黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ルカ伝

ルカ伝第6章

分類
3 初期の活動 4:14 - 6:11
3-3 イエスの名声高まる 5:1 - 6:11
3-3-ヘ 安息日問題(その一)麦の穂をつむ 6:1 - 6:5
(マタ12:1-8) (マコ2:23-28)  

註解: 学者パリサイ人らはルカ5:17−26においてイエスの罪を赦す権威に反対し、ルカ5:27−32節においては取税人、罪人らと共に飲食してユダヤの社会慣習を乱すことに非難を向け、ルカ5:33節においては断食と祈祷の慣行に反することを暗に誹謗していたが、本節より11節までは、イエスの態度が益々強化すると共にその反対も益々熾烈となり行くことを示す。

6章1節 イエス安息(あんそく)(にち)(むぎ)(はたけ)()(たま)ふとき、弟子(でし)たち()()み、()にて()みつつ(くら)ひたれば、[引照]

口語訳ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。
塚本訳ある安息日に麦畑の中を通られたときのこと、弟子たちが(空腹を覚えて)穂を摘み、手でもんで食べていた。
前田訳ある安息日に麦畑を通り抜けられたときのこと、弟子たちが穂を摘み、手でもんで食べていた。
新共同ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
NIVOne Sabbath Jesus was going through the grainfields, and his disciples began to pick some heads of grain, rub them in their hands and eat the kernels.

6章2節 パリサイ(びと)のうち(ある)(もの)ども()ふ『なんぢらは(なに)ゆゑ安息(あんそく)(にち)()まじき(こと)をするか』[引照]

口語訳すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。
塚本訳パリサイ人が言った、「なぜあなた達は、安息日にしてはならぬことをするのか。」
前田訳すると何人かのパリサイ人がいった、「なぜあなた方は安息日にしてならぬことをするのか」と。
新共同ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
NIVSome of the Pharisees asked, "Why are you doing what is unlawful on the Sabbath?"
註解: 穀物の収穫は安息日に禁止された事項の一つであり、この規則の応用として穂を摘んでこれを手にて揉むことも収穫の一種となる。律法主義パリサイ主義は如何に他人の行動の末梢的なるものに検察の目を注ぐかを見よ、これに対する主イエスの態度は根本的、精神的、実際的であった。▲イエスおよびその弟子たちの行動が、当時の宗教家たちの目には甚だしく不信仰に見えたことに注意せよ。

6章3節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『ダビデその(ともな)へる人々(ひとびと)とともに()ゑしとき、()しし(こと)をすら()まぬか。[引照]

口語訳そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。
塚本訳イエスが答えて言われた、「あなた達は、ダビデ(王)が自分も供をしている者も空腹の時にしたことを、(聖書で)読んだことすらないのか。
前田訳イエスは答えられた、「ダビデが自分もお伴も飢えたときしたことを読まなかったのか。
新共同イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
NIVJesus answered them, "Have you never read what David did when he and his companions were hungry?

6章4節 (すなは)(かみ)(いへ)()りて、祭司(さいし)(ほか)(くら)ふまじき(そなへ)のパンを()りて(くら)ひ、(おのれ)(とも)なる(もの)にも(あた)へたり』[引照]

口語訳すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
塚本訳──彼が神の家に入って、ただ祭司のほかはだれも食べてはならない“供えのパンを”取って食べ、供の者にわけてやったことを。」
前田訳彼が神の家に入って、祭司のほか食べることがゆるされない供えのパンを取って食ベ、お伴にも与えたことを」と。
新共同神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
NIVHe entered the house of God, and taking the consecrated bread, he ate what is lawful only for priests to eat. And he also gave some to his companions."
註解: Tサム21:7参照。「食物は人間のために存するのであって人間が食物のために存するのでない。それ故に飢えたる時に食を取ることは至当のことであり、安息日なりとてそれを不当とすべきではない。ダビデとその一行が餓えた時神の宮において祭司以外に食うべからざることがレビ24:9に規定されている供えのパンをすら食うたではないか。いわんやパリサイ人らが勝手に定めた些末な規律に束縛せらるべきではない。聖書を知っているはずの汝らでありながら、これを読んだことがないのであるか」というのがイエスの御言の意味である。凡ての規律、法律、形式、慣習はその精神を活用すべきであって、その形式の奴隷となってはならぬ。
辞解
3節および4節に対しマコ2:26には祭司の名をも録し、マタ12:5−7にはさらに著しき追加あり参照すべし。

6章5節 また()ひたまふ『(ひと)()安息(あんそく)(にち)(しゅ)たるなり』[引照]

口語訳また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。
塚本訳また彼らに言われた、「人の子(わたし)は安息日の主人である。」
前田訳また彼らにいわれた、「人の子は安息日の主である」と。
新共同そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
NIVThen Jesus said to them, "The Son of Man is Lord of the Sabbath."
註解: 安息日の奴隷となってそれに束縛せらるべきではない。イエス自身についてその確信を吐露せられたのであるが、これはまた彼を信ずる者一般の心持であり、また原則である。
辞解
本節をマコ2:27はさらに詳述して、「安息日は人間の故に作られたので人間は安息日の故に作られたのではない」ことをも教えている。D写本では本節が10節の後にあり、その代りに注意すべき添加の一文あり。「同じ日、安息日に働き居る人あるを見て彼に言い給ふ『人よ、汝の為す所の何たるかを知らば汝は幸福なり、若し知らずば汝は詛はれたる者、又律法の違反者なり』」イエスの語としてはやや禅的に過ぎるようであるが、含蓄多き語である。

3-3-ト 安息日問題(その二)手なえたる者を醫し給う 6:6 - 6:11
(マタ12:9-14) (マコ3:1-6)  

6章6節 (また)ほかの安息(あんそく)(にち)に、イエス會堂(くわいだう)()りて(をしへ)をなし(たま)ひしに、此處(ここ)(ひと)あり、()(みぎ)()なえたり。[引照]

口語訳また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。
塚本訳またほかの安息日に、礼拝堂に入って教えられた。するとそこに一人の人がいて、右手がなえていた。
前田訳別の安息日に、彼が会堂に入って教えられたときのこと、そこに右手のなえた人がいた。
新共同また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
NIVOn another Sabbath he went into the synagogue and was teaching, and a man was there whose right hand was shriveled.

6章7節 學者(がくしゃ)・パリサイ(びと)ら、イエスを(うった)ふる(かど)見出(みいだ)さんと(おも)ひて、安息(あんそく)(にち)(ひと)(いや)すや(いな)やを(うかが)ふ。[引照]

口語訳律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。
塚本訳聖書学者とパリサイ人たちが、イエスは安息日になおされるかどうかと、ひそかに様子をうかがっていた。訴え出る口実を見つけるためであった。
前田訳学者とパリサイ人は彼が安息日にいやしをなさるかと見守っていた。それは訴える口実を見つけるためであった。
新共同律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
NIVThe Pharisees and the teachers of the law were looking for a reason to accuse Jesus, so they watched him closely to see if he would heal on the Sabbath.
註解: 学者、パリサイ人らは手なえたる人を如何に扱うべきかを自己の愛心に訴えず、イエスの愛を思わず、かえってイエスが如何なる律法違反を為すかを窺い、これを陥れんと企てた。善意と悪意、本質的と末梢的との極端な対立をここに見るのである。この両極端は結局両立しない。

6章8節 イエス(かれ)らの(おもひ)()りて、()なえたる(ひと)に『()きて(うち)()て』と()(たま)へば、()きて()てり。[引照]

口語訳イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。
塚本訳イエスは彼らの考えを知って、手のなえた男に「立って真中に出てこい」と言われると、立ち上がって出てきた。
前田訳彼らの考えを悟って、彼は手のなえた人にいわれた、「起きて真ん中にお立ち」と。すると起きあがって立った。
新共同イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
NIVBut Jesus knew what they were thinking and said to the man with the shriveled hand, "Get up and stand in front of everyone." So he got up and stood there.
註解: イエスが彼らの態度より察知し給うたのか、またはイエスの霊眼をもって透視し給えるのかは明かにされていないが彼らの悪意を洞察して、これに対し戦いを挑み給うた。イエスの彼らに対する憤瞞は次第に加重しつつある。病人を人々の中に起立せしめたのは勿論凡ての人に目立つようにであった。

6章9節 イエス(かれ)らに()(たま)ふ『われ(なんぢ)らに()はん、安息(あんそく)(にち)(ぜん)をなすと(あく)をなすと、生命(いのち)(すく)ふと(ほろび)すと、(いづれ)かよき』[引照]

口語訳そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。
塚本訳イエスが彼らに言われた、「尋ねるが、安息日には、善いことをするのと悪いことをするのと、命を救うのと、滅ぼすのと、どちらが正しいだろうか。」
前田訳イエスは彼らにいわれた、「あなた方にきくが、安息日に許されているのは善をなすことか悪をなすことか、いのちを救うことか滅ぼすことか」と。
新共同そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
NIVThen Jesus said to them, "I ask you, which is lawful on the Sabbath: to do good or to do evil, to save life or to destroy it?"
註解: イエスの態度は始めから安息日にも何か善を為さずにいられないという心持であった。これに反して学者、パリサイ人は安息日にイエスを陥れてこれを亡ぼす手掛りを求めていた。イエスは人を救わんとし彼らは人を亡ぼさんとす。イエスは善を為さんとし彼らは律法を形式的に人にも強要せんとす。いずれが相応しきか、いずれが許さるべきか。手なえたる者を醫さないことが「悪をなす」こと、「生命を亡ぼす」ことであるというのは、イエスの心が如何ばかり善を為し生命を救うことに熱中していたかを知ることができる。事実イエスにとっては、これが悪事であり生命を亡ぼすこととして感じられたのであったろう。▲安息日聖守という宗教的行事と病を癒す人道的行為といずれが重要かは今日の教会生活においても反省さるべき点である。

6章10節 かくて一同(いちどう)()まはして、[引照]

口語訳そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。
塚本訳そして一同を見まわして、その人に言われた、「手をのばせ。」その通りにすると、手が直った。
前田訳そして皆を見まわしてその人にいわれた、「手をおのばし」と。そのとおりにすると、手がなおった。
新共同そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
NIVHe looked around at them all, and then said to the man, "Stretch out your hand." He did so, and his hand was completely restored.
註解: 彼らが答える所を知らずして躊躇して居る有様を他の会衆にも目撃せしめ、

()なえたる(ひと)に『なんぢの()()べよ』と()(たま)ふ。かれ(しか)なしたれば、その()()ゆ。

註解: イエスはなえたる手に触ることもせず言の威力をもって彼の手を癒し給うた。学者、パリサイ人に対する公然たる挑戦であった。

6章11節 (しか)るに(かれ)狂氣(きゃうき)(ごと)くなりて、イエスに(なに)をなさんと(かた)(かな)へり。[引照]

口語訳そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。
塚本訳彼らは狂わんばかりに怒って、イエスをどうしょうかと話し合った。
前田訳彼らは怒りに満たされ、イエスをどうしようかと互いに話しあった。
新共同ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
NIVBut they were furious and began to discuss with one another what they might do to Jesus.
註解: イエスの公然たる挑戦に合い、彼らは思慮を失える者のごとくになり、イエスに対して何を為さんかを論じ合った。マタ12:14マコ3:6によれば彼らはイエスを殺すことの計略を廻らしていた。ルカかはそれを上記のごとく緩和した。何れにしても彼らは彼ら自身の誤れる熱心と確信とによりその態度をもって最も正しいものと信じていたことは確かである。誤った信仰はかえって不信仰以上の害を与える。
要義1 [イエスと伝説]安息日聖守に関するユダヤ人の態度は、モーセの十誡の本来の精神より離脱せる形式的の規律として人を束縛するのみのものとなった。これに対しイエスは、よく安息日に会堂における集会に出席し、あるいは教え、あるいは祈り給うたけれども、学者、パリサイ人がこの安息日の精神を無視しているのを見てそこにパリサイ的信仰の病根が最も強く顕れていることを感得し、ついには特に故意に安息日を破り、安息日以上の精神を生かすことに全力を注ぎ、そのために生命の危険をも冒し給うた。凡そ固定せる伝統を破り、真の生命を救うことは生命の犠牲に値する。
要義2 [善を為さざるの罪]6:9によればイエスは、手なえたる人を醫さないことが悪事を為すことであり、人を救わないことが人を亡ぼすことであると感じ給うたことが窺われるのであるが、善を為さざることを罪と感ずる程までも善を為すことを熱心に希求する心を我らもまた持たなければならない。常に善を為すことに熱中して他を忘れるほどである場合、我らはあらゆる伝統や形式に超越することができる。然らざる者は形式や伝統を非難する資格がない。

分類
4 伝道の前進 6:12 - 8:56
4-1 十二弟子の選任 6:12 - 6:16
(マコ3:13-19) 

6章12節 その(ころ)イエス(いの)らんとて(やま)にゆき、(かみ)(いの)りつつ(よる)(あか)したまふ。[引照]

口語訳このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
塚本訳このころのこと、イエスは祈りのため山に行って、神に祈りながら夜をあかされた。
前田訳そのころ、彼は山へ祈りに行って、神への祈りのうちに夜をあかされた。
新共同そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
NIVOne of those days Jesus went out to a mountainside to pray, and spent the night praying to God.
註解: 十二弟子選定の前に特に深き徹夜の祈りを必要としたものと思われる。多数の中より少数を選ぶは容易のことではなく、また神の国の福音を伝うる使命を担うに適する人を見出すことはなおさら容易ではない。
辞解
[山] 定冠詞あり、イエスの常に往き給う山のこと、イエスの祈りはルカ伝に殊に多く記さる。

6章13節 夜明(よあけ)になりて弟子(でし)たちを()()せ、その(うち)より十二(じふに)(にん)(えら)びて、(これ)使徒(しと)()づけたまふ。[引照]

口語訳夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
塚本訳朝になると弟子を呼びよせ、その中から十二人を選び、これをまた使徒と名づけられた。
前田訳朝になると、弟子たちを呼びよせ、その中から十二人を選んで使徒と名づけられた。
新共同朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
NIVWhen morning came, he called his disciples to him and chose twelve of them, whom he also designated apostles:
註解: 「十二」はイスラエルの十二の支族に因んだものと思わる。天の数三と地の数四との相乗積で重要な数。使徒 apostolos は「遣される者」の意。

註解: 本節以下16節まではマルコとほぼ同一順序に、二人ずつ一組として使徒の名を記す。なお十二使徒の選任の項、マタ10:2−4。マコ3:16−19。使1:13註参照。

6章14節 (すなは)ちペテロと()づけ(たま)ひしシモンと[引照]

口語訳すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
塚本訳すなわち、シモン──この人をまたペテロと名づけられた──と、その兄弟アンデレと、ヤコブとヨハネと、ピリポとバルトロマイと、
前田訳すなわち、ペテロともいわれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
新共同それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
NIVSimon (whom he named Peter), his brother Andrew, James, John, Philip, Bartholomew,
註解: ペテロの首位は凡ての場合一致している。

()兄弟(きゃうだい)アンデレと、

註解: ルカはアンデレの名をこの一回だけ録す。

ヤコブとヨハネと、

註解: これらはゼベダイの子。

ピリポとバルトロマイと、

註解: バルトロマイはヨハ1:45のナタナエルならん。

6章15節 マタイとトマスと、[引照]

口語訳マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、
塚本訳マタイとトマスと、アルパヨの子ヤコブと熱心党と呼ばれたシモンと、
前田訳マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党と呼ばれたシモン、
新共同マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
NIVMatthew, Thomas, James son of Alphaeus, Simon who was called the Zealot,
註解: マタイは又の名をレビ、ルカ5:27

アルパヨの()ヤコブと熱心(ねっしん)(たう)()ばるるシモンと、

註解: ヤコブは多くある故父の名を附す。熱心党はまたカナン党と呼ばる。マコ3:18

6章16節 ヤコブの()ユダ[引照]

口語訳ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。
塚本訳ヤコブの子ユダと、イスカリオテのユダ──この人は(あとで)裏切者になった。
前田訳ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダ、この人は裏切り者になった。
新共同ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
NIVJudas son of James, and Judas Iscariot, who became a traitor.
註解: これはマタ10:3マコ3:18のタダイと同人。

とイスカリオテのユダとなり。

註解: イスカリオテは「カリオテ人」の意。

このユダは[イエスを]()(もの)となりたり。


4-2 多くの人々集まり来る 6:17 - 6:19
(マタ12:15-21) (マコ3:7-12) 

6章17節 イエス(これ)()とともに(くだ)りて、平かなる(ところ)()(たま)ひしに、弟子(でし)(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)、およびユダヤ全國(ぜんこく)、エルサレム(また)ツロ、シドンの海邊(うみべ)より(きた)りて、(あるひ)(をしへ)()かんとし、(あるひ)(やまひ)(いや)されんとする(たみ)(おほい)なる(むれ)も、そこにあり。[引照]

口語訳そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、
塚本訳イエスはこの人々を連れて(山を)下り、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子の群と、ユダヤ全国、ことにエルサレム、また(遠く)ツロ、シドンの沿岸から来た大勢の民衆の群も、
前田訳イエスは彼らとともに山を下り、平らなところに立たれた。大勢の弟子の群れと、全ユダヤ、ことにエルサレム、またツロとシドンの海岸から来た大勢の民がいた。
新共同イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
NIVHe went down with them and stood on a level place. A large crowd of his disciples was there and a great number of people from all over Judea, from Jerusalem, and from the coast of Tyre and Sidon,
註解: 大なる説教がまさに開始せられんとする前の盛んなる光景を叙す。ユダヤ全国はガリラヤ、ペレヤ等を包含するパレスチナの地。ツロ、シドンは異邦人の地。群衆の目的は教えを聴くことと病を癒されることで、前者は20節以下、後者は18、19節に記さる。

6章18節 (けが)れし(れい)(なやま)されたる(もの)(いや)される。[引照]

口語訳教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。
塚本訳教えを聞き、また病気を直していただこうとして、そこにいた。汚れた霊になやまされていた者もなおされた。
前田訳彼に耳傾け、病をいやしてもらおうとしたのである。けがれた霊になやまされていたものもいやされた。
新共同イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
NIVwho had come to hear him and to be healed of their diseases. Those troubled by evil spirits were cured,

6章19節 能力(ちから)イエスより()でて、(すべ)ての(ひと)(いや)せば、群衆(ぐんじゅう)みなイエスに(さは)らん(こと)(もと)む。[引照]

口語訳また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
塚本訳群衆が皆、なんとかしてイエスにさわろうとした。彼から力が出て、一人のこらず直したからである。
前田訳群衆は皆なんとかして彼にさわろうとしていた。彼から力が出て皆をいやしていたからである。さいわいな人々、わざわいな人々
新共同群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
NIVand the people all tried to touch him, because power was coming from him and healing them all.
註解: イエスは勿論多くの病を醫し給うたけれども、一層重要なことは福音を宣伝えることであった。群衆はその反対に病を醫されることを主として熱望した。20節以下の、弟子たちに主として着眼せる説教は、この霊と肉との二つの世界の対立を背景として見る時、その真意が理解される。19節の群衆の希望とこれに対する20節のイエスの態度を見よ。

4-3 野の垂訓 6:20 - 6:49
4-3-イ 幸福なるかな 6:20 - 6:26
(マタ5:3-12)   

6章20節 イエス()をあげ弟子(でし)たちを()()ひたまふ[引照]

口語訳そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
塚本訳イエスは目をあげ、(十二人の使徒その他の)弟子たちを見ながら話された。──「ああ幸いだ、“貧しい人たち、”神の国はあなた達のものとなるのだから。
前田訳彼は目をあげ、弟子たちを見ながらいわれた、「さいわいなのは貧しい人々、神の国はあなた方のものだから。
新共同さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
NIVLooking at his disciples, he said: "Blessed are you who are poor, for yours is the kingdom of God.
註解: 以下49節に至るまでの説教はマタイ伝5−7章の山上の垂訓に相当する処の個所であるが、ルカ独特の選択を行っており、ユダヤ教との関係に深入りせず、旧約聖書に関するイエスの態度を省略し、一般的、人道的の問題を中心に編纂されたものである。用語もマタイ伝とはかなり異なっていることについては種々の理由を考えることができるのであるが、おそらくルカが原資料に自己の思想に適応せる表現を与えたのであろう。「弟子たち」がイエスの説教の目標であったが、同時にその周囲にある各地より集って来た群衆(17b)をも教訓するためであったことは明かである。

幸福(さいはひ)なるかな、

註解: マタイ伝には八つの幸福が列挙され、ここでは四つの幸福とこれに対する四つの禍害とが対照とされている。マタイ伝では一般的の観点から語られるようになっており、本節以下では殊に弟子たちの実生涯に関していわれている。

(まづ)しき(もの)よ、(かみ)(くに)(なんぢ)らの(もの)なり。

註解: マタ5:3には「心の貧しき者」とあり、本節の場合もこれと同一の意味と解すること(Z0)はルカの本意ではなく、またルカが貧者は凡て必ず幸福であると考えてかく変更したのでもあるまい。このイエスの御言は一方弟子たちにはその貧しき伝道者としての生涯について心より幸福を感ぜしめると同時に、他方弟子たちと共にいた群衆は、多くこの世の富貴を求める心に充ちていたので、このイエスの御言は彼らにとってはその心を打ち砕く革命的爆弾宣言と響いたことであろう。イエスはかくして一石二鳥、最も効果的な説教をなし給うた。このイエスの「貧しき者」の一言が我らの眼前に髣髴せしむる所のものは、貧困に捉われこれを脱しようとして喘ぐ貧者の姿ではなく、霊的世界の満足を求めて物質的慾求を超越し身の貧富を忘れている者の姿である。おそらくマタ5:3よりもこの方がイエスの御言のままに近いであろう。「神の国は汝らの(もの)なり」これより大なる富はない。「神の国」は「神に支配されること」神を我の主として有つことである。人生の最大の幸福はこれである。

6章21節 幸福(さいはひ)なる(かな)、いま()うる(もの)よ、(なんぢ)()くことを()ん。[引照]

口語訳あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
塚本訳ああ幸いだ、今飢えている人たち、(かの日に)満腹させられるのはあなた達だから。ああ幸いだ、今泣いている人たち、(かの日に)笑うのはあなた達だから。
前田訳さいわいなのは今飢える人々、あなた方は満たされようから。さいわいなのは今泣く人々、あなた方は笑おうから。
新共同今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
NIVBlessed are you who hunger now, for you will be satisfied. Blessed are you who weep now, for you will laugh.
註解: マタ5:6参照。神の国における満足こそ人生の至幸である。伝道者は貧困の生活を送らなければならぬ。しかし、今この世で飢えることは問題ではなく真の不幸ではない。かえって今満ち足りている者こそ神の国を求めず、従ってこれを得ることができない不幸者である故に、飽かんとする慾望を棄てよ、飢える者こそかえって幸福である。

幸福(さいはひ)なる(かな)、いま()(もの)よ、(なんぢ)(わら)ふことを()ん。

註解: 涙の乾く間もなき不幸の中にいる者は神の慰めと救いとを求めずにいられない。かくして求むる者にはこれが与えられる。神の国の笑いはこの世の涙を通して与えられる。不幸に泣く者は実は不幸ではない。かえって幸福である。弟子たちは自己について考えず唯他人のために自己をささげている故自己の苦痛と他人の苦痛とのために泣かなければならぬがそこから真の幸福が生れる。

6章22節 (ひと)なんぢらを(にく)み、(ひと)()のために(とほ)ざけ、(そし)り、(なんぢ)らの()()しとして()てなば、(なんぢ)幸福(さいはひ)なり。[引照]

口語訳人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
塚本訳人に憎まれる時、また、人の子(わたし)のゆえに除名されたり、罵られたり、悪様に言われたりする時には、あなた達は幸いである。
前田訳さいわいなのはあなた方、人々が憎み、人の子ゆえに除名し、ののしり、汚名を着せるときに。
新共同人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
NIVBlessed are you when men hate you, when they exclude you and insult you and reject your name as evil, because of the Son of Man.
註解: マタ5:11参照。イエスの名または信者たる名のために迫害せられることは何時の時代でも免れ難い。殊に群衆の中にはイエスの弟子たちに対してかかる心を懐いている者が多く、弟子たちは彼らの嘲笑迫害の対象であった。弟子たちの心はこの御言によって躍ったことであろう。
辞解
[遠ざけ] 集会よりの除名、社会よりの排斥等。
[汝らの名] 後に至ってイエスの弟子は「ナザレ人」(使24:5)、「クリスチアノス」(使11:26)等と呼ばれたが、イエスの当時は未だかかる名は無かった。

6章23節 その()には(よろこ)(をど)れ。[引照]

口語訳その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
塚本訳その日には躍りあがって喜びなさい、どっさり褒美が、天であなた達を待っているのだから。あの人達の先祖も、同じことを預言者たちにしたのである。
前田訳その日にはよろこび躍りなさい、天での褒美が多いから。同じように彼らの先祖も預言者たちにしたのである。
新共同その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
NIV"Rejoice in that day and leap for joy, because great is your reward in heaven. For that is how their fathers treated the prophets.
註解: マタ5:12参照。
辞解
[躍れ] ルカ1:44参照。

()よ、(てん)にて(なんぢ)らの(むくい)(おほい)なり、(かれ)らの先祖(せんぞ)預言者(よげんしゃ)たちに()ししも()くありき。

註解: イエスの弟子が迫害の中においても喜び躍り得る所以は、彼らが天国の生活を為しているからである。神に代って語る預言者たちが、この世において受けし運命とその天国における栄光とを見るならば、イエスの弟子たちもこれと同様の運命に逢うべきことを知ることができる。

6章24節 されど禍害(わざはひ)なるかな、((なんじ)ら)()(もの)よ、[引照]

口語訳しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
塚本訳だが、ああ禍だ、富んでいるあなた達、もう慰めを受けたのだから。
前田訳しかし、わざわいなのは富んでいる人々、あなた方はもう慰めを受けたから。
新共同しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
NIV"But woe to you who are rich, for you have already received your comfort.
註解: 24−26節に四つの禍害(わざわい)あり、正確に20−23節の四つの幸福に対照する。マタイ伝山上の垂訓にはこの部分なし。26節後半のみ存す。「汝ら富む者」であって弟子たちがその中に入り得ないことは当然である。群衆の中には富裕なる者も有ったに相違なく、しかも彼らはその富を神のため人のために用いず、全く自己の享楽のために使用し、これを誇りこれによって満足していた。彼らは神の国と神の義とを思わず、永遠の生命を求めなかった。人はかかる者を幸福としていたけれども彼らは禍害(わざわい)なるかなである。

(なんぢ)らは(すで)にその慰安(なぐさめ)()けたり。

註解: もはやそれ以上の何ものをも期待できない。
辞解
[受けたり] apechô は一般に金銭の領収済の意味に用いられ、領収証を apochê と言う。

6章25節 ((なんじ)ら)禍害(わざはひ)なる(かな)、いま()(もの)よ、[引照]

口語訳あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
塚本訳ああ禍だ、今食べあきているあなた達、(かの日に)飢えるのだから。ああ禍だ、今笑っている人たち、(かの日に)泣き悲しむのはあなた達だから。
前田訳わざわいなのは今食べ飽きている人々、あなた方は飢えようから。わざわいなのは今笑う人々、あなた方は悲しみ泣こうから。
新共同今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
NIVWoe to you who are well fed now, for you will go hungry. Woe to you who laugh now, for you will mourn and weep.
註解: 21節の「今飢うる者よ」に対応する。飽衣飽食してそれだけで満足している者、またはかくありたいと望んでいる者が群衆の中にいたのであろう。かかる者はそれ以上の天国の幸福を求めようとしない。かかる者こそかえって禍害(わざわい)である。

(なんぢ)らは()ゑん。

註解: 直訳「何となれば汝らは飢えるであろうから」で「禍害(わざわい)なるかな」の理由である。境遇の変化によって飢えることもあろう。しかしそれのみでなく、物的飽満はやがてそれ自身では何らの満足を与えず必ず精神的飢渇に襲われる。少なくとも彼らは死に直面する時、その物質的飽満は何らその飢渇を醫し得ないことを見出すであろう。

禍害(わざはひ)なる(かな)、いま(わら)(もの)よ、(なんぢ)らは、(かな)しみ()かん。

註解: 「泣くべければなり」と訳すべきである。神の国においてのみ真の笑いが有り得るのであって、虚偽、不正、災害、不幸の充ちているこの世では、たとい自分にとって一時的幸福が訪れて来ても、その時の笑いはやがて悲しみの涙となる時が来るであろう。たとい幸いにして現世を笑いの中に終ることができても、死はその凡てをそれだけ大きい悲しみに変化するであろう。殊にこの世の幸福は浮雲のごとく草花の栄えと異ならない、思わない時に一瞬にして壊滅する。釈迦の出家の理由もここにあった。

6章26節 (すべ)ての(ひと)、なんぢらを()めなば、(なんぢ)禍害(わざはひ)なり。[引照]

口語訳人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
塚本訳皆の人に良く言われる時、あなた達は禍である。あの人達の先祖も、同じことを偽預言者たちにしたのである。
前田訳わざわいなのは、あなた方をすべての人がよくいうとき。同じように彼らの先祖も偽預言者たちにしたのである。
新共同すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
NIVWoe to you when all men speak well of you, for that is how their fathers treated the false prophets.
註解: 義しき者には必ず敵が現れ、真の預言者は世に受納れられない。世間一般の人に誉められる人間は世間一般の人の要求に応う人であり、従って彼らの不義を不義として責め得ない人である。弟子たちは、かかる人間になってはならない。従って人に誉められることを望んではならない。
辞解
「凡ての人」といっても、一般人というごとき意味。
[誉める] 直訳「良く言う」。

(かれ)らの先祖(せんぞ)虚僞(いつはり)預言者(よげんしゃ)たちに()ししも()くありき。

註解: ユダヤ人の歴史が明かに示すように彼らの先祖は真の預言者を迫害し、虚偽の預言者を歓迎した。イエスの弟子たらんとするものは世の人より誉められようと考えてはならない。
要義1 [幸福とは何ぞや]イエスはこの説教によって幸福観に根本的革命を与えた。従来はこの世において富み、栄え、飽食、暖衣、歓楽を(ほしいまま)にし、而して世人の好評を博することが幸福と考えられていた。イエスが弟子たちに教え給える幸福は、ちょうどその正反対であり、貧困と飢餓と涙と迫害非難の中に神の国に在る永遠の幸福を享有することであった。この真の幸福を求めずしてこの世の幸福を求める者はイエスの弟子となることができない。またイエスの弟子となる者は、これらの世俗的幸福なしにも、それよりも遙かに優れる幸福を享有することができる。人はみな幸福を求めて労苦しているけれども、これを得ないのは求むべきところにこれを求めないからである。
要義2 [文化と幸福]この世の政治・経済・教育等凡ての文化活動は人間の幸福を目的としているのであるがそれだけではその目的を達し得ない。まずイエスに従い、神の国と神の義とを求め、そのために貧困・飢餓・悲哀を味わう場合始めてその目的を達成することができる。文化的活動そのものは正しいことであるが、神を離れてその目的の達成は不可能である。

4-3-ロ 愛敵の精神 6:27 - 6:36
(マタ5:39-48)   

註解: 本節以下36節までは愛の精神の極致を教うるために、マタ5:38−48より、38、41、43の三節を除き、さらにマタ7:12を加え、これを5:44、39、40、42。7:12。5:46、47、45、48の順序に排列し、さらに若干の附加(34、35a)と変更(例えば36節とマタ5:48とを比較せよ)とを与えてルカ独特の目的に排列している。すなわちマタイにおいては律法を完成する意味においての愛を説き、ルカにおいては人類一般の理想としての隣人愛を説き、その極致として愛敵の精神を最初に掲示しているのを見る。

6章27節 われ(さら)(なんぢ)()くものに()ぐ、[引照]

口語訳しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。
塚本訳しかし(今わたしの話を)聞いているあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を憎む者に親切をつくし、
前田訳しかし、耳傾けるあなた方にはいう、敵を愛し、あなた方を憎むものによくせよ。
新共同「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
NIV"But I tell you who hear me: Love your enemies, do good to those who hate you,
註解: これまでは不在であった人々(富者、笑う者等)から転じて現在聞いている人々に語った(L1)というのではなく(Z0)、弟子ならびに群衆に対し、充分に聴くように一層の注意を促したのである。重大問題だからである。

なんじらの(あた)(あい)し、(なんぢ)らを(にく)(もの)()くし、

註解: マタ5:44a参照。仇は我らに害を与える者である。人間はこれを愛し得ないのが自然である。その故は人間は自然に自己愛をその心の根本に蔵しているからである。この自己愛を全く放棄して神への愛に転換する場合、始めて人は神のごとき愛(35b、36)をもって仇をも愛し、己を憎む者に対して善を行うことができる。

6章28節 (なんぢ)らを(のろ)(もの)(しゅく)し、(なんぢ)らを(はづか)しむる(もの)のために(いの)れ。[引照]

口語訳のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
塚本訳呪う者に(神の)祝福を求め、いじめる者のために祈れ。
前田訳呪うものを祝福し、なやますもののために祈れ。
新共同悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
NIVbless those who curse you, pray for those who mistreat you.
註解: マタ5:44bはこれに類似しているが、「詛う」「辱しむ」の代りに「迫害する」を用いている。一般にマタイ伝の方強い表顕を用いていることに注意すべし。ルカにおいては27節に「仇」の概論を与え、28、29節に仇の行動を分類列挙している。本節は主として口頭による敵対行為である、かかる者に対しては、言葉をもって応答することは無益であり、唯彼らを「祝福し」そのために「祈る」ことが最良の態度である。

6章29節 なんぢの(ほほ)()(もの)には、(ほか)(ほほ)をも()けよ。[引照]

口語訳あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
塚本訳あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも差し出し、上着を奪おうとする者には、下着をこばむな。
前田訳あなたの頬を打つものには、ほかの頬をも出し、上着を取ろうとするものには下着をも拒むな。
新共同あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
NIVIf someone strikes you on one cheek, turn to him the other also. If someone takes your cloak, do not stop him from taking your tunic.
註解: マタ5:39。敵対心が行動となって顕われた場合、これに対して報復の心や憎悪の心を起してはならない。悪はこれに反抗すれば益々その悪念を強化するものであるから、相手を善に立還らしめんがためには、悪をしてその行きつく処まで行かせる方がよい。ただしこの凡ては愛の心を基礎としなければならない。心に復讐心を懐きつつ他の頬を向けても何の役にも立たない。

なんぢの上衣(うはぎ)()(もの)には下衣(したぎ)をも(こば)むな。

註解: マタ5:40の「下衣もやってしまえ」の方が意味も強く、かつ適当である。仇の行動が物質的損害を与える場合の態度を示す。すなわち物質的損害を惜しんだりまたはこれを回復せんとせず、かえって仇の欲する以上のものを与えることによって、その貪慾の心に反省を与えるのが最善の途である。

6章30節 すべて(もと)むる(もの)(あた)へ、なんぢの(もの)(うば)(もの)(また)(もと)むな。[引照]

口語訳あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。
塚本訳求める者にはだれにでも与えよ、あなたの物を奪った者から取り返すな。
前田訳求めるものにはだれにでも与え、あなたのものを奪うものから取り返すな。
新共同求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
NIVGive to everyone who asks you, and if anyone takes what belongs to you, do not demand it back.
註解: 自分の利益をまず考えるのは、自己愛から来る心である。まず求むる相手方の立場に立ち、これを愛するを以てこれに対すべきである。他人の物を奪う者は悪者であるが、かかる者よりこれを奪い返さんとすることによって、この悪者は自己の悪を反省しない結果となる。仇の悪行のために正しき被害者が苦しみつつしかも仇を怨まない愛の心は、その仇なる悪者にとって最も大きい良心的苦痛である(ロマ12:20)。

6章31節 なんぢら(ひと)()られんと(おも)ふごとく、(ひと)にも(しか)せよ。[引照]

口語訳人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
塚本訳あなた達は自分にしてもらいたいと思うとおり、人にしなさい。
前田訳人にしてもらいたく思うそのとおりに人にせよ。
新共同人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
NIVDo to others as you would have them do to you.
註解: マタ7:12にある所謂金言で、聖書全体の要約である。論語の「己に施して願わずんば人に施すこと勿れ」は消極的方面のみを言っているのであるが、ここでは進んで他人に対し、人が己に施すことを欲するごとくに他人に施すべきことを教えている。この一節の位置はマタイ伝のそれよりも遙かに適当である。

6章32節 なんぢら(おのれ)(あい)する(もの)(あい)せばとて、(なに)(よみ)すべき(こと)あらん、罪人(つみびと)にても(おのれ)(あい)する(もの)(あい)するなり。[引照]

口語訳自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
塚本訳自分を愛する者を愛すればとて、(神から)どんな恵みがいただけよう。不信者でも自分を愛する者を愛するのだから。
前田訳自分を愛するものを愛しても何の恵みがあろう。罪びとでも自分を愛するものを愛するから。
新共同自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
NIV"If you love those who love you, what credit is that to you? Even `sinners' love those who love them.
註解: これは自然の人情であって自己愛の基礎の上に起り得る態度である。従ってこれは何ら感謝に値していない。また罪人すなわち低い道徳的水準と低い教養より外にない人たちでも、己を愛する人をば自然に愛する。
辞解
[(よみ)すべき事] charis、ここでは「感謝に値する事」と訳するを可とす(L1、M0、Z0)。
[罪人] ここでは全人類が神の前に罪人であるという意味での罪人ではなく、取税人・遊女のごとく一般より罪深き人と見られている種類の人。

6章33節 (なんぢ)()おのれに(ぜん)をなす(もの)(ぜん)()すとも、(なに)(よみ)すべき(こと)あらん、罪人(つみびと)にても(しか)するなり。[引照]

口語訳自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
塚本訳親切にしてくれる者に親切にしたからとて、どんな恵みがいただけよう。不信者でも同じことをするのだから。
前田訳自らによくするものによくしても、何の恵みがあろう、罪びとでも同じことをするから。
新共同また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
NIVAnd if you do good to those who are good to you, what credit is that to you? Even `sinners' do that.
註解: マタ5:47に類似している。すなわち32節は心の状態、本節はその外部に対する働きである。この二者は必ず相伴う。

6章34節 なんぢら()(こと)あらんと(おも)ひて(ひと)()すとも、(なに)(よみ)すべき(こと)あらん、罪人(つみびと)にても(ひと)しきものを()けんとて罪人(つみびと)()すなり。[引照]

口語訳また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
塚本訳また、取りもどすつもりで貸したからとて、どんな恵みがいただけよう。不信者でも同じだけのものを取り戻そうとして、不信者に貸すのである。
前田訳取り返すつもりで貸しても何の恵みがあろう。罪びとでも同じものを取り返そうとして罪びとに貸す。
新共同返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
NIVAnd if you lend to those from whom you expect repayment, what credit is that to you? Even `sinners' lend to `sinners,' expecting to be repaid in full.
註解: 自己愛と利己心とは相伴う。貸すことは慈悲心のごとくに見えるけれども心の中に自己愛、利己心が働いている場合が多い。イエスは人々の心の中からこの罪の心を除かんとしてかく教え給うた。

6章35節 (されば))(なんぢ)らは(あた)(あい)し、(ぜん)をなし、(なに)をも(もと)めずして()せ、[引照]

口語訳しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
塚本訳しかし、あなた達は敵を愛せよ、親切をせよ、何も当てにせずに貸しなさい。そうすれば褒美をどっさりいただき、かつ、いと高きお方の子となるであろう。いと高きお方は恩知らずや悪人にも、憐れみ深くあられるのだから。
前田訳しかし、あなた方は敵を愛し、人によくし、何も当てにせずに貸しなさい。そうすれば褒美は多かろう。そしていと高き方の子となろう。彼は恩知らずや悪者にも恵み深くいますから。
新共同しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
NIVBut love your enemies, do good to them, and lend to them without expecting to get anything back. Then your reward will be great, and you will be sons of the Most High, because he is kind to the ungrateful and wicked.
註解: 27−34節の要約であり反復である。
辞解
[何をも求めずして] 「何事にも失望せずに」「何人にも失望せずに」「何人をも失望せしめずに」等とも訳されているが何れも適当ではない。

さらば、その(むくい)(おほい)ならん。かつ至高者(いとたかきもの)()たるべし。

註解: これらの報いは凡て終末的に考えられ、現世において、愛の故に凡てを失うものは、神の国において大なる報いが与えられ、かつ最高の身分が与えられるであろうことを示す。なお「報い」についてはマタ5:12要義二参照。
辞解
[至高者] 神を指す。ルカ伝に最も多く用いられる。
[子たるべし] 「子とならん」で未来形。

至高者(いとたかきもの)は、(おん)()らぬもの()しき(もの)にも、仁慈(なさけ)[あるなり](あればなり)。

註解: 敵を愛する者が、至高者の子となることの理由(hoti)は、神は悪しきもの、感謝の念なきものをも愛し給うからである。マタ5:45にはこれを日光と雨との例をもって示す。

6章36節 (なんぢ)らの(ちち)慈悲(じひ)なるごとく、(なんぢ)らも慈悲(じひ)なれ。[引照]

口語訳あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
塚本訳あなた達の(天の)父上が慈悲深くあられるように、慈悲深くあれ。
前田訳慈悲深くあれ、あなた方の父が慈悲深くいますように。
新共同あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
NIVBe merciful, just as your Father is merciful.
註解: 本節は一般に次節以下に関連する緒言と見られており、かつ次節の冒頭に「而して」があるので、文脈上この見解が正しいようにも見えるけれども、意味の上からは27−35節の結論であると見る方が適当である。あたかもこれに相当するマタ5:48がマタイ伝のその部分の結論であるのに相対応している。神のごとき慈悲心を有つより外には仇を愛するに至ることは不可能である。▲マタ5:48に「天の父の全きがごとく汝らも全かれ」とあり、本節の「慈悲なれ」とあるのが一層理解し易い。マタイ伝の「完全」も「慈悲」と同義と解して差支えがない。神は愛であるから神のごとき無私の愛はそれ自身完全である。
要義 [聖愛の本質] 聖愛の本質は、消極的には自己を愛しないことであり、積極的には仇を愛することである。この両面は必ず同時に存在すべきものであり、その一つを欠く場合他は成立たない。自己を愛しつつ同時に仇を愛することはできない。而して仇を愛するに至らない愛は真の愛ではない。キリストは神に叛ける人類を愛し、そのために己が生命を捨て給うた。そこに愛の本質がある。仇のために生命をさえ捨てるのであるから(ロマ5:8)その他のものを与えることは問題とするに足らぬこととなる。

4-3-ハ 対人的態度 6:37 - 6:38
(マタ7:1-5)   

註解: 36節の慈悲の基礎の上に凡ての徳は成立する。そして他人が自己に奉仕せんことを求めるより先にまず他人に対し為すべからざることを為さないことが31節の実現である。37、38節はかくして36節までの思想と39節以下の思想との間に橋を架けている。36節をこの部分の緒言と見ることは、本節初頭の「而して」より判断すれば文法上はかえって適当であるが、この「而して」27−36節の全体の精神を身に体して「而して」の意味に取ることもできよう。

6章37節 (ひと)(さば)くな、さらば(なんぢ)らも(さば)かるる(こと)あらじ。[引照]

口語訳人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
塚本訳(人を)裁くな、そうすれば(神に)裁かれない。(人を)罪に落すな、そうすれば罪に落されない。赦してやれ、きっと(神に)赦される。
前田訳裁くな、そうすれば裁かれまい。陥れるな、そうすれば陥れられまい。ゆるせ、そうすればゆるされよう。
新共同「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
NIV"Do not judge, and you will not be judged. Do not condemn, and you will not be condemned. Forgive, and you will be forgiven.
註解: マタ7:1、2。人を審く心は愛なく慈悲なき心であり、また自己の欠点を反省せずして人の悪のみに注目する心である。天の父のごとき愛をもって人に接する場合自然にこれを審かず、自己の悪を思う時、人の悪を赦す心持となる。「審かる」は(1)他人よりか(2)神よりか、(1)の場合も事実として有り得るのであるが完全はこれを(2)に期待するを適当とす。
辞解
[(さば)く] krinô 各人の行為の善悪を決めること(B1)。この「審くな」の教訓は裁判官が公の資格で審く場合、また個人が公人として社会のために他を審く場合等のことをいったのではないと見るべきである。

(ひと)(つみ)(さだ)むな、さらば、(なんぢ)らも(つみ)(さだ)めらるる(こと)あらじ。

註解: 「罪に定む」 katadikazô は一層強い語で、全人格に対して罪あること、処罰に値することを断言すること。「罪に定めらる」も「審かる」と同じく人よりか神よりかの問題があるが、他人の態度も当方の態度によって影響されることは有り得ることであるが、その完全なる反応は神よりと見るを可とす。すなわちもし人を罪に定めるならば世の終末の審判においては勿論のこと、現世の生活においても神の前に我らは同じ審判を受けるであろう。

(ひと)(ゆる)せ、さらば(なんぢ)らも(ゆる)されん。

註解: 愛憐と慈悲の心をもって他人に対する時、その罪を赦し、これをして負債を感ぜしめないようにする。愛なきものは人を責め、人に要求することのみに専念する。人間も同様であるが、殊に神は同じ態度をもって汝に臨むであろう。而して以上の三者を我らの実行の点から見れば、信仰によって神から罪を赦され、審かれず(ヨハ3:18)罪に定められざる(ロマ8:1)ことを知る。それによって始めて他人を赦し、罪に定めず、審かないようになることができる。

6章38節 (ひと)(あた)へよ、さらば(なんぢ)らも(あた)へられん。[引照]

口語訳与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
塚本訳与えよ、きっと与えられる。押しつけ、ゆすり込み、こぼれるほど量りを良くして、懐に入れていただけるであろう。(人を)量る量りで、あなた達も量りかえされるからである。」
前田訳与えよ、そうすれば与えられよう。押えつけ、ゆすって、あふれるほどにはかってふところに入れてくれよう。はかる量りであなた方もはかってかえされようから」と。
新共同与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
NIVGive, and it will be given to you. A good measure, pressed down, shaken together and running over, will be poured into your lap. For with the measure you use, it will be measured to you."
註解: 他人を好んで審くことと同様、人に与えることを欲せずかえって与えられることを欲するのが人情の常である。人間は自然の姿においては凡て利己的、自己中心的である。愛の心をもって生きる者、己について求めない者はその反対に神中心、利他本位の生活となる。而して事実として後者は決して乏しくなることは無く、益々与えられる。

(ひと)

註解: 原文に主語を欠き、複数動詞を用いている故、これを(1)一般に人は、(2)天の使いたちは、(3)ある人々は、(4)神は(L1。ルカ12:20参照)等の解あり。前節と同じく人と神との双方を含む普遍的表顕と見るを可とす。

(はかり)をよくし、()()れ、(ゆす)()れ、(あふ)るるまでにして、(なんぢ)らの懷中(ふところ)()れん。

註解: 人に与えようとする心、己の益を求めず他人の益を考える心は、一見不利益を受けるかのごとくに思われるけれども、実はかえって多くの益を受ける。これは一つの逆説の真理である。この真理は実行によって知ることができる。

(なんぢ)()おのが(はか)(はかり)にて(はか)らるべし』

註解: マタ7:2b。他人を審くこと、罪に定めること、赦さないこと等は、何れも自己の優越を信じ、他人の価値を(ひく)く見積り、他人の罪を審くのであるが、他人はまた同様の欠点、弱点、罪過を我らの中に発見することができ、結局同じ(はかり)で相互に量り合うこととなり意味をなさない。完全に利己的自己中心主義と自己に対する誇りを克服することによって始めて我らの態度は完全なものとなる。
要義 [理想社会]社会を組織する人間が凡て27−38節の教訓を勇敢に守るならば、社会は直ちに理想的社会と化してしまうであろう。然るに事実その中に少数でも利己的人間が存する場合、この教訓を実行する者が必ず損害を受ける立場に立つ結果となり、従ってこれを完全に実行する上には必ず犠牲が伴うものである。しかしかかる犠牲を払うことは決して無意味ではなく、より善き社会はかかる犠牲の上に建てられ、而してついにはその犠牲を補って余りある大なる祝福が与えられるであろう。信仰をもってこの凡ての犠牲を忍び、神の報いを望むことが凡てのキリスト者に要求されるのはこのためである。この犠牲が理想の社会を造る唯一の手段であり、而してたといそれによって理想社会が実現しない場合でも、神の国において豊かなる報いを失わないであろう。

4-3-ニ 対自己的態度 6:39 - 6:45
(マタ7:1-20)   

註解: 前節までの教訓を受けて、まず「己自身を知ること」の必要を反省せしめんとしたのが本節以下、45節に至るイエスの御言である。勿論これは弟子たちに対して反省せしめんとの教訓(B1)であるが、それよりも、むしろ主として群衆中にある悪しき教師に向けられしものと見るべきであろう。己を知らないことが「(さば)くこと」「赦さぬこと」等の原因となる。意味において前段とも関連す。

6章39節 また(たとへ)にて()ひたまふ[引照]

口語訳イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
塚本訳なお譬を一つ話された、「盲人に盲人の手引が出来るか。二人とも穴に落ち込まないだろうか。
前田訳なおひとつの譬えをいわれた、「目しいが目しいを導けようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
新共同イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
NIVHe also told them this parable: "Can a blind man lead a blind man? Will they not both fall into a pit?
註解: マタ13:13と同一の理由と見てこれを理解することができる。

盲人(めしひ)盲人(めしひ)手引(てびき)するを()んや。二人(ふたり)とも(あな)()ちざらんや。

註解: マタ15:14。人を手引せんとする者は自分が目明きでなければならぬ。マタイ伝においてはパリサイ人に対する非難としてこの語が語られている。ルカはこれを一般化したのである。

6章40節 弟子(でし)はその()(まさ)らず、(おほよ)(まった)うせられたる(もの)は、その()(ごと)くならん。[引照]

口語訳弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。
塚本訳(良い先生をえらべ。)弟子は先生以上になれない。りっぱに一人前になっても、(たかだか)先生のようになるだけである。
前田訳弟子は師にまさらない。しかしだれでも修業をつめば師のようになる。
新共同弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
NIVA student is not above his teacher, but everyone who is fully trained will be like his teacher.
註解: 従って盲人の弟子は盲人以上であり得ない。これに反しイエスの弟子はイエスの高さに達する可能性がある。イエスは群衆中の師をもって任ずる者に対し、まず自己の姿を反省し、果して他人を導く資格ありや否やを考慮せしめんとし給う。
辞解
[全うせられたる者] 指導者の訓練の全部を完備した者。

註解: 41、42節(マタ7:3−5)は師たるべき資格なくして師をもって任ずる者の誤りを指摘する。マタイ伝では「審く勿れ」に関連せしめている。

6章41節 (なに)ゆゑ兄弟(きゃうだい)()にある(ちり)()て、(おの)()にある梁木(うつばり)(みと)めぬか。[引照]

口語訳なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
塚本訳なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気付かないのか。
前田訳なぜ兄弟の目にあるちりが見えて自分の目にある梁に気づかないのか。
新共同あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
NIV"Why do you look at the speck of sawdust in your brother's eye and pay no attention to the plank in your own eye?
註解: 人は自己の欠点に気付かずに、他人の欠点を見出すにおいて堪能である。俚諺(ことわざ)「猿の尻笑い」のごとし、自己反省の不足、不当の優越感、己自身を知らないことの結果である。

6章42節 おのが()にある梁木(うつばり)()ずして、(いか)兄弟(きゃうだい)(むか)ひて「兄弟(きゃうだい)よ、(なんぢ)()にある(ちり)()(のぞ)かせよ」といふを()んや。僞善者(ぎぜんしゃ)よ、()(おの)()より梁木(うつばり)()(のぞ)け。さらば(あきら)かに()えて、兄弟(きゃうだい)()にある(ちり)()りのぞき()ん。[引照]

口語訳自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。
塚本訳自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟にむかって、『兄弟、あなたの目にある塵を取らせてくれ』と言うことが出来ようか。偽善者!まず自分の目の梁を取ってのけよ。その上で、兄弟の目にある塵を(取ってやれるなら、)取ってやったらよかろう。
前田訳おのが目にある梁が見えずに、どうして兄弟に向かって、『兄弟、あなたの目にあるちりを取らせなさい』といえるのか。偽善者よ、まずおのが目から梁をのけよ。そうすればはっきり見えて、兄弟の目にあるちりを取りえよう。
新共同自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
NIVHow can you say to your brother, `Brother, let me take the speck out of your eye,' when you yourself fail to see the plank in your own eye? You hypocrite, first take the plank out of your eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother's eye.
註解: イスラエルの指導者は盲目でありながらその民を指導していた。しかも自らその盲目に気付かなかった。彼らがイエスの価値を認識し得ず、反対にイエスが彼らを「偽善者よ」と言い得たのはそのためであった。彼らはまず自己の何たるかを知らなければ人の師となる資格がない。

註解: 43−45節は彼らの目に梁木(うつばり)があることの証拠はその言行(殊にその言に)よって知られることを示す。言葉は心の発露だからである。

6章43節 ()しき()(むす)()()はなく、また()()(むす)()しき()はなし。[引照]

口語訳悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
塚本訳わるい実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶ悪い木もない。
前田訳悪い実を結ぶよい木はなく、また、よい実を結ぶ悪い木もない。
新共同「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
NIV"No good tree bears bad fruit, nor does a bad tree bear good fruit.

6章44節 ()はおのおの()()によりて()らる。(いばら)より無花果(いちぢく)()らず、野荊(のばら)より葡萄(ぶだう)(をさ)めざるなり。[引照]

口語訳木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。
塚本訳木(の良し悪し)はいずれもその実で知られるのである。茨から無花果をとらず、茨の薮から葡萄をつまない。
前田訳どの木もその実でわかる。茨からいちじくは取れず、野草からぶどうは摘めない。
新共同木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
NIVEach tree is recognized by its own fruit. People do not pick figs from thornbushes, or grapes from briers.

6章45節 ()(ひと)(こころ)()(くら)より()きものを()し、()しき(ひと)()しき(くら)より()しき(もの)(いだ)す。それ(こころ)滿()つるより、(くち)(もの)()ふなり。[引照]

口語訳善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。
塚本訳(同じように、)善人は心の善い倉から善い物を取り出し、悪人は(心の)悪い倉から悪い物を取り出す。心にあふれて口に出るのだから。
前田訳よい人は心のよい倉からよいものを持ち出し、悪い人は悪い倉から悪いものを持ち出す。心あふれて口が語るのだから。
新共同善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
NIVThe good man brings good things out of the good stored up in his heart, and the evil man brings evil things out of the evil stored up in his heart. For out of the overflow of his heart his mouth speaks.
註解: イエスの道徳訓は、外部より道徳的形式を押し付けることは決してなかった。これをイエスは偽善として最も嫌い給うた。まず心の姿を正しく善きものにすることが根本であり、これさえできれば言行はその結果として自然に正しくなるというのがイエスの教訓の主旨であった。而して心を正しくすることは、結局において霊的新生より外に途が無いことを、弟子たちは実験的に知らしめられたのであった。善き果(行為)を得るには善き樹でなければならず、悪しき果(行為)を結ぶ者は悪しき樹であることを示す。マタ7:16−20およびマタ12:33−35節に同様の記事あり、前後の関係はルカと異なる。
辞解
[結ぶ] poieô は「為す」「行う」という意味に用いられる語。
[倉] thêsauros はまた「蓄積物」、「貯え」の意味もあり、必ずしも建物の倉庫と見なければならぬことはない。
要義1 [汝自身を知れ]デルフォイの神殿の入口に掲げられた有名なるこの格言を連想せしめるのが、この39−45節である。しかしながら自己を知ることそれ自身が必ずしもそう単純ではない。自己を計る尺度の如何によって自己に対する判断が異なって来る。盲人に比して眼病の人間も目明きと考えられ、パリサイ人らは罪人、取税人、遊女と比較して自己を義人と考えた。我らが自己の真の姿を知るにはイエスを我らの尺度としなければならぬ。彼を師とする者は幸福なるかな、これよって始めて真の自己を知ることができる。
要義2 [樹とその果]善き樹は善き果を結ぶ。唯、我らは如何にして善き樹となることができるか。この点につきイエスは我らに示し給わない。本来罪の中に生れた我らの天性は、これを善いものにしようとしてもなかなか変化しない(エレ13:23)。従ってイエスは我らに不可能を要求し給うこととなるのである。しかし、人間に不可能な事でも神において可能である(マタ19:26)。神はイエスの十字架の贖いによりて我らを新たに生れしめ、善き生命をもって我らに充たし給う。これにより自ら善き果を豊かに結ぶことができる。

4-3-ホ 実行の必要 6:46 - 6:49
(マタ7:12-27)   

註解: 46−49節は教えを聞きてこれを実行することの必要を教えている。マタ7:21マタ7:24−27。愛の心、自己を知ること、自己を義しく善きものとすることと同じく、実行することは、自己そのものの改造であり、生命そのものの建設である。

6章46節 なんぢら(われ)を「(しゅ)(しゅ)よ」と()びつつ、(なに)()()ふことを(おこな)はぬか。[引照]

口語訳わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
塚本訳(わたしを)『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
前田訳なぜわたしを主よ主よと呼びながら、わたしのいうことを行なわぬのか。
新共同「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
NIV"Why do you call me, `Lord, Lord,' and do not do what I say?
註解: 群衆の中にはイエスに病を醫されんために、彼を「主よ、主よ」と呼びつつ彼に従った者も多かった。彼らもイエスの教えを聞いて感激したのであろうが、これを行おうとする誠意が無かった。宗教を単に頭脳の問題とする人や、または自己の利益に利用しようとする者はみなこの態度を取る。

6章47節 (おほよ)(われ)にきたり()(ことば)()きて(おこな)(もの)は、如何(いか)なる(ひと)()たるかを(しめ)さん。[引照]

口語訳わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
塚本訳わたしの所に来て話を聞き、それを行う者が皆、だれに似ているか、おしえてあげよう。
前田訳わたしのところに来てわがことばを聞いてそれを行なうものがだれに似るか、教えよう。
新共同わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
NIVI will show you what he is like who comes to me and hears my words and puts them into practice.

6章48節 (すなは)(いへ)()つるに、()(ふか)()(いは)(うへ)(もとゐ)()ゑたる(ひと)のごとし。洪水(こうずゐ)いでて(ながれ)その(いへ)()けども(うご)かすこと(あた)はず、これ(かた)()てられたる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
塚本訳それは、(地を)深く掘り下げ、岩の上に土台をすえて家を建てた人に似ている。洪水が出て、大水がその家にぶつかったが、丈夫に建ててあったので、びくともしなかった。
前田訳それは深く地を掘って岩の上に土台を置いて家を建てる人に似る。洪水が出て、流れがその家に当たってもよく建っているからゆれない。
新共同それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
NIVHe is like a man building a house, who dug down deep and laid the foundation on rock. When a flood came, the torrent struck that house but could not shake it, because it was well built.
註解: イエスの言を聴いてこれを実行することにより、その言がその人の生命と化してその人を動かすに至る。およそイエスの教訓を実行するには、その言が我らの生命とならなければならぬ。ルカは動詞の用法に注意し(Z0)「来り」「聴き」「行い」「建てる」等をみな現在形動詞を用い、継続的生命活動として表顕することによって次節と区別している。次節註参照。イエスが特に行為を重視し給うことはパウロの信仰のみによる義と矛盾するように見えるけれども、実際は信仰によらざればかかる行為は行い得ず、またこれを行わんとして真面目に努力する者は、信仰に到達せざれば()まない故、結局同一の結果となる。

6章49節 されど()きて(おこな)はぬ(もの)は、(もとゐ)なくして(いへ)(つち)(うへ)()てたる(ひと)のごとし。(ながれ)その(いへ)()けば、(ただ)ちに(くづ)れて、その破壞(やぶれ)はなはだし』[引照]

口語訳しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
塚本訳しかし(これと反対に、わたしの話を)聞くだけで行わない者は、土の上に土台なしで家を建てた人に似ている。大水がぶつかると、たちまち崩れてしまって、その家のくずれ方はひどかった。」
前田訳聞いて行なわぬものは、土の上に土台なしで家を建てた人に似る。流れが当たるとすぐ倒れ、その家の倒れ方はひどい」と。
新共同しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
NIVBut the one who hears my words and does not put them into practice is like a man who built a house on the ground without a foundation. The moment the torrent struck that house, it collapsed and its destruction was complete."
註解: 前節とは反対に「聴く」「行う」「建つ」はみな不定過去形を用い、一瞬にして過ぎ去る状態を表わしている。すなわち根底なき瞬間的の行為をすら一度も行わぬものを示す。イエスの教えを聴くのみで行わないものは結局その言が彼の中に留まらない。行うことは生命に伴う処の絶対的要件である。
要義 [イエスとパウロ]46−49節にイエスが特に行為を重視することは、何人にも異議なきはずであるが、パウロの神学すなわち信仰のみによって義とせられ、律法の行為によるに非ざること(ロマ3:28エペ2:8、9)を強調する人々は、このイエスの教訓を無視し、行為を軽視する傾向があり、反対に行為を重視する人はパウロの信仰のみによって義とされることの主張を軽視し、あるいは理解しない。かくしてイエスかパウロかというごとき対立観を生じているのであるが、実はこの二者には何らの矛盾もない。その故はイエスが「行へ」と言い給う時、彼はこれに従わんとする我らを必然的に「信仰」に()いやりつつあり、パウロが「信仰」と言う時、そこから自然に「行為」が生れて来るからである。

ルカ伝第7章
4-4 病を醫し死者を甦らせ給う 7:1 - 7:17

7章1節 イエス(すべ)(これ)らの(ことば)(たみ)()かせ()へて(のち)、カペナウムに()(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスはこれらの言葉をことごとく人々に聞かせてしまったのち、カペナウムに帰ってこられた。
塚本訳イエスはこれら一切の話を人々に聞かせ終った後、カペナウムにかえられた。
前田訳民にすべてのことを聞かせてから、彼はカペナウムに入られた。
新共同イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
NIVWhen Jesus had finished saying all this in the hearing of the people, he entered Capernaum.
註解: 山上の垂訓が終るや否や2節以下の百卒長の僕の治癒の奇蹟が行われた。マタ8:5−13も同様の順序となっている。ただし内容の詳細はルカ伝と異なる点あり、同一資料をルカが変更せるものか、または始めから異なった資料があったのかについて問題がある。

4-4-イ 百卒長の僕を醫し給う 7:2 - 7:10  

7章2節 (とき)(ある)百卒長(ひゃくそつちゃう)、その(おも)んずる(しもべ)やみて()ぬばかりなりしかば、[引照]

口語訳ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。
塚本訳すると、ある百卒長の大事な僕が病気で、もう危篤であった。
前田訳ある百卒長のかけがえのない僕が病気で死にそうであった。
新共同ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
NIVThere a centurion's servant, whom his master valued highly, was sick and about to die.
註解: 百卒長はローマの軍隊の将校でローマ人であるが、この百卒長はユダヤ人を愛していた人(5節)で、会堂を自費で建設して寄進した処を見るとあるいは改宗者(使2:10参照)であったかもしれない。

7章3節 イエスの(こと)()きて、ユダヤ(びと)長老(ちゃうらう)たちを(つかは)し、(きた)りて(しもべ)(すく)(たま)はんことを(ねが)ふ。[引照]

口語訳この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。
塚本訳百卒長はイエスのことを聞くと、ユダヤ人の長老たちをイエスの所に使にやって、是非僕を直しに来てほしいと頼ませた。
前田訳彼はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをつかわし、僕を救いに来てくださるようお願いした。
新共同イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
NIVThe centurion heard of Jesus and sent some elders of the Jews to him, asking him to come and heal his servant.
註解: マタイ伝によれば(マタ8:8)百卒長本人直接にイエスに逢った。ただしイエスに「来り」給わんことを願わず、唯「御言を賜う」ことを願ったのみであった。言い伝えの差異か資料の差異であろう。あるいはマタイ伝の場合記述を簡略にしたのであるとの見方もある。何れにしてもルカ伝の特徴は百卒長が遠慮あるいは謙遜のために一回もイエスに逢わないことであった。

7章4節 (かれ)らイエスの(もと)にいたり、(せつ)()ひて()ふ『かの(ひと)()(こと)()らるるに相應(ふさは)し。[引照]

口語訳彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。
塚本訳長老たちはイエスの所に来て、こう言って熱心に願った、「あの人はそうしていただいてもよい人です。
前田訳彼らはイエスのところに来てしきりに願っていった、「あの人はそうしていただくにふさわしい人です。
新共同長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
NIVWhen they came to Jesus, they pleaded earnestly with him, "This man deserves to have you do this,

7章5節 わが國人(くにびと)(あい)し、((みずか)ら)(われ)らのために會堂(くわいだう)()てたり』[引照]

口語訳わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。
塚本訳(異教人でありながら)わが国民に好意をもち、自分でわたし達に礼拝堂を建ててくれたのですから。」
前田訳わが民を愛して自らわれらに会堂を建ててくれました」と。
新共同わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
NIVbecause he loves our nation and has built our synagogue."
註解: 「請う」なる動詞が未完了過去形で継続的動作を示し、かつ「切に」とあるを見ればマタ8:7とは異なり、イエスは容易に、百卒長の許に往くことを承諾されなかったかのごとくに見える(Z0)。主としてイスラエル中心に伝道しておられたイエスとしては、あるいはこの方が事実に近いようにも思われる。原文5節は4節の「相應し」の理由(gar)を示している。すなわちこの百卒長はユダヤ人を愛するのみならず自費をもってユダヤ人のために会堂(シナゴグ)を建立寄進したのであった。支配者として高慢な態度を取るローマ軍人の中でかかる事実は甚だ稀有のことであった。真理に対して忠実であり、かつ謙遜である彼の性格が窺われる。

7章6節 イエス(とも)()(たま)ひて、その(いへ)はや(ほど)(ちか)くなりしとき、百卒長(ひゃくそつちゃう)數人(すにん)(とも)(つかは)して()はしむ『(しゅ)よ、(みづか)らを(わづら)はし(たま)ふな。(われ)(なんぢ)をわが屋根(やね)(した)()れまつるに()らぬ(もの)なり。[引照]

口語訳そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
塚本訳イエスは彼らと連れ立って行かれた。しかし、すでにその家から程遠からずなったとき、百卒長は友人たちをやって言わせた、「主よ、ご足労くださらぬように。わたしはあなたを、うちの屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
前田訳イエスは彼らといっしょに行かれた。しかし、すでにその家からほど遠からずなったとき、百卒長は友人たちをやっていわせた、「主よ、ご足労なく。わが屋根の下にお入りいただく資格はわたしにありません。
新共同そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
NIVSo Jesus went with them. He was not far from the house when the centurion sent friends to say to him: "Lord, don't trouble yourself, for I do not deserve to have you come under my roof.

7章7節 されば御前(みまへ)()づるにも相應(ふさは)しからずと(おも)へり、ただ御言(みことば)(たま)ひて()(しもべ)をいやし(たま)へ。[引照]

口語訳それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。
塚本訳だから自分でお願いに出る資格もないと考えたのです。(ここでただ)一言、言ってください。そうすれば下男は直ります。
前田訳それで、わたし自らお近くに出るのはふさわないと思いました。ただ、おことばでおっしゃって、僕をおなおしください。
新共同ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
NIVThat is why I did not even consider myself worthy to come to you. But say the word, and my servant will be healed.
註解: 何故百卒長が急にその態度を変えたかは不明である(L2)。あるいは最初はその僕を醫したい念願にのみ心を奪われ他を顧みる余裕がなかったためであろう。やや落付きを回復して自己の無思慮を反省し恥じたのであろうか。どのように立派な人間にもかかることはあり得ないことではない。かくしてイエスがその家に近付き給うた頃に百卒長のイエスに対する信仰と謙遜な態度とが現れてきたのであった。彼はイエスが一言を発し給えばその僕は醫されることを確信した。悪鬼でさえもイエスに服従することが当然であると考えたからである。その理由は次節に記されている。

7章8節 (われ)みづから權威(けんゐ)(した)()かるる(もの)なるに、()(した)にまた兵卒(へいそつ)ありて、(これ)に「()け」と()へば()き、(かれ)に「(きた)れ」と()へば(きた)り、わが(しもべ)に「これを()せ」と()へば()すなり』[引照]

口語訳わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
塚本訳というのは、わたし自身も指揮権に服する人間であるのに、わたしの下にも兵卒がいて、これに『行け』と言えば行き、ほかのに『来い』と言えば来、また僕に『これをしろ』と言えば(すぐ)するからです。(ましてあなたのお言葉で、病気が直らないわけはありません。)」
前田訳わたしは権威に服する人間で、部下に兵卒がいます。これに『行け』といえば行き、別のに『来い』といえば来ます。僕に『これをせよ』といえばします」と。
新共同わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
NIVFor I myself am a man under authority, with soldiers under me. I tell this one, `Go,' and he goes; and that one, `Come,' and he comes. I say to my servant, `Do this,' and he does it."
註解: マタ8:9と同一、百卒長はイエスを神の子として明かに信じたものと断定し得ないにしても、非常に高い権威を持ち給うものと考えたことは明かである。他人の権威の下にある自分とイエスとを比較してイエスの一言が僕の病、または病の原因たる悪魔をも服従せしめ得ることを疑わなかった。

7章9節 イエス()きて(かれ)(あや)しみ、振反(ふりかへ)りて(したが)群衆(ぐんじゅう)()(たま)ふ『われ(なんぢ)らに()ぐ、イスラエルの(うち)にだに()かるあつき信仰(しんかう)()しことなし』[引照]

口語訳イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。
塚本訳イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た群衆の方に振り向いて言われた、「わたしは言う、イスラエルの人の中でも、こんな(りっぱな)信仰を見たことがない。」
前田訳イエスはこれを聞いて彼に驚嘆し、ついて来た群衆に振り返っていわれた、「わたしはいう、イスラエルの中にもこんな信仰を見たことはない」と。
新共同イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
NIVWhen Jesus heard this, he was amazed at him, and turning to the crowd following him, he said, "I tell you, I have not found such great faith even in Israel."
註解: イエスの最も喜び給うものは、この百卒長に見るような、単純にして絶対的な信仰であった。そしてイスラエルの救いのために心を労するイエスにとってこの異邦人の立派な信仰はことさらに強くその心を動かし、これをイスラエルに告げてその反省と悔改めとを促し給うたのであった。

7章10節 (つかは)されたる(もの)ども(いへ)(かへ)りて(しもべ)()れば、(すで)健康(けんかう)となれり。[引照]

口語訳使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。
塚本訳使の者が家に帰って見ると、僕は元気になっていた。
前田訳使いの人たちが家に帰ると、僕はなおっていた。
新共同使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
NIVThen the men who had been sent returned to the house and found the servant well.
註解: マタ8:13のごとき、御言をイエスは発し給うたのをここでは省略したとみるべきであろう。それによって僕は癒えたのであった。「健康となれり」は醫されたという意味よりさらに進んで健康状態を続けていたことを意味す。
要義 [絶対服従]イエスの賞揚し給うたのはこの絶対服従の信仰であった。それは人間が神に対して取るべき当然の態度であるからである。君主・主人・父・夫等に対してそれぞれ絶対の服従を聖書は要求しているのであるが、それは、これらを神の定め給える秩序として考えるからであり、従ってその意味の範囲内における服従は結局神に対する絶対服従の一部であって正しい道徳である。反対に神以外のものに対する服従のために、神に対する絶対的服従の態度を毀損するならば、それは罪であり偶像崇拝である。

4-4-ロ ナイノの寡婦の子を甦らせ給う 7:11 - 7:17  

7章11節 その(のち)イエス、ナインといふ(まち)にゆき(たま)ひしに、弟子(でし)たち(およ)(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)(とも)()く。[引照]

口語訳そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。
塚本訳そのあとで、ナインという町に行かれた。弟子たちおよび多くの群衆も一しょに行った。
前田訳そののち、彼はナインと呼ばれる町へ行かれた。弟子たちと多くの群衆がお伴した。
新共同それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
NIVSoon afterward, Jesus went to a town called Nain, and his disciples and a large crowd went along with him.
註解: ナインはナザレの東南エンドールの近くにあり。

7章12節 (まち)(もん)(ちか)づき(たま)ふとき、()よ、()()さるる死人(しにん)あり。これは(ひとり)息子(むすこ)にて(はは)寡婦(やもめ)なり、[引照]

口語訳町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。
塚本訳町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。
前田訳町の門に近づかれると、ちょうど、あるひとり息子が死んで、かつぎ出されるところであった。その母はやもめで、町のかなりの群衆がいっしょにいた。
新共同イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
NIVAs he approached the town gate, a dead person was being carried out--the only son of his mother, and she was a widow. And a large crowd from the town was with her.
註解: 直訳「而して視よ、寡婦なりし母の独息子死にて()き出さる」。最も悲惨なる同情すべき境遇に彼女は陥った。泣いても泣き切れなかった。イエスも自然と同情に動かされた。

(まち)(おほ)くの人々(ひとびと)これに(ともな)ふ。

註解: 全町民の同情も自然にそこに集ったことが知られる。

7章13節 (しゅ)寡婦(やもめ)()(あはれ)み『()くな』と()ひて、[引照]

口語訳主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。
塚本訳主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、
前田訳主は彼女を見てあわれみ、「泣かないで」といわれた。
新共同主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
NIVWhen the Lord saw her, his heart went out to her and he said, "Don't cry."

7章14節 (ちか)より、(ひつぎ)()をつけ(たま)へば、()くもの()(とどま)る。[引照]

口語訳そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。
塚本訳近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。
前田訳そして近よって棺(ひつぎ)に手をかけられた。かつぐものが立ちどまったのでいわれた、「若者よ、あなたにいう、起きよ」と。
新共同そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
NIVThen he went up and touched the coffin, and those carrying it stood still. He said, "Young man, I say to you, get up!"
註解: イエスがその寡婦を憐み給う御心が、また彼の奇蹟力の源であった。愛は力を生む。愛なき力はサタンの業である。イエス「泣くな」と言い給う時、すでに彼を甦えらしめんとの決心を示し給うたことは周囲の人々にも明かに感じられた。
辞解
[主] イエスを呼びかける場合に多く用いられたけれども、イエスに関する記事において「主」と称したのはこれが最初である。
[柩] soros は上部が開いているもの。

イエス()ひたまふ『若者(わかもの)よ、(われ)なんぢに()ふ、()きよ』

註解: 甦えりの日にイエスはかくして死者によびかけるであろう。イエスにより生命を与えらるべきものは死者でも活ける者のごとく、反対に永遠の死に入るべき者は生きていても死んだものと同様である。

7章15節 死人(しにん)()きかへりて(もの)()(はじ)む。イエス(これ)(はは)(わた)したまふ。[引照]

口語訳すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。
塚本訳すると死人が起き上がって物を言い出した。イエスは“彼を母に渡された。”
前田訳死人は起きあがって話しはじめた。イエスは彼を母に渡された。
新共同すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
NIVThe dead man sat up and began to talk, and Jesus gave him back to his mother.
註解: 神の力の片鱗が、この場合イエスにおいて発揮されたのであった。しかも極めて事もなげに行われていることに注意すべし。

7章16節 人々(ひとびと)みな(おそれ)をいだき、(かみ)(あが)めて()ふ『(おほい)なる預言者(よげんしゃ)われらの(うち)(おこ)れり』また()ふ『(かみ)その(たみ)(かへり)(たま)へり』[引照]

口語訳人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。
塚本訳皆が恐れをいだいて、「大預言者がわたし達の間にあらわれた」とか、「神はその民を心にかけてくださった」とか言って、神を讃美した。
前田訳皆がおそれを抱き、「大預言者がわれらのうちに現われた」。また、「神はその民を顧みたもう」といって神をたたえた。
新共同人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
NIVThey were all filled with awe and praised God. "A great prophet has appeared among us," they said. "God has come to help his people."
註解: この懼れは神を敬う心から起った懼れと見るべきである。ルカ9:20のような告白には至り得なかったけれどもルカ4:14以下のイエスの活動とを併せて、人々は少なくとも彼が偉大なる預言者であることと、神が特別の愛をもってイスラエルの上に臨み給うたこととを信ずるに至った。

7章17節 この(こと) ((かれ)につきて) ユダヤ全國(ぜんこく)および最寄(もより)()(あまね)くひろまりぬ。[引照]

口語訳イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。
塚本訳イエスについてのこの(二つの)言葉は、ユダヤ(人の国)全体とその周囲いたる所に広まった。
前田訳イエスについてのこの話は全ユダヤとその周辺一帯にひろまった。
新共同イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
NIVThis news about Jesus spread throughout Judea and the surrounding country.
註解: ユダヤは広義すなわちパレスチナ全部、最寄の地はその周囲の地方。すなわちイエスの風評はイスラエル以外にも及んだ。なおこの奇蹟はヤイロの娘の復活(ルカ8:40以下)、ラザロの復活(ヨハ11:1以下)と共にイエスが死人を甦えらせ給える三つの記事の一つである。
要義 [泣くな]我らも愛する者の死に遭い、泣かざるを得ないことがしばしばある。かかる場合イエスは我らに(むか)い「泣くな」と言い給う。そしてそれは単に空虚な慰藉(なぐさめ)の言ではなく、イエスは事実終りの日にその死にたる者を甦らせ給う。ゆえに我らには世の人々のごとくに絶望的悲しみに陥ることがない。悲哀慟哭の中にも明白なる希望を保持し、結局信ずる者には凡てのこと相働きて益を為すことを発見する(Tテサ4:13以下。ロマ8:28)。

4-5 イエスは何人なりや 7:18 - 7:50
4-5-イ ヨハネとキリスト 7:18 - 7:35
(マタ11:2-19)   

7章18節 (さて)ヨハネの弟子(でし)たち、(すべ)(これ)()のことを(ヨハネに)()げたれば、[引照]

口語訳ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、
塚本訳洗礼者ヨハネの弟子たちがこれら一切のことをヨハネに報告すると、彼は弟子を二人ほど呼びよせ、
前田訳ヨハネの弟子たちはこれらすべてを彼に告げた。
新共同ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、
NIVJohn's disciples told him about all these things. Calling two of them,

7章19節 ヨハネ[(りゃう)三人(さんにん)](ある二人(ふたり))の弟子(でし)()び、(しゅ)(つかは)して()はしむ[引照]

口語訳主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。
塚本訳主の所にやって、「来るべき方(救世主)はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか」とたずねさせた。
前田訳ヨハネは弟子たちからふたりのものを呼び、主のところにやっていわせた、「あなたが来たるべきお方ですか、それともほかの人を待つべきですか」と。
新共同主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
NIVhe sent them to the Lord to ask, "Are you the one who was to come, or should we expect someone else?"
註解: 18−35節は大体マタ11:2−19に相当しているがマタ11:12−15はルカに欠け、ルカ7:20、21はマタイに欠けており、その他若干の小差別がある。ヨハネが投獄されていることはルカ3:20にすでに録されているが、本節の場合も獄中の出来事と見るべきである。彼は獄中にても弟子との面談を許されていたとみることができる。ヨハネの弟子たちは、イエスの説教や奇蹟を直接間接に見聞しており(22節)、これを獄に在るヨハネに告げた。ヨハネはイエスが果して期待せられしメシヤなりや否やにつき、なお充分なる確信に到達しなかったのでその弟子の中の二人をイエスの許に送って質問を放った。▲「両三人」は duo tinas の誤訳で「ある二人」の意、口語訳が正しい。

(きた)るべき(もの)(なんぢ)なるか、(あるひ)(ほか)()つべきか』

註解: イスラエルの救主として来るべき者であるかどうかとの質問である。

7章20節 (かれ)御許(みもと)(いた)りて()ふ『バプテスマのヨハネ、(われ)らを(つかは)して()はしむ「(きた)るべき(もの)(なんぢ)なるか、(あるひ)(ほか)()つべきか」』[引照]

口語訳そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。
塚本訳その人たちはイエスの所に来て言った、「洗礼者ヨハネから来ました。『来るべき方はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか』とおたずねするよう申しつけられました。」
前田訳その人たちはイエスのところに来ていった、「洗礼者ヨハネからつかわされました。『あなたが来たるべきお方ですか、それともほかの人を待つべきですか』と申しています」と。
新共同二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」
NIVWhen the men came to Jesus, they said, "John the Baptist sent us to you to ask, `Are you the one who was to come, or should we expect someone else?'"

7章21節 この(とき)イエス(おほ)くの(もの)(やまひ)疾患(わずらひ)(いや)し、()しき(れい)()ひいだし、(また)おほくの盲人(めしひ)()ることを()しめ(たま)ひしが、[引照]

口語訳そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、
塚本訳その時、イエスは多くの人の病気と苦しみと悪霊につかれているのとをなおし、多くの盲人を見えるようにしてやっておられたが、
前田訳そのとき、彼は多くの人を病と苦しみと悪霊からいやし、多くの目しいを見えるようにされていた。
新共同そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
NIVAt that very time Jesus cured many who had diseases, sicknesses and evil spirits, and gave sight to many who were blind.
註解: 直訳は「多くの者を病および疾患、および悪霊より醫し」となる。イエスはルカ4:40ルカ5:17以下、ルカ6:18以下のごとく、この時も種々の奇蹟的治癒を行い給うたので直ちに次節のごとくに答え給うた。
辞解
[病] nosos は永続的の病気、「疾患」 mastix は疫病その他の苦痛を与える事柄。
[得しめ] charizomai で恩恵として与えること。

7章22節 (こた)へて()ひたまふ『()きて(なんぢ)らが()()せし(ところ)をヨハネに()げよ。盲人(めしひ)()跛者(あしなへ)はあゆみ、癩病人(らいびゃうにん)(きよ)められ、聾者(おふし)はきき、死人(しにん)(よみが)へらせられ、(まづ)しき(もの)福音(ふくいん)()かせらる。[引照]

口語訳答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
塚本訳答えられた、「行って、(今ここで)見たこと聞いたことをヨハネに報告しなさい。──“盲人は見えるようになり、”足なえは歩きまわり、癩病人は清まり、聾は聞き、死人は生きかえり、“貧しい人は福音を聞かされている”と。
前田訳彼は答えられた、「行ってあなたが見聞きすることをヨハネに告げよ、目しいは見、足なえは歩み、らい者は清まり、耳しいは聞き、死人はよみがえり、貧しい人々は福音に接する。
新共同それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
NIVSo he replied to the messengers, "Go back and report to John what you have seen and heard: The blind receive sight, the lame walk, those who have leprosy are cured, the deaf hear, the dead are raised, and the good news is preached to the poor.
註解: イエスはその為し給える諸種の事実をもってヨハネに答え給うた。この点ではヨハネも、その他の古来の預言者たちもイエスに比すべきものが無かった。殊に貧しき者が福音を伝えられるということは著しい事実であった。イエスが何であるかはこれらの事実から判断さるべきものである。イエスの教説は勿論卓絶せるものではあるが、その奇蹟的事実がこれに伴うことによって何人にもイエスのメシヤたることが明らかに証明されたのであった。かくしてイザ35:5以下、イザ61:1以下の預言がイエスにおいて成就したのであった。

7章23節 おほよそ(われ)(つまづ)かぬ(もの)幸福(さいはひ)なり』[引照]

口語訳わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
塚本訳わたしにつまずかぬ者は幸いである。」
前田訳さいわいなのはわたしにつまずかぬ人!」と。
新共同わたしにつまずかない人は幸いである。」
NIVBlessed is the man who does not fall away on account of me."
註解: イエスを政治的、この世的救い主と考える者は、上述のごときイエスを見て躓く、ヨハネもイエスに躓くの危険を充分にイエスは感じてかく警戒を与え給うたものと思われる。

7章24節 ヨハネの使(つかひ)()りたる(のち)、ヨハネの(こと)群衆(ぐんじゅう)()ひいで(たま)[引照]

口語訳ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。
塚本訳ヨハネの使が立ち去ると、群衆にヨハネのことを話し出された。──「(さきごろ)あなた達は何を眺めようとして、荒野(のヨハネの所)に出かけたのか。風にそよぐ葦だったのか。(まさかそうではあるまい。)
前田訳ヨハネの使いが去ると、彼は群衆にヨハネのことを話しだされた、「何を見にあなた方は荒野に出かけたのか。風にそよぐ葦か。
新共同ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
NIVAfter John's messengers left, Jesus began to speak to the crowd about John: "What did you go out into the desert to see? A reed swayed by the wind?
註解: イエスは本節以下において、一般の人々のヨハネを理解することの足りないことを叱責すると同時にイエスに対する無理解をも暗に批難し給うた。

『なんぢら(なに)(なが)めんとて((あら))()()でし、

註解: 野に出でてヨハネの弟子となろうとしたのでないか、然るにこのヨハネの真価を認め得ないというのはどうしたのか一体何を見ようとて荒野に出たのか。

(かぜ)にそよぐ(あし)なるか。

註解: これならば荒野に到る処に生えている。しかしヨハネはそんな弱々しい存在ではない。

7章25節 さらば(なに)()んとて()でし、(やはら)かき(ころも)()たる(ひと)なるか。[引照]

口語訳では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる。
塚本訳それでは、何を見ようとして出かけたのか。柔らかい着物を着ている人か。見よ、りっぱな着物をきて贅沢をしている人ならば、宮殿にいる。
前田訳それでは何を見に出かけたのか。柔らかい着物を着た人か。見よ、立派な着物を着て派手に暮らしている人々は宮殿にいる。
新共同では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。
NIVIf not, what did you go out to see? A man dressed in fine clothes? No, those who wear expensive clothes and indulge in luxury are in palaces.
註解: かかる者は荒野には居るはずがないから、かかる者を見んとて荒野に出たのではないことは明かである。

()よ、華美(はなやか)なる(ころも)をきて(おご)(くれ)(もの)王宮(わうきう)()り。

註解: かかる者を見るためならば荒野に出る必要はない。

7章26節 さらば(なに)()んとて()でし、預言者(よげんしゃ)なるか。(しか)り、(われ)なんぢらに()ぐ、預言者(よげんしゃ)よりも(まさ)(もの)なり。[引照]

口語訳では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。
塚本訳それでは、何を見ようとして出かけたのか。預言者か。そうだ、わたしは言う、(預言者だ。)預言者以上の者(を見たの)だ。
前田訳それでは何を見に出かけたのか。預言者をか。しかり、わたしはいう、預言者以上のものをである。
新共同では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。
NIVBut what did you go out to see? A prophet? Yes, I tell you, and more than a prophet.
註解: 預言者ヨハネを見んとて荒野に出たのであるならば、汝らの目的は達された。否、達された以上である。何となればヨハネは預言者以上の人物であるから。かく言いてイエスは極力ヨハネを推奨し給うた。これはヨハネの人格そのものよりも、むしろ次節に述べられている彼の大使命の故であった。

7章27節 ()よ、わが使(つかひ)(なんぢ)(かほ)(まへ)につかはす。かれは(なんぢ)(まへ)になんじの(みち)をそなへん」と(しる)されたるは()(ひと)なり。[引照]

口語訳『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。
塚本訳“(神は言われる、)『見よ、わたしは使をやって、あなたの先駆けをさせ、”あなたの“前に道を準備させる』”と(聖書に)書いてあるのは、この人のことである。
前田訳『見よ、わたしは使いをあなたの前につかわし、あなたの前に道をそなえさせよう』と書かれているのはこの人である。
新共同『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
NIVThis is the one about whom it is written: "`I will send my messenger ahead of you, who will prepare your way before you.'
註解: マラ3:1よりの自由なる引用で原個所は神がイスラエルを救わんとて来たまう時、先駆としてその御使いをイスラエルのところに遣し、エホバの救いの準備を為さしめることの意味である。而してこの預言の成就として神の子イエスが来る準備の使いとしてヨハネが遣されたとの意味である。ここに「汝」はイエスを指すものと解されたのであった。
辞解
引用の個所、マラ3:1は原文とも異なりまた七十人訳とも異なる。原個所の意味をイエスとヨハネとの関係に適応するように変更したのであり、このような引用法は当時一般に行われた。

7章28節 われ(なんぢ)らに()ぐ、(をんな)()みたる(もの)(うち)、ヨハネより(おほい)なる(もの)は(一人(ひとり)も)なし。されど(かみ)(くに)にて(ヨリ)(ちひさ)(もの)も、(かれ)よりは(おほい)なり。[引照]

口語訳あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
塚本訳わたしは言う、女の産んだ者の中には、ヨハネより大きい者は一人もない。しかし神の国で一番小さい者でも、彼より大きい。
前田訳わたしはいう、女の生んだもののうち、ヨハネ以上のはひとりもない。しかし神の国でもっとも小さいものも彼以上である。
新共同言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
NIVI tell you, among those born of women there is no one greater than John; yet the one who is least in the kingdom of God is greater than he."
註解: イエスはかく言いてヨハネを人間中の最も大なる者であることを断言し給うた。それは人類の救いのために神の子が来り給う場合の先駆者たる光栄を担ったのはこのヨハネであったからである。しかし彼の偉大さは女の産みたる者の中での偉大であって、神によりて生れし者(ヨハ1:13)すなわち神の国の民の中で比較的小さい者でもヨハネよりも偉大である。それは彼には神の生命が宿り、神の子とされていたからである。いわんや神の国において支配し給うべきイエスがヨハネに対して如何に優れてい給うかは自明の事柄である。イエスはこの点を暗示し給うたのであった。むしろそのためにヨハネのことを述べ、イエスに対する群衆の無理解を間接に警告し給うた。

註解: 29、30節の二節はイエスの24−28節の御言に対しルカが挿入し、31節以下と連絡せしめた解説であり、ヨハネが荒野において活躍せる時代の事実を指している。

7章29節 (すべ)ての(たみ)これを()きて、取税人(しゅぜいにん)までも(かみ)(ただ)しとせり。ヨハネのバプテスマを()けたるによる。[引照]

口語訳(これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。
塚本訳(ヨハネの説教を)聞いた民衆は皆、税金取りまで、ヨハネの洗礼を受け(ることによっ)て神の正しいことを認めた。
前田訳彼に耳傾けた民は皆、取税人までもヨハネの洗礼を受けて、神を正しいとした。
新共同民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。
NIV(All the people, even the tax collectors, when they heard Jesus' words, acknowledged that God's way was right, because they had been baptized by John.

7章30節 されどパリサイ(びと)教法師(けうほふし)らは、()のバプテスマを()けざりしにより、各自(おのおの)にかかはる(かみ)御旨(みむね)をこばみたり)[引照]

口語訳しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。)
塚本訳しかしパリサイ人と律法学者とは、彼から洗礼を受けることをせず、彼らをも救おうとされた(せっかくの)神の御心をないがしろにした。
前田訳しかしパリサイ人と律法学者は彼から洗礼を受けずに、彼らのためを思う神のお心を無にした。
新共同しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。
NIVBut the Pharisees and experts in the law rejected God's purpose for themselves, because they had not been baptized by John.)
註解: 次のごとくに私訳す。「凡ての民および取税人までも聞きてヨハネのバプテスマを受けて神を正しとしたれど、パリサイ人、教法師らはそのバプテスマを受けずして各自に対する神の御謀らいを拒みたり」。ヨハネの出現はイエスの前駆として、その準備を為さしめんとする神の企画によることであった。ヨハネは神のこの御旨に従いヨルダン河にてバプテスマを施した。このバプテスマを受けた民衆殊に一般に蔑視された取税人らは、神を義とし神の御図らいを信受したこととなり、反対にパリサイ人や教法師らは、バプテスマを受けなかったので、神がヨハネを遣して彼らを救う準備をなし給える御謀らいを拒否したこととなった。その結果またイエスをも拒んだのは当然のことであった。この思想が次節より35節までの理解に役立つ。

7章31節 さればわれ(いま)()(ひと)(なに)(なずら)へん。(かれ)らは(なに)()たるか。[引照]

口語訳だから今の時代の人々を何に比べようか。彼らは何に似ているか。
塚本訳だから、(気ままな)この時代の人々を何にたとえようか。彼らは何に似ているだろうか。
前田訳さて、この時代の人々を何にたとえようか。彼らは何に似ていようか。
新共同「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。
NIV"To what, then, can I compare the people of this generation? What are they like?

7章32節 (かれ)らは、(わらべ)市場(いちば)()し、たがひに()びて「われら(なんぢ)らの(ため)(ふえ)()きたれど、(なんぢ)(をど)らず。(なげ)きたれど、(なんぢ)()かざりき」と()ふに()たり。[引照]

口語訳それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。
塚本訳子供達が市場に坐って(嫁入りごっこや弔いごっこをしながら)、こう言って互に(相手の組と)呼びかわすのに似ている。──笛を吹いたのに、踊ってくれない。弔いの歌をうたったのに、泣いてくれない。
前田訳子どもが広場にすわって互いに呼びあうのに似る、『われらが笛を吹いたのにあなた方は踊らず、哀歌をうたったのにあなた方はなげかなかった』と。
新共同広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/泣いてくれなかった。』
NIVThey are like children sitting in the marketplace and calling out to each other: "`We played the flute for you, and you did not dance; we sang a dirge, and you did not cry.'
註解: 「たがひに」はマタ11:16のごとく「友を」の意味に取るべきであろう。童らの表顕する歓喜にも悲嘆にもその他の者は共鳴しない無感覚無理解である。この状態が今の代の人々の姿である。彼らはヨハネをも理解せずイエスをも理解しない。市の広場に演劇を行っている児童らに対する一般の無理解は、その演劇を破壊し落莫たる光景を呈する。
辞解
[たがひに] 童子らが互に叫ぶことの意味に取るのが自然であり、悲しむ者と躍るものとの間の無理解を示すごとくに見えるけれども、かく解すればイエスとヨハネとの間の無理解を意味することとなり、この世の譬としては不適当である。

7章33節 それはバプテスマのヨハネ(きた)りて、パンをも(くら)はず葡萄酒(ぶだうしゅ)をも()まねば、[引照]

口語訳なぜなら、バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
塚本訳なぜならあなた達は、洗礼者ヨハネが来てパンを食べず酒を飲まないと、『悪鬼につかれている』と言い、
前田訳なぜなら、あなた方は、洗礼者ヨハネが来て、パンを食べず、ぶどう酒を飲まないと、『悪霊につかれている』といい、
新共同洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
NIVFor John the Baptist came neither eating bread nor drinking wine, and you say, `He has a demon.'
註解: ヨハネは(いなご)と野蜜とを食とし(マタ3:4)葡萄酒も濃き酒をも用いなかった(ルカ1:15)、また衣にも住にも極めて禁慾的の生活を行っており常人とは甚だしく異なった生活をしていた。

惡鬼(あくき)()かれたる(もの)なり」と(なんぢ)()ひ、

註解: このヨハネの態度が世人の浮華軽跳(ふかけいちょう)を戒め悔改めしめんがためであることを知らずに世の人は彼を狂人扱いにしていた。

7章34節 (ひと)()きたりて飮食(のみくひ)すれば「()よ、(しょく)(むさぼ)り、(さけ)(この)(ひと)、また取税人(しゅぜいにん)罪人(つみびと)(とも)なり」と(なんぢ)()ふなり。[引照]

口語訳また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。
塚本訳人の子(わたし)が来て飲み食いすると、『そら、大飯食いだ、飲兵衛だ、税金取りと罪人の仲間だ』と言うのだから。
前田訳人の子が来て飲み食いすると、『大食漢、酒飲み、取税人、罪びとの友』という。
新共同人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
NIVThe Son of Man came eating and drinking, and you say, `Here is a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and "sinners."'
註解: イエスは罪の赦しを与うる歓喜の福音を宣伝うるために来り給うたので、禁慾生活は彼に相応しくなかった。それ故彼は自由に飲食し、また如何なる人とも(殊に一般に嫌われ(いやし)められている人と)交わったのであった。然るに世の人はこれを理解せず冷眼をもってイエスを批評し、彼を放恣無頼(ほうしぶらい)の徒のごとくに非難した。

7章35節 されど智慧(ちゑ)(おの)(すべ)ての()によりて(ただ)しとせら[る](れたり)』[引照]

口語訳しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。
塚本訳しかし(神の)知恵の正しいことは、(税金取り、罪人など、)その子供たちがみんなで証明した。」
前田訳しかし知恵の正しさはその子ら皆によって示される」と。
新共同しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」
NIVBut wisdom is proved right by all her children."
註解: 智慧は神というに同じ、智慧の子らは神の子らである。すなわちヨハネを受けイエスを信ずる者は智慧の子である。彼らは神を義とし、ヨハネの意義を認め、イエスが神の子救い主たることを信ずる。この世の人は神の御旨を拒んでいるのであるが彼らはこれを信じ受けてイエスに依り頼んだ。滔々(とうとう)たる不信の浪の中に(うか)ぶ者の中にも少数のものはかくして救われるのである。
辞解
[智慧] 旧約聖書においては智慧が神の本質であるとして取扱われている場合が多い。すなわち智慧とは神を抽象せる名称と考えられた。所謂「智慧文学」に属する部分には殊にこの傾向が強い。ここでも神という代りに「智慧」を用いたと見るべきである。またマタイ伝では「己が凡ての子」の代りに「己が霊」とあり自然意味は異なって来る。
要義 「躍らず泣かず」イエスが「今の代」と言い給うた時よりすでに千九百年余を経過したにもかかわらず、今日もまたその当時と同じくヨハネをもキリストをも受けない。世はその罪に泣かず、イエスの救いに躍らない。しかし今日もその当時と同じく少数の智慧の子たちがあり、神の御旨を受け、イエスを信じてイエスに来る。自己の罪に泣く者は、やがてイエスの贖いによって、喜び躍ることができるのである。

4-5-ロ パリサイ人と罪ある女 7:36 - 7:50  

註解: 本節以下50節までの記事とマタ26:6−13。マコ14:3−9。ヨハ12:1−8にある類似の記事との異同について附記を参照すべし。

7章36節 ここに(ある)パリサイ(びと)ともに(しょく)せん(こと)をイエスに()ひたれば、パリサイ(びと)(いへ)()りて、(せき)につき(たま)ふ。[引照]

口語訳あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
塚本訳(シモンという)ひとりのパリサイ人が一しょにお食事をと願ったので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
前田訳パリサイ人のひとりがごいっしょに食事をと彼に願ったので、そのパリサイ人の家に入って食卓につかれた。
新共同さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
NIVNow one of the Pharisees invited Jesus to have dinner with him, so he went to the Pharisee's house and reclined at the table.
註解: このパリサイ人の名はシモンであった(40、43、44)。彼は必ずしもイエスに信頼していなかったこと、むしろ批判的態度を彼に対して持っていたことは、39節から、および彼の徹底的にパリサイ主義的であることから想像し得る処であるが、彼がイエスを招いたのは彼にも幾分イエスを尊敬する心と、疑問の人物としてイエスの真相を把握したいとの考えがあったのであろう。イエスがこの程度の招待にも応じ給うたことは、彼の非宗派的精神を示す。そしてこれがこのパリサイ人に偉大なる教訓を与えようとして神が供え給うた機会であった。

7章37節 ()よ、この(まち)(つみ)ある一人(ひとり)(をんな)あり。[引照]

口語訳するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、
塚本訳すると、その町に一人の罪の女がいた。イエスがパリサイ人の家で食卓についておられることを知ると、香油のはいった石膏の壷を持ってきて、
前田訳そのとき、その町にひとりの罪の女がいた。イエスがパリサイ人の家で食事中と知って、香油の入った石膏の壺を持参し、
新共同この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
NIVWhen a woman who had lived a sinful life in that town learned that Jesus was eating at the Pharisee's house, she brought an alabaster jar of perfume,
註解: 原語「罪人なる一人の女」。これを姦淫の罪を犯せるまたは犯しつつある女と見る説があるけれども(Z0)多くの学者は売春婦として知られている女と解している(B1、M0、J0)。後者が適当である。

イエスのパリサイ(びと)(いへ)にて食事(しょくじ)(せき)にゐ(たま)ふを()り、(にほひ)(あぶら)()りたる石膏(せきかう)(つぼ)()ちきたり、

7章38節 ()きつつ御足(みあし)(ちか)(うしろ)にたち、(なみだ)にて御足(みあし)をうるほし、(かしら)(かみ)にて(これ)(ぬぐ)ひ、また御足(みあし)接吻(くちつけ)して(にほひ)(あぶら)()れり。[引照]

口語訳泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
塚本訳泣きながら後ろからイエスの足下に進み寄り、しばし涙で御足をぬらしていたが、やがて髪の毛でそれをふき、御足に接吻して香油を塗った。
前田訳泣きながらうしろからお足もとに寄り、まず涙でみ足をぬらし、やがて髪の毛でそれを拭い、み足に口づけして香油をぬった。
新共同後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
NIVand as she stood behind him at his feet weeping, she began to wet his feet with her tears. Then she wiped them with her hair, kissed them and poured perfume on them.
註解: この女はイエスのことについて聴き知っていたのであろう。そして何時かは彼の前に、その罪を懺悔告白したい願いに充たされていたのであろう。イエスがその町のパリサイ人シモンの家に入られたことを確めたので矢も盾もたまらず、冷眼視するシモン始め多くの客の前をすら(はばか)らず、イエスの後に泣いてその悔改めの心を表白し、その御足の上に涙を流し、これをその美しい髪の毛で拭い取り、さらにその御足に貴重な香油を塗り接吻しつづけて(これらの動詞は未完了過去)いた。何という美しい光景であろうか、彼女の砕けた心には、イエスがすでにその罪を赦し給うたことを直感し、感謝の心に溢れ、イエスを愛する心で一杯であった。心と心との感応である。なおZ0はこの女は以前からイエスを知り、イエスによって罪の赦しを得ていたものと解しているが不適当であり、その必要がない。
辞解
[後に立ち] 当時の風習としてはユダヤ人の食卓は高さの低い机で、食卓につく者は床に腰を下し、左の肱をその食卓に支え、両脚を斜め右に伸ばす習慣であった。この姿勢を考慮に入れるならば、女がその後に立ち(立つというよりむしろ(ひざまづ)いたのであろう)イエスの御足に対してその愛と感謝とを表示した姿を想像することができる。

7章39節 イエスを(まね)きたるパリサイ(びと)これを()て、(こころ)のうちに()ふ『この(ひと)もし預言者(よげんしゃ)ならば、()(もの)(たれ)如何(いか)なる(をんな)なるかを()らん、(かれ)罪人(つみびと)[なるに](なれば)』[引照]

口語訳イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。
塚本訳イエスを招待したパリサイ人が見て、ひそかに思った、「もしもこの人が(ほんとうの)預言者だったら、自分にさわっている者がだれだか、どんな女だか、──罪の女だと分るはずであるのに!」
前田訳彼を招いたパリサイ人がそれを見てひそかに思った、「もしこの人が預言者なら、自分にさわったものがだれか、どんな女か、すなわち罪の女とわかるだろう」と。
新共同イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
NIVWhen the Pharisee who had invited him saw this, he said to himself, "If this man were a prophet, he would know who is touching him and what kind of woman she is--that she is a sinner."
註解: このパリサイ人はルカ7:32−34節の場合のごとくイエスの御心とこの女の心とに対しても無感覚であった。自らを義と考えるので、罪と汚れとを蛇蝎(だかつ)のごとくに嫌い、罪人を冷眼をもって蔑視していた。他の人々もほぼこれと同一の態度に出ていたのであろう。そしてイエスが如何なる態度に出るかが、彼らのイエスを評価する標準であった。もしイエスがその女に対し顔を(しか)めて、これを叱りその足をもって蹴飛ばしたならばパリサイ人らはイエスを義人と考えたであろう。義人をもって任ずるキリスト者の中にも、かかる人々を見ることが少なくない。

7章40節 イエス(こた)へて()(たま)[引照]

口語訳そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。
塚本訳イエスが言われた、「シモン、あなたに言わねばならぬことがある。」彼が言う、「先生、言ってください。」イエスが言われる、
前田訳イエスがいわれた、「シモン、あなたにいうことがある」と。彼はいう、「先生、おっしゃってください」と。
新共同そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
NIVJesus answered him, "Simon, I have something to tell you." "Tell me, teacher," he said.
註解: イエスはシモンの心中を読み取り、これに答え給うた。

『シモン、(われ)なんぢに()ふことあり』シモンいふ『()よ、()ひたまへ』

註解: イエスは特にシモンの注意を促し給うた。

7章41節 (ある)債主(かしぬし)二人(ふたり)負債者(ふさいしゃ)ありて、一人(ひとり)はデナリ()(ひゃく)一人(ひとり)()(じふ)負債(おひめ)せしに、[引照]

口語訳イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。
塚本訳「ある金貸しに二人の債務者があった。一人は五百デナリ(二十五万円)、一人は五十デナリ(二万五千円)を借りていた。
前田訳「ある金貸しにふたりの借り手があった。ひとりは五百デナリ、ひとりは五十デナリを借りていた。
新共同イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
NIV"Two men owed money to a certain moneylender. One owed him five hundred denarii, and the other fifty.

7章42節 (つくの)ひかたなければ、債主(かしぬし)この二人(ふたり)(とも)(ゆる)せり。されば二人(ふたり)のうち債主(かしぬし)(あい)すること(いづれ)(おほ)き』[引照]

口語訳ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
塚本訳返すことができないので、金貸しは二人(の借金)をゆるしてやった。とすると、二人のうち、どちらが余計に金貸しを愛するだろうか。」
前田訳返すものがなかったのでふたりともゆるしてやった。そこで、ふたりのうちどちらが金貸しを多く愛するか」と。
新共同二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
NIVNeither of them had the money to pay him back, so he canceled the debts of both. Now which of them will love him more?"

7章43節 シモン(こた)へて()ふ『われ(おも)ふに、(おほ)(ゆる)されたる(もの)ならん』イエス()(たま)ふ『なんぢの判斷(はんだん)(あた)れり』[引照]

口語訳シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
塚本訳シモンが答えた、「余計にゆるしてもらった方だと思います。」イエスは「あなたの判断は正しい」と言って、
前田訳シモンが答えた、「多くゆるしてもらったほうと思います」と。彼はいわれた、「あなたの考えは正しい」と。
新共同シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
NIVSimon replied, "I suppose the one who had the bigger debt canceled." "You have judged correctly," Jesus said.
註解: イエスはシモンの心中の疑問を少しも取り上げず、かえってシモンの心中の罪を指摘し、その悔改むる心の無きことを責め給う。そのために二人の負債者の例をもって語り給うた。罪人たる女との比較の前提である。

7章44節 かくて(をんな)(かた)振向(ふりむ)きてシモンに()(たま)ふ『この(をんな)()るか。(われ)なんぢの(いへ)()りしに、なんぢは(われ)(あし)(みづ)(あた)へず、()(をんな)(なみだ)にて(われ)(あし)(ぬら)し、頭髮(かみのけ)にて(ぬぐ)へり。[引照]

口語訳それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
塚本訳女の方に振り向き、シモンに言われた、「この婦人を見たか。わたしがこの家に来たとき、あなたは足の水もくれないのに、この婦人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
前田訳そして女のほうに振り向いてシモンにいわれた、「この女の人が見えるか。わたしがあなたの家に来たとき、あなたは足洗いの水をくれなかったのに、彼女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
新共同そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
NIVThen he turned toward the woman and said to Simon, "Do you see this woman? I came into your house. You did not give me any water for my feet, but she wet my feet with her tears and wiped them with her hair.

7章45節 なんぢは(われ)接吻(くちつけ)せず、()(をんな)()()りし(とき)より、()(あし)接吻(くちつけ)して()まず。[引照]

口語訳あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
塚本訳あなたは接吻一つしてくれないのに、この婦人はわたしが(この家に)来たときから、わたしの足に接吻のしつづけである。
前田訳あなたは口づけしてくれなかったのに、彼女はわたしが来てからわたしの足に口づけしつづけた。
新共同あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
NIVYou did not give me a kiss, but this woman, from the time I entered, has not stopped kissing my feet.

7章46節 なんぢは()(かしら)(あぶら)()らず、()(をんな)()(あし)(にほひ)(あぶら)()れり。[引照]

口語訳あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
塚本訳あなたは(普通の)油をすら頭に塗ってくれないのに、この婦人は(高価な)香油を足に塗ってくれた。
前田訳あなたは頭に油をぬってもくれなかったのに、彼女は香油を足にぬってくれた。
新共同あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
NIVYou did not put oil on my head, but she has poured perfume on my feet.
註解: シモンと罪ある女との態度の差を対比してその心の差を明かにし給う。親しい客、または貴い客を接待する時は家に入る前にその家の家僕または時には妻が(たらい)に水を入れて客の足を洗うのが礼であった。また客を迎えてこれに接吻し、またはその頭に油を()ってその姿を端正にすることも行われた。シモンはその一つをも行わず、その女は極めて自然なる衝動から、これに類する凡てのことを行ったのであった。
辞解
[油] elaion は橄欖(オリーブ)の油で普通の比較的安価な油、「香油」 myron は外国産の高貴な香料を交えた貴高き品。

7章47節 この(ゆゑ)(われ)なんぢに()ぐ、この(をんな)(おほ)くの(つみ)(ゆる)されたり。その(あい)すること(おほい)なればなり。[引照]

口語訳それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
塚本訳だから、わたしは言う、この婦人の多くの罪は赦されている。(いま)多くわたしを愛したのがその証拠である。赦され方の少ない者は、愛し方も少ない。」
前田訳それゆえあなたにいう、彼女の多くの罪はゆるされている。多く愛したゆえにである。ゆるされることの少ないものは愛することも少ない」と。
新共同だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
NIVTherefore, I tell you, her many sins have been forgiven--for she loved much. But he who has been forgiven little loves little."
註解: 愛すること大なるが故に多くの罪が赦されたとの意味ではない。かく解する時は41、42節の譬話とも矛盾しまた次に来る句とも矛盾する。かく解することから種々の問題を起した。しかしこの一句の意味は「その女の多くの罪は赦されている。その証拠は、またはかく言い得る理由は、その愛することが大きいということである」と解するべきである(B1、M0、L2、Z0等)。すなわちその女の大なる愛は多くの罪の赦しの原因ではなく二者は即一的同時的事実である。この女の罪は如何にして何時赦されたか、それは女の心はその罪の悔改めのために泣きくずおれ、而してイエスの心から罪を赦す愛がその砕けし心の中に流れ込んだからである。以心伝心の罪の赦しであった。

(ゆる)さるる(こと)(すくな)(もの)は、その(あい)する(こと)もまた(すくな)し』

註解: シモンがイエスを愛することが少ないのはその罪が赦されたという経験を持たないからである。この一句において、明かに愛が罪の赦しと同時的となっていることに注意すべし。

7章48節 (つい)(をんな)()(たま)ふ『なんぢの(つみ)(ゆる)されたり』[引照]

口語訳そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
塚本訳そしてその女に言われた、「あなたの罪は赦されている。」
前田訳彼女にいわれた、「あなたの罪はゆるされている」と。
新共同そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
NIVThen Jesus said to her, "Your sins are forgiven."
註解: すでに赦していた事実の確認また宣言である。シモンおよび会衆に対する教訓もこの中に多分に含んでいた。

7章49節 同席(どうせき)(もの)ども(こころ)(うち)に『(つみ)をも(ゆる)()(ひと)(たれ)なるか』と()()づ。[引照]

口語訳すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。
塚本訳同席の者が(憤慨して)ひそかに考えた、「罪さえ赦す(という)この人はいったい何人だろう。」
前田訳同席のものはひそかに考えはじめた、「この人はだれだろう、罪をもゆるすとは」と。
新共同同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
NIVThe other guests began to say among themselves, "Who is this who even forgives sins?"
註解: 同席の者はイエスが神の子として地上に罪を赦す権威があることを知らなかった。

7章50節 ここにイエス(をんな)()(たま)ふ『なんぢの信仰(しんかう)なんぢを(すく)へり、(やす)らかに()け』[引照]

口語訳しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
塚本訳しかしイエスは女に言われた、「あなたの信仰があなたを救った。“さよなら、平安あれ。”」
前田訳彼は女にいわれた、「あなたの信仰があなたを救った。やすらかにお帰り」と。
新共同イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
NIVJesus said to the woman, "Your faith has saved you; go in peace."
註解: 女を救ったのはその愛の行為ではなく、イエスを救い主として全き信頼をささげたその信仰であった。この信仰から罪が赦されたとの確信が湧き出で、その喜びが転じてイエスを愛する大なる愛となり、また罪を赦され神に受納れられることによる心の平安となる。
辞解
[安らかに往け] 「平安の中に往け」とあり、平安の中に入りまたその中に在って去りゆけとの意味。
要義1 [信仰と罪の赦し]罪ある女が信仰によってその罪を赦され、救われるに至った径路は、純然たる主観であって、イエスの人格に対する絶対的信頼であった。そこに一片の神学的思索の影をも見ることができず、またイエスを神の子と信じたかどうかも判明せず、またその罪悪意識も罪の本質にまで深く掘り下げ、神に対する反逆の意識まで到達したものとも思われない。唯自己の過去の不倫汚穢の生活に耐えかねて、その罪を懺悔告白したのであった。イエスは愛をもってその罪を赦し給うたのである。しかしイエスは同時にこの女が神に対して果すべき凡ての負債を自己の上に負うて十字架につき給うたのであった。イエスが自由に罪の赦しを宣言し給うたのは、同時に自らその凡ての罪の責任を負い給うたからであった(ルカ8:48ルカ17:19ルカ18:42)。
要義2 [罪とその責任]罪は一面対人的行為(不孝・殺人・姦淫・虚偽・貪慾・窃盗等)であり、他面精神的行為(偶像礼拝・神名冒涜等)である。しかして対人的行為も神の律法に違反する意味において精神的行為とともに神に対する反逆をその基礎的罪と為しているものである。対人的罪過は人に対する懺悔によってその人より赦しを得るのであるが、相手に与えた各種の損害はこれを償わなければならない。然るに人に対する罪も結局神に対する罪であり、凡ての罪は要するに神に対する反逆の罪である以上、この反逆の罪の責任を何をもって果すことができるか。これは自己の死をもってするより外にない。そして神に対し、自己の罪の責任を果さない者は真に悔改めたものではない。従って凡ての人は自己の罪の責任を負うて死ななければならない。血を流すことなくば赦されることなし(ヘブ9:22)。然るにイエスは我らの凡ての罪を負い十字架上に贖いの血を流し給うた。彼によって悔改むる我らの罪過の責任は解除され、完全なる罪の赦しを得るに至ったのである。本章の罪ある女の赦しの背後にイエスの贖いがあることに注意しなければならない。
附記 イエスに油を抹った女の記事は四福音書に各々一回ずつ掲げられている。マタ26:6−13。マコ14:3−9。ヨハ12:1−8とルカ伝のこの記事とである。マタイとマルコとはほぼ同一であるが、ヨハネはやや異なりルカは甚だしく異なっている。唯共通の点は饗宴の主人がシモンという名の人であることと女子がイエスに油を塗ったことだけである。唯全体として類似の感じが多いので古来これを同一事実の三つの変奏曲であるとする説と、あるいは二つの事件または三つの事件、(はなは)だしきは四つの異なった事件と見る説がある。この中最も正しいと思われる説はルカ伝のみが別の事件で、他の三福音書の記事は同一事件を取扱っているとする説である。すなわち二つの事実があったと見るのである。この二つの間の差異は(1)時、(2)場所、(3)主人の性質、(4)物語の主眼、(5)周囲の反応等であって、これを同一の事件と見ることができない。他の三福音書の記事は一致点が多く、唯ヨハネ伝が幾分修正の目的で記されたことが認められるだけである。