黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヘブル書

ヘブル書第3章

分類
1 教理の部 1:1 - 10:18
1-2 イスラエルの民との比較により不信仰を戒む 3:1 - 4:13
1-2-イ モーセに優れるキリスト 3:1 - 3:6  

註解: 前章においてキリストの受肉と受難の意義を明らかにしたる後さらに彼の地位をモーセのそれと比較し、イスラエルの民の不信仰の歴史とその結果を引証して不信仰を戒めている。まず1−6節においてモーセとキリストとの比較をなし、モーセの言に従わざることと、キリストに従わざることとが如何に大なる差があるかを示す前提たらしめんとしている。

3章1節 されば(とも)(てん)(めし)(かうむ)れる(せい)なる兄弟(きゃうだい)よ、[引照]

口語訳そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。
塚本訳それゆえ、聖なる兄弟たちよ、天の選択にあずかった者よ、わたし達が告白する使徒また大祭司(である)イエスに心を向けよ。
前田訳それゆえ、天の召しにあずかる聖なる兄弟よ、われらが告白する使徒であり大祭司であるイエスをお思いなさい。
新共同だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
NIVTherefore, holy brothers, who share in the heavenly calling, fix your thoughts on Jesus, the apostle and high priest whom we confess.
註解: 第一、二章によりキリストの地位と職務が明らかにせられし後改めて読者に呼びかけてその注意を促している。そして読者たるキリスト者らは著者に対して信仰による霊的兄弟であり、また世の人に対しては「聖別せられし者」即ち「聖なる兄弟」であった。そして彼らも著者もみな共に天の召しを(こうむ)り天国の民として招かれし者であってこの世の誘惑と戦いこれに打勝つべきものである。

(われ)らが()ひあらはす[信仰(しんかう)]の使徒(しと)たり(だい)祭司(さいし)たるイエスを(おも)()よ。

註解: キリスト者の第一に為すべきことは預言者、使者たり大祭司たるこの「イエスを思い見ること」すなわち充分にイエスに意を注ぎ彼を熟視することである。これが不信仰に陥ることを防ぐ唯一の途である。
辞解
[我らが言ひあらわす信仰] 原語「我らの告白」であって、旧約的信仰告白と対立せる新約の信仰を意味する。
[使徒] (ここでは「使者」と訳して十二使徒と区別する方がよい)モーセのごとく神より遣わされて神の事を民に述ぶる預言者の職務を帯びし人。
[大祭司] アロンのごとく民の代表者として民の事を神に述べる職を帯し者をいうので、キリストはこの二つの職を兼ね給うた(B1)。

3章2節 (かれ)(おのれ)()(たま)ひし(もの)忠實(ちゅうじつ)なるは、モーセが(かみ)全家(ぜんか)忠實(ちゅうじつ)なりしが(ごと)し。[引照]

口語訳彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。
塚本訳彼は“モーセが神の全家に”忠実であったように、彼を創造された方に対して“忠実”であった。
前田訳彼が彼をお立ての方に忠実であったことは、モーセが神の家にそうであったごとくです。
新共同モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。
NIVHe was faithful to the one who appointed him, just as Moses was faithful in all God's house.
註解: この節は前節の「見よ」に関連しているのであって(▲「イエス」の同格句である。)、「使者たり大祭司たるイエス、すなわちモーセが神の全家に忠実なりしがごとく己を立て給いしものに忠実なる彼を思い視よ」とのことである。モーセが神の全家に忠実なることは民12:7に記され、それがためにモーセは旧約の仲保者として全イスラエルに尊敬せられ、天使にも優れるものと認められた。イエスはこの点においてモーセと同じく己を立て給える神に忠実であった。ここに著者はまずキリストとモーセの同一なることを述べ、次にキリストの優越を論じ(3−6節)これによりて不信仰を戒める前提となしている。

3章3節 (いへ)(つく)(もの)(いへ)より(まさ)りて(たふと)ばるる(ごと)く、(かれ)もモーセに(まさ)りて(おほい)なる榮光(えいくわう)()くるに相應(ふさは)しき(もの)とせられ(たま)へり。[引照]

口語訳おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。
塚本訳家を造った者が家(そのもの)より大きな尊敬を受けると同様、彼はモーセ以上に大きな栄光に価する者にされたのである。(モーセは神の家、すなわちイスラエル人の一員であったが、イエスはその家を造られた方であるから。)
前田訳彼はモーセより大きい栄光に値しました。それは家を造るものが家よりも大きな誉れを持つごとくです。
新共同家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
NIVJesus has been found worthy of greater honor than Moses, just as the builder of a house has greater honor than the house itself.
註解: キリストはここに神の家の家造りとして考えられている。何となれば神は万物を創造(つく)り給いしがごとくにキリストはその聖霊をもって神の家なる教会を建て給うたからである。そしてイスラエル人に最も崇敬せられしモーセすら、神の家の一員に過ぎない。ゆえに神の家の建築者たるキリストははるかにモーセに優りて栄光を受けるに相応しき者とせられ給うた。ユダヤ人はこのことを明らかにすることが殊に必要であった。然らざればキリストの真の価値を見失うであろう。

3章4節 (いへ)(すべ)(これ)(つく)(もの)あり、(よろづ)(もの)(つく)(たま)ひし(もの)(かみ)なり。[引照]

口語訳家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。
塚本訳[(一体)家はみな人によって造られる。(従って神の家にもこれを造った人があり、それはイエスである。)しかし万物を造られた方は(もちろん)神である。]
前田訳どの家もだれかに造られています。すべてをお造りになった方は神です。
新共同どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。
NIVFor every house is built by someone, but God is the builder of everything.
註解: 家があればこれを建てし者があると同じく、萬の物従ってここに今論じつつあるイスラエルの全家も、神の教会もみな神が建て給うたのである。(注意)教会は前節においてキリストによりて建てられしものとして観察されており、ここには別の立場より神によりて建てられしものと見、その立場より見てキリストとモーセとを対立の地位に置きてこの両者を比較している(5、6節)。

3章5節 モーセは(のち)(かた)(つた)へられんと()ることの(あかし)をせんために、(しもべ)として(かみ)全家(ぜんか)忠實(ちゅうじつ)なりしが、[引照]

口語訳さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、
塚本訳なお“モーセは”、(将来預言者たちにより、また御子によって)語られるべきことを証するために、“(一人の)僕”として、“神の全家に忠実”であったが、
前田訳モーセは神の全家に奉仕者として忠実でした。それは後に語られるべきことどもへの証のためでした。
新共同さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、
NIVMoses was faithful as a servant in all God's house, testifying to what would be said in the future.
註解: これがモーセの忠実とキリストの忠実(6節)との異なる第二の点である。すなわち僕たることとそしてその任務が「後に語り伝えられんとすること」すなわちキリストの福音(ヘブ9:19)の証を為さんための僕であったことがモーセの忠実の内容であった。

3章6節 キリストは()として(かみ)(いへ)忠實(ちゅうじつ)(つかさ)どり(たま)へり。我等(われら)もし確信(かくしん)希望(のぞみ)(ほこり)とを(をはり)まで(かた)(たも)たば、(かみ)(いへ)なり。[引照]

口語訳キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。
塚本訳キリストは“神の家”の御子として忠実であった。そして(キリストを信ずる)わたし達は、そのキリストの家(の者)である。もしわたし達が(大胆な)信頼と、希望の誇りとを最後まで堅く守っているならば。
前田訳しかしキリストは子として忠実であり、神の家の上にお立ちでした。もしわれらが望みの確信と誇りをあくまで持ち続けるならば、われらは神の家です。
新共同キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。
NIVBut Christ is faithful as a son over God's house. And we are his house, if we hold on to our courage and the hope of which we boast.
註解: 原文の順序に近く直訳すれば「キリストは子として神の家の上に〔忠実に在し給えり〕この神の家は我らなり。もし確信と希望の誇とを終りまで堅く保たば」であって、モーセは僕であるに反し、キリストは神の家の主に在し、モーセは神の家の中の一員であったのに(en)キリストは神の家の上に(epi ヘブ10:21参照)君臨し給う。同じ忠実であってもモーセは仕うる忠実であり、キリストは治め給う忠実である。そしてキリストの(つかさど)り給う神の家とはイスラエルではなく、キリスト者の教会すなわち「我ら」である。ただしキリスト者なるものも、信仰後退の危険に(さら)されているのであって、もし贖い主キリストの救いに対する確信と、キリストに在りて持つ永遠の国の希望の誇りとを終りまで堅く維持しないならば、たとい一時は熱心なる信者であってもまた名義上のキリスト者であっても、神の家の一員と称することができない。

1-2-ロ 心を頑固にするなかれ 3:7 - 3:19  

3章7節 この(ゆゑ)(せい)(れい)()(たま)ふごとく『今日(けふ)なんぢら(かみ)(こゑ)()かば、[引照]

口語訳だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
塚本訳だから、聖霊が言う通りである。──“今日、あなた達は御声を聞いたら、
前田訳それゆえ、聖霊がいいます、「きょう、あなた方がお声を聞いたなら、
新共同だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
NIVSo, as the Holy Spirit says: "Today, if you hear his voice,

3章8節 その(いかり)()きし(とき)のごとく、荒野(あらの)嘗試(こころみ)()のごとく、(こころ)頑固(かたくな)にするなかれ。[引照]

口語訳荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
塚本訳心を頑固にするな、荒野における誘惑の日に(わたしに)反抗した時のように。
前田訳荒野での試みの日にそむいたときのように心を頑にするな。
新共同荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。
NIVdo not harden your hearts as you did in the rebellion, during the time of testing in the desert,
註解: (▲「荒野の嘗試(こころみ)の日のごとく」は「荒野の試誘(こころみ)の日に神を怒らせた時のように」と訳すべきである。口語訳「神にそむいた時」は訳語として不充分である。)今はモーセよりもはるかに優れるキリストによりて神は語り給う以上(ヘブ1:2)、一層の度において心を頑固にせぬように注意しなければならぬ。たしかにイスラエルがモーセに従ってアラビヤの荒野を通過していた際に水が無かりしためにエホバに対し不信と反抗とをもってエホバを試み、その怒りを(まね)いた(出17:7)。これよき前車の覆轍(ふくてつ)である。
辞解
7−11節は詩95:7−11、七十人訳の引用であり聖書は凡て「聖霊の言」である。Uペテ1:21。この詩はダビデがモーセの時代の不信の事実とその結果たる神の審判とを顧みてその当時のイスラエルを戒ちょくせしものである。これを著者は今日に応用した。
[怒を惹く] ヘブル語メリバの訳。
[嘗試(こころみ)] ヘブル語マサの訳、詩95:8の日本語訳と対照せよ。

3章9節 彼處(かしこ)にて(なんぢ)らの先祖(せんぞ)たちは(われ)をこころみて(ため)し、かつ四十(しじふ)(ねん)(あひだ)わが(わざ)()たり。[引照]

口語訳あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、
塚本訳そこであなた達の先祖は(わたしを)こころみ試し、しかもわたしの業を見たのである、
前田訳荒野であなた方の先祖はわたしを試みためし、わがわざを見て
新共同-10節 荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』
NIVwhere your fathers tested and tried me and for forty years saw what I did.

3章10節 この(ゆゑ)(われ)この()(ひと)(いきど)ほりて()へり、[引照]

口語訳しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。
塚本訳四十年の間。”だからその“時代(の人)をわたしは憤って言った、「絶えず彼らは心に迷っており、わたしの道がわからなかった」と。
前田訳四十年を過ごした。それゆえわたしはその世代の人々に怒り、こういった、『つねに彼らの心は迷い、彼らはわが道をわきまえなかった』。
新共同
NIVThat is why I was angry with that generation, and I said, `Their hearts are always going astray, and they have not known my ways.'
註解: 彼処(かしこ)」すなわち荒野においてイスラエルの先祖らは神を試み、神果して彼らを救い得るやを(ため)してその不信の心をあらわし、しかも四十年間もエホバの為し給える種々の「御業」すなわち多くの奇蹟を目撃しつつなおこの不信を改めなかった。彼らの罪は実に重い。ゆえに「エホバはこの代の人に対して憤激の念を発せざるを得なかった。」これと同様にキリスト以後約四十年の間キリストや使徒らの業を目撃したその当時の信者がなおキリストに対する確信と希望の誇りとが無く、常にキリストを試み(ため)すごとき不信の態度を取るならば同じく神の憤りを免れないであろうとの意を偶している。
辞解
[四十年] 七十人訳の原文および次の17節では「憤り」に関連し「この故に」は原文になく、「この代」は原文に「かの代」となっている。ヘブル書の著者はその当時の読者にこの詩を適応せんがためにこれを変更したものであろう(M0)。なお詩95:9、10、日本語訳を見よ。

(かれ)らは(つね)(こころ)まよい、わが(みち)()らざりき」と。

註解: エホバは荒野を通してカナンの地にイスラエルを導かんとし給うた。これ「わが途」である。然るにイスラエルはこの途を知らず、すなわち彼を信ぜず、常に心迷いてその途を失った。キリストの救いの途につきても同様であって、我らは唯一筋に彼に従い、如何なる苦難の中においても彼を離れ、彼を試みてはならない。然らざれば我らも不信仰により心迷い途を失うであろう。

3章11節 われ(いかり)をもて「(かれ)らは、()(やすみ)()るべからず」と(ちか)へり』[引照]

口語訳そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。
塚本訳そこで、わたしは怒って誓った、「彼らは絶対にわたしの休みに入るべからず」と”。
前田訳わが怒りのうちに誓ったように、『彼らはわがいこいに入らせない』」と。
新共同そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」
NIVSo I declared on oath in my anger, `They shall never enter my rest.'"
註解: 「我が休」はエホバの賜う休みでイスラエルが約束の地カナンに入ることを指す(申12:9、10)。神怒りてイスラエルにこの特権を拒絶し給うた(民14:21以下)、このことを「誓ひ」給えることはその怒りの如何に甚だしかりしかを示す。神は不信なる者に対してはその約束をも拒み給う。
辞解
「安息」がキリスト者に取って何を意味するかは次章に示されている処によりてこれを知ることができる。

3章12節 兄弟(きゃうだい)よ、(こころ)せよ、(おそ)らくは(なんぢ)()のうち()ける(かみ)(はな)れんとする()信仰(しんかう)()しき(こころ)(いだ)(もの)あらん。[引照]

口語訳兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
塚本訳気をつけよ、兄弟たちよ、あなた達のどの一人にも、悪い、不信仰の心がおこって、生ける神から離れ(おち)るようにならないとは限らない。
前田訳兄弟たちよ、心して、あなた方のだれも不信の悪い心を持って生ける神から離れることのないようになさい。
新共同兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
NIVSee to it, brothers, that none of you has a sinful, unbelieving heart that turns away from the living God.
註解: 7−11節の引用はこの訓戒を与えんがためであった。そして訓戒の要点は不信仰に陥ることを誡めたのであって、不信仰はすなわち活ける神を離れ彼に対する信頼を失い神を死せる偶像となすことである。ゆえに必ずしもキリスト教を棄てて異教徒に改宗することを意味するのではなく(Z0)、活ける神をもって死ぬるもののごとくに見てこれを試み(ため)す態度に出づることである。またかかる不信仰こそ「悪しき心」(エレ4:14エレ16:12エレ17:9エレ18:12)でありまた罪そのものである。当時のキリスト者の中にもすでにかかる堕落の危険に瀕している者があった。
辞解
[不信仰] apistia とはモーセおよびキリストの忠実 pistos なること(5節)の反対の文字であって、忠実に対する不忠実を示している。故に弱き信仰と同一ではない。

3章13節 (なんぢ)()のうち(たれ)(つみ)誘惑(まどはし)によりて頑固(かたくな)にならぬやう、今日(けふ)(とな)ふる(うち)日々(ひび)(たがひ)(あひ)(すす)めよ。[引照]

口語訳あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
塚本訳あなた達のうちどの一人も、罪に惑わされて“頑固になる”ことのないように、“今日”という(日のつづく)うちに、日々互に励まし合わねばならない。
前田訳日ごと互いに励まし合って、「きょう」といわれるうちに、あなた方のだれかが罪に迷わされて頑にならないようになさい。
新共同あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
NIVBut encourage one another daily, as long as it is called Today, so that none of you may be hardened by sin's deceitfulness.
註解: 罪は不信仰と同一である。不信仰が人を惑わす場合には神の忠実を疑い神の言を信ぜず、神に逆らい神を試むる頑固なる心と化するのであってイスラエルが荒野における態度もみな罪の惑わしであった。それ故に「今日と称ふる間」すなわち救いに招き給う神の声が聞かれ、神の審判が始まらぬ間キリスト者は互に愛をもって相勤めて信仰を持続しなければならぬ。もし信仰を離れている時にキリスト来り給うならば、荒野におけるイスラエルと同じく神の審判を免れることができないであろう。

3章14節 もし(はじめ)確信(かくしん)(をはり)まで(かた)(たも)たば、(われ)らはキリストに(あづか)(もの)とな(る)なり。[引照]

口語訳もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
塚本訳というのは、わたし達は(信仰に入った)当初にもっていた確信を最後まで堅く守っているならば、(ただその時にのみ、)キリスト(の栄光)にあずかる者となったのである。
前田訳もしわれらがはじめの確信をあくまで堅持するならば、われらはキリストの同志になるのです。
新共同わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――
NIVWe have come to share in Christ if we hold firmly till the end the confidence we had at first.
註解: 「始めの確信」は信仰に入りし当時の熱烈なる希望に充てる心持を意味している。この確信は往々にしてその後の試誘(こころみ)や苦難のために薄らぎ易いのであって、もしこの確信を持続し得ないならば、如何にキリスト者の名称が有ってもキリストに与る者ヘブ3:1ヘブ6:4ヘブ12:8となることができない。反対にもしこの始めの確信を終りまで(すなわちその死まで、そして結局キリストの再臨の時まで)持続するならば、かかる人こそキリストの「義と聖と贖い」とに与り(Tコリ1:30)、またキリストの苦難に与り(コロ2:14)彼と共に死に、また彼と共に生き(Uテモ2:11ロマ6:8)、キリストと共に甦り(エペ2:6コロ2:12)、キリストと共に世嗣となって(ロマ8:17)いるのである。
辞解
[なるなり] 原語「なれるなり」で現になっているいるのであるとの意。
[確信] ヘブ11:1

3章15節 それ『今日(けふ)なんじら(かみ)(こゑ)()かば、その(いかり)()きし(とき)のごとく、こころを頑固(かたくな)にするなかれ』と()へ。[引照]

口語訳それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
塚本訳こう言われている。──“今日、あなた達は御声を聞いたら、心を頑固にするな、(わたしに)反抗した時のように。”
前田訳こういわれています、「きょう、あなた方がお声を聞いたなら、神にそむいたときのように心を頑にするな」と。
新共同それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」
NIVAs has just been said: "Today, if you hear his voice, do not harden your hearts as you did in the rebellion."
註解: 7節後半および8節の反復で12−14節の勧めを与えて後再び7−11節の歴史的事実に立帰り、これを現在に適用して彼らを訓戒する。(▲本章の全体を通じてキリスト者の神に対する信頼と従順との必要を強調している。)

3章16節 ()れば()きてなほ(いかり)()きし(もの)(たれ)なるか、モーセによりてエジプトを()でし(すべ)ての(ひと)にあらずや。[引照]

口語訳すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
塚本訳というのは、だれが(神の命令を)聞きながら、“反抗した”のであるか。(それは)モーセに率いられてエジプトから出てきたすべての人ではなかったか。
前田訳聞いてそむいたのはだれでしたか。モーセによってエジプトを出たものすべてではありませんでしたか。
新共同いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。
NIVWho were they who heard and rebelled? Were they not all those Moses led out of Egypt?
註解: 前節すなわち詩95:7、8は誰を指して言えるかを注意せよ。それは神を知らざる異教徒ではなく始めに非常なる確信をもってモーセに率いられてエジプトを出でしイスラエルしかもその全体であった(出12:33以下)。(少数の例外としてヨシュアとカレブその他があったけれどもここではこれを無視している)ゆえにキリスト者すなわちキリストに従ってこの世を出でし人々も今日神の声を聞きつつその心を頑固にするならば、なお一層甚だしき罪であってキリストに与ることを得ず、神の国に入ることを得ずしてキリストの怒りを受けるであろう。キリスト者であることの外部的形式的資格に安心している者は自ら顧みなければならない。キリストのモーセに優り、その約束せられし安息がカナンの安息に優るだけそれだけキリストに対する不信の罪は恐るべき刑罰を伴うであろう。

3章17節 また四十(しじふ)(ねん)のあひだ、(かみ)(たれ)(たい)して(いきど)ほり(たま)ひしか、(つみ)(をか)してその死屍(しかばね)荒野(あらの)(よこ)たへし人々(ひとびと)にあらずや。[引照]

口語訳また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
塚本訳また、だれに対して神は“四十年の間憤られた”のであるか。罪を犯し、“屍を荒野に横たえた”(イスラエルの)人々に対してではなかったか。
前田訳四十年間、神がお怒りになったのはだれに対してでしたか。罪を犯して死体を荒野に横たえたものたちにではありませんか。
新共同いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。
NIVAnd with whom was he angry for forty years? Was it not with those who sinned, whose bodies fell in the desert?
註解: 9、10節に引用せられし詩および民14:29民14:32以下に示されし神の憤りは、決して神が好んで、気侭にこれを起し給うたのではなく、みなイスラエルの罪の結果であった。罪ある処必ず神の憤りを受けなければならぬ、殊に不信の罪は罪の最も大なるものである。ゆえにキリスト者はこの前車の覆轍(ふくてつ)を見て、深く警戒しなければならぬ。然らざれば彼らは世より救出されつつ安息の地に入らずして荒野に滅亡してしまうであろう。

3章18節 (また)かれらは()安息(あんそく)()るべからずとは、(たれ)(たい)して(ちか)(たま)ひしか、()從順(じゅうじゅん)なる(もの)にあらずや。[引照]

口語訳また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
塚本訳また、(一体)だれに対して神が“その休みに入るべきでないと誓われた”のであるか。信じようとしなかった彼らに対してではなかったか。
前田訳彼のいこいに入らぬようお誓いになったのは、不従順の人々でなくてだれですか。
新共同いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。
NIVAnd to whom did God swear that they would never enter his rest if not to those who disobeyed ?

3章19節 (これ)によりて()れば、(かれ)らの()ること(あた)はざりしは、()信仰(しんかう)によりてなり。[引照]

口語訳こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
塚本訳すると、わたし達はみとめる、彼らが(約束の地に)入ることの出来なかったのは、不信仰のゆえであったことを。
前田訳われらにわかるのは、彼らが不信のゆえに入りえなかったことです。
新共同このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
NIVSo we see that they were not able to enter, because of their unbelief.
註解: さらに11節の誓いにつきてその理由を求むれば、イスラエルのエホバに対する不従順がその原因であった。そして信仰は従順であり(ロマ1:5ロマ5:19ロマ16:26)、不従順は不信仰である。ゆえにイスラエルに対してエホバが安息に入るべからずと、誓い給いし理由は要するにイスラエルの不信仰のためであった。キリスト者ももし不信仰の心(12、13節)をいだくならば同じくその安息を失うであろう。

ヘブル書第4章
1-2-ハ 神の安息に入るべきこと 4:1 - 4:11  

註解: 前章末尾16−19節を受けて、さらに進んでキリスト者がその安息に入ることの必要を1−11節に力説し、信仰の完成の必要を強調している。

4章1節 ()れば(われ)(おそ)るべし、その安息(あんそく)()るべき約束(やくそく)はなほ(のこ)れども、(おそ)らくは(なんぢ)らの(うち)これに(たっ)せざる(もの)あらん。[引照]

口語訳それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
塚本訳だから、神の休みに入る約束は(今日もまだ)満たされていないのに、あなた達のうちだれかが、(それに)入ることができぬと考えることのないように、わたし達は注意を払おうではないか。
前田訳それゆえわれらはおそれます、神のいこいに入る約束がまだそのままなのに、あなた方のだれかがそれにおくれをとりはしないか、と。
新共同だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
NIVTherefore, since the promise of entering his rest still stands, let us be careful that none of you be found to have fallen short of it.
註解: 信仰なき空虚なる心をもって、空しき安心を誇っているキリスト者ほど危険なものはない。彼らは苦難や試誘(こころみ)に遭えば直ちにその不信仰を暴露する。それ故に「我ら(おそれ)るべし」であってイスラエルの実例を見て(おそれ)(おのの)くべきである。その故は神の安息に入るべき約束は未だイスラエルによりては完全に実現せられず(6−9節にこの点が説明せられている)、我らの時に至りてこれに入るべき約束として(のこ)っているのである。それにもかかわらずキリスト者の中にはこの約束に対する信仰を失って、安息に到達せざる状態に止まるものが有るであろう。ゆえに(おのおの)恐懼(きょうく)すべきである。
辞解
本節の末尾は「・・・・・に達せずと思う者あらん」または「達せざるごとき者あらん」、また「・・・・・に達せずに見い出されるもの(すなわち達せざる状態に止るもの)あらん」(Z0)、また「・・・・・に達せずと(さば)かれるものあらん」と訳する説(I0)等がある。 dokê の意味の取り方に関連している難解の点である。予は第二説によりてこれを解した。改訳はこの文字を正確に訳出していない。
[▲▲恐らくは・・・あらん] 「万一にも汝らの中に、誰かが欠格者と思われることがないように」との意。
[▲(おそ)るべし] 恐惶(きょうこう)謹慎しようではないか」の意。

4章2節 それは(かれ)らのごとく(われ)らも()音信(おとづれ)(つた)へられたり、()れど(かれ)らには()きし(ところ)(ことば)(えき)なかりき。()くもの(これ)信仰(しんかう)をまじへざりしに()る。[引照]

口語訳というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
塚本訳なぜなら、彼等(イスラエル人がエジプトの虐待から釈放される福音を聞かせられた)と同じように、わたし達も(罪の赦しの)福音を聞かせられたからである。ただ(モーセから)聞いた(神の)言葉が、聞く人たちに信仰で結びつかなかったため、(すこしも)彼らを益しなかった。
前田訳われらにも彼らにと同じく福音が伝えられています。しかし彼らには聞いたことばが役だちませんでした。そのことばが、聞いた人たちに信仰によって結ばれなかったからです。
新共同というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
NIVFor we also have had the gospel preached to us, just as they did; but the message they heard was of no value to them, because those who heard did not combine it with faith.
註解: カナンに入るならばそこには乳と蜜とが流れ(民13:27出3:8)、また凡ての敵は我らの前に追い払われることの善き音信がイスラエルに与えられていた(民13:30民14:9)、唯イスラエルは信仰をこれに交えなかったのでこの言は彼らを安息のカナンに入れることができなかった。そしてこのカナンの安息はキリスト者がサタンとこの世との戦いに勝ち聖霊に潤されキリストにありて平安なる霊の安息を得ることの型であって、キリスト者にはこの霊的安息の善き音信(すなわち福音)が伝えられている。この福音は神の言として与えられ、人々これを聞くことができた。もし信仰をもってこれに対するならばこの福音は我らに益を与えるであろう。神の言とこれに対する信仰は車の両輪のごとくにその一つを欠けば無益である。
辞解
[善き音信を傳ふ] 原語「福音を伝う」、この一節は原文難解で異本多く従って種々の読み方と意義とを生じているけれども重要ならざれば略す。

4章3節 われら(しん)じたる(もの)は、かの(やすみ)()ることを()るなり。[引照]

口語訳ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
塚本訳というのは、信ずる者として、(今でも)“わたし達は休みに入(り得)る”からである。神が言われたとおり──“そこで、わたしは怒って誓った、「彼らは絶対にわたしの休みに入るべからず」と。”しかも“御業”は世の始から出来(上がっ)ていたのである。(そして神の休みはその時から始まっていた。)
前田訳信じるようになったわれらはいこいに入るのです。それは聖書に、「わたしが怒って彼らをわがいこいに入らせない、と誓ったように」とあるとおりです。しかもみわざは世のはじめから成就しました。
新共同信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
NIVNow we who have believed enter that rest, just as God has said, "So I declared on oath in my anger, `They shall never enter my rest.'" And yet his work has been finished since the creation of the world.
註解: 安息に入るの約束は残っているけれども(1節)、信仰をもってこの約束の言に交えざる者はこの安息に入ることができない(2節)。唯我ら信じたる者は凡てこの今なお有効なる約束に与ることができるのである。

『われ(いかり)をもて「(かれ)らは、わが(やすみ)()るべからず」と(ちか)へり』と()(たま)ひしが(ごと)し。されど()(はじめ)より御業(みわざ)(すで)()れるなり。

註解: 信じたる者が神の安息に入ることを得る所以は、神が不信なる者に対して怒りをもって安息に入ることを拒み給いし事実よりこれを証明することができる。しかも不信者に安息を拒み給いしは他の理由によるのではないことは神が世の創めよりその御業を完成して安息に入り給い、神の方には何らの手落ちなく唯イスラエルの不信より外に原因が有り得ないことよりこれを知ることができる。すなわちイスラエルを入らしむるべき神の安息がすでにできていたのに不信の故にこれを彼らに拒み給うた。最も恐るべきは不信である。ここでは神の安息、カナンの安息、新約の安息をみな同一のものとして取扱っている。
辞解
「されど」以下をば次節に関連させる説がある。

4章4節 (ある)(へん)七日(なぬか)めに()きて()()へり『七日(なぬか)めに(かみ)その(すべ)ての(わざ)(やす)みたまへり』と。[引照]

口語訳すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
塚本訳なぜなら、(聖書の)ある所で、(創造の)第七日について(神は)こう言われたからである、“そして神は第七日にその一切の御業を休まれた”と。
前田訳聖書のあるところで七日目について、「神は七日目にすべてのみわざを休まれた」とあり、また
新共同なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
NIVFor somewhere he has spoken about the seventh day in these words: "And on the seventh day God rested from all his work."
註解: 創2:2よりの引用で、我らに神の安息が残されていることを証明せんとしてまず第一に神が天地の創造を終って、その業を休み安息に入り給いし事実を挙げている。

4章5節 また(ここ)に『かれらは、()(やすみ)()るべからず』と()へり。[引照]

口語訳またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
塚本訳(ところがイスラエル人がその休みをしりぞけたので、神は)またこの場所で、“彼らは絶対にわたしの休みに入るべからず”と(言われたのである)。
前田訳上に挙げたところで、「彼らはわがいこいに入らせない」とあります。
新共同そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
NIVAnd again in the passage above he says, "They shall never enter my rest."

4章6節 ()れば(これ)()るべき(もの)なほ()り、[引照]

口語訳そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、
塚本訳(神の休みはいたずらに残っているのではない。)だから、だれかここ“に入るべき”人たちが残されているはずであり、前に(この休みに入るべき)福音を聞かせられた人たちは、不従順のゆえに“入ら”なかったので、
前田訳さて、ある人々がそこに入る余地があり、初めに福音を伝えられた人たちが不従順のゆえに入りませんでしたので、
新共同そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
NIVIt still remains that some will enter that rest, and those who formerly had the gospel preached to them did not go in, because of their disobedience.
註解: 神においては安息が成就して人の来るのを待ち給うにもかかわらず「かれらは我が休みに入るべからず」と聖霊が言い給える以上、神に召されしイスラエル以外の者でこれに入る者があるはずである。

(さき)()音信(おとづれ)(つたへ)えられし(もの)らは、()從順(じゅうじゅん)によりて()ることを()ざりしなれば、

註解: ▲改訳「而してさきに善き音信を伝えられし者らは、不従順の故に入ることを得ざりき。」

4章7節 (ひさ)しきを()てのち(また)()(さだ)めダビデによりて『今日(けふ)』と()(たま)ふ。(さき)(しる)したるが(ごと)し。[引照]

口語訳神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
塚本訳神はまた“今日”という(一つの)日を定められる。(そしてモーセの時から)あんなに長い時がたってから、ダビデをもってこう言われる。前に言われているとおりである。──“今日、あなた達は御声を聞いたら、心を頑固にするな。”
前田訳神はさらにある日、すなわち「きょう」をお定めです。それは長い時がたってからダビデによっていわれました。すなわち、先に挙げたように、「きょうあなた方がみ声を聞いたなら、心を頑にするな」です。
新共同再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
NIVTherefore God again set a certain day, calling it Today, when a long time later he spoke through David, as was said before: "Today, if you hear his voice, do not harden your hearts."
註解: (▲改訳「また若干日の後ダビデによりて『今日』という日を定めて言い給う『今日もし汝ら・・・・・』」)なお神の安息に入るべき者が残っているにしても、それは誰かというに(さき)ヘブ3:11に引用せるイスラエルではない。彼らは不従順のために入ることを得なかったからである。然らば果して誰であろうか、これ(さき)に引用せる詩95:7の(ヘブ3:7)『今日』なる語がこの問題を解決する。この『今日』なる語は神が一定の日を定めて、数百年の後にダビデをして詩95:7において言わしめ給いし語であった。

(いは)く『今日(けふ)なんじら(かみ)(こゑ)()かば、こころを頑固(かたくな)にするなかれ』

註解: ヘブ3:7、8。すなわち詩95:7、8の引用を反復し「今日」という(ことば)の内容を再び示している。すなわちダビデの時代にその当時の人もなお神の声を聞くことができ、また不信仰に陥らない警戒をなすの必要があった。ゆえに問題はモーセの時に結着したのではなくなお安息が残っている証拠である。

4章8節 ()しヨシュア(すで)(やすみ)(かれ)らに()しめしならば、(かみ)はその(のち)、ほかの()につきて(かた)(たま)はざりしならん。[引照]

口語訳もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
塚本訳(この今日というのは、もちろんダビデの時を指したものではない。モーセの死後、ヨシュアがイスラエル人をカナンの地に導いて休みを与えたが、神の休みとはこのことではない。)もしもヨシュアが(ほんとうに)彼らを休み(の場所)に導いたのであったら、(数百年たった)その後で、他の日のことを(ダビデをもって「今日云々」と)語られなかったはずである。(これは天にある安息を指すのである。)
前田訳もしヨシュアが彼らを休ませたならば、その後に神は別の日についてお語りではなかったでしょう。
新共同もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
NIVFor if Joshua had given them rest, God would not have spoken later about another day.

4章9節 ()れば(かみ)(たみ)(ため)になほ安息(あんそく)(のこ)れり。[引照]

口語訳こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
塚本訳それだから、神の民[キリストを信ずる者]には安息が残っているのである。
前田訳それで、安息はなお神の民に残されています。
新共同それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
NIVThere remains, then, a Sabbath-rest for the people of God;
註解: モーセと共に荒野に旅せしイスラエルの丁年(ていねん)以下の者はヨシュアと共にカナンに入ることができた。しかしながらこれは安息の型であって真の神の安息、霊的安息ではなかった。彼らはなお真の安息を求めて進むべきであった(ヨシ22:3-5)。それ故に神はその後ダビデにより他の日につきて語り給うたのである。それ故に神の民(霊のイスラエルすなわちキリスト者、ガラ6:16)のために安息はなお(のこ)っている。ユダヤ人もこの安息に入ることが必要であって、その以下の立場、すなわちユダヤ教の程度で満足しているべきではない。
辞解
9節の「安息」は sabbatismos なる文字を用い聖なる安息を意味せしめている。(その他の場合は本書簡においてはみな katapausis なる文字を用いている)この文字を用いし所以は次節によりてこれを知ることができる。

4章10節 (すで)(かみ)(やすみ)()りたる(もの)は、(かみ)のその(わざ)(やす)(たま)ひしごとく、(おの)(わざ)(やす)めり。[引照]

口語訳なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
塚本訳現に、“神の休みに入った”者は、“神が”(七日目に)御自分の“御業を”休まれたように、その人もその“業を休んだ”からである。
前田訳神のいこいに入るものは、神がみわざを休まれたように自らもわざを休んだのです。
新共同なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
NIVfor anyone who enters God's rest also rests from his own work, just as God did from his.
註解: 神の休みに入ることは何を意味するやをこの節に示している。すなわち神の安息に入った者は乳と蜜の流れる処、神の霊によりて豊かに潤される処に住んでいるのであって、律法の行為によりて神の前に義とせられんとする己の努力、己の業を休み、己なるものを全く無くして神に凡てをまかせ、神の休みに入り神の御導きに全身を托する。ゆえにこの安息は未来の国において初めて到達する安息ではなく現在においてすでにこれに入ることができる。神の安息は天地創造の労作を休み給うたのであって、霊的活動は永遠に続いている。

4章11節 されば我等(われら)はこの(やすみ)()らんことを(つと)むべし、(これ)かの()從順(じゅうじゅん)(れい)にならひて(たれ)()つることなからん(ため)なり。[引照]

口語訳したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
塚本訳だから、わたし達はその(神の)“休みに入るようにと”努めて、一人も同じ不従順の例にならって堕落しないようにしようではないか。
前田訳それでわれらはかのいこいに入るよう努め、だれもこのような不従順の例にならって堕落しないようにしましょう。
新共同だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
NIVLet us, therefore, make every effort to enter that rest, so that no one will fall by following their example of disobedience.
註解: ヘブ3:6ヘブ3:12−14等に既に述べし薦めを繰返し、ヘブ3:7以下に示せるイスラエルの不従順の例をもってこれを戒めている。すなわちキリスト者となって後も何時までも自己に捕われ、神に絶対の信頼を置かず、自己の行為によって義とせられんとし神の言に対する確信をもってせず、苦難、迫害、誘惑の来る度毎に動揺恒なきごとき不安の状態より逃れて、神の安息に入ることを努むべきである。この安息は努力なしにこれを得ることができない。肉の誘い、サタンの試み、敵の反対に打勝ちつつ神の言を確信して希望に向って進まなければならぬ。然らざればイスラエルと同じく不従順の罪に陥り荒野に死するより外なき状態となるであろう。

1-2-ニ 神の言の審判力 4:12 - 4:13  

4章12節 (かみ)(ことば)[引照]

口語訳というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
塚本訳というのは、神の言葉は生きていて、活動し、あらゆる諸刃の剣よりも鋭く、精神と霊魂と、関節と骨髄との境までも突きいって、心の考えと思いとを裁くからである。
前田訳神のことばは生きており、力があっていかなる両刃の剣よりも鋭く、心と霊、関節と髄を分かつところまで貫き、心の考えと思いを見分けます。
新共同というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
NIVFor the word of God is living and active. Sharper than any double-edged sword, it penetrates even to dividing soul and spirit, joints and marrow; it judges the thoughts and attitudes of the heart.
註解: 1節の約束も、2節の善き音信もみな神の言として我らに伝えられた。今日の我らには神は聖霊によりて語り給うのみならず聖書として我らに与えられている。この神の言が我らの信仰の対象となりまた我らの信不信を(ため)す器となる。

生命(いのち)あり、

註解: 神の言は生命あるが故に人の内に留りて人を活かすことができ、またこの言、その内に留らざるものは審かれる(ヨハ5:38申32:47使7:38Tペテ1:23ヨハ6:63ヨハ6:68)。

能力(ちから)あり、

註解: ゆえに我らの心を感動せしめ眠れる心を覚し、罪人をサタンの捕囚より呼戻し、信ぜざる者の罪を定めて滅亡に至らしむることができる。

兩刃(もろは)(つるぎ)よりも()くして、精神(せいしん)靈魂(たましひ)關節(ふしぶし)骨髓(こつずゐ)(とほ)して(これ)(わか)ち、

註解: あたかも鋭き両刃の短剣が人間の身体を貫きその堅牢なる関節をも切り放し、その深處にある骨髄をも切開してこれを露出するがごとくに、神の言はそれよりも一層鋭き剣であって、人の魂のあらゆる複雑なる関係をもこれを切り離してその善悪を区別し、人の霊のあらゆる隠れたる部分をもこれを露出してその罪を示し、かくして人間の心の全部を暴露してこれを審判(さば)かずば止まない。
辞解
[精神と霊魂] 「魂と霊」とも訳することができ、魂は人間の生命の原動力、霊は神に通ずる神秘的の働き。

(こころ)(おもひ)志望(こころざし)とを(ため)すなり。

註解: (ため)す」は「験査し審判する」意味を持つ kritikos であって、神の言によって我らの心中の企図や思想が審判され、その善悪良否が定められる。要するに神の言によりて人間の心の如何なる奥底も如何なる部分も(さば)かれ(あら)わされぬということはないこの両刃の剣は活殺自在の剣であって、罪を示してこれを悔改めしめ、罪に留まる者を(さば)きてこれを死に至らしめる。

4章13節 また(つく)られたる(もの)(ひと)つとして(かみ)(まへ)(あらは)れぬはなし、(よろづ)(もの)(われ)らが(かかは)れる(かみ)()のまへに(はだか)にて(あらは)るるなり。[引照]

口語訳そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
塚本訳かくて創造物は(何一つ)神の前にあらわれないものはない。(然り、)神の目には万物が裸で姿をあらわし、わたし達はこのお方に対して、勘定を払わねばならないのである。
前田訳ひとつとして、造られたものは神の前に隠れえず、すべて彼の目には裸であらわで、彼に対してわれらは責任があります。
新共同更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
NIVNothing in all creation is hidden from God's sight. Everything is uncovered and laid bare before the eyes of him to whom we must give account.
註解: 前節に神の言につき述べつつある場合に、著者の眼中に既に神の臨在を感じ、従って問題は自然に神の言より神に移って来たのである。そして神の前には(ただ)に我らの霊魂の内部まで割たれるのみではなく、凡ての被造物が例外なくその前に立たなければならず、かつ裸であってその如何なる部分も被い隠されず、赤裸々なる無力の姿にて現われる。従ってその被造物の一たる人間も、神に対しては絶対に自己を掩い隠すことができず、あらゆる無力も不信仰も虚偽もそのままに露出されるのである。
辞解
[我らが(かかは)れる神] 「我らと交渉を持っている神」の意味で、我らの凡ての状態は神の前に責任があることを示す。
[(あらは)るる] 原語 trachêlizein は難解の語で、普通相撲等において首を取って仰向けに倒し、顔も胸もみな人の前に露出する意味で、ここでもこれを転用して被造物は力ある神の前に倒され、全身を露わされ、その無力の状態を明らかにされることを意味するであろう(A1)難解の文字で異説多し。
要義 [3:1−4:13の要約]ヘブル書三、四章はその主要の目的は信仰の後退、死滅を警戒したのであって(3:6、12−13。4:1)、警戒を必要とする理由として彼らヘブル人らが神の選民であるにもかかわらずその不信仰の故に(3:15−17。4:2)荒野にて亡ぼされし実例を掲げ(3:7−11)、彼らすらその不信仰の故に(3:17。4:2)神の怒りを()き神の安息に入ることを得ないならば、神の家の僕たりしモーセにもまさりて、子として神の家に忠実に在し給いしイエスによりて選ばれしキリスト者も、もし不信仰に陥るならば同様に神の安息を失い荒野に死ぬに至るであろうことを示している(4:1)。そして詩篇の教える処より考えるならば(4:3、10−12)、神の安息は今日もなお(4:7)残っているのであって、我らは努力してこの休みに入らなければならない(4:11)。そしてこの休みは信仰の奥義であって我らの業を休みて神に絶対帰依の信頼をささぐることである(4:10)。神の言は我らの心中をくまなく切開してその中の不信仰を指示し、我らを裸にして彼の前に凡てを暴露し給う(4:12、13)。ゆえに我らの不信仰はついに神の前に隠れることができない。神の審判は我らの不信仰の上に降るであろう。

1-3 大祭司としてのキリストを示して信仰の進歩をすすむ 4:14 - 6:20
1-3-イ 試誘(こころみ)に対するキリストの憐憫 4:14 - 4:16  

註解: 4:14−10:18において著者は大祭司としてのキリスト(ヘブ2:17ヘブ3:1に既に示されし)につきてその諸相を論じており、就中(なかんずく)ヘブ6:20において人なる大祭司としてのキリストを示し、彼に対する信仰をすすめている。ただしこれは神学的論争や聖書の解釈論を目的としたのではなく、みな信徒の実行をもってその目的としたのである。そしてまず第一に信仰を堅く保たんとする場合に我らの経験する弱さにつきキリストの憐憫と助けとを受けんがために、祈りをもって彼の恵みの御座に来るべきことを薦めている。

4章14節 我等(われら)には、もろもろの(てん)(とほ)(たま)ひし(おほひ)なる(だい)祭司(さいし)(かみ)()イエスあり。()れば(われ)らが()ひあらはす信仰(しんかう)(かた)(たも)つべし。[引照]

口語訳さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
塚本訳(話を本筋にもどしたい。)──それで、わたし達には、(この世の大祭司が聖所を通って至聖所に入るように、)もろもろの天を通(って天の至聖所に入)られた、(この)偉大なる大祭司、神の子イエスがあるのだから、わたし達の告白(する信仰)を固く守っていようではないか。
前田訳われらにはもろもろの天をお通りの大祭司である神の子イエスがいますので、われらの告白する信仰に堅く立ちましょう。
新共同さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
NIVTherefore, since we have a great high priest who has gone through the heavens, Jesus the Son of God, let us hold firmly to the faith we profess.
註解: 私訳「さて我らは諸天を通り給いし偉大なる大祭司神の子イエスを有てば、我ら〔信仰の〕告白を確保すべし」。ここに「さて」と言いてヘブ3:7以下によりて中断せられし思想を再びヘブ3:1の大祭司の思想と結び付けている。そしてこの大祭司は「偉大なる」大祭司であって、レビ族の中より選ばれる大祭司に優り「諸天を通り」て神の右に坐し給うが故にエルサレムの聖所を通って至聖所に入る大祭司に優り給う。この大祭司は神の子イエスである。それ故に我らは再びユダヤ教的神殿の礼拝や形式的信仰に堕落することなく、我らの信仰の告白がユダヤ教の完成であり、最高の真理であることを知りて堅くこの信仰の(告白)を保持しなければならぬ。
辞解
[さて] (▲ oun が本文にあり訳文の中に欠けているがこれは「さて」、「されば」等と訳される語である。)普通「然れば」と訳される oun でここでは前節を受けるにあらず、また改訳本文およびデリッチの説のごとく本節後半に連関するにあらず、(さき)に述べし処を顧みて新たにその思想を再述する場合として用いられたのである。ゆえに「さて」と訳することが適当であろう。

4章15節 (われ)らの(だい)祭司(さいし)(われ)らの(よわき)(おも)()ること(あた)はぬ(もの)にあらず、(つみ)(そと)にして(すべ)ての(こと)、われらと(ひと)しく(こころ)みられ(たま)へり。[引照]

口語訳この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
塚本訳なぜなら、わたし達の大祭司は、わたし達の弱さに同感することの出来ない(ような)方でないからである。むしろどの点からしてもわたし達と(全く)同様に誘惑された。ただし罪は犯されなかった。
前田訳彼はわれらの弱さを共に悩みえない大祭司ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべてについてわれらと同じく試みられた方です。
新共同この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
NIVFor we do not have a high priest who is unable to sympathize with our weaknesses, but we have one who has been tempted in every way, just as we are--yet was without sin.
註解: 信仰を(かた)く保たんとする場合に起る最も大なる障害は種々の試誘(こころみ)試錬である。もしキリストが我らの弱さ(肉にも霊にも)を知りてこれに同情を垂れ給わないならば、キリストは唯厳格なる審判人として我らを恐れしむるに過ぎないであろう。もし然らば弱きを感ずる者はキリストを嫌い、かえって同じ人間なる大祭司を慕わしく感ずることであろう。然るに事実は然らず、人としてのキリストは凡てのことにおいて(肉的にも霊的にも)我らと全く同様に誘われ給い、完全にこの弱さを有ち給うた。唯我らと同じからざりし唯一の点はこの誘いによりて罪に陥り給わなかったことのみである。ゆえに信仰確保の妨害となるべきあらゆる試誘(こころみ)試錬に際して、我ら弱きを感ずる時、キリストは我らの凡ての苦痛を知悉(しりつく)してこれを憐み給う。そして憐みをもってこれに恵みを与え力付け給う。
辞解
[思ひ遣る] sympatheô = sympathize ヘブ5:2の「思い遣る」は他の語を使用している故これと区別するために「同情し」とする方が宜しからん。
[罪を外にして] 試みられても罪を犯すことなしに。

4章16節 この(ゆゑ)(われ)らは憐憫(あはれみ)()けんが(ため)、また(をり)()(たすけ)となる(めぐみ)()んがために、(はばか)らずして(めぐみ)御座(みくら)(きた)るべし。[引照]

口語訳だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
塚本訳だからわたし達は安心して恩恵の御座に近づこう。そして(彼から)憐れみを受け、また時宜を得た助けとなる寵愛を得ようではないか。
前田訳それゆえわれらははばからず恵みのみ座に近づきましょう。そこであわれみを受け、時にかなった助けにあずかるよう恵みをいただきましょう。
新共同だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
NIVLet us then approach the throne of grace with confidence, so that we may receive mercy and find grace to help us in our time of need.
註解: 信仰の生涯において試誘(こころみ)のために己の弱きを覚える時、我らは神の憐憫とその助けとを得なければならない。然らざれば我らこの試みに負けて信仰より堕ちるに至るであろう。そしてこの憐憫と助けとを得るがために我らは如何に弱くとも大胆に躊躇せずに神の御座の前に来ることができる。その故は神の御座は審判の御座ではなく、イエス・キリストその右に坐し給い、我らの弱きを思いやって我らのために執成し、父より恩恵と機に合う助けとを受けてこれを我らに与え給うからである。ゆえに信仰を堅く保つことは要するに自己の力によるのではなく、大祭司なるキリストの恵みによること故、何人にとっても可能である。
要義 [誘われて罪を犯し給わざりしキリスト]キリストは凡てにおいて我らと同じく誘われ給うた。彼は性慾においても食慾においても名誉、財宝、権勢等の慾においてもみな我らと同じく誘われ給うた。否彼はこれらの凡てにおいて人類中の何人よりも強き力をもって誘われ給うた。(サタンは力あるものを強く誘うことは不動の事実であるから)このことを思う時我らの心は一層キリストに近きを感ずるのである。彼が罪なき唯一人の人に在し給いしことは、彼が木石のごとくに誘惑に対して無感覚であったからではない、彼は非常に強くこれを感じ給うたにもかかわらず彼が罪を犯し給わざりしことに彼の貴さがあるのである。
そして彼が罪を犯し給わざりしは彼に罪を犯す能わざりし特質の性質があったからではない。彼の意思は完全に神に服従し給いしが故に如何なる強き誘惑も彼の意思を動かすことができなかったのである。我らも信仰を堅く保たんとして努力する時、我らの弱きを覚えて失望せんとする。しかしながら我らは失望するの必要がない、キリスト御自身我らと同じく弱きを覚え給うた。唯我らはキリストを信じ、彼の中に居りキリスト我らの中に居り給う時、彼の意思をもって我が意思とすることによりて罪を犯さざるに至ることができる。かかる状態に至らんがために我ら恵みの御座に(はばか)らずに進まなければならない。