[わが為に體を備へたまへり] 七十人訳によったのでヘブル語旧約聖書には「我が耳を穿ち給えり」とあり、この差異はあるいは結局意味に大差なく共に神の意思に服従することを意味すとするもの(B1、I0、E0、Z0)と写字の誤りによるとするものとあり(M0、A1)何れとするもヘブル語の著者は七十人訳をそのまま引用し、最も適切なるキリストの預言を見出したのである。
[言ひ給ふ] 現在動詞を用いてこのイエスの言の現在にも適用されることを示す。ただし詩40篇は全体としてメシヤの預言の詩ではない。▲パウロ始め新約時代のユダヤ人には旧約聖書の語句を前後の関係より分離して独立の預言としてこれを利用する習慣があった。一書となって出来上っている聖書そのものを神の言と見る態度である。当時代の人にはこれが強い証明力を有ったのであるが、これを濫用すれば不真理を真理として証明するごとき結果を来たさないとも限らない。我らは聖書が書かれたその信仰的内容を重視しなければならぬ。
口語訳 | あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。 |
塚本訳 | 燔祭や罪祭を、あなたは喜ばれなかった。 |
前田訳 | 燔祭や罪祭はお気に召さなかった。 |
新共同 | あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。 |
NIV | with burnt offerings and sin offerings you were not pleased. |
辞解
[燔祭] レビ1章に詳しく記載されている。全身全霊をことごとく神に献げることの型、種々の場合に燔祭はささげられた(出29:38−42。民18:3−8。民28:9、10。レビ8:18。レビ9:12。レビ12:6、レビ12:8。レビ14:19。レビ15:15、レビ15:30等)。
[罪祭] レビ4章−6章に詳記せらる、罪の贖いのためにささぐる犠牲で種々の場合にささげられた。
10章7節 その
口語訳 | その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。 |
塚本訳 | その時わたしは言った、「見よ、わたしは来ました、──聖書の巻物に、わたしについて書いてある──神よ、御心を行うために!」と。” |
前田訳 | そのときわたしはいった、『見よ、わたしは来た、聖書の巻物にわたしについて書かれているとおり、神よ、み心を行なうために』」と。 |
新共同 | そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」 |
NIV | Then I said, `Here I am--it is written about me in the scroll-- I have come to do your will, O God.'" |
註解: 詩40:7、8の引用の続きで、これをキリストの言と見、キリストの来り給えるは神の好み給わざる燔祭、罪祭のごとき空しき儀式を行わんがためではなく、神の御旨に従いかれの体を犠牲として献げんがためであった。
辞解
[神よ] idou で「視よ」と訳すべきもの。
[書 の卷 ] 聖書のことと解する学者あれどこの詩の作られし時おそらく聖書は完成せざれば、旧約聖書の中その当時に於て存在せし部分を指すものであろう。本文七十人訳と些少 の差異あり、本文の場合に適合するように変更せるもの。▲▲あるいは七十人訳の訳者が原文を見誤ったのか。
10章8節
口語訳 | ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、 |
塚本訳 | 初めには“犠牲や献げ物や燔祭や罪祭を、あなたは好まれず、また喜ばれなかった”と言い──これらは律法にしたがって捧げられるものである── |
前田訳 | まず、「律法に従ってささげられるいけにえとささげものと燔祭と罪祭とをなんじは欲しも好みもしたまわなかった」とあり、 |
新共同 | ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 |
NIV | First he said, "Sacrifices and offerings, burnt offerings and sin offerings you did not desire, nor were you pleased with them" (although the law required them to be made). |
10章9節
口語訳 | 次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。 |
塚本訳 | “その時、見よ、わたしは来ました、御心を行うために!”と言われたのである。(これは)第二のものを立てようとして、第一のものを廃止されるのである。(すなわち律法による捧げ物が御心にかなわないので、キリストは御自身を捧げ物にされた。) |
前田訳 | 次に、「見よ、わたしはみ心を行なうために来た」とあります。彼は第二のものを立てるために第一のものを廃止なさるのです。 |
新共同 | 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 |
NIV | Then he said, "Here I am, I have come to do your will." He sets aside the first to establish the second. |
註解: 5−7節における詩40:6−8の引用をここに二つの部分に区別し前半を旧約の祭事に当て後半をキリストの生涯に当てている。すなわちキリスト来りて神の御旨に循 いその体を犠牲とし給えるは旧約の律法による犠牲の撤廃とキリストによるその完成とのためであった。前者は神の悦び給わざるもの、後者は神の悦び給うものである。
10章10節 この
口語訳 | この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 |
塚本訳 | この(神の)“御心”によって、イエス・キリストの“体が捧げられること”により、わたし達はただ一度かぎりで、きよめられているのである。 |
前田訳 | 神のみ心に従ってわれらはただ一度のイエス・キリストの体というささげものによって清められています。 |
新共同 | この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 |
NIV | And by that will, we have been made holy through the sacrifice of the body of Jesus Christ once for all. |
註解: キリストの十字架の死は完全なる犠牲であった。これによりて我らの罪は凡て赦され洗い潔められた。ゆえに一度をもって我らは凡ての罪より完全に潔められたのである。旧約の犠牲が毎年繰返されてしかも我らを潔め得ないのとは天地の差異がある。たしかにこのキリストの十字架は神の御意の実現であった。
辞解
[一たび] 「潔められ」と関連し「一度に潔められ」と訳すべしとする説がある(M0、Z0)けれども、旧約の犠牲の反復に対しキリストの死の一度限りなることを示すと見る方が優っている(E0、A1)。
10章11節 すべての
口語訳 | こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。 |
塚本訳 | そして──(くどいが、もう一度くり返して言う)──祭司(という祭司)は皆、(聖所に)立って毎日務をし、決して罪を取除くことの出来ない同じ犠牲を幾たびも捧げているのに反して、 |
前田訳 | すべて祭司は日ごと立って礼拝し、たびたび同じいけにえをささげますが、それらはけっして罪を除きえません。 |
新共同 | すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。 |
NIV | Day after day every priest stands and performs his religious duties; again and again he offers the same sacrifices, which can never take away sins. |
註解: (▲本節の訳は口語訳が優っている。)ここに祭司とキリスト(次節)とを比較してその差異を種々の方面より示している、次節註を見よ。
辞解
[日毎に] ヘブ7:27註および辞解参照。
[立ちて] エホバに仕えることは神の前に立ちてこれを行う(申10:8、申17:12 )。
10章12節
口語訳 | しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、 |
塚本訳 | 彼(キリスト)は罪のために(ただ)一つの犠牲(として御自身)を捧げ、(天に入って)たえず“神の右に座っておられ”、 |
前田訳 | しかし彼は罪のためにひとつのいけにえをささげて、とこしえに神の右に座し、 |
新共同 | しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、 |
NIV | But when this priest had offered for all time one sacrifice for sins, he sat down at the right hand of God. |
註解: ▲▲口語訳では「多くの罪」としてあるのは原語の「罪」が複数形であるため。
10章13節
口語訳 | それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。 |
塚本訳 | そのあとは、“彼の敵がその足台にされるまで、”(ただ)待っておられるのである。 |
前田訳 | その後、彼の敵がみ足の台にされるまでお待ちです。 |
新共同 | その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。 |
NIV | Since that time he waits for his enemies to be made his footstool, |
註解: これを前節と比較すれば、(1)祭司はしばしば犠牲をささげるに反してキリストは唯一たびこれをささげ給い、(2)祭司の犠牲は罪を除き得ざるに反しキリストの十字架は完全に人の罪を除き、(3)祭司は日毎に神の前に立ちて仕うに反しキリストは永遠に神の右に坐して支配し給い、(4)祭司の犠牲は「いつまでも」罪を除く見込みなきに反しキリストは凡ての敵を征服してその足台となすのを待ち給う(ヘブ1:13註参照。詩110:1。Tコリ15:22-28)。かかる完全なる救いはこれをキリストの外に見出すことができない。ここにキリストの受肉、十字架、復活、栄化の凡ての方面がこの数節の中に記されることに注意せよ。
10章14節 そは
口語訳 | 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。 |
塚本訳 | なぜなら、彼は(ただ)一つの捧げ物をもって、(その)きよめられた人々を永久に完全にされたからである。 |
前田訳 | 彼はひとつのささげものによって、聖められるものたちをとこしえに全うされました。 |
新共同 | なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。 |
NIV | because by one sacrifice he has made perfect forever those who are being made holy. |
註解: キリストがその犠牲を繰返す必要なしに永遠に神の右に坐し給う理由は本節のごとく「一つの供物」すなわちキリストの十字架上に一度死に給えることによりて「罪より潔められる者」すなわちキリスト者を永遠に全うして罪なき瑕なき者となし神との完全なる霊交に入らしめ給うからである。
口語訳 | 聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、 |
塚本訳 | しかし(このことは)聖霊もわたし達に証しをして、 |
前田訳 | このことは聖霊もわれらに証します。まずいわく、 |
新共同 | 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。 |
NIV | The Holy Spirit also testifies to us about this. First he says: |
10章16節 『「この
口語訳 | 「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、 |
塚本訳 | “「これこそわたしが”彼らと“結ぶ契約である、かの日の後に」と主は言われる、「わたしは彼らの心にわたしの律法を与え、彼らの悟りにそれを書きしるすであろう。」”と言われたあとで、 |
前田訳 | 「『これはかの日の後にわが彼らと立てよう契約』と主はのたもう。わが律法を彼らの心に与え、それを彼らの思いに書きしるそう、 |
新共同 | 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。 |
NIV | "This is the covenant I will make with them after that time, says the Lord. I will put my laws in their hearts, and I will write them on their minds." |
10章17節 『この
口語訳 | さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。 |
塚本訳 | 「“もはや絶対に彼らの罪”と彼らの不法と“を記憶しないであろう”」とつけくわえられたからである。 |
前田訳 | そしてもはや彼らの罪と不法を思い出すまい」とあります。 |
新共同 | もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」 |
NIV | Then he adds: "Their sins and lawless acts I will remember no more." |
註解: 以上のごとくキリストの贖罪が一度にて完全に永遠に成就せられしことは唯自己一人の私見ではなく旧約聖書中に(エレ31:33、34)すでに預言せられている処で、神はすでに予めこのことを預言者の口を通して聖霊をして語らしめ給うたのである。ゆえに著者はこの預言を一層詳しく曩 に引用した(ヘブ8:10−12註参照)のをここに再び掲げたのであって、新約の内容なる霊的信仰と罪の赦しとを強調し、これあるが故にキリストの贖いが完全なるものなることを示している。(注意)この三節は主なる写本によれば次のごとくに訳すべきである(M0、Z0、I0)。「聖霊もまた我らに証せり、そは『この日の後、われ彼らと立つる契約は是なり』と言い給いて後主は『われわが律法を彼らの心に置き彼らの念 に記さん、この後また彼らの罪と不法とを思い出でざるべし』と云い給いたればなり。」異本もあり異説もある。
10章18節 かかる
口語訳 | これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。 |
塚本訳 | (すでに)こんな(罪の)赦しがある以上、もはや罪のための捧げ物(の必要)はない。(旧約による祭司制度も礼拝の行われる聖所も、全然必要がなくなったのである。) |
前田訳 | これらへのゆるしがある以上、もはや罪のためのささげものはありえません。 |
新共同 | 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。 |
NIV | And where these have been forgiven, there is no longer any sacrifice for sin. |
註解: キリストの十字架の贖いによりて旧約の形式的儀式的宗教は終りを告げ、キリストによる霊の自由の福音が心に録されたのである。ゆえに形式的に神に犠牲を献ぐる必要は消滅している。
要義 [キリストによる完全なる罪の赦し]ヘブ4:13以下ここに至るまで、著者は凡ての方面よりキリストの贖いの完全性を示し、これによりて旧約の祭司制度と犠牲と形式的礼拝とを無効に帰せしめているのである。キリストの贖いにより、凡ての信者は何人の中介もなく何らの形式なく如何なる制度の下に属する必要もなしに完全に永遠に直接に神との交わりに入ることができる。これ実に世界の凡ての宗教に対する革命的宣言であった。しかしこれがキリストの精神に外ならない。ユダヤ人のごとくに先天的に制度と形式との下に訓練せられし人々にとってはこの真理は最も受納れ難き真理であったろう。しかしながらそれは唯ユダヤ人のみではない。カトリック教会もプロテスタント教会もなおこの真理に到達していない。
分類
2 薦奨の部 10:19 - 13:17
2-1 信仰持続の必要 10:19 - 10:39
2-1-イ 信望愛のすすめ 10:19 - 10:25
註解: 以上において著者はキリストの福音の中心的真理すなわちキリストについてその本質、その働き、その効果を詳述したる後ここに進んで信者に対する種々の薦奨を与えている。勿論これまでも教理に
挿 んで種々の薦奨を与えていた(ヘブ2:1−4。ヘブ3:1、ヘブ3:12−4:1。ヘブ5:11−14。ヘブ6:1−12)。これらと併せてヘブル書は全体にわたって豊かなる教訓の書であることを見ることができる。唯その用語の特異なるがためにこのことに心付かざる者が多い。
口語訳 | 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 |
塚本訳 | (わたし達は今や旧約の律法から解放されて、新約の時代に入った。)だから、兄弟たちよ、わたし達はイエスの血により、安心して聖所に入ることができるのである。 |
前田訳 | それで、兄弟たちよ、われらはイエスの血によって、はばからず聖所に入りえます。 |
新共同 | それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 |
NIV | Therefore, brothers, since we have confidence to enter the Most Holy Place by the blood of Jesus, |
10章20節 その
口語訳 | 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、 |
塚本訳 | それは(イエスが)わたし達のために開かれた新しい生きた道である。わたし達は(彼自身である)幕、すなわち彼の肉体を通るのである。 |
前田訳 | それは彼の肉体である幕を経て、彼がわれらにお開きの新しい生きた道を通ってです。 |
新共同 | イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。 |
NIV | by a new and living way opened for us through the curtain, that is, his body, |
註解: イエス十字架上にその血を流し給いてこれによりて我らの罪は凡て赦された(ヘブ9:22)、またイエスの肉体は裂かれしことによりて聖所と至聖所とを隔てし幕は裂かれて(マタ27:51)神と人とを隔てし障壁は撤廃せられキリストなる新しき活ける道を通して神と自由に霊の交わりに入るの途が開けた。すでに凡ての罪が赦されて神の前に懼 れをいだくべき原因が除かれ(ロマ8:15)また神に近づく途が開かれし以上我らは、もはや動物の犠牲の血を要せず人間なる祭司の中立 を要せず、直接に個人的に憚 ることなく(自由に)確信して至聖所に入って神に近づくことができる。
辞解
[然れば] ヘブ4:14−10:18を受く。
[兄弟よ] ヘブ3:1以後ここに始めてまたこれを用う。著者の態度の新たまったことを示す。
[肉〔体〕たる幕] 我らの神に近付くことを妨げる者は我らの肉である。キリスト肉となって降り給い、その肉を十字架につけ給うことによって我らの肉も死んだのであって(ロマ5:3)すなわち神との間の障壁が裂かれて通行の自由を得たのである。
[開き給える] enkainizein は開通式、献堂式のごとく始めてこれを使用してその後継続的に使用する場合、例ヘブ9:18。
[新しき] prosphatos は殺したての動物のこと。
[活ける路] 種々の解釈あれど(Z0、M0参照)復活して今も活き給うキリストが路であるとの意と見るべきことと思う(ヨハ14:6)。
[憚 らずして] parrêsia はあるいは「喜ばしき確信」と解し(M0、I0)または「権利または自由」と解す(Z0)。予はこの両者より生ずる大膽さを意味すると解する。
10章21節 かつ
口語訳 | さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、 |
塚本訳 | そして、(わたし達には)“神の家をつかさどる偉大な祭司”があるのである。 |
前田訳 | そして神の家を治める偉大な祭司が、われらにあります。 |
新共同 | 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 |
NIV | and since we have a great priest over the house of God, |
註解: 神に近づき得る第二の条件は神の家なるキリスト者の全体の上に支配権を握り給う大祭司キリストが神の右に坐して我らのために執成 し給うことである。キリストの血も肉も(すなわちその死も)その栄光もみな我らをして神に近づかしむる原因である。
辞解
[大なる祭司] 大祭司に同じ唯これに加うるにヘブ7:1−25のごとく王たるキリストの権威をも含む、ヘブ4:14(Z0)。
[神の家] ヘブ3:6(Z0、B1、I0)。
10章22節
口語訳 | 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。 |
塚本訳 | だからわたし達は誠実な心と、堅い信仰をもって、(神に)近づこうではないか、心は(イエスの血で)洗い浄められて良心の呵責なく、体は(洗礼の)清い水で洗われて。 |
前田訳 | われらは真実の心をもって、信仰にあふれてみ前に進みましょう。われらの心は悪い心がけからすすがれ、体は清い水で洗われています。 |
新共同 | 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 |
NIV | let us draw near to God with a sincere heart in full assurance of faith, having our hearts sprinkled to cleanse us from a guilty conscience and having our bodies washed with pure water. |
註解: 19−21節は神に近づく外的条件で、本節はその内的条件である。すなわちイエスの十字架の血によりて罪の赦しを得ることにより良心は罪の苦悩より解放せられ、またその結果心の不潔は除かれ、肉もまた聖霊(C1)の水によりて潔められ(エゼ36:25)肉と霊の凡ての穢 を去ってしまったのが(Uコリ7:1)キリスト者である。かかる者となった上に少しも虚偽なき誠実なる心と不安を挿 まざる充分なる信仰とをもって我らは神に近づかなければならぬ。
辞解
[濯 ぐ] rantizo 祭壇等に血を振りかけることの意。
[清き水] 多くバプテスマの意味に解するけれども(M0)、むしろ旧約の潔めの式を指すと見るべきである(C1、エゼ36:25)。
[良心の咎 ] 直訳「悪しき良心」。
「身は清き水にて洗わはれ」を次節の「堅く守り」に関係せしむる説あれど(M0)予は取らない(Z0)。
10章23節 また
口語訳 | また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、 |
塚本訳 | また、わたし達は(洗礼のとき)告白した(主の再臨の)希望を、動かさずに守っていようではないか。──(これを)約束された方は忠実であるから。── |
前田訳 | そして希望の告白を堅く保ちましょう、約束なさる方はまことにいましますから。 |
新共同 | 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 |
NIV | Let us hold unswervingly to the hope we profess, for he who promised is faithful. |
註解: 霊をもって神に近付くことを得る者は、この世の生活が如何に困難であり、また希望が薄くなり行かんとする場合でも、やがてキリスト再臨し給いてその救いを完成し給い、目のあたりに彼を見奉ることの希望を堅く保持することがその大切なる仕事である。そして約束し給いし者すなわち神は忠実に在せばこの希望が虚しきに帰するごときことはない。必ずその約束を実行し給う、来生の希望なき者、この希望の告白を確保せざる者は神の忠実さを疑う者である。
辞解
[言いあらはす希望] homologia tês elpidos 直訳「希望の告白」
[忠実] pistos は「信仰」の原語 pistis の形容詞、この忠実なる約束に対して人の信仰が成立つ、すなわち誠実と誠実の合致である。
口語訳 | 愛と善行とを励むように互に努め、 |
塚本訳 | また、わたし達は愛と善い業とを励まし合うように互に心掛けようではないか。(堅い信仰と動かぬ希望と愛の励み、この三つこそ最も尊い神の賜物である。) |
前田訳 | そして愛とよいわざに励むよう、互いに心がけましょう。 |
新共同 | 互いに愛と善行に励むように心がけ、 |
NIV | And let us consider how we may spur one another on toward love and good deeds. |
註解: 前節において神に対する信仰による希望の確保を教え、本節以下において人に対する愛につき教えている。本節の原語は「互に注視しつつ愛心を発揮し善き業を行うように刺激し合う」という意味で、孤立独善主義に陥らざるよう、互に刺激し合いて愛心と善行とにおいて秀 づるようにし、そのために互に顧み合うべきことを教えているのである。愛は心の中の状態であり、善行は愛の外部へ対する発顕である。
辞解
[励まし] paroxusmos は「刺激」の意。また「激情」「憤激」等悪しき意味にも用うる(使15:39。申29:27。エレ32:37)けれどもここでは善き意味に用いている。
[相顧み] 「注視する」意味。
10章25節 (われらの)
口語訳 | ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。 |
塚本訳 | (また、)ある人々がするように、集会を怠けず、むしろ互に勧め(合って出席す)るようにしなくてはいけない。その日が近づいていることをあなた達は知っているから、いよいよそうしなくては! |
前田訳 | ある人々がいつもするように集まりを去ることをせずに、互いに励ましましょう。あなた方はかの日が近づくのを見るだけに、ますますそうしてください。 |
新共同 | ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 |
NIV | Let us not give up meeting together, as some are in the habit of doing, but let us encourage one another--and all the more as you see the Day approaching. |
註解: 前節に薦められし愛と善行とに刺激し合うことの正反対は集会をやめる習慣であった。ユダヤ人のキリスト者の中にはキリストの大祭司たること、その血によりて我ら神に近付くことを得ることの信仰およびこれに伴う望(19−23節)が明らかになっていないために、ユダヤ人の集会以外にキリスト者としての集会を持つことの意義を見失い、自然集会をやむる者もあったことであろう。また他方かかるキリスト者を見て不満を覚え、愛をもってこれを励ますことをせずして集会をやめる者もあったことであろう、または自らキリスト教の真理を学び尽くせりと信じ、愛をもってこれを他人に分たずして他の教えを求むるごとき者もあったろう。またキリスト教徒が迫害せられ、その教勢の不振なるにもかかわらず愛をもって慰め合う者なきを見て意気沮喪 して集会をやめる者もあろう(Z0、I0)。何れの場合においても愛をもって互に勧め、力付け合うことがキリスト者の大切な義務である。
辞解
[勧め] parakalein コロ2:2註参照。
[集会] episynagogê なる文字を用いてユダヤ人の集会と区別す。なおこれには「我ら自身の」なる語が附加されており特にキリスト者の集会たることを示す。
かの
註解: 「かの日」はキリスト再臨の日であって、その時にもしキリスト者同士間に愛の結合がなかったならば、キリストは彼らを否み給うであろう、ゆえにこれを思いて益々愛と善行とを奨励し合いて集会を力付け合うべきである。殊にキリストの体なる教会より離れている者は再臨の主を迎うること(Tテサ4:17)はできない。再臨の信仰は信者の愛と善行と一致とを増進する有力なる原因である。
10章26節
口語訳 | もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。 |
塚本訳 | なぜなら、わたし達が(キリストの)真理の知識を受けた後、故意に罪を犯すならば、その罪のために、もはや(これをあがなうべき)犠牲は残っていない。 |
前田訳 | もしわれらが真理の知識を受けた後、ことさらに罪を犯しているならば、もはや罪のためのいけにえは残りません。 |
新共同 | もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。 |
NIV | If we deliberately keep on sinning after we have received the knowledge of the truth, no sacrifice for sins is left, |
註解: ここに「真理」というは本書にこれまで論ぜられしキリストとその贖罪の意義を指すと見るべきである(なお29節の恩恵と併せてヨハ1:14参照)。これを知る知識は信仰の中心で(コロ2:2)神より賜りしものである(マタ16:16。Tヨハ5:20)。この賜物を受けし後故意に罪を犯すの状態を続けて行く者は、キリストの恩恵を空しくし、彼に対して真正面より反逆を犯している者である。何となればキリストによりて真に贖われし者はキリストの僕であって、常にキリストに従う者であるから。(従って故意ならざる罪、偶然の過ちによる罪はこの限りではない。レビ4:2、レビ4:13、レビ4:22、レビ4:27。レビ5:15。民15:25−31)そしてキリストの贖いは唯一度をもって永遠に完成せられしが故に(ヘブ9:25以下。ヘブ10:4。ヘブ10:18)彼に叛く者はその以外に彼の罪を贖うべき犠牲はない。
辞解
[ことさらに] ekousiôs は過失によることの反対すなわち自己の意思の承認の下にの意味、「わざと」の意味にあらず。
[止めずば] 原語にないけれども「罪を犯す」の現在分詞形はこの意味を持っている。
[知識] epignôsis 理解と経験とによりて知ること。
[罪を犯す] これを25節の集会をやむる罪と解する説があるけれども(C1)一般的の罪と見るべきである。
[もはや無し] 原語「遺 らず」で次節に関係す。
10章27節 ただ
口語訳 | ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。 |
塚本訳 | ただ、恐れて刑罰を待っていることと、“(神に)反抗する者を食いつくそ”うとしている“(裁きの)火の熱心(だけ)が”残っている。 |
前田訳 | 残るものは裁きを、すなわち神に逆らうものを食いつくす火をおそれつつ待つことだけです。 |
新共同 | ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。 |
NIV | but only a fearful expectation of judgment and of raging fire that will consume the enemies of God. |
註解: キリストに在る者は彼の来臨を慕い(Uテモ4:8)、反対に彼に叛く者には審判の恐ろしき期待(直訳)と、叛逆者に対する神の怒り(▲+の恐ろしき期待)とが遺 されるのみである。イザ26:11(七十人訳)参照。
辞解
[烈しき火] 火は往々神の怒りに譬えられる(ヘブ12:29。申4:24。詩79:5。イザ26:11。イザ30:27。エゼ38:19。ゼパ1:18)。
10章28節 モーセの
口語訳 | モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、 |
塚本訳 | モーセの律法をないがしろにする者があれば、憐れみなく、”“二人もしくは三人の証人(の証言)によって死ぬのである。” |
前田訳 | モーセの律法を無視するものが、二人か三人の証言によって容赦なく死に処せられるならば、 |
新共同 | モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。 |
NIV | Anyone who rejected the law of Moses died without mercy on the testimony of two or three witnesses. |
註解: 本節において著者はモーセの律法に違反する者の受くべき刑罰を例示し(申17:2−7)これに比較してキリストに叛く者の受くべき刑罰の一層大なるべきことを次節に示すことによりて27節の審判および神の怒りの証拠としている。
辞解
[慈悲を受くることなく] 容赦なくの意。
10章29節 まして
口語訳 | 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。 |
塚本訳 | まして神の子を踏みつけ、きよめられた“約束の血を”けがれた(人間の血と同じ)と考え、恩恵の御霊を侮辱する者は、どんなひどい刑罰に価すると、あなた達は思っているのか。 |
前田訳 | 神の子を踏みつけ、自らが聖められた契約の血を汚れたものと考え、恩恵の霊をあなどるものは、どんなひどい罪に値するとお思いですか。 |
新共同 | まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。 |
NIV | How much more severely do you think a man deserves to be punished who has trampled the Son of God under foot, who has treated as an unholy thing the blood of the covenant that sanctified him, and who has insulted the Spirit of grace? |
註解: 26節のごとくにしてことさらに罪を犯して止めざる者は、第一に己が罪のために十字架に釘 き給いし神の子を崇めずしてこれを足下に踏みにじり、第二にこれによりて己が罪を潔められしキリストの新約の血(引照3)を普通の罪人の血と同視し、第三に神の恩恵を心にさとらしめしその聖霊(ゼカ12:10)を侮りてこれを軽蔑する三重の罪を犯している。モーセなる人間を通して与えられし神の律法を蔑することと、神の子およびその御業と功績とを蹂躙 することとの罪の軽重は極めて明らかである。いわんや一度凡てこれらの真理を知るの知識を与えられて後かかる状態に陥った者は最悪の叛逆者であって再び立帰る見込みがない(ヘブ6:6)。
辞解
[潔からずとなし] koinos は本来「普通一般の」の意味で「聖別せられしもの」 hagios 以外のものを意味す、従って聖からざる意味となる。
[恩恵の御霊] 恩益を与える御霊の意味ではなく、ここでは恩恵を示す聖霊を意味す(ヨハ14:26、Z0)。
10章30節 『
口語訳 | 「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。 |
塚本訳 | わたし達はこう言われた方を知っているからである。“仕返しはわたしのもの、”わたしが、“報いをする”、さらに“主はその民を罰される”と。 |
前田訳 | われらはこういわれた方を知っています、「復讐はわがもの、われが報いる」と。また、「主はその民を裁きたもう」と。 |
新共同 | 「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。 |
NIV | For we know him who said, "It is mine to avenge; I will repay," and again, "The Lord will judge his people." |
註解: 前節の重き罰が彼らに降るべき証拠として著者は申32:35、36をここに引用している。神の子を辱しむる者をば神は必ず復讐しこれに相応せる報いを与え給う。また民の功罪に対し神は必ず賞罰を与え給う、これ不動の真理である。(注意)。この第一の引用はヘブル語原典とも七十人訳とも異なっているにかかわらずロマ12:19と全く同一であることは特異なる事実であってその理由は種々に説明せられている(M0参照)。また「審 かん」 krinei は申命記においては恩恵を与える意味においてその民を正しく取扱うことを意味しているけれどもここではこれを他の意味に用いている。
口語訳 | 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。 |
塚本訳 | 生きた神の御手に落ちることのなんと恐ろしいことであろう。 |
前田訳 | おそるべきは生ける神のみ手に落ちることです。 |
新共同 | 生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。 |
NIV | It is a dreadful thing to fall into the hands of the living God. |
註解: 26節以下の結論であって、信仰をもって神の御手にいだかれることの幸福とは正反対に不信のまま神の御手に陥ることは最も恐るべき事柄である。何となればかかる者は審判を免れることができないから。このことを畏れざるものは神を知らざる者である(詩53:1−4)。
要義 [真の背教者]今日のごとくキリスト教会において真の福音が宣伝えられざる場合には背教者が起ること、すなわち教会を脱する者の多きことは当然である。しかし真の福音に接し、その奥義を知るの知識を受けて後に背教者となる者も少なくはない。かかる者の受くる審判は最も畏るべきものであることは確かである。神は侮るべきものではない。
10章32節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。 |
塚本訳 | あなた達が(前に聖霊に)照らされ(てキリストを信じ)た(すぐ)あとで、苦しみの激しい戦を耐え忍んだ前の日のことを思出しなさい。 |
前田訳 | 過ぎた日々を思い出してください。あのころあなた方は光を受けて苦しみの激しい戦いにお耐えでした。 |
新共同 | あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。 |
NIV | Remember those earlier days after you had received the light, when you stood your ground in a great contest in the face of suffering. |
註解: 33、34節に記されるごとき状態において彼らは最も美わしき信仰を示した。これは入信の当初であり、過去のことであった。回心の当時の美わしき信仰の状態を持続し得ざる者は少なくないことは今日も同様である。この苦難が何れの史実を指したかは明らかではない、ローマにおける一般的迫害の事実をいうものであろう(緒言参照)。
辞解
[光を受けし後] キリストを救い主と仰ぐに至りし後のこと。
10章33節
口語訳 | そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。 |
塚本訳 | それは、あるいは罵りや苦難のうちに(多くの人に)見世物にされたり、あるいは、こんな目に会っている人々の仲間になったりすることであった。 |
前田訳 | あなた方は、あるいは侮辱と苦難の中にさらしものにされ、あるいはこのようにあしらわれた人々の仲間におなりでした。 |
新共同 | あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。 |
NIV | Sometimes you were publicly exposed to insult and persecution; at other times you stood side by side with those who were so treated. |
註解: キリスト者は凡てこの二種中何れかに属する。すなわち自ら衆人環視の中に誹謗と患難とに遭うか、またはかかる人を助け慰める地位に立つことによりて多くの苦難を嘗める、そして彼らは信仰によりてかかる苦難と闘ってこれに打勝った。
辞解
[誹謗 ] 名誉に対する襲撃。
[患難 ] 人体またはその所有に対する襲撃の結果を意味す。
[觀物 にせられ] 当時においては公けの場所においてキリスト者を迫害した。
10章34節 また
口語訳 | さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。 |
塚本訳 | しかり、あなた達は(信仰のための)囚人たちと苦しみをわかち、また自分がもっとまさった、いつまでもなくならない持物を持っていることを知っているので、自分の財産の奪われるのを喜んで忍んだではないか。 |
前田訳 | じつに囚人とも苦しみを共になさり、あなた方の財産の没収をよろこびをもってお迎えでした。あなた方はよりよい永続的な持ちものがあることをご存じでした。 |
新共同 | 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。 |
NIV | You sympathized with those in prison and joyfully accepted the confiscation of your property, because you knew that you yourselves had better and lasting possessions. |
註解: 初代キリスト者の同情と、その無慾とを示す。(本節前半は前節後半の理由の説明である)キリスト者はその同志が信仰のために迫害され獄牢に投ぜられる時、自己にも同じ危険が臨むをも顧みずして彼らを助けまた慰めた。かくして迫害される者の友となった。また当時キリスト者は何らかの罪名の下に(Z0)処罰されその財産を没収されることがあった。しかも彼らには天において永遠の嗣業(使20:32引照)を受けることができることを信じていたのでこの世の財宝はこれを無視することができ、喜んでその没収を甘受した(使4:32−35。使2:44、45)。
辞解
[忍びたり] prosdechomai は「進んで受ける」ことを意味す(ヘブ11:35参照)。
10章35節 されば
口語訳 | だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 |
塚本訳 | だからあなた達は(この堅い)信頼をすててはならない、それは大きな報いを持っている。 |
前田訳 | それで、あなた方の確信をお捨てのないように。それには大きな報いがあります。 |
新共同 | だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。 |
NIV | So do not throw away your confidence; it will be richly rewarded. |
註解: 「確信」はキリストの完全なる救いに対する喜ばしき確信であって、回心の当初はこれをもっており、神はこれに対して大なる報賞を与え給う、ゆえにこれを放棄することはこの大なる報賞をも失う所以である。信仰が薄くなり、未来の報賞に対する望みが不確実になるに従ってついに人はその確信を無用のものとして投げすてるに至る。「されば」すなわち前述のごとく初めはこの確信を持っていたこと故これを放棄してはならない。
辞解
[確信] parrêsia は「大胆なる告白」の意にも用いられる文字であるけれどもここでは確信の意味に取るをよしとする。
10章36節 なんぢら
口語訳 | 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。 |
塚本訳 | あなた達が神の御心を行って約束のものを受けるには、忍耐の必要があるからである。 |
前田訳 | あなた方が神のみ心を行なって約束のものを得るには忍耐が必要です。 |
新共同 | 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 |
NIV | You need to persevere so that when you have done the will of God, you will receive what he has promised. |
註解: 前節の実行に必要なる点を述ぶ。32−34節におけるがごとき態度は神の御意を行う状態である。将来も(M0)かかる態度を継続して行くことによって始めて約束すなわち神の嗣業を嗣ぐことができる。そしてかかる信仰状態を継続するがために必要なるは忍耐持続であって迫害を耐え忍び試誘 に打勝ちて信仰を持続し、信仰の堕落を不断に警戒しなければならない。
10章37節 『いま
口語訳 | 「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。 |
塚本訳 | なぜなら、もう“ほんのしばらくすると”、“来るべき方が来られる、おそくなることはない。 |
前田訳 | 聖書にあります、「もうほんのしばらくすれば、来たるべき方がお見えで、遅くおなりではあるまい。 |
新共同 | 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。 |
NIV | For in just a very little while, "He who is coming will come and will not delay. |
註解: 本節は次節と共にハバ2:3、4の七十人訳よりの自由なる引用で、前節の証拠たるべき聖句を示したのである。すなわち主の再臨はきわめて接近している、主は決して遅延し給わない。ゆえに我らの忍耐を要する期間も決して長くはない故に忍耐して信仰を持続せよとの意味である。
辞解
[いま暫くせば] イザ26:20にある文字で原語は「極めて小時間の後」の意味。
「来るべきもの」以下はハバ2:3の七十人訳を少しく変更したものでヘブル語とは全く意味を異にしている。「来るべきもの」は当時のラビの間にもこれをメシヤの意に解する者あり、マタ11:3、ルカ7:19によるも一般にその意味に用いられていたことがわかる(ダニ7:13。ゼカ9:9。マラ3:1参照)。ここでは初臨のキリストではなく再臨のキリストを意味する。(「来るべきもの」とハバクク自身は幻について言っているのである。)
10章38節
口語訳 | わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。 |
塚本訳 | 信仰によるわたしの義人は生きる。しかしもしあとに退くならば、わたしの心にかなわない。” |
前田訳 | 信仰によりわが義人は生きよう。もししりごみするならば、わが心は彼をよろこばない」と。 |
新共同 | わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」 |
NIV | But my righteous one will live by faith. And if he shrinks back, I will not be pleased with him." |
註解: ハバ2:4の引用、ただし原文はこの順序が転倒している。おそらく原文ではこの節の主語が不明瞭なためと、不信仰に対する神の御旨を明らかにせんがためとであろう(Z0)。すなわち「我が義人」(直訳)換言すれば神より義人と認められる者は信仰を持続することによりて生命に達するのであって(ロマ1:17。ガラ3:11)もし「退きて」信仰より離れてしまうならば神の心は彼に対して喜びを覚えず悲しみと怒りとを覚えるであろう。
辞解
[我に屬 ける] 原語「我の」。
[退 かば] hupostellô は臆病の心より畏縮退却する姿をいう。35節の確信の反対。
[これを] 「彼を」。
10章39節
口語訳 | しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。 |
塚本訳 | しかしながら、わたし達は“あとに退いて”滅びに行く(臆病)者でなく、“信仰によって”命を救う者である。 |
前田訳 | しかしわれらはしりごみして滅びに至らず、信じて魂の保全に至るものです。 |
新共同 | しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。 |
NIV | But we are not of those who shrink back and are destroyed, but of those who believe and are saved. |
註解: 著者はこの書の読者の失望すること無からんために、救わるべき確信を彼らに与えんとしているのである。文意は「退却」と「信仰」とを対比し「滅亡」と「霊魂を得ること」すなわち永生を獲得することとを対比しているのであって、退きて信仰を離れるものは神の心喜び給わず、従って滅亡はその運命であり、反対に信仰を持続する者は約束のものすなわち永生を獲得することができる。ヘブル書の著者ならびに読者は勿論後者に属する者故これを失ってはならないことをここに示している。
要義 [信仰持続の必要]26節以下に信仰持続の必要と、信仰より堕落せる者の受くべき審判につきて各々聖句を引用してこれを説明している。そして信仰持続の方法は一つはキリスト・イエスの血による贖いの意義を充分に弁 え、彼に従うの生活を送ること、一つは信仰の初めの回心の経験とそのよろこびとを忍耐をもって継続することである。これがためには信仰と(32、33節a)愛と(33節b、34節a)望みと(34節b)においてますます成長することが必要であって、何時までも信仰の初歩に止まるものは信仰より堕つる危険の中に在るのである。
ヘブル書第11章
2-2 信仰とは何ぞや 11:1 - 11:40
2-2-イ 信仰の定義 11:1
註解: 前章において信仰持続の必要を高調せる著者は、12章においてさらにその薦奨を継続する前に、本章を
挿 みて、そこに信仰とは如何なることなりやを説明している。
11章1節 それ
口語訳 | さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 |
塚本訳 | (では信仰とは何であるか。)信仰とは、希望することの実現であり、(目に)見ぬ事の確信である。 |
前田訳 | 信仰は望むことの実体、見えぬものの証拠です。 |
新共同 | 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 |
NIV | Now faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see. |
註解: この定義は必ずしも信仰の全内容を示したものではないが、その重要なる一面を示しており、殊に本書の読者の信仰上の欠陥を指摘したものであって、何れの時代の信者にも適切なる定義である。すなわち一般に信仰とは(冠詞なし)、一は希望の目的物に対し必ずこれを得べきことを確信して疑わないことであってこの目的物は未だ現在の所有とならず、未来に所有し得るに過ぎないにもかかわらず(ロマ8:24)あたかもこれを現実に所有すると同様にこれを確信すること。その二は目に見えざるもの(未来は勿論過去、現在においても我らの目をもって目撃するを得ざるもの)をも確かに実在するものと同様にその真実性を認識することである。我らの罪の赦し、体の復活、永遠の生命、未来の嗣業、キリストの再臨等は我らの希望であると同時に目に見えざることまた未だ目に見ざることであり、また神の創造(3節)その支配、その約束、すなわち7、8、27節等に示される如き事実は見えざる事柄である。この両者を現実的に確信し保持するのが信仰である。ゆえに信仰は神秘的法悦、教会員の資格、信仰箇条の承認、ローマ法王に対する服従等ではない。
辞解
この一節は難解の一節で多くの異なれる解釈を生んでいる。
[確信] hupostasis は「本質」、「基礎」、「実在」等の意味もあるけれども確信の意味が適当である(L1、A1、M0、Z0、Tプレーク)。
[真実とする] elenchos(名詞)も「証拠」「証明」「確信」等の意味あり、心中に確信する有様を指す故「真実とする」と訳して誤っていない。
[望むところ] 「見ぬ物」の一部分をなしている(B1)。
口語訳 | 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。 |
塚本訳 | 実際、(昔の偉大な)先祖たちは、この信仰において(神から聖書で)有名にされた。 |
前田訳 | 信仰のゆえに昔の人々は確かな証人とされました。 |
新共同 | 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 |
NIV | This is what the ancients were commended for. |
註解: 古老は上述のごとき信仰を懐 いたがために神より褒 れの証言を得た(聖書の記事により、および彼らの神より受けし恩恵により)。
辞解
[古の人] presbyteroi 老人のこと、すなわちイスラエルの父祖を指す
11章3節
口語訳 | 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 |
塚本訳 | (まず、)信仰によって、わたし達はこの世界が神の言葉で造られたことを知る。すなわち、見えるものは、現われぬものからできているのである。 |
前田訳 | 信仰によってわれらは世界が神のことばで造られ、見えるものができたのは現実にあるものからではないことを悟るのです。 |
新共同 | 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。 |
NIV | By faith we understand that the universe was formed at God's command, so that what is seen was not made out of what was visible. |
註解: 前節の事実を例によりて説明せんがために聖書を開きてその開巻第一天地創造の記事がこの信仰によるにあらざれば解し得ざるものなることに著者は気が付いたのであろう。従って第1節の説明と見ることができる。すなわちこの世界の見ゆる物質は「顕れる物」すなわち外部にその形体を表顕して五感をもって感得し得る物より成ったのではなく見えざる神の言によりて無より創造せられたのである。このことは1節の信仰によるに非らざれば信じ得ない点である。信仰なしには宇宙構成の第一原因をすら知ることができない。
辞解
[造られ] katêrtisthai は「構成される」「準備される」「各部分が完全に組立てられ」等の意(ヘブ10:5。Tコリ1:10註参照)。
[顯 るる物] phainomenon 現象。
11章4節
口語訳 | 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。 |
塚本訳 | 信仰によって、アベルは(兄の)カインよりもすぐれた犠牲を神に捧げ、その信仰のゆえに、義人であることを(神に)証しされた。“神は彼の供え物について、”(これを嘉納されたことを)証しされたのである。そしてその(信仰の)ゆえに、死んでいながら、(今日まで)まだ語っている。 |
前田訳 | 信仰によってアベルはカインにまさるいけにえを神にささげ、そのゆえに義人と証明されました。神が彼の供え物をよみせられたからです。それゆえ、彼は死んでも今なお語っています。 |
新共同 | 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。 |
NIV | By faith Abel offered God a better sacrifice than Cain did. By faith he was commended as a righteous man, when God spoke well of his offerings. And by faith he still speaks, even though he is dead. |
註解: 創4:4の人類最初の争闘史の中にも信仰を認めることができる。兄のカインは努力の人であって自己の功績に誇るべぐ土地の産物を献げ、アベルは信仰の人であって自己の無に等しきを知り罪の贖いを求めて自己の力によらざる羊の初生を犠牲として献げた。神の目には信仰による献物が優っていたのでその信仰のために神はアベルを義と証し給うた。「アベルとその供物とを眷顧 みたまひし」ことがすなわち神の証である。▲「証せられたり」 emartyrêthê(martyreô) を口語訳は「認められた」と訳しているけれども、ロマ4:3−24の「認められる」 logizomai と混同せぬよう注意すべし。
辞解
[之によりて] 「犠牲によりて」の意に解する学者があるけれどもここでは「信仰によりて」と解すべきである(B1、M0、Z0等)。
註解: アベルの信仰を神が悦び給いしこと(創4:4)および、アベルの死後も神はなお彼を顧 み給いしこと(創4:10)は、信仰が如何に神を悦ばしめ奉るかを語っている。しかしてこのことは今日の我らにも語られているのである。またかかる信仰を世が迫害して血を流すに至ることもまた今日においても真理である(ヘブ12:24)。本節を「彼は信仰によりて死にたれば今なお語る」と読む説もあり(B1)。また「犠牲によりて今なお語る」と読む説もある。改訳本文が最も正しい。
11章5節
口語訳 | 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。 |
塚本訳 | 信仰によって、エノクは死なずに(天に)移された。“神が彼をお移しになったのだから、(地上で)見つけ出されなかった”(と聖書は言う)。というのは、天に移される前、彼は“神のお気に入ったことを”証しされたのである。 |
前田訳 | 信仰によってエノクは死を見ないよう移され、神がお移しなので彼は見えなくなりました。移される前に彼は神によろこばれることが証明されていたのです。 |
新共同 | 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。 |
NIV | By faith Enoch was taken from this life, so that he did not experience death; he could not be found, because God had taken him away. For before he was taken, he was commended as one who pleased God. |
註解: (▲口語訳「天に」は原文になし、意訳である。)創5:21−24によれば、エノクは神と偕に歩みし人、すなわち信仰の人であった。この信仰を神は悦び給い彼をして死を味わせざらんがために彼を携え行き給うた。何人もエノクの行方を知らない。(このエノクはキリスト再臨の時地上に生き残っている信者の型でかかる信者はエノクのごとく生けるままに携擧される。(Tテサ4:17)
その
註解: 創5:24の「エノク神と偕に歩み」を七十人訳には「エノク神に喜ばれ」と訳されている。結局同一の意味であって神と偕に歩むことは信仰を意味し、信仰は神に喜ばれる所以である。たしかにエノクの移されたのはその前にすで信仰を有ちて神に喜ばれたからであったことをこの聖句が証している。▲▲「喜ばれること」は「喜ばれたこと」。
口語訳 | 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 |
塚本訳 | 信仰がなければ“(神の)お気に入ることは”出来ない。神に近づく者は、神がいますことと、彼をさがし求める者に報いを与える者であることを、信ずべきだからである。 |
前田訳 | 信仰なしでは神によろこばれえません。神に近づくものは、彼がいますことと彼を求めるものに報いたもうことを信ずべきだからです。 |
新共同 | 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。 |
NIV | And without faith it is impossible to please God, because anyone who comes to him must believe that he exists and that he rewards those who earnestly seek him. |
註解: 偉大なる行為を見れば神はこれを悦び給うであろうと感ずるけれども「人の心の内部の純潔のみを見給う神は行為の外面に拘泥し給わない」(C1)。神は唯信仰のみを喜び給う。
そは
註解: (△「べければなり」は「べきものなればなり」とすべし。)「神に来る者」神を拝しこれに仕える者であって、神と共に歩む者というに等しい。かかる者は当然に見えざる神の実在を信ずる、これ見ぬ物を真実とするからである(1節後半)。また彼らは神を熱心に求むる者に対して「神はその報償者となり給うこと」(直訳)を信ずる、これその望むところを確信しているからである(1節前半)。この態度はすなわち信仰であってエノクの場合のごとく神これを悦び給う。
11章7節
口語訳 | 信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。 |
塚本訳 | 信仰によって、ノアはまだ見ないもの[洪水]について(神の)お告げを受け、自分の家族を救うために恐れかしこんで箱船を造った。この信仰(の行い)のゆえに(残りの)世界の罪は決まり、彼は信仰による義の相続人となった。 |
前田訳 | 信仰によってノアはまだ見ぬことのお告げを受け、かしこまって家族の救いのために箱舟をつくり、それゆえに世を裁き、信仰による義の相続人となりました。 |
新共同 | 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。 |
NIV | By faith Noah, when warned about things not yet seen, in holy fear built an ark to save his family. By his faith he condemned the world and became heir of the righteousness that comes by faith. |
註解: 創6:6、創6:13−22。ノアは来るべき大洪水と人類の滅亡とにつき神の御告を受けた。そしてこれらは1節に所謂「見ぬ物」であって、この世の人はこれを信ぜずこれを軽蔑した。然るにノアはこれを信じ、その信仰によりて神の御旨を畏れかしもみ、家族の救いのために方舟を造った。そしてやがて洪水来りて全人類を亡ぼしてノアの一家のみ救われしことによりてこの世の不信の罪が明らかに定められ、また彼はその信仰の故に神より義と認められ信仰の義を賜与 せられた(ロマ3:22。ロマ4:5)。即ち彼は信仰による義の後継者となった(引照5、ロマ4:13)
辞解
[信仰によりて] 「御告 を蒙 り」に関連せず「畏 みて方舟を造り」に関連する。
[畏 みて] eulabêtheis は神に対する崇敬の意にも用いられるけれどもここではむしろ神の御告を受けて「恐れ、憂うる」姿である。
[之によりて] 「信仰によりて」。
[罪を定め] katakrinein は永遠の滅亡に定むる意味に用いられ、また一つの例によりてこれと反対の場合が一層明らかにされる場合にも用いられる。この場合は後者に属する。
[信仰による義] パウロの所謂「信仰による義」(ロマ4:13その他)と意義を同じうする(A1、B1、Z0)。創6:9にノアは義人と称せられ聖書中に第一にかく呼ばれているので殊更 に彼を「信仰による義の世嗣」と称したのであろう。
[世嗣] 本来神に属するものを継承する故に世嗣と称せらる。
11章8節
口語訳 | 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 |
塚本訳 | 信仰によって、アブラハムは財産として戴くべき(カナンの)場所に“出てゆけ”とのお召しを受け、(素直に)言うことを聞いた。そしてどこへ行くともわからず、“出ていった”。 |
前田訳 | 信仰によってアブラハムは継ぐべき所へ出てゆくよう召されたとき、それに従い、どこへ行くか知らずに出てゆきました。 |
新共同 | 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 |
NIV | By faith Abraham, when called to go to a place he would later receive as his inheritance, obeyed and went, even though he did not know where he was going. |
註解: (▲8−10節、信仰は無を有と信じ、無より有が生ずることを確信する。)8−19節はアブラハムおよびその妻サラの信仰について述べている。創12:1−4によれば全く未知なる約束の地カナンに旅立すべくその住みなれし家郷および家庭を棄つべしとの命を受けてアブラハムはその父の許を出立 した。これすなわち望むところを確信し見ぬ物を真実とする信仰であった(1節)。ゆえに神はアブラハムの信仰を義と認め給うた(創15:6)。キリスト者の信仰もこれと同じく来世に関する神の約束を信じてこの世を棄つべしとの神の命令に従う信仰でなければならない。
11章9節
口語訳 | 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 |
塚本訳 | 信仰によって、彼は約束の地に他国人として“宿った”。彼は同じ約束の(ものの)共同相続人(である子)イサクおよび(孫)ヤコブと一しょに、天幕に住んだのである。 |
前田訳 | 信仰によって彼は約束の地によそものとして宿り、同じ約束を継ぐべきイサクとヤコブとともに幕屋に住みました。 |
新共同 | 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 |
NIV | By faith he made his home in the promised land like a stranger in a foreign country; he lived in tents, as did Isaac and Jacob, who were heirs with him of the same promise. |
11章10節 これ
口語訳 | 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 |
塚本訳 | (どうしてこんな生活に甘んじたか。)彼は(堅固な)土台を持つ(天の)都を待ちのぞんでいたからである。その建設者また創造者は神である。 |
前田訳 | 彼は土台のすわった都を待ちのぞんでいたのです。その施工者また造営者は神です。 |
新共同 | アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。 |
NIV | For he was looking forward to the city with foundations, whose architect and builder is God. |
註解: アブラハムの信仰の第二の場合は、彼は神の約束によりて与えられしカナンの地に住むのに、あたかも異国に在るごとくに寄寓 の生活を送り、自らそこに永住のための住居を築造せずして、流浪人のごとくに天幕の中に住んでいたことである。これアブラハムが目に見ゆるカナンの土地や、人の造れる基礎なき天幕にその希望を置かずして、目に見えざる未来の天の都を望んだからである。まさしくこの天の都は人によりて造られずして神自らその建築家営造家である点において、および基礎なき動き易き天幕にあらずして基礎ある永遠の都なる点において優っていたからである。この天の都はキリスト者の望みであり、今すでにその前味を持っている(引照3、およびガラ4:26。黙3:12。黙21:2以下および黙21:10以下)。
辞解
[寓 り] paroikeô は市民権も財産所有権もなく、他国人として寄寓 すること(創17:8。創20:1。創21:23、創21:34。創24:37。創35:27。七十人訳)。
[同じ約束を嗣ぐべき] sunklêronomoi は「共同相続人」の意味で子のイサクも孫のヤコブも天国の市民権を直接に神より継承したので親より譲り受けたのではないことを示す。
[幕屋] 天幕で遊牧の民の住居、基礎工事なしに建てられる。
[営み造り] technitês kai dêmiourgos 前者は「建築家」または「製造者」のごとく建築製造の技術的方面をいい、後者は建築、製造の「力」の方面をいう語(T0。この二語に「設計家」と「築造家」とのごとき区別を立てる学者があるけれども本来かかる意味の差別はない)。
[都] 天のエルサレムを意味しキリスト者全体の住むべき未来の場所およびその住民の全体を指す。
11章11節
口語訳 | 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 |
塚本訳 | 信仰によって、アブラハムはまた(その妻)サラと共に、子孫をつくる力を受けた、(すでに年齢が)盛りを過ぎていながら。彼は約束された方を誠実であると考えたのである。 |
前田訳 | 信仰によってサラ自身も年が過ぎていたのに種を宿す力を受けました。約束なさった方がまことでありたもうと信じていたからです。 |
新共同 | 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。 |
NIV | By faith Abraham, even though he was past age--and Sarah herself was barren--was enabled to become a father because he considered him faithful who had made the promise. |
註解: (▲11−15節は約束を信ずる信仰であり、不可能を可能ならしめる。)創17:19。創18:11−14によれば、アブラハムの妻サラは、子無くしてすでに老年となった。このサラに対して神は子を与うることを約束し給い、サラはその神の忠実に在すことを信じたがために胤 を宿す力を得た。すなわち人間の理性によりて知り得ざることをも真実とするの信仰である。(注意)。本文のごとくに訳するには次のごとき重大なる困難がある、(1)「サラも」の原語は autê Sara で殊更 に autê「彼女自身」を附加した意味が不明なること、(2)「胤 を宿す」と訳せられし katabolê spermatos は交媾 の際における男性の所動的行為についていう語であって女性の受動的行為については決して用いられないこと、(3)創世記にはサラに信仰がありしことを記していないこと(ロマ4:18−21も同様)、(4)次節の「一人」は男性なること、この困難を除くがために autê Sara を第三格として読むことにより「信仰により〔彼は ─ すなわちアブラハムは〕約束し給う者の忠実なるを思いし故に、年過ぎたれどサラに添うて胤 を宿らしむる能力を受けたり」と訳する説がある(Z0、ホルト等)。文字上より言うも、意味の上より言うもこの解釈が優っている。
11章12節 この
口語訳 | このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。 |
塚本訳 | だからまた、(たった)一人から、しかも(老いぼれて)死んだような者から、“天の星のように数多く、また数えきれぬ海岸の砂のように子孫ができたのである。” |
前田訳 | それで、ただひとりの、しかも死んだような人から天の星のように、海べの無数の砂のように多くのものが生まれたのです。 |
新共同 | それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。 |
NIV | And so from this one man, and he as good as dead, came descendants as numerous as the stars in the sky and as countless as the sand on the seashore. |
註解: 私訳「この故に一人、殊に死にたる者より云々」にしてアブラハムを指す。「死にたる者」はロマ4:19と同じく生殖能力より見て言えるものであって老年となれるアブラハムを指す。このアブラハムより無限の数の子孫が生れ出でたのである。これアブラハムの信仰の結果であった。信仰は必ず果実を結ぶものであることをこれによりて知ることができる。
辞解
「星」「砂」の比喩については引照および創13:16。創36:4。出32:13。申1:10等を見よ。
11章13節
口語訳 | これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 |
塚本訳 | 信仰に従い、これらの人たちは皆、(地上では)約束のものを受けずに死んだのである。彼らはただ遠くからそれを眺めて歓迎し、自分たちは、“この地上では外国人であり、旅の者”であると認めた。 |
前田訳 | 信仰のうちにこれらの人々は死にました。彼らは約束のものを得ませんでしたが、はるかにそれらを見てよろこび、地上ではよそものまた旅びとと告白しました。 |
新共同 | この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 |
NIV | All these people were still living by faith when they died. They did not receive the things promised; they only saw them and welcomed them from a distance. And they admitted that they were aliens and strangers on earth. |
註解: 私訳「彼らはみな未だ約束の物を受けざりしがはるかにこれを見て迎え、地にては旅人また寓 れる者なるを言いあらわしつつ信仰をいだきて死にたり」。「彼ら」はアブラハム、イサク、ヤコブを指す。彼らは死に至るまで信仰を確保し、死に際しても信仰にかなえる kata pistin 死に方をした、信仰にかなえる所以は彼らは神の約束を現実に把握しなかったけれどもその望む処を確信し、遙かに未来において与えらるべき神の約束のもの、すなわち天にある諸 の栄光を望見しこれを歓迎した(ヨハ8:56)ことがその一つ、その二は彼らの国籍は天にあることを信じ(ピリ3:20)この世においては定住処なき旅人、市民権なき寄寓者なることを告白しつつ(創28:4。創47:9)地上において何らの名誉も権力も財産をも求めずに生活したことであった。かかる生活は信仰なくしてこれを為すことはできない。キリスト者は凡てこの信仰をもって死すべき者である。
辞解
[迎え] aspazesthai 人を歓迎し挨拶する容 で「手を握って人を引きよせてこれを擁く」のがその様式であった。彼らは未だ受けざる約束の物にたいしてかかる態度を取った(Tペテ1:8)。
11章14節
口語訳 | そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 |
塚本訳 | このように(自分を外国人、旅の者と)言う人々は、(ほかにある)自分の国を追及していることを現わしているからである。 |
前田訳 | こういう人々はおのがふるさとを求めていることを示しています。 |
新共同 | このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。 |
NIV | People who say such things show that they are looking for a country of their own. |
註解: アブラハムその他が自らを旅人また寄寓者と言える所以は切にその故郷(すなわち天の都)を求めたことの証拠に外ならない。すなわち見ぬ物を真実とし望む処を確信せるがためであった。
11章15節
口語訳 | もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 |
塚本訳 | もしも彼らが出てきた所、(すなわちカルデヤのウル)のことを思ったのであったら、(いくらも)引き返す機会があったはずである。 |
前田訳 | もし出て来た所を考えたのならば、そこに帰るおりがあったでしょう。 |
新共同 | もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。 |
NIV | If they had been thinking of the country they had left, they would have had opportunity to return. |
11章16節 されど
口語訳 | しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 |
塚本訳 | しかし今や彼らは(地上のものに)まさる天の国を熱望しているのである。だから神も、彼らの神と言われることを恥とされない。彼は彼らのために(天に)都を用意されたのであるから。 |
前田訳 | しかし実際彼らはよりよい、すなわち天にある国にあこがれているのです。それゆえ神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。そして彼らに都をご用意でした。 |
新共同 | ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。 |
NIV | Instead, they were longing for a better country--a heavenly one. Therefore God is not ashamed to be called their God, for he has prepared a city for them. |
註解: 彼らの求めし故郷はこの地上における故郷ではなく、これよりもはるかに勝れる限りなき栄光の天の都であった。信仰なきものはこの地上の故郷に立帰り地的の快楽を味わんことを欲する(出16:3)。キリスト者はこの世より選び出されたるもの故、この世の故郷に還らんことを求めてはならない。
辞解
[慕う] oregeô 手を伸ばして取らんと欲する意味。Tテモ3:1。Tテモ6:10。
この
註解: 彼らの信仰を喜び給いて神は御自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼び給い(引照2)、神と彼らとの間の親しき関係を表示し給い、人のかく呼ぶことをも恥とし給わなかった(マタ22:32)。たしかに信仰の人々を住まわしむべき都を彼らのために備え給うことが神の御旨なるが故に(ヨハ14:2)この都を望まずして地上の故郷を望む者は神これを憎み給い、反対に信仰によりてこの天にある勝れる都を望む者をば神はこれを愛してその神と呼ばれ給うのである。
11章17節
口語訳 | 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 |
塚本訳 | 信仰によって、“アブラハムは(神に)試されたとき、(燔祭として)イサクを捧げた。その独り子を”捧げようとしたのである。彼は(神の)約束を受け、 |
前田訳 | 信仰によって、アブラハムは試みにあったときイサクをささげました。約束を受けていたのに彼はひとり子をささげたのです。 |
新共同 | 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 |
NIV | By faith Abraham, when God tested him, offered Isaac as a sacrifice. He who had received the promises was about to sacrifice his one and only son, |
11章18節
口語訳 | この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 |
塚本訳 | “イサクから生まれる者が、あなたの子孫となるべきである”と語られた者であった。 |
前田訳 | すなわち、その子について、「イサクの出がなんじの子孫と呼ばれよう」といわれていたものでした。 |
新共同 | この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 |
NIV | even though God had said to him, "It is through Isaac that your offspring will be reckoned." |
註解: (▲17−19節は死よりの甦りの信仰。)アブラハムの信仰の最も著しき表顕はその独り子イサクを献げし時であった。これにより神はアブラハムの信仰を試み給うたのである(引照1)。この試錬の特に困難なりし所以は霊肉共にこれに反対したからであった。すなわち霊的にはイサクは約束の子であって、神の約束によればアブラハムの裔はイサクより生るべきであった。ゆえに彼を献げることは神の約束を空しくすることとなるのである。第二にイサクは独り子であり彼の最愛の者であった、彼を献げることはアブラハムの堪え得ざる苦痛であった。この試みに打勝ったのは彼の信仰である。
辞解
17節の中間にある kai は特に意を強むるための文字であって「然も彼は約束を云々」と訳すべきである。
11章19節 かれ
口語訳 | 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。 |
塚本訳 | 神は死人の中からでも生きかえらせる力があると考えたからであった。そのため(この信仰に対する報いとして、)彼はその子を(キリストの死と復活との)比喩として返してもらったのである。 |
前田訳 | 彼は神に死人の中からよみがえらせる力がおありと信じていました。それで彼はイサクをふたたび得たのですが、それは復活のたとえでもあります。 |
新共同 | アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。 |
NIV | Abraham reasoned that God could raise the dead, and figuratively speaking, he did receive Isaac back from death. |
註解: アブラハムは前二節のごとき試みに打勝ってイサクを献げし所以は、神は死人の中より人を復活せしむる力を持ち給うと考えたからであった。彼は神には不可能事なく、またその約束を破り給うことなきことを信じた結果この結論に達したのである。それ故にイサクを再び取戻した時にはあたかも死より取戻したと同様であった。すなわちアブラハムの場合においてはすでに復活の信仰があったのであってキリストの復活も型としてはすでにアブラハムによりて信ぜられていたのである。
辞解
[受けし] komizô は「取返す」「取戻す」の意。
[如くなりき] en parabolê は種々の意味に解せられている。その一は「己を捨てて」「冒険によりて」(M0)の意であるが名詞にはかかる用法はほとんどない(A1)。その二は最も多くの学者の解釈で「比譬的に」の意味で事実死して復活せるにあらずあたかもかくありしがごときことを意味す。
11章20節
口語訳 | 信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。 |
塚本訳 | 信仰によって、(イサクも)将来のことに関してヤコブとエサウとに(神の)祝福を祈った。 |
前田訳 | 信仰によって、イサクは来たるべきことについてヤコブとエサウを祝福しました。 |
新共同 | 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。 |
NIV | By faith Isaac blessed Jacob and Esau in regard to their future. |
註解: 盲なるイサクがその次男のヤコブと(創27:28、29)と長男エサウとに(創27:40)与えし祝福は未だ事実とならざる将来のことについてであった。すなわち見ぬ物を真実とするイサクの信仰が彼をしてこの行為を為すに至らしめたのである。また弟を先にして兄を後にしたのも神の旨に遵 いし信仰的行為であった。
11章21節
口語訳 | 信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。 |
塚本訳 | 信仰によって、ヤコブは死のうとするとき、ヨセフの子たちにひとりびとり祝福を祈った。そして“彼の杖の先によりかかって(神を)おがんだ”。 |
前田訳 | 信仰によって、ヤコブは死にぎわにヨセフの子をひとりひとり祝福し、杖の頭によりかかって礼拝しました。 |
新共同 | 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。 |
NIV | By faith Jacob, when he was dying, blessed each of Joseph's sons, and worshiped as he leaned on the top of his staff. |
註解: ヤコブまさに死なんとせし時(創47:29)ヨセフの二児マナセとエフライムとを己が子として祝福した(創48:5、創48:15−16)。そして弟のエフライムをマナセの上に置きて祝福を与えたのは彼の肉の念によったのではなく、全く信仰の結果であった。何となれば彼が態々 右手を左方のエフライムの上に置き左手を右方のマナセの上に置いたのは(創48:12−14)その偶然にあらざることを示しているからである。またヤコブは自ら現実に所有せざるカナンの土地を彼らに分配したことも信仰の結果である。杖の頭によりて礼拝せることは(創47:31)老年のヤコブが杖をもってその体を支えし容 を示す。かかる態度をもって彼はその信仰を示したのである。
辞解
[杖の頭によりて] 七十人訳によったので、ヘブル語聖書には「床の頭にて」とあり臥床上に坐して床の頭の方に平伏せる容 をいっている。この差異はヘブル語の読み方(母音の付け方)の差異より生ず。
11章22節
口語訳 | 信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。 |
塚本訳 | 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、(将来)イスラエルの子孫が(エジプトを)脱出することを思い、自分の骨(をいかに葬るべきか)について命令した。 |
前田訳 | 信仰によって、ヨセフは臨終にイスラエルの子らの出エジプトを思い、自らの骨について指図しました。 |
新共同 | 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。 |
NIV | By faith Joseph, when his end was near, spoke about the exodus of the Israelites from Egypt and gave instructions about his bones. |
註解: ヨセフはエジプトにおいて富貴を極めたけれども、彼の心はかかるものに囚われず、その死に際してイスラエルの子らが必ずエジプトを出で立ちて約束の地カナンに還るべきことを語り、またその骨をカナンの地に持還るべきことを命じたのは(引照1)神がアブラハムに与え給いし約束(創15:13−16)を堅く信じていたからであった。
辞解
[出で立つこと] exodos エジプトより逃れ出づることを意味す。
11章23節
口語訳 | 信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。 |
塚本訳 | 信仰によって、モーセは生まれて“三か月のあいだ”、両親によって“隠された”。彼らは幼児の“奇麗なのを見て”(神に選ばれたことを知り)、王の命令を恐れなかったからである。 |
前田訳 | 信仰によって、モーセは生まれて三か月間、両親の隠すところとなりました。彼らは子が美しいのを見たのです。そして王の命令をおそれませんでした。 |
新共同 | 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。 |
NIV | By faith Moses' parents hid him for three months after he was born, because they saw he was no ordinary child, and they were not afraid of the king's edict. |
註解: モーセを三ヶ月の間匿 したのは両親がその美わしき子なるを見、その姿の中にイスラエルを救うべき神の約束の実現者を認めたのであろう(C1)。決して美わしき子なる故をもって肉の愛に支配せられたのではなかった。そしてこの信仰により彼らはパロの命(イスラエルの男子はみなこれを河に投じて殺すべしとの命、出1:22)をも畏れなかった。モーセの両親もおそらく信仰の人であり、イエスの場合のマリヤ、ヨセフのごとくその子につき神の御告を受けたことであろう。
11章24節
口語訳 | 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 |
塚本訳 | 信仰によって、“モーセは成長したとき”パロの王女の子と言われることを拒み、 |
前田訳 | 信仰によって、モーセは成人したときパロの王女の子といわれるのを拒み、 |
新共同 | 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、 |
NIV | By faith Moses, when he had grown up, refused to be known as the son of Pharaoh's daughter. |
11章25節
口語訳 | 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 |
塚本訳 | 一時的の罪の享楽をするよりは、むしろ神の民と一しょに虐待されることを選んだ。 |
前田訳 | 罪のはかない楽しみよりはむしろ神の民とともに苦しめられることを選び、 |
新共同 | はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、 |
NIV | He chose to be mistreated along with the people of God rather than to enjoy the pleasures of sin for a short time. |
11章26節 キリストに
口語訳 | キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 |
塚本訳 | 彼は“キリストの(受けられる)罵りを(受けることは)”、エジプトの宝にまさる大なる富と考えたのである。(来るべき天からの)報いに目を向けていたからである。 |
前田訳 | キリストのそしりをエジプトの宝にまさる富と考えました。それは彼が報いに目を向けていたからです。 |
新共同 | キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。 |
NIV | He regarded disgrace for the sake of Christ as of greater value than the treasures of Egypt, because he was looking ahead to his reward. |
註解: 25、26節は24節の原因の説明である。すなわちモーセは「成人して」充分健全なる判断をなし得る時に達してエジプト王の娘の子と称えられることを拒んだのを見ればそれは一時の感情からでもなく、また青年の粗忽 からでもなく全く信仰によってであった。彼はイスラエルが神に選ばれ神の約束を受けて永遠に祝福せらるべき民であることを信じたので、神に背きてエジプトの民となり、その快楽を恣 にするよりもイスラエルの民と共に虐待されることを選んだ。また人の最も忌み嫌う謗 りすらもしそれがキリストのため、神の御旨のためであるならば、人の最も欲するエジプトの財産にもまさる富であると考えた。たしかにモーセは神のためキリストのために受くるこの世の凡ての苦難は、やがて天国において報いられることを信じこれを望んでいたからである(第1節)。この希望なきものは、かかる信仰的行為に出づることができない。
辞解
[罪の歓楽] 神の御旨によらざる凡ての歓楽。
[ともに苦しむ] sunkakouchesthai は「共に虐待される」の意味。
[善しとし] これを選び。
[キリストに因る謗 ] 原語「キリストの謗 」であって、キリストがこの世において受け給いし謗 は凡てのキリスト者凡ての神の民はみなこれを受くべきものである(ヘブ13:12、13。コロ1:24)。
11章27節
口語訳 | 信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。 |
塚本訳 | 信仰によって、彼は王の憤りを恐れず、エジプトを去った。彼は見えない神をあたかも(目で)見ているようにして、我慢したのである。 |
前田訳 | 信仰によって、彼は王の怒りをおそれずにエジプトを去りました。彼は見えぬ方を見るかのようにして耐えしのびました。 |
新共同 | 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。 |
NIV | By faith he left Egypt, not fearing the king's anger; he persevered because he saw him who is invisible. |
註解: モーセがイスラエルを率いてエジプトを去り、荒野に出でしことは人間の計画として見るならば全く不可能事を企てる冒険であった。数十万の民を不毛の荒野に導き出したことは、唯彼が見えざる神の臨在を信じその約束を信じてその困難に耐えたからに外ならない。彼はこの信仰によって行動せしが故にエジプト王が如何に怒るとも(この怒りはパロ軍勢の追跡によりあらわれた)これを畏 れず、その面 を冒 してこの行動を敢えてしたのである。キリスト者の信仰の旅路に立出つ場合は常にこれに類似している。(注意)この一節はモーセがエジプトよりミデアンに単独にて遁 れしことを指すとする説が多い(A1、B1、M0、I0、E0)、27−29節を時の順に記せるものと見ればこの解釈が正しいけれども出2:14との矛盾よりみてこれをイスラエルの出エジプトの記事と見る説(C1、Z0、W2)に従った。そして次の二節をその詳説と見る。
11章28節
口語訳 | 信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 |
塚本訳 | 信仰によって、彼は“過越の食事”と、(門に)“血を”そそぐことを実行した。“殺す者が”(イスラエルの)初子たちに(手を)触れないためである。 |
前田訳 | 信仰によって、彼は過越と血のそそぎを行ないました。それは滅ぼすものが長子らに手を触れないためでした。 |
新共同 | 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。 |
NIV | By faith he kept the Passover and the sprinkling of blood, so that the destroyer of the firstborn would not touch the firstborn of Israel. |
註解: 疵なき当歳 の羔羊を屠りその血を家の門の柱と鴨居とに灌ぐべしとの命を神より受けてモーセがイスラエル全民衆と共にこれを実行したことは(出12章)、唯神の言を信じたからであって、その結果如何は事実未だ目撃せず唯信仰によりてこれを把握したに過ぎなかった。そしてその結果は初子を滅す神の使いが彼らの門前を過越して彼らの初子に触れないということであった。
11章29節
口語訳 | 信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。 |
塚本訳 | 信仰によって、イスラエル人たちは陸地のように紅海を歩いて通ったが、エジプト人たちは、これを試みて溺れた。 |
前田訳 | 信仰によって、人々は紅海を乾いた地のように渡りましたが、エジプト人はそれを試みておぼれました。 |
新共同 | 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。 |
NIV | By faith the people passed through the Red Sea as on dry land; but when the Egyptians tried to do so, they were drowned. |
註解: 出14:13−31の記事のごとく信仰は不可能事を可能ならしめ、神の力を信ずることによりて生命の冒険をもこれを敢えてすることができる。
辞解
[イスラエルは] 原文になし、唯複数動詞を始めて用いている故、イスラエルがその主格なることは明らかである。
11章30節
口語訳 | 信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。 |
塚本訳 | 信仰によって、エリコの城壁は七日間取り囲まれて崩れた。 |
前田訳 | 信仰によってエリコの城壁は七日間取り巻かれて落ちました。 |
新共同 | 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。 |
NIV | By faith the walls of Jericho fell, after the people had marched around them for seven days. |
註解: モーセおよび出エジプトの記事は前節で終り本節および次節はカナンの征服について記されている。すなわちイスラエルはヨシュアに率いられてヨルダンを渡るや否や堅牢なるエリコの城壁を乗取らなければならず、彼らの力はこれを為すことができなかった。然るに彼らはエホバの言(ヨシ6:2−6)に従い七日の間毎日一回ずつエリコの石垣の周囲を廻り七日目に七次 邑 を繞 り喇叭 を吹き閧声 を挙げた時この石垣は崩れた。これラッパや声によって崩れたのではなく彼らの信仰に因ったのである。
11章31節
口語訳 | 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。 |
塚本訳 | 信仰によって、遊女ラハブは(イスラエルの)間諜を平和をもって歓迎したので、不従順な(国)人と一しょに滅びなかった。 |
前田訳 | 信仰によって遊女ラハブはスパイを平和に迎えたので、不従順な人々とともには滅びませんでした。 |
新共同 | 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。 |
NIV | By faith the prostitute Rahab, because she welcomed the spies, was not killed with those who were disobedient. |
註解: ヨシ2章。ヨシ6:17、ヨシ6:22以下異邦婦人でかつ遊女である点より言えば、最も神に遠きがごときラハブもイスラエルが神の選民であり神はイスラエルのために大なる御業を為し給い、また将来も為し給うであろうことを確信して、イスラエルの間者 を平和に接待して彼らを殺さなかった。これ彼女の信仰であった。神の目にこの信仰が最も貴きものに見え、不従順なりしエリコ市民が亡ぼされて彼女のその一族のみ救われた。信仰の如何なるものなりやまた神の目に如何に貴きものなりやを見ることができる。
11章32節 この
口語訳 | このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。 |
塚本訳 | なおわたしは何を言おうか。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ(等の士師)、ダビデ(王)とサムエルと(多くの)預言者たちとについて話すには、わたしに時が足りない。 |
前田訳 | このうえ何を申しましょう。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデとサムエルそして預言者たちについて語るには時間が足りますまい。 |
新共同 | これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。 |
NIV | And what more shall I say? I do not have time to tell about Gideon, Barak, Samson, Jephthah, David, Samuel and the prophets, |
註解: 著者は創世記からヨシュア記に至るまでの歴史中の主要の信仰的人物につき叙述したる後、士師、諸王および預言者につきて一々詳述することはあまりに冗長にわたるが故に本節以下40節に至るまでこれを略述している。引照を参照せば叙述の内容は明らかである。
口語訳 | 彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、 |
塚本訳 | これらの人たちは、信仰のゆえに、(あるいは敵の)国々を征服し、(あるいは)正義を行い、(あるいは神から)約束のものを得、(あるいは)獅子の口を閉じ、 |
前田訳 | 彼らは信仰によって国々を征服し、義を実践し、約束のものを受け、獅子の口をふさぎ、 |
新共同 | 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 |
NIV | who through faith conquered kingdoms, administered justice, and gained what was promised; who shut the mouths of lions, |
註解: 「信仰によりて」は38節までの凡ての叙述に冠せられているものと見るべきである。33、34節にある九ヶ条の信仰的働きはこれを三部に分ち各部三つづつより成るものと見るべきであろう(Z0)。第一部は信仰の公的発露、第二部はその私的発露、第三部はその戦争または争闘における発露である。
註解: ダビデのペリシテ人における、ギデオンのミデアン人における、バラクのカナン人における、サムソンのペリシテ人における、エフタのアンモン人におけるごとき場合(士4章、士7章、士11章、士14章。Uサム5:17、Uサム8:2、Uサム10:12)みな信仰による征服であった。
註解: 諸王や預言者たちが信仰によって義を行いし場合(Uサム8:15。Tサム12:4。T歴18:14。U歴9:8)。
註解: 「約束を得」と訳するを可とする。すなわち彼らは預言者の口を通じて神の約束を得た。約束のものは未だこれを得なかった(13、39節)。あるいはこれをダビデが王位を得しことを指すと解する説もある(Uサム7:11、12)。
註解: ダニエル、サムソン、ダビデの場合(ダニ6:23。士14:5、6。Tサム17:34、35)。
口語訳 | 火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 |
塚本訳 | (あるいは)火の力を消して(害を受けず、あるいは)剣の刃を免れ、(あるいは霊肉の)弱い状態から強くされ、(あるいは)戦に強くなり、(あるいは)敵軍を打ち負かした。 |
前田訳 | 火の力を消し、剣の刃をのがれ、弱さから強められ、戦いに雄々しくなって他国の軍を打ち破りました。 |
新共同 | 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 |
NIV | quenched the fury of the flames, and escaped the edge of the sword; whose weakness was turned to strength; and who became powerful in battle and routed foreign armies. |
註解: シャデラク、メシャク、アベデネゴの場合(引照1)。
註解: ダビデ、エリヤ、エリシャ等の場合(出18:4。Tサム18:11。Tサム19:10。詩144:10。T列19章。U列6章)。
註解: サムソンの場合を指すならん(士16:28以下)。
註解: ギデオン、サムソン、ダビデ等の場合(士7:21。士15:8、士15:15、16。Tサム17:51、52。Uサム8:1−6。Uサム10:15−18)。
註解: ダビデの場合のごとき(Tサム17:52)またユダス、マガベウスの勝利のごとき(A1)。
口語訳 | 女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。 |
塚本訳 | 婦人たちはその死んだ者を復活させてもらった。しかしほかの(男の)人々は、それにまさる復活に達するため、釈放を願わずに、車裂きにされた。 |
前田訳 | 女性は死別した人々を復活させてもらい、他の人々はよりよい復活を得るために、ゆるしを願わずに拷問されました。 |
新共同 | 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 |
NIV | Women received back their dead, raised to life again. Others were tortured and refused to be released, so that they might gain a better resurrection. |
註解: 信仰によりザレパテの寡婦の息子は、エリヤによりて復活せしめられ、シュナミ婦の子はエリシャによりて甦らされた(T列17:23。U列4:36、37)。
ある
註解: 外典マカベー書に記される祭司エレアザルとその妻および七人の子の殉教の死について言っているのである(外典第二マカベー書6、7章参照)。
辞解
[更に勝りたる復活] この世の生命を免 されることに比して勝れる復活の意。
[極刑に甘んじたり] etumpanisthêsan は tumpanon なる車輪状の刑器に磔り付けて死刑に処すること。
11章36節 その
口語訳 | なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。 |
塚本訳 | また他の人々は、嘲りや鞭打ちや、そのほか縄目や牢の試みを受けた。 |
前田訳 | また他の人々はあざけりと笞打ち、さらに逮捕と投獄を経験しました。 |
新共同 | また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 |
NIV | Some faced jeers and flogging, while still others were chained and put in prison. |
註解: 主としてマカベー書の記事を背景として(第一マカベー書9:26。第二マカベー書7:7、10、13、15。6:30等)殉教の死にまで至らざるも信仰のため非常なる患難を嘗めし人々を指す。また、エレ37、38章などもこの例と見ることができる。
口語訳 | あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 |
塚本訳 | 石で打ち殺され、鋸で引かれ、剣で殺されて死に、羊の皮や山羊の皮を着てうろつき回り、見捨てられ、悩まされ、虐待され、 |
前田訳 | 彼らは石打ちされ、さいなまれ、鋸で引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着てさまよい、無一物になり、悩まされ、苦しめられました。 |
新共同 | 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 |
NIV | They were stoned ; they were sawed in two; they were put to death by the sword. They went about in sheepskins and goatskins, destitute, persecuted and mistreated-- |
註解: ゼカリヤ、ナボテ等はこの運命に遭った。また伝説によればエレミヤも石にて打たれたとのことである。
註解: 如何なる事実を指すか不明、前後との対照上この一句が甚だしく不釣合なのであるいはこれを除かんとし、またはこれを誤字と認めて他の文字をこれに当てんとする試みが多くあるけれども確定的ではない。
註解: イザヤはユダの王マナセによりて鋸 刑に処せられたとの伝説がある。
註解: エリヤの時代の預言者たちおよびウリヤの場合のごとき(T列19:10。エレ26:23)。
註解: これより以下一層程度の低き苦難の例である。エリヤおよびエリシャはかかる姿にて経 廻っていた。
註解: 特定の人または場合を指したのではなく、信仰の生涯を送らんとする人に臨む一般的患難をいう。
口語訳 | (この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。 |
塚本訳 | ──この世は(純潔な)彼らにふさわしくなかった──彼らは荒野と山と洞穴と地の割れ目とをさまよい歩いたのである。 |
前田訳 | この世は彼らに値しなかったのです。彼らは荒野と山々とほら穴と地のくぼみをさまよっていました。 |
新共同 | 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 |
NIV | the world was not worthy of them. They wandered in deserts and mountains, and in caves and holes in the ground. |
註解: 直訳「世は彼らに値せざりき」であって、世より見ればこれらの人々はこの世に生活する価値なき塵芥 のごときものである(Tコリ4:13)。けれども実はこの世のあらゆる富も栄華も名誉も権勢も、信仰を持てる彼らに値せず、彼らに相応しからざるものである(C1)。(注意)括弧は原文になし。
註解: 聖徒のこの世における運命である(T列18:4、T列18:13。T列19:9)。
11章39節
口語訳 | さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 |
塚本訳 | そしてこれらすべての人々は信仰のゆえに(その正しいことを)証しされたが、(地上にいる間には)約束のものを受けなかった。 |
前田訳 | 彼らはみな信仰によって確かな証人とされましたが、約束のものを受けませんでした。 |
新共同 | ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 |
NIV | These were all commended for their faith, yet none of them received what had been promised. |
註解: 「彼ら」は4−38節に記されし諸々の聖徒たちであって、これらの人々はその信仰の故に聖書に彼らについて証せられているにもかかわらず、彼ら自身は「約束のもの」すなわちメシヤの救いの実現を見ずして死んだ。そは故あることであってその理由は次節に説明せられている。
11章40節 これ
口語訳 | 神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。 |
塚本訳 | 神がわたし達のために、(地上の幸福でなく、何か)これにまさる(偉大な)ことを計画されて(いて)、わたし達を抜きにしては、それは完成されないからである。 |
前田訳 | 神はわれらのためによりよいものをお備えです。それはわれらをさしおいて彼らが全うされることがないためです。 |
新共同 | 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。 |
NIV | God had planned something better for us so that only together with us would they be made perfect. |
註解: 私訳「そは神は我らのために勝れるものを予め備え給いて彼らも我らと偕ならずして全うせられざらしめたればなり」。本節は前節の理由であって、旧約の聖徒殊にその信仰の英雄らが「全うせられ」て完全なるメシヤ的救拯に与らなかった理由は、彼らの信仰が不完全だからではなく、それは「我ら」すなわち新約の聖徒らのためであった。すなわち神は我らのためにヨリ善きものを予め備え給うたからである。この「ヨリ善きもの」(本文 ─ 勝れるもの)とは旧約の聖徒と新約の聖徒とがみな一体となりてキリストの救いに与ることである。そして人はみなキリストの救いに与ることによりて全うせられることができる。このことを思いて新約の聖徒の地位と責任の重大であることが明らかにせられるであろう。
要義1 [信仰の内容]第十一章全体を通して信仰の内容が明瞭に説明されている。(1)信仰は現実の事実に関せず未来の希望に懸っている(1節)。ゆえに信仰の中心は我らの理智をもって把握し得ざる未来の事実、すなわち救拯(7節)復活(19節)永生(16節)約束(8節)を信ずることであって、我らの理智、経験より見て不可能と断ぜられるべき事実(11、12、19節。29−31節)をも信ずることである。(2)信仰はまた目に見ゆる事柄に関せず見えざる物を対象とする。すなわち見ゆる現象界を信ぜずしてこれを造り給える神を信じ(3節)見ゆる供物よりも見えざるその心の如何を重んじ(4−6節)、見えざる信仰によりて行動する(20−23節)。(3)従って信仰はこの世をもって一時的なる仮の存在と見(13、14節)、来世をもって永遠の実際的存在と見る(15、16節)、それ故に如何なる現世の困難にも耐え(25−27節。35−38節)喜んでこれを甘受する。(4)かかる信仰はその結果として偉大なる業績を顕わし(29−34節)、また人智の為し能わざることをも為す(5:11、35節)。(5)そしてかかる信仰をいだく者は神の約束を信ずるが故に神の報賞を受くる事を確信する(6、26節)。以上のごとくして聖書に所謂信仰の内容およびその効果を大観することができる(なおロマ4章参照)
要義2 [報賞について]27節にモーセが報いを望みしが故にエジプトの富もパロの女の子たる地位をも捨てたのであるとすれば、彼は神の恩恵のみに頼ったものでないように見えるかも知れない。これに対してカルヴィンは言う「ここに問題として論じていることは義すなわち救いの原因についてではなく一般に信仰に属するものを包含している。たしかに神の前に義とされる信仰は報いを眺めずして唯神の恩恵のみを眺め、我々の行為を眺めずして唯キリストのみを眺める。しかしながら信仰は一般に神の凡ての御言に関連している故義とされることの問題を離れて考える時は約束せられし報いにも関連することとなるのである。然り我らは信仰によりて神の約束し給える凡てのものを抱くのである。そして神は行為に対する報いを約束し給い、信仰はこれを把握するのである。しかしながらこの凡ては神が自由に信仰によりて義とし給うこととは関係がない、何となれば神の恩恵により義とされることが前に在るにあらざれば行為に関する如何なる報いも望み得ないからである」。なおマタ5:12要義二参照。