黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第3章

分類
2 準備 3:1 - 4:25
2-1 バプテスマのヨハネ 3:1 - 3:12
(マコ1:1-8)(ルカ3:1-17) 

註解: 王者の御行に際して必ずその先駆けがあると同じく、神の子の臨り給う前にもまたこれに相応しき先駆けがあった。そしてイエスの罪の赦しの福音の準備として必要なものは、人をして罪を知らしめ、罪を悔改めしむることであった。バプテスマのヨハネはこの使命を帯びてきたのである。罪の意識なきところ悔改めなく、悔改めなきところ救いはない。

3章1節 その(ころ)バプテスマのヨハネ(きた)り、ユダヤの荒野(あらの)にて(をしへ)()べて()[引照]

口語訳そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、
塚本訳そのころ、洗礼者ヨハネがあらわれて、ユダヤの荒野で教えを説いて、
前田訳そのころ洗礼者ヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを説いていう、
新共同そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
NIVIn those days John the Baptist came, preaching in the Desert of Judea

3章2節 『なんぢら悔改(くいあらた)めよ、天國(てんこく)(ちか)づきたり』[引照]

口語訳「悔い改めよ、天国は近づいた」。
塚本訳言う、「悔改めよ、天の国は近づいた。」
前田訳「悔い改めよ、天国が近づいたから」と。
新共同「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
NIVand saying, "Repent, for the kingdom of heaven is near."
註解: 悔改めることは、天国を近づけんためにもあらず、また天国に近づかんがためにもあらず、天国がすでに近づいたからである。キリストまさに来たらんとしつつあり、キリスト来たり給うところ、そこに天国がある。天国が近づくのは神が恩恵をもって人を救わんとし給うからであって、これをきいて罪人は悔改めなければならぬ。▲「天の国」「神の国」等と訳された「国」はBasileiaで「支配」を意味する。神の支配は我らの心の中に行われる。神の支配し給う処其処に「神の国」がある。なおマタ13:11脚注参照。▲▲「近づきたり」êngikenは完了形動詞で「近付いて其処に来ている」の意味である。
辞解
[悔改] metanoiaは心の傾向を一転することで、罪に服従している従来の傾向を一変して神に従うことである。
[天国] または「神の国」ともいう。マタイのみ主として「天国」といい、他は「神の国」なる語を用いている。なんとなれば「神の国」は地的にあらずして天的だからである。
[ユダヤの荒野] ヨルダン河の両岸に約12里の広さに拡がり死海にまでおよんでいる荒野のこと
[バプテスマのヨハネ] 彼はバプテスマを施したから他のヨハネと区別するためにかく名づけた

3章3節 これ預言者(よげんしゃ)イザヤによりて、()()はれし(ひと)なり、(いは)く『荒野(あらの)(よば)はる(もの)(こゑ)す「(しゅ)(みち)(そな)へ、その(みち)すぢを(なほ)くせよ」』[引照]

口語訳預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。
塚本訳この人は、預言者イザヤによってこう言われた人である。──“荒野に叫ぶ者の声はひびく、「主の道を用意し、”その“道筋をまっすぐにせよ。」”
前田訳彼こそ預言者イザヤにこういわれた人である、「荒野に呼ぶものの声がする。主の道をそなえ、彼の行く手を直くせよ」と。
新共同これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
NIVThis is he who was spoken of through the prophet Isaiah: "A voice of one calling in the desert, `Prepare the way for the Lord, make straight paths for him.'"
註解: イザ40:3マラ3:1を見よ。エホバがまさにその民イスラエルを捕囚より率い返らんとして、その使いがエホバの道を直くせよと呼ぶことを言ったのである。これが罪の捕囚より率い返らんがために、イエス・キリストがこの世に来たり給うことの前駆なるヨハネに関する預言であった。

3章4節 このヨハネは駱駝(らくだ)毛織衣(けおりごろも)をまとひ、(こし)(かは)(おび)をしめ、(いなご)野蜜(のみつ)とを(しょく)とせり。[引照]

口語訳このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
塚本訳このヨハネは駱駝の毛の外套を着、腰のまわりに皮の腰衣をつけ、蝗と野蜜とがその食べ物であった。
前田訳彼ヨハネはらくだの毛の衣を着、腰に皮の小袴(こばかま)をし、食べ物はいなごと野蜜(のみつ)であった。
新共同ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
NIVJohn's clothes were made of camel's hair, and he had a leather belt around his waist. His food was locusts and wild honey.
註解: 彼の衣食すらすでに悔改めの説教であった。彼の説教は彼の生活に一致していた。
辞解
[駱駝の毛織衣] 粗野にして永続性を持っている、この衣服が彼の性格に相応しかった。
[皮の帯] ヨハネの先駆者ともいうべきエリヤの帯と同一である(U列1:8
[野蜜] 最も質素なる食物

3章5節 ここにエルサレム(およ)びユダヤ全國(ぜんこく)、またヨルダンの(ほとり)なる全地方(ぜんちはう)人々(ひとびと)、ヨハネの(もと)()できたり、[引照]

口語訳すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、
塚本訳するとエルサレムをはじめとしてユダヤ全体、またヨルダン川沿岸の地全体の人々がヨハネの所にでて来て、
前田訳そこでエルサレムと全ユダヤとヨルダン周辺一帯から人が彼のところに出かけて来て、
新共同そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
NIVPeople went out to him from Jerusalem and all Judea and the whole region of the Jordan.

3章6節 (つみ)()(あらは)し、ヨルダン(がは)にてバプテスマを()けたり。[引照]

口語訳自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
塚本訳自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
前田訳おのが罪を告白してヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
新共同罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
NIVConfessing their sins, they were baptized by him in the Jordan River.
註解: ヨハネの名声は嘖々(さくさく)たるものであり、本文のごとき地方より人々来たってバプテスマを受けた。ヨハネのバプテスマに際しては罪を告白し、キリストのバプテスマにおいてはキリストを告白する(使19:4)。二者の間に大差があるけれども前者は後者のために必要である。
辞解
[バプテスマ] 水に浸す式であって、古来礼拝の前、異邦人がエホバの宮に献物をなす場合 (創35:2出19:7出19:19Tサム16:5) 等に行われていた。ヨハネは悔改めの場合にこれを行った

3章7節 ヨハネ、パリサイ(びと)およびサドカイ(びと)のバプテスマを()けんとて、(おほ)(きた)るを()て、(かれ)らに()[引照]

口語訳ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
塚本訳ヨハネは大勢のパリサイ人とサドカイ人とが洗礼を受けに来るのを見て言った、「蝮の末ども、(わたしから洗礼を受けて)来るべき(神の)怒り(の裁き)を免れるようにと、だれがおしえたのか。
前田訳多くのパリサイ人とサドカイ人が洗礼のところへ来るのを見てヨハネは彼らにいった、「まむしの子らよ、だれが来たるべき怒りからのがれることを教えたか。
新共同ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
NIVBut when he saw many of the Pharisees and Sadducees coming to where he was baptizing, he said to them: "You brood of vipers! Who warned you to flee from the coming wrath?
註解: 傲慢であった彼らすらヨハネの元にくる程彼の名声が高かった。ただし彼らにしては多数来ただけで他の人々は更に多かったこともちろんである(ルカ7:30)。
辞解
[パリサイ人] 信仰的一社会階級である。パリサイは隔離を意味し、彼らは厳格に律法を守ることの信仰から、俗人より優れるものと自信し、俗人らより分離していた。彼らは律法のみならず伝説をも重んじ霊魂の不死、肉体の復活を信じ、その他外部的行為に一々規律を立てて厳格にこれを守った。
[サドカイ人] モーセ五書の律法のみを遵守し、霊魂不滅と復活を否定し、パリサイ人のごとく厳格なる律法主義者ではなく、むしろ自由主義者であった。したがって一般的には勢力なく、ただ上流社会に重に行われた

(まむし)(すゑ)よ、(たれ)(なんぢ)らに、(きた)らんとする御怒(みいかり)()くべき(こと)(しめ)したるぞ。

註解: 「汝らはアブラハムの裔であると誇っている、しかるに汝ら悪意奸計(かんけい)に充てる蝮の裔ではないか」とヨハネは呼んでいる。「来るべき御怒」は世の終わりの審判であって、彼らはバプテスマによりてこれを避けんとした(ロマ2:5

3章8節 さらば悔改(くいあらため)相應(ふさは)しき()(むす)べ。[引照]

口語訳だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
塚本訳(ほんとうに悔改めたのか。)それなら(洗礼を受けるだけでなく)、悔改めにふさわしい実を結べ。
前田訳悔い改めにふさわしい実を結べ。
新共同悔い改めにふさわしい実を結べ。
NIVProduce fruit in keeping with repentance.
註解: 「果」は「行為」であって単に形式的にバプテスマを受けるだけではならない、これに相応しき行為をなすことが必要である

3章9節 (なんぢ)ら「われらの(ちち)にアブラハムあり」と(こころ)のうちに()はんと(おも)ふな。(われ)なんぢらに()ぐ、(かみ)(これ)らの(いし)よりアブラハムの()らを(おこ)得給(えたま)ふなり。[引照]

口語訳自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
塚本訳『われわれの先祖はアブラハムである(から大丈夫だ)』などと考えてはならない。わたしは言う、神はそこらの石ころからでも、アブラハムの子供を造ることがお出来になるのだ。
前田訳そしてわれらには父なるアブラハムがあると心の中にいおうと思うな。あなた方にいうが、神はこれらの石からアブラハムに子をおこしたもう。
新共同『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
NIVAnd do not think you can say to yourselves, `We have Abraham as our father.' I tell you that out of these stones God can raise up children for Abraham.
註解: ユダヤ人は悔改めに必要なる果を結ばずとも、アブラハムの子孫であることをもって確実なる救いの保証と思っていた。今日のキリスト教会においてその教会の(かこい)の中にあることをもって救いの保証と考えているものがあると同様である。しかしながら神はアブラハムの子と誇るものを亡ぼし、彼らが石塊(いしくれ)として軽視している者を、却ってアブラハムの子たる栄位に置くことを得給う。名義形式のみキリスト者であることを誇ってこれに相応しき果を結ばぬものにとっての大なる誠である

3章10節 (をの)ははや()()()かる。されば(すべ)()()(むす)ばぬ()は、()られて()()()れらるべし。[引照]

口語訳斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
塚本訳斧はすでに木の根に置いてある。だから、良い実を結ばない木はどんな木でも、切られて火の中に投げ込まれる。
前田訳すでに斧は木の根に置かれている。よい実を結ばぬ木はみな切りとられて火に投げ込まれよう。
新共同斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
NIVThe ax is already at the root of the trees, and every tree that does not produce good fruit will be cut down and thrown into the fire.
註解: 審判はまさに始まらんとしている。一刻の躊躇は人を永遠の滅亡に導くであろう

3章11節 (われ)(なんぢ)らの悔改(くいあらため)のために、(みづ)にてバプテスマを(ほどこ)す。されど(われ)より(のち)にきたる(もの)は、(われ)よりも能力(ちから)あり、(われ)はその(くつ)をとるにも()らず、(かれ)(せい)(れい)()とにて(なんぢ)らにバプテスマを(ほどこ)さん。[引照]

口語訳わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
塚本訳わたしは悔改めのために水で洗礼を授けているが、わたしのあとから来られる方はわたしよりも力がある。わたしはその靴をぬがしてあげる値打もない者である。その方は聖霊と(裁きの)火とで洗礼をお授けになる。
前田訳わたしはあなた方を悔い改めのために水で洗礼する。しかしわが後に来るものはわたしより偉く、わたしはその靴をお脱がせする資格もない。彼はあなた方を聖霊と火で洗礼なさろう。
新共同わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
NIV"I baptize you with water for repentance. But after me will come one who is more powerful than I, whose sandals I am not fit to carry. He will baptize you with the Holy Spirit and with fire.
註解: まさに来たらんとしているのはキリストであって、彼は万人渇仰(かつごう)の的となっていたヨハネよりも能力あり、彼はヨハネのごとく単に水をもって悔改めのバプテスマを施すにあらずして、聖霊をもって新たに更生しめ、火をもって古き肉を焼きつくすであろう。彼に比してヨハネは数えるに足らない者である。
辞解
[鞋をとる者] 日本の封建時代の「草履取」と同じく僕または奴隷を意味する

3章12節 ()には()()ちて禾場(うちば)をきよめ、その(むぎ)(くら)(をさ)め、(から)()えぬ()にて()きつくさん』[引照]

口語訳また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
塚本訳その手に箕をもっておられるので、(すぐ)脱穀場の掃除をされる。すなわち麦は集めて倉にいれ、籾殻は消えぬ火で焼きすてられるであろう。(聖霊と火の洗礼とはこれである。)」
前田訳彼は箕(み)をその手にし、その脱穀場を清め、麦をその倉に納め、籾殻(もみから)を消えぬ火で焼きつくされよう」。
新共同そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
NIVHis winnowing fork is in his hand, and he will clear his threshing floor, gathering his wheat into the barn and burning up the chaff with unquenchable fire."
註解: 「彼を信ずる者は裁かれず、信ぜぬ者は既に裁かれたり」(ヨハ3:18)。罪は今聖霊の火にてこれを焼き尽さざれば、後にいたりて審判の火にて焼き尽されなければならない。前者は救いの火、後者は滅亡の火である。いずれにしても罪は永劫に神の御前に存在を続けることができない。
辞解
[▲きよめ] 動詞 diakathariô は徹底的に潔めること。
要義 [神の怒りについて] 神は愛なるがゆえに怒らないと考える人がある。しかしながら神は罪即ち不義に対しては怒り給う (ロマ1:18ロマ2:5Tテサ1:10Tテサ2:16等) 。もし不義を黙許する神があるならば、それは真の神ではない。神は御自身に反するものをこの天地間に一つも存在することを許し給わない。やがてはその怒りの火にすべての罪は焼き尽くされるのである。しかしこの義の神が愛の神に在して、我ら罪人をあわれみ、すべての人類の罪をキリストの上に置き十字架上にすべての罪を滅ぼし「我らを来たらんとする御怒りより救い出し」給うことはすべて彼の恩恵によるのであって、罪を悔改めて彼を信じる者はこの救いに預かり、この怒りを免れることができる。

2-2 イエスのバプテスマ 3:13 - 3:17
(マコ1:9-11)(ルカ3:21-23) 

3章13節 ここにイエス、ヨハネにバプテスマを()けんとて、ガリラヤよりヨルダンに(きた)(たま)ふ。[引照]

口語訳そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
塚本訳ほどなくイエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネの所に来られる。彼から洗礼を受けるためであった。
前田訳そこにイエスがガリラヤから現われてヨルダン川のヨハネのもとに来られた。受洗のためであった。
新共同そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
NIVThen Jesus came from Galilee to the Jordan to be baptized by John.
註解: ヨハネはメシヤのくるべきことを知っていたが、いまだイエスを知らなかった(ヨハ1:33)。イエスを見て直ちに、彼がそれであることを直感した。

3章14節 ヨハネ(これ)(とど)めんとして()ふ『われは(なんぢ)にバプテスマを()くべき(もの)なるに、(かへ)つて(われ)(きた)(たま)ふか』[引照]

口語訳ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
塚本訳しかしヨハネは、「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきであるのに、あなたがわたしの所に来られるのか」と言って、しきりに辞退したが、
前田訳彼はしきりにとめていう、「わたしこそあなたから受洗すべきですのに、あなたがわたしのもとに来られるのですか」と。
新共同ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
NIVBut John tried to deter him, saying, "I need to be baptized by you, and do you come to me?"
註解: ヨハネこそ却ってキリストよりバプテスマを受けてキリストの名に入れられキリストを告白してその罪を赦される必要があった

3章15節 イエス(こた)へて()ひたまふ『(いま)(ゆる)せ、われら()(ただ)しき(こと)をことごとく爲遂(しと)ぐるは、當然(たうぜん)なり』ヨハネ(すなは)(ゆる)せり。[引照]

口語訳しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
塚本訳イエスは答えられた、「さあ、そう言わずに!こうして、せねばならぬことをなんでも為遂げることは、われわれ(二人)にふさわしいのだから。」そこでヨハネが譲った。
前田訳イエスは彼に答えられた、「そういわずに。こうして、すべての義を満たすのはわれらにふさわしいから」と。そこでヨハネはゆずった。
新共同しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
NIVJesus replied, "Let it be so now; it is proper for us to do this to fulfill all righteousness." Then John consented.
註解: 「正しきこと」は神の御旨にしたがうことである。そしてイエスは神の御旨にしたがい人の姿を取りてこの世に来たり給い、死に至るまで神に対する絶対の従順を示し給うた(ピリ2:8)。すなわち正しきことをことごとく成し遂げ給うた。バプテスマもこの従順の一部であって、あくまでも我らと同じ人となり給えることを表徴したのである。十字架と共に彼が罪人と同じものとなり給える最良の証拠でもある。すなわちこれも正しきことの一つであって、イエスはヨハネと共に(われら)これを成し遂げんとし給う。はるかにガリラヤよりヨルダンに来たり給い、ヨハネに向かって「許せ」という主の大なる謙遜を思え。

3章16節 イエス、バプテスマを()けて(ただ)ちに(みづ)より(あが)(たま)ひしとき、()よ、(てん)ひらけ、(かみ)御靈(みたま)の、鴿(はと)のごとく(くだ)りて(おの)(うへ)にきたるを()(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
塚本訳イエスは洗礼を受けて、すぐ水から上がられた。すると、みるみる天が開けて、神の御霊が鳩のように自分の上に下って来るのを御覧になった。
前田訳受洗してイエスはただちに水からあがられた。すると見よ、天が開け、神の霊が鳩のように下って彼の上に来るのをごらんになった。
新共同イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
NIVAs soon as Jesus was baptized, he went up out of the water. At that moment heaven was opened, and he saw the Spirit of God descending like a dove and lighting on him.

3章17節 また(てん)より(こゑ)あり、(いは)く『これは()(いつく)しむ()、わが(よろこ)(もの)なり』[引照]

口語訳また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
塚本訳するとその時、「これは(いま)わたしの“最愛の子、”“わたしの心にかなった”」と言う声が天から出た。
前田訳すると見よ、天から声がしていう、「これこそわがいとし子、わがよみするもの」と。
新共同そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
NIVAnd a voice from heaven said, "This is my Son, whom I love; with him I am well pleased."
註解: 聖霊によりて生まれ給いしイエスは、ここに新たにその上に聖霊が下り、かつ神よりの証を受けて公生涯に入り給うた。ここにヨルダン河の畔、広く天を望み得るそのところにおいて、天開けて父なる神と、子なる神と、聖霊なる神とが一所に会し給い、父なる神よりの頌辞が響き渡れる最も壮厳なる光景を呈し、ヨハネはこれを目撃したのである。
辞解
[はとの如く] 聖霊降下の状態を形容するに最も適した語であったろう。
要義1 [イエスのバプテスマの意義] イエスは御自身に罪を有し給わないので罪の悔改めのバプテスマを受ける必要はなかった。また神の国に入らんがためにもその必要がなかった。彼自身神の子に在りし給うたからである。ただ彼は父の御旨によりて卑下(へりくだ)り人としてこの世にきたり給うた。彼は人の(すがた)を取り、人のごとくに誘われ、人の罪のために十字架につき給うた。彼は死に至るまで父の御旨に従い完全なる従順の生活を送り給うた。彼はこの立場において、即ち一人の人間としてヨハネよりバプテスマを受け給うたのである。ここに彼の完全なる謙遜を見ることができる。
そして我らの受けるバプテスマがあたかも我らの新生命の表徴であり、また同時にその公表であると同じく、イエスのバプテスマは彼が新たに伝道の生涯に入り給う場合の新生涯の表徴でありまた公表であった。神が「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」といい給いしことも、むしろこれを世に示さんがためであった(マタ17:5)。かくしてイエスはその公生涯に入り給うたのである。
要義2 [悔改めについて] 悔改めすなわちメタノイヤは新たなる心を持つことであって、単なる罪に対する悔改めの念のみにては悔改めではない。悔改めは神に向かってなされその憐みを求むる心であり(ルカ18:13)、罪の赦しのバプテスマの前提である(使2:38)。ゆえに全心の転化であって(ヨブ42:5、6)、その一部の改良ではない。したがって悔改めの結果は良き果を結ぶことであり(使26:20)、かかる悔改めがある場合に天において歓喜があるのである(ルカ15:7-10)。

マタイ伝第4章
2-3 荒野の試誘(こころみ) 4:1 - 4:11
(マコ1:12、13)(ルカ4:1-13) 

註解: イエスがその公生涯に入り給うや否や彼を襲ってきたものは悪魔であった。あたかも彼の降誕の際ヘロデが彼を苦しめまつりしと同様である。人が神に近づき神の御旨を行う事を最も嫌う者は悪魔であって、かかる都合に悪魔はその暴威を振るうのである。イエスすらその厄を免れることができなかった。

4章1節 ここにイエス御靈(みたま)によりて荒野(あらの)(みちび)かれ(たま)ふ、惡魔(あくま)(こころ)みられんとするなり。[引照]

口語訳さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
塚本訳間もなくイエスは悪魔の誘惑にあうため、御霊につれられて荒野に上られた。
前田訳そこでイエスは荒野へと霊に導かれた。悪魔に試みられるためであった。
新共同さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
NIVThen Jesus was led by the Spirit into the desert to be tempted by the devil.
註解: この荒野の試誘(こころみ)は人類の受けるすべての(さそい)の標本である。イエスも「自ら試みられて苦しみたれば試みられる者を助け得る」のであって、「すべてのことにおいて兄弟のごとくなる」がためにこの試誘(こころみ)に会い給うことが必要であった。聖霊が彼を導いたのはそのためである(ヘブ2:17、18)。▲「試みられんとするなり」は「試みられんために」であって、御霊がイエスを(わざ)と荒野に導いたのであった。サタンが彼を導いたのではなかった。
辞解
[荒野] 伝説によればエリコの西北の山であったとのことである。もしモーセとエリヤの場合と同一であったとすればシナイ山であろう。場所は確定することができない。

4章2節 四十(しじふ)(にち)四十(しじふ)()斷食(だんじき)して、(のち)()ゑたまふ。[引照]

口語訳そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
塚本訳四十日四十夜断食をされると、ついに空腹を覚えられた。
前田訳四十日四十夜断食し、ついに飢えられた。
新共同そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
NIVAfter fasting forty days and forty nights, he was hungry.
辞解
[四十日四十夜] 四十日四十夜は聖書中において最も意味深き数である。モーゼとエリヤも共に四十日四十夜をシナイ山に費やした(引照参照)。ただモーセは栄光の中にありしに反し、キリストは卑下りて人の(すがた)を取り給い、エリヤは予め天使に養われしに反しキリストは後に至って辛うじて天使がきたり仕えるところとなった。この四十日は彼の公生涯に入り給う準備であって断食しつつ祈り給うことが必要であった。

4章3節 (こころ)むる(もの)きたりて()ふ『(なんぢ)もし(かみ)()ならば、(めい)じて(これ)()(いし)をパンと()らしめよ』[引照]

口語訳すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
塚本訳すると誘惑する者[悪魔]が進み寄って言った、「神の子なら、(そんなにひもじい思いをせずとも、)そこらの石ころに、パンになれと命令したらどうです。」
前田訳試みるものが彼に近づいていった、「もし神の子なら、これらの石にパンになれといいなさい」と。
新共同すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
NIVThe tempter came to him and said, "If you are the Son of God, tell these stones to become bread."
註解: イエスは飢えて切にパンの必要を感じ給うた。これ万人共通の要求である。もしイエスがその神の子たるの力をもってこの石をパンとなし給うならば・・・そして彼はもしこれを欲するならばなし得給うた・・・彼の飢えはいやされ、また同時に人類の飢えはいやされて、生活問題はこの世界より消滅するであろう。しかるにキリストはこれを行い給わなかった。神の言にはかなわなかったからである。
辞解
[試むる者] サタンである

4章4節 (こた)へて()(たま)ふ『「(ひと)()くるはパンのみに()るにあらず、(かみ)(くち)より()づる(すべ)ての(ことば)()る」と(しる)されたり』[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
塚本訳しかし答えられた「“パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる”と(聖書に)書いてある。」
前田訳答えていわれた、「聖書にいわく、『パンだけで人は生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによる』と」。
新共同イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
NIVJesus answered, "It is written: `Man does not live on bread alone, but on every word that comes from the mouth of God.' "
註解: 申8:3の引用である。肉の生命はパンにより、霊の生命は神の言葉による。人間の人間たるゆえんは後者によるのである。イエスは聖言の剣をもって悪魔を撃退し給うた。以下の二つの試誘(こころみ)においても同様である。これを見てもイエスが聖者に通暁(つうぎょう)し給いしこととまた彼が聖書を神の言葉として信じ、これを用い給いしこととを知る事ができる。かかる実例はなお多く存している (マタ12:3-8、マタ21:24マタ22:29マタ26:31マタ26:54ルカ4:21ヨハ5:39ヨハ7:38ヨハ7:42ヨハ13:18 。▲ただし注意すべきことは、イエスは聖書の言葉に文学的、機械的に服従したのではなく(6節を見よ)、父なる神の御心に従われたのであった(7節を見よ)。

4章5節 ここに惡魔(あくま)イエスを(せい)なる(みやこ)につれゆき、(みや)頂上(いただき)()たせて()ふ、[引照]

口語訳それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
塚本訳そこで悪魔はイエスを聖なる都(エルサレム)に連れてゆき、宮の屋根の上に立たせて
前田訳そこで悪魔は彼を聖都へ連れ行き、宮の屋根に立たせて彼にいう、
新共同次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
NIVThen the devil took him to the holy city and had him stand on the highest point of the temple.
辞解
[聖なる都] エルサレムで「宮」はその神殿である

4章6節 (なんぢ)もし(かみ)()ならば(おの)()(した)()げよ。それは「なんぢの(ため)御使(みつかひ)たちに(めい)(たま)はん。(かれ)()にて(なんぢ)(ささ)へ、その(あし)(いし)にうち()つること()からしめん」と(しる)されたるなり』[引照]

口語訳言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
塚本訳言った、「神の子なら、下へ飛びおりたらどうです。“神は天使たちに命じて、手にてあなたを支えさせ、足を石に打ち当てないようにしてくださる。”と(聖書に)書いてあります。(人々はそれを見て信じ、たちどころにあなたの国が出来ます。)」
前田訳「もし神の子なら、あなた自身を下に投げなさい。聖書にいわく、『彼はなんじのために天使たちを動かし、彼らは手のうちになんじを支えよう、なんじが足を石に打ちつけないように』と」。
新共同言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
NIV"If you are the Son of God," he said, "throw yourself down. For it is written: "`He will command his angels concerning you, and they will lift you up in their hands, so that you will not strike your foot against a stone.' "
註解: 悪魔はイエスが聖言をもって彼を撃退し給いしを見て、次に同じく詩篇より聖書を引用して(引照参照)彼を誘いキリストをしてその資格に相応しき奇跡を行わしめんとした。すなわち宗教的の試誘(こころみ)であった。もし彼がこれを行い給うたならば、その奇蹟を見て多くの人は彼を信じ、彼の宗教は非常なる勢力を得るであろう。しかるに彼はこれをも行い給はなかった、それが神の命令にあらずして悪魔のささやきであったからである。悪魔すら聖言を用いることができる。

4章7節 イエス()ひたまふ『「(しゅ)なる(なんぢ)(かみ)(こころ)むべからず」と、また(しる)されたり』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
塚本訳イエスは言われた、「ところが、“あなたの神なる主を試みてはならない”とも書いてある。」
前田訳イエスはいわれた、「聖書にまたいわく、『なんじの神である主を試みるな』と」。
新共同イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
NIVJesus answered him, "It is also written: `Do not put the Lord your God to the test.' "
註解: 神の命によりて危険を冒す場合には神必ずこれを守り給う、自己の思想または悪魔のささやきに従って危険を冒しつつ神はたしてこれを護り給うや否やを見んとするものは神を試みるものであって、なすべきことではない。イエスは聖言に対し、また聖言をもって答え給うた。

4章8節 惡魔(あくま)またイエスを(いと)(たか)(やま)につれゆき、()のもろもろの(くに)と、その榮華(えいぐわ)とを(しめ)して()ふ、[引照]

口語訳次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
塚本訳悪魔はまたイエスを非常に高い山に連れてゆき、世界中の国々と、栄華とを見せて
前田訳また悪魔は彼をいと高き山に連れ行き、世のすべての王国とその繁栄を彼に示していった、
新共同更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
NIVAgain, the devil took him to a very high mountain and showed him all the kingdoms of the world and their splendor.

4章9節 (なんぢ)もし平伏(ひれふ)して(われ)(はい)せば、(これ)()(みな)なんぢに(あた)へん』[引照]

口語訳言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
塚本訳言った、「あれを皆あげよう、もしひれ伏してわたしをおがむなら。」
前田訳「もし伏してわれを拝むならば、これらすべてをなんじに与えよう」と。
新共同「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
NIV"All this I will give you," he said, "if you will bow down and worship me."
註解: 第三の試誘(こころみ)は政治的試誘(こころみ)であった。まづ政治的にこの世の国々を征服したる後にその福音を伝え、人民を導いたならば容易に彼らを信ぜしむることを得るであろうとはすべての人の考える点である。そして悪魔は「この世の君」(ヨハ14:30)、または「この世の神」(Uコリ4:4)であって「世のもろもろの国とその栄華」は彼の支配の下にあるのである。これを得んと欲せば彼に跪かなければならぬ。もしイエスが誠実よりも政策を愛するごとき人であったならば、このサタンの試誘(こころみ)にしたがったであろう。

4章10節 ここにイエス()(たま)ふ『サタンよ、退(しりぞ)け「(しゅ)なる(なんぢ)(かみ)(はい)し、ただ(これ)にのみ(つか)(まつ)るべし」と(しる)されたるなり』[引照]

口語訳するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
塚本訳そこでイエスは言われる、「引っ込んでいろ、悪魔!(聖書に)“あなたの神なる主をおがめ、”“主に”のみ“奉仕せよ”と書いてあるのだ。」
前田訳そこでイエスはいわれる、「サタン、消えてうせよ。聖書にいわく、『なんじの神である主を拝み、彼ひとりに仕えよ』と」。
新共同すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
NIVJesus said to him, "Away from me, Satan! For it is written: `Worship the Lord your God, and serve him only.' "
註解: ここにおいてイエスは奮然として怒り給うた。キリストに取ってたとえ結果はいかに望ましきことであっても、悪魔に跪拝(きはい)することは神を拝することの反対であって絶対になし得ないことであった。ゆえに彼は申6:13を引用して彼を撃退し給うた。この一節は実にキリスト者が悪魔と戦う場合の最良の武器である。

4章11節 ここに惡魔(あくま)(はな)()り、()よ、御使(みつかひ)たち(きた)(つか)へぬ。[引照]

口語訳そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
塚本訳そこで悪魔が離れると、たちまち天使たちが来てイエスに仕えた。
前田訳そこで悪魔が彼を去ると、見よ、天使たちが近づいて彼に仕えていた。
新共同そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
NIVThen the devil left him, and angels came and attended him.
註解: 神の言葉を信じ、神を試みることなく、ただ神のみを拝しこれのみに仕えるイエスに対してはサタンは全く施すべき術を知らず敗北して彼を離れ去った。完全に悪魔に勝ち給えるキリストはアダム以来サタンに従わしめられし人類のための勝利の第一声であった。彼にあるすべてのものはこの勝利を共にすることができる。かかる勝者には天の使い来たりてすべての彼の必要を満たし、彼のすべての目的を達せしむるのである。
要義1 [悪魔について] 悪魔に相当するヘブル語はサタンであって「敵」を意味し、旧約聖書において「悪魔」および「敵」と訳されている。旧約聖書においてはヨブ記に多く記される外、その存在はあまりに明らかではなかった。けれども新約時代に至りその存在はますます明瞭になってきたのである。(けだ)し光が強きに従って暗きがますますその暗きを加えるのは当然だからである。新約時代においてサタンは「デイアポロス」ともいい、また「この世の君」「この世の神」「暗きの権威」「この世の暗きをつかさどる者」「空中にある権をつかさどる者」 (ヨハ12:31ヨハ14:30Uコリ4:4エペ2:2エペ6:12コロ1:13等) とも称せられている。悪魔が実在するや否やは悪魔の力を実験して始めてこれを知ることができる。実在せずただ人間の中の罪性を人格化して悪魔というに過ぎずと唱える人は未だ悪魔の力を経験しない人の言葉である。悪魔の本質起源等は不明であって聖書はこれにつき好奇心を満足せしめようとはしない。ただ堕落せる天の使いにはあらずやと想像されている(Uペテ2:4ユダ1:6)。悪魔はある範囲の自由を許され、神の子をすら誘うことができるけれども、結局において神の支配の下にあって神と相対抗することができない(ヨブ1:7-12)。ただ神に許されし範囲において悪魔は人を試み、これを神より引き離さんとしているのである。キリスト再臨の時彼は千年の間縛られ(黙20:2)、その後解放されたるけれども最後に火の池に投げ入れられる(黙20:3黙20:7、8)のである。神に最も近きものを悪魔は最も強く試み、時には光の子のごとくに装うことすらある。
要義2 [荒野の試誘(こころみ)の意義] (1)ある意味においてこの試誘(こころみ)はキリスト特有の試誘(こころみ)であった。なんとなれば石をパンとすること、高度より無事に飛び降りること、世界を征服することは神の子にあらざれば為し得ないことであってこれをなし得給うキリストに取って始めてこれが誘惑となったのである。(2)しかしながら他の意味においてはまた我らの試誘(こころみ)とも見ることもできる。けだし我らの誘われる場合は第一に我ら困厄欠乏に陥った場合であって「我ら一片のパンのためにも罪を犯すなり」とあるがごとく、困難欠乏にあっていよいよ主の力に頼るにあらざれば誘惑に陥ることは常にあり得ることであり、第二に我らが倨傲(きょごう)の心を持っている時であって、サタンは巧みに我らの高慢を利用して自己の思うがままに我らを動かし、我らをして神を信ぜずして自己の力に信頼するに至らしめ、第三に我らが周囲の事情境遇を第一に置く場合であって、まづ境遇を変化したならば、信仰は自然これにしたがうであろうと考える場合においてはサタンは巧みに我らを彼に跪拝(きはい)せしめ、ついにまったく我らを捕らえてしまうのであって、この意味においてキリストの荒野の試誘(こころみ)はすなわち我らの試誘(こころみ)であると見ることができる。すべての人間およびすべての教会はこの三者中のいずれかに合っているのであって、我らキリストの取り給える方法によりてこのサタンの力に打ち勝たなければならない。
要義3 [聖書神言説について] 聖書は神の言葉であるゆえにキリスト者はこれを信じ、これに頼りこれを重んじなければならない。しかしながらこれを重んじる結果種々の弊害を生じ得るのであって、この一段におけるイエスの聖書の利用法は我らに取って最も善き模範である。第一イエスは非常に聖書に精通し給うた。サタンの試誘(こころみ)に対し聖句が口をついて出づるはそのためであった。第二にイエスは聖書の一字一句を、そのまま神の霊感によれるものとして取り扱い給わなかった。すなわちその引用中に原文と異なるところがあり、場合に適するように変更を敢えてしたのはそのためである。マタ4:10申6:13とを比較せよ。第三に悪魔すら聖書を引用し得ることに注意しなければならぬ。ゆえに聖書を引用するものは必ずしも神の旨を語っているものではなく、その反対が事実である場合があり得るのである。ゆえに聖書は常に聖霊によりて用いられなければならない。そしてイエスはかく聖言を用い給うた。第四に聖言の権威をイエスは信じ給うたのであって、聖書は聖書なるがゆえに神の言葉としてこれを受け入れ給うたことは明らかである。我らの聖書に対する態度も全くこれと同一であるべきであろう。あるいは聖書の権威を否定し、あるいは逐語霊感説を唱え、あるいは聖霊によらずして聖言を引用する者はみな過誤に陥っているのである。

2-4 ガリラヤにおけるイエス 4:12 - 4:25
2-4-イ イエス、カペナウムに住みたまう 4:12 - 4:17
(マコ1:14、15)(ルカ4:14、15)

4章12節 イエス、ヨハネの(とら)はれし(こと)をききて、ガリラヤに退(しりぞ)き、[引照]

口語訳さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
塚本訳イエスは(洗礼者)ヨハネが牢に入れられたと聞くと、(郷里)ガリラヤ(のナザレ)に引っ込まれた。
前田訳彼はヨハネが捕われたと聞いてガリラヤに退かれた。
新共同イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
NIVWhen Jesus heard that John had been put in prison, he returned to Galilee.

4章13節 (のち)ナザレを()りて、ゼブルンとナフタリとの(さかひ)なる、海邊(うみべ)のカペナウムに(いた)りて()(たま)ふ。[引照]

口語訳そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
塚本訳それから(間もなく)ナザレを去って、(昔)ゼブルン(族)とナフタリ(族)との(領地であった)地方にある、(ガリラヤ)湖畔の(町)カペナウムに行って住まれた。
前田訳そしてナザレを去ってカペナウムに居を定められた。そこはゼブルンとナフタリの地方で湖畔であった。
新共同そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
NIVLeaving Nazareth, he went and lived in Capernaum, which was by the lake in the area of Zebulun and Naphtali--
註解: 荒野に試誘(こころみ)を受け給いしよりこの時までは約十一ヶ月を経過していた。この間の記事はヨハ1:15-5:47にこれを詳記している。附記参照。
辞解
[カペナウム] 「慰めの所」の意味であってガリラヤ湖の北岸にあり、今は荒廃に帰しているけれども当時は人口稠密の市街であった。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブおよびマタイの故郷である。

4章14節 これは預言者(よげんしゃ)イザヤによりて()はれたる(ことば)成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。(いは)[引照]

口語訳これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
塚本訳預言者イザヤをもって言われた言葉が成就するためであった。──
前田訳これは預言者イザヤのことばが成就されるためであった。いわく、
新共同それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
NIVto fulfill what was said through the prophet Isaiah:

4章15節 『ゼブルンの()、ナフタリの()(うみ)(ほとり)、ヨルダンの彼方(かなた)異邦人(いはうじん)のガリラヤ、[引照]

口語訳「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、
塚本訳“(ガリラヤの)湖に向かった、ゼブルン(族)の地とナフタリ(族)の地、ヨルダン川の向こう(のペレヤ)、異教人の(住む)ガリラヤ──
前田訳「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、
新共同「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
NIV"Land of Zebulun and land of Naphtali, the way to the sea, along the Jordan, Galilee of the Gentiles--

4章16節 (くら)きに()する(たみ)は、(おほい)なる(ひかり)()()()()(かげ)とに()する(もの)に、(ひかり)のぼれり』[引照]

口語訳暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
塚本訳暗闇に住まう(これらの地方の)民は大いなる光を見、死の陰の地に住まうこの人々に光がのぼった、”
前田訳ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ、闇に座す民は偉大な光を見た。死の陰の里に座すものどもに光がのぼった」。
新共同暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
NIVthe people living in darkness have seen a great light; on those living in the land of the shadow of death a light has dawned."
註解: イエスがガリラヤ地方に伝道し給えることも偶然ではなく、すでに神は預言をしてこのことを語らしめ給うた。この預言(15節引照参照)はイエスの光に照らされるべき地域を示している。これらの地方は霊的「暗黒」と「死」とに支配されている地方であった。
辞解
[海の邊] 原語「海の道」はガリラヤ湖畔の地
[ヨルダンの彼方] ヨルダン川の東の地方
[異邦人のガリラヤ] ガリラヤの西北部すなわちツロ、シドンの地方

4章17節 この(とき)よりイエス(をしへ)()べはじめて()(たま)ふ『なんぢら悔改(くいあらた)めよ、天國(てんこく)(ちか)づきたり』[引照]

口語訳この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
塚本訳この時から、イエスは「悔改よ、天の国は近づいた」と言って、教えを説き始められた。
前田訳そのころから、イエスは教えをひろめはじめていわれた、「悔い改めよ、天国が近づいたから」と。
新共同そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
NIVFrom that time on Jesus began to preach, "Repent, for the kingdom of heaven is near."
註解: キリストの福音は悔改めなしに始まることができない。この点においてはバプテスマのヨハネも同一であり、キリストとの間になんらの差異もない。しかしこれキリストの謙遜によるのであって、さらに進んでイエスご自身がキリストなることをば彼は主としてその奇蹟、その行為、その教訓によりそして最後に最も明らかにその死と復活とによってこれを人々に示し給うた。ゆえにこの教えの始めがバプテスマのヨハネと同一であることは決して彼の救い全体がヨハネの教以上に出でないことを示すのではない。▲ヨハネはイエスを指して「天国は近づいた」と叫び、イエスは自らを提示して「天国は近づいた」と叫んでいる。「近づいた」についてはマタ3:2脚注参照。

2-4-ロ イエス弟子を招き給う 4:18 - 4:22
(マコ1:16-20)(ルカ5:1-11)

4章18節 かくて、ガリラヤの海邊(うみべ)をあゆみて、二人(ふたり)兄弟(きゃうだい)ペテロといふシモンとその兄弟(きゃうだい)アンデレとが、(うみ)(あみ)うちをるを()(たま)ふ、かれらは漁人(すなどりびと)なり。[引照]

口語訳さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
塚本訳ガリラヤ湖のほとりを歩いておられるとき、二人の兄弟、ペテロと言われたシモンとその兄弟アンデレとが、湖で網を打っているのを見られた。彼らは漁師であった。
前田訳ガリラヤ湖畔を歩まれたとき、ふたりの兄弟、ペテロことシモンとその兄弟アンデレがお目にとまった。彼らが湖に網を打っているときであった。彼らは漁夫であった。
新共同イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
NIVAs Jesus was walking beside the Sea of Galilee, he saw two brothers, Simon called Peter and his brother Andrew. They were casting a net into the lake, for they were fishermen.

4章19節 これに()ひたまふ『(われ)(したが)ひきたれ、さらば(なんぢ)らを(ひと)(すなど)(もの)となさん』[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
塚本訳「さあ、ついて来なさい。人間の(漁をする)漁師にしてあげよう」と言われると、
前田訳彼らにいわれた、「さあ、ついて来なさい。あなた方を人間の漁夫にしてあげよう」と。
新共同イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
NIV"Come, follow me," Jesus said, "and I will make you fishers of men."
註解: イエスは一見して人の心を洞見するの力を持っている。シモンとアンデレを見て彼は彼らが真にキリストの弟子たるに相応しき者なることを知りてこれを召し給うた。彼の弟子として選ばれし人々は祭司、学者、政治家、文学者のごときものではなく頑健素朴なる漁夫であった、彼らの心は祭司のごとき高慢も学者のごとき議論も政治家のごとき策略もなく、文学者のごとくに感傷的でもなかった。イエスはかかる者を愛し給う。「我に従い来たれ」。キリストより宗教、哲学を学ぶのでもなく、また聖書を学ぶのでもなくただ彼に従うことが弟子たる者の唯一の必要なる態度である。かく彼に従う場合には彼は適宜に我らを用い給うのであって、ペテロとアンデレをば彼は人を漁る者とし給うた。▲▲「従う」は単に随行することではなく、弟子入りをすることであり、同時に師に「服従する」ことである。イエスに従うところに「神の国」がある。

4章20節 かれら(ただ)ちに(あみ)をすてて(したが)ふ。[引照]

口語訳すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
塚本訳彼らはすぐ網をすててイエスに従った。
前田訳彼らはただちに網を捨てて彼に従った。
新共同二人はすぐに網を捨てて従った。
NIVAt once they left their nets and followed him.
註解: 彼らはキリストの召しに応じその生活を支えるべき職業をもすて、しかも「直ちに」これをすててキリストに従った。そしてキリストに従って彼らはその生活に思い煩うことを必要としないのである。

4章21節 (さら)(すす)みゆきて、また二人(ふたり)兄弟(きゃうだい)、ゼベダイの()ヤコブとその兄弟(きゃうだい)ヨハネとが、(ちち)ゼベダイとともに(ふね)にありて(あみ)(つくろ)ひをるを()()(たま)へば、[引照]

口語訳そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、
塚本訳またそこから進んでいって、ほかの二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟のヨハネとが、父ゼベダイと一しょに舟で網を繕っているのを見て、お呼びになった。
前田訳そこから進んで行くとほかのふたり兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネがお目にとまった。父ゼベダイと舟の中で網を整えているところであった。そこで彼らを招かれた。
新共同そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
NIVGoing on from there, he saw two other brothers, James son of Zebedee and his brother John. They were in a boat with their father Zebedee, preparing their nets. Jesus called them,

4章22節 (ただ)ちに(ふね)(ちち)とを()きて(したが)ふ。[引照]

口語訳すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
塚本訳彼らはすぐ舟と父とをのこして、イエスに従った。
前田訳彼らはただちに舟と父とを残して彼に従った。
新共同この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
NIVand immediately they left the boat and their father and followed him.
註解: 父を呼び給はなかった、老人は多くの場合において新しき真理を受け入れることができない。また父と舟をすてて彼に従った。ヤコブとヨハネの心には多くの人情的苦痛があり、また父も己を捨て去った子を恨んだことであろう、しかしイエスに引き付けられし若人らの心に取ってはこれはやむを得ない態度であった。神は一時の苦痛を永遠の報償をもって慰め給う。

2-4-ハ イエスのガリラヤにおける活動の概要 4:23 - 4:25
(マコ1:39)(ルカ4:44)

4章23節 イエスあまねくガリラヤを(めぐ)り、會堂(くわいだう)にて(をしへ)をなし、御國(みくに)福音(ふくいん)()べつたへ、(たみ)(うち)のもろもろの(やまひ)、もろもろの疾患(わずらひ)をいやし(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
塚本訳それからガリラヤ中を回りながら、その礼拝堂で教え、御国の福音を説き、また人々の中のありとあらゆる病気や煩いをなおされた。
前田訳そして全ガリラヤをめぐって、彼らの諸会堂で教え、み国の福音をのべ、民のあらゆる病とあらゆるわずらいをいやされた。
新共同イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
NIVJesus went throughout Galilee, teaching in their synagogues, preaching the good news of the kingdom, and healing every disease and sickness among the people.
註解: 教訓と実行とはイエスにありては常に相伴って離れなかった。霊的にも肉的にも彼は世の救い主たることを示し給うた。
辞解
[会堂] シナゴグは集会または集会場所の意味であってその当時も今日もユダヤ人等が律法と預言者(すなわち聖書)を学び礼拝をなさんがために集まる建物である。その中にて人々は自由に語りまた教えることができた。
[御国の福音] マタ5-7章のごとき福音。
[病] nososは全身の疾病、「疾患」malakiaは部分的疾患、または疾患による衰弱

4章24節 その(うはさ)あまねくシリヤに(ひろま)り、人々(ひとびと)すべての(なや)めるもの、(すなは)ちさまざまの(やまひ)苦痛(くるしみ)とに(かか)れるもの、惡鬼(あくき)()かれたるもの、癲癇(てんかん)および中風(ちゅうぶ)(もの)などを()(きた)りたれば、イエス(これ)(いや)したまふ。[引照]

口語訳そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。
塚本訳そこでイエスの評判が全シリヤに広まり、人々がさまざまな病気や痛みに苦しむ病人、(中でも)悪鬼につかれた者、癲癇、中風の者を皆イエスのところにつれて来たので、それをなおされた。
前田訳そして彼のうわさは全シリアに行きわたった。そして人々は彼のところに病人を皆連れて来た。彼らはいろいろな病や痛みになやまされていた。悪鬼につかれたもの、てんかんのもの、中風のものであって、彼は彼らをいやされた。
新共同そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
NIVNews about him spread all over Syria, and people brought to him all who were ill with various diseases, those suffering severe pain, the demon-possessed, those having seizures, and the paralyzed, and he healed them.
註解: 最後にキリスト十字架につき給うとき、彼に従い来るものほとんど無かりしと対照せよ。人は自己の益のみを求め十字架を負いてキリストに従うことを欲しない。利益ある場合にキリストに従い、しからざる場合に彼を離れる。かかる態度は取るべきでない。キリストはこれを知りつつもなお彼らの病苦を癒し給えるは、ただ彼の愛と力との自然の流露(りゅうろ)であった。▲「悩める者」の原語は「具合が悪いもの」と直訳すべき語で、多くの場合疾病について用いるけれども、「病気」という語ではない。(口語訳参照)

4章25節 ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ(およ)びヨルダンの彼方(かなた)より、(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)きたり(したが)へり。[引照]

口語訳こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
塚本訳ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダン川の向こう(のペレヤ)から来た大勢の群衆が、イエスについて回った。
前田訳そして大勢の群衆がガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダン川の向こうから彼に従った。
新共同こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
NIVLarge crowds from Galilee, the Decapolis, Jerusalem, Judea and the region across the Jordan followed him.
辞解
[デカポリス] デカポリスは「十市地方」と訳することができる。ヨルダンの東部、パレスチナの東北地方に当たる一地方である。その中に十の主なる市があるのでかく名付けられている。
要義 [弟子の召命について] キリストが弟子を召し給うこと、および弟子が彼に従うことはいずれも非常に突然でかつ迅速であった。あるいはそれまでに彼らは屡々(しばしば)イエスの教をきき心の中に煩悶を持っており、イエスに従いたいとの希望を持っていたかもしれない。しかしそのことは明らかでない、いずれにしても神の召命は突然に来るものであってその場合には一刻の猶予もない。我らは直ちにこれに従わなければならないのである。あたかも出征の命を受けし軍人がその家族の病をも顧みることができないと同様である。そしてこの弟子らは直ちにイエスに従ったのであって、その点においてルカ9:57以下の弟子たちとは非常に異なれる正しき態度を取ったのである。
附記 第十二節に「イエス、ヨハネの囚われしことを聞きてガリラヤに退き」とあり、そしてヨハネ伝にはこのときまでに種々の事件があったことを記している。すなわち荒野の試誘(こころみ)の後なおユダヤにおいて、ペテロとアンデレの召命、ピリポとナタナエルの召命とあり(ヨハ1:35-51)、三日の後ガリラヤに在りてカナの婚筵(こんえん)に加わり給い「(ヨハ2:1-11)、次にカペナウムに数日留まり給い(ヨハ2:12)、次にエルサレムに来り給いて過ぎ越しの祭り、宮潔めのことあり(ヨハ2:13-22)、その後またガリラヤに行かんとてサマリヤを通過し給い(ヨハ4:1-42)、かくしてカペナウムに帰り給うた(ヨハ4:43-54)。三福音書とヨハネ伝とはかくのごとく互いに補充的に記事を排列しているのである。次にマタ4:12-14:15まではヨハネ伝に欠けているのも同様の理由によるのであって、我らは補充的にこれを読まなければならぬ。