黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ルカ伝

ルカ伝第13章

分類
7 苦難の増大 12:49 - 13:35
7-1-ニ 悔改めの必要 13:1 - 13:5  

13章1節 その(をり)しも(ある)人々(ひとびと)きたりて、ピラトがガリラヤ(ひと)らの()(かれ)らの犧牲(いけにへ)にまじへたりし(こと)をイエスに()げたれば、[引照]

口語訳ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。
塚本訳ちょうどその時、人が来て、(総督ピラトが犠牲をささげている)ガリラヤ人たちを殺し、その血が彼らの犠牲(の血)にまじったことをイエスに報告した。
前田訳ちょうどそのとき、人々が来て、彼にガリラヤ人のことを告げた。ピラトがガリラヤ人の血を彼らのささげるいけにえ(の血)にまぜたのであった。
新共同ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
NIVNow there were some present at that time who told Jesus about the Galileans whose blood Pilate had mixed with their sacrifices.
註解: (1−5節はルカ伝特有)その頃起った出来事で未だイエスの耳に入らなかった事件であった。ガリラヤ人が神殿でその犠牲を屠っている際にピラトの命によって殺されたのであろう。その理由は不明である。これを告げた人々は暗にそれをそれらのガリラヤ人の罪の結果であると考えていたことがイエスに看取されたのであろう。

13章2節 (こた)へて()(たま)ふ『かのガリラヤ(ひと)()かることに()ひたる(ゆゑ)に、(すべ)てのガリラヤ(ひと)(まさ)れる罪人(つみびと)なりしと(おも)ふか。[引照]

口語訳そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
塚本訳その人たちに言われた、「そのガリラヤ人たちはそんな目にあったので、(ほかの)すべてのガリラヤ人よりも罪人だったと思うのか。
前田訳彼は答えられた、「そのガリラヤ人はそんな目にあったがゆえに、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪びとであったと思うか。
新共同イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
NIVJesus answered, "Do you think that these Galileans were worse sinners than all the other Galileans because they suffered this way?

13章3節 われ(なんぢ)らに()ぐ、(しか)らず、(なんぢ)らも悔改(くいあらた)めずば(みな)おなじく(ほろ)ぶべし。[引照]

口語訳あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
塚本訳そうではない。わたしは言う、あなた達も悔改めなければ、皆同じように滅びるであろう。
前田訳そうではない。わたしはいう、あなた方も悔い改めねば皆同じように滅びよう。
新共同決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
NIVI tell you, no! But unless you repent, you too will all perish.
註解: イエスに告げた人々は、この事件について、それが彼らに何を示すかについて考えなかった。むしろ彼らはかかる運命に遭わないのが、彼らの罪なき結果であると自信していた者もあったのであろう。イエスはこれを見て彼らに全人類の罪を徹底的に示し、彼らも悔改めの必要があることを示し給うた。「汝らも」は「凡てのガリラヤ人のみならず汝らもまた」であって他人の罪を眺めつつ自己の罪を忘れる態度を非難し給うた。

13章4節 (また)シロアムの(やぐら)たふれて、()(ころ)されし(じふ)八人(はちにん)は、エルサレムに()める(すべ)ての(ひと)(まさ)りて、[(つみ)の]負債(おひめ)ある(もの)なりしと(おも)ふか。[引照]

口語訳また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。
塚本訳またシロアムの(池の)近くの櫓が倒れて(下敷になって)死んだあの十八人は、(当時)エルサレムに住んでいた(ほかの)すべての人よりも罪人だったと思うのか。
前田訳また、シロアムでやぐらが倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたすべての人よりも罪びとであったと思うか。
新共同また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
NIVOr those eighteen who died when the tower in Siloam fell on them--do you think they were more guilty than all the others living in Jerusalem?

13章5節 われ(なんぢ)らに()ぐ、(しか)らず、(なんぢ)らも悔改(くいあらた)めずば、みな()くのごとく(ほろ)ぶべし』[引照]

口語訳あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。
塚本訳そうではない。わたしは言う、あなた達も悔改めなければ、皆同様に滅びるであろう。」
前田訳そうではない。わたしはいう、あなた方も悔い改めねば皆同じように滅びよう」と。
新共同決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
NIVI tell you, no! But unless you repent, you too will all perish."
註解: この事件はイエスの耳にも入っている最近の出来事でおそらくシロアムの池よりの水道工事に従事している労働者に起ったことであろう。全く偶然の出来事であっておそらく多くの人はそれらの死者に罪があるとは考えなかったであろう。イエスはこの事件を引用して、亡びるのは彼らのごとき不運な人間だけではない。彼らが別段エルサレムの人間よりも重い罪を犯した訳ではない。人間はみな ─ 従って汝らも勿論 ─ 悔改めないならば、みなこの十八人と同様の運命に遭うであろう、ことを示し給うた。
要義 [他人の不幸に対する反省]多くの人は他人が不幸や不運に遭えるを見て、それをその人の罪の結果と考え、かく考えることによって自分が不幸や不運に遭わないのは自分に罪無きためと考うる傾向がある。これは非常に誤っており、また危険な考えである。イエスの教え給えるごとく、他人の不幸は、たといその人にこれに相当する充分な理由がある場合でも、これを自己反省の材料とし、如何なる人も悔改むることなしには亡ぶることを知るに至らなければならぬ。いわんや理由なき不幸についてはなおさらである。神は常に我らの悔改めを望み給う。

7-1-ホ 審判は近し 13:6 - 13:9  

13章6節 (また)この(たとへ)(かた)りたまふ『(ある)(ひと)おのが葡萄園(ぶだうぞの)()ゑありし無花果(いちぢく)()(きた)りて、()(もと)むれども()ずして、[引照]

口語訳それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。
塚本訳そこでこの譬を話された、「ある人が葡萄畑に一本の無花果の木を植えておいた。(ある日)実をさがしに来たが、見つからないので、
前田訳この譬えを話された、「ある人がそのぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして実を探しに来たが見つからなかった。それで園丁にいった、
新共同そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
NIVThen he told this parable: "A man had a fig tree, planted in his vineyard, and he went to look for fruit on it, but did not find any.
註解: (6−9節もルカ伝の特有)葡萄園は旧約聖書では一般にイスラエルを意味す(イザ5:1−7。イザ27:2−6。エレ12:10詩80:9−18)。その園に一本だけ植えられている無花果はエルサレムを意味すると見るべきであろう。従ってその所有主は神である。神がエルサレムに期待し給う果実は、その遣し給えるイエスを信じ彼を受納れて救われ、かくしてイスラエルの中心たるその使命を果すことであったが、この所有主の目的は空しかった。

13章7節 園丁(そのつくり)()ふ「()よ、われ三年(さんねん)きたりて()無花果(いちぢく)()()(もと)むれども()ず。これを()(たふ)せ、(なに)(いたづ)らに()(ふさ)ぐか」[引照]

口語訳そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。
塚本訳葡萄畑の作男に言った、『もう三年この方、この無花果の木に実をさがしに来ているのに、まだ実がならない。切ってくれ。(ならないばかりか、)なんで土地までくたびれさせることがあろう。』
前田訳『このとおり三年もこのいちじくの木に実を探しに来ているのに実がない。切り倒しなさい。何のために土地をも疲れさせよう』と。
新共同そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
NIVSo he said to the man who took care of the vineyard, `For three years now I've been coming to look for fruit on this fig tree and haven't found any. Cut it down! Why should it use up the soil?'
註解: 園丁はエルサレムのために祈る人であり、イエスに相当すると見るべきであろう。なお「三年きたりて」とある故に神よりもイエスを園の所有者とする方が適当と見る説があるけれども、むしろこれをバプテスマのヨハネの登場以来の三年間特に神がエルサレムの悔改めを期待し給える意味に取ることができる。それ故所有主なる神はその樹を切倒しエルサレムを亡ぼすことを園丁なるキリストに命じ給うた。その樹は(いたずら)に地を塞ぎて養分を吸取り他の植物の妨害をしているに過ぎないからである。なお「三年」を律法、預言者、イエスと解しまたは士師、王、祭司等とも解されているけれどもやや技工的に過ぎるように思う。

13章8節 (こた)へて()ふ「(しゅ)よ、(いま)(とし)(ゆる)したまへ、(われ)その周圍(まはり)()りて肥料(こやし)せん。[引照]

口語訳すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。
塚本訳答えて言う、『ご主人、今年もう一年だけ勘弁してやってください。今度は回りを掘って、肥料をやってみますから。
前田訳答えていった、『ご主人もう一年そのままにさせてください、まわりを掘ってこやしをやりますから。
新共同園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
NIV"`Sir,' the man replied, `leave it alone for one more year, and I'll dig around it and fertilize it.

13章9節 そののち()(むす)ばば[()し]、もし(むす)ばずば()(たふ)したまへ」』[引照]

口語訳それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。
塚本訳それで来年実を結べばよし、それでもだめなら、切ってください。』」
前田訳それで来年実ればよし、さもなければ、切り倒してください』」と。
新共同そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
NIVIf it bears fruit next year, fine! If not, then cut it down.'"
註解: 主はエルサレムのために最後の執成しを神に祈り給う。肥料をさらに施し最後の努力をし、それでも果を結ばない時にはエルサレムを滅ぼし給うとも止むを得ないとのことである。このイエスの愛はソドムのために祈ったアブラハムに比すべく(創18:22−32)、しかもイエスはその罪深きエルサレムのために、エルサレムにおいて十字架につき給うた。イエスはこの比喩によって、エルサレムに降るべき神の審判が極めて接近していることを暗示し、その悔改めを要求し給う。

7-1-ヘ 安息日に醫し給う 13:10 - 13:17  

13章10節 イエス安息(あんそく)(にち)(ある)會堂(くわいだう)にて(をしへ)えたまふ(とき)[引照]

口語訳安息日に、ある会堂で教えておられると、
塚本訳安息日にある礼拝堂で教えておられた。
前田訳安息日にある会堂で教えておられた。
新共同安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
NIVOn a Sabbath Jesus was teaching in one of the synagogues,
註解: (10−17節もルカ伝特有の物語)時と場合は不明、ルカ6:6−10。ルカ14:1−6の記事と類似の点もあるけれども、全く異なった事件である。イエスが安息日に会堂に集り給えることについては、ルカ4:16参照。

13章11節 ()よ、(じふ)(はち)(ねん)のあひだ(やまひ)(れい)()かれたる(をんな)あり、(かが)まりて(すこ)しも()ぶること(あた)はず。[引照]

口語訳そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。
塚本訳その時、そこに十八年も病気の霊につかれている女がいた。体が曲っていて、真直ぐに伸ばすことが出来なかった。
前田訳すると見よ、十八年も病の霊にとりつかれている女がいた。体が曲がったままで、全然まっすぐにできなかった。
新共同そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
NIVand a woman was there who had been crippled by a spirit for eighteen years. She was bent over and could not straighten up at all.
註解: この女は信仰のある善き娘であったらしく見える(B1)、アブラハムの娘と呼ばれ(16節)、また「汝の罪赦されたり」とも言われなかった点に注意すべし。この病の種類は不明、当時の医学ではこれを「病の霊」また「虚弱の霊」とも訳し得る原因に帰していた。

13章12節 イエスこの(をんな)()()()せて『(をんな)よ、なんぢは(やまひ)より()かれたり』と()ひ、[引照]

口語訳イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、
塚本訳イエスは女を見て呼びよせ、「女の人、病気は直っている」と言って
前田訳イエスは彼女を見、呼びよせていわれた、「女の方、病は直っています」と。
新共同イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
NIVWhen Jesus saw her, he called her forward and said to her, "Woman, you are set free from your infirmity."

13章13節 (これ)()()きたまへば、立刻(たちどころ)()(すぐ)にして(かみ)(あが)めたり。[引照]

口語訳手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
塚本訳手をのせられると、女はたちどころに体がまっすぐに伸びて、神を讃美した。
前田訳そして手をのせられると、たちまちまっすぐになって、神をたたえた。
新共同その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
NIVThen he put his hands on her, and immediately she straightened up and praised God.
註解: イエスは手を按く前に女の快癒を知り給うたけれども女はイエスが手を按き給える時に直ちに身を直にすることができた。真直ぐに立ち得ず屈んでいた女が身を直にして神を讃美する姿は立派であったろう。
辞解
[崇めたり] 未完了過去動詞にして継続的動作を示す。

13章14節 會堂(くわいだう)(つかさ)イエスの安息(あんそく)(にち)(やまひ)(いや)(たま)ひしことを(いきど)ほり、(こた)へて群衆(ぐんじゅう)()[引照]

口語訳ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
塚本訳すると礼拝堂監督は、イエスが安息日に病気をなおされたことを憤慨して、群衆に言った、「働くべき日は六日ある。その間に来てなおしてもらったがよかろう。安息日の日にはいけない。」
前田訳しかし会堂司はイエスが安息日にいやされたのを怒って、群衆にいった、「六日のうちに働くべきである。その間に来ていやされよ、安息日にはいけない」と。
新共同ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
NIVIndignant because Jesus had healed on the Sabbath, the synagogue ruler said to the people, "There are six days for work. So come and be healed on those days, not on the Sabbath."
註解: 彼はその旧い習慣の墨守者であってその意義を考うることをせず、唯その形式にのみ拘泥し、従ってイエスの行動を憤った。唯これを率直にイエスに向って発表する勇気を持たない卑怯者であった。

(はたら)くべき()六日(むゆか)あり、その(うち)(きた)りて(いや)されよ。安息(あんそく)(にち)には()ざれ』

註解: 群集に向って治癒さるべき日を指定し、イエスの行為に対する間接射撃をした。

13章15節 (しゅ)こたへて()ひたまふ『僞善者(ぎぜんしゃ)らよ、(なんぢ)()おのおの安息(あんそく)(にち)には、(おの)(うし)または驢馬(ろば)(せう)()より()きいだし、(みづ)()はんとて()()かぬか。[引照]

口語訳主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
塚本訳主が答えられた、「この偽善者たち、あなた達はだれも、安息日には牛や驢馬を小屋から解いて、水を飲ませにつれてゆかないのか。
前田訳主は答えられた、「偽善者どもよ、あなた方はだれでも、安息日に牛やろばを小屋からはなして、水を飲ませに連れて行かないか。
新共同しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
NIVThe Lord answered him, "You hypocrites! Doesn't each of you on the Sabbath untie his ox or donkey from the stall and lead it out to give it water?
註解: 「偽善者ら」と複数を用い給うたのは、会堂司の意見に共鳴する人が他に多くあたからである。家畜には安息日でも水飼うことは彼らはこれを行っており、これを何とも思わなかった。それが家畜にとって必要であったからである。

13章16節 さらば(なが)(じふ)(はち)(ねん)(あひだ)サタンに(しば)られたるアブラハムの(むすめ)なる()(をんな)は、安息(あんそく)(にち)にその(つなぎ)より()かるべきならずや』[引照]

口語訳それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
塚本訳この女はアブラハムの末であるのに、十八年ものあいだ、悪魔が縛っていたのだ。安息の日だからとて、その(悪魔の)縄目から解いてはならなかったのか。」
前田訳この女はアブラハムの末なのに、今まで十八年もの間悪魔が縛っていた。安息日だからとて、その縄目からはなしていけなかったのか」と。
新共同この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
NIVThen should not this woman, a daughter of Abraham, whom Satan has kept bound for eighteen long years, be set free on the Sabbath day from what bound her?"
註解: (▲信仰生活が形式生活に重点が置き換えられることは信仰そのものの堕落である。イエスは特に安息日の形式的遵守を破壊しようとしたのはそのためであった。)渇きを醫したい要求と、十八年間の病より解かれたい要求とは比較にならず、同じく縛られているとしても家畜とアブラハムの娘とは比較にならず、水を飲むことと十八年の病から癒されることとは比較にならないではないかというのがイエスの論鋒であり、これに対しては偽善者たちも一言も返答することができなかった。

13章17節 イエス(これ)()のことを()(たま)へば、(さから)(もの)はみな()ぢ、群衆(ぐんじゅう)(こぞ)りてその()(たま)へる榮光(えいくわう)ある(すべ)ての(わざ)(よろこ)べり。[引照]

口語訳こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。
塚本訳こう言われると、(監督はじめ)反対者は皆恥じ入り、群衆は一人のこらず、イエスが行われたあらゆる輝かしい御業を喜んだ。
前田訳こういわれると、すべての反対者は恥じ、群衆は皆彼のなさったすべての栄えあるみわざをよろこんだ。
新共同こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
NIVWhen he said this, all his opponents were humiliated, but the people were delighted with all the wonderful things he was doing.
註解: この一節は群集の喜びを伝うる点において福音書中特徴ある記事である。律法の形式に束縛せられず、自己の職業意識の奴隷となっている人々よりも、自由にして自然な群集の方が事実の真相と真価とを認識し易い(勿論彼らは誤った指導者に迷わされ易いことも事実であるけれども)。逆う者が恥じたことは彼らにも良心があることの証拠であるが、後にいたり次第に反対が高まり、故意にイエスを除かんとするようになった時には、彼らの良心も次第に麻痺するに至った。
要義 [安息日治癒の場合が多い理由]イエスが病者を治癒し給うたのは非常に多数であったことと思われるが、その中四福音書に記されている例のみを取れば、安息日に治癒を行われた例が殊に多い。これは如何なる理由であろうか、種々に想像されるのであるが、(1)安息日に会堂等に殊に病者が多く集まったと思われること、(2)安息日問題と関連して反対が起ったので殊に多くの人の記憶に残っていたこと、(3)イエスが故意に安息日に多く治癒の奇蹟を行い給うたと考えること等であろう。そしてこの第三が最も重要な理由であろうと思う。その故はそれらの治癒の奇蹟は、もしイエスが殊に安息日を重んじ給うたならば、他の日まで延期しても差支えない場合が多く(例えば十八年も病んでいるこの娘の場合のごときも少なくともその夕刻、安息日の終るまで待っても差支えはなかったはずである)、またベテスダの池の畔において三十八年病に悩める者を醫し給うた場合(ヨハ5:1以下)のごときは、会堂に病者が集まったのでなく、イエスが態々(わざわざ)そこを訪ね給うたのであり、その他治癒の奇蹟以外にも殊更に安息日を破り給うたと思われることが多いからである。これはイエスが安息日の形式化を憂いて殊更にその殻を破ってその精神を自由にし給うたものと見るべきであろう。

7-1-ト 芥種とパン種 13:18 - 13:21
(マタ13:31-33) (マコ4:30-32)  

13章18節 かくてイエス()ひたまふ『(かみ)(くに)(なに)()たるか、(われ)これを(なに)(なずら)へん、[引照]

口語訳そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。
塚本訳すると言われた、「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
前田訳彼はいわれた、「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
新共同そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
NIVThen Jesus asked, "What is the kingdom of God like? What shall I compare it to?

13章19節 一粒(ひとつぶ)芥種(からしだね)のごとし。(ひと)これを()りて(おのれ)(その)()きたれば、(そだ)ちて()となり、(そら)(とり)その(えだ)宿(やど)れり』[引照]

口語訳一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。
塚本訳それは芥子粒に似ている。ある人がそれをその庭に蒔いたところ、育って(大きな)木になり、”その枝に空の鳥が巣をつくった。”」
前田訳それはからし種に似ている。ある人がそれを庭にまくと、育って木となり、その枝に空の鳥が巣を作った」と。
新共同それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
NIVIt is like a mustard seed, which a man took and planted in his garden. It grew and became a tree, and the birds of the air perched in its branches."

13章20節 また()ひたまふ『(かみ)(くに)(なに)(なずら)へんか、[引照]

口語訳また言われた、「神の国を何にたとえようか。
塚本訳さらに言われた、「神の国を何にたとえようか。
前田訳またいわれた、「神の国を何にたとえようか。
新共同また言われた。「神の国を何にたとえようか。
NIVAgain he asked, "What shall I compare the kingdom of God to?

13章21節 パン(だね)のごとし。(をんな)これを()りて、(さん)()(こな)(うち)()るれば、ことごとく(ふく)れいだすなり』[引照]

口語訳パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。
塚本訳それはパン種に似ている。女がそれを三サトン[二斗]の粉の中にまぜたところ、ついに全体が醗酵した。」
前田訳それはパン種に似ている。女がそれを三サトンの粉にまぜると、しまいに全部がふくらんだ」と。
新共同パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
NIVIt is like yeast that a woman took and mixed into a large amount of flour until it worked all through the dough."
註解: 小さい芥種(からしだね)が大きい樹となり、少量のパン種が大きいパンの塊となるように、神の国は今は非常に小さいが、やがて非常に大きくなるという意味に解してこの比喩は明白である。すなわち神の国の膨張力を示したものである。唯この比喩の解釈として上記の解釈とは反対に神の国に関する悲観的な預言と解する解釈がある。すなわち神の国は非常に膨張する可能性があるが、そうなると悪魔を象徴する空の鳥がその中に住む不純なものとなる。またパンはパン種を入れると非常に膨張するけれども、パン種は神の国の腐敗の要素となることを意味すると解する説である。この見方の軽視し得ない点は(1)前章殊にその49節以下本章の終りに至るまで、イスラエル、エルサレム、神の国等に関し一般に消極的な思想のみが支配しているのに(ルカ7:31−35。ルカ8:10ルカ11:29−32。ルカ12:49−59等)この二つの比喩のみを単に楽観的に考えることが不調和であること、(2)「空の鳥」は往々サタンまたは悪霊を意味し(マタ8:20マタ13:4等)、パン種は凡て腐敗を意味すること(Tコリ5:6−8)、(3)イエスは世の終りに関して常に楽観的終末観を有たないこと等を挙げることができる。神の国についてその拡大することにおいて無制限に楽観的な考えをイエスは有せられなかったと見る方が正しいであろう。次節以下もそれを裏書する一材料である。

7-1-チ 悔改めざる民は審かる 13:22 - 13:30  

13章22節 イエス(をし)へつつ町々(まちまち)村々(むらむら)()ぎて、エルサレムに(たび)(たま)ふとき、[引照]

口語訳さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。
塚本訳イエスは町々村々を通って教えながら、エルサレムへの旅行をつづけておられた。
前田訳彼は町々村々を通って教えながらエルサレムへの旅をつづけられた。
新共同イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
NIVThen Jesus went through the towns and villages, teaching as he made his way to Jerusalem.
註解: 22−29節はマタイ伝では三ヶ所に分れ各々別の機会に語られたことになっている(引照参照)。ルカはこれらを主のエルサレム行を中心に置きつつ、時と処を問題とせずに思想の連絡を中心として排列したもののようである。

13章23節 (ある)(ひと)いふ『(しゅ)よ、(すく)はるる(もの)(すくな)きか』[引照]

口語訳すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。
塚本訳するとある人が「主よ、救われる者は少ないでしょうか」と尋ねた。人々に言われた、
前田訳ある人がいった、「主よ、救われる人は少ないのですか」と。
新共同すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
NIVSomeone asked him, "Lord, are only a few people going to be saved?" He said to them,
註解: ルカ12:49−13:9。およびルカ13:18−21(消極的解釈を取るとすれば)等よりイエスは厳しく不信を責めているので、おそらくそれらについて聴いた「或人」が、イエスの考えは救われる者が少ないということであろうと考え、果して然るかにつき質問を発した。

13章24節 イエス人々(ひとびと)()ひたまふ[引照]

口語訳そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。
塚本訳「全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。
前田訳人々にいわれた、「狭い戸口から入るよう努めよ。わたしはいう、入ろうとして入れない人が多いから。
新共同「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
NIV"Make every effort to enter through the narrow door, because many, I tell you, will try to enter and will not be able to.
註解: この部分原文は23節に入っている。

(ちから)(つく)して(せま)(もん)より()れ。(われ)なんぢらに()ぐ、()らん(こと)(もと)めて()(あた)はぬ(もの)おほからん。

註解: イエスは救われるものの多少につき答えるの必要を感じなかった。それは入らんとする者の態度如何にかかるからである。それ故に彼は如何にして救いに入るかの方法を教え給うた。それは狭い門から入ることである(マタ7:13、14)。生命に到る門は狭く、亡びに至る門は広い。狭くして入り難い故、入らんとして努力奮闘しなければならない。厳格なる道徳的要求、愛と真実、悔改めてイエスを信じ彼と共に苦しむこと、凡てこれらの要求を充すことは容易なることではない。従って救われる者は多くないこととなる。

13章25節 家主(いへあるじ)おきて(もん)()ぢたる(のち)、なんぢら(そと)()ちて「(しゅ)よ、(われ)らに(ひら)(たま)へ」と()ひつつ(もん)(たた)(はじ)めんに、主人(あるじ)こたへて「われ(なんぢ)らが何處(いづこ)(もの)なるかを()らず」と()はん。[引照]

口語訳家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。
塚本訳家の主人が立ち上がって戸をしめたあとで、あなた達が外に立って、『ご主人、あけてください』と言って戸をたたきつづけても、主人は、『わたしはあなた達がどこの人だか知らない』と答えるであろう。
前田訳家の主人が起きて戸をしめたあとで、あなた方が外に立って、『ご主人、おあけください』といって戸をたたいても、彼は答えよう、『あなた方はどこの人か知らない』と。
新共同家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
NIVOnce the owner of the house gets up and closes the door, you will stand outside knocking and pleading, `Sir, open the door for us.' "But he will answer, `I don't know you or where you come from.'
註解: この部分マタ25:10b、11に類似しているが意味は異なる。すなわち家主はキリストで門は天国の門である(ヨハ10:7、9)。多くの人が狭き門より入ることを好まず、イエスの叫びに耳を傾けずして、一般の世の人と共に彼らの行く道を進んでいる間に、門は閉じられ、狭き門より入った人だけが救われてその中に入った。門の外に残された者はおどろいて門を叩いて開かれんことを乞うたけれども、家主なる主は彼らを知らずとして拒絶し給うた。遅過ぎたのである。神その門を閉じ給へば、もはやこれを開く道がない。

13章26節 その(とき)「われらは御前(みまへ)にて飮食(のみくひ)し、なんぢは、(われ)らの(まち)大路(おほじ)にて(をし)(たま)へり」と()()でんに、[引照]

口語訳そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、
塚本訳その時あなた達はこう言い出すにちがいない、『わたし達はご一しょに飲んだり食べたりした者です。あなたはわたし達のところの大通りで教えてくださいました』と。
前田訳そのときあなた方はこういいだそう、『あなたといっしょに食事をしました、あなたはわれらの大通りでお教えでした』と。
新共同そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
NIV"Then you will say, `We ate and drank with you, and you taught in our streets.'

13章27節 主人(あるじ)こたへて「われ(なんぢ)らが何處(いづこ)(もの)なるかを()らず、(あく)をなす(もの)どもよ、(みな)われを(はな)()れ」と()はん。[引照]

口語訳彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。
塚本訳しかし主人は、『わたしはあなた達がどこの人だか知らない。“この悪者、みんな、わたしをはなれよ!”』と言うであろう。
前田訳しかし彼はいおう、『あなた方がどこの人か知らない。不義をなすものは皆わたしを離れよ』と。
新共同しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
NIV"But he will reply, `I don't know you or where you come from. Away from me, all you evildoers!'
註解: マタ7:22、23参照)入らんことを求むる者は、イエスとの知己をその理由として主張する。すなわちイエスの前にて飲食し、イエスがその町の大路にて教え給うのを聞いたことがその主張である。イエスの度々の会食や、多くの説教に際してかかる機会を有ったユダヤ人は少なくないであろう。しかし、もし彼らにして悔改めてイエスを信じないならば彼らは神の国に入ることはできない。そしてイエスはかくして信ずる者のみを己がものとして知り給う故、如何に世的意味でイエスを知り、イエスに接近していても悔改めないものはイエスにとって他人である。而已(しかのみ)ならず彼らは「悪を為す者」(詩6:8)である。彼らは自ら信仰的生活を送っていると信じながら、イエスを十字架に(つけ)る者である。ユダヤ人はそれであった。イエスは天国においてかかる者を拒み給う。

13章28節 (なんぢ)らアブラハム、イサク、ヤコブ(およ)(すべ)ての預言者(よげんしゃ)の、(かみ)(くに)()り、(おのれ)らの()()さるるを()ば、其處(そこ)にて哀哭(なげき)切齒(はがみ)する(こと)あらん。[引照]

口語訳あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
塚本訳あなた達はアブラハムやイサクやヤコブや、またすべての預言者たちが神の国におるのに、自分は外に放り出されるのを見て、そこでわめき、歯ぎしりするであろう。
前田訳あなた方は、アブラハムやイサクやヤコブやすべての預言者が神の国にいるのに、自分たちは外に投げ出されるのを見て、そこで泣き、歯ぎしりしよう。
新共同あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
NIV"There will be weeping there, and gnashing of teeth, when you see Abraham, Isaac and Jacob and all the prophets in the kingdom of God, but you yourselves thrown out.
註解: ユダヤ人でありさえすれば必ず神の国に入り得ると思うのは大なる誤りである。神の国には狭き門より入るより外に入る途はない。この狭き門は「十字架につけられ給えるキリスト」である(Tコリ1:22−25参照)。それ故にユダヤ人であることに安心してイエスの叫びに耳を傾けずついに神の国に入り得ず、門を叩きつつ門前に群っている者は門の中にその誇りとするアブラハムその他多くの聖徒が天国の宴に坐しているのを見、自己の滅ぶべき姿を哀哭切歯(なげきはがみ)するであろうが、すでに間に合わない。

13章29節 また人々(ひとびと)(ひがし)より西(にし)より(みなみ)より(きた)より(きた)りて、(かみ)(くに)(えん)()くべし。[引照]

口語訳それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。
塚本訳また人々が“東から西から北から南から”来て、神の国で宴会につらなるであろう。
前田訳人々が東と西から、北と南から来て、神の国で宴につらなろう。
新共同そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
NIVPeople will come from east and west and north and south, and will take their places at the feast in the kingdom of God.
註解: 28、29節についてはマタ8:11、12参照。ユダヤ人以外の異邦人らはかえってイエスの福音を信じ、天国の宴に列するであろう。かくしてユダヤ人が軽蔑していた異邦人がかえって救われユダヤ人は滅びに入るであろう。それ故に救われる者の多少を問題とせず、如何にして救わるべきかを考えなければならぬ。

13章30節 ()よ、(のち)なる(もの)(さき)になり、(さき)なる(もの)(のち)になる(こと)あらん』[引照]

口語訳こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。
塚本訳たしかに、最後であって一番になる者があり、一番であって最後になる者がある。」
前田訳しかり、終わりのものははじめになり、はじめのものは終わりになろう」と。
新共同そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
NIVIndeed there are those who are last who will be first, and first who will be last."
註解: マタ19:30)先に選ばれた者(例えばユダヤ人のごとき)が救いに後れ、後に選ばれたもの(例えば異邦人)がユダヤ人よりも先に神の国に入るようなことが起るであろう。個人の間にもかかる実例がある。イエスはここでは主としてユダヤ人がその選民としての誇りのためにイエスを信じないことに対して警告を発し給うたのである。
要義 [選民意識の危険性]ユダヤ人はアブラハムの子孫であることを選民たることの要件と考え、この要件さえ充たされるならば必ず神の国に入り得ると考えて安心していたけれども、かかる肉的外形的条件は、神の国に入る資格にはならなかった。同様に今日はキリスト者が「汝の聖餐式において汝の血をのみ肉を食い、また汝の会堂において汝の説教を聞きしにあらずや」と言って、イエスに対しその資格を主張するであろう。しかしこれらは彼らを神の国に入れる保証とはならない。神の国に入る資格は純粋に霊的でなければならず、神の前に効力あるものでなければならない。

7-1-リ ヘロデとイエス 13:31 - 13:33  

13章31節 そのとき(ある)パリサイ(びと)らイエスに(きた)りて()ふ『いでて此處(ここ)()(たま)へ、ヘロデ(なんぢ)(ころ)さんとす』[引照]

口語訳ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。
塚本訳ちょうどその時、数人のパリサイ人が来てイエスに言った、「(すぐ)ここを逃げ出しなさい。ヘロデ(王)があなたを殺そうと思っています。」
前田訳ちょうどそのとき、パリサイ人が何人か来て彼にいった、「ここを出てよそへお移りください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と。
新共同ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
NIVAt that time some Pharisees came to Jesus and said to him, "Leave this place and go somewhere else. Herod wants to kill you."
註解: ヘロデはヨハネを殺した後、イエスを恐れていた(マタ14:1)がしかし必ずしも彼を殺さんとしたのではなく(ルカ9:7−9。ルカ23:8)彼がなるべく自分の所領内に徘徊せざらんことを望んだ。それ故イエスを嫌うパリサイ人と共謀し、または彼らを(そそのか)して(マコ3:6マコ12:13)イエスを敬遠する策動をしたもののごとくである。
辞解
[此處(ここ)] いわゆる「ルカの旅行記」と学者の呼んでいる部分(9:51−18:14)の中でエルサレムに入り給うまでのイエスの旅行の道程については不明である。この場合或はぺレアであろう。ただしあまりルカ伝によるイエスの伝道の場所的記述に重きを置くことはできない。

13章32節 (こた)へて()(たま)ふ『()きてかの(きつね)()へ。()よ、われ今日(けふ)明日(あす)惡鬼(あくき)()()し、(やまひ)(いや)し、(しか)して三日(みっか)めに(まった)うせられん。[引照]

口語訳そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。
塚本訳彼らに言われた、「(忠告はありがたいが、)行って、あの狐(のヘロデ)にこう言ってもらいたい、『見よ、わたしはきょうとあしたは、(まだここにいて)悪鬼を追い出し治療を行い、三日目に(仕事が終って)全うされる。
前田訳彼はいわれた、「行ってあの狐にいいなさい、『見よ、わたしはきょうとあす悪鬼を追い出し、いやしをし、三日目に全うされる。
新共同イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。
NIVHe replied, "Go tell that fox, `I will drive out demons and heal people today and tomorrow, and on the third day I will reach my goal.'

13章33節 されど今日(けふ)明日(あす)(つぎ)()(われ)(すす)()くべし。それ預言者(よげんしゃ)のエルサレムの(ほか)にて()ぬることは()るまじきなり。[引照]

口語訳しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。
塚本訳とはいえ、きょうもあしたもあさっても、わたしは(たえずエルサレムへ向かって)進みゆかねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないのだから』と。
前田訳しかしわたしは、きょうもあすもあさっても進まねばならない。預言者がエルサレムの外で死ぬことはありえないから』と。
新共同だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
NIVIn any case, I must keep going today and tomorrow and the next day--for surely no prophet can die outside Jerusalem!
註解: ヘロデの狡計(こうけい)を見ぬき給えるイエスは彼を「狐」と呼び給うた。まことに適当な称呼である。イエスの答は極めて象徴的である。「今日、明日、三日め」等を具体的に取ることができないが、またこれを主の公生涯の三年を示す意味とも取り得ない。「来る日も来る日も」というごとき意味であろう。イエスには自分の生命のために逃げ回る日は一日もない。すなわちイエスの御心は「我は汝の威嚇や謀略を恐れて行動するようなことは決してない。生命の続く限りこの汝の領地内で奇跡的治癒を継続するであろう。しかしやがて時満ちて死ぬべき時が来れば、その時はエルサレムに進んで行こう。それは汝の退去命令のためではなく、預言者はエルサレムで殉教すべきものだからである。エルサレムは神の都の象徴であり、神の都が悪魔の支配の下にある以上、これを神に回復するには神の子の死が必要である。これらの凡てが神の御旨と神の預言に従って行われるであろう。汝の謀略は我には何の意味もない」というような意味である。
辞解
「悪鬼を逐ひ出し、病を醫し」といい、「福音を宣伝えること」を省略したのはヘロデはかかることには無関心だからである。
[全うせられん] 「殺される」こと。
[有るまじきなり] 「有り得ないこと」なお31−33節はルカ伝の特有である。

7-1-ヌ エルサレムに対する預言 13:34 - 13:35
(マタ23:37-39)   

13章34節 [(ああ)]エルサレム、エルサレム、預言者(よげんしゃ)たちを(ころ)し、(つかは)されたる人々(ひとびと)(いし)にて()(もの)よ、牝鷄(めんどり)(おの)(ひな)(つばさ)のうちに(あつ)むるごとく、(われ)なんぢの()どもを(あつ)めんとせしこと幾度(いくたび)ぞや。されど(なんぢ)らは(この)まざりき。[引照]

口語訳ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
塚本訳ああエルサレム、エルサレム、預言者を殺し、(神から)遣わされた者を石で打ち殺して(ばかり)いる者よ、雌鳥がその雛を翼の下に集めるように、何度わたしはお前の子供たちを(わたしの所に)集めようとしたことか。だがお前たち(エルサレムの者)はそれを好まなかった。
前田訳ああ、エルサレム、エルサレム、預言者を殺し、つかわされたものを石打ちするものよ、めんどりが雛を翼の下に集めるように、何度わたしはおまえの子らを集めようとしたか。しかしおまえらはそれを欲しなかった。
新共同エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
NIV"O Jerusalem, Jerusalem, you who kill the prophets and stone those sent to you, how often I have longed to gather your children together, as a hen gathers her chicks under her wings, but you were not willing!
註解: ▲ここに我らはイエスの愛国心を見なければならない。国を愛しない者が人類を愛することはできない。

13章35節 ()よ、(なんぢ)らの(いへ)は[()てられて](なんぢ)らに(のこ)らん。(われ)なんぢらに()ぐ、「()むべきかな、(しゅ)()によりて(きた)(もの)」と、(なんぢ)らの()(とき)(いた)るまでは、(われ)()ざるべし』[引照]

口語訳見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。
塚本訳そら、“お前たちの町は(宮もろとも神に)見捨てられ(て荒れ果て)るのだ。”お前たちに言っておく、お前たちが(わたしを迎えて)“主の御名にて来られる方に祝福あれ。”と言う時の来るまで、わたしを見ることは決してないであろう。」
前田訳見よ、おまえらの家は見捨てられる。わたしはいう、『祝福あれ、主のみ名によって来るものに』とおまえらがいう時の来るまで、おまえらは決してわたしを見まい」と。
新共同見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
NIVLook, your house is left to you desolate. I tell you, you will not see me again until you say, `Blessed is he who comes in the name of the Lord.' "
註解: 悔改めざるエルサレム(ユダヤ人の中心、神の宮の所在たるエルサレムなる故これは結局全ユダヤ民族の不信とイエスの限りなき愛をも拒否したことを意味するのであるが)は、ついに亡ぼされるであろうことをイエスは切々の情をもって嘆き、やがてはイエスをも殺すことによって神はエルサレム(而してイスラエル)より手を引くに至るであろうことを彼らに告げ給う。エルサレムおよびイスラエルに対する預言的挽歌である。
辞解
[牝鶏(めんどり)] イエスは全エルサレム、全ユダヤ人をその愛の翼の下に集め、彼らを凡て救って神の国の民となさんとし給うた。
[棄てられて] 主要の写本に無いので除く方が一般である。その場合「視よ、汝らの家は汝らに放棄されるであろう」となる。「家」は「神の宮」を意味す(L2、Z0、B1)。ゆえに神はもはやエルサレムの宮に住み給わず。すなわちイスラエルを放棄し給いこれを汝らにまかせ給うであろうとのことであって、その結果エルサレムの民は神に棄てられた民となることを意味する。イスラエルにとってこれより重大なことは有り得ない。そしてイエスが再びエルサレムの民に現れるのはその再臨の時であり、それまでは彼らはイエスを見ることができない。
[讃むべきかな云々] 詩118:26の句でユダヤ人の巡礼者の群がシオンの山を上って来る時に祭司がこの句をもって彼らを迎えた。「汝らユダヤ人はイエスを拒んだ不信の故に神に棄てられエルサレムは亡ぼされるであろうが、やがてはまた神の恵みにより悔改めてイエスを信ずるものとなり、全世界の信徒と共に、この詩118:21−25を歌いつつエルサレムに上り来るであろう」。その時はイエスの再臨の時である。イエスはかく言いてそのイスラエルに対する切々の愛情を吐露し、彼らの一日も速やかに悔改めんことを望み給うたのであった。34、35節はマタ23:37−39とほとんど同一であるが語られた機会を異にしている。

ルカ伝第14章

分類
8 神の国の教訓 14:1 - 18:30
8-1 神は弱き者を愛し給う 14:1 - 14:35
8-1-イ 安息日にも醫し給う 14:1 - 14:6  

14章1節 イエス安息(あんそく)(にち)食事(しょくじ)せんとて、(ある)パリサイ(びと)(かしら)(いへ)()(たま)へば、人々(ひとびと)これを(うかが)ふ。[引照]

口語訳ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
塚本訳ある安息日に、パリサイ派に属する(最高法院の)ある役人の家に食事に(招かれて)行かれた時のこと、人々はひそかにイエスの様子をうかがっていた。
前田訳ある安息日に、パリサイ人である役人の家に食事に行かれたときのこと人々は彼を監視していた。
新共同安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
NIVOne Sabbath, when Jesus went to eat in the house of a prominent Pharisee, he was being carefully watched.
註解: 1−24節はこの宴会におけるイエスの御業および神の国についての教訓である。(1)パリサイ人(1節)、(2)招かれた者(7節)、(3)招きたる者(12節)、(4)同席の者(15節)、(5)一般の群衆(25節)に対しそれぞれの角度より見た神の国の真理を教え給うた。神の国に入る者は如何なるものであるか、如何にして入り得るかの問題についての教訓である。内1−14節はルカ伝特有の記事。この宴会にイエスは招かれ給うたのであろう。パリサイ人の頭で有力者であったので大きい会合であったものと思われる(7−11)。「これを(うかが)ふ」は、イエスを陥れる機会を(うかが)っていたとみるよりも、むしろ好奇心と冷やかな心で見守っていたのであった。かかる場合にもイエスは恐れることなく彼らの会合に加わり給うた。▲なお注意すべきことはイエスはここでも特に安息日を破り給うたその勇気と敵なるパリサイ人をも人間として嫌わず、隔てなくこれと交わり給うたことである。

14章2節 ()よ、御前(みまへ)水腫(すゐき)をわづらふ(ひと)ゐたれば、[引照]

口語訳するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。
塚本訳すると、水気をわずらった人がイエスの前にあらわれた。
前田訳すると見よ、水気の人が彼の前に現われた。
新共同そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
NIVThere in front of him was a man suffering from dropsy.
註解: パリサイ人がこの病者に対して何をイエスが為し給うかを見ようとてここに連れ出したものと思われる。

14章3節 イエス(こた)へて教法師(けうほふし)とパリサイ(びと)とに()ひたまふ『安息(あんそく)(にち)(ひと)(いや)すことは()しや、(いな)や』[引照]

口語訳イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。
塚本訳イエスは自分の方から律法学者やパリサイ人たちに向かって口を切られた。「安息日に病気をなおすことは正しいか、正しくないか。」
前田訳イエスは自ら律法学者やパリサイ人らに向かっていわれた、「安息日にいやしをしてよいか、悪いか」と。
新共同そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
NIVJesus asked the Pharisees and experts in the law, "Is it lawful to heal on the Sabbath or not?"

14章4節 かれら默然(もくねん)たり。[引照]

口語訳彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。
塚本訳彼らが黙っていると、その人(の手)をつかんで、病気を直してお帰しになった。
前田訳彼らは黙っていた。すると彼はその人の手をとって、いやして帰された。
新共同彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。
NIVBut they remained silent. So taking hold of the man, he healed him and sent him away.
註解: ルカ13:12、13の場合と異なり、イエスはパリサイ人らの「所置」に「答へて」先ず彼らに安息日に醫すことの可否を問い給うた。けれども彼らは答えなかった。この場合のパリサイ人らは積極的にイエスを陥れようとまではしていなかったらしい。

イエスその(ひと)()り、(いや)して()らしめ、

14章5節 (かつ)かれらに()(たま)ふ『なんぢらの(うち)その()あるひは()(うし)()(おちい)らんに、安息(あんそく)(にち)には(ただ)ちに(これ)引揚(ひきあ)げぬ(もの)あるか』[引照]

口語訳それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。
塚本訳そして彼らに言われた、「あなた達のうちには、息子か牛かが井戸に落ちたとき、安息の日だからとてじきに引き上げてやらない者がだれかあるだろうか。」
前田訳そして彼らにいわれた、「子か牛が井戸に落ちたとき、安息日だからとてすぐ引きあげないものがあろうか」と。
新共同そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
NIVThen he asked them, "If one of you has a son or an ox that falls into a well on the Sabbath day, will you not immediately pull him out?"

14章6節 (かれ)()これに(たい)して(もの)()ふこと(あた)はず。[引照]

口語訳彼らはこれに対して返す言葉がなかった。
塚本訳彼らはこれに対して返答ができなかった。
前田訳彼らはそれに返事ができなかった。
新共同彼らは、これに対して答えることができなかった。
NIVAnd they had nothing to say.
註解: ルカ13:15に比しこの比喩は一層強調されており、「子」を加えかつ「井に陥った」場合となっているが、精神には変りなし。イエスの全行動と二回の質問に対して全会衆は唯沈黙をもってこれに応えたのみであった。驚愕のためか反感のためか、これを判断する材料はないが、15節等より見ればおそらく好意と驚異の情をもって眺めたのであろう。

8-1-ロ 己を卑うせよ 14:7 - 14:11  

14章7節 イエス(まね)かれたる(もの)上席(じゃうせき)をえらぶを()(たとへ)をかたりて()(たま)ふ、[引照]

口語訳客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。
塚本訳またイエスは招かれた人たちが上座を選ぶのに目をとめて、彼らに一つの譬を話された、
前田訳彼は招かれた人々が上座を選ぶのに目をとめて、ひとつの譬えをいわれた、
新共同イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
NIVWhen he noticed how the guests picked the places of honor at the table, he told them this parable:
註解: パリサイ人学者等は一般の人から尊敬され、自らも威厳を示そうとして上席をえらぶのが普通であった。イエスはこれを見てその事実の中に重大なる真理をさとりこれを説明し給うた。

14章8節 『なんぢ婚筵(こんえん)(まね)かるるとき、上席(じゃうせき)()くな。(おそ)らくは(なんぢ)よりも(たふと)(ひと)(まね)かれんに、[引照]

口語訳「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。
塚本訳宴会に招かれた時には、上座についてはいけない。あなたよりもえらい人が招かれていると、
前田訳「婚宴に招かれたとき、上座につくな。あなたより偉い人が招かれていると、
新共同「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
NIV"When someone invites you to a wedding feast, do not take the place of honor, for a person more distinguished than you may have been invited.

14章9節 (なんぢ)(かれ)とを(まね)きたる(もの)きたりて「この(ひと)(せき)を讓れ」と()はん。さらば()(とき)なんぢ()ぢて(すゑ)(せき)()きはじめん。[引照]

口語訳その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。
塚本訳あなた達を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかも知れない。その時あなたは恥ずかしい思いをして、下座に着かねばならない。
前田訳あなたとその人とを招いたものが来て、『この方に席をゆずってください』といおう。そのときあなたは恥じて下座に着こう。
新共同あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
NIVIf so, the host who invited both of you will come and say to you, `Give this man your seat.' Then, humiliated, you will have to take the least important place.
註解: 自らを他人よりも高しと思うのは一般の人情である。たといこの比喩のごとくに外部に表れない場合でも、心の中で他人を卑しめつつ自らを高しとする者は非常に多い。かかる人は神の国の宴においてこの客のごとくに恥じなければならないであろう。「末席」とあるに注意すべし。これが社会的実情でもあるが、同時に霊的真理を示す。

14章10節 (まね)かるるとき、(むし)()きて(すゑ)(せき)()け、さらば(まね)きたる(もの)きたりて「(とも)よ、(うへ)(すす)め」と()はん。その(とき)なんぢ同席(どうせき)の((すべ)ての)(もの)(まへ)(ほまれ)あるべし。[引照]

口語訳むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。
塚本訳招かれた時には、むしろさっさと下座にすわりなさい。そうすればあなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上の方に進みください』と言う時に、満座の中で面目をほどこすであろう。
前田訳招かれたときは進んで下座にすわりなさい。そうすればあなたを招いたものが来て、『友よ、もっと上座にお進みを』というとき、あなたは同席のもの皆の前で面目をほどこそう。
新共同招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
NIVBut when you are invited, take the lowest place, so that when your host comes, he will say to you, `Friend, move up to a better place.' Then you will be honored in the presence of all your fellow guests.
註解: 末席が自らにとって最も相応しい場所であると思い、かく振舞うものは、神より誉れを受けるであろう。神の前では、我らは凡ての人の最下位に坐し、凡ての人の僕としてこれに仕えることが必要である。自己の罪の大きさを知る者は、他人と自己とを比較して自分が優っていると考え、また人をしてかく考えしめることができない。「罪人のうち我は(かしら)なり」(Tテモ1:15)がパウロのみならず凡てのキリスト者の心である。それ故自らは凡ての人の最下位に坐すべきものであると考えるのが自然である。

14章11節 (おほよ)そおのれを(たか)うする(もの)(ひく)うせられ、(おのれ)(ひく)うする(もの)(たか)うせらるるなり』[引照]

口語訳おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
塚本訳自分を高くする者は皆低くされ、自分を低くする者は高くされるのである。」
前田訳だれでも、自らを高めるものは低められ、自らを低めるものは高められる」と。
新共同だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
NIVFor everyone who exalts himself will be humbled, and he who humbles himself will be exalted."
註解: 己を他人よりも高いものと考えること、そのことの中に神の前に大きい罪と過ちとを犯していることを知らなければならぬ。人間は皆神の前に平等である。等しく罪人であり、等しく神の救いによらなければならない者である。自己に少しでも価値ありと考える者は罪のあがないを必要と考えない者であり、神に(こば)まれる者である。「神は高ぶる者を(ふせ)謙遜(へりくだ)る者に恩恵を与え給ふ」(ヤコ4:6)。人はみな罪人の(かしら)であり、凡ての人の最下位に坐する心を持つべきである。かかる者のみが神によって高うせられるであろう。
要義 [パリサイ人の誇り]イエスがこの宴席に招かれ、多くのパリサイ人の間に伍して深く感じ給うたことはパリサイ人、教法師らが、自らを高しとする心および態度であった。律法主義者、道徳家、学者らは、みな自己の道徳や学問の価値をもって自ら他よりも優っていると誇り、この誇りをもって神の前に立とうとしているのである。しかし、神の目より見れば、彼ら自身の価値は(すこし)も誇るに足らず、その誇りはかえって彼らの罪を重くするだけである。かかる誇りほど人を滅びに導くものはない。厳密に言えば凡ての人にこの種の誇りがあり、そのために(へりくだ)ってイエスを受納れることができない。イエスがこの婚筵の比喩をもってパリサイ人に語り給うたことは、勿論単なる宴席の儀礼の問題ではなく、パリサイ人らの高慢の問題であり、イエスを(こば)む態度がその高慢に在ることを知らしめ給うたのであった。

8-1-ハ 弱者を愛せよ 14:12 - 14:14  

14章12節 また(おのれ)(まね)きたる(もの)にも()(たま)ふ『なんぢ晝餐(ひるげ)または夕餐(ゆふげ)(まう)くるとき、朋友(とも)兄弟(きゃうだい)親族(しんぞく)()める(となり)(ひと)などをよぶな。(おそ)らくは(かれ)らも(また)なんぢを(まね)きて(むくい)をなさん。[引照]

口語訳また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。
塚本訳また自分を招いた人にも言われた、「朝飯や夕飯の会を催す時には、友人も、兄弟も、親族も、近所の金持も呼ぶな。そうでないと、その人たちもあなたを招待してお返しをするかも知れない。
前田訳彼は自分を招いた人にもいわれた、「昼食や夕食の会を開くとき、友だちも兄弟も親族も近くの金持も招くな。さもないと、彼らのほうでもあなたを招いてお返しをしよう。
新共同また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
NIVThen Jesus said to his host, "When you give a luncheon or dinner, do not invite your friends, your brothers or relatives, or your rich neighbors; if you do, they may invite you back and so you will be repaid.

14章13節 饗宴(ふるまひ)(まう)くる(とき)は、(むし)(まづ)しき(もの)不具(ふぐ)跛者(あしなへ)盲人(めしひ)などを(まね)け。[引照]

口語訳むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。
塚本訳御馳走をする時には、むしろ貧乏人、片輪、足なえ、盲人を招きなさい。
前田訳ふるまいをするときは、貧乏人、不具の人、足なえ、目しいを招きなさい。
新共同宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
NIVBut when you give a banquet, invite the poor, the crippled, the lame, the blind,

14章14節 (かれ)らは(むく)ゆること(あた)はぬ(ゆゑ)に、なんぢ幸福(さいはひ)なるべし。(ただ)しき(もの)復活(よみがへり)(とき)(むく)いらるるなり』[引照]

口語訳そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
塚本訳この人たちはお返しができないから、あなたは幸いである。(最後の日)義人の復活の時に、あなたは(神から)お返しをうけるのだから。」
前田訳そうすればあなたはさいわいである。この人たちはお返しができないから。義人の復活のとき、あなたはお返しを受けよう」と。
新共同そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
NIVand you will be blessed. Although they cannot repay you, you will be repaid at the resurrection of the righteous."
註解: 現世において報いを得るの予想をもってする行為は、無意味である。「汝ら、すでにその報いを得たり」(マタ6:5マタ6:16)。それよりもむしろ貧者、不具者、跛者、盲人等全く報いをする力の無い人、人々に嫌われる人を招くべきである。すなわちそれらの人を愛しこれに奉仕し、これを幸福ならしむべきである。かかる慈悲の行為は、現世では全く報いられない。それだけこれを行う人の心は神の喜び給う処であって、その人はそれだけ幸福である。神は義人の復活の時、すなわちイエスの再臨の日に彼らに報い給うであろう。我らのこの世における幸福はその為したことがこの世において報いられるや否やによって決定されず、弱者、貧者、病者等、この世の人から顧みられない人に対する無報酬の愛をもって行動すること、そのことにおいて幸福を享有すべきである。この比喩もルカ特有の資料が残されたのであって、イエスを招いた主人に対する力強い批判であり警告であった。これに対して主人は如何なる印象を与えられたかについては録されていない。おそらく反感は有たなかったのであろう。次節の空気がこの事実を反映する。なおこの教訓は神が罪人を招き給う態度も全くそのごとくであることを示し給うたのであることをも見逃してはならない。神は自らに満ち足っている者を招かず貧者弱者を招き給う(ルカ5:31)。
要義 [習俗に対する反省]風俗習慣となって固定しているものは、多くの場合何らの批判もなく行われやすい。それが悪風、悪習にあらざる限り、別格の害があるわけではないが、その代りにさらに善き行為を為し得る機会は甚だ多いことを考えなければならぬ。かかるヨリ善き行為の機会が多く存しているにもかかわらず、これを行わないのは、一つは単に旧習慣を固守しているからであり、一つは自己の損失とならない程度に行動することを欲するからである。この後者に対し、イエスは警告を与え、地上における現世的報償を超越した行為を為すべきことを教え給うた。人間は現代を超越するだけでは足らず、この世の生活全体を超越して神の国に生き、神よりの報いを望む生活に入らなければならぬ。

8-1-ニ 神の国の招宴に応ずる者 14:15 - 14:24
(マタ22:1-10)   

14章15節 同席(どうせき)(もの)一人(ひとり)これらの(こと)()きてイエスに()ふ『おほよそ(かみ)(くに)にて食事(しょくじ)する(もの)幸福(さいはひ)なり』[引照]

口語訳列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
塚本訳これを聞いて、ひとりの客がイエスに言った、「神の国で食事のできる者は、なんと幸いでしょう。」
前田訳相客のひとりがこれを聞いて彼にいった、「さいわいなのは神の国で食事できる人」と。
新共同食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
NIVWhen one of those at the table with him heard this, he said to Jesus, "Blessed is the man who will eat at the feast in the kingdom of God."
註解: この人もパリサイ人の一人であろう。この人はイエスの教訓を聞きつつ、復活の時に神の国にて食事をする者の幸福に念が及んだ。これは彼にとって善き思い付きであったけれども、如何なる人が神の国の宴に就き得るかについて、彼の考えは足らなかった。それゆえイエスは彼のこの言を捉えて、さらに新しい真理すなわち如何なる人が神の国の宴に坐し得るやを教え給うた。ただしルカ13:22−30の場合はユダヤ人と異邦人との差別を示し、本節以下の比喩は、パリサイ人らとユダヤ人の中の罪人らおよび異邦人中より召される者との差を示す。

14章16節 (これ)()ひたまふ『(ある)(ひと)(さかん)なる夕餐(ゆふげ)(まう)けて、(おほ)くの(ひと)(まね)く。[引照]

口語訳そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
塚本訳その人に言われた、「(そのとおり。しかしこの譬を聞きなさい。)ある人が大宴会を催して大勢(の客)を招いた。
前田訳その人にいわれた、「ある人が大夕食会を開いて、大勢を招いた。
新共同そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
NIVJesus replied: "A certain man was preparing a great banquet and invited many guests.

14章17節 夕餐(ゆふげ)(とき)いたりて、(まね)きおきたる(もの)(もと)(しもべ)(つかは)して「(きた)れ、(すで)(そなは)りたり」と()はしめたるに、[引照]

口語訳晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
塚本訳宴会の時刻になったので、一人の僕をやって招いた人たちに、『お出でください、もう用意ができています』と言わせると、
前田訳会の時間になったので僕をつかわして招いた人々に『おいでください。もう用意ができました』といわせた。
新共同宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
NIVAt the time of the banquet he sent his servant to tell those who had been invited, `Come, for everything is now ready.'

14章18節 (みな)ひとしく(ことわ)りはじむ。(はじめ)(もの)いふ「われ田地(でんぢ)()へり。()きて()ざるを()ず。()ふ、(ゆる)されんことを」[引照]

口語訳ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
塚本訳皆が異口同音にことわり始めた。第一の人は言った、『畑を買ったので見に行かねばなりません。どうか失礼させてください。』
前田訳すると皆がそろって断わりはじめた。第一の人がいった、『畑を買ったので見に行かねばなりません。どうぞご勘弁を』と。
新共同すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
NIV"But they all alike began to make excuses. The first said, `I have just bought a field, and I must go and see it. Please excuse me.'

14章19節 (ほか)(もの)いふ「われ()(くびき)(うし)()へり、(これ)(ため)すために()くなり。()ふ、(ゆる)されんことを」[引照]

口語訳ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
塚本訳次の人は言った、『五対の牛を買ったので、いま改めに行くところです。どうか失礼させてください。』
前田訳次の人がいった、『牛を五対買ったのでしらべに行きます、どうぞご勘弁を』と。
新共同ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
NIV"Another said, `I have just bought five yoke of oxen, and I'm on my way to try them out. Please excuse me.'

14章20節 また(ほか)(もの)いふ「われ(つま)(めと)れり、()(ゆゑ)()くこと(あた)はず」[引照]

口語訳もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
塚本訳もう一人の人は言った、『家内をもらったばかりで、行かれません。』
前田訳もうひとりがいった、『妻をめとりましたので行けません』と。
新共同また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
NIV"Still another said, `I just got married, so I can't come.'
註解: この夕餐(ゆうげ)は天国の饗宴の比喩である。「招きおきたる者」(17節)はモーセの律法を教えられこれを守ろうとしている人と考えるべきであろう。一般にこれらの人が神の国に入る人と考えられていた。いよいよ準備が出来上がって主人なるイエスは招いておいた人々の処に使いを遣して準備が出来たことを告げてその出席を求めた。「神の国は近付けり悔改めよ」の叫びは天国の招宴への召集の叫びである。然るにいよいよこの招待が来ると、予じめ招かれていた多くの人はその出席を拒んだ。その理由は、農業(18節)・牧畜(19節)・結婚(20節)等凡てこの世の生活に関する処のものであった。彼らはこの世の生活事情に妨げられて、天国の宴への招きを辞退したのであった。神の国に相応しきものはこの世の凡ての慾に打克(うちか)ち、唯神とイエスとのみに従うものでなければならぬ。

14章21節 (しもべ)かへりて(これ)()(こと)をその主人(あるじ)()ぐ、[引照]

口語訳僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
塚本訳僕がかえって来てそのことを主人に報告すると、主人は怒って僕に言った、『大急ぎで町の大通りや路地へ行って、貧乏人や片輪や盲人や足なえをここにつれて来なさい。』
前田訳僕が帰ってそれを主人に告げると、主人は怒って僕にいった、『すぐ町の大通りや小道へ行って、貧乏人や不具の人や目しいや足なえをここに連れて来い』と。
新共同僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
NIV"The servant came back and reported this to his master. Then the owner of the house became angry and ordered his servant, `Go out quickly into the streets and alleys of the town and bring in the poor, the crippled, the blind and the lame.'
註解: イエスがその弟子たちの伝道の経験からもこのことを聞いた。

家主(いへあるじ)いかりて(しもべ)()ふ「とく(まち)大路(おほじ)(せう)(みち)とに()きて、(まづ)しき(もの)不具(ふぐ)(もの)盲人(めしひ)跛者(あしなへ)などを此處(ここ)()れきたれ」

註解: 神の招きに応じないこと、しかも予め招かれている者が来なかったことは家主なるイエス・キリストにおいて大なる失望であり、大なる怒りを禁じ得なかった。それ故にその招きは罪人として軽視され、神の国に入り得べからざる人々と考えられていた人たち、すなわちユダヤ人の中で最も天国に縁が無いと考えられた人々に及んだのであった。「遊女と取税人とは汝らに先立ちて神の国に入るべし」とイエスが言い給うたのもこの意味である。天国の宴が貧者・不具者・盲人・跛者などの集会であることは何という意外なことであろう。しかしそこにこそ神の愛と、悔改めて神の招きに応じた者との真の価値があるのである。これらの無価値なる者にして、始めて神の国に入ることができる。

14章22節 (しもべ)いふ「(しゅ)よ、(おほせ)のごとく()したれど、()(あまり)(せき)あり」[引照]

口語訳僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
塚本訳やがて僕が(かえって来て)言った、『御主人、仰せのとおりにしましたが、まだ席があります。』
前田訳やがて僕がいった、「ご主人、仰せのとおりにしましたが、まだ席があります」と。
新共同やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
NIV"`Sir,' the servant said, `what you ordered has been done, but there is still room.'

14章23節 主人(あるじ)(しもべ)()ふ「(みち)(まがき)(ほとり)にゆき、人々(ひとびと)()ひて()れきたり、()(いへ)()たしめよ。[引照]

口語訳主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
塚本訳主人が僕に言った、『田舎道や垣根のところに行き、(そこにいるひとたちに)無理にも来てもらって、家をいっぱいにしなさい。』
前田訳主人が僕にいった、『道や垣根のあたりに出かけて、人々を無理に来させなさい。わが家がいっぱいになるように』と。
新共同主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
NIV"Then the master told his servant, `Go out to the roads and country lanes and make them come in, so that my house will be full.
註解: 天国の宴会場は広い(ヨハ14:2)。それ故イエス・キリストは僕に命じて異邦人をも宴席に加わらしめ給うた。「道や(まがき)」は「町」の外を意味するのであろう。「強ひて」は暴力をもっての意味ではなく、彼らを拒み得ざるまでにすすめて連れ来ることであろう。あるいは疾病その他の苦難を人間に与え、あるいは社会的苦難や不幸などによって人間の反省を促し、神に引付け給うことは、「強ひて」夕餐(ゆうげ)に招き給う方法であると見ることができよう。かくして神はその宴席に必要な数をもって満し給う(ロマ11:25)。救いが異邦人に及んだのはユダヤ人の不信のためであった(ロマ11:11、12)。

14章24節 われ(なんぢ)らに()ぐ、かの(まね)きおきたる(もの)のうち、一人(ひとり)だに()夕餐(ゆふげ)(あぢは)()(もの)[なし](なからん)」』[引照]

口語訳あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。
塚本訳──あなた達に言う、(神の国もこのとおり。最初に)招いた人たちで、わたしの宴会に連なる者は一人もあるまい。」
前田訳わたしはいう、招かれた人々のうちからはひとりもわが夕食会につらなるまい」と。
新共同言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
NIVI tell you, not one of those men who were invited will get a taste of my banquet.'"
註解: 始めに招かれた者は安心して夕餐(ゆうげ)に与り得ると思ったのであろうけれども、いよいよその時となって彼らはこれを味わい得なかった。自分たちだけが救われると思っているパリサイ人や学者らはこのイエスの御言によって深く反省せしめられたことであろう。(▲しかしまた他面イエスに対して反感を持つに至った者も有ったであろう。パリサイ人のごとく自らを高しとする者は常に真理に反撥する。)自ら勝手に標準を作り、これに叶うことによって天国に入り得ると考える信仰ほど危険なものはない。イエスを外にして他に天国への門は無いからである。なお注意すべきことは最後にイエスはこの夕餐(ゆうげ)を「わが夕餐」と称したことである。問うに落ちず語るに落ちた形で、イエスは始めより天国の宴の主人はイエス自身であり、イエスの招きを拒みイエスを信ぜざる者が天国に入り得ないことを教えんとし給うたのであったことがわかる。なお15−24節とマタ22:1−10とは似寄っているけれども意味は異なっている。
要義 [異邦人の救い]15−24節の比喩は罪人および異邦人の救いに関するロマ5:20および9−11章を思い出さしめるものがある。イエスによる救いが人類的であり、そしてそれが律法的正義によらず、信仰によって神に来る罪人の救いだからである。この比喩の中にもユダヤ人の不信、殊にパリサイ人や学者等の階級の人々の不信に対するイエスの燃ゆるがごとき憤懣があらわれているのであるが、また同時にそれが神の救いの奇しき経綸であることも表れている。神は凡てのものを御自身の栄光のために用い給う。

8-1-ホ イエスに従うことの困難 14:25 - 14:35
(マタ10:37-38)   

14章25節 さて(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)イエスに(ともな)ひゆきたれば、[引照]

口語訳大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、
塚本訳大勢の群衆がイエスと一しょに旅行をしていると、振り向いて言われた、
前田訳大勢の群衆が彼のお伴をしていると、振り向いていわれた、
新共同大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
NIVLarge crowds were traveling with Jesus, and turning to them he said:
註解: 次ぎは宴席を終えて外に出た時の光景と見るべきであろう。場所はおそらくペレアならんか(Z0)。

(かへり)みて(これ)()ひたまふ、

14章26節 (ひと)もし(われ)(きた)りて、その(ちち)(はは)(つま)()兄弟(きゃうだい)姉妹(しまい)(おの)生命(いのち)までも(にく)まずば、()弟子(でし)となるを()ず。[引照]

口語訳「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
塚本訳わたしの所に来て、その父と母と妻と子と兄弟と姉妹と、なおその上に、自分の命までも憎まない者は、だれもわたしの弟子になることは出来ない。
前田訳「わたしのところに来て、おのが父と母と妻と子と兄弟と姉妹と、さらにおのがいのちまでも憎まぬものは、わが弟子ではありえない。
新共同「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
NIV"If anyone comes to me and does not hate his father and mother, his wife and children, his brothers and sisters--yes, even his own life--he cannot be my disciple.
註解: イエスの弟子となろうと思って彼の許に来る者は、自己の生命は勿論のことその肉親をも「憎む」のでなければならない。人間は自然のままでは自己中心的であり、本能、私慾が彼を支配する。肉親の愛もこの本能から生じ、私慾私情がこれに附随する。この人間の自然性は神中心の心、イエスに従う心に対して反対の方向に働く。真にイエスに従わんと欲する者は、必然の結果としてこの自然性の反抗に対して聖なる憎をいだく。この憎みは勿論自己中心の、利害本位の、または人情的の憎悪ではない。自然性それ自身に対する憎悪でなければならぬ。しかし真にイエスのみを愛しその弟子となる者はまたその聖愛をもって父母・兄弟、および己が生命をすら愛するに至る。
辞解
[己が生命までも] 原語で「猶又(なおまた)己が生命をも」である。
[憎む] 上記のごとくに解すべきで、これを「少なく愛する」とか「愛せず」と同じ意味に薄めることは不可である。▲それ故原語「憎む」を「捨てる」と口語に訳したのは原文の妙味を失ってしまう。

14章27節 また(おの)十字架(じふじか)()ひて(われ)(したが)(もの)ならでは、()弟子(でし)となるを()ず。[引照]

口語訳自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
塚本訳自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることは出来ない。
前田訳おのが十字架を負ってわたしについて来ないものは、わが弟子ではありえない。
新共同自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
NIVAnd anyone who does not carry his cross and follow me cannot be my disciple.
註解: マタ10:38マタ16:24。その他参照)イエスの弟子となる者は、イエスの受くる苦難を共に受けなければならない。それが弟子の負うべき十字架である。世はイエスを憎む、それはイエスは世の罪を指摘し給うからである。同様に世は弟子たちを憎む故に迫害が必ず彼らに及び、それが彼らの負う十字架となる。これを欲しない者はイエスの弟子とはなり得ない。
辞解
「また己が十字架を負わずして我に従う者は・・・・」と訳すこともできる(B1)。
要義 [イエスの弟子となることの困難]イエスの弟子となるには26、27節の示すごとく、一方凡ての人間が愛着してやまない肉親や自己に対する徹底的憎悪、他面に信仰生活に必ず伴う苦難の十字架の二者を覚悟しなければならぬ。自然人の好む処のものを憎み、最も嫌う処のものを自己に引受ける覚悟が必要である。このことを決心することなしに、軽々しくイエスの弟子とならんとする者は、必ず中途で脱落する。

14章28節 (なんぢ)らの(うち)たれか(やぐら)(きづ)かんと(おも)はば、()()して()(つひえ)をかぞへ、(おの)所有(もちもの)竣工(しゅんこう)までに()るか(いな)かを(はか)らざらんや。[引照]

口語訳あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
塚本訳(このように、わたしの弟子になるには最初の覚悟が必要である。)なぜか。(次の譬を聞きなさい。)あなた達のうちには櫓を建てようと思うとき、まず坐って、はたして造りあげるだけの金があるかと、その入費を計算しない者がだれかあるだろうか。
前田訳あなた方のだれかがやぐらを建てようと思うとき、まずすわって、仕上げに十分な金があるかと、費用を数えないか。
新共同あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
NIV"Suppose one of you wants to build a tower. Will he not first sit down and estimate the cost to see if he has enough money to complete it?

14章29節 (しか)らずして(もとゐ)()ゑ、もし成就(じゃうじゅ)すること(あた)はずば、()(もの)みな嘲笑(あざけり)ひて、[引照]

口語訳そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、
塚本訳そうしないで、土台をすえただけで完成ができないと、見る人が皆、
前田訳さもないと、土台を据えただけで完成できず、見るものが皆こういって笑おう、
新共同そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
NIVFor if he lays the foundation and is not able to finish it, everyone who sees it will ridicule him,

14章30節 「この(ひと)(きづ)きかけて成就(じゃうじゅ)すること(あた)はざりき」と()はん。[引照]

口語訳『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。
塚本訳『あの人は建てかけたが、完成できなかった』と言って笑うであろう。
前田訳『この人は建てかけたが完成できなかった』と。
新共同『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
NIVsaying, `This fellow began to build and was not able to finish.'
註解: (28−33節はルカの特有)(やぐら)を築くことのごときこの世の普通の事柄でも、その終局までを考慮に入れて自己の資力で竣工し得るや否やを考えて着手するのが当然の態度である。()してイエスの弟子となるというごとき重大な問題は、その最も困難な場合をも考慮に入れた上に決心しなければならぬ。然らざれば半途で挫折して人の物笑となるか(29節)または30節のごとく不徹底な役に立たぬものとなって外に棄てられてしまうであろう。▲▲文語訳の「(やぐら)」が口語訳では「邸宅」となっている。purgos は高い塔で防衛または警備のために用いるもの。普通の邸宅ではない。

14章31節 (また)いづれの(わう)()でて(ほか)(わう)戰爭(いくさ)をせんに、()()して、()一萬(いちまん)(にん)をもて、かの二萬(にまん)(にん)(ひき)ゐ(て(すす)み)きたる(もの)(むか)()るか(いな)(はか)らざらんや。[引照]

口語訳また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。
塚本訳また、ある王が他の王と戦いを交えようとする時には、まず坐って、(自分の)一万(の兵)で、二万(の兵)を率いてすすんで来る敵をむかえ撃てるかどうかを考えないだろうか。
前田訳また、ある王がほかの王と戦いを交えに行くとき、まずすわって、二万人で向かい来る敵を一万人で迎えうてるかと考えないか。
新共同また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
NIV"Or suppose a king is about to go to war against another king. Will he not first sit down and consider whether he is able with ten thousand men to oppose the one coming against him with twenty thousand?

14章32節 もし()かずば、(てき)なほ(とほ)(へだて)るうちに、使(つかひ)(つかは)して和睦(やはらぎ)()ふべし。[引照]

口語訳もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。
塚本訳そして、もしかなわないと見たら、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を派遣して講和を申し出るであろう。
前田訳もしかなわねば、敵がまだ遠いうちに使いをやって和を請おう。
新共同もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
NIVIf he is not able, he will send a delegation while the other is still a long way off and will ask for terms of peace.
註解: この比喩は28−30節の比喩と同じく、二倍も優勢な敵が攻撃して来、半分の兵力をもってこれに対抗し得ないことが明白である場合は、戦うことをせずに和を講ずることが必要であること。すなわち不可能な戦を始めないのが賢明であることを示す。これら二つの比喩をもって明かであるように、自分で成し遂げる力が無い者はこれを始むべきではないと同様、イエスの弟子となる者も26、27節の困難を考慮に入れ、これらの困難にたえ得ないことが明かな者はイエスの弟子となり得ないことを知るべきである。
辞解
[和睦を請うべし] 「降参すべし」と訳する説あり(L2)。

14章33節 かくのごとく、(なんぢ)らの(うち)( (だれ)にても) その一切(すべて)所有(もちもの)退(しりぞ)くる(もの)ならでは、()弟子(でし)となるを()ず。[引照]

口語訳それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
塚本訳だから同じように、(家族や財産など)一切合切、自分のものと別れなければ、あなた達のだれ一人、わたしの弟子になることは出来ない。
前田訳このように、あなた方はだれでも、おのがものすべてと別れねば、わが弟子ではありえない。
新共同だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
NIVIn the same way, any of you who does not give up everything he has cannot be my disciple.
註解: 本節は前二つの比喩の結論で、誰でも自己の凡ての所有 ─ 物質的所有も精神的所有も(ことごと)く ─ から離れる者でなければイエスの弟子となることができないことを示す。すなわち自己の心を惹きつけ、これを支配するあらゆるもの、肉親も、財産も名誉も凡てを棄て去って苦難の十字架を負うことがイエスの弟子としての必要条件である。

14章34節 (しほ)()きものなり、()れど(しほ)もし效力(かうりょく)(うしな)はば、(なに)によりてか(あぢ)つけられん。[引照]

口語訳塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。
塚本訳だから、(それは塩に似ている。)塩はよいもの。しかし塩でももし馬鹿になったら、何で(もう一度)塩気がつけられるか。
前田訳塩はよいものである。しかし塩もきかなくなれば、何で塩づけられよう。
新共同「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
NIV"Salt is good, but if it loses its saltiness, how can it be made salty again?

14章35節 (つち)にも肥料(こやし)にも(てき)せず、(そと)()てらるるなり。()(みみ)ある(もの)()くべし』[引照]

口語訳土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。
塚本訳畑にも肥料にも役立たず、外に捨てられるばかりである。(わたしの弟子もそのとおり。)耳のきこえる者は聞け。」
前田訳畑にも肥料にも役立たず、外に捨てられよう。聞く耳あるものは聞け」と。
新共同畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
NIVIt is fit neither for the soil nor for the manure pile; it is thrown out. "He who has ears to hear, let him hear."
註解: マタ5:18参照。イエスの弟子は地の(しお)である。然るに弟子にしてもし26、27節の条件に適せず、28−32節のの比喩のごとくに半途にしてその態度を変更するならば、それは味を失った(しお)であって何の役にも立たない。(しお)にも土にも肥料にもならない。味を失った不徹底のキリスト者は未信者ほどの役にも立たない。勿論キリストの弟子とは称し得ない。キリスト者にも棄てられこの世にも棄てられてしまう。
要義 「味を失える(しお)」キリスト者はこの世に対して味を持たなければならぬ。また(しお)は世の腐敗を防止する力を有つ。これらの作用を失う場合、(しお)はもはや(しお)ではなく、キリスト者はもはやキリスト者ではない。そして(しお)としてその味を失わない方法は、26、27節のごとくにイエスに従うことに徹底し、己が十字架を負うてイエスの弟子となることより外にない。困難であるが、この以外の道をもってはイエスの弟子とはなり得ない。世俗的教会は結局この世に履み付けられるより外にないであろう。