黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1コリント

第1コリント第10章

分類
6 偶像に関する諸問題 8:1 - 11:1
6-3 イスラエルの歴史の実例 10:1 - 10:13
6-3-イ バプテスマと聖餐 10:1 - 10:4

註解: 前章に於てパウロは自己の例によつてコリントの信徒を戒め、次に本章1-11に於てイスラエルの歴史を例として彼らを戒めている。即ちイスラエルは神の選民であつた点に於て基督教会に類似しているけれども、彼らのあるものは此の神の恩恵に浴しつつも之を濫用して罪を犯したが為めに荒野に亡ぼされた、コリント人の信者も之を見て警戒しなければならぬ。

10章1節 兄弟(きゃうだい)よ、(われ)なんぢらが(これ)()らぬを(この)まず。(すなは)(われ)らの先祖(せんぞ)はみな(くも)(した)にあり、みな(うみ)をとほり、[引照]

口語訳兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
塚本訳それで、兄弟たち、このことを知らずにいてもらいたくない。すなわち、わたし達の先祖は皆(シナイの荒野で)雲の下におり、皆紅海を通り、
前田訳兄弟方、このことを知らずにはいないでください。われらの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
新共同兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、
NIVFor I do not want you to be ignorant of the fact, brothers, that our forefathers were all under the cloud and that they all passed through the sea.

10章2節 みな(くも)(うみ)とにてバプテスマを()けてモーセにつけり。[引照]

口語訳みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。
塚本訳皆雲の中で、また海の中で、洗礼を受けてモーセのものになった。
前田訳みな雲の中と海の中とでモーセへと洗礼されました。
新共同皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、
NIVThey were all baptized into Moses in the cloud and in the sea.
註解: 茲にパウロはイスラエルの出エジプトの事実が、基督信徒が世より救い出された事と同一の意義を有つ事をコリントの信徒が知らん事を欲した。即ちユダヤ人はエジプトを出づる際にみな(みなを五度繰返せるに注意せよ)残らず雲(も同じく水である)を以て示されし神の臨在の恩恵を受け(1節引照2)、紅海の水を通過し(1節引照3)、此の雲と水とによりてバプテスマを受けて、彼らの救主にして仲保なりしモーセに服属した。そして此の世を代表しているエジプトを棄てて約束のカナンの地へと旅立した。此の事は(あたか)も基督者が神の恩恵の導きによりて水にてバプテスマを受けてキリストに連り、此の世と其の欲とに死して(ガラ5:24)天国へ旅立をしているのと同様である。

10章3節 (しか)して(みな)おなじ[く](れい)なる食物(しょくもつ)(しょく)し、[引照]

口語訳また、みな同じ霊の食物を食べ、
塚本訳皆同じ天与の食べ物(マナ)を食べ、
前田訳みな同じ霊の食べ物を食べ、
新共同皆、同じ霊的な食物を食べ、
NIVThey all ate the same spiritual food

10章4節 みな(おな)じ[く](れい)なる飮物(のみもの)()めり。[引照]

口語訳みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
塚本訳また皆同じ天与の飲み物を飲んだ。すなわち、ついて来た天与の岩から(出る水を)飲んだのである。そしてこの岩こそ救世主であった。
前田訳みな同じ霊の飲み物を飲みました。彼らについて来た霊の岩から(の水を)飲んだのです。その岩はキリストでした。
新共同皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
NIVand drank the same spiritual drink; for they drank from the spiritual rock that accompanied them, and that rock was Christ.
註解: 前二節に於てバプテスマに就て述べ、此二節に於て聖餐に就て述べている。即ちイスラエルが荒野にて天よりのマナにて養われ、岩より流れ出づる水にて渇を免れたのは、生命のパンなるキリストの肉とキリストの血とを以てする聖餐(ヨハ6:48ヨハ6:53)と同一である事を示している。茲にパウロが「霊なる」食物「霊なる」飲物と云えるは、一は是等が奇蹟的に天より与えられし意味に於て霊的であり、一は是等がキリストの型である意味において霊的であるからである。
辞解
[同じく] 原語は「飲物」「食物」の形容詞であつて「同じ」と訳すべきである。

これ(かれ)らに(したが)ひし(れい)なる(いは)より()みたるなり、その(いは)(すなは)ちキリストなりき。

註解: 荒野に於けるマナと水は聖餐の場合と同じく、キリストが事実其処に在し給うた。凡ての被造物よりも前に在し給うキリスト(ヨハ8:58コロ1:15)は彼らに荒野に従い行き、彼らに水を与え給うた。即ち基督者が活ける水の源なるキリストに来りて霊の渇を医すと同一である(ヨハ7:38)。故にイスラエルの受けしマナ、水、岩は夫等自身神の霊の奇蹟的賜物であつたのみならず、又キリストにありて聖餐に与る教会を表示していて、パウロは此の節を(したた)めつつある間に、其の心はエジプトを出でしイスラエルと此の世を離れて旅立せる基督者との間に渾然たる一致を感じたのであろう。

6-3-ロ イスラエルの四つの罪 10:5 - 10:13

10章5節 ()れど(かれ)らのうち(おほ)くは(かみ)御意(みこころ)(かな)はず、荒野(あらの)にて(ほろぼ)されたり。[引照]

口語訳しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
塚本訳しかし、彼らの大部分の者は神の御心にかなわなかった。その証拠に、(カナンに入ることが出来ず、)“彼らは荒野でうち倒された”。
前田訳しかし彼らの多くは神のお気に召しませんでした。彼らの体は荒野で粉々にされたのです。
新共同しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。
NIVNevertheless, God was not pleased with most of them; their bodies were scattered over the desert.
註解: イスラエルは「みな」此の救いに与ったにも関わらずその「多くは」亡ぼされ(民14:16民14:29)て、唯カルブとヨシユアのみ約束の地に入ることが出来た(民14:30)。

10章6節 (これ)()のことは(われ)らの(かがみ)にして、(かれ)らが(むさぼ)りし(ごと)(あく)(むさぼ)らざらん(ため)なり。[引照]

口語訳これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
塚本訳しかしこれらのことは(ただ先祖たちを懲らしめられたというのではない。後の時代の)わたし達に対する実例になったのであり、悪いことに対し、あの人たちが“欲をおこした”ように、わたし達も“欲をおこす者”にならないためである。
前田訳このことはわれらの型になりました。それは、彼らがむさぼったようにわれらが悪をむさぼるものにならないためです。
新共同これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
NIVNow these things occurred as examples to keep us from setting our hearts on evil things as they did.
註解: 洗礼、聖餐に於て示される如くイスラエルと基督教会とかくも相類似しているとすれば、其の審判に於ても相類似している筈であつて、イスラエルが多く亡ぼされたのは我らに対する戒である。而して彼らの亡ぼされたのは次の四種の罪を犯したからであつた。
辞解
[貪る] 「心の熱求する処」を意味している。直訳「是等のことは彼らの熱求する如く、我ら悪の熱求者とならざらん為に我らの型となれり」。

10章7節 (かれ)らの(うち)(ある)(もの)(なら)ひて偶像(ぐうざう)(はい)する(もの)となるな、(すなは)ち『(たみ)()して飮食(のみくひ)()ちて(たはむ)』と(しる)されたり。[引照]

口語訳だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
塚本訳また、“民は坐って飲み食いし、立ち上がって戯れた”と(聖書に)書いてあるように、あなた達は彼らのうちのある者のように、偶像礼拝者になるな。
前田訳あなた方は彼らのあるもののように偶像礼拝者にならないでください。聖書に、「民はすわって食べまた飲み、立って踊った」とあります。
新共同彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。
NIVDo not be idolaters, as some of them were; as it is written: "The people sat down to eat and drink and got up to indulge in pagan revelry."
註解: 罪の第一は出32:1-6に記されし金の(こうし)の物語、即ち偶像崇拝と之に伴う宴楽舞踏を指している。アロンすら此罪に陥つたのであるから、基督教会もイスラエルと同じくかかる罪に陥らないとは限らない。14節以下は此の罪に対する教訓である。

10章8節 (また)かれらの(うち)(ある)(もの)(なら)ひて(われ)姦淫(かんいん)すべからず、姦淫(かんいん)(おこな)ひしもの一日(いちにち)二萬(にまん)(さん)(せん)(にん)()にたり。[引照]

口語訳また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
塚本訳また彼らのある者が不品行をして、一日に二万三千人も倒れたが、わたし達はそんな不品行をしないようにしよう。
前田訳また、彼らのあるものがしたように不品行をしますまい。彼らはそのため一日のうちに二万三千人倒れました。
新共同彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。
NIVWe should not commit sexual immorality, as some of them did--and in one day twenty-three thousand of them died.
註解: 罪の第二は民25:1-9の記事に関連しているのである。信仰の途には誘惑が多い、イスラエルも之がため淫行の罪を犯し、その為めに彼らは偶像崇拝にすら陥り神の罰を受けて亡ぼされた。此の二罪は互に相関連しているのであつて、偶像崇拝と共に姦淫の罪に陥りつつあつたコリントの信徒に対しパウロは又此の方面を再び戒むる事が必要であつた。
辞解
[我ら] 前節に「汝ら」とあり(日本訳には略す)此の節に「我ら」とあるは姦淫の罪は一般的警戒を要するからである。
[姦淫] 「淫行」と訳する方が良い。
[二万三千人] 民25:9に二万四千人とあり、此の差異を説明するのに種々の苦心が払われて居り数種の解釈があるけれども、モーセの場合もパウロの場合も大体の数を示したものと見るべきであろう。直訳「又彼らの中の或者が淫行を行いて一日に二万三千人死にしが如く我ら姦行を行うべからず」次の9・10節も同様の構造である。意味に差はない。

10章9節 また(かれ)()のうちの(ある)(もの)(なら)ひて(われ)(しゅ)(こころ)むべからず、(しゅ)(こころ)みしもの(へび)(ほろぼ)されたり、[引照]

口語訳また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
塚本訳また彼らのある者が主(の力)を試して蛇に殺されたが、わたし達はそんな主を試すことをしないようにしよう。
前田訳また、彼らのあるものがしたように主を試みますまい。彼らはそのため蛇に滅ぼされました。
新共同また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。
NIVWe should not test the Lord, as some of them did--and were killed by snakes.
註解: 凡てに於て神の導きに従うべき筈のイスラエルはカナンに行く途で困難に陥り神とモーセとに(そむ)(つぶや)いた。而も神果して彼等の(つぶやき)をききて彼らを助け給うや否やを試んとしたのである、夫故に彼らは蛇のために殺された。是が第三の罪であつた(民21:4-9)。コリントの信者の間にも、其の信仰の生涯に入りてより周囲の迫害のために、信仰の道に立つ事の困難を感じ偶像の宮で食しなどして而も尚神之を罰し給うや否やを試みている者があつた、かかる者は審判を受けることが当然である。

10章10節 (また)かれらの(うち)(ある)(もの)(なら)ひて(つぶや)くな、(つぶや)きしもの(ほろび)(もの)(ほろぼ)されたり。[引照]

口語訳また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
塚本訳また彼らのある者が不平を言って、滅ぼす者[刑罰の天使]に殺されたが、あなた達はそのような不平を言うな。
前田訳また、彼らのあるものがつぶやいたようにつぶやかないでください。彼らは殺しの使いに滅ぼされました。
新共同彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。
NIVAnd do not grumble, as some of them did--and were killed by the destroying angel.
註解: 第四にコラ、ダタン、アビラム等がモーセとアロンに向つて其の専制に対して(つぶや)き「亡す者」即ち天の使に殺された事があつた(民16:1-35)。コリントの教会に於ても亦パウロ其の他の人々の指揮に満足せず之に反抗して(つぶや)く者があつた。パウロは之を(いまし)めたのである。

10章11節 (かれ)らが()へる(これ)()のことは(かがみ)となれり、かつ(すゑ)()()へる(われ)らの訓戒(くんかい)のために(しる)されたり。[引照]

口語訳これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
塚本訳すなわちこれらのことは(後の時代の)あの人たちに実例として起こったのであって、わたし達への警告のために書いてあるのであり、そのわたし達は(いま)世の終りにぶつかっているのである。
前田訳これらが彼らにおこったのは型としてです。しかしそれが書かれたのはわれらの戒めのためです。われらに世の終わりが臨んでいるのです。
新共同これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
NIVThese things happened to them as examples and were written down as warnings for us, on whom the fulfillment of the ages has come.
註解: 以上数節の要約である。旧約時代の是らの出来事は型として起ったのであつて、世の末期即ち霊的メシヤの国が終りて将に栄光の国が、実現せんとしつつある時に遭遇せる我らの訓戒矯正のために録されたのである。旧約の歴史は凡て此の型としての意味を持っている。
辞解
[鑑] 「型」(タイプ)のこと。私訳「これらのことは型として彼らに起こり、代々の終末に遭える我らのために録されたり」

10章12節 さらば(みづか)()てりと(おも)(もの)(たふ)れぬやうに(こころ)せよ。[引照]

口語訳だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
塚本訳だから、りっぱに立っていると信じている者は、倒れないように気をつけよ。
前田訳それゆえ、立っていると思うものは倒れないよう気をつけなさい。
新共同だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
NIVSo, if you think you are standing firm, be careful that you don't fall!
註解: 知識に誇つていたコリントの信者に対する警戒である。立てりと「思う」とは立てる事に「誇る」心持を意味している、かかる誇りを持ったならばイスラエルと同じく倒れて罪に陥る危険がある。

10章13節 (なんぢ)らが()ひし試煉(こころみ)(ひと)(つね)ならぬはなし。(かみ)眞實(まこと)なれば、(なんぢ)らを[()(しの)ぶこと](あた)はぬほどの試煉(こころみ)()はせ(たま)はず。(なんぢ)らが試煉(こころみ)()(しの)ぶことを()んために(これ)(とも)(のが)るべき(みち)(そな)(たま)はん。[引照]

口語訳あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
塚本訳人間の力に余る試みが、あなた達をおそったことはないのである。神は誠実であられる。あなた達が耐えられない程に試みられることを、お許しにならない。試みに添えて、(かならず)逃げ道をもつくっておいてくださるので、それに耐え得るのである。
前田訳あなた方の出会った試みで、世間ありきたりでなかったものはありません。神は真実にいまします。神はあなた方が耐えうる以上に試みられることをお許しにならず、試みとともに、耐えうるよう逃げ道をお作りでしょう。
新共同あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
NIVNo temptation has seized you except what is common to man. And God is faithful; he will not let you be tempted beyond what you can bear. But when you are tempted, he will also provide a way out so that you can stand up under it.
註解: コリントには偶像、肉欲、患難、徒党等の罪に引入れんとする試誘(こころみ)試煉が多かつた、併し是らは皆人の耐え得る程度のものである。神は其の選び給うものを顧みざる如き不誠実な方では無い、故に試みはたとい一見耐え難い様に見えても、必ず(のがれ)るべき道が与えられるのである。コリントの信者を襲う是等多くの試みも之と同じく、例えば偶像崇拝の盛なる都市に於て是らに加わらない事は中々困難であろうけれども、是とて耐え忍び難い試みでは無い。神は必ず之と共に(のがれ)るべき道を与え給う。故に自ら立てりと思い、己の知識に従て行動する事によりて此の誘惑に陥らぬ様にしなければならない。
辞解
[試煉] パイラスモス peirasmos は此の場合「試み」と訳するを可とする、蓋しパイラスモスに二種あり、一は困難を与えて其の信仰を試煉せんとするもの、他は快楽を提供し又は困難より逃れしめんとして、彼を試誘(こころみ)せんとするものであつて、共にパイラスモスと称せられ、前者は神より出で(創22:1申13:3)後者は神の許容の範囲内に於て悪魔より出づるのである(マタ4:1-11。ヤコ1:13)時には此の二者を兼ぬるものがある(ヨブ1:6-12)。何れにしても皆「試み」であつて、本節の場合はイスラエルの四つの例が示せる如く、試煉をも試誘(こころみ)をも含むものと見るべきであろう。
[人の常] 原語アンスローピノス anthropinos は種々の意味に解せられている。(1)「人より出でしもの」即ち悪魔的ならざる試み、(2)「人の耐え得る程度の」試み(3)「人の常」なる試み等。
[耐え忍ぶこと能わぬほどの] 原語には「耐え忍ぶこと」なる主要動詞を略す、試煉ならば耐え忍び、試誘(こころみ)ならば之を拒むこと「能わぬほどの」試みを意味す。
要義1 [戒心すべき基督者の地位]基督者はエジプトを出でしイスラエルと同じく洗礼を受けて救に入り、聖餐に与って霊の食物を受けている者であるけれども彼らの行路は困難でありその途には種々の試みが横わっている。而して是は弱き信者には勿論のこと強き者に取っては一層警戒を要するのであって、若し彼ら此の誘いに陥ってしまうならば彼らは約束の地カナンに入る事が出来ず、途中で亡ぼされてしまうのである。我等は皆懼れ(おのの)きて己が救を全うしなけれぱならないのは是が為である。
要義2 [型(タイプ)に就て]旧約聖書の歴史的事実は之を二方面より観察すべきものであって、一は之を歴史的事実と見て其の中より教訓を取る事が出来、他は之をやがて実現せらるべき象 Antitupon=antitipe の型 Tupos=type と見る事が出来る。パウロは勿論ペテロも(Tペテ3:21)、ヨハネも(ヨハ3:14)旧約を此第二の意味に於て観察する場合が多かった。蓋し神の御業はキリストと其の教会に集中せられているのであって、神はイスラエルの歴史の種々の姿に於て此キリストを中心とせる諸事実を示し給えるものである。かく解する事によって旧約聖書の多くの事実が活ける福音と変化するに至るのである。左に二三の例を挙ぐれば、第一の人アダムは第二の人キリストの型(創1:28ロマ5:14以下、Tコリ15:20以下、Tコリ15:45以下)、エバはアダムの妻としてキリストの花嫁なる教会の型(エペ4:16エペ5:30)。カインとアベルは性来(うまれつき)の人と信仰の人との型(ヘブ11:4ヘブ11:17-19)。エジプトはサタンが人を束縛しつつある此の世の型(黙11:8)。マナは真の糧なるキリストの型。泉は聖霊の型(ヨハ4:14)。其他ノアの洪水は審判の型、その方舟はキリストの型。出埃及記全体は基督の十字架より基督者の救と信仰の旅路の型。レビ記の祭祀、幕屋等もキリストの犠牲の死と之に対する礼拝及救の家なる教会の型と見られているが如き其の著しき例である。若し自然界の山川草木等の森羅万象すら霊界の消息の一端を示すものであるならば、神の選民の歴史は神の救の途の型である事に別に不思議は無い、近来此の解釈法を軽視する傾向があるのは浅薄なる歴史観より来るのである。唯此の種の解釈をあまりに用い過ぎる事は戒むべき事である。

6-4 以上の原則及実例の応用 10:14 - 10:33
6-4-イ 偶像崇拝をさけよ 10:14 - 10:22

10章14節 さらば()(あい)する(もの)よ、偶像(ぐうざう)(はい)することを()けよ。[引照]

口語訳それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
塚本訳それゆえに、わたしの愛する者たちよ(主題にもどろう)、偶像礼拝から逃げよ。
前田訳それゆえ、親愛な方々、偶像礼拝をお逃げなさい。
新共同わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
NIVTherefore, my dear friends, flee from idolatry.
註解: [さらば」即ちイスラエルすら其の罪のために亡ぼされたのであるから、汝らも亦偶像崇拝を避けなければならぬ。
辞解
[避けよ] Tコリ6:18と異り apo アポなる前置詞を用い「遙に遠ざかれ」との意味を示している。

10章15節 われ(さと)(もの)()ふごとく()はん、()()ふところを判斷(はんだん)せよ。[引照]

口語訳賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。
塚本訳賢い者とみて(あなた達に)語る、わたしの言うことをあなた達自身で判断してもらいたい。
前田訳あなた方を分別ある人として申します。ご自身でわたしのいうことを判断してください。
新共同わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。
NIVI speak to sensible people; judge for yourselves what I say.
註解: パウロはコリント人の判断に委ね、自己の意見を彼らに強制せんとしない。而してコリント人は己の智慧に誇つていたから、パウロは彼らの自称の智慧を利用して彼らをして判断せしめんとしているのである。

10章16節 (われ)らが(いは)ふところの(いはひ)酒杯(さかづき)は、これキリストの()(あづか)るにあらずや。(われ)らが()(ところ)のパンは、これキリストの(からだ)(あづか)るにあらずや。[引照]

口語訳わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
塚本訳(主の晩餐の時、)わたし達が(神を)讃美する讃美の杯(にあずかること)は、救世主の血の交わりに入ることではないか。わたし達が裂くパン(にあずかること)は、救世主の体の交わりに入ることではないか。
前田訳われらが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。われらが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。
新共同わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
NIVIs not the cup of thanksgiving for which we give thanks a participation in the blood of Christ? And is not the bread that we break a participation in the body of Christ?
註解: パウロは先づ偶像の宮に於ける祝宴に(あずか)る事の偶像崇拝なる事を説明せんとして、聖餐を其の例に取つている。即ち聖餐に於ける酒杯とパンは、単なる葡萄酒又はパンではなく、之によりて我らがキリストの贖罪の血及び其の復活し現在し給う体との交りに入り、我らの罪はキリストの血即ち十字架の死によりて赦されキリストの死と復活の身体に連結し、彼我らの中に宿り給い、我らも亦彼の中にいる事を意味している。偶像にささげし食物に(あずか)るのも之と同意義であつて涜神的行為となるのは当然である。
辞解
[祝う] 此の場合は此の酒杯を祝福して特別の意味を有つものとして用うることを意味している。(C1)
[(あずか)る] koinônia 即ち「交り」(Tヨハ1:3)であつて一体となる事を意味す。

10章17節 パンは(ひと)つなれば、(おほ)くの(われ)らも一體(いったい)なり、(みな)ともに(ひと)つのパンに(あづか)るに()る。[引照]

口語訳パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。
塚本訳というのは、パンがただ一つだから、わたし達は大勢であるが、ただ一つの体になるのである。わたし達全体がそのただ一つのパンに共にあずかるからである。
前田訳われらは大勢ですがひとつのパン、ひとつの体です。それは、われらは皆ひとつのパンにあずかるからです。
新共同パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
NIVBecause there is one loaf, we, who are many, are one body, for we all partake of the one loaf.
註解: 聖餐に於ては凡ての信者が一ツのパンを割いていた。是れ彼らがキリストの体に(あずか)ると同時に又信者一同が一体たることを示すものである。而して此の体は教会である。

10章18節 (にく)によるイスラエルを()よ、供物(そなへもの)(くら)(もの)祭壇(さいだん)(あづか)るにあらずや。[引照]

口語訳肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。
塚本訳(霊のイスラエルであるキリストの集会ではこのとおり。今度は)肉のイスラエル(であるユダヤ人の掟)を考えてみよ。(祭壇に供えた)犠牲を食べる者は、祭壇に関係する仲間(だけ)ではないか。
前田訳肉によるイスラエルをごらんなさい。いけにえを食べるものは祭壇を共にするではありませんか。
新共同肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。
NIVConsider the people of Israel: Do not those who eat the sacrifices participate in the altar?
註解: パウロは基督教会の例に次ぐに第二にイスラエルの例を以てし、犠牲を献ぐる事はその献げられる目的物との間に一体の関係を生ずる事を証明している。「肉による」イスラエルは霊のイスラエル(ロマ2:28、29。ガラ3:7ガラ3:29ガラ6:16)なる教会と区別する意味にてユダヤ人を意味し、彼らが祭壇に供えし犠牲を食するはその祭壇と一体の関係に入り、イスラエル人たるの関係に入るのである。茲に「祭壇」と云いて「エホバ」と云わない理由は之が「エホバに(あずか)る」又は「エホバの交りに入る」と云う程内面的関係では無く、イスラエルの民籍は祭壇を中心とせる外面的関係であつたからである。

10章19節 さらば()()ふところは(なに)ぞ、偶像(ぐうざう)供物(そなへもの)はあるものと()ふか、また、偶像(ぐうざう)はあるものと()ふか。[引照]

口語訳すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
塚本訳では、いったい何をわたしは言っているのか。(晩餐や犠牲の場合と同じように、)偶像に供えた肉が何か(本当の供え物)で(でも)あるというのか。あるいは、偶像が何か(本当の神)で(でも)あるというのか。
前田訳さて何をいいましょう。偶像への供え物が何でしょう。偶像が何でしょう。
新共同わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。
NIVDo I mean then that a sacrifice offered to an idol is anything, or that an idol is anything?
註解: 茲にパウロは始めて偶像の問題に立入り、読者が心中に「パウロは(さき)Tコリ8:4-6に於て偶像はなきものなりと言いし事と矛盾する如き事を言う」と感じたるならんと忖度して、先づ此の疑問を呈出し、其の答として「偶像の供物は普通の肉であり偶像は普通の木石である」との返答を含ましめている。
辞解
[あるものと言うか] 寧ろ「何等か特別のものであるか言うか」との意味であつて、有無よりも其の存在の価値について言つている。事実偶像は沢山に存していた。

10章20節 (いな)(われ)()ふ、異邦人(いはうじん)(そな)ふる(もの)(かみ)(そな)ふるにあらず、惡鬼(あくき)(そな)ふるなりと。(われ)なんぢらが惡鬼(あくき)(まじわ)るを(ほっ)せず。[引照]

口語訳そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。
塚本訳そうではない。(聖書にあるように、異教の)人々が犠牲を捧げるのは、“悪鬼にであり神でないものに捧げている”、というのである。あなた達には悪鬼の仲間になってもらいたくない。
前田訳人々が供えるものは悪霊にで、神に供えるのではありません。わたしはあなた方が悪霊どもと交わるものになるのを欲しません。
新共同いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。
NIVNo, but the sacrifices of pagans are offered to demons, not to God, and I do not want you to be participants with demons.
註解: 偶像は何物でも無い、併し乍らサタン即ち悪鬼は厳然として存在している。吼ゆる獅子の如く常に人の霊を呑み滅ぼさんとし如何にもして、人をして真の神以外のものを拝せしめんと狙つている。故に異邦人がかれらの神に供うるは木石にて造れる偶像に供うるが如くに見えるけれども、実は然らずして其の背後にある悪鬼に供えているのである。故に悪鬼に供えしものを食し、其の祭典の祝宴に加わる事は悪鬼との交りに入る事である。パウロが其の愛する兄弟等(Tコリ10:14)が悪鬼との交りに入る事を欲しないのは当然である。
辞解
[交る] 前数節に「(あずか)る」と訳せられし語と同一である。茲にも「悪鬼に(あずか)る」と訳するか又は凡てを「交る」と訳すべきであろう。
[悪鬼] 原語ダイモニオン daimonion はギリシヤ語にて「神」又は「天使的存在」を指す、新約聖書にては神以外の霊力を指し従つて「悪鬼」と訳せられている。原語には「悪」の意味なく「鬼神」と訳して最も原意に近いであろう。(申32:17には「鬼」と訳している[新共同訳では悪霊])。

10章21節 なんぢら(しゅ)酒杯(さかづき)惡鬼(あくき)酒杯(さかづき)とを()()むこと(あた)はず。(しゅ)食卓(しょくたく)惡鬼(あくき)食卓(しょくたく)とに()(あづか)ること(あた)はず。[引照]

口語訳主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。
塚本訳あなた達は主の(晩餐の)杯と悪鬼の杯とを飲むということは出来ない。“主の(晩餐の)食卓”にも悪鬼の食卓にもあずかるということは出来ない。
前田訳あなた方は主の杯と悪霊の杯とを同時には飲めません。主の食卓と悪霊の食卓とに同時にあずかりえません。
新共同主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。
NIVYou cannot drink the cup of the Lord and the cup of demons too; you cannot have a part in both the Lord's table and the table of demons.
註解: パウロは茲に基督教の聖餐とギリシヤの神殿に行われる神酒及び偶像に供えし肉とを対比し、若し主の酒杯と食卓に(あずか)る事がキリストとの交りに入り彼と一体となる事であるならば、同様にギリシヤの神々の酒杯と食卓に(あずか)る事は其の行為の真の内容である悪魔との交りに入り彼と一体となる事であつて、人は真面目に此の双方を兼ね行う事が出来ない筈である。(もし不真面目に之を行うとするならば、その行為それ自身が罪となること当然である)。故に人は二人の主に事うる事能わず、二人の妻又は夫を有つ事は姦淫であると同じく此の行為も亦姦淫的行為である(エレ3:6-10。エゼ23章)。

10章22節 われら(しゅ)(ねたみ)惹起(ひきおこ)さんとするか、(われ)らは(しゅ)よりも(つよ)(もの)ならんや。[引照]

口語訳それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。
塚本訳それとも、“わたし達は(悪鬼にも仕えて)、主を怒らせようとする”のか。わたし達は主よりも力があるとでもいうのか。
前田訳それともわれらは主の妬みをおこそうとするのですか。われらは彼より強いのですか。
新共同それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。
NIVAre we trying to arouse the Lord's jealousy? Are we stronger than he?
註解: 神は(ねた)む神である(申5:9)。同様に若し我らが悪鬼に事えるならば、キリストは(ねたみ)を起して我らを罰し給う事(あたか)も神がイスラエルを罰し給える如くであろう。嫉妬は、敵に対する怒よりも更に強い感情である。而も主は我らより強く在せば我ら之を避ける力が無い。コリントの信者の中強き者は巳に此の行為を為していた事が分る。
要義1 [偶像崇拝の儀式に参加する事]パウロはTコリ8:10及びTコリ10:20-22の理由より偶像崇拝を避くべき事をコリントの信徒にすすめた。我らも亦日本に於て同様の立場より此の問題を判断するこ事が出来る。殊に多く問題となり得るものは日本の神社であって、神社が英雄又は祖先の記念碑であり、之に対し英雄として又は祖先、恩人等として敬意を表する場合に於て我ら悪鬼に事えているのでは無いけれども、護符(ごふ)神楽(かぐら)加持(かじ)祈祷に類する行為を為す場合には、既に英雄又は祖先の霊にあらざる鬼神に事うる事となるのである。故にかかる儀式に加わる事は偶像崇拝であるから之を避けなければならない。
要義2 [神の嫉妬に就て]申5:9に「我エホバ汝の神は(ねた)む神なれば」とあり、嫉妬の心の恥づべきものなる事を考うる我らに取って、神に此の性質を帰せしむる事はエホバは人間の弱点をも具有する神の如くに思わしめられるのである。併し乍ら嫉妬と羨望とは異り、己の愛するものにて又己も当然愛せらるべきものが己を愛せずして他を愛する場合に起る感情が嫉妬であって、正当にして潔い心である、此の心は愛が深きに従って益々強くなる事は当然である。羨望は己に属せざるものを己のものとせんとする際に起る感情であって不当の心である、此の二つを混同してはならない。

6-4-ロ 偶像にささげし食物に就て 10:23 - 10:33

10章23節 一切(すべて)のもの()からざるなし、()れど一切(すべて)のもの(えき)あるにあらず、一切(すべて)のもの()からざるなし、されど、一切(すべて)のもの(とく)()つるにあらず。[引照]

口語訳すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。
塚本訳(前にも言ったが、)「万事は自由である」、しかし万事が有益ではない。「万事は自由である」、しかし万事が(人を)高めるのではない。
前田訳すべてが許されていますが、すべてが役立つわけではありません。すべてが許されていますが、すべてが建設するのではありません。
新共同「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。
NIV"Everything is permissible"--but not everything is beneficial. "Everything is permissible"--but not everything is constructive.
註解: 偶像崇拝の問題を論じ終つてパウロは更に偶像に供えし肉に就て具体的の注意を与えている。彼は先づTコリ6:12に一度掲げし句を繰返してコリントの信徒が常に自己の行動を弁護するに用いし此の句が無條件に適用せらるべきでは無く、有害な場合、徳を建てない場合(Tコリ8:1註)には之を用いてはならない事を注意している。

10章24節 [各人(おのおの)]おのが(えき)(もと)むることなく、(ひと)(えき)(もと)めよ。[引照]

口語訳だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。
塚本訳だれも自分自身のことを求めず、他の人のことを求めよ。
前田訳だれも自らの益をでなく、他人の益を求めなさい。
新共同だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
NIVNobody should seek his own good, but the good of others.
註解: 一切のもの()からざるはないけれども、人の益を求むる場合に之が徳を建て人の霊性の進歩に貢献するのである。此の一節は一般的道徳律であつて、之を実際問題に応用すれば次の数節となる。

10章25節 すべて市場(いちば)にて()(もの)は、良心(りゃうしん)のために(なに)をも()はずして(しょく)せよ。[引照]

口語訳すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。
塚本訳(それで、)肉市場で売っているものはなんでも、良心のために何も詮議をせずに食べなさい。
前田訳市場で売られるものは、何も良心の問題とせずにお食べなさい。
新共同市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
NIVEat anything sold in the meat market without raising questions of conscience,

10章26節 そは()(これ)滿()つる(もの)とは(しゅ)(もの)なればなり。[引照]

口語訳地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。
塚本訳“地とそれに満ちているものとは主のもので、(すべて聖で)ある”からである。
前田訳「地とそれに満ちるものとは主のもの」だからです。
新共同「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
NIVfor, "The earth is the Lord's, and everything in it."
註解: 第一には偶像に供えし肉を買いて自宅にて食する場合、かかる場合には己の良心のために果して此の肉は如何なる肉であらうかと問う必要はない(「良心が咎めると悪いから(わざ)と問はないで」と解する人があるけれども適当でない、又良心を「他人の良心」と解するのも当らない)。何れでも少しも差支が無い、何となれば天地万物は主の物で偶像に属する物は無いからである。此の詩(引照)の引用によりパウロはコリントの弱き信者を強めんとしている。

10章27節 もし()信者(しんじゃ)(まね)かれて()かんとせば、(すべ)(なんぢ)らの(まへ)()(もの)を、良心(りゃうしん)のために(なに)をも()はずして(しょく)せよ。[引照]

口語訳もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。
塚本訳あなた達がある不信者に招待されて、行こうと思うなら、出されるものはなんでも、良心のために何も詮議をせずに食べなさい。
前田訳もし信者でない人に招かれて、あなたが行きたいと思えば、出されるものをみな良心の問題とせずにお食べなさい。
新共同あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
NIVIf some unbeliever invites you to a meal and you want to go, eat whatever is put before you without raising questions of conscience.
註解: 第二には不信者の家庭に招かれし場合である。パウロは此の招きに応ずる事を禁じはしなかつた、人間の社会的関係を破壊する事は重大なる事柄であるからである。そして原則としては26節と同じく何等良心の問題たらしめずに凡ての物を食すべきである。但し是には次の例外に注意しなければならぬ。

10章28節 (ひと)もし(これ)犧牲(いけにへ)にせし(にく)なりと()はば、()げし(もの)のため、また良心(りゃうしん)のために(しょく)すな。[引照]

口語訳しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。
塚本訳ただもし「これは供えた肉です」と言う人があったら、知らせたその人と良心とのために、食べるな。
前田訳もしだれかが、「これは供え物の肉です」というならば、それを知らせた人と良心とのために食べないでください。
新共同しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
NIVBut if anyone says to you, "This has been offered in sacrifice," then do not eat it, both for the sake of the man who told you and for conscience' sake --
註解: 即ち客の中の一人、而も弱き信仰の基督者がTコリ8:7にある如き信仰を持ち「是は偶像に献げし肉であるから気を付けなさい」と注意を与える如き場合には、其人のため、其の人の良心のために之を食つてはならない。何となればそれにも関わらずに之を食するか又は彼と議論する如き場合には、彼の弱い信仰を躓かせる恐があるからである。
辞解
[人] 「誰かが」にして従て主人にあらず客の一人である。但し異教徒ではない(異教徒がかく告ぐるならば却て之を食して偶像が無いものである事を示すべきである)。故に29、30節より見て信仰の弱い基督者と見るべきである。

10章29節 良心(りゃうしん)とは(なんぢ)良心(りゃうしん)にあらず、かの(ひと)良心(りゃうしん)()ふなり。(なに)ぞわが自由(じいう)(ほか)(ひと)良心(りゃうしん)によりて(さば)かるる(こと)をせん。[引照]

口語訳良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。
塚本訳良心と言うのは、あなた自身のでなく、(信仰の弱い)他の人の良心のことである。いったいなんでわたしの自由が、ほかの人の良心のことで裁かれることがあろう、
前田訳良心とわたしがいうのは、あなた自身のでなく、その人のです。なぜわが自由が他の人の良心によって裁かれるのでしょうか。
新共同わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。
NIVthe other man's conscience, I mean, not yours. For why should my freedom be judged by another's conscience?
註解: 即ち弱き信者の良心に対する遠慮より之を食せず、他人の益を思いて自己の行為を制限したに過ぎないのであつて他人の良心によりて自己の良心が審かれたのではない。自分の良心は相変らず之を食う事の自由を認めているのである。自己の良心の独立は絶対である。故に同一の問題につき基督者の中に異れる解釈を有ち、而も(おのおの)が独立に其の良心に従う自由を有つ事をパウロは認めている。(カトリツク教徒の如く法王をして人の良心と自由を束縛せしめない)。

10章30節 もし感謝(かんしゃ)して(しょく)する(こと)をせば、(なに)ぞわが感謝(かんしゃ)する(ところ)のものに()きて(そし)らるる(こと)をせん。[引照]

口語訳もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。
塚本訳もしわたしが感謝を捧げてそれにあずかるなら、わたしが感謝するもののゆえにどうして非難されることがあろう。
前田訳もしわたしが感謝をもって食卓にあずかるならば、感謝するものについて、どうしてそしられるのですか。
新共同わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
NIVIf I take part in the meal with thankfulness, why am I denounced because of something I thank God for?
註解: 前節の続きで食事の際感謝して食事する以上、其の飲物は神の恩恵により己に与えられしものである、之を他人がその良心によつて(そし)つても、そのために心を傷むべきでは無い。

10章31節 さらば(くら)ふにも()むにも何事(なにごと)をなすにも、(すべ)(かみ)榮光(えいくわう)(あらは)すやうにせよ。[引照]

口語訳だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。
塚本訳とにかく、あなた達は食べるにも、飲むにも、何かほかのことをするにも、何事も神に栄光を帰するためにせよ。
前田訳あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。
新共同だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
NIVSo whether you eat or drink or whatever you do, do it all for the glory of God.
註解: これかかる問題を解決する積極的原則であつて、他人の良心のためを思う場合にも又自己の自由を放棄する場合にも凡て自己の利害、主義主張の如何よりも神の栄光を顕わし、神の御名が異教徒の中に崇められ、神の愛と義の何たるかが明かにされる様にしなければならない。

10章32節 ユダヤ(びと)にもギリシヤ(びと)にも、また、(かみ)教會(けうくわい)にも躓物(つまづき)となるな。[引照]

口語訳ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。
塚本訳ユダヤ人にも異教人にも神の集会にも、つまずきになるな。
前田訳ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の集会(エクレシア)にも、つまずきにならないでください。
新共同ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
NIVDo not cause anyone to stumble, whether Jews, Greeks or the church of God--
註解: これ前節の積極的原則に対する消極的原則である。即ち単に弱い基督者のみならず、不信者にもユダヤ人にも(要するに人類全体に)躓きを置かない事が大切であつて、パウロがTコリ9:19-23に掲げし態度も正にれであつた。

10章33節 (われ)(すべ)ての(こと)(すべ)ての(ひと)(こころ)(かな)ふやうに(つと)め、人々(ひとびと)(すく)はれんために、(おのれ)(えき)(もと)めずして(おほ)くの(ひと)(えき)(もと)むるなり。[引照]

口語訳わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。
塚本訳わたしも、何事においても何人をも喜ばせて、わたし自身の利益を求めず、多くの人が救われるようにとその人達の利益を求めているではないか。
前田訳わたしもすべての人に万事気に入ろうとし、自分のでなくて多くの人々の益を求めて、彼らが救われるようにしています。
新共同わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。
NIVeven as I try to please everybody in every way. For I am not seeking my own good but the good of many, so that they may be saved.
註解: 我らの(つと)むべきは己の知識をそのままに実施する事でもなく、又我らの自由を(ほしいまま)に用うる事でもなく、凡ての人を救わんが為めに、其の心を害せず、其の益を求めなければならない。基督者が其の不注意の為に不信者より嫌悪される如き態度調子をなす事はパウロの此の態度に違反せる過ちである。注意しなければならない(第11章1節は此の節と連絡しているのであつて寧ろ第10章に属すべきものである)。
要義 [偶像問題に対するパウロの態度の要約]第8、9、10の三章に於てパウロの論ぜし偶像問題は、問題として現在の日本に於ける状態と多くの類似を有っているので参考となり得る事は勿論であるけれども、それよりも遙かに重要なる事は、パウロが此の問題の解決に際して驚くべき信仰と智慧と活眼とを具備していて、而して此の凡てを()ぶるに大なる愛を以てした点である。此の意味に於てパウロの解決法は永遠に変らない根本原則である。而して其の根本原則は(ほぼ)次の数点に集中している。
(1)智識は人を誇らしめ愛は徳を建つる事
(2)偶像はなきものなれど悪鬼は実在し、偶像に供うる物は実は悪鬼に供えられるものなる事
(3)自己の良心は他人の良心により審かれざる事
(4)凡てに於て神の栄光を顕すべき事
(5)凡ての人に躓物とならぬ様にする事
(6)凡ての人の救われん事を求むる事
パウロが以上の根本原則のみを示して何等千変一律の具体的律法を与えなかった事は、彼の信仰より出づる知慧である。又彼が同じ基督者の中にも同一事実につきて種々の解釈があり得る事を認め、而して其の各々に自由を認め各々神より受納れられる事を断言せる事は、彼の信仰がパリサイ的偽善にあらざる事を示している。而して此の自由を愛の為めに放棄する事をすすめし点に彼の至高の動機を見る事が出来る。然のみならず彼は事実に対して盲目では無く、コリント信者が偶像は無きものなりと云うに対して、悪鬼の存在を示し偶像崇拝を避けしめし如き如何に彼の眼光の鋭かったかが解る。斯く一方鬼神の存在に対して敏感であったのみならず他方人間の風俗習慣、感情思想にも充分の理解を有ち、己と信仰を共にせざる異数徒にも、又己と意見を同じくせざる弱き信者にも躓物とならざらん事を薦めし点を見ても、一方パウロが大胆にサタンに向って戦う勇者であると共に、他方彼は極めて柔和にして同情深く常識に富める人間であった事を知る事が出来る。今日の我らも是等の原則に従って行うならば、最も正しく種々の問題、殊に偶像に対する問題を解決する事が出来るであろう。

第1コリント第11章

分類
7 集会礼拝に関する諸問題 11:1 - 14:40

註解: パウロは更に転じてコリントの信徒の礼拝集会に於ける二三の悪習につき注意を与えなければならなかつた。本章に於ける婦人の被物と聖餐の問題、12-14章に於ける霊の賜物の問題是である。

11章1節 ()がキリストに(なら)(もの)なる(ごと)く、なんぢら(われ)(なら)(もの)となれ。[引照]

口語訳わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。
塚本訳わたしがキリストのまねをする者であるのと同じに、わたしのまねをする者になってもらいたい。
前田訳わたしがキリストにならうように、あなた方もわたしにならうものになってください。
新共同わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
NIVFollow my example, as I follow the example of Christ.
註解: 此の一節は恐らく前章に入るべかりしものであろう。即ち偶像問題につき彼らをしてパウロ自身の態度にならわしめんとしたのである。而してパウロはキリストに(なら)う者である結果パウロに(なら)う者は結局キリストに(なら)う事となるのである(ロマ15:3)。

7-1 婦人の被物の問題 11:2 - 11:16

11章2節 (なんぢ)らは(すべ)ての(こと)につきて(われ)(おぼ)え、(かつ)わが(つた)へし(ところ)をそのまま(まも)るに()りて、(われ)なんぢらを()む。[引照]

口語訳あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、わたしは満足に思う。
塚本訳わたしはあなた達を褒める。何事にもわたしを忘れず、わたしが伝えたとおりに、言伝えをしっかり守っているからである。
前田訳わたしはおほめします。あなた方は何につけてもわたしを思い出して、わたしがお伝えしたとおりいい伝えを守っておいでです。
新共同あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
NIVI praise you for remembering me in everything and for holding to the teachings, just as I passed them on to you.
註解: 先づパウロはコリントの信者の誉むべき点を掲げて、彼らをして次の非難を受くる場合に絶望に陥る事無く、却て容易に奮起するを得しめんとしているのであつて、愛を以て人を教うる者の尊き心持である。

7-1-イ 霊界の秩序より 11:3 - 11:6

11章3節 されど(われ)なんぢらが(これ)()らんことを(ねが)ふ。(すべ)ての(をとこ)(かしら)はキリストなり、(をんな)(かしら)(をとこ)なり、キリストの(かしら)(かみ)なり。[引照]

口語訳しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。
塚本訳それで、(意見を求められた女のベールの問題であるが、)あなた達にこのことを知ってもらいたい。──すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、キリストの頭は神である。
前田訳それで知っていただきたいのは、すべての男の頭はキリストで、女の頭は男で、キリストの頭は神であることです。
新共同ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
NIVNow I want you to realize that the head of every man is Christ, and the head of the woman is man, and the head of Christ is God.
註解: 今叙べんとする大切なる真理を知らない事は、知識に富めるコリントの信者としては望ましからざる事である。故にパウロは三方面よりその真理を説明せんとしているのであつて、第一は霊界の秩序を以て之を証明し(3-6節)第二は男女の創造の意義によつて之を証明し(7-12)第三に自然の感覚に訴えて之を説いている(13-16)。即ち地上生活には秩序があるのであつて婚姻により妻は夫を頭として戴き、信仰により男はキリストを頭として之に連り、キリストと神との間には親子の関係が成立っていて神を頭として之に従い給うのであつて、地上生活の諸相は各天上生活の諸相の縮写である。此の天上の関係を地上に実現するのが信者の義務である。但し信仰によりてキリストに連る天的関係に於ては男も女も同じく直接にキリストに連る事勿論である。ガラ3:28
辞解
[頭] なる文字は三者の間に密接の関係あると同時に、上下の不平等の地位の差別を示している。

11章4節 すべて(をとこ)(いのり)をなし、預言(よげん)をなすとき、(かしら)(もの)(かぶ)るは()(かしら)(はづか)しむるなり。 [引照]

口語訳祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。
塚本訳男が祈りあるいは預言するとき、頭にかぶるのは、その頭(であるキリスト)を侮辱するのである。
前田訳すべて男が祈りまたは預言するとき、頭をおおっているのは、頭をはずかしめます。
新共同男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
NIVEvery man who prays or prophesies with his head covered dishonors his head.
註解: 集会に於ける祈祷又は預言をなすに当り、若し男子が頭に面帕(かおおおい)を被つて其の頭を被うならば、それは人間に対する服従又は従順を示しているのであつて、自己の頭並に之を以て表顕される真の頭なるキリストを辱かしむる事に当つている。何となればキリストは見えざる処に在し給うが故である、夫故に男は被物をいただかないのが正しい態度である。 コリントの男子の信者がかく被物を戴き乍ら祈り又は預言した事実があるのではなく、次節の女子の場合を教えんが為めに先づ男子の例を仮定して説明したのであろう。
辞解
[物を被る] 当時のギリシヤ人は男子は物を被らず女子は被るのが通則であつた。ユダヤ人は祈の時には物を被る習慣であつた。ギリシヤ人に取つてパウロは其の習慣を尊重し其の習慣の中に天的意義を読み出したのである。

11章5節 すべて(をんな)(いのり)をなし、預言(よげん)をなすとき、(かしら)(もの)(かぶ)らぬは()(かしら)(はづか)しむるなり。[引照]

口語訳祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。
塚本訳しかしすべての女が祈りあるいは預言するとき、頭にベールをかぶらないのは、その頭(である男)を侮辱するのである。それは(頭を)剃ったのと全く同じであるから。
前田訳すべて女が祈りまたは預言するとき頭をおおわずにいるのは、頭をはずかしめます。それは頭を剃ったのと全く同じだからです。
新共同女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
NIVAnd every woman who prays or prophesies with her head uncovered dishonors her head--it is just as though her head were shaved.
註解: 男子とは反対に女子は男子に対する服従を示すが為めに頭に物を被る事が正当である。若し被物を脱ぐならば服従を放棄せる事を意味する、当時基督教徒の婦人の中には、パウロの所謂「自主も奴隷もギリシヤ人もユダヤ人も男も女もなし皆主にありて一である」(ガラ3:28)事の真理を直ちに地上の関係にも適用して、女子にして男子と同一の態度を以て或は祈り或は預言せる者があつた。パウロはかかる態度を戒めんとしたのである。(注意)後にTコリ14:34、35に女は教会にて黙すべき事を命ぜられているのとの間に矛盾がある如くに見えるけれども、本節の場合は祈及預言であつて自己に与えられし感想の類であり、Tコリ14:34、35は男子の上に立ちて之を教うる態度を取る場合であろう。

これ薙髮(ていはつ)(こと)なる(こと)なし。

11章6節 (をんな)もし(もの)(かぶ)らずば、(かみ)をも()るべし。されど(かみ)()(あるひ)()ることを(をんな)(はぢ)とせば、(もの)(かぶ)るべし。[引照]

口語訳もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。
塚本訳女がベールをかぶらないのなら、いっそ(頭を)刈ったがよい。しかし刈ったり剃ったりするのが女にとって恥ずかしいことなら、ベールをかぶらなくてはいけない。
前田訳女が何も被らないならば、髪を切りなさい。髪を切りまたは剃ることが女にとってはずべきならば、頭をおおいなさい。
新共同女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
NIVIf a woman does not cover her head, she should have her hair cut off; and if it is a disgrace for a woman to have her hair cut or shaved off, she should cover her head.
註解: 女が髪なきは恥づべき事とされていた、即当時奴隷たる女は髪を()つていた。又ユダヤでは姦淫の罪を犯せる女は薙髪(ていはつ)の刑を受けた民5:18。茲に薙髪(ていはつ)を恥づべき事と云つたのは、それが自然に女子の美観を()ぐのみならず、かかる恥づべき事柄との連想を有つているからであつた。パウロは此の婦人の自然の感情、又は習慣を理由として、之に反する行為を以て恥づべきものとし、頭に物を被らずに祈り又は預言するものは(あたか)薙髪(ていはつ)と同様恥づべき行為であることを示し、もし之を望まないならば物を被るべきである事を教えている。

7-1-ロ 男女創造の意義より 11:7 - 11:12

11章7節 (をとこ)(かみ)(かたち)(かみ)榮光(えいくわう)なれば、(かしら)(もの)(かぶ)るべきにあらず、されど(をんな)(をとこ)光榮(くわうえい)なり。[引照]

口語訳男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。
塚本訳なぜか。男は“神の影像”であり、反影であるから、頭にベールをかぶるべきではないが、女は男の反影であるから(、そのしるしにベールをかぶるべき)である。
前田訳男は頭をおおうべきではありません。神の像(すがた)また栄光だからです。女は男の栄光です。
新共同男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
NIVA man ought not to cover his head, since he is the image and glory of God; but the woman is the glory of man.
註解: パウロは更に進んで男女が創造せられし事実により其の被物の問題を決定せんとしているのである。即ち男子は創1:27によれば神の像に創られしものであつて、神に代つて地上を支配すべき権を有ち、又此の意味に於て神の栄光である。故に物を被りて此の栄光を掩い、服従の形を取つて神より与えられし権を(おお)ってはならない。然るに女は(かたち)は男と異るけれども其の美わしき服従によりて男の栄光となるのである。其の故は

11章8節 (をとこ)(をんな)より()でずして、(をんな)(をとこ)より()で、[引照]

口語訳なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。
塚本訳男は女から出たのではなく、女が男から出たのだから。
前田訳男が女から出たのでなく、女が男から出たのです。
新共同というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
NIVFor man did not come from woman, but woman from man;

11章9節 (をとこ)(をんな)のために(つく)られずして、(をんな)(をとこ)のために(つく)られたればなり。[引照]

口語訳また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。
塚本訳また、男は女のために創造されたのでなく、女が男のために、(男を助けるために)創造されたのだから。
前田訳男が女のためにでなく、女が男のために造られたのです。
新共同男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
NIVneither was man created for woman, but woman for man.
註解: 創2:18-24の記事の如く、女は男の助者となるために男の肋骨より創造られしものであつて、従属的地位を取るのが其の本来の身分であり男女同権では無い、故に女は服従によりて男の栄光となるべきものである。

11章10節 この(ゆゑ)(をんな)御使(みつかひ)たちの(ゆゑ)によりて(かしら)(けん)[の(しるし)]を(いただ)くべきなり。[引照]

口語訳それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。
塚本訳このゆえに、女は(祈りの時、悪い)天使たちに用心し、(身を守る)力のしるし(としてベール)を頭にかぶらねばならない。
前田訳それゆえ、女は天使たちのために頭に権威のしるしを持つべきです。
新共同だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
NIVFor this reason, and because of the angels, the woman ought to have a sign of authority on her head.
註解: 女は服従によりて男の栄光となるのであつて、天の御使たちも集会に加わりて其の有様を目撃していることゆえ(ルカ15:7ルカ15:10エペ3:10Tテモ5:21)服従の徴、すなわち権の徴を戴くことが必要である。

11章11節 されど(しゅ)()りては、(をんな)(をとこ)()らざるなく、(をとこ)(をんな)()らざるなし。[引照]

口語訳ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。
塚本訳とにかく、主に(ある関係に)おいては(同等で)、男がなければ女もなく、女がなければ男もない。
前田訳ただし主にあっては、男なしで女なく、女なしで男なしです。
新共同いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
NIVIn the Lord, however, woman is not independent of man, nor is man independent of woman.

11章12節 (をんな)(をとこ)より()でしごとく、(をとこ)(をんな)によりて()づ。(しか)して萬物(ばんぶつ)はみな(かみ)より()づるなり。[引照]

口語訳それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。
塚本訳なぜなら、女が男から出たように、男も女によるのであるから。だが、(男にせよ女にせよ、)すべては神から出たのである。
前田訳女が男から出たように、男は女によって生まれ、すべてが神から出ています。
新共同それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
NIVFor as woman came from man, so also man is born of woman. But everything comes from God.
註解: 男女の関係は以上の如く権力と服従の関係にあるけれどもキリストに対する関係に於ては二者同一であつて、互に相助け合いつつキリストに連るべきものである。此の間に上下の差別は無い。(あたか)も人類の創造に際してはアダムからエバが取り出され、其の後の生成は女から男が生れ出でし如く、双方とも神によりて創造られたものであつて此の間に差別が無いからである。パウロは茲に生理上の事実を捕えて巧に男女の霊的平等を示している。

7-1-ハ 自然の感覚より 11:13 - 11:16

11章13節 (なんぢ)()みづから判斷(はんだん)せよ、(をんな)(もの)(かぶ)らずして(かみ)(いの)るは(よろ)しき(こと)なるか。[引照]

口語訳あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。
塚本訳あなた達自身で判断してみよ。女がベールをかぶらずに神に祈ることはふさわしいだろうか。
前田訳あなた方ご自身で判断してください。女が覆いなしで神に祈るのはふさわしいですか。
新共同自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。
NIVJudge for yourselves: Is it proper for a woman to pray to God with her head uncovered?
註解: パウロは以上の議論の外に「自ら判断せよ」と云いて人間の直観に訴えて此の問題を考えている、茲に祈の場合をあげ、神に祈る最も厳粛なる場合に物を被らない不謹慎なる態度をする事が差支ないと思うかとの質問を発している。

11章14節 なんぢら自然(しぜん)()るにあらずや、(をとこ)もし(なが)(かみ)()あらば()づべきことにして、[引照]

口語訳自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、
塚本訳(15節と合節)もし男が長い髪をしていれば、男の恥であるけれども、女が長い髪をしていれば、女の名誉であることを、天性そのものもあなた達に教えてはいないか。髪はかぶり物として女に与えられたからである。
前田訳自然自体が教えるではありませんか、男が長髪ならその恥であり、
新共同-15男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。
NIVDoes not the very nature of things teach you that if a man has long hair, it is a disgrace to him,

11章15節 (をんな)もし(なが)(かみ)()あらばその光榮(くわうえい)なるを。それ(をんな)(かみ)()被物(かぶりもの)として(たま)はりたるなり。[引照]

口語訳女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。
塚本訳(14節と合節)
前田訳女が長髪ならその名誉であることを。髪は被りものの代わりに女に与えられているからです。
新共同
NIVbut that if a woman has long hair, it is her glory? For long hair is given to her as a covering.
註解: 我らの自然の直感によるも男子が長髪を(たくわ)える事は恥づべき事であり、反対に女には長き髪がある事がその光栄である様な心持がすると云うのは、男女間の自然の差別を感ずるからでは無いか。蓋し女の髪は被物即ちヴエールとして(原語ヴエールの代りに)与えられたもので之を見ても被物が必要である事を示すからである。此の習慣が支那の辮髪を除いては殆んど如何なる人種に於ても共通であるのはパウロの議論を裏書するものである。

11章16節 假令(たとひ)これを坑辯(あらが)(もの)ありとも、()くのごとき(れい)(われ)らにも(かみ)(しょ)教會(けうくわい)にもある(こと)なし。[引照]

口語訳しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない。
塚本訳もし(この問題について)だれかに異論があるとしても、わたし達には(女がベールをかぶらずに祈るような)そんな慣例はない。各地の神の集会にもない。
前田訳たとえだれかが反論したくても、われらにはそのような習慣はなく、神の集会(エクレシア)にもありません。
新共同この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。
NIVIf anyone wants to be contentious about this, we have no other practice--nor do the churches of God.
註解: パウロは茲まで論じ来つて(あたか)も議論好きなるギリシヤ人の反対論を予期せるものの如く、如何にも其の議論の(しげる)に堪えざるものの如くに此の言を発しているのであつて、たとい議論が如何様であろうとも女が被物なしに教会に於て祈る如きは我ら(パウロ及その同志)の間にも一般に諸教会にも存在しないと言い切つている。
要義1 [パウロの保守的思想]キリストに在りて新に創造られし基督者は凡ての事皆新しくなったのであって、従来の伝統も風俗習慣も皆之を棄て去って新奇なる風俗に移り、奇抜なる態度を取る事を好むことは往々基督教会内に起り得る事柄であって、コリント教会の場合に於ても、従来の奴隷的状態より解放せられし女子が勢に乗じて従来の美わしき伝統をも無視して奇抜なる態度をなし、パウロが唱えし「今はギリシヤ人もなく、奴隷も自由もなく、男も女もなし、汝らは皆キリスト・イエスに在りて一体なり」(ガラ3:28)との霊界の原則を此の世の風俗にまで及ぼさんとして茲に論ぜし如き悪習を生ずるに至った。此の点に於て今日の日本の教会にもかかる事柄が少くは無い、之によりて他人の目に基督者が(いやし)められる事が多いのは事実である。パウロは之に対し保守的態度を取っているのであって、従来の風俗習慣伝統も、それが神の御旨に叶ふ秩序である場合には飽く迄之を尊重すべきであって、之を破壊する者は神の規定に反するものである事を論じている。夫故に彼は此の一見些細なる事件の如くに見ゆる婦人の服装に就て長々と論議し、殊に男女の関係、神人の関係の霊的意義、人類創造の歴史的意義より説き来って丁寧親切に之を説明したのも全くパウロが当時のギリシヤに行われし習慣を保存せんが為めに其の中に深き意義を見出さんとした努力を明かに読む事が出来る。我ら今日も亦此のパウロと同じ態度を取るべきであって、地上生活の種々の秩序の中に多く神の御旨によるものがあり、之が信仰と直接に違反せざる範囲に於て、濫りに之を破壊すべからざるものである事を知らなければならぬ。コリント信者の失敗は我らに良き亀鑑(きかん)を与える。
要義2 [男女同権論につきて]男女同権を以って最上の真理と信じている欧洲人は、パウロが茲に婦人の従属的地位と服従の態度とを主張するのを見て躓く者は少くない。或者は之を以てパウロ時代の古き思想と見、今日かかる思想を墨守(ぼくしゅ)するの必要が無いと主張している。併し乍ら被り物云々の如き形式は時代と国とによりて異っているけれども、女子の本来の体格、性状、素質、傾向等に至ってはパウロの時代と今日と少しも異る処が無い。故にパウロが男女の霊的関係、創造の歴史、自然の直覚の諸方面より女子が男子を頭とし権として戴くべきものであると結論するに至った事は、決して其の時代のみに適する結論では無く、永遠に真理であり天地の公道に基いているのである。女子の服従が男子の栄光である事を思う時此の真理は決して之を破滅に帰せしめてはならない。而してキリストに在りて信仰による平等が男女の間に存し、神の前に共に平等なる人格である点に於て其処に差別と平等の完全なる調和を見出す事が出束るのである。
要義3 [此の教訓の日本に於ける適用如何]日本の婦人は帽や面帕(かおおおい)(ベール)を用いない、此の場合にパウロの此の言を律法として遵守する必要は無い。日本婦人として夫に対する服従を示すべき態度と、神の教会の良習慣を破らない事とが行われているならば、パウロの精神が実現しているものであると見る事が出来る。之を破って却て人を躓かしむべき風俗を輸入する必要は無い。

7-2 聖餐に就て 11:17 - 11:35

11章17節 (われ)こ[れら]の(こと)(めい)じて(なんぢ)らを()めず。(なんぢ)らの(あつま)ること(えき)()けずして(そん)(まね)けばなり。[引照]

口語訳ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。
塚本訳(次に)わたしは(主の晩餐につき)指図をするに当って、あなた達の集まりが利益にならず害になっていることは、褒めるわけにはゆかない。
前田訳このことを指図するに当たって、ほめえないことがあります。それは、あなた方が集まると、よりよくならず、より悪くなることです。
新共同次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
NIVIn the following directives I have no praise for you, for your meetings do more harm than good.
註解: 「我は以上の如くに命じたが次に汝らが有害無益な集会をする事について、汝らを次の如くに非難しなければならない」

11章18節 ()(なんぢ)らが教會(けうくわい)(あつま)るとき分爭(ぶんさう)ありと()く、われ(ほぼ)これを(しん)ず。[引照]

口語訳まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。
塚本訳なぜなら、まず第一に、集会の会合に集まるとき、あなた達の間に仲間割れがあることを耳にしているのだが、わたしは一部それを信ずる。
前田訳まず、あなた方が集まりにつどうとき分裂があると聞いており、ある程度それを信じます。
新共同まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
NIVIn the first place, I hear that when you come together as a church, there are divisions among you, and to some extent I believe it.

11章19節 それは(なんぢ)()のうちに(これ)とせらるべき(もの)(あらは)れんために黨派(たうは)(かなら)(おこ)るべければなり。[引照]

口語訳たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。
塚本訳──(信仰の)試練済みの者があなた達の間で明らかになるためには、あなた達の間に党派もできねばならないから。──
前田訳たしかに、あなた方の中の試練ずみの人たちが明らかになるためには、分派もできねばなりません。
新共同あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
NIVNo doubt there have to be differences among you to show which of you have God's approval.
註解: パウロが第一に戒めんと欲した事柄は教会に集る際に分争徒党が起つて来た事であつた。此の分争徒党は始めに1-4章に述べたものを云うのでは無く次に20節以下に示される聖餐の際に於ける分争を指している。
辞解
[先づ] 即ち「第一に」であつて「第二」は第12-14章に記されし事柄であろう、パウロは「第二に」と記す事を忘れたらしい(M0、A1)。
[分争、党派(徒党)] 茲では此の二者の間に差別は無い、唯前者は双方対立の形、後者は主なる団体より一部が分離せる形。
[現われんため] 「明かにせられんため」の意であつて出現せん為めの意では無い。

11章20節 なんぢら一處(ひとつところ)(あつま)るとき、(しゅ)晩餐(ばんさん)(しょく)すること(あた)はず。[引照]

口語訳そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。
塚本訳それであなた達は一しょに集まっても、主の晩餐を食べることができない。
前田訳ところで、あなた方が集まるとき、主の晩餐をいただいていません。
新共同それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
NIVWhen you come together, it is not the Lord's Supper you eat,

11章21節 (しょく)する(とき)おのおの(ひと)(さき)だちて(おのれ)晩餐(ばんさん)(しょく)するにより、()うる(もの)あり、()()ける(もの)あればなり。[引照]

口語訳というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。
塚本訳なぜなら、その食事の際、めいめいが(持って来た)自分の晩餐を(勝手に)先に食べるので、ある人は(貧しくて持って来られず)空腹であるのに、ある人は酔っぱらう(有様だ)からである。
前田訳食事のとき、めいめいが自分の晩餐をとるので、ある人は飢え、ある人は酔っています。
新共同なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
NIVfor as you eat, each of you goes ahead without waiting for anybody else. One remains hungry, another gets drunk.
註解: 当時聖餐式は今日の如き形式に於て行われなかつた。信者は多く主日(日曜日)の夕刻に(使20:7)各々弁当持参にて集り食事を共にした。之を愛餐と称し(ユダ1:12)其の終りに主のパンを割き葡萄酒を飲んだ。是れ出来るだけキリストの最後の晩餐に(かたど)ると共に、信者の愛を増さんが為であつた。然るにコリントに於ては教会等にて「一つ処に」信者が聖餐即ち愛餐のために集る時、当時ギリシヤに行われていた宴会などの影響をうけて富者と貧者との間に食物が平等に分配せられず、富者は先づ己の持参せるものを飽食し貧者は食物に乏しくして飢うる如き事実が行われた。是れ悪魔に処を得させたのであつて、かかる有様では最早や主の晩餐を食するものと云う事が出来ない。▲多くの場合にそうである通り、聖餐式も初めの間は極めて自然で生気に溢れる集会であった。それが儀式化すると共に精神は死滅する。
辞解
[主の晩餐] 前述の愛餐と一体をなしていたけれども後に之が分離し、夕の代りに朝に之を祝する様になつた。
[食すること能はず] 原語「食するにあらず」但し語の位置より極めて強き意味を表わしている。

11章22節 (なんぢ)飮食(のみくひ)すべき(いへ)なきか、(かみ)教會(けうくわい)(かろ)んじ、また(とぼ)しき(もの)(はづか)しめんとするか、(われ)なにを()ふべきか、(なんぢ)らを()むべきか、(これ)()きては()めぬなり。[引照]

口語訳あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
塚本訳いったいあなた達には飲み食いする家がないとでもいうのか。それとも、あなた達は神の集会を軽蔑し、また持たぬ人たちに恥をかかせるのか。あなた達になんと言ったらよいのか。褒めるべきであろうか。(残念ながら、)このことでは褒めるわけにはゆかない。
前田訳あなた方には飲み食いする家がないのですか。それとも神の集会(エクレシア)を軽んじ、何も持たぬ人々をはずかしめるのですか。何といいましょう。あなた方をほめるべきでしょうか。このことではほめません。
新共同あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
NIVDon't you have homes to eat and drink in? Or do you despise the church of God and humiliate those who have nothing? What shall I say to you? Shall I praise you for this? Certainly not!
註解: パウロの心に溢れる奮慨が此の文より溢出でている、聖晩餐を乱して普通の飲食と異らない様にした事は其の一(普通の飲食ならば他の家で為すべきで教会で之を為す必要が無いではないか)、特に重んずべき教会の集会を軽んじて之を不一致なものにした事が其の二、貧者を辱しめて之を飢えしめた事が其の三であつて、何れも基督者として重大なる罪である。パウロはTコリ11:2に一般的にコリントの信者を誉めたけれども此の点については誉める事が出来なかつた。夫故にパウロは次に聖晩餐の真正の意義を示して彼等の過を矯正せんとしているのである。

11章23節 わが(なんぢ)らに(つた)へしことは(しゅ)より(さづ)けられたるなり。[引照]

口語訳わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
塚本訳なぜというか。わたしは(晩餐のことを)主から授かり、それをまたあなた達に伝えたのであるが、それはこうである。──主イエスは(敵に)引き渡された夜、パンを手に取り、
前田訳わたしは主から受けたことを、さらにあなた方に伝えました。すなわち、主イエスは、(敵に)引き渡された夜、パンを取り、
新共同わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
NIVFor I received from the Lord what I also passed on to you: The Lord Jesus, on the night he was betrayed, took bread,
註解: 前にもパウロは主の晩餐の事をコリントの信徒に伝えていた、之は彼が主より授けられたものであつてパウロの一個の思想又は人の伝説の受売では無い、故に主の権威に服従する心を以て之を守らなければならぬ。
辞解
「我が」ego「主より」apo tou kuriou 等の原語の意味よりパウロは主の晩餐の際に列席して居なかつたけれども、之を主より直接に何等かの黙示により奇跡的に受けたのであると主張する学者もあるけれども(M0、G1、A1、反対はI0、C1)予は其の必要を認めない。主は他の使徒又は其の弟子を通して之をパウロに授け給う事は有り得るからである。

(すなは)(しゅ)イエス(わた)され(たま)(よる)、パンを()り、

11章24節 (しゅく)して(これ)()き、(しか)して()(たま)ふ『これは(なんぢ)()のための()(からだ)なり。()記念(きねん)として(これ)(おこな)へ』[引照]

口語訳感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
塚本訳(神に)感謝して裂いて、言われた、「これはあなた達のためにわたすわたしの体である。わたしを記念するためにこのことを行ないなさい」。
前田訳感謝して裂き、こういわれました、「これがあなた方のためのわが体です。わたしの記念にこのようになさい」と。
新共同感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
NIVand when he had given thanks, he broke it and said, "This is my body, which is for you; do this in remembrance of me."
註解: 此の事が起つたのは主イエスが付され給いし夜で最も厳粛なる瞬間であつた。主そのパンをさきて其の来たるべき死を示し之を一同に頒ち、「是汝らのための我が体なり」と云い給いて其の全身体を我らのために差出し給うた。而して信者は之を食い此の式を行う事により「キリストを記念し」彼を思い起すの幸を味う事が出来る。故に此の厳粛の態度を欠き、キリストの死を思わず又其の食を頒つ事をせず、キリストの身体を受けつつも彼を思う事をせざるコリントの教会の愛餐は全く聖晩餐の性質を失い之を涜すものであつた。

11章25節 夕餐(ゆふげ)ののち酒杯(さかづき)をも(まへ)(ごと)くして()ひたまふ『この酒杯(さかづき)()()によれる(あたら)しき契約(けいやく)なり。()むごとに()記念(きねん)として(これ)をおこなへ』[引照]

口語訳食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
塚本訳食事の後、杯を同じように(感謝)して(分けて、)言われた、「この杯はわたしの“血”の犠牲を払った“新しい約束”である。(今から後、)飲むたびごとに、わたしを記念するためにこのことを行ないなさい」。
前田訳食後、杯をも同じようにしていわれた、「この杯は、わが血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしの記念にこのようになさい」と。
新共同また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
NIVIn the same way, after supper he took the cup, saying, "This cup is the new covenant in my blood; do this, whenever you drink it, in remembrance of me."
註解: 主がパンをさき給える後暫く夕餐がつづき最後に改めて酒杯を取りて之を祝し「此の酒杯は・・・」と述べ給うた。モーセはシナイ山に於て十戒を授けられし後、献げられし犠牲の血を取りて民に注ぎ之を以てエホバと民との間の契約の証とした(出24:8)。是れ旧約の血であつて、キリストは之に対し、その酒杯の葡萄酒を以て表示せられしキリストの血を以て新なる契約の血となし給うた。而して旧約は神の律法と之を行うものに対する祝福及び之を破るものに対する刑罰であり、新約は罪の赦しと聖霊の賜与(しよ)によりて神の御旨を行う事である(エレ31:31-34)。而して此の約束を得たる我らは此の酒杯より飲む毎にキリストを思い起すべきものである、是が主の命であつた。▲主が聖餐の式を「行え」と命じ給うたと云う記事は正確に言えば此箇所だけである。そしてパウロは主の最後の晩餐の列席者でないので「主より授けられた」事の意味及び場合は不明である。尚、ルカ22:19、20の註および補註参照。

11章26節 (なんぢ)()このパンを(しょく)し、この酒杯(さかづき)()むごとに、(しゅ)()(しめ)して()(きた)りたまふ(とき)にまで(およ)ぶなり。[引照]

口語訳だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
塚本訳すなわち、主が(ふたたび)来られるまで、あなた達はこのパンを食べこの杯を飲むたびごとに、主の死(の意味)を、(このことを行なうことによって)宣べ伝えるのである。
前田訳主が来たりたもうまで、このパンを食べ、杯を飲むたびに、あなた方はその死を告げ知らせるのです。
新共同だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
NIVFor whenever you eat this bread and drink this cup, you proclaim the Lord's death until he comes.
註解: 聖餐は主の死の標徴(ひょうちょう)である、主はその死によりて体を我らに与えその宝血を流し給うた。今は神の右に在し、やがて再び来り給うまで我ら其の現臨在を見る事が出来ない。故に聖餐によりて彼の見ゆべき臨在に代らしめ、再び来り給うまで之を行うのである。主再び来り給う時は父の国に於て新しき宴会が開かれるであろう(マタ26:29)。故に聖晩餐に於て主の死を示さず、主を思い起さなかつたならば其の聖晩餐は無意義である。

11章27節 されば(よろ)しきに(かな)はずして(しゅ)のパンを(しょく)し、(しゅ)酒杯(さかづき)()(もの)は、(しゅ)(からだ)()とを(をか)すなり。[引照]

口語訳だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。
塚本訳従って、これにふさわしくない有様で主のパンを食べまたは杯を飲む者は、主の体と血とに罪を犯すのである。
前田訳したがって、ふさわないまま主のパンを食べ杯を飲むものは、主の体と血とを犯すのです。
新共同従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
NIVTherefore, whoever eats the bread or drinks the cup of the Lord in an unworthy manner will be guilty of sinning against the body and blood of the Lord.
註解: 「宜しきに適わず」とは種々の意味に解せられているけれども茲では主の十字架の贖罪の死を示さず、又再び来り給う主を憶わずして飲食する事を云うのである。即ち自ら罪を悔改めて主の救を信じ其の主を切に念い其の来り給うを待つ心なしに之に与る者を云う。かかる者は主の体と血に対し冒涜を行うのであつて恐るべき事である。コリントの信徒は之を宴楽の会とする事によりて聖餐を(けが)した。今日も諸教会に於て種々の意味に於て宜しきに適わない聖餐が行われていることは悲しむべき事である。

11章28節 (ひと)みづから(かへり)みて(のち)、そのパンを(しょく)し、その酒杯(さかづき)()むべし。[引照]

口語訳だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
塚本訳人は自分をしらべてみて、それからパンを食べ、杯を飲みなさい。
前田訳だれでも自らを調べて、そのうえでパンを食べ、杯を飲むべきです。
新共同だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
NIVA man ought to examine himself before he eats of the bread and drinks of the cup.
註解: 自己の心が果して前述の如き意味に於て、聖餐に与り得るや否やを試した上にすべきであつて、コリントの信者の如き罪深き心の状態を以て之に与つてはならないのみならず軽率に、又は無意識に、又は他の人々に引づられて無意義に之に与る事は自らを省みずして聖餐に与る事であつて、宜しきに適わず主の体と血とを犯すのである。

11章29節 御體(みからだ)(わきま)へずして飮食(のみくひ)する(もの)は、その飮食(のみくひ)によりて(みづか)審判(さばき)(まね)くべければなり。[引照]

口語訳主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
塚本訳なぜなら、食べまた飲む者が、この(主の)体(と血との特別の意味)をわきまえないならば、食べまた飲むことによって自分に罰を招くからである。
前田訳主の体をわきまえずに飲み食いするものは、自らへの裁きを飲み食いしているのです。
新共同主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
NIVFor anyone who eats and drinks without recognizing the body of the Lord eats and drinks judgment on himself.
註解: キリストの御体を「(わきま)える」事は前節の自己を省みる事と相伴わなければならない、即ち主の体を示すパンと血を示す酒の聖なる事を(わきま)えず、普通の飲食の如くに之を食するものは審判を受けなければならぬ。勿論茲では永遠の滅亡を意味して居ない、主の愛よりの懲治(ちょうじ)である(32節)。(直訳)「そは御体を(わきま)えずば、飲食する者は己が審判を飲食すべければなり」主の救の新なる約束を示す聖餐に於て自己の審判を飲食する事は甚しき不幸である。

11章30節 この(ゆゑ)(なんぢ)()のうちに(よわ)きもの()めるもの(おほ)くあり、また(ねむり)()きたる(もの)(すくな)からず。[引照]

口語訳あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
塚本訳それゆえに、あなた達の間に大勢の体の弱い者や病人があり、かなり多くの者が眠りについているのである。
前田訳それゆえあなた方の中に弱いものや病人が多く、永眠した人もかなりあるのです。
新共同そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
NIVThat is why many among you are weak and sick, and a number of you have fallen asleep.
註解: コリントの信者の中に病者死者の多いのは、此の聖餐に於ける罪により自己の審判を飲食した結果である。故に信者は試練を受くる時、殊に自らを顧みなければならない。

11章31節 我等(われら)もし(みづか)(おのれ)(わきま)へなば(さば)かるる(こと)なからん。[引照]

口語訳しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。
塚本訳しかしもしもわたし達が自分をわきまえるならば、罰せられないであろう。
前田訳もしわれらが自らをためすならば、裁かれないでしょう。
新共同わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
NIVBut if we judged ourselves, we would not come under judgment.
註解: 自己の中に聖餐に与り得ない様な罪がありや否や、聖餐に真の意味に於て与り得る心の状態にありや否やを試した上に与るならば、かかる審判はうけないであろう。

11章32節 されど(さば)かるる(こと)のあるは、(われ)らを()(ひと)とともに(つみ)(さだ)めじとて、(しゅ)(こら)しめ(たま)ふなり。[引照]

口語訳しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。
塚本訳たとい主に罰せられても、こらしめられるのであって、それはこの世と共に(永遠に)罰せられることのないためである。
前田訳ただ、主に裁かれるのは、われらがしつけられるのであって、この世とともに罪に定められないためです。
新共同裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
NIVWhen we are judged by the Lord, we are being disciplined so that we will not be condemned with the world.
註解: かかる諸種の不幸が神の審きとして我らに下つた場合には、是は神の懲治(ちょうじ)である事を思い速に悔改むべきである。さすれば罪に定められ、永遠に亡ぼされる事を免れるであろう。神の愛の如何に深きかを思うべきである。
辞解
[自己を(わきま)える] デアクリネスタイ diakrinesthai「審判かる」クリネスタイ krinesthai「罪に定めらる」カタクリネスタイ katakrinesthai 皆同語源より生ぜる文字であつて審きの度の強さの順序を示している。「罪に定められる」場合は永遠の滅亡に至るより外は無い。

11章33節 この(ゆゑ)に、わが兄弟(きゃうだい)よ、(しょく)せんとて(あつま)るときは(たがひ)()(あは)せよ。[引照]

口語訳それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。
塚本訳従って、わたしの兄弟たち、食事のために集まるときには、互に待ち合わせよ。
前田訳それゆえ、わが兄弟方、食事に集まるときは互いにお待ちなさい。
新共同わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
NIVSo then, my brothers, when you come together to eat, wait for each other.

11章34節 もし()うる(もの)あらば、(なんぢ)らの集會(つどひ)審判(さばき)(まね)くこと()からん(ため)に、(おの)(いへ)にて(しょく)すべし。[引照]

口語訳もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。
塚本訳もし(待たれないほど)空腹の人があるなら、(前もって)家で食事をせよ。あなた達が(主の晩餐のために)集まって(、かえって)罰を受けることがないためである。なお(これについての)ほかのことは、わたしが行った時に決めよう。
前田訳空腹の人は家で食事をなさい。集まって裁きを受けることのないためです。そのほかのことはそちらへ行ったとき決めたく思います。
新共同空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。
NIVIf anyone is hungry, he should eat at home, so that when you meet together it may not result in judgment. And when I come I will give further directions.
註解: パウロが最後に此の実際的の訓戒を与えているのは、彼の論の空論に終らざらんが為である(Tコリ10:31-33参照)。待ち合せる事が出来ない程飢うる者があるならば態々(わざわざ)「審判を招きに集まる」(直訳)必要は無い自分の家で食事すべきである。パウロがかかる卑近(ひきん)なる結論を引出さんが為めに、聖餐の根本論にまでも遡つた事は一見不必要の様であるけれども、此の根本論がある為めに後世の人々が異れる実際問題に遭遇しても、之を正しく解決する事が出来る事は感謝すべきである。

11章35節 その(ほか)のことは(われ)いたらん(とき)これを(さだ)めん。[引照]

口語訳
塚本訳
前田訳
新共同
NIV
註解: 重要の程度少なきもの又は緊急の必要なきものを後廻しにした。間もなくコリントに行く事を計画していたから(Tコリ16:5)。
要義1 [聖餐について]主の晩餐の記事は聖書に四ケ所に記されている(マタ26:26-28。マコ14:22-24。ルカ22:19、20及び此処)。其中此のパウロの記事が最古である事に注意しなければならない。マタ、マコは相類似し、ルカ、Tコリは相類似している。▲ただ注意すべき事は「我が記念のために之を行え」と命じ給うた様に録されているのはTコリ11:24、25のみである事である。尚ルカ22:19、20註及び補註参照。
ユダヤ人は永年の間過越の祝を行い、羔を屠り其の肉を食い、又其の儀式に際し祝福の酒杯を全家族にて飲む習慣があった。此のユダヤ人の過越はキリストの十字架の型であって、キリストは自ら此の事を意識し給い、自ら過越の羔として屠られ給い(Tコリ5:7)其の死によりて人類を罪のエジプトより救い出し、其の血によりて罪より贖い出して、罪の赦しの新なる契約を立て給い、此のパンと葡萄酒とを以てユダヤ人の過越の祝に代らしめたのである。故に聖餐は過越の祝の継続ではなく、又之と並立すべきものでもない、過越の祝は型であって之がキリストによりて実現して全く其の必要を失い、之に代って我らのために十字架に釘きて血を流して我らを罪より救出し給えるキリストを憶い彼を記念する聖晩餐が行われるに至ったのである。
聖餐がギリシヤに於ては愛餐アガパイ Agapai と共に行われていた事は前述の通りである。是が終には種々の弊害が生じたので愛餐と分離し遂に愛餐は消滅して聖餐のみ一の儀式として残ったのである。
聖書によれば聖餐は主が「かく行え」と命じ給えるものであった。併し乍ら是も他の凡てと同じく律法ではない、若し聖餐そのものが主の体と血とを犯す如き場合に於ては之に与って審判を受けるよりも之に与らない事が却て主の御旨である。
要義2 [聖餐の意義]「是れ我肉なり是れ我血なり」との主の御言に対し、古来教義上種々の解釈が行われた。カトリック教会に於ては司祭の祝祷によりてパン及び葡萄酒が変質してキリストの肉及血となるものとの解釈を採り、ルーテルは聖餐のパンと葡萄酒は信仰に取っては事実キリストの肉及血である事を主張し、又ツイングリは反対に此の二者はキリストの肉と血を表徴するものなる事を唱え、カルビンはルーテルとツイングリの中間の説を取り、パンと酒は主の肉と血を表示するに過ぎないけれども、キリストの体は同時に霊的に之に伴う事を主張している。是等の差異の生ずる所以は、各人の信仰の諸相の差別より生ずるのであって、我ら聖書によりて示されしまま聖餐に与る事によりて主の死を示し主を記念する事を以て足れりとすべきである。此の解釈の差を以て宗派分立の原因とする事は(はなは)だしき無用の事と云わなければならぬ。
要義3 [宜しきに適わざる聖餐参加]Tコリの場合に於ては罪を懐きつつ之を悔改むる事をせず、聖餐の真意を没却して、之を理解せずして自己の快楽の為に飲食する如き方法を以て聖餐を行ったので、パウロは之を戒めたのである。併し乍ら其の他にも尚種々の方法を以て主の体と血とを犯す事が出来るのであって、例えばキリストの贖罪の死を信ぜざる場合、又は罪をいだきて之を告白懺悔せざる場合等は勿論宜しきに適わない。其他聖餐夫自身としても自己の教会に属せざる理由を以て、聖餐を拒む如きは聖餐其ものが罪の心を以て行われているのであり、又教理上の些細なる差異より聖餐に与らず又与らしめざる如きも宜しきに適わざるものである事は明かである。何となればキリストの死を示し之によりて罪の赦されし事を信じ、彼を主と仰ぎて彼を記念せんとする者が聖餐に与り得ざる理由が無いからである。其の他相互の間に愛なしに行わる場合もキリストの体の一致を欠くのであって、之を犯すものである等種々の相に於て宜しきに適わない行為となり得るのである、故に「自ら顧み」且つ「御体を(わきま)える」事が是非必要である。