ガラテヤ書第3章
分類
2 教理の部 1:6 - 5:12
2-2 信仰と律法との差別 3:1 - 4:11
2-2-イ 信仰と律法とを混同すべからず 3:1 - 3:6
註解: ここにパウロはペテロに関する記事とこれに伴える自己の信仰の中心問題に関する記述より転じて再びガラテヤ人に向ってその非難を向けている。
口語訳 | ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。 |
塚本訳 | ああ、なんと物のわからぬガラテヤ人たちよ、だれがあなた達をたぶらかしたのか。(この前わたしがいった時、)十字架につけられたイエス・キリストがあなた達の目の前に(はっきりと)描き出されたのに! |
前田訳 | わけわからずのガラテア人! だれがあなた方をたぶらかしたのですか。十字架につけられたイエス・キリストがあなた方の目の前ではっきり示されたではありませんか。 |
新共同 | ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。 |
NIV | You foolish Galatians! Who has bewitched you? Before your very eyes Jesus Christ was clearly portrayed as crucified. |
註解: 原語「オー愚かなるガラテヤ人よ」。「愚かなる」anoêtos は真理に対する無理解を意味する。パウロは「愛する者よ」をもって始め得なかった。愛していたのではあるが叱らなければならなかったからである(B1)。
註解: 憎むべきは誑 かす者であるけれども、誑 されし者を叱責しなければならない処にパウロの愛の労苦がある。誑 かす者は至る処に跋扈 するから我らは誑 かされないように注意しなければならない。殊にガラテヤの信徒の場合には純正の福音が彼らに伝えられたのであった。すなわち我らの罪のために十字架にかけられ給える神の子キリストこそ我らの救い主であることが公然に明瞭に彼らの眼前に掲示されたのであった。彼らはいかにしてもこの真理より迷い出るはずがなかったのである。然るにもかかわらず彼らが異なる福音に移ったのである。パウロの驚きと悲しみも察し得られ、人間の愚かさもこれによりて悟ることができる。
辞解
[顕さる] proegraphê はここでは官庁の命令や告示のごとく公に掲示されることを意味する(L3)。
[誑 かす] baskainô 本来は魔術師その他が目にて人を魅惑することに用いる語。
[眼前に] 魔術師が目にて人を誑 かすことに関連しガラテヤ人がその目をキリストの十字架より離して偽教師に向けしことを非難している。
3章2節
口語訳 | わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。 |
塚本訳 | わたしはあなた達からこのことだけを聞かせてもらいたい、あなた達が御霊をいただいたのは、律法を行なうことによってか、それとも、信仰(の福音)を聞いて信じたことによってか。 |
前田訳 | お聞きしたいのは、ただこのことです−−あなた方が霊を受けたのは律法を行なうことによってですか、それとも信仰の伝達によってですか。 |
新共同 | あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。 |
NIV | I would like to learn just one thing from you: Did you receive the Spirit by observing the law, or by believing what you heard? |
註解: 最後の部分の私訳「信仰をもって聴きしに由るか」。パウロは前節の如く誑 かされしガラテヤ人を覚醒せしめんがためにまず一つの質問を発した。而してこの質問は問題の中心に触れているのでこの質問一つで充分パウロの目的が達せられるくらいのものであった。曰く「汝ら御霊を受けてイエスを神の子と信じたのは(Tコリ12:3)汝らが精進して律法の行為を行ったためであったか、または宣伝えられし福音を信仰をもって聴いたためであったか」。勿論後者であったろう。すなわち律法の行為とは全然関係なく唯福音に対する心の態度いかんによって、御霊を受け得るや否やが定まるのである。そうして聖霊を受けることは罪を赦され神の子とされることを意味する以上、義とされるのは律法の行為によらないことは明らかである。
辞解
[聴きて信じたるによるか] ex akoês pisteôs は直訳「信仰の聴聞によるか」で種々の意味に解せられる。(1)「信仰の宣伝」(M0)、(2)「信仰を生む処の聴聞」(A1、改訳)、(3)「信仰」を「福音」と同意義に見る説「福音を聞くこと」(C1)、(4)「信仰をもって聴聞すること」(L3、Z0、E0)等である。(4)の説が最も可なるがごとし。
3章3節
口語訳 | あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。 |
塚本訳 | あなた達はこんなに物がわからないのか。(信仰、すなわち)霊で始めたのに、今、(律法の行い、すなわち)肉で完成しようとするのか。 |
前田訳 | あなた方はそれほどわけわからずですか。霊で始めたのに今は肉で仕上げるのですか。 |
新共同 | あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。 |
NIV | Are you so foolish? After beginning with the Spirit, are you now trying to attain your goal by human effort? |
註解: 信仰により肉に死し御霊を受けて新生に入ったのがキリスト者の新生命の始めである。故にあくまでも霊において発育すべきである。しかるにガラテヤ人は今に至ってまた新たに律法の行為によって義とせられんとしこれによりて霊による新生命を完成せんとするごときは「新生」に入らざる旧き人すなわち肉の思想である。実に愚かなることではないか。
辞解
[斯くも] houtôs は意味を強くする。
[肉] 肉体とか肉慾とかの意味ではなく新生せざる旧き人を意味する。
3章4節
口語訳 | あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。 |
塚本訳 | あれほどまでの経験を(すっかり)無駄にするのか。まさか無駄にするのではあるまい。 |
前田訳 | あれほどの経験をしたのがむなしかったのですか。もしむなしかったといえるならば、 |
新共同 | あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。 |
NIV | Have you suffered so much for nothing--if it really was for nothing? |
註解: ガラテヤの信徒らはユダヤ人より多くの迫害を受けた(使13:44−52。使14:2、使14:5、使14:19等)もし今に至って律法を守ることによりて義とせられんとするくらいならば、曩 にこれらの迫害を受ける必要もなかったのである。これもガラテヤの信徒の愚かな点である。
辞解
[苦難を受けし] 原語 paschô 「苦しむ」であるが或はこれを(1)忍耐をもってパウロの教えを受けしこと(B1)、(2)偽教師が律法をもって彼らを煩わせしこと(M0)、(3)益を受けること(かかる意味もあり)等種々に解されるけれども上述の解釈(L1、C1、L3、Z0、E0、A1、A2、C2)による。
3章5節
口語訳 | すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。 |
塚本訳 | では(もう一度たずねるが)、神が御霊を授け、あなた達の中に(不思議な)力を働かせられたのは、(あなた達が)律法を行なうことによってか、それとも、信仰を聞い(て信じ)たことによってか。 |
前田訳 | あなた方に霊を送ってあなた方の間で力を働かせる方は、あなた方が律法を行なうことによってそうなさるのですか、信仰の伝達によってそうなさるのですか。 |
新共同 | あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 |
NIV | Does God give you his Spirit and work miracles among you because you observe the law, or because you believe what you heard? |
註解: 再び2節の質問の立場に還っている、私訳「さらば汝らに御霊を賜い汝らの内にもろもろの能力を働かせ給う者〔のこれを為し給う〕は律法の行為によるか信仰をもって聴くによるか」、神はガラテヤの信徒に御霊を豊かに賜い、また彼らの内に不思議なる能力を働かせ。彼らをして常人と異なる働きを為さしめた。しかしこれらは彼らが律法の行為を行ったからではなく、信仰的態度をもって福音に聴従したからであった。このことをパウロは彼らをして思い起さしめんとしたのである。
辞解
[賜う] epichorêgeô は「豊かに供給すること」。
[汝らの中に能力ある業を行い給える者] 「ガラテヤ人の間に奇蹟を行い給う者」との意味にも取ることができ、また「彼らの心の中に不思議なる諸々の能力を働かしむる者」との意味にも解することができる。後者を取る(マタ14:2)(M0、L3)。「給える」は不適当で「給う」とすべきである。原語現在分詞。現在における継続的状態を示す。
3章6節
口語訳 | このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。 |
塚本訳 | (聖書に)こう(書いて)ある、アブラハムは、“神を信じて、(その信仰を)彼の義とみなされた”と。 |
前田訳 | それは、「アブラハムが神を信じ、それが彼に義として数えられた」とあるのと同じです。 |
新共同 | それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。 |
NIV | Consider Abraham: "He believed God, and it was credited to him as righteousness." |
註解: 前節の答として「信仰的聴聞による」こと明らかであって、その理由として有名なる創15:6をここに引用している(七十人訳)。すなわちアブラハムに関するこの一節は有名なる一節であると共に、パウロはその信仰の祖先に立ち還って証明せんとしたのである。なおロマ4:3註参照。
要義 [十字架の贖罪を信じ通すことの困難]信仰は常に自力主義か、もしくは形式主義に陥り易い(この二者を総称して律法の行為という)。元来何人もその救いに入りし根本を考える時自己の行為や、形式の遵守によりて救われたと思う人はない。然るにもかかわらず一旦救いに入りし後再びもとの自力主義、形式主義に立還らんとする心が生じて来るのである。これ信仰のみに由る生活が容易ならざる生活であることを示している。しかしながらもし信仰に留まって動かないならば神は常に御霊を供給して不思議なる能力を我らの内に働かせ、我らをしてその救いを全うせしめ給うであろう。
3章7節 されば
口語訳 | だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。 |
塚本訳 | だから信仰の人は、アブラハムの子であることを、あなた達は知らねばならない。(ユダヤ人であると否とを問わない。) |
前田訳 | それで、信仰によるものこそアブラハムの子であることがおわかりのはずです。 |
新共同 | だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。 |
NIV | Understand, then, that those who believe are children of Abraham. |
註解: ユダヤ人は自らアブラハムの裔をもって任じ、律法を行うことによりてアブラハムに約束せられし祝福を嗣ぐものと思っている。しかしながら肉によれるアブラハムの子孫はアブラハムの子ではない、かえって信仰より出づる者こそ、真の意味におけるアブラハムの子である。その故はアブラハムはその肉による系図のためではなくその信仰によりて神より義と認められたからである。
辞解
[信仰に由る者] 原語「信仰より〔出づる〕者」で「アブラハムより出づる者」すなわち「律法の行為より出でし者」(10節)に対応している。
3章8節
口語訳 | 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。 |
塚本訳 | すなわち聖書は、神が異教人をも信仰(のみ)によって義とされることを前から知っていたので、アブラハムにあらかじめ福音を伝えた、“お前によって、すべての異教人が祝福をうける”と。 |
前田訳 | 聖書は神が異邦人を信仰によって義人となさることを予見して、アブラハムに、「あなたによってすべての異邦人が祝福されましょう」という福音を予告しました。 |
新共同 | 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 |
NIV | The Scripture foresaw that God would justify the Gentiles by faith, and announced the gospel in advance to Abraham: "All nations will be blessed through you." |
註解: 聖書はここに擬人的に用いられている。すなわちここに引用せるごとく創12:3。創18:18に神がアブラハムに由りて(アブラハムの信仰と同じ信仰を持つ者は)諸国民すなわち異邦人も祝福せられることを約束し給うのは神が異邦人をユダヤ人のごとく律法の行為によらず信仰のゆえに義とし給うことを予知して予め福音をアブラハムに伝え給うたのである。アブラハムに対する約束は福音の前の福音である。
辞解
[汝に由って] 原語 en soi 「汝の中に」「汝において」でアブラハムとの一致共通の状態においてというごとき意味。
[福音] キリストによる福音の前身である。
3章9節 この
口語訳 | このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。 |
塚本訳 | だから信仰の人は、(ユダヤ人、異教人の別なく、)信仰のアブラハムと共に祝福される。 |
前田訳 | さればこそ信仰によるものは信仰の人アブラハムとともに祝福されるのです。 |
新共同 | それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 |
NIV | So those who have faith are blessed along with Abraham, the man of faith. |
註解: 祝福の約束は神の側から出づる純粋の恩恵である。ゆえに律法の行為より出づるものにではなく信仰より出づるものにこの祝福は与えられる。アブラハムが祝福せられたのも信仰の故にであった。従ってユダヤ人の肉体の先祖としてのアブラハムに祝福が与えられたのではなく信仰のアブラハムに与えられ、その後彼と信仰を共にする者にも彼と共に祝福が与えられる。
辞解
[信仰による者] 7節辞解参照。
[共に] 前節には「由りて」(おいて)とあり源泉を示し、本節の「共に」は状態を示す。
3章10節 されど
口語訳 | いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。 |
塚本訳 | なぜか。律法の行いによる人は、呪の下にある。(聖書に)こう書いてあるからである、“律法の書に書いてある一切のことを行なうため、これを守らない者はみな呪われている”と。 |
前田訳 | 律法の行ないに依存するものは皆呪いのもとにあります。聖書にいわく、「律法の書に記されたすべてのことを守って行ないつくさぬものは、皆呪われる」と。 |
新共同 | 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。 |
NIV | All who rely on observing the law are under a curse, for it is written: "Cursed is everyone who does not continue to do everything written in the Book of the Law." |
註解: パウロの苦しき実験より迸 り出でし語であって聖句を法律的に適用したのではないけれども彼の実験は聖書の語により確認された。申27:26にエバル山における詛いの結末としてこの句が揚げられているので「凡ての」律法を「完全に」「常に」行うことが必要であるとすれば、それは事実人間には不可能のことであった。ゆえに律法の行為を基礎としている者は一人も例外なく詛いの下にあるのである。パウロは律法を完全に不断に充たさんとしてこの詛いをいたく経験した。
辞解
[凡ての事、みな] 七十人訳、サマリヤ人の五経などにあれどヘブル語の聖書にはこれを欠く、語勢において弱められているけれども意味に差異はない。
3章11節
口語訳 | そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。 |
塚本訳 | しかし(人は一切の律法を守ることはできない。)律法によっては、だれ一人神の目に義とされないことは明白である。“信仰による義人は生きる”からである。 |
前田訳 | だれも律法によって神の前に義とされぬことは明らかです。「信仰による義人は生きる」とあるからです。 |
新共同 | 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。 |
NIV | Clearly no one is justified before God by the law, because, "The righteous will live by faith." |
註解: このハバ2:4はロマ1:17、ヘブ10:38にも引用せられ、ユダヤ人およびキリスト者の間に愛用せられている聖句であった。パウロはこれを引用して律法によりて義とされることの不可能を証明し、前節の詛いを確かめているのである。(附言)本節は原語の点よりいえば「律法によりて神の前に義とされることなき故、『義人は信仰によりて生くべきこと』明かなり」と訳す方が自然である(B1、エリコット等)。かく解する場合に前節との関係は解し易くなる。すなわち10節において律法の行為による者は詛いの下にあることを証明し、従って(11節)かかる者は神の前に義とされることなき故その当然の結果として義人は信仰によりて義とせられて永生を獲得することの聖句が真理であると主張したものと見るべきである。予はこの読み方が優れるものと思う。しかしほとんど凡ての有力なる学者はこの解釈に反対して改訳の読み方を取る。その故は主として引用の聖句を議論の論拠たらしめんとしているからである。また11節前半を直ちに13節に連結してその間を挿入の句と解する説もある(Z0)。いずれも一長一短の解釈である。なお「義人は信仰によりて生くべし」なる聖句はハバ2:4においてはカルデヤ人の侵入による災難に際して神に「信頼」するものは救わるべきことを述べたのであって律法の行為によりて義とされるや否やの問題について言われし言ではない。しかしながら神に対する信頼が救いの原因たることの意味において、パウロはここに引用したのである。またこれを『信仰による義人は生くべし』と読むべきことを主張する説があるけれども採らない。
3章12節
口語訳 | 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。 |
塚本訳 | 律法は(これを)信仰(すること)によって(人を生かすの)ではなく、“これを行なう人(だけ)がそれによって生きる”のである。 |
前田訳 | 律法は信仰に依存せず、「それを行なうことによってその人が生きる」のです。 |
新共同 | 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。 |
NIV | The law is not based on faith; on the contrary, "The man who does these things will live by them." |
註解: 律法は信ずることが主ではなく行うことが主である。ゆえにレビ18:5よりここに引用されるごとくに律法によりて義とせられ永生を獲得せんがためにはこれを行うことが必要条件であって信仰的態度のみでは不充分である。信仰は行為がこれに加わることによりて始めて神の前に義とされるのではなく、行為によらずして義とされ、律法は行為なしには義とされない。従って律法を完全に不断に行わない者は詛われる。
3章13節 キリストは
口語訳 | キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 |
塚本訳 | キリストはわたし達(ユダヤ人)のために(十字架にかけられ、みずから)呪となって、わたし達を律法の呪から贖い出してくださった。“木にかけられる者はみな呪われている”と書いてある。 |
前田訳 | キリストは自らわれらのために呪いとなってわれらを律法の呪いからあがなわれました。「木にかけられるものは、皆呪われる」と聖書にあるとおりです。 |
新共同 | キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。 |
NIV | Christ redeemed us from the curse of the law by becoming a curse for us, for it is written: "Cursed is everyone who is hung on a tree." |
註解: 律法の書に録されし凡てのことを常に行わぬ我ら(パウロは自己およびユダヤ人についていっているけれども広義においては全人類に適用し得る)は当然詛われるべきであるのに、律法を完うし給えるキリストが我らのために代って詛われ、我らの受くべき詛いを受けて十字架上に死に給い、これによりて我らを律法の詛いより贖い出し給うた。キリストが律法の詛いを受け給いし証拠は申21:23の聖句によりてこれを知ることができる。罪なきキリストは我らのために罪人となり(Uコリ5:21)神より詛われて神に撲 たれ給うた。(▲すなわちキリストは罪人が神に詛われて木に釘けられるのと同一の苦痛を嘗め給うた。すなわち詛われて死ぬべき我らに代って我らの死をその身に負い給うたのであった。ただし神がこの従順なる御子キリストを詛い給うと見ることは誤りである。それゆえこの点で本節註解を若干変更した。)その撲 たれし傷によりて我らは癒されるのである。申21:23には「エホバにより詛わる」とあるをパウロは省略している。律法の詛いを強調せんがためであろう▲▲と見るよりも、神がキリストを詛い給わなかったことをパウロは知って引用文に手心を加えたものと見るべきであろう。
辞解
[贖い出す] exagorazô 奴隷を買取るごとく買取りてこれを自由にすること。
[我等] 大多数の註解家はこれを「ユダヤ人」の意味に取る。しかしながらその精神においてはユダヤ人に限らず凡て律法の与えられている人々に及ぶのであって、全人類はその良心においてある種の律法を与えられている以上、キリストは全人類のために詛われるものとなり給えりと解すべきであろう(ロマ2:15)、なお14節の「われら」参照。
3章14節 これアブラハムの[
口語訳 | それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。 |
塚本訳 | これは、(モーセ律法を知らぬ)異教人に、(律法を行なわずとも、)イエス・キリスト(につながっているというだけの理由)によってアブラハムの祝福が臨むため、(然り、キリストを信ずる)信仰によって、(アブラハムに対する)約束の御霊をわたし達がいただくためである。 |
前田訳 | それはアブラハムの祝福がイエス・キリストによって異邦人に及ぶためであり、われらが約束された霊を信仰によって受けるためです。 |
新共同 | それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。 |
NIV | He redeemed us in order that the blessing given to Abraham might come to the Gentiles through Christ Jesus, so that by faith we might receive the promise of the Spirit. |
註解: もしキリストの十字架の贖いによりて律法の詛いより解き放たれなかったならばアブラハムに与えられし約束(8節)は実現し得ず、神の祝福はもろもろの国人におよび得なかったのである。然るにキリスト十字架に懸かり給いて律法の詛いは取去られ唯信仰のみによりて義とせられ神の祝福を受け得るに至り、ここに始めてかの約束がアブラハムの裔なるキリストによりて実現し、その祝福がユダヤ人は勿論万民に及んだのである。従って「われら」─ この場合は勿論ユダヤ人も異邦人も凡てキリスト者たる者 ─ は信仰によりて約束の御霊(引照参照)を受け得るに至り神の子たる証拠を獲得したのである。信仰による者はアブラハムの子たるの意義(7節)はこれによって明らかである。
辞解
[異邦人] ta ethnê で「民」 ethnos の複数。複数は専らユダヤ人に対する異邦人の意味に用いられるけれども、時には(8節のごとく)諸国民の意味に用いられる場合もある(マタ28:19。マコ11:17のごとく)。本節の場合は「異邦人」を意味す。
[約束の御霊] 原語「御霊の約束」とあり旧約聖書に約束せられている御霊(ヨエ3:1。使2:17)。
要義 [キリストの上に注がれし詛]神がその愛子なるキリストを詛い給うことは我らの理性をもって解し難き事実である。しかしながら律法に叛 き罪の奴隷となっている全人類を救わんがためには、キリストが全人類の罪を自己のものとなし、罪そのものとなりて神より詛われ給うより外に全く道がなかった。キリストはこのことを悟り、そのために世に来り給えることを感じ給うた(マタ20:28)。これは彼にとりて最も苦き杯であって、彼はでき得べくばこの詛より免れんとし給うた(マタ26:39その他)。しかし彼は父の御旨に従い、ついにこの杯を飲み給うたのである。我らの救いの喜ばしき音信はこの愛の悲劇によりて来れることを思わなければならない。
3章15節
口語訳 | 兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできない。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、人間的に言うのであるが、人間の遺言ですら、法律上有効に成立した以上は、いかなる人も(後から)無効にしたり、あるいは追加したりすることは(でき)ない。 |
前田訳 | 兄弟よ、人間的に申します。人間の契約も有効であればだれも消したり加えたりできません。 |
新共同 | 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。 |
NIV | Brothers, let me take an example from everyday life. Just as no one can set aside or add to a human covenant that has been duly established, so it is in this case. |
註解: パウロはさらに進んで神がアブラハムに与え給いし契約は後に律法がモーセによりて与えられても、これによりて無効に帰してしまわないことを論じて神の信頼さるべきことと律法の一時的存在とを強調している。その例として人間の契約すら一旦定まれば第三者は(M0)何人といえどもこれを改廃することができなのは勿論、当事者(B1)といえども特別の意思表示なくしてこれを改廃することができない。
辞解
[契約] むしろ「遺言」のごとき意味を有す。この場合もかく解して差支えがない(一方的意思表示である点において)。なおヘブ7:22辞解参照。
3章16節 かの
口語訳 | さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている。これは、キリストのことである。 |
塚本訳 | しかし(神の)約束は、アブラハムと、その“子とに”言われたのである。子たちとに、と多数の人を指して言うのでなく、一人を指すかのように“お前の子とに”と言う。この子はキリストである。 |
前田訳 | さて諸約束はアブラハムとその子孫になされました。それは大勢をさして「子孫たちに」でなく、ひとりをさして「あなたの子孫に」といわれています。これはキリストのことです。 |
新共同 | ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。 |
NIV | The promises were spoken to Abraham and to his seed. The Scripture does not say "and to seeds," meaning many people, but "and to your seed," meaning one person, who is Christ. |
辞解
[約束] 複数で神は創世記においてアブラハムにしばしば約束を与え給いしが故に、それらを指したのである。創12:7。創13:15。創17:7。創22:17。創24:7等。
註解: 神がアブラハムに与え給いし約束は彼とその裔とに与えられしものであった。而して「裔」なる語が他にも同意味の文字があるにもかかわらずこの単数名詞(ただし複数の意味にも用いられる文字、辞解参照)を用いているのを見れば彼の子孫の個々を指したのではなく、一人を指したものであるに相違ない。ゆえにこの一人はキリストを指したものであるとパウロは解しているのである。その結果この約束はキリストにおいて成就されるまでは効力を失うはずがない(次節)というのである。ただしここにキリストというもパウロはイエス一人(M)を意味したのではなく彼と一体たる教会(28節)をも眼中に置いたのであろう。(A1、C1、B1、L3)
辞解
[裔] sperma ヘブル語 Zerah は旧約聖書においては常に単数においてのみ用いられ、しかも複数をも意味することができる文字である(唯一回複数形に用いられているけれども意味が異なっている)。そのためにパウロは文法上の誤謬の上にこの論を立てていると唱うる学者があるけれども然らず。パウロは聖霊が特にこの種の単数名詞(集合名詞ともなり得る)を選びし処に特別の意義があることを発見したのである。すなわちキリストによりて祝福が万民に及び、アブラハムとその裔に対する約束がキリストおよびその体たるキリスト者に与えられることを発見して、始めて遡りて「裔」なる語を用いられし意義を発見したのである。
3章17節
口語訳 | わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。 |
塚本訳 | わたしの言う意味はこうである。──神によってあらかじめ有効に成立した遺言が、四百三十年後(モーセによって)律法が出来ても、反故にされて、その約束が無になるわけはない。 |
前田訳 | それはこうです。神によってあらかじめ有効にされた契約は、四百三十年後にできた律法がそれを無効にして約束をやめにすることはできません。 |
新共同 | わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。 |
NIV | What I mean is this: The law, introduced 430 years later, does not set aside the covenant previously established by God and thus do away with the promise. |
註解: 私訳「四百三十年後に起りし律法は神の予め固め給いし契約を廃して約束を空しからしめしにあらず」ここにパウロは律法と神とを対立せしめている(ヨハ1:17参照)。律法はユダヤ人にとって重大なる意義を持っているけれども、神の約束(16節)は既に固められており、しかもその約束がキリストをも指している以上たとい四百三十年後の長年月を経過せる後といえども、この律法がこの契約を廃止してその約束を空に帰せしむることができない。ゆえにその後ともその効力は継続しその約束は実現する。神の約束の信頼すべきことを思うべきである。
辞解
[四百三十年間] 創15:13。使7:6。出12:40(ヘブル語聖書)にはアブラハムが神の約束を受けてよりヤコブがエジプトに移住するまでの年代を計算に加えずしてエジプト居住の年数のみを四百年と称しており、本節および出12:40の七十人訳にはこれを加えて四百三十年(四百年を精密にいえるもの)と称している。ヨセフスはこの両方とも用いて自己撞着を示しているのを見ればこの二つの伝説が有ったのであろう。ただし実際の計算上本節および七十人訳が正しく、エジプトにおける年数は二百十五年であったろう(A1参照)。
3章18節 もし
口語訳 | もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。 |
塚本訳 | というのは、(御国の)相続が律法によるのであるならば、それはもはや約束によらない。しかし神は約束によって、これをアブラハムに恩恵として賜わったのである。 |
前田訳 | もし相続が律法によるならば、約束によるのではありません。神がアブラハムを恵まれたのは約束によるのです。 |
新共同 | 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。 |
NIV | For if the inheritance depends on the law, then it no longer depends on a promise; but God in his grace gave it to Abraham through a promise. |
註解: 神の賜う嗣業はいかにしてこれを受け得るや。もし律法の行為を完うすることによるならば約束とは無関係であり、もし反対に約束によって与えられるものならば律法とは無関係である。この両者は完全に相対立している。然るにアブラハムの場合は約束により嗣業を受けたのであった。ゆえに律法によらないことは明らかである。
口語訳 | それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。 |
塚本訳 | それでは、律法は何のためにあるか。(わたしは答える。)律法は違反のため(、言いかえれば、罪を知らせてこれを犯させるために、あとから約束に)つけ加えられたものであり、しかも約束された子(なるキリスト)の来られる時まで(のもの)である。(かつ、これは神が直接につけ加えられたものでなく、)天使たちをもって、仲介者(モーセ)の手をもって規定されたに過ぎない。 |
前田訳 | さて律法が何でしょう。それは違反をさせるために加えられたのです。それは約束された子孫が来るまででした。子孫は天使たちに準備され、仲立ちの手の中にありました。 |
新共同 | では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。 |
NIV | What, then, was the purpose of the law? It was added because of transgressions until the Seed to whom the promise referred had come. The law was put into effect through angels by a mediator. |
註解: 前節のごとく律法によりて約束が廃止せられないとするならば律法は果していかなる物であり、何のために存するかとの自問を発している。原文は「さらば律法は一体何であるか」。
これ
註解: パウロは本節前半において自ら律法の何たるかにつきて質問を発し、ここにその後半において自らそれに答えている。すなわち第一に律法を与えられし目的は「罪の為に」で、人をして罪の罪たることを知らしめ(ロマ3:20。ロマ5:13。ロマ7:7)、罪に対する神の怒りを明らかにし(ロマ4:15)、そうてこれと同時に人をして律法によりてますます罪の心を起さしめ(ロマ7:8)遂に我ら凡てをして口塞がり神の審判に服せしめ罪の値が死なることを知らしめんがためであった(ロマ3:19。ロマ7:13)。すなわち律法が人に与えられし目的は決してこれによりて祝福と嗣業を受けんがためではなく、それは罪のためであった。第二に律法を与えられる方法は御子によりて直接に我らに与えられる福音とは趣を異にし、天の御使たちにより(申33:2。使7:53)て与えられモーセが神と人との間の中保としてこれをイスラエルの人々に伝達した(出20:19−21。申5:5)。第三に律法の有効なる期限は約束を与えられし裔、すなわちキリストの来り給う時までであった。キリスト来り給いて祝福は万人に与えられ、彼を信ずるものには聖霊が与えられ、これによりて永遠の嗣業の約束が実現した。キリスト来り給い、人々をキリストに導くことによりて律法はその任務を完うしたのである。
辞解
[罪のために] 罪を防がんがためと解する説あれどパウロの思想に反する。▲口語訳「違反を促すため」はやや行き過ぎている。「罪」 parabasis は「律法違反」のことで、律法以前に、唯漠然と「悪」または「罪」と感じていたものを、明白に「神の律法への違反」であることを知らしめるためとの意味である。
[御使] モーセがシナイ山において律法を授けられる際、御使がこれに加わったことは一般に信じられていた。申33:2等より来れる思想であろう。ゆえに強いてモーセやアロンを御使と解する必要はない。
[中保 ] Tテモ2:5よりキリストと解する説が古来多かったけれども(A2、C1、C2)、本節の場合は明らかにモーセを指していると見るべきである(A1、B1、M0、L3)。
3章20節 (
口語訳 | 仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。 |
塚本訳 | ──仲介者は一方的のものではない。しかし(約束を与えられた)神はただ一人である。── |
前田訳 | しかし仲立ちはひとりのものではなく、神がひとりにいますのです。 |
新共同 | 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。 |
NIV | A mediator, however, does not represent just one party; but God is one. |
註解: 律法と約束の対立に関する議論の継続である。中保 といえば当然少なくとも二つの当事者を意味する。従って中保 によりて立てられ律法を唯一の神の一方的行為なる約束と比較するならば前者は相対的であり後者は絶対的である。この二者はかくして全く相反するがごとくに見え、従って律法と約束とは両立しないのではないだろうかと思われる。これ次節の質問の理由である。
辞解
本節は前後の関係明瞭を欠くために古来数百種の解釈ありと称せらる(ジョウェットは四百三十種を数う)。予は本節を前節の説明より当然起り来る次節前半の疑問を引出す意味において記されしものとして上記のごとく解した。
3章21節 さらば
口語訳 | では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。 |
塚本訳 | それでは、律法は神の約束に矛盾するか。以てのほかである。もしも命を与える力をもつ律法が与えられたのであったら、(それこそ)本当に律法によって義たることがあるでもあろう。 |
前田訳 | しからば律法は神の約束に反しますか。断じて否です。もし律法が与えられていのちを作る力があったならば、じつに義は律法に依存したでしょう。 |
新共同 | それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。 |
NIV | Is the law, therefore, opposed to the promises of God? Absolutely not! For if a law had been given that could impart life, then righteousness would certainly have come by the law. |
註解: 前節のごとく一見両者相反するごとくに見えるとすれば、律法は神の約束に反対の立場に立ち、従って両立し得ないものではないかとの疑問が起り得る。しかしこれは決してそうではない。パウロはその理由として律法が約束のごとくに永遠の生命を与うることができない所以を本節後半に掲げ、さらに進んで律法の積極的能力を22節以下4:7に録している。
もし[
註解: 罪の値は死であることが既知のこととして前提をなしている。すなわちもし律法が人の罪を除き、彼を死と滅亡より救い得るものであるならば律法によりて義とせられ、従って神の約束は不要に帰してしまうであろう。然るに実際は、律法は人を生かすことができず、かえって人を死に至らしめる(ロマ7:10)。ゆえに約束の使命は今なお存しているのであって律法と約束とが相反しないことを知ることができる。
辞解
[生かすべき] 「生かし得べき」。
3章22節 されど
口語訳 | しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。 |
塚本訳 | しかし(律法は命を与えるものでなく、人を罪に閉じこめる力をもつだけである。)聖書はすべての人を(律法によって)罪の下に閉じこめ、イエス・キリストを信ずる信仰によって、信ずる者に約束が与えられるのである。(律法は約束に矛盾しない。むしろこれに導く家庭教師である。) |
前田訳 | しかし聖書はすべてを罪の下に閉じ込めました。それは約束がイエス・キリストのまことによって信ずるものに与えられるためです。 |
新共同 | しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。 |
NIV | But the Scripture declares that the whole world is a prisoner of sin, so that what was promised, being given through faith in Jesus Christ, might be given to those who believe. |
註解: 私訳「されど聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めたり、これ約束がイエス・キリストに対する信仰に由り信ずる者に与えられんためなり」。前節と反対に生かし得べき律法が与えられていない証拠には、この律法を記載せる書である聖書が万物を罪の下に幽閉してしまい、人間もみなこの幽閉の下にありてこれより出づることができないのでも解る(詩143:2。申27:26。なおロマ3:10−18にもこのことを録す)。そうしてかくのごとく凡てのものを幽閉せる目的は神の約束が律法の行為に由りて与えられず、信仰によりて与えられんがためである。かく言いて約束と律法とを比較し来れるパウロはここに23節以下に論ぜんとする「律法の行為」と「信仰」との比較にその思想を移していることに注意せよ、そうして約束に対するものは信仰であり、律法に対するものは律法の行為である。
辞解
[聖書] 単数名詞を用いている。多くの場合複数が用いられる。単数が用いられる場合には聖書中の特定の句を指す場合が多い(L3)。ただしこの場合擬人法を用いたのであって幽閉するものは聖書ではなく、それは律法である。
[凡ての者] 原語中性複数で万物を指す、人間がその中心であることは勿論であるが人間のみを指すと解する必要なし(ロマ8:20参照)。
[信ずる者] 「信ずる者」といえば信仰によること勿論なるがごときも、律法の行為によると主張する者ある故に特に「信仰による」と附加したのである。「信仰に由れる約束」と訳すべしとする説(改訳本文、A1)は適当ではない。
[閉じ籠める] 錠を卸すこと。
要義1 [律法と約束]神はアブラハムおよびその子孫に神の国の嗣業を継ぐべき約束を与え給うた。この約束がある以上さらにこれに律法を加うる必要なきがごときも然らず。律法が与えられて始めて人間の罪の子、怒りの子たる本質が明らかにせられ、その結果信仰によりて約束を与えられることの真の意義を悟ることができるのである。あたかもエデンの園において罪なき生活を送っていたアダムが一旦罪のためにエデンの園を逐われて始めてキリストによりて回復される天国の幸福を充分に知ることができるのと同様なる事実である。故に律法は約束に反対するものでもなく、またこれを無効に帰せしむるものでもなく、律法は律法として独特の使命があり、約束をして益々その意義を発揮せしむる使命を持っている。故に律法をもって約束を空しくすべきではなく、また律法と約束とを混合してはならない。かくするならば双方ともにその使命を完うし得ざるに至る。
要義2 [神の約束]聖書の信仰の中心が神の約束であることはそれが後日に至って旧約聖書、新約聖書と称されるに至った事実がこれを示している。而して誠実に在す神は永遠にその約束を破棄し給うことがない。この約束に信頼する者が真のキリスト者である。而してこの約束を信ずるが故にこの世の凡ての困難や不幸や危険に打勝つことができるのである。
3章23節
口語訳 | しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 |
塚本訳 | しかし信仰が来る前には、わたし達は(みな)律法の下に閉じこめられ、監督されて、信仰が現れねばならぬ時にまで及んだ。 |
前田訳 | 信仰が来る前にはわれらは律法の下に守られていて、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。 |
新共同 | 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 |
NIV | Before this faith came, we were held prisoners by the law, locked up until faith should be revealed. |
註解: パウロはここに律法を牢獄および家庭教師に譬えている。すなわちイエス・キリストに対する信仰に入る以前において、律法の下にある時の状態はあたかも鍵を卸して閉じ込められ、監守をもって警衛しているようなものである。そこでは罪より解放されず律法の圧迫の下に全く自由なき絶望的状態にいなければならない。しかしながらこれ人間の自己を義とする心を打ち砕かんがための神の経綸であって、従ってこれは永久的な状態ではなく、かえってこれによりて詛いより保護せられ逃亡より免れしめられて遂にその進路を信仰において見出す時までに至るのである。この意味において律法にもまた重大なる使命がある。本節ないし25節は律法の使命はキリストの来り給う時までであることを論じているけれども、これを個人々々に適用する場合には各人がキリストを見出し、その信仰に入る時までを意味する。
辞解
[守る] phroureô 看守をもって警衛すること。
[信仰] ここではキリストに対する信仰を意味し、旧約時代にありしアブラハムその他の信仰(ヘブ11章参照)に比して新約の信仰こそ完成せられし真の「信仰」であることを示す。パウロのいわゆる信仰はこれである。
3章24節 かく
口語訳 | このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 |
塚本訳 | だから(モーセ)律法は(わたし達を)キリストへつれて行く家庭教師となった。信仰によってわたし達を義とするためである。 |
前田訳 | それで、われらが信仰によって義とされるために律法はキリストへと導く後見人となったのです。 |
新共同 | こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 |
NIV | So the law was put in charge to lead us to Christ that we might be justified by faith. |
註解: 前節のごとく律法には一面牢獄のごとき作用があると同時に他面また家庭教師のごとき作用を為す。家庭教師は一定期間家庭にありてその子弟を訓練し、その心身の健康を図るの務めをもっており、その子弟が我がままに陥り、放逸に流れることを防ぎ、またこれに文法の初歩を教授して上級に進むの準備をする。これと同様に律法も我らの肉の放縦を抑制して我らを堕落より防ぎ、道徳的教訓を与え我ら自身の力の程度を知らしめ、完全なる義を示して、これに到達するの欲望を我らの中に起さしめる。而して遂に我らをしてキリスト・イエスを信ずる信仰によるにあらざれば義とされること能わざることを知らしむるに至るのである。パウロは正にこの経験を通過して福音に到達した。家庭教師が子供に対して苦痛であり束縛であるがしかも彼らに必要欠くべからざるものであると同様に律法もまた我らを苦しめ我らの自由を束縛するけれども、信仰による真の自由を得んがための必要なる経路である。
辞解
[守役] paidagôgos Tコリ4:15辞解参照、子供に付き切ってこれを教育する家庭教師(多くは高級の奴隷)。▲「守役」を口語訳で「教育係」と訳したのは適当でない。paidagogos は pais (子ども)を agô (導く)する人の事で英語の pedagogue (先生、教育係)の言語である。
3章25節 されど
口語訳 | しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 |
塚本訳 | しかし(それは信仰が来るまでのことで、)信仰が来た以上は、わたし達はもはや家庭教師の下にはいない。 |
前田訳 | しかし信仰が来た今、われらはもはや後見人の下にはいません。 |
新共同 | しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。 |
NIV | Now that faith has come, we are no longer under the supervision of the law. |
註解: 信仰に入りて後にも律法によりて束縛されるものは、信仰の本質を没却しているものである。信仰にあって活くるものは霊に従って生き、儀文に従って生きない。もし霊に従って生きるならば肉の思いを成さんとせず、ゆえに律法をもって束縛されるの必要がなく、キリストの下に自由なる喜悦と平安とをもって生くることができる。
3章26節
口語訳 | あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。 |
塚本訳 | (なぜか。)あなた達はキリスト・イエスを信ずる信仰によって、みな神の子だからである。 |
前田訳 | イエス・キリストにある信仰のゆえにあなた方は皆神の子です。 |
新共同 | あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 |
NIV | You are all sons of God through faith in Christ Jesus, |
註解: 私訳「そは汝らはイエス・キリストに在る信仰によりてみな神の子たればなり」、前節の理由を述ぶ。「子」はもはや「幼児」ではない。ゆえに信仰によりて神の子とせられし者はもはや守役の下に束縛せられず、独立自由の子となったのである。律法はもはや彼らを束縛せず彼らを裁かない。ゆえに彼らは律法の恐怖を脱して神の子の喜悦に入らなければならない。
辞解
[汝ら] 前節まで「我ら」であったのを本節より第二人称に移る。異邦人たるキリスト者もこの点においてユダヤ人のキリスト者と異なるところがない。
[キリストに在る] 改訳本文のごとくに見る説もある(L3)けれども「信仰」を形容する形容詞句と見るを可とす(M0、A1)。
3章27節
口語訳 | キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。 |
塚本訳 | すなわちキリストへと洗礼を受け(て彼のものとなっ)たあなた達はみな、キリストを着たからである。 |
前田訳 | キリストへと清められたあなた方は皆キリストを着ています。 |
新共同 | 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 |
NIV | for all of you who were baptized into Christ have clothed yourselves with Christ. |
註解: 悔改めてバプテスマを受けたる者はキリストの中に没入したものである、すなわちキリストと共に甦ったものである。ゆえに内にキリストに連なれる新生命あり、神および人の前にはキリストを衣たる新しき人として立っているのである(ロマ13:14。コロ3:10。エペ4:24)。かかる者は新たに造られし者であり、旧き律法の下に立てる旧き肉の人ではない(Uコリ5:17)。
3章28節
口語訳 | もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。 |
塚本訳 | (神の子には、)もはやユダヤ人もなければ異教人もなく、奴隷もなければ自由人もなく、男もなければ女もない。あなた達はみなキリスト・イエスによって一つであるからである。 |
前田訳 | ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなた方は皆キリスト・イエスにあってひとつです。 |
新共同 | そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 |
NIV | There is neither Jew nor Greek, slave nor free, male nor female, for you are all one in Christ Jesus. |
註解: 信仰によりてキリストに連なる者はキリストを首とせる一つの体である。一体なるが故にその間に人種的、社会的、性的差別がない。否同じ神の子でありキリストに在りて新たに造られし者である。ゆえにこの新しき生命に従って歩むべであって、今さらユダヤ人に特有なる律法をもってギリシャ人を束縛すべきでない。また「ユダヤ人」「自主」「男」たるをもて誇るべきでもない。
辞解
[ギリシャ人] ユダヤ人以外の異邦人の概称。
[男も女も] 原語「男と女も」とあり、創1:27の語法によれるものなるべし。
3章29節
口語訳 | もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。 |
塚本訳 | そしてキリストのものである以上、それこそあなた達はアブラハムの子であり、約束による相続人である。 |
前田訳 | もしキリストのものならばあなた方はアブラハムの子孫であり、約束による相続人です。 |
新共同 | あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。 |
NIV | If you belong to Christ, then you are Abraham's seed, and heirs according to the promise. |
註解: キリストがアブラハムの裔に在し給うが故に(16節)、たとい異邦人であってもキリストのものとなり、キリストと一体をなしているならばそれはアブラハムの裔であり、その当然の結果として、アブラハムに約束せられし嗣業を継ぐの世嗣である。反対にたとい人種的にアブラハムの子孫でありユダヤ人であっても、キリストのものでないならばアブラハムの裔ではなく約束に循 える世嗣ではない。ゆえに律法を与えられていることをもって誇っているユダヤ人は全く嗣業を受くることができないこととなる。
要義1 [守役の必要]厳格なる道徳律をもって訓練されることは、訓練される者にとりては苦痛である。しかしながらこれは必要なる訓練であって、これあるがために始めて自己の罪の深さとこれを脱せんとして能わざる自己の弱さとを知ることができるのである。かくして訓練がその任務を果しつくしてその結果そこに残るものは唯全き絶望と死とのみである場合に、始めてこの訓練はその効果を収めたということができる。この意味においてモーセの律法を与えられしユダヤ人は最も幸福なる民であるけれども、異邦人も何らかの形において律法に代るべきものを与えられていた。これが彼らにとりて律法の働きをなし、旧約のごとき任務を果しているものと見ることができる。この意味において異邦人にも彼らをキリストに導く守役があった。
要義2 [キリストを衣 たる人]軍服が軍人の資格を示すと同じく衣服はある資格を表徴する。故に「キリストを衣 る」ことは表面だけキリストらしく装うことではなく、「キリストに合い」キリストと霊的生命を一にすることによりてキリストと同一の資格を摑得 することである。故に我らの罪の体が全部キリストと同じものとなったというのではない。唯我ら信仰によりてキリストと一体となりキリストのものとなることによりて神の子と認められ、かくしてキリストを衣 たるものとなり、神の前にキリストと同じき神の子として立つの資格を得るのである。かかる人がキリストを衣 たる人である。
ガラテヤ書第4章
2-2-ホ 律法は後見者又家令に過ぎず 4:1 - 4:7
註解: パウロはさらに進んで
世嗣 といえども未成年の間と成年となれる後との間に、異なれる立場に立たなければならないことを例として、信仰に入る前後の差異を説明している。
4章1節 われ
口語訳 | わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、 |
塚本訳 | わたしの意味はこうである。──相続人がまだ未成年である間は、(亡くなった父の)全財産の主人でありながら、奴隷と何の相違もなく、 |
前田訳 | わたしはこう申しましょう。相続人も、未熟であるうちは、全財産の主人でありながら奴隷とちがいません。 |
新共同 | つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、 |
NIV | What I am saying is that as long as the heir is a child, he is no different from a slave, although he owns the whole estate. |
4章2節
口語訳 | 父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである。 |
塚本訳 | 父の定めた期限(が来る)までは、後見人と管理人との下にいるのである。 |
前田訳 | 父が定めた時まで後見人と管理人のもとにいます。 |
新共同 | 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。 |
NIV | He is subject to guardians and trustees until the time set by his father. |
註解:世嗣 たるべき子が幼少の間は父は一定期間を定めてその子の上に保護者および家扶を任命し、子は自由に法律行為、経済行為を為すことができず、これらの使用人の下に立ちて「僕」すなわち奴隷と同一の地位に立つのである。子は本来全業の主であり全財産の所有者であるのになおかつかかる時期がある。かく言いて次節に述ぶる信仰に入る以前における信者たるべき者の状態と比較対照している。本節は父の死後か生前かにつき不明の点あり。父の生前を意味すると解する(M0)。また本節はローマの法律の解釈ではなく、世間一般の習慣を叙述したものであろう。
辞解
[主なれども] 父存命中は未だ「主」ではないが主たるべき人を意味す。
[後見者] 父を死ぬる者と見た場合の訳語。原語 epitropos はマタ20:8。ルカ8:3等には「家司」と訳されている。家事、財産、子女の教育など何事によらず委託せられし人を意味す。
[家令] oikonomos はルカ12:42。Tコリ4:2等に「支配人」と訳され、主として財産関係を取扱う家司である。
4章3節
口語訳 | それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。 |
塚本訳 | 同じようにわたし達も、(信仰の)未成年であった時は、(信仰のいろはである地水火風というような)この世の元素の霊の(支配の)下に奴隷になっていた。 |
前田訳 | われらもそうで、未熟であったときは、この世の諸霊力のもとに奴隷でした。 |
新共同 | 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。 |
NIV | So also, when we were children, we were in slavery under the basic principles of the world. |
註解: キリストにある信仰を摑得 する以前はあたかも未成年のごときものであり、未だ独立自由の信仰を有せず何ものかの下に奴隷的取扱いを受けなければならない。而して「我ら」キリスト者も以前はこの世の小学(9節)ともいうべき初歩の教えに支配されていた。律法もこの小学の一種に過ぎず、その他ユダヤ教も異教もある意味においてこの種の小学と見ることができる。
辞解
[成人とならぬほどは] 原語「小児の間は」。
[世の小学] 「世」は神の国の反対、人間の世界。「小学」stoicheion は本来(1)ABCすなわちイロハの意味をもつ語であるが、転じて物質的には(2)元素、(3)天体等の意味に用いられ、また知識的には(4)初歩初等教育の意味に用いられる。古代教父の多くは本節を(3)の意味に解しているけれどもむしろ(4)の意味に解すべきである(L3、M0、A1)。日、月、季節、年などを守ること、飲食に関する諸制限、その他の些末なる禁止規定等みなこの「初歩」に過ぎない(コロ2:8、コロ2:20、21参照)。▲「小学」stoichciaは10節及びコロ2:8-23等より明らかである通り、パウロは主として「初歩的な些末な形式や規則や日、月、食物等の規則」を指している。引照1参照。「霊力」と言う意味に解することは誤りではないが不適当であり前後の連絡と統一とを失う。
[僕たりしなり] 原語「僕とせられて」で他動的であり奴隷たる状態を一層適切に示している。「奴隷とせられて世の小学の下にありき」と訳すべきである。
4章4節 されど
口語訳 | しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。 |
塚本訳 | しかし(定められた)時が満ちると、神はその御子を女から生まれさせ、律法の下に置いて、(この世に)お遣わしになった。 |
前田訳 | しかし時が満ちると、神はみ子をおつかわしでした。彼は女から生まれ、律法のもとにお生まれでした。 |
新共同 | しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 |
NIV | But when the time had fully come, God sent his Son, born of a woman, born under law, |
註解: 第2節と同様に神は人類を律法の下に閉じ込め置くべき期間を自ら定め給うた。而してこの期間において人類、殊にユダヤ人において、律法より解放 たるべき準備ができていた。これが時満ちた有様である。この時神は一人の人間として、殊に律法の下にあるユダヤ人として御子キリストを天より遣わし給うた。神のその約束を実行し給うたのである。
辞解
[時満つる] 「時の満盈 が来れる時」と直訳さるべき文字、満盈 plêrôma につきてはコロ1:19辞解参照。
[遣し] exapostellô 天より派出し派遣せること。
[女より生れしめ] 普通の人間として生れ給いというごとき意味で処女懐胎を伝えるにはあらず。
[律法の下には] アブラハムの裔としてユダヤ人の中に生れ給えることを指しているけれども、同時に5、6節等より見るも異邦人もある意味において律法の下にあり、キリストは異邦人をも贖い給うことを意味していると見るべきであって、「律法の下に生れ」はこの意味において広義に解する必要がある(L3)。
4章5節 これ
口語訳 | それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。 |
塚本訳 | これは律法の下に(奴隷になって)いる者を贖い出して、わたし達に子たる身分を受けさせるためである。 |
前田訳 | それは律法のもとにあるものすべてをあがない、われらが子の身分を受けるためです。 |
新共同 | それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 |
NIV | to redeem those under law, that we might receive the full rights of sons. |
註解: 神がその独子を世に遣わし給う場合に前節のごとき途を取り給いし所以は律法の下にある者をその奴隷の状態より贖い出し、彼の子たる身分を我らに賜いて我らを養子とし彼と同じく子たる身分を取得せしめんとの思召 しに外ならなかった。
辞解
[律法の下に在るもの] 文字上よりはユダヤ人を意味すれども広義においては一般の律法の下に在るものにも及んでいる。
[我ら] ここに第一人称に転換せるは自己およびガラテヤの教会の信徒に関する重大な経験を叙述せんがためである。
[子たること] huiothesia は養子とすること。
4章6節 かく
口語訳 | このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。 |
塚本訳 | しかしあなた達が(いまや神の)子であることは、神がわたし達の心に、「アバ[お父様]、お父様」と呼ぶ御子の霊をお遣わしになったことによって(、知り得るの)である。 |
前田訳 | あなた方が子であるようにと、神は「アバ父上」と呼びかけるみ子の霊をわれらの心へとお送りでした。 |
新共同 | あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 |
NIV | Because you are sons, God sent the Spirit of his Son into our hearts, the Spirit who calls out, <"Abba>, Father." |
註解: キリストに贖われて神の子とせられし者には、その保護として聖霊がその心に内住し給う、この聖霊は神の子キリストの霊であって、これを受けたる者はキリストと同じく神の子の性質を享有する。而してこの内住の聖霊は神に対して深き愛と祈りとを以て心の底から「アバ父」と呼ぶに至るのである。
辞解
[故に] 神が聖霊を与え給う理由。ただし時間的に前後の関係ありと見るの要なし。
[遣し] exapesteilen 不定過去動詞で過去において一回をもって完了せることを示す、すなわち聖霊が個々の心に宿りて我らを新生し給うことは一度に完成される事実たるを示す。神は御子を遣し(4節)またさらに御子の霊、すなわち聖霊を遣し給うた。
[アバ父] アバはアラマイク(アラム)語で父という意味、切なる訴えに際してこの語が繰返されたのであろう。キリストもこの語を用い給うた(マコ14:36)、そうしてユダヤ人のキリスト者はギリシャ語をもって語る場合にもこのアバを棄て難く思いてこれを用い、さらにギリシャ語をこれに添えて繰返したのであろう。ユダヤ人と異邦人とがキリストに在りて一つとなることのよき表徴である。なお「汝ら」と「我ら」とが交代に用いられる所以はパウロが自己の心の経験より迸 り出でたる事実を記すに際して第二人称を用うるよりも自然第一人称を用うるまでに感情が高調せるためであろう。
4章7節 されば
口語訳 | したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。 |
塚本訳 | だからあなたはもはや奴隷ではなく、子である。子である以上、神(の恩恵)によって相続人である。 |
前田訳 | それで、あなたはもう奴隷でなくて子であり、子であるならば神による相続人です。 |
新共同 | ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。 |
NIV | So you are no longer a slave, but a son; and since you are a son, God has made you also an heir. |
註解: かくして律法の下に守役の束縛を受けて奴隷とせられし時の状態とは全く異なる処の子たる状態に入る事が出来たのである。その当然の結果としてかかる人は世嗣として神の嗣業を継承するの身分に立っている。僕は主人の財産を継承することができない。以上によりて明らかなるごとく、子とされることも世嗣とされることもみな神の賜物であって我らの行為や功績による点は少しもない。
辞解
[世嗣 ] 本節の場合パウロがユダヤの相続法(申21:17)について言っているか、またはローマ法の相続法についていっているかの議論は重要ではない。1、2節と同じく普通一般の相続の概念をいっているのであって法律の解釈をしているのではない。
[なんぢ] 最後に第二人称単数を用いて相手方一人一人に関して世嗣 たる身分を強調している。
要義 [奴隷と世嗣 ]キリスト者と然らざる者との差異を世嗣 と奴隷(または未成年者)とに譬えることは種々の意味において適切なる譬喩 である。律法の下にある者の不自由と福音を信ずる者の自由、律法による死と神の子として受くる永遠の生命、僕としての恐怖と「アバ父と呼ぶ」子の霊、これらはみな奴隷と嗣子 の生活の差に比すべきものである。而して一度 真に嗣子 たる身分を摑得 したるものは最早や再び奴隷たる状態に逆戻りすることができないと同じく一度 真に信仰によりて義とせられ永遠の生命を摑得 せるものは再び律法の束縛の下に身を置くことができない。
4章8節 されど
口語訳 | 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。 |
塚本訳 | けれども、(まことの)神を知らなかった当時は、あなた達は実際神でない神々に(奴隷として)仕えた。 |
前田訳 | かつて神を認めなかったころ、あなた方は本質的には神でないものの奴隷でした。 |
新共同 | ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。 |
NIV | Formerly, when you did not know God, you were slaves to those who by nature are not gods. |
註解: 前節までキリスト者となりし者の幸福を述べし後、パウロはガラテヤの信徒をして彼らの過去の憐れむべき状態を回想せしめ、今再び奴隷の状態に陥らんとすることに対する警戒を与えている。すなわち彼らは以前には唯一の真の神を知らず、本質上神にあらざるものすなわち悪鬼、偶像、人間の思想その他の小学に事 えてその奴隷となっていた。奴隷としても最も悪しき状態にいた。
辞解
[事 へたり] 原語「奴隷となっていたこと」。
口語訳 | しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。 |
塚本訳 | しかし今あなた達は神を知っている、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてもう一度無力な、貧弱なあの元素の霊(の崇拝)に戻るのか。(どうして)もう一度あらためて(その奴隷として)仕えようと思うのか。 |
前田訳 | 今や神を知り、否むしろ神に知られたのに、なぜふたたび弱くていやしい諸霊力にもどるのですか。あらためてその奴隷になりたいのですか。 |
新共同 | しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。 |
NIV | But now that you know God--or rather are known by God--how is it that you are turning back to those weak and miserable principles? Do you wish to be enslaved by them all over again? |
註解: ガラテヤの信徒(原典には「コロサイの信徒」とあるが前後関係からガラテヤの信徒を指していると判断する:編者)は今は前節とは全く異なれる状態にいるのであって、彼らはキリストによりて神を知ったのである。ただし神を自己の力によりて知り得たのみであるならば不完全であり、また動揺しやすいけれども、むしろ神に知られたというべきであって、神は予め彼らを知り給いて彼らを選び、霊をもって彼らを導き、彼らに御自身を顕わして彼らを救い給うたのである(ピリ3:12。Tヨハ4:10、11)。かくして神に知られしものにして始めて真に神を知ることができる。
註解: 神に知られ神の子とせられ、かくしてアバ父と呼ぶことができ、世嗣として天の嗣業を約束せられている以上、何で再び逆戻りしてこの世の小学の奴隷とならんと欲するのであるか。それは弱くして我らを救う力なく、貧しくして我らに永遠の嗣業を与うることができない。
辞解
[復 ] 「再び」と同じく palin。「再び」と訳せられし部分の原語は palin anôthen で単に意味を強めたものと解するよりも「再び新に」と訳して以前に事 えし偶像も世の小学の一種であるが今度新にユダヤの律法に事 うる意味において「新に」を加えしものと見るを可とす(B1)。anôthen 「新たに」「始めより」等の意味あり(M0、A1)。
[するか] 「欲するか」。従って本節は以下のごとき私訳となる。「何ぞ再び弱く貧しき小学に逆戻りして再び新たにその奴隷たらんと欲するか」。
口語訳 | あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。 |
塚本訳 | あなた達は(なおも元素の霊に仕えて、)日や、月や、季節や、年(の祭り)を守っている。 |
前田訳 | あなた方は日と月と季節と年を守っています。 |
新共同 | あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。 |
NIV | You are observing special days and months and seasons and years! |
註解: 前節の具体的説明であるが、この中に驚きと悲しみの口調が表われている。ガラテヤの人々はユダヤ教主義のキリスト者に感化された結果、ユダヤの律法に規定される特定の日や月等を一所懸命に守っていた(単に割礼だけが問題ではなく、かかる方面にも彼らの福音に対する無理解が存していた)。しかしこれらは実に無意味な努力に過ぎなかった。
辞解
[日、月、季節、年] 「日」は安息日、新月等を指し、「月」は特に聖なる月とされる第七月(チスリの月)等を指し、「季節」は祭事の季節すなわち五旬節、過越、仮庵の祭等を指し、「年」は七年毎の安息の年、五十年毎のヨベルの年等を指す。ただし以上の各々につき幾分ずつ異なれる解あれどパウロのいわんとする根本の問題に影響せざる故にこれを略す、また安息の年ヨベルの年のごときはその当時すでにガラテヤにおいて実際に守られていたとは考えられない。
[守る] paratêreô は熱心に注意して守ること。日曜安息日を律法として強制せんとするごときもこの種の小学の一種である。なお割礼や食物のことにつきここで述べていない理由はおそらくそれほど遺漏 なく列挙する必要がないからであろう。
4章11節
口語訳 | わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。 |
塚本訳 | わたしは無駄骨折りをしたのではないかと、あなた達のために心配する。 |
前田訳 | わたしがあなた方のためにおそれるのは、あなた方のために骨折ったのがむだにならないかということです。 |
新共同 | あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。 |
NIV | I fear for you, that somehow I have wasted my efforts on you. |
註解: 私訳「我は汝らのために無益に働きしにあらざるかを汝らのために恐る」。パウロの恐れは自己の利益のためでなく彼らの救いのためであった。何となればパウロはかかるこの世の小学がなお彼らを支配しつつあったことを目撃したからである。パウロはかかる奴隷的状態より彼らを救わんがために福音を伝えたのであった。
辞解
[恐る] 「恐る」の前に「汝らのために」または「汝らについて」と訳すべきである。
[無益に働きし] 直説法完了過去形でその結果が現われたのではないかということを念頭に置いて記している。
要義1 [道徳的律法と儀礼的律法]旧約の律法にはこの二種がある、而してこれらはいずれも「来たらんとする善き事の影」(ヘブ10:1)である点において同一であった。パウロが律法の行為によらず信仰によりて義とされることをいう場合にこの双方ともこれを律法の中に包含せしめていることはロマ7:7以下等によりて明らかである。キリスト来り給いてこの二種の律法をその詛いと共に十字架につけてこれを除き給うた(コロ2:14)。ここに10節に単に儀式的律法のみについて論じられる所以は、律法に束縛されるや否やを外部より判断するにはこれらによるより以外に途なきがゆえである。パウロは道徳的律法のみを保存せんとしたのではない。愛により働く信仰は、律法がなくとも道徳的律法を完うすることができる(ロマ13:10)。
要義2 [異邦人の律法]パウロは前章および本章において律法の下にある点においてユダヤ人も異邦人も大差なきがごとくに論じている。これに関しライトフートは双方とも儀礼的律法について言っているのであって霊的道徳的律法については異邦人のものは積極的の悪であって到底守役たるに足りないと論じているけれども、これ異教に関する無理解とキリスト教に関する誤れる誇りより起れるものであって、異教徒といえども等しく神の摂理の下に、ある種の律法の下に在ったものと見ることができ、パウロもまたかく解したものと見るべきである。必ずしも儀式的律法に限るべきではない。かく解して始めてパウロの所論が意義あるものとなるのである。
註解: 前節までガラテヤのキリスト者の過去の生涯を顧み、彼らが今再び当時のごとき状態に立還らんとしつつあることにつき深い憂慮を示せる後、パウロは彼らを正しき福音に引戻さんとの熱心と愛とが彼の心に湧き上がるのを覚えた。而してこれと同時に彼の心に浮んだのは自己とガラテヤの信徒との間の過去における美わしき愛の関係であった。12−20節においてパウロはこのことを回想して切なる述懐をなし彼らを始めの愛に返さんとしているのである。
4章12節
口語訳 | 兄弟たちよ。お願いする。どうか、わたしのようになってほしい。わたしも、あなたがたのようになったのだから。あなたがたは、一度もわたしに対して不都合なことをしたことはない。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、お願いする、わたしのように(自由に)なってもらいたい、わたしも(ユダヤ人でありながら、あなた達に福音を伝えるために)あなた達のようになったのだから。あなた達はわたしに対してなんらの苦しみを与えたことがない。 |
前田訳 | わたしの身になってください。わたしもあなた方の身になりました。兄弟よ、お願いです。あなた方はなにもわたしに悪いことをしたのではありません。 |
新共同 | わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。 |
NIV | I plead with you, brothers, become like me, for I became like you. You have done me no wrong. |
註解: パウロはここに至って始めの憤激を打忘れて「兄弟よ」「請う」などの文言を用いてガラテヤ人の心を和らげ、彼らを説得せんとしているのである。パウロは言う、「予はユダヤ人たる特権と習慣とを棄てて汝らのごとくになったのも汝らを愛するからであった、汝らもまた始めのごとく我を愛してもらいたい、そして我がごとくに律法から自由になってもらいたい、愛は心の一致であり、また信仰の一致であると」。
辞解
[ごとく] 本節の「ごとく」を単にパウロとガラテヤ人との間の愛を示すに過ぎないものにする解釈があるけれども前節との関係上不適当であり、また律法より自由たるべきことの問題のみについて言っているものと解する説あれど後節との連絡を失う、ゆえに上註のごとくに解してパウロの心理的連絡を取ることとした。
註解: 「然るに何故に福音を離れて我が心を苦しめるのであるか」とパウロは彼らに訴えかつ彼らを責めている。
4章13節 わが
口語訳 | あなたがたも知っているとおり、最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためであった。 |
塚本訳 | いや、あなた達は知っている、最初わたしがあなた達に福音を伝えたのは、(わたしの)肉体の病気のためであった。 |
前田訳 | ご存じのとおり、はじめ福音をお伝えしたのはわたしの体が弱っていたためでした。 |
新共同 | 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。 |
NIV | As you know, it was because of an illness that I first preached the gospel to you. |
註解: パウロは病気のためガラテヤ地方に予定せざりし滞在を余儀なくせられ、それが同地方に福音を伝うる機縁となった。而してこのガラテヤ書が今日我らに残されて信仰による義の真義が明らかにされるに至った。神は思わざる事件より思わざりし結果を来たらしめ給う。
辞解
[初め] to proteron は単に「以前」の意味の外に二回ある中の第一回目の意味に用いられる(M0、L3)。パウロの第一回伝道旅行を指したものと見るべきで本書の認 められる前にすでに二回ガラテヤに行きしことを示すと見るべきであろう。
[肉体の弱かりし故なる] 「肉体の弱さ」についてはUコリ12:7註参照、ラムゼーの主張する慢性マラリヤであったろう。
4章14節 わが
口語訳 | そして、わたしの肉体にはあなたがたにとって試錬となるものがあったのに、それを卑しめもせず、またきらいもせず、かえってわたしを、神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれた。 |
塚本訳 | そしてわたしの肉体にあなた達を試みるものがあったにもかかわらず、軽蔑せず、唾棄もせず、いな、神の使のように、キリスト・イエス(自身)のように、わたしを迎えてくれた。 |
前田訳 | しかしあなた方はわたしの体について誘惑があったのに、いやしめず唾せず、神の使いのように、キリスト・イエスのようにわたしをお迎えでした。 |
新共同 | そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。 |
NIV | Even though my illness was a trial to you, you did not treat me with contempt or scorn. Instead, you welcomed me as if I were an angel of God, as if I were Christ Jesus himself. |
註解: パウロの病は人に卑しめられ嫌悪される種類のものであった、かかる疾患に罹 る者は神の詛いを受けたる者、または悪鬼に憑かれし者と思われていたのであろう。それ故にもしパウロが神より選ばれし人であるならばかかる疾病に罹 るはずがないと考えるのが普通の考えであった。それ故にガラテヤの信徒にとってはこの疾病がパウロを迎うる上の大なる障碍 であり、また試練であった。然るに彼らは試練となりたるこの疾病を嘲笑の目的とせず、またこれを嫌悪せず、パウロをもって神に詛われるものとは思わずして反対に神の使のごとくに彼を尊み、悪鬼に憑かれしものとして取扱わず、救い主キリスト・イエスのごとくに彼を厚遇した。ここにガラテヤ人のパウロに対する理解と愛とが充分に顕われ、またこれに対するパウロの感謝と喜悦の心が溢れている。
辞解
[試練となる者] 原語は peirasmos で「試練」であるけれども「試みるもの」を指すことがある(L3)、前記マラリヤ類似の地方病はガラテヤ地方において悪魔に憑かれしものと見られていた(ラムゼー)。
[卑しむ] exoutheneô 軽視、軽蔑すること。
[きらう] ekptuô は唾を吐き出すことで「唾棄する」に相当する。
4章15節
口語訳 | その時のあなたがたの感激は、今どこにあるのか。はっきり言うが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも、わたしにくれたかったのだ。 |
塚本訳 | すると(その時の)あなた達の幸福感は、(今)どうなったのか。(ほんとうに)あなた達は、出来るなら、自分の目をえぐり出してくれたでもあろう。あなた達のためにわたしはそのことを証明する。 |
前田訳 | それなのにあなた方のさいわいは今どこにありますか。証言しますが、あなた方はできることなら目をくりぬいてわたしに与えようとしました。 |
新共同 | あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。 |
NIV | What has happened to all your joy? I can testify that, if you could have done so, you would have torn out your eyes and given them to me. |
註解: パウロを迎えかれより福音を学ぶにつき彼らは互いにその祝福を述べていたのに今はそれがどこに行ったのであるか。
辞解
[幸福] makarismos は祝意を表すこと、自己または人の祝福を祝賀すること。
註解: 彼らのパウロに対する愛は彼らの為し得べき最大の犠牲をすら惜しまない程であった。このことをパウロは神の前に断言しているのである。
辞解
[目を抉 りて...] 譬喩的表顕であって目は人体中最も重要な器官なので目をもってする譬は聖書に多く存している(詩17:8。箴7:2。ゼカ2:12等)。目を抉 りて人に与うることは最大の犠牲をも厭 わざることを示す。なお本節よりパウロの疾患は眼病であったと推測する説があるけれども決定的ではない。
[與 へんとまで思ひしを] 原語「與 へしを」で一層力強き文章である。
4章16節
口語訳 | それだのに、真理を語ったために、わたしはあなたがたの敵になったのか。 |
塚本訳 | ではわたしがあなた達に真理を(、ただ信仰だけで救われるという福音の真理を)語ったので、(それで)あなた達の敵になったのか。 |
前田訳 | すると、わたしはあなた方に正直であったために、敵になったのですか。 |
新共同 | すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。 |
NIV | Have I now become your enemy by telling you the truth? |
註解: パウロは彼らに真の福音、純粋の福音、律法以上の福音を伝えたがために彼らの敵となったのであるか、これ有り得べからざることである。
辞解
[然るに] hôste は「それ故に」と訳すべき文字。すなわち13−15節のごとくパウロを愛したるが故に、パウロが彼らの敵のごとくになった理由は真を言ったこと以外にはないこととなる。
4章17節 かの
口語訳 | 彼らがあなたがたに対して熱心なのは、善意からではない。むしろ、自分らに熱心にならせるために、あなたがたをわたしから引き離そうとしているのである。 |
塚本訳 | (あの人たちはあなた達を非常に慕っているように見える。しかし)あの人たちがあなた達を熱心に慕っているのは、善くはない。彼らはあなた達を(ただわたしから、いや、福音の真理から)引離して、自分に熱心にしようとしているのである。 |
前田訳 | あの人たちがあなた方に働きかけるのは善意でなく、あなた方が彼らに働きかけるようにとあなた方を閉め出したいのです。 |
新共同 | あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。 |
NIV | Those people are zealous to win you over, but for no good. What they want is to alienate you [from us], so that you may be zealous for them. |
註解: 私訳「彼らは善き心より汝らを慕わず、己らを慕わしめんために汝らを隔離せんと欲するなり」。キリストのために愛するものは善き心であり、自己のために愛するは悪しき心である。ユダヤ主義の偽教師らは盛んにガラテヤの信徒に媚を送った、しかしこれキリストのために彼らを愛したのではなく、自己の徒党を造り、彼らをして自分を慕わしめんがために彼らを他の教師他の思想より隔離せんと欲したのである。すなわち自己中心であってキリスト中心ではない。
辞解
[熱心なる] 次節の「熱心に慕う」と同語 zeloô 熱心に(この場合は愛と信頼とを)求むること。
[離して] 除外し、排斥し、隔離すること、何から彼を隔離するやにつきて異説あり、「キリスト」「教会」「キリストの自由」「パウロ」「パウロ一派の人々」「天国」等種々に考えられている。この場合「パウロおよび彼と思想を同じくするもの」、または「ユダヤ主義の教師と反対の立場にあるもの」等と解すべきであろう。「我らより」は原文になし。▲自己の宗派に人を導くことに熱心な態度は本節と同一の誤りに陥った態度である。常に人をキリストに導く必要がある。
4章18節
口語訳 | わたしがあなたがたの所にいる時だけでなく、いつも、良いことについて熱心に慕われるのは、良いことである。 |
塚本訳 | 善い心から、いつも熱心に慕われるのは、よろしい、わたしがあなた達の所にいる時ばかりでないのは。 |
前田訳 | 良い意味で働きかけられるのは、つねによいことで、わたしがそちらにいるときに限りません。 |
新共同 | わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。 |
NIV | It is fine to be zealous, provided the purpose is good, and to be so always and not just when I am with you. |
註解: 「善き心より」は「宜しきに叶いて」と訳すべきである。パウロは言う、「曩 に予は汝らに福音を伝えしにより汝らに慕われていた。然るにその後汝らを離れている間に予に対する汝らの愛は冷却して偽教師らに向わんとしているのである。これ実に悲しきことである。福音を伝うる場合のごとき善きことのために予が汝らに慕われることは何時にても常に宜しきことであって予が汝と偕にいると否とに関係がない」。かく言いてパウロは彼らの愛を取返さんことを努力している。
辞解
[熱心に慕われる] 前節「熱心なる」の受動形。慕われるものの何を指すかによりて自然意味を異にするの結果となる。多くの学者はこれをガラテヤ人と解しているけれどもZ0はこれをガラテヤ人およびパウロと解し、L3はこれをパウロと解す、予は最後の解釈による。
4章19節 わが
口語訳 | ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。 |
塚本訳 | わたしの子供たちよ、あなた達の中にキリストが形づくられるまで、わたしはもう一度産みの苦しみをしている。 |
前田訳 | わが子よ、キリストがあなた方の間に形をとるまで、わたしはふたたびあなた方のために産みの苦しみをします。 |
新共同 | わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。 |
NIV | My dear children, for whom I am again in the pains of childbirth until Christ is formed in you, |
註解: ガラテヤにおけるパウロの第一回の産みの苦しみは無効に終らんとしている。これガラテヤの信徒の心にキリストが充分に形成せられていなかったからであった。それ故にパウロは再び産みの苦しみを繰返して彼らの心に完全にキリストの形を造り出さなければならない処の苦しい立場に立たしめられるに至った。伝道によりて人々の心にキリストの姿を形成するまでの苦痛は容易のことではない。しかしながらこの母としての役目がパウロの役目であった。▲▲口語訳「ああ」は原文にない。
辞解
[わが幼児よ] 異本によれば「わが若子らよ」teknia mou とありこれはヨハネは多く用いるけれどもパウロは他に用いていない。ここでは特に母として深き愛を弱きガラテヤの信徒に注ぎつつある心持が溢れてこの語を用いたのであろう。
[キリストの形] パウロの形でなくキリストの形が造られなければならない(B1)。
4章20節
口語訳 | できることなら、わたしは今あなたがたの所にいて、語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方にくれている。 |
塚本訳 | (出来るなら、)いまわたしはあなた達の所にいたい。そして(この烈しい)語気を変え(て、やさしい声で話し)たい。わたしは(今)あなた達のことで途方にくれている。 |
前田訳 | 今にもそちらへ行きたい、そして語調を変えて話したいのです、あなた方のために途方にくれていますから。 |
新共同 | できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。 |
NIV | how I wish I could be with you now and change my tone, because I am perplexed about you! |
註解: パウロは第二回伝道旅行においてガラテヤを訪問せし時、彼らがキリストより離れんとするを見てあまりに強く彼らを叱責したのであろう。その結果彼らが益々パウロを離れんとするのを見、かつパウロの不在の時一層この傾向の甚だしきを見て、パウロは今またガラテヤに到りその声を易 え、異なった態度をもって彼らに語らんことを欲した。これパウロがガラテヤ人のその後の態度について迷い、いかにすべきかを知らなかったからである。かつ書簡のみでは充分先方の心持を汲取ることができず、またパウロの惑いを解くこともできないからである。
要義1 [キリスト者の疾病その他不幸の他の人々に対する意義]パウロの疾病はガラテヤの人々の信仰の試練となった。同様に今日キリスト者が特に多くの不幸に見舞われる時、他の未信者または不信の人々はこれをもってキリスト者の上に神の詛いが下っているのではないかと疑う場合がある。しかしながらキリスト者はいかに大なる不幸の下に在りてもなお信仰なき最大幸福者に優りて幸福であって、このことを示さんがために神は時にキリスト者を大なる不幸に陥らしめ給うのである。パウロの場合もその疾病によってガラテヤ人はいよいよ深く彼の愛すべきことを知ることができたのである。
要義2 [教理の正しさと愛の結合]13−20節は、一見あたかもパウロと偽教師らとの間にガラテヤ人の愛の争奪戦が行われているがごとくに見える。パウロの感情もガラテヤ人の愛を求めて激していた。しかしながら同じく愛であってもパウロはキリストに在る愛を求め、偽教師らはキリストよりもまず己らを愛せんことを求めた。而してもしガラテヤ人がキリストに在りて愛することができるならば、この愛がやがてパウロと彼らとを繋ぐ紐となるであろう。かくして双方とも正しき教義の上に立つ時はこの両者の上に自然に結合が行われることは当然である。誤れる信仰に伴える愛はキリストに在る愛ではない、従ってキリストに在る者との間に愛の結合を為すことができない。パウロがガラテヤ人を偽教師に対する愛より引離さんとしたのはパウロの私的感情ではなくキリストに在るものの当然の立場である。
4章21節
口語訳 | 律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。 |
塚本訳 | (モーセ)律法の下にいたいと思う人たちよ、言ってくれ、あなた達は律法がわからないのか。 |
前田訳 | おたずねしますが、律法の下にありたい方々、律法をお聞きでありませんか。 |
新共同 | わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。 |
NIV | Tell me, you who want to be under the law, are you not aware of what the law says? |
註解: 本節以下においてパウロはアブラハムの二子を比喩的に解し、これによりて律法と約束との区別を示している。律法の下にあらんと願う者はガラテヤにおいてユダヤ主義の教師に誘われて信仰のみによりては義とせられざることを信ずる人々を指す。パウロが彼らに質問を発し、彼らをしてこれに答えしめんとしているのは、その事柄のあまりにも当然なることを示して彼らの無理解を責めている口調である。
辞解
[律法] 前者に冠詞なく一般的にいい、後者は冠詞を伴い、「聖書」または「モーセの五書」を意味する。日本語にてはこの区別が不明である。
[律法をきかぬか] 「聞くを欲せずや」(L1)と解するよりも「集会において読まれるのを聞いているのではないか」との意(M0)に解すべきである。
4章22節
口語訳 | そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 |
塚本訳 | こう書いてある。──アブラハムに二人の息子があって、一人は女奴隷(ハガル)から、一人は自由の女(正妻サラ)から生まれた。 |
前田訳 | それに書かれていますが、アブラハムにふたりの子があり、ひとりは女奴隷からで、ひとりは自由の女からでした。 |
新共同 | アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。 |
NIV | For it is written that Abraham had two sons, one by the slave woman and the other by the free woman. |
註解:婢女 はハガル(創16:15)でその子はイシマエル、自主の女は正妻サラ(創21:2)でその子はイサク。
辞解
[自主] 自由というに同じ。
4章23節
口語訳 | 女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。 |
塚本訳 | けれども女奴隷からの(イシマエル)は、(普通の人間のように)肉によって生まれ、自由の女からの(イサク)は、(聖書に書いてあるように)約束によったのである。 |
前田訳 | 女奴隷からのものは肉によって、自由の女からのものは約束によって生まれたのです。 |
新共同 | ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。 |
NIV | His son by the slave woman was born in the ordinary way; but his son by the free woman was born as the result of a promise. |
註解: 二人とも同じアブラハムの子ではあるがしかしイシマエルは普通の性的関係に従って(kata)生れ、イサクは創17:16以下、創18:10以下等の神の約束に依りて(dia)生殖能力なき老年の夫婦の間に生れた。
4章24節 この
口語訳 | さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。 |
塚本訳 | これは比喩で言うのである。すなわち、二人の女は(旧約と新約との)二つの契約を意味する。一つはシナイ山から(出たモーセ律法)であって、産んだ子は奴隷である。この契約はハガルである(からである)。 |
前田訳 | これは譬です。彼女らはふたつの契約で、ひとつはシナイ山の出で奴隷へと子を産み、それがハガルです。 |
新共同 | これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。 |
NIV | These things may be taken figuratively, for the women represent two covenants. One covenant is from Mount Sinai and bears children who are to be slaves: This is Hagar. |
註解: この旧約の史実にはまた一種の比喩的意味を含んでいる。すなわち二人の女は旧き約束(旧約─律法)と新しき約束(新約─恩恵)に相当している。すなわち旧約はモーセの律法でシナイ山にその源を発し、律法の奴隷たるものの生みの母である。この点においてサラとは異なりハガルに相当している。
辞解
[譬あり] allêgoroumena 旧約聖書の比喩的解釈 allegorical interpretation は後世のラビによって濫用された。パウロもしばしばこれを用いている。すなわち旧約の史実を否定せず唯その中に第二の意義を含むものと解すること。
4章25節 このハガルはアラビヤに
口語訳 | ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。 |
塚本訳 | ──ハガル(という語)はアラビヤではシナイ山(を意味するの)である。──そしてハガルは今のエルサレムに相当している。(律法の御本山であるエルサレムは、)彼女の(多くの)子供たちと一緒に、(律法の)奴隷であるからである。 |
前田訳 | ハガルとはアラビアでのシナイ山のことで、今のエルサレムに相当し、その子らとともに奴隷です。 |
新共同 | このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。 |
NIV | Now Hagar stands for Mount Sinai in Arabia and corresponds to the present city of Jerusalem, because she is in slavery with her children. |
註解: パウロは21節以来種々の事実および思想を二つに分ちてこれを対立せしめ、以て律法と福音の区別を明らかにしている。すなわち自由なるサラと奴隷なるハガル、世嗣なるイサクと放逐されるイシマエル、律法による旧き契約と恩恵による新しき契約、奴隷たる子を生むハガルと約束の子を生むサラ、律法を与えられたるシナイ山およびこれを継承している今のエルサレムと約束を実現すべき上なるエルサレム等々であり、この対比はなお31節まで継続している。本節の意味は改訳に従えばハガルは奴隷たる子を生み、その子孫はアラビヤ人となった点において、人を奴隷たらしむる律法を与えられしシナイ山に相当し、かつ今のエルサレムに相当する。その故はイスラエルの人々は今も律法の下に(かつローマの政府に、B1)奴隷となりエルサレムがその代表的中心であるからである。ただし本節は「このハガル〔なる語〕はアラビヤ〔語〕にてシナイ山を意味し云々」と読み、アラビヤ人がシナイ山をやや類似の発音 Hadschar(Chadschar)にて呼ぶ事実をもって証明せんとし(M0、A1)、または「ハガル」なる文字なき異本によりて「そはこのシナイ山はアラビヤにありて今のエルサレムに当り云々」と読むべしとの説を為す学者がある(Z0)。この読み方が最良であろう。
辞解
[當る] sustoicheô は「同列に属する」「同種属である」との意味で、多くの項目を両々相対比せしむる場合に用いる。
[子ら] 住民を指す。
[エルサレムの子ら] イスラエルの全体を指す。
4章26節 されど
口語訳 | しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。 |
塚本訳 | しかし天のエルサレムは自由で(あって)、これこそわたし達の母である。 |
前田訳 | 上なるエルサレムは自由の女で、われらの母です。 |
新共同 | 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。 |
NIV | But the Jerusalem that is above is free, and she is our mother. |
註解: 文法上は前節末尾を受け、思想上は24節の「一つの契約」と相対応す。すなわち今一つの契約はキリストより出で自由の子を生む点ににおいてサラに相当し、この自由なるサラは上なるエルサレムに当り、その生む処の市民は自由なる我らキリスト者である。
辞解
[上なるエルサレム] または「天のエルサレム」ヘブ12:22、「新しきエルサレム」黙21:2、「神の都」黙3:12、とも呼び、キリストの再臨によりて実現すべき国をいう、この国は今現にキリスト者の心の中にその一部の実現を持っている故、キリスト者の国籍は天にある(ピリ3:20)、すなわち新しき契約の子は自由なるキリスト者である。
4章27節
口語訳 | すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」。 |
塚本訳 | というのは、(聖書に)こう書いてある。──“喜べ、産まぬ石女よ、歓呼せよ、さけべよ、産みの苦しみせぬ者。そは孤独なる女の子は多いからである、夫をもつ女の子よりも。” |
前田訳 | 聖書にいわく、「よろこべ、子なしの産まず女、歓呼して叫べ、陣痛を知らぬものよ。ひとりものは夫のあるものより多く子を得よう」と。 |
新共同 | なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」 |
NIV | For it is written: "Be glad, O barren woman, who bears no children; break forth and cry aloud, you who have no labor pains; because more are the children of the desolate woman than of her who has a husband." |
註解: イザ54:1の七十人訳よりの引用で、原箇所はエホバに棄てられ、廃墟に帰し、住む人なきエルサレム(市邑 は女性として表わさる)がやがて神の恩恵によりて恢復せられ、曩 にエホバの花嫁たりし時代よりも一層大なる繁栄を得るに至るであろうことの慰めに満てる預言である。パウロはこれをユダヤ教とキリスト教との関係に応用し、上なるエルサレムはサラのごとく今までは子を生まざる石女 であり産の苦痛をしなかったけれども、その子はやがてエホバを夫とするユダヤ教、今のエルサレム、ハガルの子よりも数多きに至るであろう。この上なるエルサレムを母とする約束の子らは希望に満てる幸いなる者であることを示している。
辞解
[獨住 の] erêmos は「夫に棄てられし」の意であるけれども、ここでは子なかりしサラを連想せしめ約束の子を生むべき母に当たる。
[夫ある者] 一時アブラハムの寵を得しハガルを連想せしめ、律法の下に奴隷たるユダヤ人を生むべき母に相当する。
4章28節
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、(今のエルサレムに属しない)あなた達は(、ハガルの子ではなくして、サラの子)イサクと同じく、約束の(言葉によって生まれた)子である。 |
前田訳 | 兄弟よ、あなた方はイサクのように約束の子です。 |
新共同 | ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。 |
NIV | Now you, brothers, like Isaac, are children of promise. |
註解: キリスト者はイスラエルのごとく肉によりて生れたものではなく霊によりて生れたのである、ゆえにサラのごとく肉に絶望せる後約束により神の力によって生れた約束の子である。本節は次節を引き出さんがために記さる。
4章29節
口語訳 | しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。 |
塚本訳 | しかしその時、肉によって生まれた者(イシマエル)が御霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように、今も同じである。(地上のエルサレムの子らが天のエルサレムの子らを迫害する。) |
前田訳 | そのころ肉によって生まれたものが霊によって生まれたものを迫害したように、今もそうです。 |
新共同 | けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。 |
NIV | At that time the son born in the ordinary way persecuted the son born by the power of the Spirit. It is the same now. |
註解: パウロはいたずらに譬喩を弄 んでいるのではなく、彼の眼中には現実の問題が生きていた、ユダヤ人およびユダヤ主義の偽教師に迫害せられているキリスト者を励まし、かつ慰むることが本書簡の重要な目的であってここにもそのことに言及している。これあたかも昔イシマエルがイサクを迫害したのと同様であった。ただし創21:9には「迫害」のことが録されていない、パウロは伝説によって録したものであろう。
4章30節 されど
口語訳 | しかし、聖書はなんと言っているか。「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。 |
塚本訳 | しかし聖書はなんと言うか。“女奴隷とその息子とを追出せ。女奴隷の息子は決して”自由の女の“息子と一緒に相続すべきではないから”。 |
前田訳 | しかし聖書は何といいましょう。「女奴隷とその子を追え。女奴隷の子は自由の女の子とともに相続してはならない」と。 |
新共同 | しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。 |
NIV | But what does the Scripture say? "Get rid of the slave woman and her son, for the slave woman's son will never share in the inheritance with the free woman's son." |
註解: 迫害恐れるに足りない、何となれば聖書に(創21:10)いうごとくに旧き契約、すなわち律法の子は婢女 の子と同じくやがては神の家より放逐せられて世嗣となることができず、唯恩恵による約束に基ける子すなわちキリスト者のみが嗣業を継ぐことができるからである。従ってキリスト者とその福音に迫害するユダヤ人、ユダヤ主義のキリスト者はやがて神の国より逐い出されるに至るであろう。パウロがこの時代においてすでにこのことを断言したことは偉大なる信仰と先見とによるのである。
4章31節 されば
口語訳 | だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。 |
塚本訳 | このゆえに、兄弟たちよ、わたし達は女奴隷の子でなく、自由の女の子である。 |
前田訳 | それゆえ、兄弟よ、われらは女奴隷の子ではなく自由の女の子です。 |
新共同 | 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。 |
NIV | Therefore, brothers, we are not children of the slave woman, but of the free woman. |
註解: モーセの律法に属せず、その他あらゆる律法の奴隷でなく、自主の女の約束の子、すなわちキリストの教会の子である。故に律法の下にあらんことを願うごときは、自己の身分を辨 えざる大なる誤りである。本節は第5章1節と共に21節以下の結論を構成していると見ることが最も適当である。
要義 [律法主義の終局]パウロの当時においてはキリスト教は未だ萌芽の時代であり、ユダヤ教の律法主義が最優勢であった。故にユダヤ人および律法主義者が多くの勢力を有っていたことは当然である。この際に当りてパウロが律法をもって奴隷に譬え、キリスト者としての自由を主張し、而して律法とその奴隷たる子らの末路は唯滅亡あることを預言したことは実に大胆なる断言であると言わなければならない。「この宣言の中に含まれる確信の力と預言的観察力の深さとはほとんど量り知ることができない。キリスト教国の過半が狂気に近き熱心をもってモーセの律法に固執しており、またユダヤ主義の一派が益々勢力を得つつあるがごとくに見え、かつその力はパウロの建設せる異邦人の教会においてすら彼の感化を覆えし、彼の生命を危険に陥れるに充分であったかのごとくに見えしその当時においてパウロは確信をもってユダヤ主義の吊の鐘を鳴らしていたのである」(L3)。真の福音に純粋の心をもって、堅く立つ者は、凡ての迷信より脱出することができ、多数の人々とその誤謬を共にすることを免れることができる。
附記 [比喩的解釈について]比喩 allêgoria は「他の事を言う」意味で、文言の表面の意味以外に他に何事かを言う場合を指す。故に聖書の比喩的解釈とは例えば上掲サラとハガルの場合のごとく史実そのものの外に二つの契約をも意味すると解するがごときすなわちそれである。この解釈法は聖書の中にも多く存在しており、ヨハネ伝にもキリストの死を過越の小羊の屠殺と見るごとき、またシロアムの池の奇蹟の説明(ヨハ9:7)のごときであり、パウロもしばしばこの種の解釈を応用した(Tコリ10:1−11。エペ5:22−33。Tコリ9:9以下、Uコリ3:13以下)。またヘブル書におけるメルキゼデクまたは祭事の解釈のごときも幾分がこの種の解釈をも加味しているとみるべきである。フイロンも旧約聖書に対し多くこの種の解釈を用い、当時のラビもその後の教父も旧約聖書に対して多くこの比喩的解釈法を用いた。後世に至りてあまりこれを濫用せる結果、無用の牽強付会 と不真面目なる曲解とを生ずるにいたり、その結果精確を旨とする今日の科学的研究法は全くかかる解釈法を排斥している。しかしながら比喩的解釈法は全然排斥すべきものではない。唯歴史上の事実、神の定め給える制度、自然界の事象等の奥底に当然に又本質的に含有せらるべき霊的真理に限りこの比喩的解釈法を応用せらるべきであろう。その他神が特にある霊的真理を示さんがために創造し給えりと見るべき出来事(キリストの死が過越の祭の初日に相当せるがごとき)には勿論この比喩的解釈を用うべきである。唯注意すべきことは比喩的解釈はその示さんとする霊的真理の真実たる証拠ではなく、唯その真実さを助勢するに過ぎないということである。故にこれがなくとも霊的真理そのものの真実さに欠点があるわけではない。