黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヨハネ伝

ヨハネ伝第13章

分類
4 受難週 12:1 - 19:42
4-1 受難前の出来事 12:1 - 13:38
4-1-6 イエス弟子の足を洗い給う 13:1 - 13:17
4-1-6-イ 洗足の動機 13:1 - 13:3

註解: 前章をもってユダヤ人の不信の歴史は終りを告げ、これよりイエスはその少数の弟子に対してその愛を示し(13章)、その深き愛より流れ出でし最後の教訓を与え(14−16章)、最後に天の父に対する感謝と祈りを捧げ給うた(17章)。これイエスの死に対する準備であって、その死に先立ちて弟子たちの信仰を固め、彼らに必要なる凡ての教訓を与え給うた。この部分は山上の垂訓と対照して聖書中の最も貴重なる宝石である。

13章1節 過越(すぎこし)のまつりの(まへ)に、イエスこの()()りて(ちち)()くべき(おの)(とき)(きた)れるを()り、()()(おのれ)(もの)(あい)して、(きはみ)まで(これ)(あい)(たま)へり。[引照]

口語訳過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
塚本訳過越の祭の前、イエスはこの世から父上の所に移ってゆく時が(ついに)来たことを知って、この世で愛された弟子たちを、最後の瞬間まで愛しぬかれた。──
前田訳過越の祭りの前に、イエスは、彼の時が来て世から父へと移るべきことを知り、世にあるおのがものを愛して、彼らを最後まで愛しつくされた。
新共同さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
NIVIt was just before the Passover Feast. Jesus knew that the time had come for him to leave this world and go to the Father. Having loved his own who were in the world, he now showed them the full extent of his love.
註解: 過越のまつり(マタ26:30要義参照)は過越の食(ニサンの月の14日)と除酵祭(マタ26:17マコ14:12、ニサンの月の15−21日)の双方を併せて呼ぶゆえに「過越のまつりの前」とは過越の食の始まる前すなわち14日夕刻を意味する(ただしこれを13日と解する節が多くある。なおヨハ19:42[19章末尾の]附記参照)。イエスの心はその十字架と昇天の時近きを知り、己世を去りて後に「世にある」すなわち世に残されるその弟子たちおよびその後に来るべき凡てのキリスト者のことにつき憂慮し給い、彼の愛をさらに無限に延長して、世の終りにおいて彼が再び来給う時まで、変らざるその愛をもって彼らを愛し給うた。すなわちイエスは復活昇天の後もこの愛により中保者として彼らのために執成し給う。この一節は十三章以下全部を包含する要約であり、而して洗足の事蹟(4−17節)は、その本来の意味と共になお昇天し給える後のイエスの執成しの御業の型と見ることができる。
辞解
[己の時] 十字架の死と復活昇天の時、なお引照参照。
[極まで] eis telos は多くは「イエスの死まで」と解し、または「非常に」の意味に解するけれどもここではマタ20:22マタ24:13マコ13:13Uコリ3:13Tテサ2:16のごとく「最後まで」「永遠に」「徹底的に」の意味であろう(H0)。而してこの愛は洗足や十字架のみ(H0)ではなく、復活後の執成(とりな)しにまで及んでいると解すべきであろう。

13章2節 夕餐(ゆふげ)のとき、惡魔(あくま)(はや)くもシモンの()イスカリオテのユダの(こころ)に、イエスを()らんとする(おもひ)()れたるが、[引照]

口語訳夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
塚本訳(祭の前日の)夕食のとき、すでに悪魔はシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを売ろうとする考えを吹き込んだ。
前田訳夕食になると、すでに悪魔がシモンの子イスカリオテのユダの心にイエスにそむくという考えを吹き込んだ。
新共同夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
NIVThe evening meal was being served, and the devil had already prompted Judas Iscariot, son of Simon, to betray Jesus.
註解: イエスが切にその弟子を愛し居給うその時悪魔がユダの心の愛なきに乗じて彼を誘った。一方キリストはその弟子たちを終りまで愛し、十字架の死をも味わんとし給うに際して、他方悪魔はこのイエスを売らんとの思いをその弟子の一人に入れたのである。愛と憎、光明と暗黒とは常に著しき対照をなすものである。この夕餐は最後の晩餐であった。マタ26:20以下等に記されるものと同一である。ヨハネ伝によれば過越の食は未だ行われざるもののごとくに見えるけれども (ヨハ13:29ヨハ18:28ヨハ19:14ヨハ19:31) 必ずしも然らず(各当該節註参照)。他の三福音書はこの最後の晩餐が過越の食であったことを明らかに録している。この間の問題につきてはヨハ19:42(19章末尾)の附記参照。

13章3節 イエス(ちち)萬物(ばんぶつ)をおのが()にゆだね(たま)ひしことと、(おのれ)(かみ)より()でて(かみ)(いた)ることを()り、[引照]

口語訳イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
塚本訳イエスは、父上が一切のものを自分の手におまかせになっていること、また自分が神のところから出てきて、(今また)神に帰ってゆく(身の上である)ことを知りながら、
前田訳イエスは、父がすべてをその手にゆだねられたこと、神から出て神へ帰ることを知りながら、
新共同イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
NIVJesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God;
註解: キリストはその死後に受くべき権力と栄光とを知り給うた。すなわちやがてはその権力の中に万物を保持し(マタ28:18ヨハ3:35マタ11:27)神の右に坐してその権を握り給うことを知った。而して彼は神の右に坐して常に彼を信ずる者のために執成(とりな)し給うべきことを思い給うた。このことを最も適切なる型をもって示さんとして彼は弟子たちの足を洗い給うたのである。すなわちキリストはこれによってその極端なる謙遜を示し給うと同時に、彼は今日もなお神の右に在しキリスト者の日々の歩みの汚穢を洗い給うことを表明している。本節と次節以下との連絡はかく解することによりて最も滑らかとなる。普通イエスの洗足の意義を唯イエスの謙遜とのみ解せんとする人は「知り」を「知るにもかかわらず」との意に解せんとするけれども文法上無理である。

4-1-6-ロ 洗足の行為と其の意義 13:4 - 13:11

13章4節 夕餐(ゆふげ)より()ちて上衣(うはぎ)をぬぎ、手巾(てぬぐひ)をとりて(こし)にまとひ、[引照]

口語訳夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
塚本訳夕食の席から立って、上着をぬぎ、手拭を取って腰に巻かれた。
前田訳夕食の席から立ちあがって上着を脱ぎ、手拭を取って体に巻かれた。
新共同食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
NIVso he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist.

13章5節 (つい)(たらひ)(みづ)をいれて、弟子(でし)たちの(あし)をあらひ、(まと)ひたる手巾(てぬぐひ)にて(これ)(ぬぐ)ひはじめ(たま)ふ。[引照]

口語訳それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
塚本訳それから盥に水を入れて、ひとりびとり弟子たちの足を洗っては、(腰に)巻いた手拭で拭き始められた。
前田訳それから盥(たらい)に水を入れ、弟子たちの足を洗っては巻いた手拭でふきはじめられた。
新共同それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
NIVAfter that, he poured water into a basin and began to wash his disciples' feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
註解: 当時の習慣として食前に足を洗うのを常としていた。而してこれ奴隷の仕事であった。万物を支配し給う神の子イエスが愛のゆえに奴隷の務めを行い給うことはいかに弟子たちを感動せしめたことであろうか。而して、これこの席のみの事実ではなく、イエスが肉身となりてこの世に来給えること、而して十字架の死を遂げ給えることはみなこの愛より出でし自己犠牲の行為であった(ピリ2:6−8)。而して神の右に在し今も活き給うイエスは、今もなお天に在して我らの足の汚れを洗い給う。

13章6節 かくてシモン・ペテロに(いた)(たま)へば、(かれ)いふ『(しゅ)よ、(なんぢ)わが(あし)(あら)(たま)ふか』[引照]

口語訳こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
塚本訳こうしてシモン・ペテロの所まで来られると、ペテロが(こばんで)言う、「主よ、わたしの足を、あなたが洗われるのですか。」
前田訳そうしてシモン・ペテロまで来られると、ペテロがいった、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いですか」と。
新共同シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
NIVHe came to Simon Peter, who said to him, "Lord, are you going to wash my feet?"
註解: ペテロを第一に洗い給わなかったことは明らかであるが、いずれの弟子を先にしたかは不明である。ペテロは恐怖と疑惑のあまりこの質問を発した。彼の率直なる性質がここにも発露している。キリストの愛による謙遜(受肉と十字架の死)はその意義あまりに深くして肉の心はこれを理解することができない。ペテロもその一人であった。ペテロが惑える謙遜の心持は尊い心持ではあるが、神の為し給うままに従順に服従することは一層尊い心持である。我らの罪のためにキリスト十字架に()き給うことも我らの理解を超越する。されどこれを疑わずして受くるものはその恵みに与ることができる。

13章7節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『わが()すことを(なんぢ)いまは()らず、(のち)(さと)るべし』[引照]

口語訳イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
塚本訳イエスが答えて言われた、「わたしが何をしているのか、いまはあなたにわからない。(わたしがいなくなった)あとでさとるだろう。」
前田訳イエスが答えられた、「わたしのすることは今はあなたにわからない。あとで悟ろう」と。
新共同イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
NIVJesus replied, "You do not realize now what I am doing, but later you will understand."
註解: 神の我らに語り給う御言、為し給う御業の意義をその時直ちに解し得なくとも、我らはこれに服従すべきである(36節)。主は後に悟りを与え給うであろう。12−17節においてイエスは弟子たちにこの意義を説明し給うた。ただこれがその意義の凡てを尽くしていると考える必要はない(C1、T0)。

13章8節 ペテロ()ふ『永遠(とこしへ)()(あし)をあらひ(たま)はざれ』[引照]

口語訳ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
塚本訳ペテロが言う、「わたしの足は、いつまでも絶対に洗わないでください。」イエスは答えられた、「わたしが(足を)洗ってやらないなら、あなたはわたしとなんの関係もない人だ。」
前田訳ペテロはいう、「わたしの足はいつまでも決して洗わないでください」と。イエスは答えられた、「わたしが洗わないなら、あなたはわたしの仲間ではない」と。
新共同ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
NIV"No," said Peter, "you shall never wash my feet." Jesus answered, "Unless I wash you, you have no part with me."
註解: 強き拒絶である。神を畏れるのあまり、その憐憫を拒絶することは大なる罪である。神は己を畏れると共に己の憐憫を望む者を好し給う(詩147:11)。我らは畏れをもって神の憐憫を凡て受くべきである。また自己の汚穢をイエスによりて潔められる必要を感ぜざる者は高慢の罪に陥っている者である。かかる者はイエスの恩恵に与ることができない。
辞解
[永遠に] 強き否定の場合に用いられる。例えばTコリ8:13

イエス(こた)(たま)ふ『(われ)もし(なんぢ)(あら)はずば、(なんぢ)われと關係(かかはり)なし』

註解: 我らは日毎に犯す我らの罪をイエスによりて洗い潔められることが必要である(Tヨハ1:9)。イエスの愛と義とはこのことを要求し給う。もしこれを拒むならば我らはイエスに連なりて一体となることができない。このことをイエスは弟子たちの足を洗うことの型をもって示し給うた。ゆえにこのイエスの行動には12−17節の説明以上に深き意義を含んでいることを見ることができる。今日もイエスは神の右にありて同じ愛をもって我らの足を洗い、我らのために執成し給う(ロマ8:34ヘブ7:25ヘブ9:24Tヨハ2:1)。▲イエスの洗足を拒むことはその十字架を拒むことである。十字架は我らの全身を潔めるための入浴である。

13章9節 シモン・ペテロ()ふ『(しゅ)よ、わが(あし)のみならず、()をも(かしら)をも』[引照]

口語訳シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
塚本訳シモン・ペテロがうろたえて言う、「主よ、(それでは、)足だけでなく、手も、頭も。」
前田訳シモン・ペテロはいう、「主よ、足だけでなく手も頭も」と。
新共同そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
NIV"Then, Lord," Simon Peter replied, "not just my feet but my hands and my head as well!"
註解: 極端より極端まで一瞬間に移り行くペテロの性格がここにも顕われている。ペテロはイエスと離れることが何よりも大なる苦痛であった(ヨハ6:68)。ゆえに前節の主の御言におどろけるあまりこの答を発したのであった。而してこの答が次節の主の説明のごとき不信仰を意味することを彼自身は考えなかったのである。

13章10節 イエス()(たま)ふ『すでに(よく)したる(もの)(あし)のほか(あら)ふを(えう)せず、全身(ぜんしん)きよきなり。[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
塚本訳イエスが言われる、「(一度)湯浴みした者は、(あとでよごれた)足のほかは洗う必要はない、全身が清いのだから。(もう)あなた達は清い。だが、(あなた達)みんながそうではない。」
前田訳イエスはいわれる、「湯あみしたものは足のほか洗う必要はない、全身が清いから。あなた方は清い、皆ではないが」と。
新共同イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
NIVJesus answered, "A person who has had a bath needs only to wash his feet; his whole body is clean. And you are clean, though not every one of you."
註解: キリストを信ずる者は新たに生れたものであってその表徴なるバプテスマの示すがごとく、すでに全身潔められている者である。イエス・キリストに在る者は全く潔き新たなる生命である(Uコリ5:17ヘブ10:14ヘブ10:18)。ゆえに再び全身を潔める必要がない。唯その日々の歩みにおいてその足に塵を受け、罪に陥り汚れを受くることは有り得るのであって、これをキリストによりて潔められることが必要である。この二者の区別はこれを明らかにしなければならない。

()(なんぢ)らは(きよ)し、されど(ことご)とくは(しか)らず』

13章11節 これ(おのれ)()(もの)[の(たれ)なる]を()りたまふ(ゆゑ)に『ことごとくは(きよ)からず』と()(たま)ひしなり。[引照]

口語訳イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
塚本訳イエスは自分を売る者(がだれであるか)を知っておられた。それで、「みんなが清いのではない」と言われたのである。
前田訳彼はそむくものを知っておられた。それゆえ、皆が清いのではないといわれたのである。
新共同イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
NIVFor he knew who was going to betray him, and that was why he said not every one was clean.
註解: 弟子たちはみなイエスに対する信仰によりて全身を潔められし人々であった。今またその足を洗われて彼らは全く潔い者となった。我らが審判の日に神の前に立つ時はかくのごとき姿においてするのである。イエスはユダが彼を売らんとするを知り給いて「悉くは潔からず」と宣い彼をして悔改めしめんとし給うた。
要義 [罪の赦しと個々の罪の潔め]キリスト者はキリストの贖罪によって罪の根を断ち、全く潔きものとして新たに生れ、悪魔に仕うることをやめてキリストに仕うる者となったのである。この意味において彼は全く潔い者である。唯肉の性質はなお彼に附帯しているのであって、彼は肉に従う者にあらず霊に従う者であるけれども肉の力は悪魔の利用する処となりて彼をして個々の罪に陥らしむるのである。ゆえに我らにとりて助け主キリストが必要であり、キリスト我らのために執成しをなし個々の罪より我らを潔め給うのである。この真理はキリスト者によりても種々に誤解せらる。(1)或はいつまでも全身を洗われんことをのみ(こいねが)うことが信者の本分なりとするもの、(2)或は全身の洗われしことのみ知りて個々の罪すなわち汚れし足を洗われる必要を忘れるもの、(3)或は全身は勿論足も潔くなり、すなわち個々の罪をも犯さざるに至れりと信じてキリストの執成しを必要とせざるもの等であっていずれも誤っている。

4-1-6-ハ 洗足につき弟子たちを教え給う 13:12 - 13:17

13章12節 (かれ)らの(あし)をあらひ、(おの)上衣(うはぎ)をとり、(ふたた)(せき)につきて(のち)いひ(たま)ふ『わが(なんぢ)らに()したることを()るか。[引照]

口語訳こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
塚本訳さて、みんなの足を洗い終ると、上着を着てふたたび席について、言われた、「いまわたしは何をあなた達にしたか、(そのわけ)がわかるか。
前田訳彼らの足を洗い終え、上着を着、ふたたび席についていわれた、「わたしがあなた方にしたことがわかるか。
新共同さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
NIVWhen he had finished washing their feet, he put on his clothes and returned to his place. "Do you understand what I have done for you?" he asked them.
註解: この時までイエスはその行為について説明を与え給わなかった。弟子たちの心はみな驚駭と不審とに充たされていたことであろう。かかる心の状態に向って与えられる教訓は最も有効である。

13章13節 なんぢら(われ)()また(しゅ)ととなふ、()()ふは(うべ)なり、(われ)(これ)なり。[引照]

口語訳あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
塚本訳あなた達はわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいるが、そう言うのは正しい。その通りだから。
前田訳あなた方はわたしを先生とか主とか呼ぶ。それは正しい。わたしはそのとおりだから。
新共同あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
NIV"You call me `Teacher' and `Lord,' and rightly so, for that is what I am.
註解: イエスはまず弟子たちに対する己の地位につき明らかにし給う。しかもこれ神の国の「師」または「主」はこの世のそれらとは異なることを示さんがためであった。▲この世の「師」や「主人」は僕の足を洗うことをしない。

13章14節 (われ)(しゅ)また()なるに、(なほ)なんぢらの(あし)(あら)ひたれば、(なんぢ)らも(たがひ)(あし)(あら)ふべきなり。[引照]

口語訳しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
塚本訳してみると、主であり先生であるこのわたしが足を洗ってやったのだから、あなた達も互に足を洗う義務がある。
前田訳それで、わたしが主として先生としてあなた方の足を洗ったゆえに、あなた方も互いに足を洗うべきである。
新共同ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
NIVNow that I, your Lord and Teacher, have washed your feet, you also should wash one another's feet.
註解: 神の国においては自らを(ひく)くするものは高くされることをイエスは実行をもって示し給い、弟子たちもかく行うべきことを命じ給うた。而してこの謙遜は愛をもって他人の罪を負い給いしイエスに倣う意味であって、弟子たちも互に愛をもて他人に仕え、他人の罪を己が身に負いてこれを潔むることが必要であることを示し給うたのである。もしイエスが今もなお神の右に在して我らの足の塵を洗い給うことを深く思うならば我らも彼に倣うことができるであろう。

13章15節 われ(なんぢ)らに模範(もはん)(しめ)せり、わが()ししごとく(なんぢ)らも()さんためなり。[引照]

口語訳わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
塚本訳わたしがしてやったとおりあなた達もするようにと、手本を示したのである。
前田訳わたしがあなた方にしたようにあなた方もするようにと、摸範を示した。
新共同わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
NIVI have set you an example that you should do as I have done for you.
註解: 第四世紀以来本節に従い洗足がカトリック教会の儀式の一つになっていた。キリストは深くこれを忌み給うであろう。(▲我らの日常生活の信仰的道徳的教訓の数々が簡単な儀式や形式に化してしまい、この形式の実行が信仰や道徳そのもの以上に重視されることは信仰の堕落である。洗礼式、晩餐式みな然り。)イエスのこの御言は勿論イエスの愛と謙遜との行為を為せよとの意味であった。またイエスの昇天後今日まで為し給うことを型をもって示し給うたのであった。活けるキリストに連なるキリスト者は常に彼のごとくに行うべきである。

13章16節 (まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、(しもべ)はその(しゅ)よりも(おほい)ならず。(つかは)されたる(もの)(これ)(つかは)(もの)よりも(おほい)ならず。[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、僕はその主人よりもえらくはない。また使は本人よりもえらくはない。(だからわたしを真似るがよい。)
前田訳本当にいう、僕は主人より偉くはなく、使いはつかわす人より偉くはない。
新共同はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
NIVI tell you the truth, no servant is greater than his master, nor is a messenger greater than the one who sent him.
註解: この句はイエスのしばしば用い給える句であって(ヨハ15:20マタ10:24)キリストとその弟子とは同一の運命を持ち、また同一の責任を有つことを示している。その関係は主人と僕、遣わす者と遣わされたる者との関係と同一であって、キリストすら弟子の足を洗う犠牲の生涯を送り給う以上、弟子はこれを思いて益々自己を(ひく)くしなければならない。

13章17節 (なんぢ)()これらの(こと)()りて(これ)(おこな)はば幸福(さいはひ)なり。[引照]

口語訳もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
塚本訳このことがわかったなら、そのとおりにすれば、幸いである。
前田訳これがわかって、そのとおりすれば、あなた方はさいわいである。
新共同このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
NIVNow that you know these things, you will be blessed if you do them.
註解: 知と行とは相伴わなければならぬ。而して互に足を洗うことは一見人を不快ならしむる厄介な仕事のようであるけれども然らず、人はこれによりて、否これによりてのみ真に幸福となることができる。

4-1-7 イエス、ユダの反逆を指示し給う 13:18 - 13:30

13章18節 これ(なんぢ)(すべ)ての(もの)につきて()ふにあらず、(われ)はわが(えら)びたる(もの)どもを()る。されど聖書(せいしょ)に「(われ)とともにパンを(くら)(もの)、われに(むか)ひて(きびす)()げたり」と()へることは、[(かなら)ず]成就(じゃうじゅ)すべきなり。[引照]

口語訳あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。
塚本訳(幸いであると言っても、)あなた達みんながそうだと言うのではない。どんな人を(弟子に)選んだか、わたしは(始めから)知っている。(中には不心得な者もあるようだ。)しかしそれは、〃(いつも一しょに)わたしのパンを食べる(親しい)者が、踵をあげてわたしを蹴飛ばした〃という聖書の言葉が成就するためである。
前田訳あなた方の皆についていうのではない。わたしはだれを選んだかを知っている。しかしそれは、『わがパンを食べるものが踵(かかと)をあげて去った』とある聖書が成就するためである。
新共同わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
NIV"I am not referring to all of you; I know those I have chosen. But this is to fulfill the scripture: `He who shares my bread has lifted up his heel against me.'
註解: しかしながら前節の幸福を享有する者は彼らの全部ではない。愛なき高ぶりのためにこの幸福を失う者がある。それはユダであった。イエスはその選び給いし使徒たち(ユダをも含む、ヨハ6:70)のいかなる人物なるかを(M0)知り給うた。それにもかかわらずユダのごときものをも選んだのは聖書の言の成就せんがために神の御旨に従い給うたのである。この引用は詩41:9よりの自由引用で、ダビデ(と称されている)の場合の事実すなわち最も親密なる者が叛逆者となったことがイエスに関する預言であったことを示している。
辞解
[我とともにパンを食ふ者] 食卓を共にする者の意味で親友を指す。
[踵を擧ぐ] 蹴ること、悪意ある暴行、すなわち叛逆を意味す。この部分は種々に解せらる。(1)『されど聖書の成就せんために「我とともにパンを食ふ者われに向いて踵を擧げたり」』、この訳はイエスが聖書をイエスの言の一部として引用し給いしこととなり他に例なし。(2)「我とともに・・・・・・擧げたり」なる聖書の成就せんために[このこと起れるなり]または[我は彼らを選べり]M0と訳す。すなわち[ ]内の語を補充する必要あり。予はこの中の最後の訳によった。改訳本文は適当ではない。▲▲18節後半を次のごとくに試訳したい、「されど聖書が成就せんが為に我と共にパンを食する者、我に向って踵を挙げたり」、引用の句がイエスの言の中に溶け込んだとする読み方。

13章19節 (いま)(より)その(こと)()らぬ(まへ)(これ)(なんぢ)らに()ぐ、(こと)()らん(とき)、わが(それ)なるを(なんぢ)らの(しん)ぜんためなり。[引照]

口語訳そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。
塚本訳事のおこらない先に、いまから言っておく。事がおこった時に、わたしがそれ(救世主)であることをあなた達が信ずるためである。
前田訳今、事がおこる前にそれをいうのは、事がおこったときに、わたしがそれ(キリスト)であることをあなた方が信ずるためである。
新共同事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
NIV"I am telling you now before it happens, so that when it does happen you will believe that I am He.
註解: もしイエスが予めこのことを弟子たちに告げ給わなかったならば、ユダの裏切りによりてイエスが付され給いし時、弟子たちはみなイエスのメシヤに在すことを疑ったであろう。今イエスがこのことを予告し給いしにより疑惑の原因が確信の原因となった(M0)。
辞解
[我のそれなるを] ヨハ8:24註参照。

13章20節 (まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、わが(つかは)(もの)()くる(もの)(われ)をうくるなり。(われ)()くる(もの)(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)()くるなり』[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが遣わす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのであり、わたしを受けいれる者は、わたしを遣わされた方を受けいれるのである。」
前田訳本当にいう、わたしがつかわすものを受ける人はわたしを受け、わたしを受ける人はわたしをつかわされた方を受ける」と。
新共同はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
NIVI tell you the truth, whoever accepts anyone I send accepts me; and whoever accepts me accepts the one who sent me."
註解: マタ10:40註参照。弟子たちが互に相愛し、互に足を洗い合うならば、それはキリストを受くることであり、もし互の間に愛がないならばキリストをも受けない。而してキリストに叛くユダは結局神に叛くと同じく、相互に愛の行為を行わざるものは結局父を受けざる叛逆者となるのである。ゆえに愛は信仰の本質である。─ 本節と前節または後節の連絡は難解不明で種々の異説あり。
要義 [愛なき者はキリストに叛く]キリストに在りて兄弟を愛する者はこの愛の中に凡ての幸福と満足とを見出すことができ、これに反して愛なき者はユダのごとくにキリストの価値を疑い、自己の野心や慾望の支配する処となり、サタンに乗じられてついにキリストに叛くに至るのである。

13章21節 イエス(これ)()のことを()()へて、[(こころ)](御霊(みたま))さわぎ(あかし)をなして()(たま)ふ『まことに(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(なんぢ)らの(うち)一人(ひとり)われを()らん』[引照]

口語訳イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
塚本訳こう言ったあと、イエスはひどく興奮して、(弟子たちに)はっきりこう言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなた達のうちの一人が、わたしを(敵に)売ろうとしている!」
前田訳こういわれると、イエスは心騒ぎ、断言された、「本当にいう、あなた方のひとりがわたしを売ろう」と。
新共同イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
NIVAfter he had said this, Jesus was troubled in spirit and testified, "I tell you the truth, one of you is going to betray me."
註解: いよいよユダの叛逆が近付いたのでイエスは御霊 pneuma の動揺を禁じ得なかった(「心」ではない。すなわち自己の死を恐れる人情的動揺ではなく不信を悲しむ宗教的動揺である)。サタンがその席に入り愛する弟子の一人を捕虜にせんとしている以上、イエスの御霊は擾乱(じょうらん)せられざるを得ない。一方父なる神の御旨には服従せざるべからず、一方その愛する弟子の一人が彼を敵に渡さんとしていること、イエスにとって堪え難き苦痛であった。ここにおいて血を吐くの思いをもってついに明らかに叛逆者について証し給うた。1018節には唯漠然とこのことを暗示し給い、今ここに一層明らかにこれを告げ給うた。

13章22節 弟子(でし)たち(たがひ)(かほ)()(あは)せ、(たれ)につきて()(たま)ふかを(いぶか)る。[引照]

口語訳弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。
塚本訳弟子たちはだれのことを言われるのか見当がつかず、顔を見合わせていた。
前田訳弟子たちはだれのことをいわれるのかわからず、互いに顔を見あわせていた。
新共同弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
NIVHis disciples stared at one another, at a loss to know which of them he meant.
註解: ヨハネはその当時のイエスの苦悶と弟子たちの憂慮に充てる顔つきをいつまでも目に浮かべることができたのであろう。

13章23節 イエスの(あい)したまふ一人(ひとり)弟子(でし)、イエスの御胸(みむね)によりそひ()たれば、[引照]

口語訳弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。
塚本訳一人の弟子がイエスの胸に寄り添って席についていた。イエスはこの弟子を(特別に)愛しておられた。
前田訳弟子のひとりがイエスのみ胸に近い席にいた。イエスは彼を愛しておられた。
新共同イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
NIVOne of them, the disciple whom Jesus loved, was reclining next to him.
註解: ヨハネは一切自己の名を顕さず、ヨハネ伝全体を通して「イエスの愛し給う弟子」として己を呼んでいる(引照参照)。ただし「ヨハネ」は「神の恩恵」を意味し、イエスに愛されることの中にヨハネの名称が暗示せられている(B1)。

13章24節 シモン・ペテロ(かうべ)にて(しめ)し『(たれ)のことを()(たま)ふか、()げよ』といふ。[引照]

口語訳そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。
塚本訳シモン・ペテロがその弟子に首で合図をして(ささやいて)言う、「だれのことを言っておられるのか、おしえてくれ。」
前田訳シモン・ペテロがその弟子に合図していう、「おっしゃるのはだれか、教えてくれ」と。
新共同シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
NIVSimon Peter motioned to this disciple and said, "Ask him which one he means."
註解: 6節よりみるもペテロはイエスの近くに坐していなかったことがわかる。この光景は実に如実に描かれている。目撃者にあらざればかくこれを録すことは不可能であろう。

13章25節 (かれ)そのまま御胸(みむね)によりかかりて『(しゅ)よ、(たれ)なるか』と()ひしに、[引照]

口語訳その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、
塚本訳それでその弟子は(うしろの)イエスの胸にもたれかかって、たずねる、「主よ、だれですか。」
前田訳そこで、その弟子はイエスのみ胸にもたれていう、「主よ、だれですか」と。
新共同その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
NIVLeaning back against Jesus, he asked him, "Lord, who is it?"

13章26節 イエス(こた)(たま)ふ『わが一撮(ひとつまみ)食物(しょくもつ)(ひた)して(あた)ふる(もの)(それ)なり』[引照]

口語訳イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
塚本訳イエスが(彼に)答えられる、「わたしが一きれのパンをひたして渡すその人が、それだ。」それからパンを(汁に)ひたし、イスカリオテのシモンの子ユダに渡される。
前田訳イエスは答えられる、「わたしがパン一切れを浸して渡すその人がそれだ」と。それからパン一切れ浸し、取ってイスカリオテのシモンの子ユダにお渡しになる。
新共同イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
NIVJesus answered, "It is the one to whom I will give this piece of bread when I have dipped it in the dish." Then, dipping the piece of bread, he gave it to Judas Iscariot, son of Simon.
註解: この問答は二人の間に小声に行われたのであろう、共観福音書にはこれを略す。食事の際家長は果実を葡萄酒をもって煮て作れるソースの中にパンを浸して客に与うる礼があった。これ友情を表示する意味である。親の愛は最も多く不良の子に注がれるごとく、イエスの愛は深くユダに注がれた。

かくて一撮(ひとつまみ)食物(しょくもつ)(ひた)して、シモンの()イスカリオテのユダに(あた)へたまふ。

註解: イエスはその万能力をもって強制的にユダをしてその計画を放棄せしめず、彼のこの一(つま)みの食を与うることによりてなおその愛を示し、それとなく悔改むべきことを促し給うた。ユダが悔改むべき機会はなお残っていたのである。

13章27節 ユダ一撮(ひとつまみ)食物(しょくもつ)()くるや、[引照]

口語訳この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。
塚本訳ユダがそのパンを受け取(って食べ)ると、その時、悪魔がユダに入った。そこでイエスがユダに言われる、「しようとしていることをさっさとしたがよかろう。」
前田訳パンをいただいたそのとき悪魔がユダに入った。そこでイエスが彼にいわれる、「することを早くせよ」と。
新共同ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
NIVAs soon as Judas took the bread, Satan entered into him. "What you are about to do, do quickly," Jesus told him,
註解: これまで長い年月の間悪魔は外よりユダを誘い、ユダの心の中に或はイエスがメシヤに在すことを疑わしめ、或は彼の野心を刺激しつつあった。従ってこれまで彼の心中に強き闘いがあった。然るに今この最後の瞬間に悪魔はついにユダの心に入りてこれを占領し、彼をして断然イエスに(そむ)かしめたのである。我らはそれ故に常に意を注ぎて一歩も悪魔を心中に踏込ましめないことが必要である。
辞解
[ユダ一(つまみ)の食物を受くるや] 原文「一(つまみ)の食物の後直ちに」であって悪魔が彼の心に入ったのはその後である。

惡魔(あくま)かれに()りたり。イエス(かれ)()ひたまふ『なんぢが()すことを(すみや)かに()せ』

註解: イエスはこのユダの罪をも負うて速に十字架につき、父の御旨を成就せんことを望み給う。

13章28節 (せき)()きゐたる(もの)一人(ひとり)として、(なに)(ゆゑ)かく()(たま)ふかを()らず。[引照]

口語訳席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。
塚本訳しかしなんのためにこう言われたのか、食卓につく者のだれにもわからなかった。
前田訳同席のものは、イエスが何のためにこういわれたのか、だれもわからなかった。
新共同座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
NIVbut no one at the meal understood why Jesus said this to him.
註解: イエスとヨハネとユダのみがこの意味を解していた(B1、L2、C1)。

13章29節 ある人々(ひとびと)は、ユダが財嚢(かねいれ)(あづか)るによりて『(まつり)のために(えう)する(もの)()へ』とイエスの()(たま)へるか、また(まづ)しき(もの)(なに)(ほどこ)さしめ(たま)ふならんと(おも)へり。[引照]

口語訳ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが彼に、「祭のために必要なものを買え」と言われたか、あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた。
塚本訳中には、ユダは金箱をあずかっているので、イエスは「祭に必要な物を買っておけ」とか、貧乏な人たちに何かやるように、とか言われるのだと思った者があった。
前田訳中には、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが祭りに要るものを買うようにとか、貧しい人に何かを与えるように、とかいわれたと思ったものもあった。
新共同ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
NIVSince Judas had charge of the money, some thought Jesus was telling him to buy what was needed for the Feast, or to give something to the poor.
註解: もしユダがイエスを売らんがために席を立ちしことが明らかであったならば、ペテロのごとき弟子がおそらく彼を殺し兼ねまじき勢いを示したであろう。然るにこのことなしに神の御計画は進行した。ニサンの月の十四日も買物をすることは自由であった(S2)。急ぎユダが外出せるを見れば十五日にならぬ前に買物をしに行ったことと弟子たちが想像したのであろう。ゆえにこれを十三日と見るよりも十四日と見る方が事実に近い。

13章30節 ユダ一撮(ひとつまみ)食物(しょくもつ)()くるや、(ただ)ちに()づ、(とき)(よる)なりき。[引照]

口語訳ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
塚本訳ユダはパンを食べると、すぐ出て行った。夜であった。(──そとは丸い月がかがやいていたが、ユダの心は真暗であった。)
前田訳ユダはパンをいただくとすぐ出て行った。夜であった。
新共同ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
NIVAs soon as Judas had taken the bread, he went out. And it was night.
註解: 暗黒は悪魔の世界であって悪魔の業を為すに適している。ユダはヨハ12:35の主の戒めに(そむ)いてついに暗黒に追及(おいつ)かれたのである。
要義1 [なぜ神はユダの反逆を用いてキリストを付し給いしか]キリスト凡ての人の罪を負うて十字架につき給うことは神の予定であった。ゆえにたといユダの叛逆なくともこのことが何らかの原因によりて行われたであろう。然るに神が特にユダの叛逆を利用し給いし所以は、イエスの最も愛する弟子の中にもなお最も深き堕落の危険が存することを示して、弟子たちならびにその後に来るべきキリスト者を警戒し、かつ人類の罪の深さは全く例外なしにいかなる階級の中にも存することを知らしめんがためであった。
要義2 [サタンは徐々に我らに働く]13:227。ユダの心の中にはすでに久しき以前よりキリストが果してメシヤなりや否や、彼が果してイスラエルをローマの束縛より脱せしむるや否や等に関する疑問をいだき、また時には彼自身の慾望野心が台頭し、イエスに従うことが果してこの慾望を充たし野心を遂げ得る所以であるかどうかを疑ったであろう。而してサタンはかかる機会に乗じて我らを誘い、ついに我らを捕囚にすると同じくユダをも捕囚にし、ついにイエスを付すに至ったのである。ゆえに我はサタンの第一歩に注意して彼をして一歩も我らの心に地歩を占めざらしむることが必要である。我らの心にキリストに関する疑問が起る時、またはこの世の富や美を慕う心が起る時、そこにサタンの乗ずる機会があるのであって、これがついにはサタンに全く占領される原因となり、恐るべき堕落の起因となるのである。

4-1-8 イエス栄光を予告し給う 13:31 - 13:35

13章31節 ユダの()でし(のち)、イエス()(たま)ふ『(いま)(ひと)()榮光(えいくわう)をう[く](けたり)、(かみ)(かれ)によりて榮光(えいくわう)をうけ(たま)[ふ](へり)。[引照]

口語訳さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。
塚本訳ユダが出てゆくと、イエスは(顔をかがやかせながら、別れの言葉を弟子たちに)言われる、「今、人の子は(神に命じられた仕事を成しとげて、神から)栄光を与えられた。神も人の子(が仕事を成しとげたこと)によって、栄光をお受けになった。
前田訳ユダが出て行くと、イエスはいわれる、「今、人の子は栄化され、神が彼によって栄化されたもう。
新共同さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
NIVWhen he was gone, Jesus said, "Now is the Son of Man glorified and God is glorified in him.
註解: ユダが出で行きしことによってイエスの運命はいよいよ決定した。それは十字架の死への途であった。而してこの死は肉の目には屈辱の死であったけれども、霊の目には栄光の死であり、恩恵と真理、愛と義の発露であった(ヨハ1:14)。キリストこの栄光を受け給うことによりて、彼を遣わして世を救わんとし給う神の恩恵と真理が発露して神もまた栄光を受け給う。イエスはその死の決定したる瞬間にこの勝利の叫びを発し給うた。過去動詞を用い給いしは未来に確実に起るべき事実をすでに起りしものとして取扱い給うたのである。

13章32節 (かみ)かれに()りて榮光(えいくわう)をうけ(たま)はば、(かみ)(おのれ)によりて(かれ)榮光(えいくわう)(あた)(たま)はん、(ただ)ちに(あた)(たま)ふべし。[引照]

口語訳彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。
塚本訳彼によって栄光をお受けになった以上は、神も(彼を天に挙げることによって、)彼に御自分の栄光を与えられるであろう。いますぐにも栄光を与えられるであろう。
前田訳神が彼によって栄化されるうえは、神ご自身も彼を栄化されよう。今すぐ栄化されよう。
新共同神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
NIVIf God is glorified in him, God will glorify the Son in himself, and will glorify him at once.
註解: 前節は現在において始まれる事実を示し、本節は未来に起るべき事実を預言す。すなわちキリストの完全なる従順とその愛の死によりて神が栄光を受け給う以上(ヨハ17:4、5)神はその栄光によりてキリストを甦らしめ昇天せしめてキリストに栄光を与え給うであろう(ピリ2:6−11)。

13章33節 若子(わくご)よ、(われ)なほ(しばら)(なんぢ)らと(とも)にあり、(なんぢ)らは(われ)(たづ)ねん、されど(かつ)てユダヤ(びと)に「なんぢらは()()(ところ)(きた)ること(あた)はず」と()ひし(ごと)く、(いま)(なんぢ)らにも()()ふなり。[引照]

口語訳子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。
塚本訳子供たちよ、わたしはもう少しのあいだあなた達と一しょにいる。(いなくなったあとで)あなた達はわたしをさがすが、(前に)ユダヤ人に、『わたしが行く所に、あなた達は来ることが出来ない』と言ったのと同じことを、いまあなた達にも言う。
前田訳子らよ、今しばしわたしはあなた方とともにいる。あなた方はわたしを探そう。わたしはユダヤ人に、『わたしの去り行くところへあなた方は来られない』といったが、今は同じことをあなた方にもいう。
新共同子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
NIV"My children, I will be with you only a little longer. You will look for me, and just as I told the Jews, so I tell you now: Where I am going, you cannot come.
註解: 一方イエスはその現在(31節)および未来(32節)の栄光を思うと同時に、眼前の弟子たちを見、彼らを後に残す時の近きを思いて彼の心はあたかも臨終の床における父親の心のごとき心に充たされ給うたことであろう。「若子よ」 teknia なる語は福音書には他に用いられていない語であって、切なる愛より流れ出づる語である。イエスはこの語をもって弟子たちに呼びかけ、その復活と昇天とを弟子たちにも予告し給うた。(さき)にユダヤ人らにこれを告げ給いし際に(ヨハ7:33、34。ヨハ8:21)「我が居る処に汝ら行くこと能わず」と宣いしは彼らの滅亡を宣告し給える意味であり、今弟子たちに対してこのことを言い給えるは、しばらくの間彼は弟子たちと別れなければならぬことを教え給うたのである(36節)。イエスの死と復活昇天とは万民の救いのために必要であって(ヨハ12:24以下)、弟子たちの愛をもってしてもこれを留むることができず、またそこに赴くことができない。

13章34節 われ(あたら)しき誡命(いましめ)(なんぢ)らに(あた)ふ、なんぢら(あひ)(あい)すべし。わが(なんぢ)らを(あい)せしごとく、(なんぢ)らも(あひ)(あい)すべし。[引照]

口語訳わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
塚本訳(別れにのぞんで)新しい掟を与える、──互に愛せよ。わたしがあなた達を愛したのだから、そのようにあなた達も互に愛せよ。
前田訳あなた方に新しいいましめを与える。互いに愛せよ。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛せよ。
新共同あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
NIV"A new command I give you: Love one another. As I have loved you, so you must love one another.
註解: イエスはその袂別(べいべつ)の近きを思い、その最後の大説教(14−17章)に入る前にここにその中心ともいうべき誡命を彼らに与え給うた。これまではイエスが彼らの中に在しその愛をもって彼らを結び付け給うた。今やイエスは彼らの中を離れんとし給う時に当りイエスの彼らに要求し給うことは、イエスが彼らを愛し給いしごとき愛をもて互に相愛すべきことであった。この誡命の「新しき誡命」である所以は、すでに旧約聖書に記され(レビ19:18)またイエスが(さき)に語り給いし(マタ19:19マタ22:39等)「己のごとく汝の隣を愛すべし」なる誡命に比し「わが汝らを愛せしごとく」なる条件が加えられているからである(M0)。キリストの愛は従来未だかつて完全に顕わされなかった処のものであり神の愛の最初の啓示であった(Tヨハ3:16Tヨハ4:9ロマ5:8)。この愛をもって互に相愛すべしというのである。而してこれは「キリストに在りて」のみ可能である(G1)。まことにイエスの最後の教訓としてこれよりも相応しきものを考えることができない。なおこれは「新しき律法」ではなく「新しき誡命」であることに注意すべきである。

13章35節 (たがひ)(あひ)(あい)する(こと)をせば、(これ)によりて(ひと)みな(なんぢ)らの()弟子(でし)たるを()らん』[引照]

口語訳互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
塚本訳互に愛を持つならば、皆がそれによって、あなた達がわたしの弟子であることを知るであろう。」
前田訳互いに愛を持つならば、それによってあなた方は皆わが弟子であることを知ろう」と。
新共同互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
NIVBy this all men will know that you are my disciples, if you love one another."
註解: キリストの弟子たることの最良の目標は、キリスト者同士が互にキリストの愛をもって相愛することである。キリスト教会の歴史および現状がいかにこの主の御言に反するかを思うとき、我ら神の前に(ひく)くせられざるを得ない。

4-1-9 イエス、ペテロの拒否を予告し給う 13:36 - 13:38

13章36節 シモン・ペテロ()ふ『(しゅ)よ、何處(いづこ)にゆき(たま)ふか』[引照]

口語訳シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。
塚本訳シモン・ペテロが言う、「主よ、どこへ行かれますか。」イエスは答えられた、「あなたは今わたしの行く所について来ることは出来ないが、あとでついて来る。(いやでも、ついて来ねばならない時が来る。)」
前田訳シモン・ペテロが彼にいう、「主よ、どこへお出かけですか」と。イエスは答えられる、「わたしが行くところへあなたは今はついて来られない。あとで来られよう」と。
新共同シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
NIVSimon Peter asked him, "Lord, where are you going?" Jesus replied, "Where I am going, you cannot follow now, but you will follow later."
註解: ペテロは主イエスを切に愛していたので、いかなる処たるを論ぜず彼に従い得ることを確信し、たといそれが死出の途であっても彼に従い得ることを思った。

イエス(こた)(たま)ふ『わが()(ところ)に、なんぢ(いま)(したが)ふこと(あた)はず。

註解: ペテロの心のいかなるものであるかは、ペテロ自身がこれを知るよりもイエスがよくこれを知り給うた。そしてペテロの現在の事情および肉の弱さをもってしては、イエスの死に従うこと能わざることを預言し給うた。キリストはペテロに命令を与えて強いてその死を共にせしめ給わなかった。信仰の世界においては凡てが自由の犠牲でなければならぬ。

されど(のち)(したが)はん』

註解: ペテロは後に殉教の死を遂げて(ヨハ21:18、19)キリストに従った。

13章37節 ペテロ()ふ『(しゅ)よ、いま(したが)ふこと(あた)はぬは(なに)(ゆゑ)ぞ、(われ)(なんぢ)のために生命(いのち)()てん』[引照]

口語訳ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。
塚本訳ペテロが言う、「主よ、なぜいますぐついて行くことが出来ないのですか。あなたのためなら、命でも捨てます。」
前田訳ペテロはいう、「主よ、なぜ今お伴できないのですか。わたしはあなたのためにいのちをも捨てます」と。
新共同ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
NIVPeter asked, "Lord, why can't I follow you now? I will lay down my life for you."
註解: ペテロは自己の力とその弱さとを知らなかった。彼は己の決心をもってすれば何事をも為し得るものと信じていた。彼の最も誇りとせるこの忠実さとその勇気とが数時間の後に凡て破滅に帰しようとは唯神なるキリストのみ知り給うたに過ぎなかった。▲ペテロの決心そのものは真実であった。しかし人間の真実さもことに当たって無力な場合が多く起こってくる。ガラ2:11-15。

13章38節 イエス(こた)(たま)ふ『なんぢ()がために生命(いのち)()つるか、(まこと)にまことに(なんぢ)()ぐ、なんぢ三度(みたび)われを(いな)むまでは、(にはとり)()かざるべし』[引照]

口語訳イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。
塚本訳イエスが答えられる、「わたしのためなら、命でも捨てると言うのか。アーメン、アーメン、わたしは言う、あなたが三度わたしを知らないと言うまで、鶏は決して鳴かないであろう。
前田訳イエスは答えられる、「わたしのためにいのちをも捨てるというのか。本当にいう、あなたが三度わたしを知らないというまでは、にわとりは決して鳴くまい」と。
新共同イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
NIVThen Jesus answered, "Will you really lay down your life for me? I tell you the truth, before the rooster crows, you will disown me three times!
註解: この時ペテロはおそらく主イエスのこの御言に対して不可解と同時に不満の心をいだいたことであろう。我らも我らに関する神の御言に対して同様の感をいだく場合が少なくない(例えばロマ3:1−17を自己に適用する場合のごとき)。しかしながら後に時至りて自己の弱さが暴露される時、ペテロと同じく泣きて神の言を真とする時が来るのである(マタ26:75等)
要義 [神は我らを最もよく知り給う]36節。我らは自己につき最もよく知っていると考えるけれどもそれは誤りである。我らにつき神は最もよく知り給う。而して我らに関する神の判断は聖書に示される神の言であって、神は我らの罪人たることを聖書に示し給う以上、たとい我らの心がこれを(うべな)わずともその判断が最も正しいのであって、我らもペテロと同じくついには神の言が真理たることを知らしめられるのである。「人をみな虚偽者とすとも神を誠実とすべし」(ロマ3:4)。

ヨハネ伝第14章
4-2 イエスの決別説教 14:1 - 16:33
4-2-1 イエスに対する信仰 14:1 - 14:31
4-2-1-イ 父の家に於ける準備 14:1 - 14:4

註解: これよりイエスは16章の終りに至るまで、その袂別(べいべつ)の説教を為し給うた。これはイエスがその伝道の始めに為し給える山上の垂訓に相対応して福音書中の二大説教ともいうべきものである。 

14章1節 『なんぢら(こころ)(さわ)がすな、(かみ)(しん)じ、また(われ)(しん)ぜよ。[引照]

口語訳「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
塚本訳(あなた達の来られない所にわたしが行くからとて、)心を騒がせるな。神を信ぜよ、またわたしを信ぜよ。
前田訳「あなた方の心を騒がせるな。神を信ぜよ、そしてわたしを信ぜよ。
新共同「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
NIV"Do not let your hearts be troubled. Trust in God ; trust also in me.
註解: イエスの接近せる死の予告(ヨハ13:33)、ペテロの叛逆の預言、イエスの死後の弟子たちの運命等を考うる時、彼らの心は(はなは)だしき憂いに沈まざるを得なかった。弟子たちにとって最大の幸福はイエスと共におることであり、最大の不幸は彼と別れることであった。キリストはこれに対し慰めに充てる訓戒を与え給う。我らをして絶大の不幸の中にも動揺せしめざるものは知識財産健康地位のごときものにあらず、神とキリストとに対する信仰である。而して神のみを信ぜんとして我らは往々自己の観念を信ずるに過ぎず、真の信仰を得ることができない。然るに神の像(コロ1:15)に在し給うキリストを信じて始めて真に神を見、また彼を信ずることができる故に我らの信仰は単に神に対するのみならず、またキリストに向けられなければならない。これキリストの神に在し給う当然の結果である(A2 )。
辞解
[信ぜよ] これを「信ず」と叙述法にも読むことができる(C1、L1)。意味の上に大差なきことなるけれども命令法として読む方が優っている(B1、G1、M0)。

14章2節 わが(ちち)(いへ)には住處(すみか)おほし、(しか)らずば(われ)かねて(なんぢ)らに()げしならん。われ(なんぢ)()のために(ところ)(そな)へに()く。[引照]

口語訳わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
塚本訳父上のお家には、沢山住居がある。(あなた達は一人のこらず、そこに住むことが出来る。)もしそうでなかったら、『あなた達のために場所の準備に行く』と言うわけがないではないか。
前田訳わが父の家には住まいが多い。そうでなければ、あなた方のところをそなえに行こう、といったろうか。
新共同わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
NIVIn my Father's house are many rooms; if it were not so, I would have told you. I am going there to prepare a place for you.
註解: キリスト独り父の御許に往き給いて弟子たちを淋しくこの世に残し給うのではない。天の父の家には多くの弟子たちをも迎え入るべき場所がある。もし然らずして唯イエスのみ父の家に行き得るに過ぎないものであるならば、イエスはこのことを弟子たちにかくし給うはずがない。而して事実は反対であって今キリストはまず父の家に往き弟子たちを迎うべき場所を準備し給うのである。ゆえにイエスの死は一層大なる希望の国への門出であり序幕である。▲口語訳「のだから」 hoti はシナイ写本は欠けているけれど他の重要な写本に入っているゆえ採用すべきである。

14章3節 もし()きて(なんぢ)らの(ため)(ところ)(そな)へば、(また)きたりて(なんぢ)らを()がもとに(むか)へん、[引照]

口語訳そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
塚本訳(間もなく出かけるが、)行って場所の準備ができたら、もどって来て、あなた達をわたしの所に連れてゆく。わたしのおる所にあなた達もおるためである。
前田訳行ってところをそなえる以上また来てあなた方を迎えよう、わたしのいるところにあなた方もいられるように。
新共同行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
NIVAnd if I go and prepare a place for you, I will come back and take you to be with me that you also may be where I am.
註解: イエスは父の御許にありて弟子や信徒のために各々永遠の住家を備え給う。而して時満ちてその再臨の際(Tヨハ2:28Tテサ4:16以下。黙22:20等)に彼らを御許に迎え給う、そこに彼らは復活の体をもって永遠にイエスと共にいることができ、尽きざる栄光と幸福を享有することができる。「復きたりて汝らを我がもとに迎へん」とは弟子たちの死(T0、L2)について言ったのではなく、また聖霊降りてイエスと弟子たちとが霊の交わりに入ること(G1)でもなく、その再臨を意味する(C1、B1.L1)。

わが()るところに(なんぢ)らも()らん(ため)なり。

註解: イエスは父の選び給えるものを一人も失い給うことはない。再び父の御許において永遠の団欒に入らんがために再び来りて彼らを受け給う。キリストと共にいることは弟子たちの最大の幸福、その望みである。

14章4節 (なんぢ)らは()()くところに(いた)(みち)()る』[引照]

口語訳わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。
塚本訳(今)あなた達はわたしがどこへ行くか、その道がわかったはずだ。」
前田訳わたしがどこへ行くかはあなた方にわかっている」と。
新共同わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
NIVYou know the way to the place where I am going."
註解: 神の国に至る道はイエス彼自身である(6節。ヘブ10:19−20)。イエスによらずして神の御許に行かんとするとも、人はその罪のために神の前に(さば)かれなければならないであろう。このことは弟子たちがすでに知っているはずであった(10:9)。この道を踏む者であらざれば、イエスは再び来給うとき彼に迎えられることができない。

4-2-1-ロ 父の家に入るの道はイエスを信ずるにあり 14:5 - 14:11

14章5節 トマス()ふ『(しゅ)よ、何處(いづこ)にゆき(たま)ふかを()らず、いかでその(みち)()らんや』[引照]

口語訳トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
塚本訳トマスが言う、「主よ、どこへ行かれるのか、わたし達にはわかりません。どうすればその道がわかるでしょうか。」
前田訳トマスがいう、「主よ、どこへおいでか、われらにはわかりません。どうしたらその道がわかりますか」と。
新共同トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
NIVThomas said to him, "Lord, we don't know where you are going, so how can we know the way?"
註解: 地上の国と地的メシヤについてのみ考え、凡ての事柄を現実的に考え易きトマスにとってはイエスの往き給う父の家なるものを明らかに意識することができなかった。目的地がすでに不明である以上そこに達する道を知らないのは当然である。イエスの直弟子にしてなおイエスの御言を解し得なかったことを思いて我ら自らを顧みなければならぬ。

14章6節 イエス(かれ)()(たま)ふ『われは(みち)なり、眞理(まこと)なり、生命(いのち)なり、[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
塚本訳イエスは言われる、「わたしが道である。また真理であり、命である。(手段であると同時に目的であるから。)わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。
前田訳イエスはいわれる、「わたしが道であり、真理であり、いのちである。わたしによらずして父に行くものはない。
新共同イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
NIVJesus answered, "I am the way and the truth and the life. No one comes to the Father except through me.
註解: イエスは道や真理や生命を教うる教師、またはこれを示す模範にはあらずして自ら道そのもの真理生命そのものに在し給うた。イエスに非ずしてだれかかかる大胆なる断言を為すことができよう。ゆえに我らは単にイエスより学び、イエスに(なら)うだけでは足らない。彼との間に人格的一致がなければならぬ。「道」は神に到達する経路の方面より見たるキリストで、我ら彼の肉体の(まく)を経てのみ神に到達することができる(ヘブ10:20)。「真理」は内容の方面より見たるキリストで、彼はあらゆる真理の体現者であり(▲コロ2:9参照)彼の中には一つの虚偽もない。「生命」は活動の方面より見たるキリストで、彼は不死の生命そのものに在し給う。

(われ)()らでは(たれ)にても(ちち)御許(みもと)にいたる(もの)なし。

註解: イエスは道、真理、生命そのものに在し給う以上、彼に由らざるもの、すなわち彼を離れるものは父なる神に至る道を離れて迷い入り、神の真理に背きて虚しきを求め、神の生命を()けずして死に至る者である。イエスを離れる者はすなわち神を離れる者である。古今のあらゆる聖賢は単に道、真理、生命を指示したに過ぎなかった。ゆえに彼らはみなキリストを指しているのである。父の御許に至る唯一の道はキリストとの霊的生命の一致より外にない。

14章7節 (なんぢ)()もし(われ)()りたらば、()(ちち)をも()りしならん。[引照]

口語訳もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
塚本訳しかしあなた達はわたしがわかったのだから、わたしの父上もわかるにちがいない。いや、いますでに父上がわかっており、また父上を見たのである。」
前田訳あなた方はわたしを知ればわが父をも知ろう。今やあなた方は彼を知り、彼を見たのである」と。
新共同あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
NIVIf you really knew me, you would know my Father as well. From now on, you do know him and have seen him."
註解: 第五節のトマスの質問は順逆転倒である。トマスの質問を換言すれば「我父を知らず(いか)で汝イエスを知らんや」と言うに等しい。これに対しイエスは本節の答を与え給い、逆に、「汝ら我と霊的に連なることにより我をさえ充分に理解していたならば、父なる神をも知り奉ったであろう、我は父に至るの道であり、父の本質なる真理と生命そのものであるから」と述べ給うたのである。このことは(さき)にイエスはしばしばこれを述べ給うた(ヨハ8:19を見よ)けれども、今また新たにこれを語り給うことが必要であった。

(いま)より(なんぢ)(これ)()る、(すで)(これ)()たり』

註解: 「今より」 aparti は未来のみならず今すでにとの意味であって(ヨハ13:19黙14:13)イエスが己の父と等しく在すことの奥義を示し給える以上(6節、M0)もはや父なる神を知っているわけである。否すでに父を見奉っていたのである。▲イエスの神の子たることの自覚が強烈にこれらの諸節およびその以下に現れていることに注意すべし。
辞解
[今より] 或はキリストの昇天と聖霊の降臨よりと解し、またはイエスの洗足およびその以後の出来事および教訓(G1)よりと解する説もあるけれども予はM0の説を採用した。
[(これ)] 「彼」すなわち神を意味す。

14章8節 ピリポ()ふ『(しゅ)よ、(ちち)(われ)らに(しめ)(たま)へ、さらば()れり』[引照]

口語訳ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
塚本訳ピリポが言う、「主よ、どうかわたし達に父上を見せてください。それでたくさんです。」
前田訳ピリポが彼にいう、「主よ、父をわれらにお示しください。それで十分です」と。
新共同フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
NIVPhilip said, "Lord, show us the Father and that will be enough for us."
註解: 「既に彼を見たり」とのイエスの御言は、ピリポの信仰の欠乏のためになお彼を満足せしめ得なかった。ピリポはモーセがエホバに乞いしごとく(出33:18)神の直接の顕現に接せんことを欲し、これさえあればその心は満足するであろうと考えた。しかしたとい神が彼自身を顕現し給うともイエス以上にも以下にもあらず、人はみなイエスに在りて満足であることをピリポは未だ覚らなかった。

14章9節 イエス()(たま)ふ『ピリポ、(われ)かく(ひさ)しく(なんぢ)らと(とも)()りしに、(われ)()らぬか。(われ)()(もの)(ちち)()しなり、如何(いか)なれば「(われ)らに(ちち)(しめ)せ」と()ふか。[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
塚本訳イエスは言われる、「ピリポ、こんなに長い間一しょにいるのに、あなたはまだわたしがわからなかったのか。(父上とわたしとは一つである。)わたしを見た者は父上を見たのだ。どうして『父上を見せてください』と言うのか。
前田訳イエスはいわれる、「これほど長らくいっしょにいるのにわたしがわからないのか、ピリポよ。わたしを見たものは神を見たのである。どうしてあなたは父をお示しをというのか。
新共同イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
NIVJesus answered: "Don't you know me, Philip, even after I have been among you such a long time? Anyone who has seen me has seen the Father. How can you say, `Show us the Father'?
註解: イエスの御言の中にはその神の子の自覚とおよび弟子たちがこれを解せざることに対する驚きと失望との口調が溢れている。久しくキリストと共にありてなお彼が神の子に在すことを知らず、彼を見ることが最も完全に父を見るのであることを知らないことは大なる愚かさである。しかし人間の肉は本来からも愚かなのであって、御霊によりて示されるにあらずばこの大真理をさとることはできないのである。神秘的なる見神の実験、心理的特異現象としての見神、禅の直覚的悟りのごときは真に神を見たものということができない。

14章10節 (われ)(ちち)()り、(ちち)(われ)居給(ゐたま)ふことを(しん)ぜぬか。[引照]

口語訳わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
塚本訳わたしが父上の中に、父上がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか。わたしがあなた達に言う言葉は、自分で勝手に話すのではない。(またわたしがする業は、)いつもわたしの中におられる父上が御業をされるのである。
前田訳わたしが父におり、父がわたしにいたもうことを信じないのか。わたしがあなた方にいうことばは自分から話すのではない。わたしにとどまりたもう父がみわざをされるのである。
新共同わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
NIVDon't you believe that I am in the Father, and that the Father is in me? The words I say to you are not just my own. Rather, it is the Father, living in me, who is doing his work.
註解: 前節の理由としてイエスは父との霊の交わりについて語り給う。すなわち神とイエスとは二つの人格でしかも一つである。その故はイエスの全人格は父の愛の中に包擁せられ、またイエスは己を虚しくして父の御心をもってこれを充たしているからである。ゆえに二つにして一つであり、イエスを見る者はそのまま父なる神を見るのである。このことを信ぜぬかとピリポを叱責し給うた。我らもこれを信ずるべきである。

わが(なんぢ)()にいふ(ことば)は、(おのれ)によりて(かた)るにあらず、(ちち)われに(いま)して(その)御業(みわざ)をおこなひ(たま)ふなり。

註解: 「もし汝ら我が言と業とを見るならば父と我との一つなることを知るであろう。すなわち我父に居るが故に我が言う言は我が言にあらずして父の言であり、父また我が中に留まり給うが故に我を動かして種々の奇蹟を行わしめ給う。」それ故にイエスの御言は力あり真理と光輝とに充ち、イエスの御業は人の為し能わざる能力ある御業であった。

14章11節 ()[が()ふこと]を(しん)ぜよ、(われ)(ちち)にをり、(ちち)(われ)居給(ゐたま)ふなり。もし(しん)ぜずば、()(わざ)によりて(しん)ぜよ。[引照]

口語訳わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
塚本訳(だから)あなた達は、わたしが父上の中に、父上がわたしの中におられることを信ぜよ。しかしもしそれができないなら、(わたしがする)業そのものによって信ぜよ。
前田訳わたしが父におり、父がわたしにいたもうというわたしを信ぜよ。さもなくば、わざ自体によって信ぜよ。
新共同わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
NIVBelieve me when I say that I am in the Father and the Father is in me; or at least believe on the evidence of the miracles themselves.
註解: イエス彼自身を信ずるならばその御言を疑わずして信受するであろう。もし彼をその御言によりて信ずることができないならば、その業を見て彼の神と一体に在すことを信ずべきである。
辞解
[居給ふなり] 「居給ふ故なり」と訳することができる(B1)けれども適当ではない(M0)。

4-2-1-ハ イエスにある者の死から 14:12 - 14:14

14章12節 (まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、(われ)(しん)ずる(もの)()がなす(わざ)をなさん、かつ(これ)よりも(おほい)なる(わざ)をなすべし、われ(ちち)()けばなり。[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしを信ずる者は、わたしがするのと同じ業をすることができる。いや、それよりももっと大きな業をすることができる。わたしが父上の所に行って、
前田訳本当にいう、わたしを信ずるものはわたしがなすわざをしよう。否、それよりも大きなわざをしよう。わたしが父に行くからである。
新共同はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
NIVI tell you the truth, anyone who has faith in me will do what I have been doing. He will do even greater things than these, because I am going to the Father.
註解: 前節までイエスは父とイエスとの関係を述べ、これより14節に至るまでイエスと彼を信ずる者との関係を述べ給う。この二つの関係は同一であって、キリストを信ずる者にはキリスト宿り給いて、キリストの為し給えるごとき奇蹟を行うことを得(使徒行伝に記載せらる)るのみならず、「之よりも大なる業」すなわち使徒たちの伝道によって地上の万人が救われる大なる業が行われるのである。而してその原因はイエス、父の御許に在して信者の祈りに応えて父より受けし力を彼らに注ぎ給うからである。人としてのイエスにこの力はなかった。

14章13節 (なんぢ)らが()()によりて(ねが)ふことは、[(われ)みな](これ)()さん、(ちち)()によりて榮光(えいくわう)()(たま)はんためなり。[引照]

口語訳わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
塚本訳あなた達がわたしの名で願えば、なんでもかなえてあげるからだ。これは父上が子によって栄光をお受けになるためである。
前田訳あなた方がわが名によって求めることはわたしがしよう、父が子によって栄化されるために。
新共同わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
NIVAnd I will do whatever you ask in my name, so that the Son may bring glory to the Father.
註解: 前節の継続で甚大なる約束である。信徒はキリストに居りキリストは信徒の中に住む故に、使徒らが「イエスの名において」すなわちキリストと一体をなせる霊的生命において祈り求むることは、キリストは凡てこれを成し給うであろう。何となればかかる霊的一致に在りて求むる処は、みな神の御心に叶うことであり、かつ子なるキリストがこれを成就し給うことによりて父なる神の栄光が掲げられるからである(ヨハ15:7ヨハ15:16)。
辞解
[我が名によりて] en tô onomati mou 「我が名において」「我が名に在りて」とも訳することができ、パウロの「イエス・キリストに在りて」と同じくキリストとの霊の交わりの状態に在ることを示す。すなわちキリストによりて罪を赦されし聖徒はキリストの名によりて神に受け入れられているのであって、キリストによらずして神に近付くことも神に祈ることも、また願うこともできない。この句に対して学者間に種々の解釈があるけれども、これらはみな右の源より発する諸方面中のあるものを見たに過ぎない。また「キリストの名によって」なる語を形式的に祈りに附加すべしとの意味ではなく心と内容の問題である。

14章14節 (()し)何事(なにごと)にても()()によりて(われ)(ねが)はば、(われ)[これを]()すべし。[引照]

口語訳何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
塚本訳(繰返して言う、)わたしの名でわたしに何か求めれば、(かならず)それをかなえてあげる。
前田訳あなた方がわが名によって求めることはわたしがしよう。
新共同わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
NIVYou may ask me for anything in my name, and I will do it.
註解: 前節前半とほぼ同一事の反復であるけれども、前節は「之を」すなわち内容に重きを置き、本節は「我」すなわち行為者に重きを置いている。キリストが己を信じ、彼の名によって祈る者に対しては、凡ての願いを自ら聴入れ給うことは驚くべき約束である。我らこれを確信することができなければならない。

4-2-1-ニ 聖霊の内住 14:15 - 14:17

14章15節 (なんぢ)()もし(われ)(あい)せば、()誡命(いましめ)(まも)らん。[引照]

口語訳もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
塚本訳あなた達は(皆別れを悲しんでいるが、本当に)わたしを愛するなら、わたしの掟を守り(互に愛し)なさい。
前田訳わたしを愛するなら、あなた方はわがいましめを守れ。
新共同「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
NIV"If you love me, you will obey what I command.
註解: 本節を前節の祈りの条件と見るものと(C2)後節の聖霊降下の準備と見るものと(A2)この前後の中間に介在してその思想の連絡を取るものと見る説(B1)とがある。最後の解釈が優っている。すなわち、キリストとの霊の交わりに在りて祈ることは換言すればキリストを愛しつつ祈ることである。かかる愛の関係に立つ場合においてはキリストは彼を愛してその祈りを聴き給い、信徒はキリストの誡めを守るの態度となる。而してこれを守る力は聖霊によって与えられるのである。それ故に「キリスト者とはキリストを愛してその誡命を守る者である」ということができる。
辞解
[守らん] 異本に「守れ」とある。

14章16節 われ(ちち)()はん、(ちち)(ほか)助主(たすけぬし)をあたへて、永遠(とこしへ)(なんぢ)らと(とも)()らしめ(たま)ふべし。[引照]

口語訳わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
塚本訳そうすればわたしも父上に願って、(わたしに代わる)ほかの弁護者をおくっていただき、いつまでもあなた達と一しょにおるようにしてあげる。
前田訳わたしも父にお願いしようし、父は別の助け主をあなた方にお与えになって、いつまでもあなた方とともにあるようにされよう。
新共同わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
NIVAnd I will ask the Father, and he will give you another Counselor to be with you forever--
註解: 「助主」 paraklêtos は元来代言人、弁護人を意味し、裁判官の前に被告の側に立ちて弁護する人をいう。これと同じく、助主は我らのために我らの側に立ちて父なる神の前に我らを弁護し、我らを助け、また強め給う。キリストはこの地上に生活し給う間この務めを行い給うた。今この世を去らんとするにあたり「他の助主」すなわち聖霊(17節)を父に請いて信徒のために送り給い永遠に信徒と共に居らしめ、再び彼らを離れることなからしめ給う。ゆえにキリストの死後も弟子たちはなお神の愛の中にいるの幸福を有つことができる。ゆえに聖霊の内住は神の恩恵によるものであることを忘れてはならない。
辞解
[助主] ヨハネの福音書および書簡にのみ用いられる語であって聖霊またはキリストの別名である (ヨハ14:26ヨハ15:26ヨハ16:7Tヨハ2:1) 。

14章17節 これは眞理(まこと)御靈(みたま)なり、()はこれを()くること(あた)はず、これを()ず、また()らぬに()る。[引照]

口語訳それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
塚本訳これは真理の霊である。この世(の人)には見えもせず、わかりもしないから、これを受けいれることが出来ない。(しかし)あなた達にはこの霊がわかる。いつもあなた達のところをはなれず、また、あなた達の中におるのだから。
前田訳それは真理の霊である。世は彼を見も知りもしないので受けえない。しかしあなた方は彼を知る、彼はあなた方にとどまり、あなた方のうちにあろうから。
新共同この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
NIVthe Spirit of truth. The world cannot accept him, because it neither sees him nor knows him. But you know him, for he lives with you and will be in you.
註解: 弟子たちの受くべきものは聖霊であった。聖霊はその本質および働き共に神の真理そのものである故に「真理の御霊」と呼ばれている。「世」はキリストを信ぜざる人々、すなわち新生を経験せざる人々を総称する。而して世を支配するものは「迷謬(まよい)の霊」(Tヨハ4:6)であって従って、真理の霊を見る目がなくこれを理解する智慧を有たない(ヨハ9:41Tコリ2:14)。

なんぢらは(これ)()る、(かれ)(なんぢ)らと(とも)()り、また(なんぢ)らの(うち)居給(ゐたま)ふべければなり。

註解: 世の人が聖霊を知らないのに反しキリスト者は彼を知っている。その故は聖霊来り給いて現に彼らの間に住み、また後にペンテコステの日に至り彼らの心に宿り給うべきが故である。聖霊の内住はキリスト者たるの証拠でありまた条件である。

4-2-1-ホ キリストの内住 14:18 - 14:21

14章18節 (われ)なんぢらを(つかは)して孤兒(みなしご)とはせず、(なんぢ)らに(きた)るなり。[引照]

口語訳わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
塚本訳わたしは父上の所に行くけれども、あなた達を孤児にはしておかない。(すぐ)かえって来る。
前田訳わたしはあなた方を孤児(みなしご)のままではおかない。またあなた方のところに来る。
新共同わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
NIVI will not leave you as orphans; I will come to you.
註解: イエスと聖徒は二つにして一つに在し給うゆえに、イエスはその見得べき貌においては間もなくこの世を去り給うけれども、見えざる貌においてまた来り給い、我らを孤児の状態に置き給わない。「我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり」(マタ28:20)と言い給えるはこの霊的イエスである。ゆえにこの節は復活し給えるキリストとの交わり(C2)を意味せず、また凡ての人に見ゆべきキリストの再臨(A2、Z0)をも意味しない。20、21、23節等を見ればこの点を明らかにすることができる。

14章19節 (しばら)くせば()(また)われを()ず、されど(なんぢ)らは(われ)()る、[引照]

口語訳もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
塚本訳もう少しするとこの世(の人)はもはやわたしを見ることができなくなるが、あなた達は(間もなく)わたしを見ることができる。わたしは(死んでまた)生き、(それによって)あなた達も生きるからである。
前田訳今しばらくすると世はわたしをもはや見まいが、あなた方はわたしを見よう、わたしは生き、あなた方も生きようから。
新共同しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
NIVBefore long, the world will not see me anymore, but you will see me. Because I live, you also will live.
註解: イエスの死によって世の人の目にはイエスは失われてしまうけれども、聖霊を受けし弟子たちは霊的臨在のキリストを霊の眼をもって見ることができる。イエスはここに将来の事実を現在の事実のごとくに語り給う。

われ()[くれば](き)(なんぢ)らも()くべければなり。

註解: この原文は次の二つのいずれかに訳すべきである。(1)「われ活くれば汝らも活きん」(G1)、(2)「われ活き汝らも活くべければなり」(C1、M0)。いずれにしても結局同一の内容に帰着するけれども、文勢の上よりは後者が優っている。すなわちキリストは死に給いて後も霊的に永遠に生き給い、弟子たちもまた彼の生命に与って永遠に生くべきものである(未来動詞)。かく弟子たち、またキリスト者はキリストと共通の生命を有つがゆえに霊のキリストを見ることができ、世はこの生命を有たず従って霊のキリストを見ることができない。

14章20節 その()には、(われ)わが(ちち)()り、なんぢら(われ)()り、われ(なんぢ)らに()ることを(なんぢ)()らん。[引照]

口語訳その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
塚本訳その時あなた達は、わたしが父上の中に(おるように)、あなた達がわたしの中に、わたしがあなた達の中におることを知るであろう。
前田訳その日にあなた方は知ろう、わたしがわが父に、あなた方がわたしに、わたしがあなた方にあることを。
新共同かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
NIVOn that day you will realize that I am in my Father, and you are in me, and I am in you.
註解: 「その日」は聖霊降下の日すなわち五旬節以後を指す(使2:1以下、M0)。聖霊を与えられて始めて神とキリスト、キリストと信徒の間に完全なる霊の一致があり、キリストと信徒との関係は神とキリストとの関係(10節ヨハ10:38コロ3:3)に等しく、キリストはその愛をもって我らをいだきて我らはキリストの中に生き、而して我らはキリストを信じてキリストは我らの中に生き給うこと(ガラ2:20)を知るであろう。我らには聖霊の内住があり(17節b)これによりてまたキリストの内住があることを知る。而してこの二つは一つである。

14章21節 わが誡命(いましめ)(たも)ちて(これ)(まも)るものは、(すなは)(われ)(あい)する(もの)なり。(われ)(あい)する(もの)()(ちち)(あい)せられん、(われ)(これ)(あい)し、(これ)(おのれ)(あらは)すべし』[引照]

口語訳わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。
塚本訳わたしの掟をたもち、これを守る者、それがわたしを愛する者である。わたしを愛する者はわたしの父上に愛され、わたしもその人を愛して、その人に自分を現わすであろう。(だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。)」
前田訳わがいましめを保って守るものがわたしを愛するものである。わたしを愛するものはわが父に愛されよう。わたしもその人を愛してその人にわたし自身を現わそう」と。
新共同わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
NIVWhoever has my commands and obeys them, he is the one who loves me. He who loves me will be loved by my Father, and I too will love him and show myself to him."
註解: キリスト者とキリストと父なる神との美わしき愛の関係がここに描き出されている。霊的一致といい、内住というもみなこの愛の関係に外ならぬ。而してキリストを愛する者とは15節に言えるごとくその誡命を堅く保ち、凡てこれを遵守し自己の要求や欲求を放棄する者であって、然らざるものは真に御霊によりてイエスを愛する者ではない。而して神はかくその独り子を愛する者をばその愛の故にこれを愛し給い、キリストはかかる者に益々多く御自身を示し、彼との霊の交わりを深くし高くし給う。ゆえに最も多く彼の誡命を守るものは最もよくキリストを知る者となるのである。キリストについて読み、また考うるのみにては彼を知ることができない。

4-2-1-へ 神の内住 14:22 - 14:24

14章22節 イスカリオテならぬユダ()ふ『(しゅ)よ、(なに)(ゆゑ)おのれを(われ)らに(あらは)して、()には(あらは)(たま)はぬか』[引照]

口語訳イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。
塚本訳イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」
前田訳イスカリオテでないほうのユダがいう、「主よ、どうしたことですか、あなたご自身をわれらにだけ現わされて世には現わされないのは」と。
新共同イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
NIVThen Judas (not Judas Iscariot) said, "But, Lord, why do you intend to show yourself to us and not to the world?"
註解: ユダはなおもキリストがメシヤとして世に顕われ、不信の民を(さば)き給うものと考えていた。それ故に少数の者のみに己を顕わし給うことの意義をさとることができなかった。
辞解
[イスカリオテならぬユダ] 十二使徒の一人、マタ10:3マコ3:18にはタダイの名にて揚げられている。殊に「イスカリオテならぬ」と明示する必要はなきがごとくであるが(ヨハ13:30)或はユダに対するヨハネの強き反感のためか(M0)、またはユダが再び帰りそこにいるごとくに想像されることを防ぐがため(G1)であろう。

14章23節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『(ひと)もし(われ)(あい)せば、わが(ことば)(まも)らん、わが(ちち)これを(あい)し、かつ我等(われら)その(もと)(きた)りて住處(すみか)(これ)とともにせん。[引照]

口語訳イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。
塚本訳イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。
前田訳イエスは答えられた、「わたしを愛するものはわがことばを守ろう。わが父もその人を愛されよう。そしてわれらは彼のところへ行って居を共にしよう。
新共同イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
NIVJesus replied, "If anyone loves me, he will obey my teaching. My Father will love him, and we will come to him and make our home with him.
註解: イエスは例のごとくユダの質問に直接に答へ給わず、メシヤの国は彼らの思うごときものにあらず、神とキリスト(「我ら」とあるに注意せよ)がイエスを愛する者の許に降り給いて住居を彼らの許に造り給うその幸いなる姿である。あたかも(いにし)え神がイスラエルの中に住み給えると同じである(出25:8出29:45レビ26:11、12。エゼ37:26、27、なお引照3参照)。すなわちイエスの死によりて弟子たちは不安の状態に置かれるのではなく聖霊の内住、イエスの内住、神の内住ありて、三位の神が一体をなして我らの中に住み給うことを示す。キリスト者はこの状態に置かれた者である(ルカ17:20黙3:20)。いかで心を騒がすの必要があろうか。

14章24節 (われ)(あい)せぬ(もの)は、わが(ことば)(まも)らず。(なんぢ)らが()くところの(ことば)は、わが(ことば)にあらず、(われ)(つかは)(たま)ひし(ちち)(ことば)なり。[引照]

口語訳わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
塚本訳(しかし)わたしを愛しない者は、わたしの言葉を守らない。(だからわたしを見ることができない。)あなた達が(わたしから)聞く言葉はわたしの言葉ではない、わたしを遣わされた父上の言葉である。
前田訳わたしを愛さぬものはわがことばを守らない。あなた方が聞くことばはわたしのでなく、わたしをつかわされた父のものである。
新共同わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
NIVHe who does not love me will not obey my teaching. These words you hear are not my own; they belong to the Father who sent me.
註解: 世の人はかかる態度をもってキリストに叛き、父の言なるイエスの誡命(いましめ)を拒む。従ってイエスはかかる者とは偕に住むことができない。彼らに己を示し給わないのはこの故である。

4-2-1-ト イエスの与える平安 14:25 - 14:31

14章25節 (これ)()のことは(われ)なんぢらと(とも)にありて(かた)りしが、[引照]

口語訳これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
塚本訳わたしはこれだけのことを、(まだ)あなた達と一しょにおるあいだに話した。(これ以上のことは話してもわからないからだ。)
前田訳これらを語ったのは、あなた方とともにいるうちであった。
新共同わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
NIV"All this I have spoken while still with you.

14章26節 助主(たすけぬし)すなはちわが()によりて(ちち)(つかは)したまふ(せい)(れい)は、(なんぢ)らに(よろづ)(こと)ををしへ、(また)すべて()(なんぢ)らに()ひしことを(おも)()さしむべし。[引照]

口語訳しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
塚本訳(わたしが去ったあとで、)父上がわたしの名で遣わされる弁護者、すなわち聖霊が、あなた達にすべてのことを教え、またわたしが言ったことをすべて思い出させるであろう。
前田訳しかしのちに助け主、すなわち父がわが名で送られる聖霊があなた方にすべてを教え、わたしがいったことすべてを思い出させよう。
新共同しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
NIVBut the Counselor, the Holy Spirit, whom the Father will send in my name, will teach you all things and will remind you of everything I have said to you.
註解: これよりイエスは以上の語を結び給う。すなわち以上(14:1−24)においてイエスが直接に語り給いしことすら弟子たちはその時は凡てこれを覚ることができないであろうけれども、やがて聖霊降下するに及びてイエスの従来語り給いし御言や教訓は勿論、その他の万の事が始めてその意義が明らかにせられるであろう。聖霊はかくも驚くべき働きを為し給うのであって、聖霊の降臨によりて人々は全く新たなる能力を得るにいたるのである(Tヨハ2:27)。
辞解
[我が名によりて] 13節註および辞解参照。ここでは神が「イエスの願いによりイエスとの霊の交わりにおいて」遣わし給うことの意味である。

14章27節 われ平安(へいあん)(なんぢ)らに(のこ)す、わが平安(へいあん)(なんぢ)らに(あた)ふ。わが(あた)ふるは()(あた)ふる(ごと)くならず、[引照]

口語訳わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
塚本訳(今別れにのぞんで)平安をあなた達にのこしておく。わたしの平安をあなた達に与える。わたしが与える平安は、この世の人が『平安あれ』といのるような(言葉だけの)ものではない。(だから)心騒がせるな、気を落すな。
前田訳わたしはあなた方に平和を残す、わが平和をあなた方に与える。しかしわたしが与えるのは世の与えるようにではない。あなた方の心を騒がせるな、気落ちするな。
新共同わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
NIVPeace I leave with you; my peace I give you. I do not give to you as the world gives. Do not let your hearts be troubled and do not be afraid.
註解: ここにイエスはいよいよ立ち上がりて最後の袂別(べいべつ)を為さんとするかのごとくに、ユダヤ人の別れの挨拶なるシャローム(平安)を利用して、これを一層意味深きものとなし給うた。すなわちイエスが弟子たちとの袂別(べいべつ)に際して形見として「平安」を遺し給うた。この平安は世の与うる家内安全延命息災のごとき平安ではなく「わが平安」であって、神に対する良心の平安(ロマ5:1)、神の審判を免れし永遠の平和(ロマ8:1)神とキリストとの霊の交わりに在るもののその愛によりて受くる平安(ロマ8:31−39)である。この真の平安はキリストによるにあらざれば与えられることができない。

なんぢら(こころ)(さわ)がすな、また(おそ)るな。

註解: 14:1の前提がここに結論として繰返されている。以上に述べられしごとき数々の賜物を聖霊によりて弟子たちに賜うことの約束が与えられた以上、キリスト死に給うとも彼ら心騒がし懼れる必要はない。むしろ喜ぶべきであることを教え給う。

14章28節 「われ()きて(なんぢ)らに(きた)るなり」と()ひしを(なんぢ)(すで)()けり。もし(われ)(あい)せば、(ちち)にわが()くを(よろこ)ぶべきなり、(ちち)(われ)よりも(おほい)なるに()る。[引照]

口語訳『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。
塚本訳『わたしは離れてゆくが、すぐかえって来る』と言ったのを、あなた達は聞いたであろう。(もし本当に)あなた達がわたしを愛しているなら、わたしが父上の所に行くのを喜ぶはずである。父上はわたしよりもえらい(ので、行けば栄光をいただける)からである。
前田訳『わたしは去ってまた来る』といったのをあなた方は聞いた。わたしを愛するなら、わたしが父に行くのをよろこぶはずである。父はわたしよりも偉大であるから。
新共同『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
NIV"You heard me say, `I am going away and I am coming back to you.' If you loved me, you would be glad that I am going to the Father, for the Father is greater than I.
註解: 18節にイエスはその霊的臨在を予告し給うた、すなわちイエスが父の御許に行き給うことを弟子たちはみな知っていた。このことにについてもし弟子たちに愛があるならば心を騒がすことなく、反対に喜ぶべきである。その故は、イエスは己よりも大なる父の御許に往きこの僕の貌を棄てて父の栄光を受け給い、また弟子たちに来り、彼らと偕に居給うからである。イエスを愛する者にとりてこれにまされる喜びはないはずである。
辞解
[父は我よりも大なり] キリストの神性を否定するがごとくに見え、多くの神学上の論争を生める語であるけれども、イエスは子として常に父をあがめ給い、常を己を父より(ひく)くし給うたに過ぎない(ヨハ17:3ロマ9:5Tコリ15:28)。

14章29節 (いま)その(こと)()らぬ(まへ)に、これを(なんぢ)らに()げたり、(こと)()らんとき(なんぢ)らの(しん)ぜんためなり。[引照]

口語訳今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
塚本訳今事のおこらぬさきにこれを言うのは、事がおこった時、あなた達がそのことを信じ得るためである。
前田訳ことの成る前に今これをいったのは、成ったときにあなた方が信ずるためである。
新共同事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
NIVI have told you now before it happens, so that when it does happen you will believe.
註解: ヨハ13:19ヨハ16:14に類似せる一節である。もしこの言が予め与えられていなかったならば、イエスの死と復活と昇天と聖霊の降下に接しても弟子たちはそのことの真実の霊的意義を解することができないであろう。

14章30節 (いま)より(のち)われ(なんぢ)らと(おほ)(かた)らじ、この()(きみ)きたる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。
塚本訳もはやあなた達と多く話さない。(間もなく)この世の支配者(悪魔)が来るからだ。あれはわたしに指一本触れることはできない。
前田訳わたしはあなた方ともはや多くを語るまい、この世の君が来るから。彼はわたしに何もできない。
新共同もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
NIVI will not speak with you much longer, for the prince of this world is coming. He has no hold on me,
註解: この世の君は悪魔の別名(マタ4:1−10註。ヨハ12:31引照3参照。および註参照)である。彼はユダを使嗾(しそう)してまさにイエスを捕えんとしているのをイエスは感受し給うた。ゆえにこの御言は「我が死期近付けり」と言い給うのと同意義である。その結果弟子たちと語る時も残り少なきことを告げ給うた。

(かれ)(われ)(たい)して(なに)[の(けん)]もなし、

14章31節 されど[()くなるは、](われ)の、(ちち)(あい)し、(ちち)(めい)(たま)ふところに(したが)ひて(おこな)ふことを、()()らん(ため)なり。()きよ、いざ此處(ここ)()るべし。[引照]

口語訳しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。
塚本訳だが、わたしが父上を愛し、父上の命令のとおり行うことをこの世に知らせるために(わたしはあれに身をまかせる。)──立て。さあ出かけよう!
前田訳しかし、わたしが父を愛し、父が命じられたとおりにわたしがすることを世が知るために−−立て、出かけよう。
新共同わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
NIVbut the world must learn that I love the Father and that I do exactly what my Father has commanded me. "Come now; let us leave.
註解: キリストはその一生を通じて完全に神の子に在し給い、悪魔に従い給えることは(かつ)て一回もなかった。ゆえに彼は絶対の道徳的自由を持ち給うたのである。ゆえに悪魔はキリストに対して何らの権力もない。しかしサタン来りてイエスを十字架に()くる所以は、キリストの父を愛することとその命に随い給うこと、すなわち父の御旨に従い世の罪を負いて自ら十字架につき給うことを世が知りて、これによりてキリストの救い主なることを認め彼を信ずるに至らんためである。そのためイエスはサタンの為すままに委せ給うたのである。かく言いてイエスは弟子たちを促し起ちてそこを去り給うた。
辞解
[斯くなるは] 原文になし。
[知らん為] (1)「起きよ」に関連せしむる説(M0、G1、Z0)、(2)改訳本文のごとく「斯くなれり」「サタンの為すに任せん」等の意味が略されているとする説(A1)、(3)「此の世の君きたる」に関係せしむる説(B1)。いずれも意義に大差なし、文勢上は(1)が最も適当ならんと思わる。(▲31節を口語訳のごとくに訳することは kai があるのでやや困難であると思われる。)(注意)この御言に従いてイエスおよび弟子たちは直ちにここを去り15、16、17章を途中にて語りまたは祈り給いしか、または直ちに去らずして食事の室以外において語り給いしか、または立ちつつ語り給いしかなどにつき多くの想像説あり確定し難し。唯ヨハ18:1よりみればおそらくその場所または外庭等においてなお追加としてこれを語りまた祈り給うたのであろう。