ヤコブ書第1章
分類
1 挨拶 1:1
1章1節
口語訳 | 神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。 |
塚本訳 | 神と主イエス・キリストの奴隷なるヤコブ、(国々に)「撒きちらされたる十二族」に敬意を表す。 |
前田訳 | 神と主イエス・キリストとの僕ヤコブが散在の十二の族(やから)にごあいさつします。 |
新共同 | 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。 |
NIV | James, a servant of God and of the Lord Jesus Christ, To the twelve tribes scattered among the nations: Greetings. |
註解: 「僕」なるが故に自己や他人の意思に従わず神とキリストの御旨に従って語りまた行う。散り居る十二の族は本来はイスラエルの捕囚後世界各地に散らされしユダヤ人を指すけれども、この場合その中のキリスト者を指す。(異説あり緒言を見よ)ただし各地においてパウロに反抗し「割礼を受けずば救われず」等の主張を為したいわゆるユダヤ主義のキリスト者と混同してはならない(使15:1。ガラ1:6。コロ2:8)。
辞解
[平安を祈る] chairein は chairô 「喜ぶ」なる動詞の不定形で、歓喜を示す呼びかけとして書簡の挨拶に用いらる(引照5)。拝啓というがごとき場合。
分類
2 環境に対する義しき態度 1:2 - 2:13
2-1 歓喜をもって試錬に耐えよ 1:2 - 1:4
口語訳 | わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。 |
塚本訳 | わが兄弟達よ、種々な試練に遭った時には、(それを)無上の喜びと思え。 |
前田訳 | 兄弟方、いろいろな試みにお会いのとき、それを全くのよろこびと思ってください。 |
新共同 | わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 |
NIV | Consider it pure joy, my brothers, whenever you face trials of many kinds, |
註解: 本書にしばしば用いらる(ヤコ1:16、ヤコ1:19。ヤコ2:5。ヤコ4:11。ヤコ5:7、ヤコ5:19)。厳格なる書簡を貫く愛の折返しである。
なんぢら
註解: ユダヤ人のキリスト者は種々の方面より迫害せられていた。ゆえにヤコブはまず試錬はこれを嫌忌せず、これに畏怖せず、かえって心よりこれを喜ぶべきことを教えている(ロマ5:3)。これ信仰なしにはでき得ることではない。試錬が霊肉各種多様である場合なおさらである。▲当時のエルサレムのユダヤ人キリスト者は多くの迫害を受けていた。
辞解
[遭ふとき] peripiptô あるものの中に陥没してこれに取り囲まれる貌。「陥る」と訳して幾分原語の意味に近付くことができる。
[只管 これを歓喜とせよ] 「凡てみな喜びと思え」と直訳することができ、患難の中に喜ぶこと以上に患難そのものを喜ぶべきことを意味する。
[試錬] peirasmos Tコリ10:13辞解参照。
1章3節 そは
口語訳 | あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。 |
塚本訳 | 信仰の試験に及第することが忍耐を生み出すことを、君達は知っているのだから。 |
前田訳 | ご存じのとおり、あなた方の信仰の試練は忍耐を作り出します。 |
新共同 | 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。 |
NIV | because you know that the testing of your faith develops perseverance. |
註解: 患難によりて信仰は験される。そして患難殊に迫害は多く神の懲治 であって、忍耐をもってこれに対せざれば信仰を失うより外にない。この忍耐が完備して我らを救いに導く力となるのであって、神が愛をもって患難を下し給うことを思いて凡ての患難も歓喜となる(前節)。
辞解
[驗 ] dokimion 試験する行為(Tペテ1:7)、金銀を火にて試すごときこと。「練達」 dokimê(ロマ5:4)は試験せられて合格すること。
[生ずる] katergazomai は完備せしむること。
1章4節
口語訳 | だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。 |
塚本訳 | そして忍耐に完全な働きをさせて、如何なる点にも欠くることの無い、完全無欠な者となれ。 |
前田訳 | その忍耐に完全な働きをおさせなさい。それはあなた方が完全無欠になって、何につけても落度のないものになるためです。 |
新共同 | あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。 |
NIV | Perseverance must finish its work so that you may be mature and complete, not lacking anything. |
註解: 忍耐ももし一時にして挫折するならば無益である。忍耐が全き作用を発揮して終りまで忍ぶならば、かかる人はその信仰において徹底し、各種の条件が完備して欠ける点なき人となることができるであろう。患難に陥らず、忍耐を有たず、順境に育てる信仰は、かかる完全なる状態に達していない。必ず大なる欠陥を伴っている。患難が信仰に必要なる所以はここにある。
辞解
[全くかつ備りて] teleios kai holoklêros テライオスは終局まで到達する完全さを示し、ホロクレーロスは各部分完備する意味の完全さを意味する。患難が我らにこのような完全さを与えるとすれば、我ら患難をも歓ぶべきは当然である。
要義 [苦痛の福音]患難試煉の中にいよいよ堅く主に依り頼むことを得る者は幸いである。患難に遭いて主を見失う者、また神の恩恵を疑う者は、その信仰に欠陥があるのであって、もし完備せる信仰であるならば、如何なる患難の中にも忍耐 びて歓喜に溢れることができる。
1章5節
口語訳 | あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 |
塚本訳 | で、もし君達のうち誰か知恵に欠けている者があるならば、誰にでも無造作にまた快く与え給う神に求めよ。そうすれば(きっと)与えられるであろう。 |
前田訳 | もしあなた方のだれかが知恵に欠けるならば、すべての人に惜しみなくお与えになって、おとがめにならない神にお願いなさい。そうすれば神はお与えでしょう。 |
新共同 | あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 |
NIV | If any of you lacks wisdom, he should ask God, who gives generously to all without finding fault, and it will be given to him. |
註解: 前節の「缺くる所なからん爲なり」を受けて智慧の欠けたる場合について教えている。この場合「智慧」は1−4節の教えの意味を解する智慧(C1)または患難の意義および目的を知り、これらに処する道を解する智慧(B1)等をも含む。この智慧なしに患難に耐えることはできない。ゆえにこの智慧が欠如する場合には祈りをもって神にこれを希求すべきである。神はかかる願いを咎めず喜んで凡ての人に与え給うが故に、必ずこの祈りをも聴きて必要なる智慧を与え給う。人間の心をもって神の心を量ることができない。
辞解
[智慧] 当時においてもユダヤ人らに殊に重視されていた。
[咎むることなく、惜しむ事なく] 原文に順序が前後になっている。「惜しむ事なく」 haplôs は「単純に」の意味で、「綺麗サッパリと」なる俗語のごとく、自己の内心に惜しむ心が蟠 らずまた与えられる者が果してこれを善用するや否や等につきて憂いず、また報酬を求むることなしに与えること(ロマ12:8。Uコリ8、9章に同意義の語がしばしば用いられている。Uコリ8:2辞解参照)。「咎むることなく」はしばしば神を煩わすことに対して叱責せざる意味。
1章6節
口語訳 | ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 |
塚本訳 | ただし決して疑わず、(神を)信じて求めよ。疑う者は風のまにまに漂う海の浪に似ているのだから。 |
前田訳 | しかし少しも疑わずに信仰においてお願いなさい。疑うものは吹く風にゆらぐ海の波に似ています。 |
新共同 | いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 |
NIV | But when he asks, he must believe and not doubt, because he who doubts is like a wave of the sea, blown and tossed by the wind. |
註解: 前節の「求むべし」を受けて求める方法を示す。すなわち「信仰をもて」求めるにあらざれば求めるとも無益である。この信仰は神に対する信頼殊に神は必ずその約束を実行し給うことを信じる心である。マタ7:7(5節引照2)ヨハ14:14等において求むる者に必ず与うることを約し給える神は真なる神に在し、凡ての善きものを我らに与えんことを熱望し給うが故にこの約束を必ずや履行し給う。神の真実を充分に信じ得ずして祈る祈りは動揺常なく力なく、祈りの用をなさない。祈りは神との間の絶えざる不離の霊交より出づるものでなければならぬ。
辞解
[疑ふ] 原語 diakrinô は本来二つのものを区別を立ててこれを分離する意味の文字であるが、転じて相争う意味を持ち、従って神が己の祈りを聴き給うならんとの心と聴き給わざらんとの心とが心中に相争う貌をいったものであろう。
口語訳 | そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 |
塚本訳 | そんな人は主から何か戴けるなどと(決して)思うな── |
前田訳 | そのような人は主から何かをいただけると思ってはなりません。 |
新共同 | そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 |
NIV | That man should not think he will receive anything from the Lord; |
註解: 動揺常なき心をもって祈りつつ主(ヤコブは多くの場合神を主と呼んでいる)より求むる物を得んと思うのは間違いである。かかる祈りは為さざるに如 かず。
1章8節
口語訳 | そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。 |
塚本訳 | そんな人は二心で、そのすること為すことが皆ぐらぐらしている。 |
前田訳 | それは二心(ふたごころ)の人で、その行くすべての道で不安定です。 |
新共同 | 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。 |
NIV | he is a double-minded man, unstable in all he does. |
註解: 信仰は絶対でなければならぬ。最も忌むべきものは二心である。二心の者の歩みは常によろめき、ついに倒れるより外にない。二心は神に忌まれて何ものをも与えられず、悪魔に嘲弄されてその蹂躙 する処となる。
要義 [信仰の絶対性]信仰は絶対でなければならない。その大小は問題ではなく(マタ17:20)その徹底さ、すなわち絶対性が問題である。神とこの世、真理と虚偽、霊と肉との間に動揺する信仰は信仰なきに劣る。人は二人の主人に仕うることができない(マタ6:24)。ペテロは主より目を離し風を見て沈んだ(マタ14:28−30等)。我らは唯主のみを信じてそこに立ちて動かないことが必要である。
口語訳 | 低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。 |
塚本訳 | (身分の)卑い(貧しい)兄弟は(終わりの日において)自分が高まることを誇れ。 |
前田訳 | つつましい兄弟は(神によって)高められることを誇りなさい。 |
新共同 | 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。 |
NIV | The brother in humble circumstances ought to take pride in his high position. |
1章10節
口語訳 | また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。 |
塚本訳 | しかし(不信者なる)金持ちは(もし誇りたければ終わりの日において)自分が低くなることを誇ったがよかろう。彼は“草花のように”(たちまち)消え失せるのだから! |
前田訳 | 富むものは低められることを誇りなさい。草花のように過ぎ去るからです。 |
新共同 | また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。 |
NIV | But the one who is rich should take pride in his low position, because he will pass away like a wild flower. |
註解: キリスト者は如何なる試錬の中に在っても歓喜をもって「誇る」ことができる。すなわち貧困、病苦、迫害等の下にある「卑 き」兄弟は、神に選ばれて神の子とされ、永遠の嗣業を嗣ぐの地位に「高くせられたこと」を誇るべきであり、反対に金銭、財宝、地位、境遇に恵まれている者は、或は迫害その他の理由によりてその名誉財産を失える時、またはキリスト者となりしことによりてこれらに対する誇りを失いて「卑 くせられた」場合にはかえってこれをほこるべきである。
辞解
[喜べ] kauchaomai は多くの場合「誇る」と訳せられ、ここでも誇ると訳して差支えがない。
キリスト者となった状態を或は「高くせられ」と言い、或は「卑 くせられ」と言うことは矛盾にあらずやとの疑問は起こり得るけれども、Tコリ7:22のごとく同一事実を相反する二つの語をもって示すことはかえってその真理を表明する手段である。
そは
註解: ゆえに富者は本来誇るべき何物も持たない。かかるはかなき物を失って卑 くせられしことはかえって最も誇るべきことである。
辞解
[過ぎ行く] 主語は「富める者」であるけれども、単に彼が死ぬことの意味ではなく、その富が永続せざることを意味する(C0)。
1章11節
口語訳 | たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。 |
塚本訳 | (一度)日が出て熱い風が吹いて、“草を枯らすと、花は落ち”その麗しい顔は失せる。これと同じく、金持ちもその(儲け)仕事の最中に萎んでしまうであろう。 |
前田訳 | 太陽が熱をもって昇ると草を枯らし、その花は落ち、その姿の美しさは消えます。そのように富むものもその歩みのうちに滅びましょう。 |
新共同 | 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。 |
NIV | For the sun rises with scorching heat and withers the plant; its blossom falls and its beauty is destroyed. In the same way, the rich man will fade away even while he goes about his business. |
註解: 草花の麗しき姿の極めて一時的であると同様に、富者の栄華もその生涯を終らぬ先に、すでに衰退の運命に陥るであろう。富者の真の幸福と誇りとはその富の無価値を知り、またはその富を失いて卑 くされることである。
辞解
[熱き風] kausôn はアラビヤより吹き来る非常に乾燥している熱風で、草木を枯死させる作用をなす。
[途の半にして] 「途において」または「進行中に」の意味。
(注意)文法的には前節後半も本節も主格は「富める者」であるけれども、この場合は富者の誇りなる富が失われることを言うものと解すべきであろう。
[消え失せん] marainô は凋 むこと。
要義 [財産を失える者の喜び]富を失うことは人間にとっては大なる苦痛である。しかしながらこれむしろ誇るべきことであって、人はこれによって頼るべからざる富に頼ることを罷 め、頼るべき神に頼るに至るであろう。この語は一見残酷なるごとくに見えるけれども、最も深き信仰的立場を示した言であり、富を失って苦悶する者にとっての最良の教訓である。
1章12節
口語訳 | 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 |
塚本訳 | “幸福なるかな”、試練に“耐える”人、(これに)及第すると、主を愛する者に約束された生命の冠が戴けるのだから。 |
前田訳 | さいわいなのは試みに堪える人です。堪え抜いたものは、神を愛する人々に約束されたいのちの冠を受けるでしょう。 |
新共同 | 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 |
NIV | Blessed is the man who perseveres under trial, because when he has stood the test, he will receive the crown of life that God has promised to those who love him. |
註解: 試錬は苦しいが一時である。これに耐える者は永遠の生命の栄冠をもって報いられる幸福に与ることができる。神はこの栄冠を己を愛するキリスト者に約束し給う。ゆえに主を愛してこの生命の冠冕 を望む人は、必ず試錬に耐えることができる。
辞解
[これを善しとされる時] dokimos すなわち金鉱の中から純金を吹き分けるごとく、試錬の中より勝利をもって出て来ること(Uコリ13:5註および辞解参照)。
[おのれを愛する者] 試錬に耐える者を指す。何となれば神を愛するが故に試錬に耐えることができたからである。
[生命の冠冕 ] 永遠の生命は人間生活の頂点でありその王座である故にこれを冠冕 と呼んでいる。
1章13節
口語訳 | だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。 |
塚本訳 | 誰も(悪に)誘われる時、「私は神から誘われている」と言ってはならぬ。神は(決して)悪に誘われ給わず、また自らも人を(悪に)誘い給わないからである。 |
前田訳 | だれも試みられるとき、神から試みられているといってはなりません。神は悪に試みられず、自らだれをも試みたまいません。 |
新共同 | 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 |
NIV | When tempted, no one should say, "God is tempting me." For God cannot be tempted by evil, nor does he tempt anyone; |
註解: 我らを鍛えんがための外的試錬は神より来る。ゆえに本節以下においては他の種類の誘 いすなわち誘惑につき記せるものである(G1)と解すべきである。そして誘惑は多くの場合試錬の他の半面を形成しているのであって、従って人は誘惑に負けつつもこの誘惑が神より来れるもののごとくに唱え、その責任を神に帰せんとする者もある。これは大なる誤りで神において決してかかることは有り得ない。
辞解
[試み] peirazô に試錬と誘惑の二義があることについてはTコリ10:13辞解参照。神が患難をもって我らを試錬し給う時、同時にサタンは甘言をもって我らの肉の慾を誘いて我らをしてこの患難を嫌わしめ我らを罪に陥れんとする。すなわちこの二者が相伴う場合が多い。これこの二者が同一の語をもって示される所以であろう。
1章14節
口語訳 | 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。 |
塚本訳 | ただ各自が自分の慾に引かれ釣られて、誘われるのである。 |
前田訳 | 人が試みられるのはそれぞれおのが欲に引きずられ、迷わされるからです。 |
新共同 | むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 |
NIV | but each one is tempted when, by his own evil desire, he is dragged away and enticed. |
註解: 誘惑は神より来るのではなく己の慾(肉体的精神的)が己を引き付けてこれを捕えてしまうのである。「慾はあたかも遊女のごとく、人間性は男子に相当す」(B1)。人が罪に陥る経路を最も適切に示している。ゆえに罪に陥らざらんがためにはその欲をあらかじめ十字架につけておかなければならぬ(ガラ5:24)。
辞解
[慾] epithumia 凡て心の熱望する処の物。
[引く、惑す] 「引く」exelkô 、「惑(まどわ)す」 deleazô は共に漁猟に関する用語で、餌をもって魚鳥を誘い、これを「引きよせ」ついにこれを「引き入れ」餌を喰わしむることより転じて遊女の誘惑等に用い、ここでは我らがあらゆる種類の慾によりて、罪に陥る状態を表わすに用いている。
口語訳 | 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。 |
塚本訳 | かくて慾が孕むと罪を産み、罪が熟すると死を生む。 |
前田訳 | さらに欲ははらんで罪を生み、罪は成長して死を生みます。 |
新共同 | そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。 |
NIV | Then, after desire has conceived, it gives birth to sin; and sin, when it is full-grown, gives birth to death. |
註解: 前節の性的関係の用語を継続している。肉の慾が人間の意思を孕 むときそこに罪の行為が生ずる。そしてこの罪はその初期においてこれを殺すことができるけれども、爛熟するに至れば非常なる力となり人を死に至らしめ、人は生けるとも「死ねる者」であり(ロマ7:24)またやがて審判に至らなければならぬ。神は人を死に至らしむることを望み給わず、生命を与えんことを欲し給う。ゆえにかかる試誘 は神より来るはずがない。
辞解
[成りて] apoteleô 完結、成就等の意、「その力を充分に発揮して」(B1)。
口語訳 | 愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。 |
塚本訳 | 愛するわが兄弟達よ、考え違いをしてはならぬ── |
前田訳 | 愛する兄弟方、おまちがいのないように。 |
新共同 | わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。 |
NIV | Don't be deceived, my dear brothers. |
註解: 「自ら欺くな」 mê planâsthe(Tコリ6:9)は時に「欺かるな」(Tコリ15:33)と訳せられ「誤りに陥るなかれ」または「誤りに陥れられることなかれ」の意味である。ここでは13節以下を結びて次節以下の真理を敷衍せんがためにこの句を用いている。すなわち誘惑が神より来るというごとき誤れる思想に陥って誘惑に負けることなかれ。かえって次節以下のごときが真理であるというのである。
1章17節
口語訳 | あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。 |
塚本訳 | (誘いは神から来るのではない。)あらゆる善い贈り物、あらゆる完い賜物が、上から、(もろもろの)光の父から下るのである。父には微塵も変化がなく、また星辰の運行から生ずる陰影も無い。(だから、こんな神から悪への誘いが来る訳が無いではないか。) |
前田訳 | すべてのよい贈り物とすべての全き賜物は上から、もろもろの光の父から下って来ます。彼には変化や交代の影がありません。 |
新共同 | 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。 |
NIV | Every good and perfect gift is from above, coming down from the Father of the heavenly lights, who does not change like shifting shadows. |
註解: 天の父は唯我らに善き完全なるもののみを与え給う(マタ7:11)。ゆえに我らに罪や死を与うる原因は我らの慾に在って神にはない。
辞解
[「善き賜物」「全き賜物」] 「善き賜物」は正義を愛する心、善行を為すの力等を意味すると見ることができ、15節の罪に対立し、「全き賜物」の「全き」は「罪成り」の「成り」と同語源の文字を用い、聖き生活および完全なる救い等を意味すと解し15節の死に対立するものと見ることができる。
[もろもろの光] これが何たるかにつき多くの説あり、ここでは日月星辰の天体にかけて有形無形のあらゆる栄光(創造されし天地、天の使、救われし人間等のごとき)を表わしていると見ることができよう(E0)。
[父] なる語はここに最も適切に用いられている(B1)。なぜなら15節の「生み」に対立して次節に「生む」ことにつきて叙 べられているからである。
註解: かかる賜物を与え給う父は動揺常なく明暗定まりなきごとき頼り難き者ではない。その与えんとし給うものは必ず与え、その約束は必ずこれを履行し給う。
辞解
この句も天体の用語を応用したのであって、「變ること」 parallagê は変化を意味し、天体が朝夕その光を変化することに適用し、「回轉」 tropê は夏至冬至のごとき囘期を意味し、これによりて「影」 aposkiasma すなわち光線の強弱が生ずることを意味す。
1章18節 その
口語訳 | 父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。 |
塚本訳 | (のみならず、)彼は私達をその創造り給うた物の謂わば初穂たらしめようと思って、真理の言により私達を生み給うたのである。 |
前田訳 | 彼はみ心によってわれらを真理のことばでお生みでした。それはわれらが被造物の初穂というべきものになるためです。 |
新共同 | 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。 |
NIV | He chose to give us birth through the word of truth, that we might be a kind of firstfruits of all he created. |
註解: 永遠に不変なる父の我らに与え給える最善最全の賜物は我らの新生命である。この新生命は神がその「御旨に従い」我らを聖霊によりて新たに生み給える結果我らに与えられし生命であって(エペ2:20)、上より出でし生命である(ヨハ3:3)。そしてこの新しき誕生の行われし方法は「真理の言」すなわち福音が我らの心にその働きを及ぼしたことであり、この新生の目的は「我ら」すなわちキリスト者を聖別して凡ての被造物、凡ての人間の中にてまず第一に神に献げられる初穂のごときものたらしむるに在る。
辞解
[御旨のままに] 文章の首にあり意味を強めている。すなわちかかることを欲し給う神が人を誘惑し給うことなく、唯我らに善く全き賜物をのみ与えんと欲し給うことを明示している。
[初穂] apaichê は動物の初子、穀物の初穂等を意味し、ユダヤ人はまずこれを神に献げていた(出22:28、出23:19、その他)、ゆえに始めて選び出されしキリスト者(ロマ16:5。Tコリ16:15)初めて復活し給えるキリスト(Tコリ15:20、Tコリ15:23)等に適用せらる。本節の場合、これを将来のキリスト者に対して初めてキリスト者となれるその当時の人々をさすか、またはこれを将来の新天新地に対して人類中より選ばれし凡てのキリスト者を指すかにつき説分る。後説を採る。
要義1 [己の慾と神の御旨]己の慾は罪と死を生み、神の御旨は新生命を生む。我ら試錬に遭遇し誘惑に露 される時、この二者の岐路に立つ。この場合もし己の慾に引かれるならば我らは死に向って進み、神の御旨に従うならば我らは勝利の栄冠を戴くことができる。この二者の間には截然 たる区別があり、我らはその何れかを採らなければならぬ。
要義2 [神は人を悪に誘い給わず]神がその意思をもって直接に誘惑することは、神の本質に反することであって、有り得ない事柄である。しかし神は時に(1)サタンが人を誘惑するに任せ給うことがある。アダムとエバとを蛇が誘惑せる場合のごとき(創3:1以下)、またヨブをサタンが誘える場合のごとき(ヨブ1:6以下)これである。かかる場合神はこれによりて人をしてその罪を知らしめ、神に立帰る手段としてサタンを用い給うのであって、神自ら人を誘い給うのではない。また時に(2)人の心の慾にまかせてこれを放任しこれをその汚穢 に付し給うことがある(ロマ1:24、ロマ1:26)。またはパロの場合のごとくその心の頑固なるにまかせ給うこともある。しかしながらこれらの場合においても神が人をかかる状態に誘い給うたのではなく、人の心のままに放置してその悔改めを待ち、またはその審判を示し給うのである。何れの場合においても神は悪の原因であり給わない。
口語訳 | 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 |
塚本訳 | 愛するわが兄弟達よ、知れ──人は皆聽くに速く、談るに遅く、怒るに遅くなければならぬ。 |
前田訳 | 愛する兄弟方、このことを知ってください。だれでも聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきです。 |
新共同 | わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 |
NIV | My dear brothers, take note of this: Everyone should be quick to listen, slow to speak and slow to become angry, |
註解: 「之」は前節までの語を意味する。
されば、おのおの
註解: ユダヤ人の欠点ともいうべきものはいたずらに議論のみ多くして(ヤコ1:22、ヤコ3:1−12)実行これに伴わず、また党派心強くして敵に対して苦き嫉 の心を有つことであった(ヤコ3:13−18、ヤコ4:1−2、ヤコ4:11−12)。このことは多くのキリスト者にとって事実である。ゆえに「神の言」を謹んで熱心に聴くべきこととこれを行うべきこと(ヤコ1:21−27、ヤコ2:1−26)と、そして虚しき議論を避け、教えを実行すべきことを教えている。この一節は本書の全体の骨子のごときものと見ることができる。
口語訳 | 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。 |
塚本訳 | 人の怒りは神の義を行わないのだから。 |
前田訳 | 男の怒りは神の義を促進しません。 |
新共同 | 人の怒りは神の義を実現しないからです。 |
NIV | for man's anger does not bring about the righteous life that God desires. |
註解: 「人の怒」と称して「神の怒」にあらざることを示している。神は怒り給う、また神は時に人を通して怒り給う、この怒りは正しい。しかし「人の怒り」すなわち人の誇り、嫉み、悪意党派心に支配せられし怒りはたといその人はこれによりて神の義を行うがごとくに思惟すともそれは不可能である。「神の義」と言いて殊に「人の義」「己が義」(マタ6:1)にあらざるを示す。神の義は神との正しき関係において為される行為、人の義は人間の律法、思想、傾向、主義等より義 しと信じて為される行為である。この二者の間に大なる相違がある。我らは神の義を行うことを努めなけければならぬ。
1章21節 されば
口語訳 | だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 |
塚本訳 | 故に一切の穢れと夥しい悪とを脱ぎ棄てて、心に植えつけられた、君達の魂を救うことの出来る御言を、柔和(な心)をもって受け容れよ。 |
前田訳 | それゆえ、すべての汚れと目にあまる悪を捨てて、心に植えられたみことばをすなおにお受けなさい。それにはあなた方の魂を救う力があります。 |
新共同 | だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 |
NIV | Therefore, get rid of all moral filth and the evil that is so prevalent and humbly accept the word planted in you, which can save you. |
註解: 前節のごとく人の怒りをなさずして神の義を行うには農業の譬をもって示されし本節のごとく、我らより除くべきものと我らの受くべきものとがある。すなわち我らの心にはあらゆる道徳的汚物、また他人に対する溢れる悪意がある故我らはまずこれを除き、そして「神が我らの心に植え給う福音」を受けなければならぬ。そしてこれを受くる態度は「柔和」でなければならぬ。柔和は「怒」の反対で(B1)隣人に対する優しき愛に充てる態度を指す(M0)。すなわち神の言は争闘の目的をもって受けてはならない。この言すなわち福音は「魂を救ひ得る」のであって、人の怒りが人をして死に至らしむることの正反対である。
辞解
[穢 ] ruparia は塵埃 汚物の類。
[溢れる悪] 原語「悪の満盈 」、悪は本来善悪の悪を意味するけれども多くの場合隣人に対する悪意の意に用う(エペ4:31。コロ3:8。テト3:3。Tペテ2:1)。
[柔和をもて] 原文によれば最も強き意味を表わす。
1章22節 ただ
口語訳 | そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。 |
塚本訳 | 御言の実行者となれ。(自分で)自分をごまかしてただの聴聞者となるな。 |
前田訳 | みことばを行なう人におなりなさい。自らをあざむいて、たんに聞き手であってはなりません。 |
新共同 | 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 |
NIV | Do not merely listen to the word, and so deceive yourselves. Do what it says. |
註解: 私訳「汝ら己を欺きて単なる聴聞者とならず、御言の実行者となれ」。聞くと共にこれを行うことが必要であることはユダヤの教えに殊に強く教えられていた。キリストも(マタ7:24−27。ヨハ13:17)パウロも(ロマ2:13)このことを教えている。本節以下27節までは19節の敷衍で極めて平凡なるがごとくにしてしかも最も大切なる教えである。
辞解
[欺く] paralogizomai は詭弁をもって欺くことの意味で「勝手な理屈を付けて」聴くのみにて行わざることをもって正しきかのごとくに己の心を欺くこと。
1章23節 それ
口語訳 | おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 |
塚本訳 | もし(ただ)御言の聴聞者で(あるだけで)その実行者でないならば、その人は(丁度)鏡で自分の生来の顔を眺める人に似ている。 |
前田訳 | みことばの聞き手であって、行なわない人があるならば、それは生まれつきの顔を鏡に見つめる人に似ています。 |
新共同 | 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 |
NIV | Anyone who listens to the word but does not do what it says is like a man who looks at his face in a mirror |
1章24節
口語訳 | 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。 |
塚本訳 | 自分(の顔)を眺めて立ち去ると、直にどんな(顔)であったかを忘れるのである。 |
前田訳 | 自らを見つめて立ち去ると、すぐどんなであったかを忘れます。 |
新共同 | 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。 |
NIV | and, after looking at himself, goes away and immediately forgets what he looks like. |
註解: 神の言を聞く場合に何人もこれに照らして自己の心の姿を見ることができること、あたかも鏡の前に立ちて己が肉体の(生来 の geneseôs)顔をみるがごときものである。そして神の言を深く心に留めずこれを行わざる者は己をうつし見て立去る人である。かかる者がすぐにその姿を忘れると同じく聞きて行わざる者は直ちに己の心の姿の如何を忘れ、自ら欺きて正しき者のごとくに誤認してついに罪に陥り、滅亡を招くに至るのである。19節の教訓はここにおいて意義あることを見るのである。
1章25節 されど
口語訳 | これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。 |
塚本訳 | しかし完全な自由の律法に見入って離れない者は、忘れっぽい聴聞者でなく(善き)業の実行者となるのであって、その人は(それを)実行すれば幸福であろう。 |
前田訳 | 自由を与える全き律法に見入ってそこにとどまる人は、忘れやすい聞き手ではなくて、行ないをする人になります。その人は行ないによって、さいわいになるでしょう。 |
新共同 | しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。 |
NIV | But the man who looks intently into the perfect law that gives freedom, and continues to do this, not forgetting what he has heard, but doing it--he will be blessed in what he does. |
註解: 「律法」はユダヤ人にとっては「神の御言」の総称である。そしてヤコブはここに旧約と新約とを区別し前者は不完全にして不自由であり、後者は「完全」にして「自由」であることを言う所以は、前者は人の口を通して文字により示され、外部より人を束縛するに過ぎないのに反し、後者は神の霊により心に記され内より人を動かすからである(Uコリ3:3)。この完全にして自由なる新約の律法は我らを生かす神の福音そのものである。この律法を「懇 ろに見る」者は単に鏡にて「見る」人と異なり、またそこを「離れぬ」者は「立去る」者と異なる。従ってかかる人は神の言の真の実行者である。神の言を行う者の幸福は最大の幸福である(ヨハ15:10)。これ我らの魂を救い得るからである(21節)。
辞解
[懇 ろに見る] parakuptô は本来身を屈めて見んとする目的物に目を近付けることを意味す(ヨハ20:5、ヨハ20:11。ルカ24:12)。前節の「見る」 katanoeô よりも強き意味。
[離れぬ] paramenô その側にいつまでも留まること。ヨハネが好んで用いし「居る」 menô と語源が同じ(ヨハ14:10、ヨハ14:16、17その他)。
1章26節
口語訳 | もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。 |
塚本訳 | もし誰か自分を信心深いと思い、その舌の轡をかけず、(外見だけの信心を真の信心と思って自分で)自分の心を欺くならば、その人の信心は空である。 |
前田訳 | もし信心深いと思いつつも自らの舌を制しえず、自らの心をあざむいているならば、その信心はむなしいものです。 |
新共同 | 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。 |
NIV | If anyone considers himself religious and yet does not keep a tight rein on his tongue, he deceives himself and his religion is worthless. |
註解: 前節までは19節中の「聴くこと」に関係し、本節はその「語ること」に関係し、次節と共に偽の信心と真のそれとの区別を示す。自己の宗教的なることを誇るものは往々にして他の信仰に対して毒舌を振るい、己の心を迷誤の中に陥らしめ、自ら信心深いと思うに至るのである。かかる信心は何らの好結果を来たし得ないものである。「語ることを遅くすべき」はこれがためである。
辞解
本節は「人もし自ら信心ふかき外観を呈するとも」と訳す説もある(C1、E0)。
[信心] thrêskeia、thrêskos は「宗教」「宗教的」の意味で、本来形式的礼拝の意味に用いられる語であるけれども、ここでは転じて霊的の意味に用いられている(W2)。
[空しき] mataios Tコリ15:17辞解参照。
1章27節
口語訳 | 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。 |
塚本訳 | 父なる神の前に(真に)潔い、穢れのない信心とはこれである──孤児や寡婦をその患難の時に見舞うこと、この世から穢されぬように自分を守ること! |
前田訳 | 父なる神のみ前に清く汚れなき信心とは、困難の中にあるみなし子ややもめを顧み、自らを世から清く保つことです。 |
新共同 | みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。 |
NIV | Religion that God our Father accepts as pure and faultless is this: to look after orphans and widows in their distress and to keep oneself from being polluted by the world. |
註解: 人の前には宗教的であっても神の前には虚しきこと前節のごとくである。そして神の前に正しき信仰(潔く穢れなく完全なる信仰)は愛の実行と義の確保とである。この二者はユダヤ人のキリスト者に殊に欠けていたので本書の全体を通してこの点を繰返し戒めている。そして愛の実行を必要とする最も普遍的にして手近なる例として寡婦と孤児とをあげ、義の確保の根本原則として世(神より離れてこの世の君なるサタンに支配される世。我らはこの世より選び出されし者で世と淫することができない)とその凡ての汚れより自らを遠ざけることである。これこそ真の宗教であって、宗教的外形のごときは無益である。▲マタ25:31−46の譬話に類似せる教訓である。
辞解
[父なる神] 愛を示さんがためにこの語を用う。
[見舞ひ] マタ25:36、マタ25:43と同じく苦しむ者を訪れてこれを助くること。
[守る] 神の業であって(ヨハ17:5)同時に人の業である(Tテモ5:22。M0)。
要義1 [行為の必要]キリスト教会においては語ること聴くこととが多きに過ぎて実行これに伴わざる恨がある。宗教改革直後において神学上の争論が甚だ多くして、しかもかかる神学者が最も愛に乏しく互に排斥迫害し合いし事実のごとき、このヤコブの教訓の正反対であって、かかる傾向に対してこの教訓は極めて適切である。語ること、聴くことが不必要ではない。しかしながら行為はさらに一層必要である。
要義2 [行為を伴わざる信仰は自己欺瞞なり]キリスト者はすでに神の言をその心に植付けられている(21節)。ゆえに神の律法に遵 う時に自由であり、これに叛く時に不自由である。自己欺瞞の心は不幸の極致であり、神の言を行う者は至上の幸福を享有する。何となればその心自由にして偽りがないからである。
要義3 [全き自由の律法]ヤコブ書が大体において律法主義的で行為を過重するとの非難は一見真理のごとくであるけれども、しかしこれ決して事実ではない。ヤコブ書の中心にも同じく恩恵による福音の真理が流れているのである。25節のごときそれであって、ヤコブは決してモーセを通してユダヤ人に与えられし儀文による律法を守らしめんとしたのではなく、聖霊によりて更生せしめられし者の心に神によりて記される霊的律法を守らしめんとしたのである。これパウロのいわゆる御霊に従って歩むこと(ロマ8:4。ガラ5:16)であって、福音の中心である。
ヤコブ書第2章
2-6 人を
2章1節 わが
口語訳 | わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。 |
塚本訳 | わが兄弟達よ、我らの栄光の主イエス・キリストの信仰をもつ者には偏頗があってはならぬ。 |
前田訳 | 兄弟方、われらの栄光の主イエス・キリストへの信仰を人前次第になさらぬように。 |
新共同 | わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 |
NIV | My brothers, as believers in our glorious Lord Jesus Christ, don't show favoritism. |
註解: 私訳「わが兄弟よ、我らの主、栄光のイエス・キリストに対する信仰を持ちつつ人を偏 り視る事勿れ」。人間的、この世的栄誉はキリストの栄光の前に寸毫 の価値もない。ゆえに至上の栄光を持ち給う我らの主イエス・キリストに対する信仰と、貴賎貧富によりて人を偏 り視ることとは両立し得ざる心持である。
辞解
「栄光の」なる二字が何れに連絡するかにつき諸説あり、イエス・キリストと同格と解す(私訳)。
2章2節
口語訳 | たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。 |
塚本訳 | すなわち金の指輪をはめ、立派な着物を着た人が君達の会堂に入って来、また貧乏人も汚い着物で入って来た時、 |
前田訳 | あなた方の会堂に金の指輪をした立派な着物の人が入って来、粗末な着物の貧しい人も入って来たとします。 |
新共同 | あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 |
NIV | Suppose a man comes into your meeting wearing a gold ring and fine clothes, and a poor man in shabby clothes also comes in. |
2章3節
口語訳 | その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、 |
塚本訳 | もし立派な着物を着た人に目をつけて、「貴方は此処のよい席におかけなさい」と言い、貧乏人には、「君はあそこに立つか、(ここで)私の足台の傍にお坐り」と言うならば、 |
前田訳 | あなた方が立派な着物を着た人に目をつけて、「あなたはどうぞこちらへおすわりください」といい、貧しい人に、「あなたはそこに立つか、わたしの足もとにすわるかなさい」というならば、 |
新共同 | その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 |
NIV | If you show special attention to the man wearing fine clothes and say, "Here's a good seat for you," but say to the poor man, "You stand there" or "Sit on the floor by my feet," |
註解: かかる態度は今日のキリスト教会にも存在する。4節以下に明らかなるごとく最も非キリスト者的の心より生れて来る悲しむべき現象である。
辞解
[會堂] synagôgê = synagogue 本来ユダヤ教の会堂を指している文字であるけれども(マタ4:23 引照2)ここではユダヤ人のキリスト者の集会せる場所を指したのである。一般にその後は「教会」 ecclêsia なる名称を用いるに至った。
[華美なる] lampros は光り輝く意、ピカピカの衣。
[重んじ視] epiblepô 驚嘆と尊敬とをもって「見上ぐる」意味であって富者に対する誤れる考えの発露である。
[此の善き處に坐せよ] 原語の意味は「此處にお楽に坐りなさい」。
[足下に] 原語「足台の下に」で非常に軽蔑せる貌。
2章4節
口語訳 | あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。 |
塚本訳 | 君達は自分勝手に差別待遇をする悪徳裁判人になったのではないか。 |
前田訳 | あなた方は自らの中で差別をし、悪い考えの裁き人になったのではありませんか。 |
新共同 | あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 |
NIV | have you not discriminated among yourselves and become judges with evil thoughts? |
註解: 私訳「汝ら心中に隔てをなし」。2、3節のごとき態度は差別を立つべからざる人々に対して我らの心中に差別待遇をなし、また自ら「審判人」として人の価格に上下の判断を下し、しかも「悪しき思」をもて判断する審判人となったのである。この悪しき思いとは富者に諂 うことによりて利益を得んとする思い、または貧者を軽視して自らを高しとする誇りのごときものを指す。(注意)この一節は多種多様に訳される可能性がある。何となれば ou (diakrithête)は「非ずや」とも「非ず」とも読むことができ、かつ diakrithête は「区別する」「分離する」「矛盾する」「判断する」「疑う」等種々の意味を持っているからである。これらが種々組合わせられて多数の意味を生ずる(M0、A1参照)。
2章5節 わが
口語訳 | 愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。 |
塚本訳 | 聴け、愛するわが兄弟達よ、神はこの世の貧乏人を選んで信仰における金持ちとし、神を愛する者に約束し給うた御国の相続人となし給うたではないか。 |
前田訳 | お聞きなさい、愛する兄弟方。神はこの世で貧しいものを選んで信仰に富ませ、彼を愛する人々にお約束になった国の相続人になさったのではありませんか。 |
新共同 | わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 |
NIV | Listen, my dear brothers: Has not God chosen those who are poor in the eyes of the world to be rich in faith and to inherit the kingdom he promised those who love him? |
註解: 神の取り給う態度とキリスト者の取る態度とは同一でなければならない。そして神は特に貧者にその愛を注ぎ、彼らを選び給うた。そして彼らを現在においてすでに信仰による富者となし(M0、C1)、種々の霊の賜物に富ましめ、また未来においては神の国の世嗣(ロマ8:17。ガラ3:29、ガラ4:7)としてその栄光に与らしめ給う(勿論信ぜざる貧者をもかくなし給うという意味ではない。また信ずる富者を除外し給うというのでもない。唯神は特に貧者にその愛憐を垂れ給うことを示す)。神の目には貧富の差別がなく、悩める者を一層憐み給う愛があるのみである。
辞解
[兄弟よ、聴け] 特に読者の注意を引いている。
[世の貧しき者] 「世の人の目より見て貧しき者」との意(E0、M0)と「世の事物について貧しき者」(A1)との意味あり、前者を採る。
[信仰に富ませ] 信仰そのものに富むとの意味よりも、むしろ信仰によりて霊的富者となることを意味する(C1、M0、A1)。
[神を愛する者] 「神を信ずる者」というに等しく信仰によりて救われ神と親子の関係に入りし者を意味する。
口語訳 | しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。 |
塚本訳 | しかるに君達は貧乏人を軽蔑した。(しかし)金持ちどもこそ君達を抑えつけ、また裁判所に曳いて行くのではないか。 |
前田訳 | しかるにあなた方は貧しい人をはずかしめました。金持ちこそあなた方をいじめて法廷に引いて行くではありませんか。 |
新共同 | だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 |
NIV | But you have insulted the poor. Is it not the rich who are exploiting you? Are they not the ones who are dragging you into court? |
註解: 5節の神の御心に甚だしく相反する状態である。キリスト者の間にすらかかる事実があったことは悲しむべきことである。我らは常に神の御心のごとくに人に対しなければならない。
註解: 多くの富者は何れの時代においてもその実力をもって弱者を圧迫することを権利のように考えてこれを実行する。そして神はかかる行為を憎み給う(詩72:4。イザ11:4)。ヤコブはかくいいて富者に対する敵慨心を挑発せんとしたのではなく、貧者を軽んじ富者を貴 む理由が全く存在せざることを示したのである。
2章7節
口語訳 | あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。 |
塚本訳 | 彼らこそ(洗礼の際)君達の上に称えられた(イエス・キリストの)高貴な御名を涜すのではないか。 |
前田訳 | 彼らこそあなた方がそれによって名づけられる(キリストの)よいみ名を汚しているではありませんか。 |
新共同 | また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 |
NIV | Are they not the ones who are slandering the noble name of him to whom you belong? |
註解: 信仰なき富者は啻 に前節のごとくキリスト者に対して罪深き行為をなすのみならずまたキリストの御名を冒涜する涜神罪を犯している。何れの時代でも富者は新しきものを嫌う保守的傾向を有するので、当時も新しき信仰なるキリスト教を忌みキリストの御名を冒涜せる者の中に富者が多かったのであろう。
辞解
[汝らの上に稱 へられる] 旧約聖書において用いられる語法で人は何者かの名で呼ばれる場合にその名の所有なることを意味する。イスラエルはエホバの名をもて呼ばれた(申28:10。エレ14:9。エレ15:16。アモ9:12。創48:16。イザ4:1)。
[尊き名] 原語「善き名」キリスト者は信仰によりて「キリストのもの」となる(Tコリ3:23)。
[汚す] blasphêmein 冒涜すること、言葉をもってする場合に用いられる。
2章8節
口語訳 | しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。 |
塚本訳 | もちろん君達が聖書に従って、「“己の如く汝の隣人を愛せよ”」という王者律を全うするならば、それはよいことである。(だから君達が金持ちを愛するのは悪いことではない。) |
前田訳 | もしあなた方が、「おのれのように隣びとを愛せよ」という聖書に従って至上の律法をお守りならば、立派な行ないです。 |
新共同 | もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 |
NIV | If you really keep the royal law found in Scripture, "Love your neighbor as yourself," you are doing right. |
註解: 富者は前述のごとく神と人とに対して罪深き者である。さればとてことさらに彼らを憎み、迫害し、放逐せよというのではない。我らが終始一貫して完全に守らなければならぬ最高の律法は聖書によるこの句である。すなわち貧富を問わず凡ての隣人を己のごとく愛することである。もしこれをすら完全に行っているのならば、全く申し分なき状態である。
辞解
[尊き律法] nomos basilikos は「王的律法」で律法中の王者ともいうべきものを指す。なおこれを「王者の律法」と解し、王なる神の定め給える律法の意味に取る説その他あれど採らず。
2章9節 されど
口語訳 | しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。 |
塚本訳 | ただもし偏頗なことをすれば、罪を犯すのであって、律法から犯人と定められる。 |
前田訳 | しかしもし人前次第になさるなら、あなた方は罪を犯しており、律法によって違反者としてとがめられます。 |
新共同 | しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。 |
NIV | But if you show favoritism, you sin and are convicted by the law as lawbreakers. |
註解: 貧者を軽視し富者を重視することは前掲の愛の律法に反する行為であって、罪である。かかることを行う者は律法によってその違反者として判決される。
辞解
[罪を行う] hamartian ergazein は強き言い方で、平気でかかることを行っている者の反省を促す語気がある。
[律法] 全体の律法。
2章10節
口語訳 | なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。 |
塚本訳 | 律法全体を守っても(ただ)一点において失策る者は、全体を犯したことになるからである。 |
前田訳 | 律法全体を守るものも、そのひとつに欠ければ、全体を犯すことになります。 |
新共同 | 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。 |
NIV | For whoever keeps the whole law and yet stumbles at just one point is guilty of breaking all of it. |
註解: 律法は唯一の神の唯一の意思の発表である。ゆえにその一部に従い一部に従わないのは結局自己の利害や都合で神の御旨を取捨するのであって、神に従わずして自己に従い、律法の凡てを犯しているのである。ヤコブはここに無数の律法の逐条的遵守を重視したのではなく、全体としての神に対する態度を示したものと見るべきである(C1)。
2章11節 それ『
口語訳 | たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。 |
塚本訳 | というのは、「“姦通するな”」と言い給うた御方がまた「“殺すな”」と言い給うたのであるから、たとい姦通せずとももし殺せば、律法(全体)の犯人となるのである。 |
前田訳 | 「姦淫するな」と仰せの方は、「殺すな」とも仰せです。それで、姦淫しなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になります。 |
新共同 | 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。 |
NIV | For he who said, "Do not commit adultery," also said, "Do not murder." If you do not commit adultery but do commit murder, you have become a lawbreaker. |
註解: 「凡ての律法を与え給いしものは唯一者である。従って一点において彼の意思に叛く者は全部に叛くものである」(B1)。
辞解
「姦淫」と「殺人」とをここに選べる理由につき種々の憶測あれど、ここでは十誡中対人の義務として揚げられし最初の二つを代表的に取ったのであろう(A1、M0)ルカ18:20。ロマ13:9。
[破る者] 9節「犯罪者」と同語。
2章12節 なんぢら
口語訳 | だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。 |
塚本訳 | (だから死んだ文字でなく、霊の)自由の律法をもって審かるべき者らしく語りまた行動せよ。 |
前田訳 | あなた方は語りまた行なうこと、自由の律法によって裁かれるものらしくなさい。 |
新共同 | 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 |
NIV | Speak and act as those who are going to be judged by the law that gives freedom, |
註解: 10、11節において律法の一部の違反は全体の違反なることを示した。しかしながらキリスト者を審 く律法はモーセによりて与えられし儀文的律法ではなく、ヤコ1:25のごとくキリストの霊が心に宿ることによりて示される自由の律法、すなわち人を新たなる生命に甦らしめ、愛をもって自由にこれを行うことを得るごとき律法である。この律法によれば愛なき者(例えば人を偏 り視るごとき)は当然審 かれる。故にかかる審 きに遭うも差支えなきように言語をも行動をも慎まなければならぬ。
辞解
原語「斯く」 houtôs を繰返して意を強めている。
2章13節
口語訳 | あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。 |
塚本訳 | 憐憫を行わぬ者には憐憫なき審判があるのである。憐憫は審判に向かって勝ち誇る。 |
前田訳 | その裁きは、あわれみをしなかったものにはあわれみなしです。あわれみは裁きに勝ち誇るものです。 |
新共同 | 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。 |
NIV | because judgment without mercy will be shown to anyone who has not been merciful. Mercy triumphs over judgment! |
註解: ヤコ1:27、および本章1節以下の結論で、愛は律法の完成(ロマ13:10)なるが故に憐憫(ここでは愛というに同じ)を行わざるもの、すなわち人を偏 り視る者、または孤児寡婦に対して冷酷なるものはキリストの律法の違反者であり、神の厳格な審判を免れることができない。これに反し憐憫を行う者は神の審判を懼れず、審判に対して喜悦に充てる確信をもってこれに勝ち誇ることができる。「愛には懼れなし」(Tヨハ4:17、18)。
要義 [愛の発露]一見極めて律法的に見ゆる2:1−13の中にヤコブが如何に愛を高調せるかを見るならば、律法と愛との関係につきて未だ充分に神学的論争が行われざりし当時のヤコブの心中に、すでに旧約の律法と新約の律法との重大なる差異が意識せられていたのを見ることができる。そしてヤコブは愛なき場合の一例として人を偏 り視ることの習慣を揚げて信徒の良心を反省せしめ、かくして彼らを愛に立帰らしめんとしたのである。ヤコブ書と聖書の他の部分とが矛盾するごとくに考えるは皮相の見である。
分類
3 義しき心と義しき行為 2:14 - 4:17
3-1 信仰と行為 2:14 - 2:26
註解: 16−26節においてヤコブは行為を伴う信仰と行為を伴わざる信仰(これをも彼は同じく信仰と呼んでいる点はパウロと異なっているけれども、今日といえども、事実上この二者は混同されていると同じく当時もこれが混同されて同一の名称の下に呼ばれていた。この二者を区別する必要がここにある)との区別を論じている。
2章14節 わが
口語訳 | わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。 |
塚本訳 | わが兄弟達よ、信仰を有っていると言う人があっても、もし行為がなければ何の役に立とう。(行為の伴わない)そんな信仰がその人を救い得る(と思う)か。 |
前田訳 | 兄弟方、だれかが信仰を持つといって行ないを持たないならば何の役に立ちましょう。その信仰が彼を救いえますか。 |
新共同 | わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 |
NIV | What good is it, my brothers, if a man claims to have faith but has no deeds? Can such faith save him? |
註解: ヤコブが脳中に描ける人物は神の唯一なることを確信し(19節)その他の教理をも確保する正統的信仰の持主で、しかも愛なく冷淡残酷なるキリスト者である。かかる人は自ら信仰ありと信じかつこれを公言しているけれども、実は真の信仰にあらず、その証拠として行為がこれに伴わない。ゆえに彼らは結局亡ぶるより外にない。今日もかかる種類のいわゆる正統的信者は少なくない。
辞解
[言ひて] 言うのみにて自ら信仰ありと思わない人を指すのではなく、自ら信仰ありと信じかつ主張する人を指す。
[救ひ] 世の終末の審判の時に救われること。
2章15節 もし
口語訳 | ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 |
塚本訳 | (君達の)兄弟か姉妹が裸でいて、その日の食物に事欠いている時、 |
前田訳 | もし兄弟か姉妹が裸でいて、その日の食に事欠くとき、 |
新共同 | もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 |
NIV | Suppose a brother or sister is without clothes and daily food. |
2章16節
口語訳 | あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 |
塚本訳 | 君達の誰かがこれに、「(では)“お大事に”、温かにして、満腹しなさい」と言って体に必要なものを与らなければ、何の役に立とう。 |
前田訳 | あなた方のだれかが彼らに、「安らかにいらっしゃい、暖まって満腹なさい」といって体に必要なものを何も与えないならば、何の役に立ちましょう。 |
新共同 | あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 |
NIV | If one of you says to him, "Go, I wish you well; keep warm and well fed," but does nothing about his physical needs, what good is it? |
註解: 信仰を頭脳をもって理解するのみで、信仰が新しき生命の源泉とならない人は、その同信の兄弟姉妹(他人はなおさらのこと)の苦難を見ても愛心が起らず同情が湧かない。唯虚しき理論や説明をもって彼らを満足せしめんとするに過ぎない。かかる信仰は何らの益がない。この例および以下の言葉により明らかなるごとくヤコブのいわゆる行為は律法を逐条的に遵守することではなく、愛の行為または信仰の行為を意味している。
2章17節
口語訳 | 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 |
塚本訳 | 同じように信仰にも行為が(伴わ)なければ、それは実質において死んだものである。 |
前田訳 | 信仰も同様で、行ないを持たねば、それだけでは死んだものです。 |
新共同 | 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 |
NIV | In the same way, faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead. |
註解: 信仰に活ける信仰と死にたる信仰とがある。活ける信仰はキリストによりて贖われしものの受けし霊の新生命であって、かかる信仰は必ず行為を伴う。反対に頭脳をもってする理解、または承認に過ぎない信仰は行為を生むことができない。すなわちそれ自身に生命なき死にたる信仰である。
辞解
[夫(それ)自身] kath’ heautên は原文にあって日本語にこれを欠くは遺憾である。これ必要なる語であって、行いなき信仰は行為をこれに附加しても生き返ることができない。それ自身において死んでいるものであることを示す。
2章18節
口語訳 | しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。 |
塚本訳 | しかし(また、)「この人には信仰があり、かの人には行為がある。(何も信仰に行為が伴う必要はないではないか」)と言う人があるかも知れない。(よろしい)行為の無い君の信仰を私に見せてくれ。そうすれば私も私の行為によって信仰を見せてやろう! |
前田訳 | しかしだれかがいうでしょう、「あなたは信仰を持ち、わたしは行ないを持っています、あなたの行ないなしの信仰をお見せなさい、そうすればわたしは行ないによって信仰をお見せしましょう」と。 |
新共同 | しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。 |
NIV | But someone will say, "You have faith; I have deeds." Show me your faith without deeds, and I will show you my faith by what I do. |
註解: 14節の「人信仰ありと言ひて」に対照し、他の一人を仮定してこれを反駁 せるもの。すなわち汝の信仰は行為なき信仰であり、我が行為は信仰から生れる行為である。ゆえに汝は信仰ありといいて行為なく、我は行為ありといいて同時に信仰がある。何となれば我が行為は信仰から必然に生れるからである。ヤコブはかく言っていわゆる道徳家には必ず信仰があることを主張するのではない。彼の「行為」なる語そのものの中に「信仰より生れる行為」としての意味が含まれているのである。
辞解
[人もまた言はん] 直訳「されど人或は言わん」「されど人は反駁 して言わん」等の意(Tコリ15:35)。これを17節に対する反駁 と解せんとして種々の困難を生じ多くの異説を生んでいる。14節の「人」に対する反駁 と見てこの困難は除かれる(B1)。
2章19節 なんぢ
口語訳 | あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 |
塚本訳 | 君は神は唯一であると信ずるか。それはよいことである。(しかしその信仰だけでは足りない。)鬼ですら(それを)信じて慄くのである。 |
前田訳 | あなたは神がひとりにいますとお信じですか。それはいいことです。悪霊どももそう信じてふるえています。 |
新共同 | あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 |
NIV | You believe that there is one God. Good! Even the demons believe that--and shudder. |
註解: 「神は唯一なりと信ずる」ことと「唯一の神を信ずる」こととは全く異なる。前者は知識または理解であり後者は活ける信仰である。前者は必ずしも悪くない。ゆえにヤコブは「斯く信ずるは善し」と言っている。しかしかかる知識や理解ならば悪魔すらこれを有ち、従って悪魔はかかる信仰のために戦慄する。何となれば悪魔は唯一の神こそ打勝ち得ざる敵であることをさとるが故である。ゆえにかかる信仰を有つだけではその人が救われることの理由とはならない。悪魔が救われないと同じである。
辞解
[斯く信ずるは善し] 幾分皮肉な語気があると解する学者が多くある(C1、M0)けれどもその必要がない(E0、A1)。
[神は唯一なりと信ず] ユダヤ人の第一の基礎信条であった(申6:4−9すなわちシェマー参照)。
[慄 けり] phrissô は頭髪が逆立つほどの恐怖をいう。最も強き語。
「悪鬼も亦信じ」故にこの種の信仰がパウロのいわゆる信ずる者を義とする信仰と異なることは明らかである。
2章20節 ああ
口語訳 | ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 |
塚本訳 | ああ間の抜けた人よ、君は行為のない信仰の駄目なことが知りたいのか。 |
前田訳 | しかし、愚かな人よ、行ないなしの信仰がむなしいことを知りたいのですか。 |
新共同 | ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。 |
NIV | You foolish man, do you want evidence that faith without deeds is useless ? |
註解: かかる人々は自己の信仰の「徒然 なる」こと、すなわち何らの役に立たぬことを知らずにいる「虚しき」内容なき人々である。ヤコブはかかる人に向ってこの質問を発し、彼らの心付かざりし点を知りたくはないか、知りたければ知らせようと挑戦しているのである。
辞解
[虚しき] kenos は内容なく空虚なること、霊的に貧弱なることにも用いられる。
[徒然 ] argos は「怠惰」「不活動」すなわち働けば役立ち得べきものが役立ち得ざる状態にあること、資本が寝ている等の場合にもこの語を用う。
2章21節
口語訳 | わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。 |
塚本訳 | (一体)我らの父”アブラハムはその子イサクを祭壇に献げた”時、(献げるという)行為によって義とされたではないか。 |
前田訳 | われらの父アブラハムはその子イサクを祭壇にささげて、その行ないによって義とされました。 |
新共同 | 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。 |
NIV | Was not our ancestor Abraham considered righteous for what he did when he offered his son Isaac on the altar? |
註解: 創22章殊にその12、16節参照。神はアブラハムの信仰の有無を試み給い(創22:1)、彼のイサクを献げし行為を見てこれをアブラハムの信仰の証拠と認めこれを喜び(創26:5)この行為によりて彼を義なる者と宣言し給うた。(注意)ロマ4:1以下にパウロは同じアブラハムの例を示し、彼が行為によりて義とせられしにあらず信仰によれることを論じており、一見この一節(14−26節全体とも)と矛盾するが故に、これを避けんとして種々の解釈が試みられているけれども、その実何らの矛盾もない。何となればヤコブの行為は信仰を前提としこれより出づる行為を意味しており、いわゆる律法の行為ではないことはイサクを殺すことは「殺すなかれ」の律法に反し、25節の例は虚言の例であるのを見ても明らかであり、反対にパウロのいわゆる行為は律法の行為(ロマ2:15、ロマ3:20、ロマ3:28。ガラ2:16、ガラ3:2、ガラ3:5、ガラ3:10)を意味しているからである。そして神はパウロの言えるごとくアブラハムの信仰を見て彼を義と認め給うのみならず(創15:6)(ヤコブもこのことを否定しない。23節)また彼の信仰の結果たる行為を見て一層彼の義たることを確認し、これに約束を与え給うたのである。人はまず信仰によって義と認められて(義を彼に帰せられて imputatio)ついに行為によりて義たるものと確証せられる。活ける信仰は必ずその果を結ぶ。
2章22節 なんぢ
口語訳 | あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、 |
塚本訳 | 君に判るように、信仰が彼の行為と共に働き、行為によって信仰が全うされたのである。 |
前田訳 | ごらんのように信仰が彼の行ないとともに働き、行ないによって信仰が全うされます。 |
新共同 | アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。 |
NIV | You see that his faith and his actions were working together, and his faith was made complete by what he did. |
註解: 信仰は神に対して心の衷 に働き、信仰より出づる行為は心から外に働きかける。真の信仰は必ずこの両者を具備する。ただし未だ行為となって外に表われざる信仰が(これと行為に表われ得ざる死ぬる信仰(17節)とは天地の差あり、この差異に注意することを要す)信仰の本質として不完全であるというのではない。(人はこの信仰のみによりて義を帰さられる。ロマ3:28)しかしながらこの信仰がその働きを示し行為となることによりてその目的 telos を達せることとなり、(すなわち「全うせられ」 teleioô )、本質と活動とを具備せる意味の完全なるものとなっている。かく言いてヤコブは行為となりて表われ得ざる死ぬる信仰を持ちつつ、真の信仰ありと主張せんとする者の誤謬を戒めている。▲聖書の文字を神として崇拝し、活ける神を心に宿さないような信仰(例えばいわゆるfundamentalistの信仰のごとき)は文字を神とする誤った信仰である。
2章23節 またアブラハム
口語訳 | こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 |
塚本訳 | そして(その時、)「“アブラハム神を信じ”、(その信仰を彼の)“義と認められたり”」、また「彼は“神の友”と称えられたり」という聖書が成就したのである。 |
前田訳 | そして「アブラハムは神を信じ、それによって義と認められた」という聖書は成就し、彼は神の友と呼ばれました。 |
新共同 | 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 |
NIV | And the scripture was fulfilled that says, "Abraham believed God, and it was credited to him as righteousness," and he was called God's friend. |
註解: ヤコブはここに「義と認められること」と「義とされること」との程度を区別し、前者は未だ行為に表われざる信仰を義と認め、これに義を帰すること、後者は実際義なりと宣告せられ審判を免れることであって、前者が成就して後者となることあたかも預言または約束が成就すると同じであると解しているのである(M0)。アブラハムは後に神の友と呼ばれるに至ったのは(イザ41:8)、神に義とせられしが故である。
辞解
[認め] logizomai は「帰する」「何々と数うる」等の意味である。
2章24節 かく
口語訳 | これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。 |
塚本訳 | (だから)人は行為によって義とされるので、信仰だけで(義とされるので)はないことが、君達に解るであろう。 |
前田訳 | 人が義とされるのは信仰だけによるのでなくて行ないによることがおわかりでしょう。 |
新共同 | これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。 |
NIV | You see that a person is justified by what he does and not by faith alone. |
註解: 信仰のみにして行為を生み得ざる信仰は信仰ではない。かかる信仰によりては義とせられない。しかしながら人は真の信仰とこれより出でし行為によりて義とせられる。かく言いて「聖書はここにいわゆる福音を担ぎ回る一つ目入道(エラスムスはかく彼らおよびルーテルの堕落せる弟子たちを名付けた)の誤謬を予見してこれを摘出している。彼らはその旗印に信仰のみ(パウロの意味と異なる処の)を持ち、行為はこれを欠いている連中である」(B0)。ここにヤコブは信仰により人が義と認められることを否定したのではない(14節)、また律法の行為によりて義とされることを唱えたのでもない。
2章25節 また
口語訳 | 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。 |
塚本訳 | 同様に遊女ラハブも使いの人達を迎え入れて他の道から逃がした時、(その殊勝な)行為によって義とされたではないか。 |
前田訳 | 遊女ラハブも同様で、使いたちを迎えて別の道へ送り出したという行ないによって義とされたのではありませんか。 |
新共同 | 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。 |
NIV | In the same way, was not even Rahab the prostitute considered righteous for what she did when she gave lodging to the spies and sent them off in a different direction? |
註解: 最も偉大なるアブラハム(21節)の例に加うるにさらにその反対に最も賎しき異邦人なるこの遊女ラハブの例をもってしている(ヨシ2章乃至 6章参照)。これ行為なしに義とせられざる真理が如何なる場合にも如何なる人にも真理であることを示さんがためである。ラハブは遊女であり、またこの行為はある意味において同国人を売った行為であった。すなわち凡ての点より見てこれを律法の行為ということができない。然るにこれはエホバの神を信じたる信仰の行為であった(ヘブ11:31)。それ故にこの行為によりて義とせられ、死を免れたのである(ヨシ6:24)。ヤコブのいわゆる「行為」が如何なる行為を意味するかは本節より一層明らかである。▲▲「信仰のみ」の教理が往々行為を無視する偽の信仰に陥る危険がある事実を考えるならばヤコブのこの提言は貴重な提言である。
辞解
[去らせ] ekballein 無理に押し出すこと。
2章26節 (そは)
口語訳 | 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。 |
塚本訳 | 霊魂の無い体が死んでいるように、行為の無い信仰も死んでいる。 |
前田訳 | 霊なしの体が死んだものであると同じく、行ないなしの信仰も死んだものです。 |
新共同 | 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。 |
NIV | As the body without the spirit is dead, so faith without deeds is dead. |
註解: 人体が生きているということはその中に霊魂があって働いているということである。同様に信仰が活きているということは行為がこれに伴うということである。この比較すなわち信仰は体、行為は霊魂に対照せられていることは一見拙なるごとくに見える。しかしヤコブはこの一々を対照したのではなく二者合して始めて生命があり、二者相伴わざれば生命なき点を比較したのである。
要義1 [ヤコブとパウロ]14−26節は一見パウロの説(殊にロマ3:21−4:25)を故意に反駁 しているかのごとき語句が多い。すなわちパウロは信仰によって義とされることを強調するのに反し、ヤコブは信仰のみにあらず行為によって義とされることを唱え、またパウロはアブラハムの例をもって彼が信仰によって義とせられ、律法の行為によらざることを唱うるに反し、ヤコブは同じアブラハムの例をもって彼が行為によって義とせられしことを説くがごときこれである。それ故に学者によってはヤコブはパウロの書簡を知りこれを反駁 せんために本書を認 めしことを唱うるものがあるけれども、これは誤りであるのみならず註にも記せるごとく、注意してヤコブ書を読む者はこの両者の間に何らの矛盾なきことを見出すであろう。すなわち(1)ヤコブの場合においては信仰なる語の中に二種の異なれるものを包含しているのであって(今日も普通かく用いられている)、その一は知識的信仰、信条の承認のごとく、頭脳の問題で心が直接に神との霊交に入らざるもの、即ち行為を生まざる信仰であり(14、19)、その二は聖霊によって新生し神およびキリストとの霊交に在る信仰であってこれは行為を生むのである(23、24)。パウロが信仰という場合は常に後者のみを指している。(2)ヤコブが「行為」という場合には常に信仰より流れ出づる行為を言い(15、16、18、21、22、25)、パウロは同じ語をもって「律法の行為」すなわち信仰なしに唯律法を器械的に遵守する行為を指している。(3)パウロは罪人が「義と認められる」ことに重点を置き、ヤコブはキリスト者が「義と宣言される」こと、すなわち審判を免れることに重きを置いている。かく解してパウロとヤコブの矛盾は消失する。ただしかく言うは二者が矛盾しないという意味であって全く同一であるというのではない。パウロとヤコブとの間に信仰の傾向、色彩の差異があったことは事実であり、またこれは重要なる事柄である。神の器には一致があるが単調ではない。▲信仰の性格は人の顔面の異なるように人によって異なって差支えない。否これが事実である。唯神を信じ神に従う点にのみ一致がある。
要義2 [信仰と行為]信仰は必ず行為と共に働く性質を持っている。行為に顕われ得ざる信仰は死せる信仰であって、神の前に人を義とする力はない。そして人の神の前に義とされるがためにはこの死せる信仰に律法の行為(すなわち信仰と関係なき道徳的行為)を附加するだけでは駄目である。すなわち信仰と行為は二つの別物が並存している関係であってはならない。同一物の本質と作用、本体と活動の差別でなければならない。これを本体の方面より見てパウロは信仰と言い、これを活動の方面より見てヤコブはこれを行為と言った。「信仰によって義とされる」パウロの教えを誤認して人は死せる信仰に陥り、「行為によって義とされる」ヤコブの教えを確信して人は律法主義者となり信仰を失い恩恵より離れる。何れも戒慎しなければならぬ。▲聖書にこの両方面が保存されたことは真に神の御旨であったと思う。ルターがヤコブ書を藁の書簡と呼んだことも、歴史的には意義があったにしても一方への行き過ぎである。