黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1ペテロ書

第1ペテロ書第1章

分類
1 冒頭の挨拶 1:1 - 1:2

1章1節 イエス・キリストの使徒(しと)ペテロ、[(ふみ)を]ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ピテニヤに()りて宿(やど)れる(もの)[引照]

口語訳イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、
塚本訳イエス・キリストの使徒(なるわれ)ペテロ(より、)ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ及びビテニヤの「離散民」、(すなわち)選ばれた仮寓者(なる君達クリスチャン)に(手紙を遺る。)──
前田訳イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテア、カパドキア、アジア、ビテニアに散在して仮住いする選ばれた人々へ。
新共同イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
NIVPeter, an apostle of Jesus Christ, To God's elect, strangers in the world, scattered throughout Pontus, Galatia, Cappadocia, Asia and Bithynia,

1章2節 (すなは)(ちち)なる(かみ)(あらか)じめ()(たま)ふところに(したが)ひて、御靈(みたま)(きよめ)により柔順(じうじゅん)ならんため、イエス・キリストの()(そそぎ)()けんために(えら)ばれたる(もの)に[(おく)る]。(ねが)はくは恩惠(めぐみ)平安(へいあん)(なんぢ)らに()さんことを。[引照]

口語訳すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
塚本訳君達は父なる神の予定に循い、御霊の聖潔によって、従順とイエス・キリストの血の潅ぎに与らんために選ばれたのである──恩恵と平安、(いよいよ)君達に豊かならんことを!
前田訳その選びは父なる神の先見と霊のきよめとイエス・キリストが従順に血をそそがれたことによるものです。恵みと平安があなた方に満ちますように。
新共同あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
NIVwho have been chosen according to the foreknowledge of God the Father, through the sanctifying work of the Spirit, for obedience to Jesus Christ and sprinkling by his blood: Grace and peace be yours in abundance.
註解: 私訳「イエス・キリストの使徒ペテロより、父なる神の予知する処に(したが)い、御霊の(きよめ)により、柔順とイエス・キリストの血の(そそぎ)とのために選ばれたる、散っている寄寓者の、ポント・・・・・・ベテニヤに在る者に〔書を送る〕」。この書簡の発信人はイエス・キリストの使徒ペテロで、彼はパウロのごとく「神の召しによる」ことを強調する必要を認めなかった(ロマ1:1Tコリ1:1Uコリ1:1等比較)。何人も彼の使徒たることを疑わなかったからである。受信人は小アジヤ地方における「選ばれたる散り居る寄寓者」である。キリスト者は神に「選ばれたる者」であり、またあたかもユダヤ人が本国を逐われて異邦人の間に散り居る(diaspora)と同様に本国なる天の国よりこの世に遣わされて世の人の中に「散り居る」者であり、従ってこの世において旅人であり、また「寄寓者」である。この三条件はキリスト者のこの世に対する関係の要約である。そして第2節は、キリスト者のかかる地位に立つに至れる「原因」en「手段」dia および「目的」 eisを示す。すなわち神は救うべきものを予定し預知してこれを救いに入れ給いしことがその原因であり、また罪に汚れし人類を聖霊によりて罪より聖めて新生せしめ給うことがその手段であり、そして「柔順」換言すれば[信仰の柔順](ロマ1:5ロマ16:26)を得しめ、および「イエスの血の(そそぎ)」を受けしむることによりて日々の罪より洗い潔められること(Tヨハ1:7)がその目的である。ここに神、キリスト、聖霊の三位の神の各々の働きが明らかにせられ、多くの迫害の中に在る選ばれたる寄寓者の神との関係の実に尊きものであることを示す。

分類
2 キリスト信徒の身分及び信仰 1:3 - 2:10
2-1 讃美 1:3 - 1:5

1章3節 ()むべきかな、(われ)らの(しゅ)イエス・キリストの(ちち)なる(かみ)[引照]

口語訳ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
塚本訳讃美すべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神!彼は大なる憐憫により、イエス・キリストが死人の中から復活し給うたことをもって、私たちを活ける希望に新しく生み、
前田訳ほむべきはわれらの主イエス・キリストの父なる神です。神は大きなあわれみによってイエス・キリストを死人の中からよみがえらせて、われらを生ける望みへと新たにお生みでした。
新共同わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
NIVPraise be to the God and Father of our Lord Jesus Christ! In his great mercy he has given us new birth into a living hope through the resurrection of Jesus Christ from the dead,
註解: パウロの場合のごとく(Uコリ1:3エペ1:3)ペテロもまた神に対する讃美をもって書簡の本文を始めている。そして神をキリストの父と呼び、常に神とキリストとを不離の関連において眺めているのが使徒たちの信仰であった。

その(おほい)なる憐憫(あはれみ)(したが)ひ、イエス・キリストの死人(しにん)(うち)より(よみが)へり(たま)へることに()り、(われ)らを(あらた)(うま)れしめて()ける(のぞみ)(いだ)かせ、

註解: 神を讃美すべき第一の理由は我ら(ペテロ自身をも含む)が罪と死と希望なき暗黒の中より「生ける望みに新生せしめられしこと」(直訳)である。これ自己の力によらず「神の大なる憐憫(あわれみ)による」のであり、またロマ6:4Tコリ15:17に示すごとく「イエスの復活」がその起因である。
辞解
[憐憫(あはれみ)(したが)ひ] kata = according to は「新に生れしめ」に関連す。
[甦り給えることに由り] dia = through は「新に生れしめ」に関連せしむる説(A1、M0)と「生ける」に関連せしむる説(B1、Z0)とあり。「生ける望に新生せしめ」の全体に関連せしむるを可とす。
[生ける望] 新生によって獲得する希望は、永遠の生命の希望であり、そして希望を懐く心もまた生きて働いている。この凡ての意味において「生ける望」は適切なる名称である。望みなき死の状態の反対。

1章4節 (なんぢ)らの(ため)(てん)(たくは)へある、()ちず(けが)れず(しぼ)まざる嗣業(しげふ)()がしめ(たま)へり。[引照]

口語訳あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
塚本訳君達のために天に保管されている、朽ちぬ、穢れぬ、萎まぬ相続財産に与らせ給うたのである。
前田訳それはあなた方へと天に貯えられた、朽ちず汚れず衰えぬ遺産を継ぐためです。
新共同また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。
NIVand into an inheritance that can never perish, spoil or fade--kept in heaven for you,
註解: 前節の「生ける望」の内容の説明、地上の生けるものはすべて腐朽(ふきゅう)汚損(おそん)萎微(いび)すべき運命を持つ。然るに「汝ら」すなわち神の子らのために天に蓄えある嗣業(相続財産)は「生ける」にもかかわらず永遠に存続して腐朽(ふきゅう)せず、また罪咎のために汚損(おそん)せられず、また植物のごとく(しぼ)み枯れてその美を失うごときがない。

1章5節 (なんぢ)らは(をはり)のときに(あらは)れんとて(そなは)りたる(すくひ)()んために、信仰(しんかう)によりて(かみ)(ちから)(まも)らるるなり。[引照]

口語訳あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
塚本訳(そして)君達は最後の時に顕れる準備の(既に)出来ている救いに入るために、信仰によって神の力に護られる。
前田訳あなた方は信仰によって神の力にお守られです。それは終わりの時に啓示されるよう、今そなえられた救いのためです。
新共同あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。
NIVwho through faith are shielded by God's power until the coming of the salvation that is ready to be revealed in the last time.
註解: (ただ)に天の嗣業そのものが永久不変であるのみならず(前節)これを嗣ぐべき「汝ら」もまた信仰により神の護りによりて永遠の救いに入ることができる。かかる大なる恩恵に与ることを得しめんがために我らをその大能をもって護り給う神は讃むべきかな。
辞解
本節は前節の「汝ら」の同格的説明で・・・・・・護られる汝らのために云々となる。ゆえに日本文としては5節を4節より先に読む方がよい。
[(あらは)れんとて] apokaluphthênai すでに存在するけれどもなお隠されているものの顕現を意味する。ゆえにこの場合の「救」は罪より救われ義とされることではなく、朽つべき肉とこの世とより永遠の国に救い入れられ永遠の嗣業を嗣ぐことを意味する(ロマ5:9−10)。
[(そなは)りたる] 顕われる準備が出来上がっていること、キリスト十字架の贖罪を完成し神の右に在し給う以上、いつでもその再臨があり得る。この一節はキリスト者が終りの時まで安全であることの原因(en)は神の力であり、その道程または手段(dia)は信仰であり、その目的(eis)は救いであることを示す。▲2節の場合と同様の前置詞を用い、同様の真理を語っていることに注意すべし。(2節註参照)

2-2 試煉と救拯の希望 1:6 - 1:12

1章6節 この(ゆゑ)(なんぢ)(いま)しばしの(ほど)さまざまの試煉(こころみ)によりて(うれ)へざるを()ずとも、なほ(おほい)(よろこ)べり。[引照]

口語訳そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
塚本訳(もちろん)その時には(大いに)喜ぶ(であろう)が、もし(御意により)必要ならば、今は少し様々な試練に(悩み)悲しまねばならない。
前田訳それゆえたとえ、今しばらくは種々の試みに悲しまねばならずとも、あなた方はおよろこびなのです。
新共同それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、
NIVIn this you greatly rejoice, though now for a little while you may have had to suffer grief in all kinds of trials.
註解: 「この故に」すなわち3−5節の新生とこれに伴う生ける望みと神の護りとあるが故に、現在暫くは多くの試練に遭うとも、これらに打勝ち歓喜に溢れていくことができる。(注意)本節末尾を「終の時には大に喜ばん」と訳すべしとする学者が多い(M0、A1、I0、Z0)。なお「喜べり」を「喜べ」と訳することもできる。いずれによるも誤りではない。

1章7節 (これ)(なんぢ)らの信仰(しんかう)(ためし)は、()つる(きん)()にためさるるよりも(たふと)くして、イエス・キリストの(あらは)(たま)ふとき(ほまれ)光榮(くわうえい)尊貴(たふとき)とを()べき((ため))なり。[引照]

口語訳こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
塚本訳これは君達の信仰が、火によって本物であると証明された(この世の)はかない金よりも尊い本物であることが判り、イエス・キリストの顕現の時に(君達の)面目また光栄また栄誉とならんためである。
前田訳火で真正さを試された金でも滅びますが、それよりも尊いのはあなた方の信仰の真正さです。それはイエス・キリストの顕現のとき讃美と栄光と誉れになります。
新共同あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
NIVThese have come so that your faith--of greater worth than gold, which perishes even though refined by fire--may be proved genuine and may result in praise, glory and honor when Jesus Christ is revealed.
註解: 本節は前節の試煉を与うる目的を示す。火をもて精煉されし金は貴いけれども、金は世界の滅亡と共に崩壊に帰してしまう。すなわち試煉によって鍛煉されてこれに打勝って出て来る信仰はこの金よりもはるかに貴く、世の終りにキリスト再臨し給い古き天地が滅ぶるに当ってもこの信仰は栄誉と光栄と尊貴の中に置かれるのを見るであろう。試煉を経来(へきた)れる信仰の永遠の貴さを思うべきである。
辞解
[信仰の(ためし)] (ため)されし信仰」というごとき意味。
[()つる金] 物質中最も永続的なる金もこれを壊滅に帰せしむることができる。
[(ほまれ)] 神より受くるもの(マタ25:21ロマ2:29Tコリ4:5)と、神に関するもの(エペ1:6エペ1:12エペ1:14)とがある。本節は前者の場合。
[光榮(くわうえい)尊貴(たふとき)] 元来神のものであるけれども(Tテモ1:17)神はこれを人に与え給う(ロマ2:7ロマ2:10詩8:6)(I0)。

1章8節 (なんぢ)らイエスを()しことなけれど(これ)(あい)し、(いま)()ざれども(これ)(しん)じて、()ひがたく、かつ光榮(くわうえい)ある喜悦(よろこび)をもて(よろこ)ぶ。[引照]

口語訳あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
塚本訳君達は彼を(目のあたり)見たことはないが、(これを)愛し、今も見ることは出来ないが、(これを)信じて、(既にかの日の)輝きに満ちた、言語に絶する喜悦を喜んでいる。
前田訳あなた方はお会いせずして彼を愛し、今見ずとも彼を信じ、口にいえぬ栄化されたよろこびで歓呼なさっています。
新共同あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
NIVThough you have not seen him, you love him; and even though you do not see him now, you believe in him and are filled with an inexpressible and glorious joy,
註解: 見ずして愛する愛は偉大なる愛である。また「見ずして信ずる者」(ヨハ20:29ヘブ11:1ヘブ11:27)は福である。彼らは試煉の中においてイエスを愛しまた彼を信じてその顕現を待望みつつ喜悦に溢れていた。かかる喜悦こそ真に言語に絶し、神の光栄に充ち、この世の喜悦とは全く異なったものであった。ペテロは苦難の中にある彼らのこの信仰の態度を極力賞揚している。(注意)6節の「注意」の場合と同じく本節後半も「今は見ずして信ずれども〔後には〕言い難くかつ光栄ある喜びをもて喜ばん」との意味に解する学者もあるが(M0、A1、Z0)、かく解さなければならない理由を認めない。

1章9節 これ信仰(しんかう)(きはみ)、すなはち靈魂(たましひ)(すくひ)()くるに()る。[引照]

口語訳それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。
塚本訳信仰の目標なる霊魂の救いを獲るからである。
前田訳それは信仰の究極である魂の救いをお受けだからです。
新共同それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
NIVfor you are receiving the goal of your faith, the salvation of your souls.
註解: 前節のごとき歓喜を試煉の中に味わうことを得る理由は、彼らの霊魂が艱難によって滅亡に帰することなく、すでに救われているからである(マコ8:35)。而してこの霊魂の救いは信仰の終局目的であって、キリスト再臨の時に実現するけれども今すでに信仰をもって現にこれを握っているのである(現在動詞)。それ故にこの喜悦を有つことができる。
辞解
[受くる] komizô 自己のものの取り返し(マタ25:27)、当然受くべき報償の獲得(Uコリ5:10エペ6:8コロ3:25)、約束のものの受領(ヘブ10:36)等を意味する。霊魂の救いは信仰の当然の報いである。

1章10節 (なんぢ)らの()くべき恩惠(めぐみ)預言(よげん)したる預言者(よげんしゃ)たちは、この(すくひ)につきて(つぶさ)(たづ)(しら)べたり。[引照]

口語訳この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。
塚本訳君達への恩恵について予言した予言者達はこの救いを穿鑿し、研究した。
前田訳預言者たちがたずね求めたのはこの救いについてでした。彼らはあなた方への恵みについて預言したのです。
新共同この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。
NIVConcerning this salvation, the prophets, who spoke of the grace that was to come to you, searched intently and with the greatest care,
註解: 10−12節に前節の救いが極めて広遠なる意義を有することを述べている。すなわち異邦人すらも受けるべきこの恩恵(13節)は永遠の昔より神の経綸の中にあった処のものであり、またこれを預言した多くの偉大な預言者の探求の目的であった。単に一時的の思い付きではない。
辞解
[恩惠(めぐみ)] この場合「救い」と同意義、「救い」は5節9節の場合と同じくキリスト再臨の時の救いの完成を意味する。

1章11節 (すなは)(かれ)らは(おの)(うち)(いま)すキリストの(れい)の、キリストの[()くべき]苦難(くるしみ)および()(しりへ)榮光(えいくわう)(あらか)じめ(あかし)して、何時(いつ)のころ如何(いか)なる(とき)(しめ)(たま)ひしかを(しら)べたり。[引照]

口語訳彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。
塚本訳(すなわち)彼らは自分達の中のキリストの霊が、キリストに臨む苦難とその後の栄光とについて予め証明し給うたのは、(そもそも)何時、如何なる時を指していたかを研究した。
前田訳彼らは、いついかなる時を彼らのうちにあるキリストの霊が指し示すかをたずねました。この霊がキリストに備えられた苦難と、それにつづく栄光とを予告したのです。
新共同預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。
NIVtrying to find out the time and circumstances to which the Spirit of Christ in them was pointing when he predicted the sufferings of Christ and the glories that would follow.
註解: 預言者たちには先在のキリストの霊が宿り、キリストの種々の受難とその諸々の栄光とを預証し、さらに進んでこれが実現する時期およびその時勢の如何につき熱心に研究した。キリストの十字架は凡ての時代の預言者の中心問題であった。
辞解
[己が中に在すキリスト] キリストの先在を認めている(Tコリ10:4ヨハ8:58コロ1:15)。
[栄光] 複数を用いている。すなわちキリスト十字架につき給いし後復活し、昇天し、神の右に在して支配し給うこと、多くの聖徒によりて栄められること等凡てこの栄光の種類である。
[如何なる時] その時期に如何なる事が起っているか、すなわちその時期の態様。

1章12節 (かれ)()はその(つと)むるところ(おのれ)のためにあらず、(なんぢ)らの(ため)なることを默示(もくし)によりて()れり。[引照]

口語訳そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。
塚本訳そして(その結果、自分達はキリストの苦難と栄光を見ることが出来ず、かえって君達がその恩恵に与ること、すなわち)彼らの奉仕は自分達のためでなく、(後の世の)君達に対するものであることを黙示されたのである。(そして)その奉仕したものこそ、天から遺わされた聖霊によって君達に福音を宣べ伝えている人達が今君達に告げているものであり、天使たちも一目見たいと願っているものである。
前田訳彼らに啓示されたことは、彼らは自らにではなく、あなた方に仕えた、ということでした。それは今や天からつかわされた聖霊によってあなた方に福音を伝えた人々を通じて明らかにされました。これは天使たちも見入りたく思うものです。
新共同彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。
NIVIt was revealed to them that they were not serving themselves but you, when they spoke of the things that have now been told you by those who have preached the gospel to you by the Holy Spirit sent from heaven. Even angels long to look into these things.
註解: 私訳「これらの事に(つか)うるは己らのためにあらずして汝らのためなることが彼らに黙示せられたり」。「これらの事」とはキリストの苦難およびその栄光に関すること、「(つか)うる」とはこれを探求しこれを宣伝(のべつた)えることを意味する。預言者たちがこの事に従事させられたのは「彼ら」すなわち預言者自身のためではなく、「汝ら」今この福音によりて救われる者のためであったことが彼らに黙示された。彼らはこの預言の実現が彼らの時代に起らないことを示されながらもなおこれを宣伝(のべつた)えることを()めなかった。現にこの預言が実現しているのを見つつある我らは苦難に耐え得ないはずはない。

(すなは)(てん)より(つかは)され(たま)へる(せい)(れい)によりて福音(ふくいん)()ぶる(もの)どもの、(なんぢ)らに(つた)へたる(ところ)にして、

註解: 私訳「これらの事は天より遣わされ給える聖霊によりて福音を宣ぶる者によって今汝らに伝えられ」。キリストの受難と栄光およびそのことがいついかなる時に起るか等の事柄は、旧約の預言者たちがしきりに探究した処であったが、今日に至って始めてそれが使徒らによりて異邦人のキリスト者に宣伝(のべつた)えられた。ゆえに今日使徒より福音を聴くことを得ることは預言者たちの切に求めて得ざりし処のものに接することであって非常なる幸福である。
辞解
[天より遣され給へる聖霊] ペンテコステの日の聖霊の降下(引照1)を指す。旧約の聖徒は天にある聖霊の感動を受け新約時代に至って聖霊はこの地上に降りここに住み給う。

御使(みつかひ)たちも(これ)(ねんご)ろに()んと(ほっ)するなり。

註解: キリストに関する事柄は預言者のみならず神に最も近き天使さえも充分にこれを知らず、唯神の御旨の中に隠されていた奥義であった。ゆえに御使いたちも「これらの事」(直訳)を事細かに視ることを切望した。ゆえにキリストが苦難を受けて今栄光の中に入り給えることを宣伝(のべつた)えられていることは絶大なる幸福である。我ら苦難の中に喜ぶは当然である。
辞解
[(ねんご)ろに視る] parakuptô 物に目を近づけて見ること。ヤコ1:25辞解参照。
要義1 [試煉の中に讃美歓喜せよ]試煉は火をもって金を吹分けるがごとく我らの信仰よりその不純物を除去して純金よりも貴き信仰となすの力がある。かかる信仰こそ神の約束し給う生ける望みを確保し、霊魂の救いに与りキリストより栄誉と光栄と尊貴とを与えられるのである。キリストを信ずる者にとっては試煉はかかる驚くべき結果を来すのであって、彼らは試煉の中に苦しみつつも神を讃美し、また言いがたきかつ光栄ある喜悦をもて喜ぶことを得る所以はここにある。
要義2 [預言と救拯]キリストの救いは単にそれだけの独立せる事実である場合には力が弱い。しかるにこれが数百千年の長日月(ちょうじつげつ)の預言によりて背景付けられている場合においては救いの事実は極めて広遠にして力あるものとなる。殊に預言者らがこの救いを預言せるのみならずその実現の時期と時世とにつき熱心に探求せるごときはこの救いの事実の淵源(えんげん)(=みなもと:広辞苑)の極めて遠きことを証明しているのである。ペテロがここに1:10−12節において救いと預言との関係を記したのは、深く味うべき事柄である。

2-3 聖潔のすすめ 1:13 - 1:17

1章13節 この(ゆゑ)に、なんぢら(こころ)(こし)(おび)し、(つつし)みてイエス・キリストの(あらは)(たま)ふときに、(あた)へられんとする恩惠(めぐみ)(うたが)はずして(のぞ)め。[引照]

口語訳それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
塚本訳だから君達の心の腰に帯をして、真面目で(あれ。そして)イエス・キリストの顕れ給う時君達に齎される恩恵に全き希望を置け。
前田訳それゆえ、あなた方の感覚の腰に帯して、あくまで冷静に心構えし、イエス・キリストの啓示に際して与えられる恵みを望んでください。
新共同だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
NIVTherefore, prepare your minds for action; be self-controlled; set your hope fully on the grace to be given you when Jesus Christ is revealed.
註解: 3−12節のキリストの救いとこれに対する望みとは、信徒がこの世に処する上において凡ての場合にその基礎となるべきものであった。ゆえに「この故に」といいて本節以下に種々の訓戒を与えている。まず第一にキリストの再臨の時に我らに持来さるべき恩惠(めぐみ)、すなわち身体の復活、永遠の嗣業の継承等を疑わずして「完全に」(直訳)望むべきことである。これがためには困難なる旅路を経なければならないゆえ、心の準備が大切である。
辞解
[腰に帯し] anazônnumi はむしろ「腰引きからげ」等のごとく衣の裾を端折りて帯をもって結ぶこと(新約聖書においてここに唯一回用いられる)。すなわち旅立ちの支度で、歩行の妨げとなるものを除くこと。ルカ12:35エペ6:14等の「腰に帯し」と多少異なる。
[慎みて] 心を不断に真面目に明せきに保ち良心の声を聞き得る状態に置くこと、すなわち飲酒、宴楽、肉慾等に心を奪われることの反対。
[恩惠(めぐみ)] 多くは現在の恩惠(めぐみ)の意味に用いられているけれども、ここでは未来における救いの恩惠(めぐみ)と見るを可とす(M0、Z0)。
[現れ給ふとき] apokalypsis これをも現在の意味に解せんとしてイエスの受肉、またはその初臨、または福音による罪の赦しの恩惠(めぐみ)等の意味に解する説あれども不適当にして、この文字をそのような意味に用いし例はない。イエスの再臨の意味に解すべきである。
[疑はずして] teleiôs は「全く」「完全に」等の意味、信仰は全きを要す。純粋無雑、少しの疑惑を挿まざる信仰は力がある。

1章14節 從順(じゅうじゅん)なる()()(ごと)くして、(まへ)無知(むち)なりし(とき)(よく)(なら)はず、[引照]

口語訳従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
塚本訳従順の子らしく(振舞い、)以前の無知な時の情欲に順うことなく、
前田訳従順の子として、かつて無知のときの欲に同ぜず、
新共同無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
NIVAs obedient children, do not conform to the evil desires you had when you lived in ignorance.
註解: 私訳「従順の子らとして」。従順の子らはすなわち信仰の輩というに同じ(2節註参照)。神とキリストを信ずるものはこれに対して従順である。それ故に前に神に(したが)わず、キリストのことにつき無知であったその時におけるがごとき慾に(なら)ってはならない。
辞解
[ごとくして] 原語ホース hôs は比較を意味する場合あり、または内容を基礎とせる根拠理由を意味する場合がある。「ごとくして」は前者、「として」「らしく」等は後者の場合である。本節においては後の場合が適当である。
[無知] agnoia は神を知らざること、従ってキリストを知らずキリスト者の望みを持たざることの意味に多く用いられている(Z0、M0)。
[慾] epithumia 罪深き欲求。
[(なら)ふ] suschematizô は schêma すなわち形相を同一ならしむること。

1章15節 (なんぢ)らを()(たま)ひし聖者(しゃうじゃ)(なら)ひて、(みづか)(すべ)ての行状(ぎゃうじゃう)(きよ)かれ。[引照]

口語訳むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
塚本訳君達を召し給うた聖なるお方に倣って、君達も凡ての生活において聖くなれ。
前田訳あなた方をお召しの聖なる方にならい、自らもすべての行ないにおいて聖なるものにおなりなさい。
新共同召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
NIVBut just as he who called you is holy, so be holy in all you do;
註解: 「潔かれ」は直訳「聖くせられよ」。今や我らは聖なる神に召されたのであれば彼を我らの模範とし、聖霊の力によりて我らの凡ての行状を神の恩恵を嗣ぐべき聖徒(13節)に相応しきものとしなければならない。
辞解
[行状] 生活の態度様子のこと。

1章16節 (しる)して『われ(せい)なれば、(なんぢ)らも(せい)なるべし』とあればなり。[引照]

口語訳聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
塚本訳「“われ聖ければ汝等も聖かれ”」と(聖書に)書いてあるからである。
前田訳聖書に、「聖なれ、われ聖なれば」とあるからです。
新共同「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
NIVfor it is written: "Be holy, because I am holy."
註解: イスラエルを召し給いし神がイスラエルに対してその聖ならんことを要求し給うた(引照参照)。このことはキリスト者に対しても同様に適用される。我らは自ら聖くなりて然る後に召されるのではない。聖なる神に召されたるが故に聖くなければならないのである。

1章17節 また(かたよ)ることなく各人(おのおの)(わざ)(したが)ひて(さば)きたまふ(もの)(ちち)()ばば、(おそれ)をもて()(やど)(とき)(すご)せ。[引照]

口語訳あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。
塚本訳そして依怙贔屓をせず、一人々々の業に応じて審き給うお方を“父と呼ぶ”なら、畏れをもって(この地上の)仮住まいの時を過ごせ。
前田訳おのおののわざによって公平にお裁きの方を父と呼ぶ以上、地に宿る間おそれをもってふるまいなさい。
新共同また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
NIVSince you call on a Father who judges each man's work impartially, live your lives as strangers here in reverent fear.
註解: 神は人を偏り見ず各人の行為の善悪をそのままに徹底的に審判し給う。そして我らはその神を父と呼び奉っている。ゆえに義しき父に対するごとき(おそ)れをもって神に対しなければならぬ。この(おそ)れの心は我らの行為を聖め肉の慾に従いて行動することを(まぬが)れさせる。神の愛を高調しすぎて彼に()れる者は罪に陥ることを(まぬが)れることができない。
辞解
[(かたよ)る] 人を(かたよ)り見ること(引照2)。
[各人の業] 業なる文字は単数にて記されている。多数の行為も結局一箇の人格より流れ出づる一箇の行為と見るべきであって、善か悪かである。
[呼ばば] 仮の条件または疑問の心を含まず「呼ぶ以上は」という意味。
[世に(やど)る時] 直訳「寄寓の時」。1-2節註参照。
[過せ] 直訳「行動せよ」「振舞えよ」で15節の「行状」と同語源。▲キリストの十字架により罪が赦されたことを信ずると称しながら、その行状を慎まない者があるのに対する大切な注意である。

2-4 信望愛に新生すること 1:18 - 1:25

1章18節 なんぢらが先祖(せんぞ)たちより(つた)はりたる(むな)しき行状(ぎゃうじゃう)より(あがな)はれしは、(ぎん)(きん)のごとき()つる(もの)()るにあらず、[引照]

口語訳あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、
塚本訳君達は“銀”や金のような朽つる物によらず、
前田訳ご承知のように、あなた方がむなしい先祖伝来の行ないからあがなわれたのは銀や金のような朽ちるものによらず、
新共同知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
NIVFor you know that it was not with perishable things such as silver or gold that you were redeemed from the empty way of life handed down to you from your forefathers,

1章19節 (きず)なく汚點(しみ)なき羔羊(こひつじ)(ごと)きキリストの(たふと)()()ることを()ればなり。[引照]

口語訳きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
塚本訳瑕のない穢れのない小羊のようなキリストの尊い血によって、祖先伝来の空な生活から“贖われた”ことを知っているからである。
前田訳きずなく、汚れなき小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
新共同きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
NIVbut with the precious blood of Christ, a lamb without blemish or defect.
註解: 13−17節の教訓を遵奉(じゅんぽう)せんがためにはキリスト者とせられしことのためにいかに高価なる代償が払われているかを知ることが必要である。すなわち我ら未だキリストの贖い(18節引照2)に(あずか)らない時は先祖以来の伝統に束縛せられ、内容なき行動を為しつつ無意味なる生活を送っていた(エペ2:1−3)。然るに今やかかる生活状態より贖い出されるに至ったのは、金銀のごとき朽つべきものをもって比較し得ざる高き価、すなわちキリストの貴き血によるのである。たしかにキリストは祭壇にささげられるべき(きず)なく汚点なき犠牲の羔羊(こひつじ)のごとくに罪なき完全なる人として、人類の罪を負って十字架上に血を流し給い、これによって我らが贖われたのである(マタ20:28Tコリ6:20)。キリスト者にしてもしこのことを考えるならば、その身分の貴さ、その身分に伴う義務の重大さを知って畏れをもってこの世を過さざるを得ないであろう。
辞解
[虚しき] mataios は内容の空虚なること、従って果を結ばざることは当然の結果である。
[先祖より伝りたる] 直訳「先祖の伝統」。宗教界においては人は祖先の足跡を執念に踏むことを喜び過ぎる傾向がある。ユダヤ人は殊に然り(B1)。
[(あがな)ふ] 対価を払いて現在の状態より脱せしむること。
[羔羊(こひつじ)] レビ4:32なる罪祭の羔羊(こひつじ)(M0)、出12:5の過越の羔羊(こひつじ)(A1、C1、Z0、E0)、イザ53:7羔羊(こひつじ)など種々に解せられている。前後の関係より見て過越の羔羊(こひつじ)と見ることが最も適当であろう。けえども必ずしも一定の羔羊(こひつじ)に限る必要はない。著者の思想も必ずしも局限せられていなかったであろう(G1、I0)。ヨハ1:29参照。
[瑕なく汚點なき] レビ22:18以下参照。

1章20節 (かれ)()(はじめ)(まへ)より(あらか)じめ()られたまひしが、この(すゑ)()(あらは)(はさ)れ(たま)へり。[引照]

口語訳キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。
塚本訳彼は天地開闢の前に選ばれてい給うたが、(この)末の世になって(はじめて)君達のために顕れ給うた。
前田訳彼は世のはじめ以前から予知され、時の終わりに際してあなた方ゆえにお現われでした。
新共同キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。
NIVHe was chosen before the creation of the world, but was revealed in these last times for your sake.
註解: キリストの血による贖いは我らにとって貴き事実たるのみならず、それは神にとっても極めて広遠なる預知と予定の計画の下に行われた事柄であって、この神の予知と予定の経綸とを離れてキリストを見る者は、彼の血の意義を解することができない。
辞解
[世の(はじめ)の前] マタ25:34エペ1:4等)宇宙の基礎が置かれる以前のこと、キリストはすでにこの時神の知り給う処であった。
[末の世] ヘブ1:1-2のごとくキリストの初臨以後その再臨に至るまでの一時期を末の世と称している。Tペテ1:5Uペテ3:3等はキリスト再臨以後の時をいう。
[顕はされ給へり] 私訳。隠れて存在し給いしキリストを神は世に遣わし給うた。

1章21節 これは(かれ)死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせて(これ)榮光(えいくわう)(あた)(たま)ひし(かみ)を、(かれ)によりて(しん)ずる(なんぢ)らの(ため)なり、[引照]

口語訳あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。
塚本訳(そして)君達は彼によって、彼を死人の中から甦らせて栄光を給うた神を信ずる者となり、斯くして君達の信仰はまた神に対する希望となった。
前田訳彼によってあなた方は、死人の中から彼を起こして栄光をお与えの神を信じるようになりました。それで、あなた方の信仰と望みは神にかかっています。
新共同あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。
NIVThrough him you believe in God, who raised him from the dead and glorified him, and so your faith and hope are in God.
註解: 神がイエスを遣わし給いし目的は「汝らの為」であった。そして我らキリストによらずして神を信ずることができず、従ってまたキリストを復活栄化せしめ給いし神以外の神を信ずることができない。キリストを遣わし給えるはこの神を信ぜしめんがためであった。

この(ゆゑ)(なんぢ)らの信仰(しんかう)希望(のぞみ)とは(かみ)()れり。

註解: 以上の諸点より考える時我らの信仰はイエスを死人の中より甦らしめ給える神を信ずることであり(ロマ4:24ロマ10:9)、我らの希望は栄光の中にキリストを再臨させ給う神を望むにある。ゆえにいかなる困難が来るともいかなる試煉に遭うとも我らの信仰や希望は動かない。

1章22節 なんぢら眞理(まこと)(したが)ふによりて靈魂(たましひ)をきよめ、(いつは)りなく兄弟(きゃうだい)(あい)するに(いた)りたれば、(こころ)より(あつ)(あひ)(あい)せよ。[引照]

口語訳あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。
塚本訳君達は真理に対する従順によって霊魂を聖め、偽らぬ兄弟愛を持ったのであるから、心から深く互いに愛せよ。
前田訳真理への従順によって魂をきよめ、偽りなき兄弟愛に至った以上、互いに心から愛しなさい。
新共同あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
NIVNow that you have purified yourselves by obeying the truth so that you have sincere love for your brothers, love one another deeply, from the heart.
註解: 信仰と希望につき訓戒を与えて後、進んで愛につきて重要なる教訓を垂れている。偽善的の愛ほど()むべきものはない(ロマ12:9)。そして「偽善的ならざる愛」(直訳)を持つ方法は真理に服従して霊魂を聖めることである。「真理」はキリストによりて啓示せられし福音の真理(B1)であって、これに服従することにより我らの霊魂は世と肉の汚穢より聖められ虚偽を脱却する。真の愛はかくして生ずる。そして愛の必要条件は単に外観や行動によって愛することではなく「心より」愛することと「熱く」一生懸命に愛することである。
辞解
[きよめ] hagnizô は主として聖き宮に仕えるために身を洗い潔める場合に用いられ(民8:21U歴29:5以下等およびヨハ11:55使21:24使21:26使24:18)、転じて道徳的純潔貞潔等の意味に用いられる。本節の場合にはペテロは信仰に入りてバプテスマを受くることを連想せしむるものと見ることを得(Z0)。
[熱く] ektenôs 緊張して、または一生懸命に等の意。

1章23節 (なんぢ)らは()つる(たね)()らで、()つることなき(たね)、すなはち(かみ)()ける(かぎ)りなく(たも)(ことば)()りて(あらた)(うま)れたればなり。[引照]

口語訳あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
塚本訳(君達は)朽つる種でなく、朽ちぬ種から、(すなわち)神の活ける、また(永遠に)消え失せぬ言によって新しく生まれたのである。
前田訳あなた方が新たに生まれたのは、朽ちる種からでなく、朽ちぬ種から、すなわち神の生きた変わらぬことばによるのです。
新共同あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
NIVFor you have been born again, not of perishable seed, but of imperishable, through the living and enduring word of God.
註解: 朽つる種、すなわち罪にっよって死すべきアダムの子孫として生れしものは(Tコリ15:42−53)この前節の命令を実行することができない(ロマ7:15以下)。朽ちざる種すなわち神より出て(ヨハ1:13)生命あり、朽腐(きゅうふ)(=朽ち腐ること:広辞苑)することなき神の言によりて生れし新生のみは永遠でありかつアダムの生命とは全く別種のものである。真の愛を行うことを得るはこれによるのである(Tヨハ5:1−3)。
辞解
本節を一層精密に訳せば「汝らは朽つる種より(ek)にあらず朽ちざる種より(ek)神の活ける限りなく保つ言に由りて(dia)新たに生れたれば」であって、ek は生命の源を示し、dia はこの生命を与うる手段方法を示す。この故に「朽ちざる種」と「神の言」とを同一物と見る説あれど(B1、I0、M0および本文「すなわち」)前者を聖霊(Z0)または神(A1)と見る方が可ならん(ヨハ3:5ヨハ3:8)。▲この解によれば「汝らは朽ちる種ではなく朽ちない種から神の活ける限り無い言に由って新生したからである」となるRSVも然り。

1章24節 (ひと)はみな(くさ)のごとく、その光榮(くわうえい)はみな(くさ)(はな)(ごと)し、(くさ)()れ、(はな)()つ。[引照]

口語訳「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
塚本訳何故なら“人はみな草”のよう“また”その“栄華はみな草の花のようである”。”草は枯れた花は落ちた”
前田訳「人はみな草のよう、その栄光はみな草の花のようである。草は枯れ、花は散る。
新共同こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
NIVFor, "All men are like grass, and all their glory is like the flowers of the field; the grass withers and the flowers fall,

1章25節 されど(しゅ)御言(みことば)永遠(とこしへ)(たも)つなり』[引照]

口語訳しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
塚本訳“しかし”主の“言は永遠に消え失せない”。これが君達に”宣べ伝えられた福音の言”である。
前田訳しかし主のことばはとこしえに残る」と(聖書に)あります。これこそあなた方に福音として伝えられたことばです。
新共同しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
NIVbut the word of the Lord stands forever." And this is the word that was preached to you.
註解: 新生命の優越をイザ40:6以下の引用をもって示している。すなわち肉の人の生命、またその智力、体力、道徳その他の光栄は草とその花のごとく有限にして凋落すべき存在にすぎない。然るに新生命の動因である主の御言、すなわち聖書に録され、キリストによりて語られ、使徒らによりて宣伝えられた処の言は、枯死凋落(こしちょうらく)することなき永遠の存在である。従ってこれによって生れしものには枯死がない。永遠の生命と光栄とを持つ。
辞解
[人はみな] 原語「凡ての肉は」とあり、肉は霊に対立し(ヨハ3:6)アダムにつける人の心身の全体を指す。

(なんぢ)らに宣傅(のべつた)へたる福音(ふくいん)(ことば)(すなは)ちこれなり。

註解: 我らに宣伝(のべつた)へられし福音の言とは即ちこの主の御言葉に外ならない。福音を聞くことを得し耳は福である。これを信ずる事を得し心は更に福である。
要義1 [畏怖の心]「(おそれ)をもて世に(やど)る時を過せ」(17節)。人間の肉の心は神の愛と神の義とを同時に信ずることに困難を覚える。ゆえにあるいは神の愛を高調することによりて神の義しき審判を無視し、神の(おそ)るべきことを忘れて罪に陥るもの、或は反対に神の審判を(おそ)れてその愛を信ずることができず、常に不安の中に生きているもの等がある。ペテロはここに一方に神の恩恵を疑わずして望むべきことを教えると同時に(13節)、神の審判を(おそ)れ、いかに少なる悪をも神は審判(さば)き給う処の厳格なる父であることを教えている。近代のキリスト者はむしろ神の愛を高調し過ぎる嫌いがある。
要義2 [信者の値]キリストの宝血によって救われしことは、救われし者にとって重大なる意義があるのみでなく神にとってさらに大なる意義がある。たしかに神は遠大なる計画の下にその愛しみ給う独り子を十字架につけるの苦痛を忍びてさえも、罪人なる我らを救い給うたのであって、救われし一人の罪人は神にとってかくも偉大なる価値があることを思うべきである。18−22節は信徒をしてこのことを覚らせるために録されているのであって、このことを充分に理解する場合に信徒は自然自己を(きよ)めることができるのである。

第1ペテロ書第2章
2-5 信仰に発育せよ 2:1 - 2:8

註解: 前章13節以下において信望愛をすすめしペテロはさらに進んで2:1−18節にこの状態において発育せんことを薦めている。

2章1節 されば(すべ)ての惡意(あくい)、すべての詭計(たばかり)僞善(ぎぜん)嫉妬(ねたみ)および(すべ)ての(そしり)()てて、[引照]

口語訳だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
塚本訳(君達はかく新しく生まれたの)だから一切の悪意と一切の欺瞞と偽善と嫉妬と一切の誹謗を脱ぎ捨て、
前田訳すべての悪と欺きと偽善と妬みとそしりとを捨て、
新共同だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
NIVTherefore, rid yourselves of all malice and all deceit, hypocrisy, envy, and slander of every kind.
註解: ▲この五悪は精神的団体には常に発生しがちな悪徳である。

2章2節 いま(うま)れし嬰兒(みどりご)のごとく(れい)(まこと)(ちち)(した)へ、[引照]

口語訳今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
塚本訳今生まれたばかりの赤ん坊として、まぜ物のない霊の乳を慕え、これで育って救いに入る(ことが出来る)ためである──
前田訳今生まれた赤子のように混りのない霊の乳を求めなさい。それによって救いへと成長するためです。
新共同生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
NIVLike newborn babies, crave pure spiritual milk, so that by it you may grow up in your salvation,
註解: 前章末尾に言えるごとく我らは神の言によりて新たに生れしばかりの嬰児であれば、最も嬰児らしき生活を行うべきである。これには棄つべきものと取るべきものとがある。棄つべきものはTペテ1:22の兄弟愛を害するあらゆる邪念で、ペテロはその中五種をここに掲げている。これらはいずれも教会の一致を(そこな)う悪徳で、最も嬰児らしからざる性質である。而して切に慕い求むべきものは、神の言葉の純粋なる乳である。ペテロは単に新たに信仰に入りしもののみを嬰児と言うにあらず、キリスト者はその永遠の相より見れば終生嬰児であって神の言の乳を慕いて生くるより外にない(Tコリ3:2ヘブ5:12の場合と乳の用い方を異にす)。
辞解
[悪意] 「悪意」以下「(そしり)」に至る五種の罪は内部の意思より外部の行為に達する順序に従って排列されているように見える。
[霊の] logikos はなお「言葉の」「真摯の」「理智的の」等の意あり、多くの学者は「言葉の乳」と訳し、前章末尾の神の言を受けるものと解す(C1、B1)。この説を採る。
[真の] adolos は「詭計(たばかり)」dolos の反対でかかる邪念を交えざる純真なる乳を意味す。

(これ)により(そだ)ちて(すくひ)(いた)らん(ため)なり。

註解: 嬰児は母乳を飲むことのみで成長発育する。これと同じく、悪意、詭計(たばかり)、誹謗等は人を殺すにすぎないのに反し、神の言の純粋なる乳は霊の発育を助け、終りの日に完全に救われるに至るのである。

2章3節 なんぢら(すで)(しゅ)仁慈(なさけ)あることを(あぢは)ひ[()り]たらんには、[(しか)すべきなり]。[引照]

口語訳あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
塚本訳もし“君達が主の美味しさを(本当に)味わった”のならば !彼に来い。
前田訳あなた方は主が尊いことを味わったはずです。
新共同あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
NIVnow that you have tasted that the Lord is good.
註解: 主の仁慈(なさけ)を味わいし者は、その甘味を忘れず、御言の乳を慕う。主の御言の乳によりて育つ者は益々主の仁慈(なさけ)の中に霊の成育を遂げ、主に似るに至り、悪意詭計(たばかり)等より遠ざかるに至る。

2章4節 (しゅ)(ひと)()てられ(たま)へど、(かみ)(えら)ばれたる(たふと)()ける(いし)なり。[引照]

口語訳主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
塚本訳彼は人からは(役に立たぬと)棄てられたが、神の前では、“選ばれた尊い”活きた“石”(である。)
前田訳彼のみもとにいらっしゃい。彼は人に捨てられても神に選ばれた尊い生きた石です。
新共同この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
NIVAs you come to him, the living Stone--rejected by men but chosen by God and precious to him--
註解: 本節および次節は主と我らとが有機的に一体として神の家であり神の祭司であることを示している。2、3節が主の言の乳によって養われる個々の信徒の信仰生活を示しているのと対比せよ。本節においてまずキリスト(前節の「主」を受けて)が「活ける石」に在し給うことと、ユダヤ人らは彼を呪いて十字架に()けたけれども、神は彼を選び、彼をして最も貴き贖いの業を成就せしめ給いしこととを記して主イエスの本質を明らかにし次節の説明の前提を与えている。ゆえに本節を充分に吟味して次節を理解する必要がある。
辞解
[活ける石] おそらくペテロの創成にかかる語であって意味深き語、要義を見よ。

2章5節 なんぢら(かれ)にきたり、()ける(いし)のごとく()てられて(れい)(いへ)となれ。これ(きよ)祭司(さいし)となり、イエス・キリストに()りて(かみ)(よろこ)ばるる(れい)犧牲(いけにへ)(ささ)げん(ため)なり。[引照]

口語訳この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
塚本訳そして君達自身も(主と同じく)活きた石として建てられて、霊の家となれ。これは君達が聖い祭司として、イエス・キリストによって神の御意に適う霊の供物を献げるためである。
前田訳あなた方も生きた石として霊の家をお建てなさい。それは聖なる祭司となって、イエス・キリストゆえに神によろこばれる霊のいけにえをささげるためです。
新共同あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
NIVyou also, like living stones, are being built into a spiritual house to be a holy priesthood, offering spiritual sacrifices acceptable to God through Jesus Christ.
註解: 私訳「なんぢらも彼にきたり活ける石として(M0)霊の家に建て上げられ潔き祭司となれ。これイエス・キリストに由りて神に喜ばれる霊の犠牲を捧げん為なり」。キリスト者およびキリスト教会の本質がこの一節に極めて適切に示されている。すなわちキリスト者は信仰によりて「キリストに来り」彼と霊の一致を保つことを要する。かくしてキリストと同じく「活ける石」となり不朽不変の生命に新生する。そしてかかるキリスト者は相互に孤立して関連なき存在ではなく、一つの「家」の各部分を構成し、互いに相寄り相連なりて一つの家屋すなわち完全なる教会を形成する。そしてこの家は「霊の家」であって肉の思いより来る制度、組織、儀式等よりなる家ではない。またこの家の各部分は固定される死物ではなく、同時に活ける潔き祭司として神の前に立っている。すなわちキリスト者はキリストに連なりて彼と同じく活ける石である、相互に相連なりて霊の家を形成し、神に対しては潔き祭司となったものである。かくして彼らは各々その与えられし地位において神に仕え、イエス・キリストによって神に喜ばれる霊の犠牲すなわち信仰の生涯を神に献げることができる(ロマ12:1、2)。
要義1 [活ける石]石としてのキリストは不変(ヘブ13:8)、礎石(Tコリ3:11)隅の首石(マタ21:42その他)躓く石(8節)審判の石(ダニ2:34)等を意味し、キリストの各方面を表徴している。しかしながら石は本来無生物なるがゆえに溌剌たる生命の躍動なく生物の神秘的なるに比することができない。ゆえにペテロはキリストを活ける石と呼び、石のごとくに不変なるキリストは同時に活きて(いま)し給い、そこに生命の溌剌たる躍動があるを示している。もしキリストの教会にこの生命がないならばそれは死ねる石である。もしまた生命があってもそれが霊的不朽な生命でないならばそれは死滅腐朽(ふきゅう)する。「活ける石」とは実にキリストおよびその教会の本質を示して余す処なき巧みなる名称である。
要義2 [霊の家]霊の家はキリストの教会を指す。この構成要素は活ける石(複数)なるキリスト者各人である。そしてこれらのキリスト者は各々その家の部分々々を組織しているのであって、決して材木小屋の木材や石屋の堆石のごとくに相互に無関係なものではない。キリスト者の各々はその賜わりたる霊の量と質とに(したが)い、相関連して神の家の重要なる役目を分担しているのである。ただし霊の家なるがゆえに、その霊の賜物の分担もまた霊的である。人為的制度によって賦与せられし職務の分担のごときはここにいう霊の家の組織ではない。
要義3 [潔き祭司]潔きは聖別されることを意味する。すなわちキリスト者は凡て祭司であって神に仕えるために聖別された者である。そして神に仕える方法は旧教の司祭のごとく神の祭壇の前に立ちて祭事の儀式を行うことではなく、或は官庁に、工場に、街路に、その到る処に神より与えられし職務に信仰をもって従事することである。この犠牲こそ神の喜び給う処のものである。この意味においてキリスト者は凡て祭司であり、従って別に祭司階級を必要としない。「ここに論ぜられる万人祭司主義の観念は(ただ)に特種司祭階級を認むるカトリックの教義に反対であるのみならず、聖言、聖典を(つかさど)る職務を有するものに教会における特権の重要さを帰し(神の委任による)救いを与うるに必要であると主張する者に反対である」(M1)。

2章6節 (此故(このゆゑ)に)聖書(せいしょ)に『()よ、(えら)ばれたる(たふと)(すみ)首石(おやいし)(われ)シオンに()く。(これ)依頼(よりたの)(もの)(はづか)しめられじ』とあるなり。[引照]

口語訳聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
塚本訳というのは“見よ、”われ“シオンに選びの石、尊き隅石を”置く”これを信ずる者は決して恥をかかされない。”と聖書にある。
前田訳それゆえ聖書にあります、「見よ、わたしはシオンに選ばれた尊い隅の親石を置く。彼を信じる者は恥を受けない」と。
新共同聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
NIVFor in Scripture it says: "See, I lay a stone in Zion, a chosen and precious cornerstone, and the one who trusts in him will never be put to shame."
註解: 前2節の証拠としてイザ28:16の自由なる引用を行っている。この一節は明らかにメシヤの預言であり、これがキリストにおいて実現した。
辞解
[依り頼む] 普通「信ずる」と訳されている pisteuô で、5節の「彼に来り」と同じ内容を意味する。
[辱しめられじ] キリスト再臨の時に栄光を受けるが故と解する説(M0)と、キリスト者が現在においてキリストに在りて受ける霊の恩恵の豊かさと解する説(B1、Z0)とがある。予は両者を含むと解す。

2章7節 されば(しん)ずる(なんぢ)らには(たふと)きなれど、(しん)ぜぬ(もの)には『造家者(いえつくり)らの()てたる(いし)は、(すみ)首石(おやいし)となれる』にて、[引照]

口語訳この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
塚本訳だから信ずる君達は光栄に与る(ことが出来る)が、信ぜぬ人達には”建築師が(役に立たぬと)棄てた石で、これが隅の首石、”
前田訳ですから、あなた方信じるものには尊いものですが、不信のものには、「家造りが捨てた石で、隅の親石になったもの、
新共同従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、
NIVNow to you who believe, this stone is precious. But to those who do not believe, "The stone the builders rejected has become the capstone, "

2章8節 『つまづく(いし)(さまた)ぐる(いは)』となるなり。[引照]

口語訳また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
塚本訳また”蹉跌の石、躓きの岩となった”。彼らは御言(を聴きながらこれ)に従わないので、(遂に)蹉跌するのであって、それはまた(神によって)彼らに定められたことである。
前田訳踏みはずしの石、つまずきの岩」です。彼らがつまずくのはみことばに従わないからで、そのように定められているのです。
新共同また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
NIVand, "A stone that causes men to stumble and a rock that makes them fall." They stumble because they disobey the message--which is also what they were destined for.
註解: キリストを信じる者と彼を信じない者との間にキリストは全く反対の価値を持ち給う。すなわちキリスト者にとってはキリストは「尊貴」そのもの hê timê であり、彼においてあらゆる崇敬と礼拝の対象を見出し、反対に彼を信じない者にとってはキリストは詩118:22およびイザ8:14の言が適応する。不信なる造家者らはキリストなる石を無視してこれを棄てた。然るにこの石は神より選ばれ家の隅の首石(おやいし)となり教会なる霊の家の礎石となり給うた。然のみならずこの石はさらに進んで彼ら不信者の躓きの石となり、その信仰を(さまた)げる岩となった。彼らはキリストに衝突して自ら破滅に帰し、彼に躓いて信仰を失うに至るのである。今日は不信者もなおキリストに敬意を表するがごとくに見ゆるのは一方信者がキリストに対する信仰が足りない結果である。
辞解
[「つまづく」「(さまた)ぐる」] 「つまづく」proskoptô と「(さまた)げる」skandalizô とは日本訳聖書には共に「躓く」と訳さるる場合が多い。然るに前者は強く衝突することを意味し、後者はこれによりて人の心に不信、嫌忌等の心を起させることを意味する。前者によりて人は破滅に帰し、後者によりて人は不信に陥る。なお一見「信ぜぬ者には隅の首石(おやいし)となれり」との意味に解すべきがごとくに見えるけれどもそうではない。

(かれ)らは(したが)はぬに()りて御言(みことば)(つまづ)く。これは()(さだ)められたるなり。

註解: 私訳「彼らは御言に(したが)わぬによりて躓く、彼らもかくあるべく置かれしなり」。「(したが)わぬ」は「信ぜぬ」と殆んど同意義であって(Tペテ1:2ロマ1:5参照)彼らすなわち信じないもの(ここではユダヤ人を主として指す)は上掲のごとき聖書の御言が歴然たるにもかかわらず、これを信ぜざるが故に岩なるキリストに衝突したのである。しかしこれ偶然ではなくパウロがロマ9−11章。殊にロマ9:22にいうごとく(その個所註参照)不従順なる者に対する神の当然の審判であった。

2-6 信徒の身分 2:9 - 2:10

2章9節 されど(なんぢ)らは(えら)ばれたる(やから)(わう)なる祭司(さいし)(きよ)國人(くにびと)(かみ)()ける(たみ)なり、[引照]

口語訳しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
塚本訳しかし君達は“選ばれた種族、王なる祭司、聖き民族、”神の“所有物なる民”(である。そして君達がかく神の所有物となったのは、)君達を暗から驚くべき光へと召し給うたお方の“功業を宣べるためである”。
前田訳しかしあなた方は選ばれた部族、王なる祭司、聖なる国民、神直属の民です。それはあなた方を闇の中からそのすばらしい光へとお招きの方のみわざをのべ伝えるためです。
新共同しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
NIVBut you are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, a people belonging to God, that you may declare the praises of him who called you out of darkness into his wonderful light.
註解: 「汝ら」は7節の「信ぜぬ者」の反対なる信者を指す。「選ばれたる族」以下の四つの資格はイザ43:20、21(七十人訳)および出19:5、6(七十人訳)よりの引用で、本来神がその民イスラエルに対して用い給いし称呼であった。ペテロはこれをキリストによって救われし神の子たちの教会に適用したのである。真のイスラエル(ロマ9:6ガラ6:16)はこれである。すなわち信じる者はこの世より「選び出されし種族」であり(引照1、ヨハ15:16ヨハ15:19)もはや世の思いと慾とに従って歩まない。また彼らは神との関係において「祭司」であって常に神の前に立ちて神に仕え、しかも「王なる」祭司であって、大祭司キリストと共に万有を支配する(ロマ5:17ロマ8:32)資格を持つ。また彼らは「聖き国民」(私訳)で神によりて聖別され、キリストを王として仰ぐ一の民であり、また彼らは神より見ればその「取って置きの民」であって神は特にこの群を自己のものとして愛し給う。
辞解
[神に()ける民] laos eis peripoiêsin の peripoiêsis は「保護し保存する」意味、意訳すれば「取って置きの民」と言うべきであろう。

これ(なんぢ)らを暗黒(くらき)より()して、(おのれ)(たへ)なる(ひかり)()(たま)ひし(もの)(ほまれ)(あらは)させん(ため)なり。

註解: 本節前半の四つの資格はみな神の賜物で、後半は神がかかる資格を賦与し給える目的を示している。すなわちこれ神が信徒をして神御自身の「あらゆる優越を宣揚(=世の中にはっきり示し表す:広辞苑)せしめんが為」(私訳)であった。この神は彼ら信徒をその本来の暗黒より神の「驚異(おどろく)べき光」(私訳)の中に召入れ給うたのである(引照5、コロ1:13)。神は自らの能力をもって人を救い出し、彼らをして自らの優偉さを宣揚せしめ給う。
辞解
[譽] aretê は複数形を用い「善良、栄光、偉大、崇高、智慧、正義、能力」(I0、C1)等人格的精神的道徳的のあらゆる優偉を指示す(B1、A1、I0、M0、Z0)。
[(あらは)す] exangelô は「宣揚する」意。

2章10節 [なんぢら](さき)には(たみ)にあらざりしが、(いま)(かみ)(たみ)なり。(さき)には憐憫(あはれみ)(かうむ)らざりしが、(いま)憐憫(あはれみ)(かうむ)れり。[引照]

口語訳あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
塚本訳(誠に)君達はかつては、「“非民”」(であったが)今や神の民、(前には神に)“憐れまれぬ者”(であったが)今や憐れまれる者(となった)。
前田訳「かつては神の民でなかったあなた方は今は神の民であり、かつてはあわれみのないものでしたが、今はあわれみをお受けです」。
新共同あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。
NIVOnce you were not a people, but now you are the people of God; once you had not received mercy, but now you have received mercy.
註解: 私訳「(さき)に民ならざりしものは今や神の民となり、(さき)憐憫(あわれ)まれざりし者は今や憐憫(あわれ)まれしものとなれり」。ホセ2:25の応用。ホセ2:25においては神に(そむ)けるユダヤ人を「非民」と呼び給う。本節においては神を知らない異邦人も、神にそむけるユダヤ人もこれを一団として「民ならざりし者」すなわち「非民」と呼び「神の民」と対立せしめている(なおロマ9:25参照)。前者は神の憐憫(あわれみ)を受けざるもの(すなわちその罪咎を審かれる立場におるもの)であり、後者は神の憐憫(あわれみ)によりてその罪を赦され、その憐憫(あわれみ)の中に生きているものである。ここに二つの全く相対立する集団につき叙べていることに注意すべきである。
要義1 [二種の民]5−10節においてペテロはキリストに属する者と然らざるものとの間に明瞭なる区別を置いている。あたかも旧約時代においてイスラエルと異邦人とを区別するがごとくである。そしてこの区別の標準はイスラエルの民が誤って誇りしごとき肉による系統ではなく、また今日のキリスト者の誤認するごとくキリスト教国民と異教国民、または教会員と然らざるものとの区別でもなく、信ずるや否や(7節(したが)うや否や(8節)にある。前者は神国民であり、後者は「非神国民」である。前者はキリストに連なり、後者は彼に躓く、前者は神の憐憫(あわれみ)の中に生き、後者はその審判の下に立つ。我らはそのいずれに属するやを自ら顧みるべきである。
要義2 [キリスト者の身分]9節は遺憾なくキリスト者およびその教会の身分を示している。人は自己の意思や努力修養によりてキリスト者となったのではなく、神に選ばれし族であり、神に対しては絶えずその前に立ちて彼に仕える祭司であり、また人と世とに対してはこれを支配する王である。そして彼らは一つのエクレシヤを成し神によって聖別された一団であり、神より見ればその特愛の所有である。かかる者の生活の目的は自己の快楽成功のためでもなく、またいわゆる自己の安身立命でもない。彼らは唯神の優れたる稜威、徳光を宣揚することがその本務である。神はそのために彼らを選み給うたのである。そして彼らは各々神に仕えその御言に従うことによってこの目的を達することができる。

分類
3 キリスト者のこの世における生活に関する教訓 2:11 - 4:6
3-1 総論 2:11 - 2:12

註解: 前節まででペテロはキリスト者に対する一般的の特徴を示し、神の恩恵による救い(1:3−5)、キリスト者の苦難と希望(1:6−12)、その清潔と新生(1:13−25)、その教会の身分(2:1−10)等につきて述べたる後ここに筆を改めて本節以下にキリスト者の世に対する義務を論じている。この論法は大体においてパウロの書簡に類似しているけれども、この間にパウロの場合のごとき截然たる区別は認め難い。

2章11節 (あい)する(もの)よ、われ(なんぢ)らに(すす)む。(なんぢ)らは旅人(たびびと)また宿(やど)れる(もの)なれば、靈魂(たましひ)(さから)ひて(たたか)(にく)((てき))の(よく)()け、[引照]

口語訳愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
塚本訳愛する者よ、勧める、(地上で)“旅の者また仮寓者”である君達は、霊魂に逆らって戦う肉の慾を避け、
前田訳親愛な方々よ、お勧めします。旅びとまた宿るものとして、魂と戦う肉の欲を避けなさい。
新共同愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
NIVDear friends, I urge you, as aliens and strangers in the world, to abstain from sinful desires, which war against your soul.
註解: キリスト者のこの世に対する関係は「旅人」 paroikos でこの世の家族の一員ではない。また寄寓者 parepidêmos であってこの世に市民権がない、彼らの国籍は天にあり、彼らは神の家族の一員である。ゆえに霊的慾求に反抗する肉的慾求から遠ざかっていなければならない(ガラ5:19エペ2:3)。ペテロがこの肉の慾求をあたかも外部より来るもののごとくに取扱っていることに注意せよ。
辞解
[愛する者よ] agapêtoi はキリスト者同志の呼びかけで、特に注意を喚起しまたは薦奨をなす場合に多く用いられる。
[避け] apechesthai はある物より自己を遠ざけることを意味する。
[旅人また寄寓者] 詩39:12ヘブ11:13参照。キリスト者の身分を示す好称呼。

2章12節 異邦人(いはうじん)(なか)にありて行状(ぎゃうじゃう)(うるわ)しく()よ、[引照]

口語訳異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。
塚本訳異教人の中における歩き方を立派にせよ。(今)君達を悪いことをする者のように譏っている人達が、(君達の)立派な行動によって悟り、その(譏っていた)ことにおいて(かえって)“訪問の日に”神を(信じ)崇める(に至らん)ためである。
前田訳あなた方のふるまいを異教徒の間で美しく保ちなさい。それは、彼らが悪者とそしっても、あなた方の美しい行ないを見て、顧みの日に神に栄光を帰するためです。
新共同また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
NIVLive such good lives among the pagans that, though they accuse you of doing wrong, they may see your good deeds and glorify God on the day he visits us.
註解: 未信者異邦人の中にあるキリスト者は、神のみならずこれらの異邦人に対してもその行状を善くする必要がある。もしキリスト者にして君主(13節)、主人(18節以下)、夫(Tペテ3:1以下)、妻(Tペテ3:7)等に対しての行状が不良であるならば不信者なる異邦人はこれを見逃さない。

これ(なんぢ)らを(そし)りて(あく)をおこなふ(もの)()へる人々(ひとびと)の、(なんぢ)らの()行爲(おこなひ)()て、(かへ)つて眷顧(かへりみ)()(かみ)(あが)めん(ため)なり。

註解: たとい異邦人は多くの非難をキリスト者に向けていても、もしキリスト者にして善行を為し続けるならば、やがて神は異邦人を顧みてこれに特別の導きを与え給う日至れば、彼らはキリスト者の行為を熟視するようになり、その結果キリスト者の善行が明らかになって彼らも信仰を与えられて神を讃美するに至るであろう。善行は己の為のみではない。本節を述べる場合、ペテロはマタ5:16の主の御言を脳裡に浮かべていたのかもしてない。
辞解
[眷顧(かへりみ)の日] hêmera episkopês は種々の意味に解釈せらる。イザ10:3参照。episkopês は監督、注視、監視の意味あり、これによりて賞罰を与えることをも意味している。本節の場合は、神異邦人を顧みこれを(おとな)いこれをして主を崇めるに至らしめ給う日を意味す。不信者が信仰に入るはかかる神の眷顧(かへりみ)を必要とする(C1、B1、Z0、M0)。なお「最後の審判の日」(I0、E0)、「神がキリスト者の無辜(むこ)を明らかにし給う日」その他種々の解あり。
[(そし)る] Tペテ3:16Tペテ4:14のごとく。
要義 [キリスト者の行為]キリストが非難さるべき行為を為すことは二重の意味において罪である。その一は神の御心を傷つけ、神の贖いを空しくすること、その二はこれによりて未信者の救わるべき機会を少なくすることである。今日のキリスト者もこの点において戒心しなければならない。

3-2 権力及びその所有者に対する義務 2:13 - 2:17

2章13節 なんぢら(しゅ)のために(すべ)(ひと)()てたる制度(せいど)(したが)へ。[引照]

口語訳あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、
塚本訳主の(立て給うたものであるが)故に、人間の凡ての制度に服従せよ。あるいは主権者として王に、
前田訳主のためにすべての人的秩序に従いなさい。支配者としての王にせよ、
新共同主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、
NIVSubmit yourselves for the Lord's sake to every authority instituted among men: whether to the king, as the supreme authority,
註解: 私訳「凡ての人間的制度に(したが)え」。キリスト者は神にある自由を享有するの結果、人間社会百般の制度を軽視し、これを蹂躙(じゅうりん)しやすい。しかしながら人間的諸制度はこれを尊重しこれに従うことは主イエス・キリストの御旨に叶うことである。その理由はおそらくパウロと同じくこれが神の許しの下に存立するものと考えたであろう(ロマ13:1−7)。▲「(したが)え」の原語 hupotasso は下位の者が上位の者の下に立って秩序を守る意味であるが口語訳では僕や妻は主人や夫に「仕えなさい」と訳している(Tペテ2:18Tペテ3:1Tペテ3:5)。「仕える」と「服従する」とは全く別のことである故にこの訳語は適当ではない。なおエペ5:22コロ3:18テト2:5も同様である。男女平等の思想に影響されたものと見えるが思想は思想、翻訳は翻訳ゆえ混同してはならない。
辞解
[人の立てたる] 原語 anthrôpinos は「人の立てたる」の意味(改訳)の外に「人のための」「人間の社会生活のための」の意味に取る説(C1、M0、Z0、B1)およびこの両者を併せ「人間社会のために人間が立てたる」の意味に取る説(I0)等あり、最後の説を採る。すなわち「人間的の」または「人間の」の意味。このペテロの見方はパウロのロマ13:1以下の所説に反しない。なお「主のために」を「主が命じ給えるゆえ」または「主もかく行い給えるゆえ」等の意に解する説もある。

(あるひ)(うへ)()(わう)

2章14節 (あるひ)(あく)をおこなふ(もの)(ばっ)し、(ぜん)をおこなふ(もの)(しゃう)せんために(わう)より(つかは)されたる(つかさ)(したが)へ。[引照]

口語訳あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
塚本訳あるいは悪人を罰し善人を褒めるため王から遣わされた者としての総督達に(服従せよ)。
前田訳悪人を罰し善人をほめるために、王につかわされた総督にせよ、従いなさい。
新共同あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
NIVor to governors, who are sent by him to punish those who do wrong and to commend those who do right.
註解: 「王」はローマのカイザル、「司」は王より派遣せらし地方長官である。当時の王や司は往々キリスト者を迫害し、また彼らの中に暴君も多かった。それにもかかわらずペテロは人間社会の制度を尊重して彼らに服従すべきことを命じている所以は、一はキリスト者は神との関係において生活するものであって、現世に対しては旅人、寄寓者の生活に過ぎざるがためであり、一は人間社会の制度は神によって立てられるものであって、支配者の個人的非行は大局において神の経綸を破壊し去るものに非ず。必要の場合は神自らかかる個人を罰し給うとの信念によったのである。司の職務を悪行者を罰し善行者を賞するに在りと指示せる所以もここにある。そして次節はこの服従の目的を示す。

2章15節 (ぜん)(おこな)ひて(おろか)なる(ひと)無知(むち)(ことば)()むるは、(かみ)御意(みこころ)なればなり。[引照]

口語訳善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。
塚本訳(君達の)善行によって、(君達を危険人物のように考えている)無理解な人達の無知(な非難)を沈黙させることは、神の御旨であるからである。
前田訳善をなして無知な人々のたわごとを封じるのは神のみ心です。
新共同善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
NIVFor it is God's will that by doing good you should silence the ignorant talk of foolish men.
註解: 神を知らざる者(最大の愚人)は、そのキリスト者に関する無知の故に種々の誹謗を(ほしいまま)にする(12節)。この無知をして沈黙せしめんがために最も有効なる方法は議論や説教ではなく善を行うことである。事実は最大の雄弁である。そしてこれこそ神の御意(みこころ)である。
辞解
[無知の言を止むる] 原語は「無知を黙せしむる」。
[神の御意(みこころ)なればなり] 文首にありて意を強めている。

2章16節 なんぢら自由(じいう)なる(もの)のごとくすとも、その自由(じいう)をもて(あく)(おほひ)となさず、(かみ)(しもべ)のごとくせよ。[引照]

口語訳自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
塚本訳(しかし君達は自由の人であるから、)自由の人としてこれをせよ。ただその自由を悪の覆いとせず、かえって神の奴隷としてこれをせよ。
前田訳自由人であってください。しかし自由を悪の覆いとせず、神の僕としてです。
新共同自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
NIVLive as free men, but do not use your freedom as a cover-up for evil; live as servants of God.
註解: 私訳「自由なる者のごとく〔せよ〕。而して自由を悪の(おおい)とする者のごとくならず、神の僕のごとく〔せよ〕。」キリスト者が善を行う場合の態度は罪や慾や権勢に対する気兼ねより全く解放せられし自由人(ガラ5:13)のごとくでなければならない。しかしながら自由は往々にして濫用されやすく、また政権に対する不従順、社会制度に対する軽蔑等も自由と混同されやすい。かかる悪行を自由の名をもって(おお)うものは真の自由人ではない。真の自由人は神の僕(ロマ6:16)であって、神の御意(みこころ)御意に従って行動する。
辞解
本節には「せよ」なる文字なし。ゆえに(1)13節の「(したが)へ」につくとする説(B1、C2)、(2)15節の「善を行ひ」につくとする説(A1、L1、C1、E0)、(3)17節につくとする説あり。第二説を採る。

2章17節 なんぢら(すべ)ての(ひと)(うやま)ひ、兄弟(きゃうだい)(あい)し、(かみ)(おそ)れ、(わう)(たふと)べ。[引照]

口語訳すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
塚本訳凡ての者を敬え、すなわち教友を愛し、“神を畏れ、王を”敬え。
前田訳すべての人を敬い、兄弟を愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
新共同すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
NIVShow proper respect to everyone: Love the brotherhood of believers, fear God, honor the king.
註解: 凡ての人は(異教徒、未信者、敵人、野蛮人を論ぜず)神の創造(つく)り給えるものである。ゆえにこれを敬わなければならぬ。兄弟 adelphotês は信仰の兄弟たる身分を有する者を指す。キリスト者は勿論敵をも愛さなければならない。しかしながら信仰の兄弟は兄弟として特別なる愛の対象である。神は畏るべきであって、濫りに()れるは神の本質に対する冒涜である。王はこれを敬い王たる地位に対する正しい態度を取らなければならない。これらの四か条はみな「神の僕」たるものの当然の態度である。これらに反する者は自由のごとくであって実は私慾の奴隷となっているのである。▲独裁制、寡頭(かとう)制、貴族制、民主制、共産制、自由制など種々の政治形体があり、いずれも人の立てたものであって長所も欠点もある。ある政体が存立している限りにおいて神の許しの下にあるものと考えなければならない。
要義 [国権に対する服従](いやしく)も神の御旨に従い、正義の上に立つことをもってその生命とするキリスト者が、唯簡単に国権の所有者たる王や司に服従すべしということは一見不可解のごとくに見える。殊に初代キリスト教の時代において国権は多く濫用せられ、不正なる有司(ゆうし)が多かったことは勿論、今日といえども、キリスト教の立場より見て多くの不正が政治上社会上の事実として存在する。それにもかかわらず無条件に彼らに服従すべしというは如何なる意義であろうか。前後の文章および聖書全体の態度より観察するに、その理由は(1)神の経綸に対する絶対の信頼であって、支配者の権力も結局神の与え給える処であり、神の意思に反する悪しき支配者は結局神これを滅ぼし給うが故にキリスト者はこの神を信じて忍従すべきこと、(2)キリスト者は旅人また寄寓者なるが故にこの世とその変遷に対して第三者の立場に立っていること、(3)万一権力者がその権力をもってキリスト者に不正な強要をせんとする時のごときこれに従って不正を行うべしという意味ではなく、神の御旨に従って正義を行うことにより権力者の与うる刑罰を甘受すべしという意味においての服従を我らに教えているのである。一見意気地なしのごとくであるけれども、実は大なる信仰によらざればこれを実行し得ない。そして信仰によりてこれを実行するものは最大の社会改良家である。イエスを見よ。▲今日の共産主義者や労働運動家はかかる態度に極力反対する。しかしもし資本家が真のキリスト者であったならば労働問題は起らなかったであろう。形式的キリスト者は社会問題や国際問題を解決する力が無い。

3-3 僕に対する教訓 2:18 - 2:25

2章18節 (しもべ)たる(もの)よ、(おほい)なる(おそれ)をもて主人(あるじ)(したが)へ、[引照]

口語訳僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。
塚本訳奴隷達よ、(神に対する)あらん限りの畏れをもって主人に服従せよ、ただ善い、優しい主人だけでなく、気難しい主人にも(快く服従せよ。)
前田訳僕たちは、心からのおそれをもって主人たちに仕えなさい。善良で親切な主人にだけでなく、曲がった主人にもです。
新共同召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。
NIVSlaves, submit yourselves to your masters with all respect, not only to those who are good and considerate, but also to those who are harsh.
註解: (おそれ)」は「尊敬」よりも強き語で「畏敬」に当る。主人の権威を認めてこれを尊びこれに服すること。仮面を(かぶ)れる服従、強いて為す服従、目の前だけの服従(コロ3:22)はこの畏敬に反する。この服従関係は今日権利義務の関係に置換えられつつあれども、権利義務の関係は人間相互の関係としては最も低級なるものである。
辞解
[僕] oiketês は「家僕」の意味で doulos 「奴隷」よりも広くかつ柔かい言表し方である。主人に注意を与えないのは、未信者が多い故であろう。
[(おほい)なる(おそれ)] 原語は「凡ての(おそれ)」。

(ただ)()きもの、寛容(くわんよう)なる(もの)にのみならず、(じゃう)なき(もの)にも(したが)へ、

註解: 東洋道徳そのままであることに注意せよ。僕は主人の非行に対して反抗すべきではない。主人はその行為に対して神に向って責任があり、神これを罰し給う。僕は主人の如何に関らず服従がその最も正しき立場である。
辞解
[善きもの] ho agathos はこの場合僕に対して「親切」である意味が含まれている(M0、G1)。
[寛容なるもの] ho epieikês は柔和にして甚だしく叱責するがごときことなくよく罪咎を赦す人。
[情なき者] ho skolios 意地悪にして根性の曲がっている者。

2章19節 (そは)(ひと)もし()くべからざる苦難(くるしみ)()け、(かみ)(みと)むるに()りて(うれひ)()ふる(こと)をせば、これ()[む](めらる)べき((こと)なれば)なり。[引照]

口語訳もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。
塚本訳もし人が(自分を奴隷としたのは)神(であること)を意識して苦痛を忍び、不当に苦しむならば、これは(神に)喜ばれることであるからである。
前田訳神を思って不当に苦しんで悩みに耐えることは恩恵です。
新共同不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
NIVFor it is commendable if a man bears up under the pain of unjust suffering because he is conscious of God.
註解: 主人が非道に僕を苦しむる場合に、これに堪うる最良の方法、そして唯一の真の道は神を心に意識することである。神は人を偏り視ず、凡ての人の心の善悪を知り、これをそれぞれ正当に報い給う。そしてかかる態度は神の(よみ)し給い誉め給う処である。奴隷の虐待が普通に行われていた当時にはこの教訓は殊に深き意義があった。一見主人に対してあまりに寛大なるがごときこの一節はかえって神の大なる審判を彼に対して宣告しているのである。
辞解
[神を認むるに因りて] dia suneidêsin theou 種々の解あれど「神を自己の心中に意識することに因りて」の意、「神に対する良心により」または「神的良心により」とも直訳することができる。
[これ誉むべきなり] touto charis は或は「これ感謝すべきなり」(A1、I0)とも、また「これ恩恵なり」等とも解せられるけれども次節の場合と同じく「神の誉れ(行為、寵遇(ちょうぐう)[寵愛して特別に待遇すること:広辞苑])をうべき事」とみるべきであろう(C1、B1、E0)。

2章20節 もし(つみ)(をか)して()たるるとき、(これ)(しの)ぶとも(なに)(こう)かある。されど()(ぜん)(おこな)ひてなほ(くる)しめらるる(とき)これを(しの)ばば、これ(かみ)()めたまふ(ところ)なり。[引照]

口語訳悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
塚本訳何故なら、もし罪を犯して打たれて忍耐したとて、何の名誉になろう。しかし善行によって苦しめられて忍耐するならば、これこそ神の前に喜ばれることである。
前田訳罪を犯して打たれて忍んでも、何の面目がありましょう。善をなして苦しんで忍べば、それこそ神にあって恩恵です。
新共同罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
NIVBut how is it to your credit if you receive a beating for doing wrong and endure it? But if you suffer for doing good and you endure it, this is commendable before God.
註解: ルカ6:32以下の主イエスの御言をペテロが祖述(そじゅつ)しているもののごとくに見える。主人より誉れを得ることを目的とする僕は善を行いてもなお苦しめられる時これを忍ぶことができない。されど神に目を注ぎ神の誉れを得ることを目的とする僕は神凡てを知り給うことを確信して主人の凡ての非道の虐待をも祈りをもって静かに耐え忍ぶことができる。
辞解
[(こう)] kleos は「栄誉」の意。大切なのは「多人数よりもむしろ善人よりの賞讃」(B1)である。

2章21節 (なんぢ)らは(これ)がために()されたり、キリストも(なんぢ)らの(ため)苦難(くるしみ)をうけ、(なんぢ)らを()足跡(あしあと)(したが)はしめんとて模範(もはん)(のこ)(たま)へるなり。[引照]

口語訳あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
塚本訳君達はこのために召されたのであるから。というのはキリストも君達のために苦しみ、君達をその足跡に随わせようとして模範を遺し給うたのである。
前田訳このためにあなた方は召されたのです。キリストもあなた方のために苦しみ、み跡に従うよう模範をお残しでした。
新共同あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
NIVTo this you were called, because Christ suffered for you, leaving you an example, that you should follow in his steps.
註解: 神が僕たる者を召してキリスト者たらしめた目的は虐待の中に忍耐せしめんためであったというのである。神は一人の人をも無目的に召し給わない。また一つの苦痛をも無意義に与え給わない。このことを考える時奴僕の地位にありて召された者の重大なる責任を思わしめられる。唯かかる苦難のために召されし者が意気沮喪(そそう)しないようにペテロはキリストの例をここに示し、キリストは御自身に苦難を受くべき原因が絶無であるのに「汝ら」罪人のために代って十字架につき給うたことを思い、彼を手本としてその足跡に(したが)うべきことを薦めている。この一節は単に僕、奴隷のみならず一般のキリスト者にも適用することができる。
辞解
[模範] hupogrammos 児童の書画の手本。

2章22節 (かれ)(つみ)(をか)さず、その(くち)虚僞(いつはり)なく、[引照]

口語訳キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
塚本訳彼は(聖書にあるように)罪を”犯さず、その口には欺瞞が無かった”。
前田訳「彼は罪を犯さず、口に偽りがありませんでした」。
新共同「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
NIV"He committed no sin, and no deceit was found in his mouth."
註解: 以下3節はみな連絡しており共に前節キリストの説明である。本節はイザ53:9よりの引用で主イエスの姿を最もよく描写している。彼に(なら)い行と言とを共に慎むのが奴隷たるものの義務である。

2章23節 また(ののし)られて(ののし)らず、(くる)しめられて(おびや)かさず、(ただ)しく(さば)きたまふ(もの)(おのれ)(ゆだ)ね、[引照]

口語訳ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
塚本訳彼は悪口されても悪口し返さず、苦しめられても脅かさずして、正しく審き給う者に裁量を任せ給うた。
前田訳彼はそしられてもそしり返さず、苦しんでもおびやかさず、正しくお裁きの方に身をおゆだねでした。
新共同ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
NIVWhen they hurled their insults at him, he did not retaliate; when he suffered, he made no threats. Instead, he entrusted himself to him who judges justly.
註解: イザ53:7を連想させる一節である。本節は前節と異なり他より迫害された場合のキリストの態度を示す。キリストは父より審判を委ねられ給うた(ヨハ5:22)。それにもかかわらず自らその権を行使し給わず、凡てを父に委ねし忍従の生活を送り給うた。いわんや人の僕たるものはなおさらである。「神の義は苦しめられるの者にとっての平安の基礎である」(B1)。

2章24節 ()(うへ)(かか)りて、みづから(われ)らの(つみ)(おの)()()(たま)へり。[引照]

口語訳さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
塚本訳彼は“自ら私達の罪を”自分の身に“負って”木の上に“上り給うた”。私達が罪によっては死に、義によっては生きるためである。彼の“傷によって君達は医された”。
前田訳彼はわれらの罪をその身に負って十字架におつきでした。それはわれらが罪に死んで義に生きるためです。彼の傷によってあなた方はいやされた、とあるとおりです。
新共同そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
NIVHe himself bore our sins in his body on the tree, so that we might die to sins and live for righteousness; by his wounds you have been healed.
註解: 私訳「みづから我らの罪を己が身をもて木の上に献げ給えり」。ここにイエスは祭司と犠牲の動物との二つの資格において表わされいる(ヘブ7:27ヘブ9:28イザ53:6イザ53:11)。すなわちイエスはあたかも犠牲の生物のごとくに人の罪をその身に負いて贖いとなり給い、そして大祭司としてこの自己の身をその負える罪ともろともに祭壇なる十字架に献げ給うた。これがキリストの忍従と愛の絶頂である。
辞解
[懸り] anapherô は「負う」と「運ぶ」との二義あり、祭壇にささげる場合はこの字を用う(創8:20レビ3:6以下。イザ60:7。その他)。本節はこの二つの意義を兼ねしめたものと見るのが最良の解釈であろう(I0、Z0、A1、E0)。
[木] 十字架の意(使5:30使10:39使13:29ガラ3:13)。

これ(われ)らが(つみ)に[()きて]()に、()に[()きて]()きん(ため)なり。

註解: キリストの贖罪の死は、これを信じる者をして罪に死し、義に生ける者たらしめる力がある。ペテロは僕たる者に対し単に忍耐を教えるのみならず、凡ての善行の基礎たる贖罪と聖潔の原理に(さかのぼ)ったのである。

(なんぢ)らは(かれ)(きず)によりて(いや)されたり。

註解: イザ53:5。イエスが十字架上に苦しみ給わなかったならば我らは永遠に罪の痛手より免れ得ないであろう。奴僕たるものが主人より受くる傷ももしキリストのごとくにこれを忍びこれを受けるならば、決して効果なしに終るものではない。
辞解
[傷] 打撲傷を意味する文字。

2章25節 (そは)なんぢら(まへ)には(ひつじ)のごとく(まよ)ひたりしが、(いま)(なんぢ)らの靈魂(たましひ)牧者(ぼくしゃ)たる監督(かんとく)(かへ)りた(ればな)り。[引照]

口語訳あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。
塚本訳何故なら、君達は(かつては)“迷える羊のよう”であったが、今や君達の霊魂の牧者また監督者に戻ったからである。
前田訳あなた方は羊のように迷っていましたが、今は魂の牧者また保護者へと帰ったのです。
新共同あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
NIVFor you were like sheep going astray, but now you have returned to the Shepherd and Overseer of your souls.
註解: 前節にキリスト者としての新生につきて述べ、本節はその理由を示す。すなわちキリストを知らざるものの霊魂は牧者、監督者なき羊のごとく豺狼(おおかみ)なるサタンの跳梁(ちょうりょう)する暗黒の世界に迷っている。然るに今や彼の霊魂はキリストによりて贖われ牧せられまた監督されており、従って彼には霊の草と生命の水とに欠くることがなく(牧者の務め)、彼の霊魂は内外の敵を防ぐことができる(監督の務め)。ゆえに奴僕は主人の虐使(ぎゃくし)により肉体において如何なる苦痛を受くるとも、その霊魂はキリストにありて永遠に完全である。
辞解
[牧者、監督] 「牧者」「監督」は職名にあらず、事実の叙述である(I0)。「牧者たる監督」は適訳にあらず。「牧者又監督」である。「監督者」は信者の霊状を見守り注意してその発育を助ける人をいうので、欠点探しの意味の監督ではない。
要義 [主従の道]古来東洋においても主君に対する従僕の服従が教えられていた。しかしながら神を知らざる支配階級にとっては、この道徳は、単にその専制を保護助長することに利用せられ、神を知らざる奴僕にとっては単に自己の利害打算よりする卑屈なる服従となり、極めて嫌悪すべき社会状況を惹起した。しかしキリスト者たる奴僕にとっては、ペテロがここに論ずるごとくキリストの十字架によりて贖われ新たなる生命に復活せるものたる理由により、主人に対する絶対の服従が極めて高き道徳として輝き出でているのである。この服従には何ら打算や卑屈な心情がなく、かえってこの服従によりて主人の悪に打勝って高らかに凱歌を挙げているのである。神はこの心を誉めずにはおき給わない。