ヘブル書第5章
分類
1 教理の部 1:1 - 10:18
1-3 大祭司としてのキリストを示して信仰の進歩をすすむ 4:14 - 6:20
1-3-ロ 人としての大祭司 5:1 - 5:3
註解: 4:14以下において人としての大祭司キリストを示した。5:1−10においてさらに進んで詳細に説明を加えている。唯1−3節においてはレビ族より出づる人間としての大祭司につきてのみ述ぶることによりて反面に、大祭司キリストもこの性質を持ち給うことを示している。▲ユダヤ人に取っては大祭司の職責は人を神に執成す最も重大な職務であることを念頭において本章を読むべきである。
5章1節
口語訳 | 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。 |
塚本訳 | なぜなら、(イエスという大祭司は一方ではアロン、他方ではメルキゼデクと同様で、完全である。元来)人の中から選ばれる(この世の)大祭司は皆、人に代って神に関すること(を司るため)、すなわち罪のために供物や犠牲を捧げるために、任命されるものである。 |
前田訳 | すべて大祭司は人々の間から選ばれて人々のために神へのことをする務めがあります。それは罪のために供え物といけにえをささげるためです。 |
新共同 | 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。 |
NIV | Every high priest is selected from among men and is appointed to represent them in matters related to God, to offer gifts and sacrifices for sins. |
註解: ここに人間としての大祭司の性質を列挙している。すなわち(1)人間以外の天使等をもってこれに任ぜず、人の中より採られること、そしてキリストもこの点において完全に人間に在し給う(ヘブ2:9)、(2)罪のために供物と犠牲とを神殿において神に献ぐる職務を有すること。そしてキリストは己を献げてこの職を全うし給うた(ヘブ7:27。ヘブ9:11−14、ヘブ9:26。ヘブ10:10−14、(3)人に代りて神に仕えること。キリストの為し給うことはみな万民の代理である。彼は万民の罪を負い(マタ20:28)、万民の代りに死に(Uコリ5:14、15。エペ5:25。ヘブ2:9)今また神の右に在して我らに代りて神の前に執成し給う、(4)神に仕うる任務を有すること。キリストは神の右に坐して今もなお神に仕え給う(ヘブ8:1、2。ヘブ10:11、12)。以上をもってキリストの完全なる大祭司に在し給うことを知る。
辞解
[供物 と犧牲 ] 「供物」dôra は主として動物以外の献物、「犠牲」thusia は主として動物性の献物について用いられるという説があるけれども(B1)必ずしもかかる明瞭なる区別はない(Z0、I0、E0)。
5章2節
口語訳 | 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、 |
塚本訳 | 彼は自分自身も(人間で、彼が代って犠牲を捧げる人々と同様、人としての)弱さを身に帯びているので、無知の人々、また(罪に)迷う人々を思いやることが出来るのである。 |
前田訳 | 彼は自らも弱さに悩むので、無知な迷う人々にやさしくでき、 |
新共同 | 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。 |
NIV | He is able to deal gently with those who are ignorant and are going astray, since he himself is subject to weakness. |
註解: 大祭司も人間であって、人間の弱さを具有していること故、その代表する人民の無知迷妄による罪に対して徒 に奮激に陥ることなく、また無感覚に止ることなく、優しき心をもってこれを忍び思いやることができる。
辞解
[無知] 「迷妄」の原因であって往々「罪」と同義に用いられ(I0)「ことさらに罪を犯す」(ヘブ10:26)以外の罪すなわち弱さと迷いのために犯せる罪を指すものと見るべきである(M0、Z0その他)。故意に犯せる罪は祭司の執成しの範囲外である(レビ4:2。レビ5:15。民15:22−31)。
[思ひ遣 る] metriopatheô はヘブ4:15のsympatheô と異なる。従って異なる訳を用うるを可とする。sympatheô は積極的の感情で相手方の情と同じ情をもって相手方を思うこと、metriopatheô は消極的の意味であって、相手方に対し適度の感情を有つこと、すなわち無感覚と奮激との中間を意味する。
5章3節
口語訳 | その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。 |
塚本訳 | そしてこの弱さのゆえに、彼は民のためにするように、自分自身のためにも罪祭を捧げねばならない。 |
前田訳 | その弱さゆえに、民のためと同じく自らのためにも罪についてささげものをせねばなりません。 |
新共同 | また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。 |
NIV | This is why he has to offer sacrifices for his own sins, as well as for the sins of the people. |
註解: このことは当然のことであって律法に明らかに命ぜられている。レビ9:7。レビ16:6。この点が人なる大祭司とイエスの相違点であって、イエス自らには罪なく(ヘブ4:15)従って己のために犠牲を献ぐる必要がなかった(ヘブ7:27)。
5章4節
口語訳 | かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。 |
塚本訳 | また(大祭司は)、アロンもそうであったように、神に召されなければ、だれもこの名誉職を自分で取る者はない。 |
前田訳 | だれも自ら誉れを受けるものはなく、神に召されて受けます。アロンの場合のようにです。 |
新共同 | また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。 |
NIV | No one takes this honor upon himself; he must be called by God, just as Aaron was. |
註解: 大祭司たる第一の要件は1−3節に示されし「人たること」であり、第二の要件は本節以下に示される「神に召されること」である。アロンは神に召されて大祭司となった(召は、出29:4以下。レビ8:1以下。民3:10)。
5章5節
口語訳 | 同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言われたかたから、お受けになったのである。 |
塚本訳 | (これがこの世の大祭司である。神の大祭司)キリストもそのように、自分で大祭司職の光栄ある地位につかれたのではなく、彼にこう言われた者(、然り、神)が、されたのである。“あなたこそわたしの子、わたしが今日あなたを生んだ。” |
前田訳 | そのように、キリストも自ら大祭司になる誉れを得たのではなく、彼に、「なんじはわが子、きょうわたしはなんじを生んだ」といわれた方がお与えでした。 |
新共同 | 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。 |
NIV | So Christ also did not take upon himself the glory of becoming a high priest. But God said to him, "You are my Son; today I have become your Father. " |
註解: 神はキリストの謙遜を喜び彼を崇めてこれに栄光を与え給う。ヨハ8:54(引照1)にキリスト自ら宣いし如く、彼は自ら自己の価値に誇りて己に大祭司の位置につくべき栄光を帰し給わず、かえって人として完全に謙遜に在し給うた。それ故に神は彼を崇めて大祭司となし給うたのである。単に「神」と言わずしてヘブ1:5におけるごとく詩2:7を引用せる所以は神はイエスを子と呼び給う時すでに彼を崇め給えることを示し、神が特にキリストを召して大祭司となし給えることの当然であることを明らかにせんがためである。
辞解
[これを立てたり] 原文になし。文法上は「これを崇めて大祭司となし給えり」を補充すべきである。
5章6節 また
口語訳 | また、ほかの箇所でこう言われている、「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」。 |
塚本訳 | また(詩篇の)ほかの所で言われるとおりである。──“あなたは永遠にメルキゼデクと同等の祭司である。”(彼はメルキゼデクと同じく永遠の大祭司で、ただ一代かぎりのアロンおよびその後継者とちがっている。) |
前田訳 | また別のところで神はいわれます、「なんじはメルキセデクに等しくとこしえに祭司である」と。 |
新共同 | また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。 |
NIV | And he says in another place, "You are a priest forever, in the order of Melchizedek." |
註解: 詩110篇はメシヤの預言であってその4節をここに引用してエホバの誓いによりキリストは永遠に大祭司に在し給うことを示す。メルキゼデクは創14:18以下に記される神秘的人物で王にして祭司(すなわち大祭司)であった。キリストの大祭司たる資格はこのメルキゼデクの位に相応しているものである。(アロンとメルキゼデクとの対照は第七章に詳述されている)故にキリストは神の御旨によりて大祭司の職に就き給うたのである。▲口語訳のヘブ5:6、ヘブ5:10。ヘブ6:20。ヘブ7:11、ヘブ7:17に「メルキゼデクの位に等しき」を「メルキゼデクに等しい」と訳しているのは遺憾である。「位」 taxis はまた「組」とも訳され「序列」の意味あり。口語訳もルカ1:8では「組」と訳している。
5章7節 キリストは
口語訳 | キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。 |
塚本訳 | 彼はその(地上における)肉の日に、烈しい叫び声と涙とをもって、彼を死から救い得るお方に向かって祈りや嘆願を捧げ、その敬虔のゆえに聞きいれられた(方である)。 |
前田訳 | 彼は肉にいましたころ、大声と涙とで死から救いえたもう方に祈りと願いとをささげ、敬虔によって聞きとどけられました。 |
新共同 | キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 |
NIV | During the days of Jesus' life on earth, he offered up prayers and petitions with loud cries and tears to the one who could save him from death, and he was heard because of his reverent submission. |
註解: 人なるキリストが如何にして大祭司に任じられ給いしやをここに示している(7−10節)。すなわちキリスト肉体となりて我らの中に宿り給いし時、彼は非常なる苦難を嘗め給うた。そのまさに十字架の死を味わなければならなかった時、彼はゲツセマネの園において血の汗を流しつつ、大なる憂いと悲しみとをもて神に祈り求め給うた(マタ26:36以下等)。そしてその態度が神に対する敬虔なる畏れに満ちていたがために神はその祈りを聴きて彼を十字架に釘 け、そして彼を死より甦らしめ給うた。そは神は彼を死より救い得る御方に在し給うが故である。この恭敬の態度が神に召されるための要件であった。
辞解
[恭敬 ] eulabeia は死に対する恐怖(B1)ではなく神に対する畏敬の態度である。
5章8節
口語訳 | 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、 |
塚本訳 | 彼は御子であるにもかかわらず、苦しみをうけて従順を学び、 |
前田訳 | 彼はみ子にいましながら、苦しみによって従順をお学びでした。 |
新共同 | キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 |
NIV | Although he was a son, he learned obedience from what he suffered |
註解: キリストは御子であって本来父なる神に対して従順に在し給うた(ルカ2:48。ヨハ5:19、ヨハ5:30。ヨハ8:28等)。唯その十字架の苦難はできることならばこれを避けんことを望み給うた。この切なる肉体的要求に逆らいて神の御旨に従い給へることによってキリストは完全なる従順を学び給うたのである。(ピリ2:6−8)、キリストにとりてさえ従順を学ぶに苦難が必要であったとすれば況んや我らにとってはなおさらである。
5章9節 かつ
口語訳 | そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、 |
塚本訳 | 完成されたので、(今度は彼が、)彼に従順であるすべての人に対して“永遠の救の”本源となり、 |
前田訳 | そして全きものにされて、すべて彼に従順なものに永遠のいのちの源とおなりでした。 |
新共同 | そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 |
NIV | and, once made perfect, he became the source of eternal salvation for all who obey him |
5章10節
口語訳 | 神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。 |
塚本訳 | 神から“メルキゼデクと同等の”大祭司と呼ばれたのである。 |
前田訳 | 彼は神によってメルキセデクに等しい大祭司と呼ばれたのです。 |
新共同 | 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 |
NIV | and was designated by God to be high priest in the order of Melchizedek. |
註解: キリストは8節のごとく苦難によって従順を学び給いその結果(ヘブ2:10)救い主としての完全なる資格を具えて復活昇天し、今神の右に坐し給いて全き救い主たる働きを為し給う。これみな彼の完全なる従順の結果であった。かくて凡てキリストに順 う者(「彼を信ずる者」と同義、ロマ1:5。ロマ10:16。ロマ16:26。Uテサ1:8)のために神の前に執成し給い、救いの出づる原、救いを造り出す原因となり給うた。そしてこの救いはキリストの永遠に在し給うと同じく永遠であり、キリストの「肉体に在ししとき」の短きがごときではない。神が詩110:4に彼をメルキゼデクに比較し給いしはこの故であった(メルキゼデクの性質につきては七章を見よ)。
辞解
[大祭司] 詩110:4およびこれを引用せる本章6節には祭司とありここにこれを大祭司と変更せるはキリストの祭司としての職能を一層適切に言い表さんがためであった。新約聖書の記者は何れも旧約聖書の文字の死せる墨守者ではない。
要義1 [聴かれる祈り]「その恭敬 によりて聴かれ給へり」親が子の願いを聴き容れる場合と同様に、神は唯大声を張上げて強請(せが)むごとき祈りを聴き給わない。また徒 に美辞麗句を羅列せる祈りをも聴き給わない。神の聴き給う祈りは「恭敬 き祈り」「畏敬の念に満てる祈り」である。
要義2 [大祭司たるキリストの完全]完全なる大祭司キリストを有するキリスト者は幸いである。キリストは完全に人に在し、神より任命せられ、そして苦難を経て全うせられ今神の右に坐し給う。キリストのこの謙遜と従順と栄光とが我らの救いの源となったのである。ゆえに我らの救いは確固不動である。
5章11節
口語訳 | このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。 |
塚本訳 | (イエスがメルキゼデクと同等の大祭司であるという)このことについては、言うべきことが沢山あるけれども、説明が(非常に)困難である、あなた達の耳が遠くなったので。 |
前田訳 | メルキセデクについてわれらは語るべきこと多く、またそれを解き明かすことは困難です。あなた方の耳が遠くなったからです。 |
新共同 | このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。 |
NIV | We have much to say about this, but it is hard to explain because you are slow to learn. |
註解: 本節より6:20までは重要なる教訓であって読者の信仰的理解力の少なきことを憂いてこれに注意を与え、そして7:1において再び大祭司の問題に立ち還ってその論を進めている。「之に就き」はメルキゼデクのごとき「大祭司たるキリストに就き」の意味。「鈍くなり」なる語の示すがごとく、彼らも始めは信仰に燃えて将来の大なる進歩を予想し得たのであった。
5章12節 なんじら
口語訳 | あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。 |
塚本訳 | というのは、(福音を聞いた)時間からすれば、(もはや当然人の)先生であるはずなのに、あなた達はもう一度だれかに神の言葉のいろはを教えられる必要がある。そして、堅い食べ物ではなく、乳を必要とする者となっている。 |
前田訳 | あなた方はとっくに教師におなりのはずなのに、ふたたびだれかが神のことばの初歩を教える必要があります。あなた方には堅い食物でなくて乳がいる始末です。 |
新共同 | 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 |
NIV | In fact, though by this time you ought to be teachers, you need someone to teach you the elementary truths of God's word all over again. You need milk, not solid food! |
註解: もし入信当初のごとき意気込みであったならばその後多年を経過せる今日(本書の認 められし年代より見て少なくとも三十余年は経過している)すでに教師ともなるべきはずであった。今日のキリスト者に対してもこの状況が適切に当てはまっている。
註解: 直訳「今また神の言の初の入門を人、汝に教える必要あり」。多年を経過してもなお神の言の「いろは」を教える必要があり、教師となるべき年輩に達してなお教師を必要とする信者は、悲しむべき状態にある者である。
辞解
[初歩] stoicheia tês archês は「初の小学」「初の要素」等と訳することができる(ガラ4:3、ガラ4:9。コロ2:8、コロ2:20)。
[神の言] この場合特にキリストによって語られし新約の福音を意味するものと見るべきである(ヘブ1:2。ヘブ2:3)。
註解: 何時までも信仰の嬰児の状態を継続するは悲しむべきことである。彼らは堅き食物を要する者となるべきであった。ここに乳とはヘブ6:1、2に示されるごとき信仰の第一原理を意味し(Tコリ3:2註参照)堅き食物とはヘブ7:1以下のごとき深き真理およびその以上の奥義を意味する。
5章13節 おほよそ
口語訳 | すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。 |
塚本訳 | なぜなら、乳を飲む者は皆、幼児であるため、信仰の言葉に慣れていない。 |
前田訳 | すべて乳を飲むものは幼子ですから義のことばがわかりません。 |
新共同 | 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 |
NIV | Anyone who lives on milk, being still an infant, is not acquainted with the teaching about righteousness. |
註解: ここに「義」というはキリストの福音を意味するものと解して大差はない(Uコリ3:9。Uコリ11:15。ロマ3:21)。あたかも嬰児が成人の言語を解し難いと同じく霊の嬰児は福音の奥義に習熟しない。
5章14節
口語訳 | しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。 |
塚本訳 | しかし堅い食べ物はただ成人(だけ)のもの、すなわち(自分のために)何が善で、何が悪であるかを見分けるため、長い実践によって鍛えられたかんをもつ人々(だけ)のものである。 |
前田訳 | 堅い食物は、善悪を見分けるよう感覚が習慣によって練られた成人者のものです。 |
新共同 | 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。 |
NIV | But solid food is for the mature, who by constant use have trained themselves to distinguish good from evil. |
註解: (▲口語訳は適訳である。)私訳「されど堅き食物は善悪を弁別する機能を習熟によりて訓練せる成人の〔用うる〕ものなり」。我らは霊界のことに習熟し、堅き食物すなわち福音の奥義をも理解し得るに至らなければならぬ。霊界の人は自然界の人すなわち肉体とは異なり年月の長短によりて発育せず、官能を使用してこれに習熟し、これによりて訓練されることによりて発育する。それ故に、我らは常に祈り、思索し、実行し、神の言を学ぶことによりてこの智能を訓練しなければならない。「善悪」はこの場合道徳的善悪と見るよりもむしろ信仰の内容の善悪、およびその健全不健全等を指す(C2、A1、M0)。何時までも信仰の初歩に止っている者またはユダヤ教に逆戻りをなして福音を棄つる者はこの善悪を弁別せざる者である。
要義 [信仰のイロハに止るべからず]今日のキリスト教会に於て信徒がいつまでも信仰の乳を与えられるのみであることは、キリストを知らないからである。キリストを知ること深きに従って、ますます信仰の堅き食物を要求する様になり、従って信仰に於てますます発育して信仰の成人となるのである。キリストを単に一の偉人と見んとする今日のキリスト教会が信仰に於て永久に幼児の域を脱し得ないのは当然である。
ヘブル書第6章
1-3-ホ 信仰の向上の必要 6:1 - 6:3
註解: 1−3節はこれを二様に解することができる。その一は著者の決心を述べしものと見る解釈で(B1、D0、E0、L1、Z0等)、著者が教えの初歩を論ずることをやめ、さらに一層深き教えの奥義に進まんとする決心を言い表わせるものと解し、その二は読者に対する奨励と見る解釈で(C1、I0、M0、P0、W2)、読者をして信仰の初歩に止ることなく、一層成熟せる信仰に進ましめんとする著者の言と解する。日本訳もこの両者の何れとも解し得るがごとくであるけれども、語法より見ればおそらく第二説を取れるものならん、予も第二説を優れりとする。その理由は前数節との連絡および4節以下の警戒との関係上よりかく解することが自然であること、また読者を奨励、警戒、訓戒せんとする場合に多く「我ら」なる語を用うること等である(ヘブ2:1。ヘブ4:1。ヘブ10:19、ヘブ10:26。ヘブ12:1)。
6章1節 この
口語訳 | そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、 |
塚本訳 | それゆえ、わたし達は(すこしも早く)キリストの教のいろはをすてて、完全(な信仰生活)に進みゆこうではないか。(すなわち)死ぬ行いの悔改めや神への信仰、 |
前田訳 | それゆえ、われらはキリストについての教えの初歩をあとにして完全へと進みましょう。またもや、死んだ行ないの悔い改めと神への信仰、 |
新共同 | -2節 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。 |
NIV | Therefore let us leave the elementary teachings about Christ and go on to maturity, not laying again the foundation of repentance from acts that lead to death, and of faith in God, |
註解: 直訳「この故に我らはキリストの初歩の教を後に残し」、「止ることなく」 aphiêmi は「棄て」「措き」「後に残し」等の意味であって、この書簡の読者はもはや教師ともなり得べき人々である故に(ヘブ5:12)何処までもキリストの初歩の教に停滞せずにこれを措きてさらに完全に向って進むべきことを奨めている。そしてキリストの初歩の教え、すなわちその基礎工事ともいうべきことを次の六カ条に掲げ、これを二つづつ三対に区別している。
註解: キリストの初歩の教えの第一対は悔改めと信仰である。「死にたる行為」とは「罪の行為」(ヘブ9:14)を意味し、パウロの所謂信仰によりて為されざる「律法の行為」(ロマ3:20、ロマ3:28。ロマ9:32。ガラ2:16。ガラ3:2、ガラ3:5、ガラ3:10)に相当する。あたかも行為なき信仰が死ぬる信仰であるがごとくに(ヤコ2:26)、信仰なき行為は死ぬる行為である。パリサイ主義の行為のごときこの例である。ゆえにかかる行為より悔改めて神に対する信仰に至らなければならぬ。この信仰は活ける行為の原動力である。この悔改めと信仰とはキリストの初歩の教えであって何人もこれなくしてキリスト者ということができない。而してユダヤ人はこの二者を往々にしてユダヤ教の行為、悔改め、信仰と混同してユダヤ教に逆戻りする恐れがあったので、間接にこのことを注意したのである。─(注意)「基」は「基礎工事」のこと、原文には次節にある「基」のみで本節の「基」の文字なし。日本訳は文章の都合上ここにも「基」を入れたので、これがため二種の基礎があるがごとくに誤解せざるよう注意を要す。
6章2節 [また]
口語訳 | 洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。 |
塚本訳 | (いろいろな)洗礼の教や按手、死人の復活や永遠の審判(など、信仰)の土台をすえ直す(ような)ことをすまいではないか。 |
前田訳 | 洗礼や按手、死人の復活と永遠の裁きなどの教えの基礎を置くことはしますまい。 |
新共同 | |
NIV | instruction about baptisms, the laying on of hands, the resurrection of the dead, and eternal judgment. |
註解: キリスト教のバプテスマは更生の表徴であり(ロマ6:4)、按手は聖霊を受けることを示している(使8:17。使19:6)、新生と聖霊の内住はキリスト教の重要なる教理であって信仰の基礎である。ここに「各種のバプテスマ」(原語バプテスモスの複数)といえる所以は、当時のユダヤ人はキリスト教のバプテスマの外にモーセによりて定められしバプテスモス(濯事 、ヘブ9:10およびその引照参照)をも行っていたので、これらとキリスト教のバプテスマとの間の区別を明らかにすることが必要であったことを示す(A1、Z0、T0)。また按手も種々の場合に行われた(使6:6。使13:3)けれども、これと聖霊の内在との区別を教うる事が必要であった。バプテスマや按手の形式が信仰の基礎であるのではなく、そのキリスト教的内容が信仰の基であり、ユダヤ人は往々これを忘れてユダヤ思想に逆戻りをせんとしていた。信仰の初歩の第三対は未来に関する教え、復活および審判である。この二者は信仰の重要なる基礎であるけれども唯これらの教義がユダヤ教にも有ったのでキリスト教に至ってその内容がさらに充実せるものに一新せられしことを知ることが必要であった。要するに以上の三対六種の教えが信仰の基礎であって、この書簡の読者は今さらかかる初歩の信仰の基礎づけに停滞せずにさらに完全なる成熟せる奥義に向って進むべきである。
辞解
「教」なる文字を「バプテスマの教」と読みてバプテスマのみに関連せしめる読み方もあるけれども(B1)不適当である。
[完全] teleiotês 前章末節の成人 teleios と同語源の文字で「初」または「初歩」の反対、すなわち成熟完備せる状態をいう。
口語訳 | 神の許しを得て、そうすることにしよう。 |
塚本訳 | (もちろんこれも必要なことだから、)神がお許しになるならば、これをもやろう。 |
前田訳 | これらをも、神がよみしたもうならば、いたしましょう。 |
新共同 | 神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。 |
NIV | And God permitting, we will do so. |
註解: 信仰の進歩も神の恩恵による許容なしにはこれを為すことができない。
要義 [キリスト教の基礎的信条]ここに悔改めと信仰、新生と聖霊の内在、復活と審判がキリスト教の信仰の初歩または基礎として掲げられていることは注意を要する。何時までもかかる基礎的事柄に停滞すべきではない。然るに今日のキリスト者の中にはこれらの初歩的教理に対してすら無理解なる者の多きことは驚くべき事柄であって、ヘブル書の読者と共にさらに一層完全なる信仰に進むことが必要である。終生信仰の道を辿りつつ基礎工事すら完成し得ずに終るもののあることは悲しむべきことである。
註解: 4−8節は完全に進まなければならない理由として堕落に対する恐るべき警戒を与えている。すなわち4、5節は1、2節と対応しており信仰の初歩すなわち基礎的教義につき一度び味わい理解せる人々の心の状態を述べ、6節以下にかかる人の堕落の恐るべきことを教えている。
6章4節 (そは)
口語訳 | いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、 |
塚本訳 | というのは、一度(福音の光に)照らされていながら、(すなわち)天からの賜物を味わい、聖霊を授かる者となり、 |
前田訳 | ひとたび光を受けて 天の賜物を味わい、聖霊にあずかり、 |
新共同 | 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、 |
NIV | It is impossible for those who have once been enlightened, who have tasted the heavenly gift, who have shared in the Holy Spirit, |
註解: 「一たび照らされて」は神の光に心の罪が照らされて悔改めとなり、神の光を仰ぐことによりてその賜物なるキリストに対する信仰と新生(エペ2:8。ヨハ3:16)とを味わいてその如何に福 なるものなるかを自ら経験せる状態(1節後半、2節前半参照)。なお賜物の何たるかにつきては、聖餐、聖霊、義、キリスト、福音、光、等種々の解釈あり。
註解: 信者は聖霊を頒 け与えられる(使2:3)。悔改めと新生の結果としてかくなることができる(2節の「按手」の註参照)。
口語訳 | また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 |
塚本訳 | また、神の良い御言葉と、来るべき世の力とを味わっていながら、 |
前田訳 | 神のよいことばと来世の力とを味わったものたちが、 |
新共同 | 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、 |
NIV | who have tasted the goodness of the word of God and the powers of the coming age, |
註解: 「善き言」 kalon rêma は神の慰めまたは約束に関して用いられ(ヨシ21:45。ヨシ23:15。ゼカ1:13。七十人訳)、この場合これを福音の意味に解する人が多いが予は死に打勝ちて復活すべき神の約束を意味するものと解する。「来世の能力(複数)」はキリスト来り給いて罪人を救い、病者を癒し、貧しき者に福音を聴かしめ悪魔に打勝ち死にて甦り給いしことによりて顕われし来世の能力。この能力がやがて永遠の審判(2節後半)となりてキリストの再臨により新天新地が実現するに至るのである。キリスト者はこの能力を味わったものである。ここに「味ふ」なる語を二回ともに用いし所以は、これらの人々は単に耳にしてこれらの真理を聞いたばかりでなく信じて心にこれを味わったことを意味すると共に、単に味わっただけで、これを常食として信仰の発育を遂げず完全に進むの状態に至らざるごとき姿を示したのである。かかる者は堕落の危険がある。
口語訳 | そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。 |
塚本訳 | 堕落した者は、(今度は)自分で神の子を十字架につけ、晒しものにするのであるから、(彼らを)もう一度新しくして悔改めさせることは出来ないからである。 |
前田訳 | それにもかかわらず堕落してからは、ふたたび悔い改めへと導くことはできません。それは彼らが自ら神の子を、またもや十字架にかけて、さらしものにしているからです。 |
新共同 | その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。 |
NIV | if they fall away, to be brought back to repentance, because to their loss they are crucifying the Son of God all over again and subjecting him to public disgrace. |
註解: この場合の「堕落」 parapiptô は、肉の弱さ、悪魔の試誘 、信仰の動揺等により「盗み、偽り、殺人、酔酒、姦淫」等の罪に陥ったことを意味するのではなく(C1)、ヘブ10:26のごとく一旦信仰を味わって後に全く神の恩恵を拒み、キリストの十字架の贖いを否定し、未来に対する望みを失い、全き不信仰の状態に陥ったことを意味し(C1、M0、B1、E0、I0)、聖霊を涜すの罪(マタ12:31以下等)、死に至るの罪(Tヨハ5:16)と同義である。
註解: (▲この種の人の信仰について、彼は果して新生をしたのか、またはこれを真の新生と称すべであるかは大なる問題である。単に頭脳のみにて理解し思索しただけであるのは新生命を生きるものではない。単にこれを味わっただけである。)キリストを十字架に釘 けたユダヤ人はその為すところを知らず(ルカ23:34)キリストの神の子たることを知らずにこれを為したのであった。ゆえに悔改め得る余地があった。然るに一旦新生を経験し福音の根本を味わった者が堕落してキリストに背くことは、キリストを神の子として知りてこれを「新たに十字架につけ」 anastauroô 、これを辱しめ奉るのであって、もはや再び新たに悔改めしむることは不可能である(ヘブ10:26)。知らずに神に背ける者(Tテモ1:13)は、光に照されてこれを覚 り悔改めることができる。然るに知りて神に背く者はもはやその罪を覚 らせることが絶対にできない。かかる者はサタンと同じ性質に化したのである。
辞解
[自ら] 直訳「自己に」 heautois は種々の解釈がある。予はガラ6:14により「自己に対して」の意味に解した(B1)。
[能はざるなり] 「至難なり」のごとき意味に弱めんとする説あれど誤りで「全然不可能なり」と解すべきである。
[立返らする能はず] 「自ら立返る能はず」と解し、神はこれを立返らしむることができることを意味すると解する説がある(B1、G2)けれども、ヘブ10:26−31より見てこの解釈は不適当である(M0、E0)。
6章7節 それ
口語訳 | たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。 |
塚本訳 | “地が”たびたびその上に降りそそぐ雨を(よく)吸込んで、耕す人々のために有益な“作物を”産すれば、神の祝福にあずかる(ことができる)。 |
前田訳 | 地がその上にたびたび降る雨を飲み込んで、耕す人々に役だつ作物を育てるならば、神からの祝福にあずかります。 |
新共同 | 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。 |
NIV | Land that drinks in the rain often falling on it and that produces a crop useful to those for whom it is farmed receives the blessing of God. |
註解: 信仰の初歩に停滞せず進んで完全なる発育を求める者はあたかもこの比喩に示される土地のごとくであって、神の恩恵を一旦味わいしままに放置することなく、慈雨のごとき恩恵を常に吸入れ、恩恵に恩恵を加えられて耕す者は神の喜び給う作物を生ぜしめる。従って神これを祝福し給う。
6章8節 されど
口語訳 | しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。 |
塚本訳 | だが、“茨や薊をはやすならば”、(地は)益なきものとなり、“呪われ”、その最後は、焼かれるのである。 |
前田訳 | しかし、茨やあざみを生やすならば、地は無用になり、呪いに近づき、果てには焼かれます。 |
新共同 | しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。 |
NIV | But land that produces thorns and thistles is worthless and is in danger of being cursed. In the end it will be burned. |
註解: 神の恩恵の慈雨を受けてもこれを吸入れず、教えの初歩を植付けられしのみに止まる者は、枯死して完全に進むことができず、反対に茨 と薊 とを生じ、神の御旨に反するに至る。かかる土地は放棄せられ詛われるより外にない、そしてついにはその果は焚かれるであろう。神に対する信仰より堕落する者の運命もこれに等しい。▲信仰はその果によって知られるのである。信と行為の問題はここにもその片鱗を窺うことができる。
辞解
前節の「生ぜば」 tiktô は本節の「生ぜば」 ekpherô とは別字を用いている。前者は子の生まれることを意味し、後者は一層機械的で「発生」「搬出」等の意味である。
[近く]詛 の程度を幾分和らげて言えるもの。
要義1 [新生を経験せる者は堕落する場合ありや]ロマ8:29、30。ヨハ6:37、ヨハ6:39。ヨハ10:27、28。Tヨハ2:19。マタ15:13等によれば、神の選び給いて新生を経験せしめられしものは永遠に亡ぶることなきことを示されているにかかわらず、ヘブ6:4−6によれば一度新生を経験したるものも場合により堕落し永遠に滅亡に陥り恢復の見込みなきことを示され、この間に不調和、矛盾があるがごとくである。この矛盾を除かんがために、あるいはヘブ6:4−6を一見回心せるがごときも、未だ真の永続的回心を経験せず、最後の反抗心に打勝たざる場合と解し(G1)、あるいは神の選びと新生とを区別し、選ばれし者はみな新生せしめられるけれども新生せしものは必ずしも選ばれしものにあらずと解し(A1)、あるいはヘブ6:4、5は[未だ](原本にこの語が記載されているが意味不明となるため括弧書きとした。編者)栄光のキリストを有たされた未だ真の生命を有たざる名義上の信徒なりと解し(ダービー)、あるいは神はこれらの者を不完全なる程度に一時的に照らして真理を示したのみで選ばれしものにあらざる彼らは、心よりキリストに依り頼みしにあらずと解する(C1)等によりてこの矛盾を避けんとの試みが行われている。しかしながらヘブ6:4、5は明らかに新生の経験を意味し、たとい幼稚なる信仰であってもとにかく真の信仰であり、キリストによって更生せるものであることは明らかである。然らざれば、全くの未信者であって信仰に関する少しばかりの知識は彼らを信者と称するに足らない。従って彼らには新たなる堕落と称すべきものなく、また勿論未だ救わるべき余地が残っている。要するに選ばれしものに関する前掲の諸聖句は、かかる者に対する神とキリストとの態度を示せるものであり、そして人が真に選ばれしや否やは世の終末の審判の時に至らなければ客観的には確定しない以上、キリスト者は凡て回心によりて新生を経験せし後にも堕落する場合あり得るものであって、従って信仰の持続とその発育が必要であることを知らなければならない。我らこのことに努力するならば神は末の日までにこれを全うし給うであろう(ピリ1:6)。
要義2 [如何なる程度の堕落が絶望的なりや]キリスト者は回心し新生を経験せる後といえども肉の弱さのために罪に陥ることがある。かかる種類の罪であるならばたといそれが如何に重き罪であっても、またたといその回数が七度を七十倍するほどであっても、決して絶望的ではない。我ら悔改めてその罪を言い表わすならば、キリスト我らのために神の前にこれを執成し、神はこれを赦し、これを潔め給うのである(Tヨハ1:9。Tヨハ2:1)。しかしながらもしキリスト者にして「ことさらに罪を犯して止めない場合」(ヘブ10:26)、またはキリストの贖いを拒み、神の恩恵を故意に排斥する場合には、これ聖霊を蔑如し無視するのであって、聖霊を涜 すの罪であり宥 さるべからざるものである。
註解: 著者は以上において恐るべき絶望的の堕落につきて述べし後、この語が過度に読者を恐れしめざるように次に慰めと薦めとを与えている。
口語訳 | しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。 |
塚本訳 | しかし愛する者たちよ、わたし達は(今)こんなに(烈しいことを)言っていても、あなた達については、それより善いもの、すなわち(最後の)救に関するものがあることを確信する。 |
前田訳 | しかし、親愛なる方々、こうはいいますものの、あなた方については、よりよいもの、救いに導くものがあることをわれわれは確信しています。 |
新共同 | しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。 |
NIV | Even though we speak like this, dear friends, we are confident of better things in your case--things that accompany salvation. |
註解: キリスト者に対する呼称として最も相応しきものの一つである。薦めを与える場合にこの呼びかけを用いる場合が多い。読者に対する真情の吐露である。
われら
註解: 以上のごとく言いしものの実は汝らは前諸節に述べし滅亡と詛いより脱 れ得ざるごとき状態に在るのではなく、次節に示すがごとくそれよりも一層善き状態におり、従ってまた救いと密接なる関係にあることを信じて疑わないとの意味で、前数節の激語をやわらげんがための用意である。
辞解
[救ひにかかはる事] 原語は「救に近き事」「救と密着せる事」等を意味する。
6章10節
口語訳 | 神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。 |
塚本訳 | というのは、神は不公平ではないから、あなた達のした(善い)ことや、御名のために聖徒たちの世話をし、今もなお世話をしつつ、示したその愛を、お忘れになることはないからである。 |
前田訳 | 神はあなた方がみ名のためにした愛のわざをお忘れのような不義の方ではありません。あなた方はかつて聖徒にお仕えでしたし、今もお仕えです。 |
新共同 | 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。 |
NIV | God is not unjust; he will not forget your work and the love you have shown him as you have helped his people and continue to help them. |
註解: (▲信仰の有無はその告白する教理によって知ることはできず、その生活そのものの如何による。)彼らがより善き物を有ち、救いに近接している証拠として著者の掲げし事柄は、教理の問題でなく実行の問題であることに注意せよ。真の信仰は必ず実行となりて顕われるものである。その実行の内容は「勤労」と「愛」とで、「愛によりて働く(勤労する)信仰」(ガラ5:6)を彼らが持っていたことを示している。そしてこの愛は聖徒すなわち信者に対する過去現在の奉仕となり、その困窮を援 ける施しとなって顕われ、この奉仕は自己のためにもあらずまた信者のためにもあらず神の御名のため、神の御栄えのために為されたのであった。そして神は義の神に在せば、必ずこれらの勤労と愛とを記憶して彼らを救いに導き給うであろう。
辞解
[事ふる] diakoneô は「施す事」の意味にも用いらる(Uコリ8:3。Uコリ9:1註参照)。
6章11節
口語訳 | わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、 |
塚本訳 | ただわたし達は、あなた達のひとりびとりが希望を完成するため、最後まで前と同じ熱心を示したらと思うのである。 |
前田訳 | われらは願っています。あなた方のめいめいが最後まで希望の実現へと同じ熱意を示してください。 |
新共同 | わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。 |
NIV | We want each of you to show this same diligence to the very end, in order to make your hope sure. |
註解: 私訳「我らは汝らの各々が充実せる望みを懐かんがために終りまで同じ勉励 をあらわして」著者は前節においてヘブル書読者の愛の行為を特に指摘したる後、転じて彼らの欠点ともいうべきキリスト者としての希望に対する執着の欠乏とこれを充実せんとせる努力の不足とを補わんがために本節の薦めを為しているのである。信仰の初歩に止っている者は、キリスト者の望みの如何に大なるものであるかを知らない。それ故にキリストの再臨によりてキリスト者が嗣ぐべき嗣業の富に対する望みを充分に豊かに握ることは彼らにとって極めて必要で、これがためには前節の勤労と愛とに対して示せると同じ勉励 努力を示すことが必要である。この望みを確保することによりて聖徒に対する愛は深められる(コロ1:5)。
辞解
[全き望を保ち] plêrophoria tês elpidos でこのプレーロフォリアは「確信」(A1、B1、C1)「充実」(I0、Z0)等の意味があり、ここではこの二者を兼るはずと解する説もある(E0)、すなわち「望を心一杯に持つ」ことで確信という意味もまたこの中に含まれていると見るべきであろう(ヘブ10:22。コロ2:2。Tテサ1:5)。
6章12節
口語訳 | 怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。 |
塚本訳 | これはあなた達が怠け者とならずに、信仰と忍耐とをもって、(神の)約束(のもの、すなわちキリストによる救)を相続する人たちの真似をする者となるためである。 |
前田訳 | 怠けものにならないで、信仰と忍耐によって約束を受け継ぐ人々に見習ってください。 |
新共同 | あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。 |
NIV | We do not want you to become lazy, but to imitate those who through faith and patience inherit what has been promised. |
註解: 前節の敷衍であって、充実せる信仰を懐 かんと努力する者は、その心や行いにおいて、また教えを聞きて進歩することにおいて怠るごときものとならない。かえって神の約束し給える嗣業の栄光の富(エペ1:18)を嗣ぐがために信仰をもて忍耐するのであって、旧約新約の聖徒の中にかかる人は少なくない。ゆえにかかる人々に效 わんことを熱求しているのである。かくしてこの書の読者なるユダヤ人の信者も始めて愛(10節)と望(11節)と信仰(12節)とに充たされ救いを全うすることができるのである。
辞解
[求む] epithumeô は「熱求する」の意。
要義 [神は我らの愛の行為を忘れ給わない]9−12節。マタ25:31以下。神は我らの学問や議論はこれを忘れ給うであろう。また我らの預言も異言も知識もみな廃 る時が来るであろう。しかし愛は永遠である(Tコリ13:8)。神は我らの愛の行為を永遠に忘れ給わない。一教派が信条の正統さをもって他の教派を審 く時、神はその理論の正否よりもその愛の有無に目を止め給うであろう。ヘブル書著者が、さらに充実せる希望を持たしめんとせし所以は一層この愛を増さんがためであって、単に信者をしてキリスト教終末観に通暁 せしめキリスト再臨の日時を計算するごとき愚を為さしめんがためではなかった。
6章13節 それ
口語訳 | さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、 |
塚本訳 | (あなた達はあのアブラハムの真似をしなければならない。)というのは、神はアブラハムに約束をされるとき、(全能の神で、ご自分より)大なる者を指して誓うことができなかったので、“御自分を指して誓い”、 |
前田訳 | 神がアブラハムにお約束になるとき、さして誓うべきより偉大なものがないので、御自らをさして誓い、 |
新共同 | 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、 |
NIV | When God made his promise to Abraham, since there was no one greater for him to swear by, he swore by himself, |
註解: 信仰をもって忍耐しさえすれば必ず嗣業を継ぐことを得ることをアブラハムの実例をもって示し、かつその理由は神がこれを誓い給いしによることを教えている。神これを誓いし以上、これほど確実なものはない。そしてアブラハムの場合において神は己を指して誓い給うた(創22:16)。これ神より大なるもの無きが故である。
6章14節 『われ
口語訳 | 「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。 |
塚本訳 | “わたしはかならずあなたを恵みに恵むであろう、また”あなたを“ふやしにふやすであろう”と言われた。 |
前田訳 | こう仰せでした、「きっとわたしはあなたの祝福に祝福を加え、あなたの子孫を増しに増す」と。 |
新共同 | 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。 |
NIV | saying, "I will surely bless you and give you many descendants." |
註解: 創22:16。七十人訳。旧約原文には「なんぢの種を殖 し殖 さん」とあり、ここでは神の約束と誓いの力につき述べるのが主題であって、逐字的引用を必要としないのでこれを除いたのであろう。アブラハムは忍耐によりこの神の誓いを完全に確信していた。
6章15節
口語訳 | このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。 |
塚本訳 | こうしてアブラハムは忍耐づよく待って、約束(のもの)を得たのである。 |
前田訳 | かくてアブラハムは忍耐したので約束のものを得ました。 |
新共同 | こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。 |
NIV | And so after waiting patiently, Abraham received what was promised. |
註解: アブラハムは神を信じその信仰による忍耐をもって終始した(ロマ4:1以下。ヘブ11:17)。その結果、老いたる妻よりイサクを得、このイサクを神に献ぐる場合にもなおその信仰を持続して再びイサクを得、またその子孫を得た(創17:1−22:19参照)。これ神の誓の変わらざる証である。
6章16節 おほよそ
口語訳 | いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。 |
塚本訳 | なぜなら、人は自分より大なる者(、すなわち神)を指して誓い、その誓が彼らのすべての反対論にきまりをつける裏づけとなるのである。 |
前田訳 | そもそも人間はより偉大なものをさして誓います。そしてその誓いはすべての反論を止める保証になります。 |
新共同 | そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。 |
NIV | Men swear by someone greater than themselves, and the oath confirms what is said and puts an end to all argument. |
註解: 後半私訳「而してその誓いは凡ての反対論を終結して確認に至らしむるものなり」。ここに神の誓いの意義を説明せんとして(17節)まず本節において人の誓いの性質を説明している。人が誓う場合は己より大なる者すなわち神を指して誓う。そしてこれによってもはやあらゆる反対も否定も効力なく、この事実は絶対的に確立せるものなることを意味している。これが誓いの性質である。
6章17節 この
口語訳 | そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。 |
塚本訳 | だから神は、約束(のもの)を相続する人たちに、御計画の不変であることを、よりはっきり示してやるために、誓をもって(それを)保証されたのである。 |
前田訳 | それゆえ、神は約束を受けるものたちにご経綸の不変性をより明らかに示そうとのおぼしめしで、誓いによって保証なさいました。 |
新共同 | 神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。 |
NIV | Because God wanted to make the unchanging nature of his purpose very clear to the heirs of what was promised, he confirmed it with an oath. |
註解: 神がアブラハムに誓いをもて語り給える所以は単なる約束によるよりも一層完全に神の御旨の不変なることを示さんがためであった。そしてこれを示される人々は「約束を継ぐ人々」すなわち旧約時代および新約時代の聖徒である。「誓を加え給へり」はむしろ「誓をもて立会ひ給へり」と訳すのが優っており、あたかも人と人とが神を指して誓う場合に、神が彼らの間の立会人、保証人となり給うごとき意味があると同じく神が自らを指して誓い給う場合には、神自身誓いをもて人と神との間の立会人、保証人となり給うたのである。
辞解
[誓を加へ給へり] 「加える」の mesteuô は他動詞的に「中間に置く」「仲介者(立会人)とする」とも読むことができ、改訳はこの意味をもって「誓を加ふ」と訳したのであろう。しかし多くの註解家(A1、B1、E0、I0、M0、W2、Z0等)はこれを自動詞的に「誓をもって中間に立つ」「誓をもって立会人(保護人、仲介者)となる」と解し、前掲註解のごとき意味に取る。予もこれに従った。
6章18節 これ
口語訳 | それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。 |
塚本訳 | これは神が嘘をつくことの出来ない二つの不変のこと(、すなわち約束と誓と)によって、(わたし達に──自分の)前にある希望をしっかり持っているため(キリストの福音に)のがれてきているわたし達に──力強い奨励をお与えになろうとするのである。 |
前田訳 | それは神がお偽りになれない二つの不変のことによって、われらが強い励ましを受けるためです。われらは目の前に置かれている希望を捕えるために逃れてきたものです。 |
新共同 | それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。 |
NIV | God did this so that, by two unchangeable things in which it is impossible for God to lie, we who have fled to take hold of the hope offered to us may be greatly encouraged. |
註解: 前節末尾の理由の説明である。二つの変わらぬものとは「約束」と「誓」とであって、その中の一つですら確定不変であるのに、いわんや二つの変わらぬものをもってして、神は決して偽り給うことができない。神は真 に在し給う故に単なる神の言すら謊 りがない、いわんや約束や誓いにおいておや。
辞解
[變らぬもの] 変らぬ行為。
註解: アブラハムが約束の地カナンに向ってハランの地を遁 れ出でしごとく(ヘブ11:8−10)我らもまた己が前に置かれし神の約束の嗣業なる希望を捉えんがために(ピリ3:12−14)この世より遁 れ出でし者である。従って多くの試誘 と苦難と迫害とがこれに伴う、故にもしこの約束と誓いとが我らの希望の保証とならないならば我らは落胆し、堕落するであろう。ゆえにかかる我らに強き奨励を与えて励まさんがために神は約束の上に誓いをもて立会い、保証人となり給うたのである。
辞解
[前に置かれたる希望] 未来において我らの嗣業となるべきもので望みの目的となっているもの。
[遁 れたる] katapheugô は「難を避け隠家を求めて遁 れる」意味に用いられている語である(ヨシ10:27。申4:42。詩143:9。イザ10:3)
6章19節 この
口語訳 | この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。 |
塚本訳 | わたし達はこの希望を魂の安全かつ不動なる錨として持っており、(海の深所ならぬ)“(聖所の)幕の内に入るのである”。(わたし達の希望がいと高き天にまで達するのはこのためである。) |
前田訳 | この希望をわれらは魂の確固不動の錨として持っています。それは幕の中へと入らせるものです。 |
新共同 | わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。 |
NIV | We have this hope as an anchor for the soul, firm and secure. It enters the inner sanctuary behind the curtain, |
註解: 私訳「我ら霊魂の錨としてこの希望を有つ、この錨は安全にして動かずかつ幕の内部に入る」。あたかも荒海の上を航行せる船舶が遁 れて安全なる港に錨を投ぜるがごとくに我らの霊魂の船はこの世の荒海を遁 れて(前節)神の国の安全なる港に投錨している。そして我らの錨は神の約束と誓いとによりて与えられし望みであって、従って困難試誘 の如何なる風波があるも我らは安全でありまたその錨は確固不動である。そしてこの希望の錨は幕の内側に投込まれてあって、今直ちにこれを見ることができない。この幕は至聖所と聖所とを隔てる幕でこの内側には至聖所がありアロン以下の大祭司は年一回、キリストは永遠に(次節)この中に入りて神と面接し民のために贖いをなした。この神との親密なる霊交の世界が我らの望である。
6章20節 イエス
口語訳 | その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。 |
塚本訳 | 主イエスはわたし達のために先駆者としてそこに入ってゆき、“永遠にメルキゼデクと同等の”大祭司となられたのである。 |
前田訳 | そこへイエスはわれらのために先がけしてお入りになり、とこしえにメルキセデクに等しい大祭司におなりでした。 |
新共同 | イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。 |
NIV | where Jesus, who went before us, has entered on our behalf. He has become a high priest forever, in the order of Melchizedek. |
註解: 幕の内側、すなわち神の国にまず第一に前駆として入り給えるものは復活栄化し神の右に坐し給えるイエス・キリストであった。そしてこれ結局我らのためであって我らの贖罪も(ヘブ9:12)執成しも(ヘブ9:24)神に近付くことも(ヘブ10:19以下)みなイエスがまず至聖所に入り給えることによりて可能となったのである。そしてイエスは、アロンのごとく人間として一時的の大祭司ではなくメルキゼデクのごとく(ヘブ5:6、ヘブ5:10。およびヘブ7章以下参照)王たる大祭司として永遠に至聖所に入り給うた。▲キリスト者の希望は至聖所に入って神との出遭いを有つことである。このような生活がすなわち信仰生活である。
要義1 [我らの望みなるキリスト]Tテモ1:1。コロ1:27。信仰の初歩にあるヘブル書の読者に対して、その著者が最も熱心に薦めている問題はキリスト者の希望を最も確実に握ることであった。キリスト者の信仰がこの世的であり来世の希望が明瞭でない間は、この世の風波、すなわち試誘 や困難のために堕落する危険が多い。ゆえに我らは神の約束、殊にその誓を信じ、不動なる望みを懐かなければならない。そしてこの望みは我らの嗣 ぐべき嗣業であってイエス・キリストまずその長子としてこの嗣業を継ぎ給う。天国が我らの望みなる所以はイエス・キリストがまずそこに入り給うたからであって、イエスなしに天国に入るよりもイエスと共に地獄に下る方が優っている。ゆえに来世の希望の確実さもその歓喜もみな一つにイエスに懸っているのであって、彼こそは我らの望みであり給う。
要義2 [約束と誓い]我らの希望は神の約束とこれに加えるに誓とをもって与えられしものである。その確実さにおいてこれに勝るものはない。もし我らの希望が我らの主観に過ぎないならばそれは動搖常なく頼り得ないものである。神が約束に加うるに誓をもって立入り給えることは我らの希望の絶対的確実さと永遠性とを示すものである。